うたまるです。
(※この記事は諸事情で難しい内容となったため、脳トレに最適です。平易な本格ユング入門記事をお求めの方は以下のリンクの慎重勇者の記事を参照ください)
今回は、深層心理学でもユングとラカンのロジックの違いと共通点の解説を介して読者にユング心理学・深層心理学を読み解くための強力な視点・パースペクティブを提供します。
そのため最強のユング入門・深層心理学入門としても読める記事になりました!
またユングはラカンとの違いが強調されることは多々あれど、後期ラカンとの近さについては何故か全く知られていません。
なのでそこのところもきっちり解説します。
というわけでここでは時間という観点から、ユングとラカンを統一的に解説。深層心理学を存在論的に解剖してゆきます。
まさにユングやラカンに興味ある人は必見、この記事で一気にユングとラカンの理解が深まります。
ではさっそく時間という着眼点からユングとラカンの違いと共通点を把握し、双方の理解を深めてゆきましょう。
ユングと今
※ユングの基礎くらい知ってるという人は「時間の今とは何か」の項から読んでください
ユング心理学と精神分析の最大の違いは、今の位置づけにあります。
ラカンの項で後述しますが、ラカン派精神分析では根源的今を欠如として捉えています。
それにたいしてユングでは今が中心となります。このことはユングの『黄金の華の秘密』からも分かるように、東洋思想との近さと密接に関わります。
しばしば指摘されることですがユング心理学は仏教にとても近いところがあるのです。
そのため東洋思想、ことに禅や西田哲学において基本となる時間の今が中心的役割を演じます。
ユングと神経症
ユングと今の関わりをもっとも端的にしめすユングの言葉に「神経症とは過去の心的外傷を原因とするのでなく、そのつど今において生み出される」というものがあります。
周知の通り精神分析理論では過去が原因として措定され、時間の過去から未来への流れを前提に心的事象が説明づけられます。
しかしユングではそれと異なり、つど今において心的外傷はファンタジーとして創られると考えます。
たとえばユングは子どものころ、登校時に同級生に突き落とされ、それが原因で神経症性の発作を起こすようになり、不登校になりました。
しかしユングはこの神経症を克服するなかで、同級生に突き落とされたとき、「これで学校に行かなくて済む」と思ったことに気づきます。
つまり心的外傷となる突き落としがあって、それが原因で神経症となったのではなく、突き落とされたという外的事実を利用して、学校へ行かなくて済むというファンタジーを形成したわけです。
したがってその都度、今の瞬間において、突き落とされた経験を心的外傷としてつくりあげ、そのように認識することで、神経症となるというわけです。
つまり過去に原因となる出来事などなく、もともと学校へ行きたくなかった無意識が突き落とされたという外的事実を利用してそのつどそれを外傷として想起することで神経症を形成するわけです。
ここで重要なのは過去の外的出来事である突き落とされたことが、そのつど今においてその意味は心的外傷として規定され創り出されているとユングが考えていることです。
これは今において過去があり、過去は今においてつど創られ刷新されるということに他なりません。
このような時間意識は極めて共時的なものです。つまり過去は今という時間において共時しているということです。
このユングの思想を突き詰めれば、本質的には時間には今しかく、時間とはつどの今の反復だということにつきるでしょう。
ここが分かると後述するラカンの女の式やサントーム・依存症の議論とユングとの関係が一気に見えてきます。
また、今への着眼、今を根源的事態と見なす時間意識のため、ユング派において現実性は、つどの行為によって創られると捉えられます。
そのため河合俊雄などはつどの行為によって現実性が生じることをつねに著書で強調しています。
(※河合俊雄がいう行為における現実性の着眼は非常に重要で、ユングを存在論的ないしは木村敏的に理解する上でも欠かせない)
ユングとイメージ
つぎに重要なのは、ユングは夢などのイメージの象徴としての意味を考え、解釈することを重視する一方で、イメージや夢の体験を解釈によって言語的な意味に還元し尽くすことを最上とは考えてはいなかったことです。
言語的意味に還元しつくすことのできない直接性をユングは考えており、この点もラカンとの比較で理解するにおいて非常に重要なポイントになります。
またラカンなどでは自由連想に典型されるように、シニフィアン(語音)の連鎖が重視されます。このような精神分析の重視するラップ的な「感情⇒干渉」などの語音による連想の横滑りをユングは重視しません。
そうではなくユングは隠喩的にイメージを垂直に深めることを重視します。何かに置き換えるのではなくイメージそれ自体に垂直的に入るのがユングの特徴なのです。
このような垂直の深まりは、フロイトが夢を隠すものとしたことに対して、ユングは夢は隠さないとしたことにも対応します。
ユングとシンクロニシティ
またユング心理学が今を準拠点とすることが分かると、シンクロ二シティ(共時性)の論理についても理解がはかどります。
ユングのシンクロニシティは非常に厄介な概念で、これのためにオカルトだという批判を受けることもあります。シンクロニシティは多分にエセ科学的な超心理学的ニュアンスを含む概念としても有名なのです。
しかし、今への着眼からシンクロニシティを理解すれば、超心理学的な領域に触れずにロジカルな理解をすることが可能です。
シンクロニシティとは「意味ある偶然の一致」を示すユングのタームで、原因につづいてその結果が生じるという経時的着眼点ではなく、布置(コンステレーション)によって生じる複数の事象の同時性に着目するものです。
たとえば「虫の知らせ」などはその例です。そのためシンクロニシティとは、いわば外的出来事に対する内的な意味付けよって生じる事象同士の繋がりのようなもの。
このシンクロニシティの発想からも、ユング心理学では、外的事実ではなく、内的ファンタジー(イメージ)が先で、そのファンタジーにおいて外的事象が意味づけられていることが分かります。
(※ユングにおけるファンタジー・心的事実の先行性は存在者に対する存在の先行性として理解するのも手)
以上からシンクロニシティは因果的な時間の経時性ではなく今という時間における共時が中心になっているといえるでしょう。
またシンクロニシティで欠かせないのが、しばしば共時性の世界観が易経に近いと言われることです。
つまりシンクロニシティとは極めて東洋的な時性なのです。
ユングと日本語
とくに言語に着目するとシンクロニシティは非常に日本語的だと分かります。というのも日本語は語順による統制を受けず語順を入れ替え可能だからです。
したがって日本語では時系列的な順序、すなわち因果律的経時性は解体しており、つど今において事象が共時しているという意識が優位なのです。
そのため日本語はユングが神経症について語ったように、つど今において世界や過去・未来が作り出されているという今の反復を中心とした時性に親和します。
このことも中期ラカンとユングの差異や後期ラカンとの近さを理解する上で非常に重要になります。
言語学でいえば、英語など欧米語はシンタグマティックが優位で換喩的(経時的)、日本語はパラディマティックで隠喩的(共時的)だといえます。
ここまででユング心理学が今を視座として精神世界を体系化していることが分かりました。
次にラカンとの比較に入る前に時間について簡単に解説します。
時間と今とは何か
ラカンとの比較でユングを理解するためには存在論的な時間の理論を理解している必要があります。なので簡単に説明します。
まず時間は客観的にあるものではありません。というのも時間を客体(存在者)として措定すると矛盾が生じてしまうからです。
したがって僕らが時間と呼ぶ物はある種の主観(存在)ということができます。そのことを確認しましょう。
もし時間が客観的にあるのだとすると、時間は過去から未来へと一方通行に流れる客体の変化に対する概念と規定されることになります。
しかしそうなると2つの矛盾が発生することになります。
その1つがゼノンの矢のパラドックスです。
ゼノンの矢のパラドックス
まず飛ぶ矢の各時点の座標を記録するとどの時点でも矢は、特定の空間座標で静止しているのが分かります。
そして今とは時間を客体化する限りでは長さのない点に過ぎません。つまり過去は過ぎ去って存在せず、未来はまだ来ていないで存在しないわけです。
すると今はまったくの長さのない静止空間に還元されます。そのためどの今時点の矢も静止していることになります。
すると矢の経時的な挙動は理論上はパラパラ漫画と同じ非連続なコマ送り状態になることが分かります。
パラパラ漫画でそれぞれの絵(コマ)が独立しているように、どの時点の静止空間も他の静止空間とは独立してしまうわけです。
したがって静止空間および空間を占める物質(矢)には時間的な同一性=連続性がないことになりコマ送りの寸断された今という点の集積に過ぎないことになります。
つまり時間を客体化してしまうと今は長さをもたず消失し、そのことで空間と物質の同一律が破綻、これにより、飛ぶ矢などの物質の連続的な動きがまったく説明できなくなるのです。
この問題は最新の物理学でも解かれておらず、現代の物理学者も時間の今が分からないと言います。
始点喪失のパラドックス
時間を客体化してしまうともう一つの矛盾が生じます。それが時間の始点の消失です。
僕たちが認識する客観的な時間の一般的なイメージは過去から未来へと一方通行に流れる客体の変化・動きとえいるでしょう。
(※本当に時間を客体化するとゼノンの矢のパラドックスのような非連続な今の継起に還元されるので、連続性と一方通行の流れをもつ時間はいわば公共的時間)
ところが過去から未来へという一方通行の流れを時間に想定してしまうと矛盾が生じます。
まず時間には始点がないと仮定しましょう。すると無限に過去を遡れることになります。しかもどれだけ遡っても際限がなく、無限の過去を遡りきるということは不可能だとわかります。
するとここでは時間は過去から未来へという流れを持つと仮定しているので、現在の西暦2023年にたどり着くことができなくなります。
つまり時間に始点を設定しない場合は現在に到達できず矛盾が生じるわけです。
つぎに時間に始点があると想定しましょう。
すると客体の変化はある時点でスタートしたことになります。ところが何も変化していないところから変化することはできないわけです。
言い換えれば、時間(変化)がない状態から時間(変化)を始めることはできません。始まるという変化が可能なためには始まりに先立って時間(変化)が存在せねばならないわけです。
かくして時間の始点は措定するたびにその後ろにずれ込みこれが無限に連鎖し始点は遡行し続け、定点として固定することができなくなります。
遡行して始点が後ろにずれつづけることは、時間の過去から未来へという原則と矛盾するので容認できないのです。
以上から時間を客体化する場合、2つの矛盾が生じてしまうといえます。
(※以上の2つの時間のパラドックスは深層心理学を理解する上で必須。とくにラカンを理解するときに非常に役に立つ)
したがって時間は空間(客体・客観)の系には属していないと考えられます。この時間の矛盾を客観の構造をとくことで解決したのがかの有名な現象学者ハイデガーの名著『存在と時間』です。
存在論
ハイデガーによると時間とは空間(客体)に属する概念ではないと言います。
そして時間の正体をハイデガーは存在と呼びます。存在とはあるということです。
たとえば机があるというときのある、これを存在と呼びます。そしてあるということにおいて見いだされる物・客体(机)のことを存在者といいます。
また存在に関わる存在者つまり僕たち人間の主体・主観のことを現存在と呼びます。
大事なのは、存在とは対象化作用のことだということ。ひらたくいえば存在は知覚化を生じる行為性のようなものです。
まだ難しいと思うのでさらに簡単に解説してゆきます。
まず僕たちの一般的な、つまり自然科学的な世界観では、物(存在者)が先にあって、それを五感が外的感覚刺激としてキャッチして、私の目の前に物(机)がある、と知覚していると考えます。
しかしこれは正確ではありません。厳密には僕たちは主観からでられないからです。つまり僕たちが客観的現実と思い込み主観と区別している外的現実は主観を主観と客観とに分離しているに過ぎないのです。
これは簡単に証明できます。たとえば今、読者が現実と感じているこの世界が映画マトリックスのような仮想世界でないという証拠を示すことは誰にもできないのです。
あるいは今この現実が妄想や夢ではないという保証はどこにもありません。攻殻機動隊であるように家族の記憶も嘘かもしれません。
つまり客観とは全て可疑的なのです。デカルトの有名な懐疑主義もこの事実に即しています。
誰も主観からはでれません。僕たちは言語を発明し言語によって主観を交換することで共同的な主観を構成し、そうした共同主観のうちの1つを客観と仮説として構成しているに過ぎないのです。
この事実が示しているのは客観という概念はアプリオリにあるのではなく主観がまず先にあり、主観のうちに客観が構成されているに過ぎないという事実です。
従って客観は1つの主観的構成物であり心理的構造をもっているといえます。
すると、客体が先にあるのではなく、客体と主体、すなわち存在者と現存在との関係が先にあって、その関係より関係項として客体と主体が析出していると分かります。
そして、ここにいう関係のことを存在、ある、と呼ぶ訳です。
たとえば全く意欲も感情も皆無の人がいたとすると何にも関心がないので、なにも対象(存在者)を結像しないことが容易に想像できるでしょう。
つまり机を机として知覚的に生起させるところの存在とは、人間の欲望・関心に他なりません。
ですから、客観概念というのも人間の公共的な欲望の産物として、人中心主義的な規定が組み込まれているわけです。
たとえばリンゴという客体概念では僕たちはリンゴの実をリンゴの単位として構成します。
これはリンゴが食べ物であり収穫して手に取り食べるという人間の普遍的な欲望における世界の分節化といってもいいでしょう。
つまり人間と異なる欲望を持つ知的生物がいたとしたら、リンゴは木といったいであり、たんに木の枝としてリンゴの実(存在者)も定義される可能性を持つということです。普通人間は枝と果実は分けて捉えますから枝の部分として果実を分節化する世界観は人とはことなる欲望の対象化作用といえます。
言語によって構成される客体概念はしたがって公共的な欲望によって規定されていると分かります。
ちなみに、このような欲望をハイデガーは気遣いといいます。
存在と時間
そしてこの欲望、存在こそが時間なのです。というのも知覚には能動的性格があるからです。
たとえば、お腹がすいていたとき、ウサギの痕跡らしき視覚刺激を感知したとします。するとこの感覚刺激に触発される形で、美味しそうな獲物としてのウサギを知覚・対象化しウサギを狩りに追いかけるという行為を生じることになります。
ここでは美味しそうなウサギという存在者が捕まえて食べるという主体の能動性と不可分に結びついていることが分かります。
このように存在者・知覚はつねに主体の意欲や関心にもとづく行為性・能うという、能動的性格をもつのです。
そしてこの存在者・知覚像の能動的な性格こそが、今において未来を産出するわけです。
つまりウサギを認識したら追いかけ⇒捕まえ⇒調理し⇒食す、という一連の経時を今(ウサギの知覚像)から生成・分節するということです。
さらにこのとき追いかけるという能動性はウサギと主体との距離を生成します、つまり欲望が生成する近い遠いという主体的な能動性をもつ観念によって対象との距離(空間)を析出するわけです。
よって客観的な5メートルとかの物理的距離が先にあるのでなく、存在・欲望によって捕まえる未来が産出・投企され、追いかける行為を産出する存在のうちに存在者と自己との間の空間(存在者)が近い遠いという行為的な意味において客体化されるということです。
そのため存在とは客体空間に先行してある空間化の作用ということができます。
以上から欲望や関心としての存在は物・空間に先行し、物・空間を生じるところの時間であるといえます。
つまり時間は客体の変化ではなく主体の能動性としての客体化作用それ自体だといえるわけです。
そして欲望・関心とはまさに主体であり人間の内面なので時間とは心・意識だともいえます。
すると時間の今は客観時間とはまるで違う姿をとることが分かります。
つまり存在論において時間の今とは、具体的な空間表象の像をとる過去・未来に先行する純粋持続というべき存在性ということになります。
つまり根源的な今とは存在論的には空間的な過去に先行しているわけです。
また純粋持続とはベルクソンにおける今のことで、ようすうするに、無我夢中の状態とかボーっとしているときのこと。
我を忘れているとき、恍惚としているとき、あるいは西田でいう純粋経験の時間に他なりません。
我を忘れているときというのは、何も対象化されていないし知覚像もないわけです。
このような観点からすると時間とはもとより永遠の今しかないことが分かります。
人は今のただ中にあって、そのつどの関心のはたらき、存在の存在者への収斂の作用によって今より出でて、永遠の今を空間的な過去・今・未来と分節していることが分かります。
だからこそ根源的今において過去・未来は常に現前し共時しているともいえるのです。ここにはつど今の反復における共時としての時間が見えてきます。
このように言うと過激な唯心論・一元論のように思われるかもしれないので補足すると、客観はあるだろうけども到達はできないと、ここでは考えているわけです。真の客観はその構造もなにも不可知であり僕たち人間の世界には存在しないといってもいいでしょう。
したがって客観的な時間がどうなっているのか?の問いは存在論的に混淆した完全に無効な問いだともいえますし、この僕たちの時間は事実として客体ではない、ということが全てなのです。
ハイデガーはこうした空間・客体(存在者)と今という時間・主体性(存在)との差異を存在論的差異と呼びます。したがって自然科学の今への問いのアポリアは存在論的差異の混同と存在者還元主義に起因すると分かります。
存在者(静止空間)に時間を還元するから、ゼノンの矢のパラドックスに陥り、動きが説明不能になるということ。
(※時間について詳しくは、竹田青嗣の『新・哲学入門』がオススメ)
以上から存在論の考えはガリレオの天動説にも匹敵するコペルニクス的転回と言わねばなりません。存在者があって存在なのではなく存在があって存在者があるという先後関係の転倒はまさに革新的です。
なのにほとんどの人がこのことを全く理解していません。現代社会の混乱のほとんどを存在論的差異の混乱と転倒に帰すのも、大衆の無理解故にこの混淆が解消されないからでしょう。
(※竹田青嗣は分かりやすくこの問題を指摘しています、詳しくは竹田著『新・哲学入門』)
ここまでの内容を補足すると対象化作用としての存在の源泉となる純粋持続を存在それ自体と呼び、対象化作用としての知覚の能動面を存在・欲望と呼びます。
(※木村敏は知覚の能動面を行為的事実という。この記事の論考は基本的に木村敏の理論に依拠する)
また存在論的差異のことをラカン派では欲望とか存在欠如と呼びます。
(※存在論的差異と欲望については後で分かりやすく解説します)
今と共通感覚
アリストテレスの共通感覚と永遠の今との関連を解説します。この理解は後期ラカンとユングの親近性を理解するうえで欠かせません。
共通感覚とは、木村的に理解するならば永遠の今のことであり、存在それ自体に属します。
具体的に説明すると、まず共通感覚とは五感に対する共通の行為的な意味感覚を示します。
たとえば、味覚を示す甘いという共通感覚は「奴は性格が甘い」とも言いますし、「バイオリンの音色が甘い」と聴覚に対しても適応可能。これにより1つの世界で同じ物が青かったり、うるさかったり、ゴツゴツしていたりできるわけです。
つまり味覚の刺激感覚に対する甘いという意味知覚の感覚などが共通感覚の例で、甘いという共通感覚は味覚を超えて五感を行為的な意味の領野で統合するものだといえます。
また甘さは甘い物好きには食欲を刺激し食事行為を呼び覚ますわけで欲望・存在と密接にかかわることが分かります。
もっとも原始的な共通感覚をいえば快ー不快があるでしょう。快は反復的な行為を呼び起こしますし五感の全てにおいていえることなわけです。音が心地よい、手触りが気持ちい、色が心地よいなど。
もし共通感覚がなければ僕たちの感覚は5つに裂かれて世界は部分対象のようにバラバラになってしまうに違いありません。
そして共通感覚の共通とは五感に共通するというだけではなく人類に共通するという意味も持ちます。
いわば共通の主観性に属するわけです。
そのため共通感覚は、他者の内面を直接に感じる機能でもあります。
たとえば科学の実験ではあくびは伝染することが証明されています。あくびというのは怠けた気分を伴う身体反応であり、ユング心理学的には情動とみなすことができます。
情動とは身体的反応を伴う感情のことです。つまり泣き、笑い、怒り、あくび、感動の鳥肌、眼差し、声、などが情動の典型といえます。
もらい泣きという言葉があるように僕たちの情動は伝染するわけですがこの情動の伝染を支えるのも共通感覚の機能だと考えられます。
つまり泣く子どもの視覚感覚にたいしては、悲しみ泣くという行為的意味の共通感覚が生じるわけです。
もともと人間の内面は、少なくとも主観・認識のうえでは決して個々に分離してはいません。幼児の自他未分の様を見てもそれは明らかかと思います。
親の声や眼差しを介して子どもは直接に親の内面を感じ共通の主観を形成します。また日本社会ではしばしば空気が集団のうちに醸成されることもありますが、この空気も共同主観的な共通感覚に他なりません。
ところで前項で説明したように、主体が自己と対象とのあいだの関係、存在に属するということは、主体は対象によって規定されることに他なりません。
たとえば渋い緑茶として緑茶を対象化した場合、緑茶を渋いと感じる者として自己を対象化することに直結するわけです。つまり存在とは自己主体のうちに閉じ込められた内的主観ではなくて対象と自己とのあいだに属するわけです。
さらに共通感覚の議論をこのことと照応させてみると、人間の内面というのは自他のあいだにあって、自他で共有されていることが分かります。
木村敏がいうように人間という日本語が人の間と書くのもこのためでしょう。
つまり空気や気分として共通の主観・存在が自他のあいだにあるといえるわけです。
議論を先取りして述べるとこれで、ユングが集合的無意識などの人類普遍の無意識に主眼をおいた理由も見えてくるでしょう。
ユングが今(存在・共通感覚)を重視したことと元型や集合的無意識を重視したことは関連します。
いずれにせよ、後の議論に対してここで重要なのは存在や永遠の今が自他未分の共通感覚に属しているということです。
時間と隠喩
ここでは存在論的時間の今と隠喩の関係を示します。
隠喩とは比喩の1つであり換喩と異なり、全体で全体を象徴する言語表現のこと。たとえばライオンを百獣の王と呼ぶのは隠喩。
たいする換喩は全体を部分、ないしは部分を全体に喩えること。つまり、モヒカン頭の不良(全体)をモヒカン(部分)とか、のび太を眼鏡と呼ぶのが換喩です。
また言語学でいえば隠喩はパラディグマティックに対応し換喩はシンタグマティックに対応します。
パラディグマティックとはたとえば「僕は公園で射的をしてお弁当を食べる」という文があったとき、文中の「僕」を「あなた」や「彼」に変えたり、「お弁当」を「ドーナツ」とかに変えることを示します。
日本語は非常にパラディマティックで隠喩的な言語です。また隠喩は漢字や絵文字などの表意文字に対応します。
これに対して、シンタグマティックとは、先ほどの文を「お弁当をたべる僕は公園で射的をして」という具合に語順を変換することを示します。
換喩は英語などSVOCと語順が固定される西洋言語に典型され、ひらがなやアルファベットなどの表音文字(シニフィアン)に対応します。
したがって隠喩に属するパラディグマティックは文章の共時的な変換に対応し、換喩に属するシンタグマティックは経時的(因果律的)な変換に属することが分かります。
また隠喩とはピアノの演奏を見た人が「彼はまるでショパンだ」と言ったりすることにも通じます。
つまり彼はショパンに喩えられ、隠喩として表現されるわけです。
さらに、ショパンは過去の存在ですがここでは隠喩によって今この瞬間の彼の演奏においてショパンが現前(共時)しているともいえます。
つまりここでは、彼の演奏に感じる存在・共通感覚がショパンの演奏に感じる存在と一致することで彼とショパンが比喩的に同一されているわけです。
したがって隠喩では存在者に先行する存在(述語)の同一性によって存在者(主語)が規定され、共時的な今の反復が展開していると分かります。
このことが意味するのは、つど根源的な今の反復としての時間においては、そのつどの対象化作用としての存在・共通感覚の同一性こそが時間と存在者の同一性と連続性の根拠になっているということです。
(※統合失調症における自己同一性の破綻とは記述的現象学がいうような存在者自己の同一性破綻ではなく、自己の存在の同一性・連続性の破綻による隠喩の不成立に他ならない。この事態をしてブランケンブルクは精神病を、超越的自我を経験的自我が肩代わりするという。これは心理学の基本なので人間心理に興味ある人はちゃんと理解することをオススメします)
そしてこの存在の同一性によって過去の記憶とそのつどの今とが存在(述語面)により同一されることで、過去の私も今の私と同じ私として自己同一されていると考えられます。
(※まったく新しい世界に別の肉体として転生し、自分を規定していた物がなくなっても同じ自分として同一性を保てるのはこの存在の側の同一性のためであり記憶の連続性に依存しているのではない、そもそも回想できる記憶はとぎれまくっていて連続性などない、記憶をつなぐのはあくまでも存在による隠喩)
深層心理学でいえば、転移やコンステレーションもこのような隠喩的な時間(自己)の同一性のために生じると考えることが可能です。ようするに過去の父との関係(存在)が今の精神分析家と自分との関係(存在)と一致することで分析家に父が転移されるということ。
ゆえに転移では今において過去が現前し、今のもつアクチュアリティによって過去が刷新される可能性へと開かれます。
ちなみにこの考えは僕が理解するところの木村敏の考えになります。10年前の自分と今日の自分、違うのに同じ自分といえる根拠は存在の同一性にあります。
このような存在論的自己同一性の理論は、非常に共時的であり今における過去の刷新を可能とする円環的時間意識によるもので、神経症が今においてつど創られると語るユング的時間意識に通じます。
ここが分かるとフロイト・ラカンがシニフィアン連鎖という換喩に着眼したのに対して、ユングがイメージの隠喩に着眼した理由も分かってきます。
また換喩の全体と部分の置換関係は、原因と結果の関係に対応し、これは今という全体の内に過去の痕跡としての部分を原因として見いだすことに対応します。
さらに痕跡という部分を寄せ集め隠された全体を推理するという、コナンドイルの推理小説に典型されるような近代の換喩的なパラダイムはフロイトの精神分析のスタイルにそっくり当てはまります。
前期~中期ラカンと過去
ここまでで僕たちは、後期ラカンとユングの接点を探るための時間の基礎を手にしたのでさっそくラカンの理論をみてゆこうと思いますが、最初に少し詳しい人向けに、ラカンの要諦を簡単にここにまとめます。
まず前期から中期におけるラカン派精神分析では、今=存在は欠如と見なされ、さらに欠如した過去こそが主体の原因として措定されます。
つまりラカン派において時間とは因果律的な経時性が基本となります。言い換えれば、過去⇒未来へという換喩的でニュートン的な客観的時間を前提しているわけです。
また初期・中期ラカンで重要なのは、ラカンは存在=今を欠如としつつ、その根源的な今=存在・主体を公共的な客観世界(象徴界)の絶対的な根拠と措定していることです。これは非常にゲーデル的構造主義の見方です。
(※存在論的には、存在としての今はあらゆる過去(外的出来事=存在者)に先行することを思い出そう、今において過去未来は分節する。したがって今においてつど過去と未来は共時し、つくられている。時間の始点としての過去を欠如とするラカンは、じつは根源としての今=存在を欠如としていることが本質である)
これはネガ的に(欠如として)今を中心においているわけで、非常にこじれた考え方と言わねばなりません。
といっても多くの読者には小難しく感じられたと思うので詳しくみてゆきましょう。
因果律と客観と時間
本記事の文脈において初期・中期ラカンを理解するのに必須となる因果律と客観時間の関係を解説します。
因果律とは原因となる時点(事象)があり、その後に続く次の時点(事象)がその結果として生起する時間の流れをしめします。
つまり過去を原因として、その結果としての未来が生じるわけです。したがって因果関係とはニュートン的な科学的経時を示します。
このことは科学が因果関係を取り出すことでなりたっていることからもよく分かるでしょう。
したがって因果関係とはニュートン時間の流れとしての連続性のことに他なりません。
ここで時間のゼノンの矢のパラドックスの項目で説明した矢のパラドックスについて思い出してください。
そこで説明した通り、時間は客観的には非連続であり空間=客体には経時的な同一性がありません。
しかし科学や日常の客観的世界観では時間は因果律的に流れています。つまりある時点の今(空間)とつぎの時点の今(空間)とは先の今を原因とし、後の今をその結果とすることで因果的に連結、同一させられるわけです。
各今(静止空間)が因果律によって、連続化=同一化しているということ。
こうして因果関係によって紐帯される各今の静止空間のありようは、過去において今があり今において未来があるという、一方通行の時間の流れを構成することで同一性を獲得。
言い換えればバラバラだった今と次の今とが因果関係によって関係を結ぶことで時空間の連続性=同一性が生じるということ。
このような各今の変化を因果関係によってつなぎ存在者の同一性を確立する根拠(原因)をハイデガーは道具と呼びます。
つまり道具というのは存在者が機能をもつことをしめし、矢であれば、的に刺さるという目的的機能をもっているわけです。そして機能とは因果関係によって成り立つ概念だということです。
たとえば矢の目的的な機能のために、的に当てようとして人は矢を射るわけです。すると的に刺さるという矢の機能は的にむかって飛ぶ矢のつどの今の非連続な座標変化をその目的機能によって因果的に連続してくれるということ。
また、因果的な決定論的法則性を取り出す余地があるからこそ、科学的観測から時間が因果的に連続して流れていると感じることができるともいえます。
しかし本質的には、このような因果関係としての機能もまた人間の欲望・関心の産物に他なりません。しかもこれは個人的な関係(関心・存在)ではなく公共的なものです。
そして因果関係が公共的であるからこそ、それは客観を可能とするのです。客観とは個人的な主観ではなく誰がいつ見ても同一に見えることなので、その意味で共同的・公共的・言語的・三人称的な主観のことだと言えます。
ようするに自分にしか見えないペットボトルは幻覚(主観)でも全ての人に同じように見えるペットボトルは客観的な実在と見なされるということ。
そして因果性としての道具とは客観・公共としての同一性(時間のニュートン的連続性)をもった客体(存在者)に属しているということです。
ここで重要なのは、因果関係とは過去が一方的に結果である未来を規定することです。つまり量子力学的な確率事象を伴わないことです。
独立的な確率事象は、つどの今と今の因果的な繋がりを否定するため空間の連続性の解体を示します。
(※量子消しゴムの解釈問題もこのことが関連しているはず)
したがって過去から未来へという因果関係はニュートン的な決定論的時間性を示します。
また、ニュートン時間に属する客観的・公共的な存在者の言語概念がそのつどの偶発性によって変化し固有性を帯びたら、言語は第三者への伝達可能性を喪失し破綻します。
よってシニフィアン(存在者)は、ニュートン決定論的に既知の道具的な同一性を保っていなくてはなりません。
また以上から時間の始点(究極の原因)がここでは、あらゆる存在者の究極の原因であり同一性の根源になっていると分かります。
存在欠如と因果的時間
世界の外部から世界をつくり、決定論的時間を始めた一神教の神が信じられた時代ならば、ニュートン時間モデルは成り立ちますが神なき時代、信仰なき時代ではそうはいきません。
近代とは人間自らが自己の道具としての機能(根拠・原因)を自己決定しなくてはならないからです。
そしてこの自己決定のことを自由意志といいます。いわば近代の人中心主義とは人間自らが自己自身の主体として自己言及・自己支配をなす自己回帰的な自己関係を取り結ぶことにあるわけです。
このような自己の起源(同一性の核となる機能・原因)を自己決定するあり方はそのまま、始点喪失のパラドックスに直結します。
つまり私は日本人であると自己のアイデンティティを自己決定してしまうと自己のルーツを自己決定した決定主体たる自己が、その決定に先立って存在してしまうことになるわけです。
すると自己の起源、すわなち始点(究極原因)に先行して何者でもない空白の自己が生じてしまいます。こうして自己の起源(原因)は無限に遡行して消失するのです。
このような自己決定における自己主体の始点喪失をラカンは欠如と呼び、この欠如こそが公共的な世界、言語の世界の根拠なのだといいます。
つまり僕たちは言語で考えるので、言語により存在者を規定し、言語によって客体を構成しますが、その言語的な客体(シニフィアン)の究極の意味(原因・機能の核)は欠如しているということです。
今と共通感覚の項目で解説した通り、「客体のなんであるか=客体の意味」によって自己は規定されます。そのため客体(シニフィアン)の根源的な意味の欠如はそのまま自己主体の言語的意味の欠如を示すのです。
ところで、寿司を食べて「この寿司はうまい」という場合、述語の「うまい」、は主語の「この寿司」の意味になりますが、述語の「うまい」は寿司を食べた人の主観・主体的な意見でもあります。
したがって述語の「うまい」は寿司と主体とのあいだの関係を示すと同時に、主体それ自身だといえると分かります。
しかし「うまい」という単語そのものがなんなのかを言語的に説明することには限界があります。
うまいという共通感覚たる存在の行為的直接性そのものに単語・言語(シニフィアン)は決して到達しません。
(※言語という因果律(同一律)の体系で思考する限り、人は無限に原因を遡り、なんで?の終わりなき問いに陥る、この遡行して消え去る起源がラカンいう欠如の1つの意味)
このような主体の存在(今)の位相と、言語(シニフィアン)・存在者の位相との差異(存在論的差異)によって生じる、存在の言表不可能性のことをラカンは欠如だといっています。
ひらたくいうと言語によっては、主体(存在・関係・欲望)は言語的意味を確定できない、言語で存在を示すことができないということです。
それでいて私とか僕という単語(シニフィアン)により、言語的に不可知の主体(共通感覚・存在)は対象化(存在者化)されているわけで、この奇妙な存在論的差異の自己同一構造が深層心理学では問題となります。
私はなんなのだろうか?という問いが生じるのも私なる存在の言語的意味が欠如しているため。
そして自己の存在を言語的な意味の次元、対象(存在者)の次元で完全に捉えようという欲望の不可能性こそが、ラカン派のいう根源的幻想の正体でもあります。
ラカン派のいう言語秩序・客観的世界観(象徴界)の根拠は欠如している、という理論を存在論的に解釈するとこんな感じ。
大事なのはラカンのいう「主体の喪失=自己の起源(究極の言語的意味)の欠如」とは、自己言及における時間の始点の喪失であり、同時に共通感覚・存在=今の欠如でもあるということです。
そしてこのようなシニフィアン(存在者)を実とし、その欠如を中心に世界と主体を理論化する初期・中期ラカンの理論は、ニュートン的で換喩的な因果律と同一律、決定論の時間に属するわけです。
疎外と言語
ここではラカンの基礎理論である疎外を解説することで、言語とニュートン的な因果的時間の関係を明らかにします。ここさえ理解できれば後は簡単で後期ラカンとユングの知られざる関係を一気に明らかにできます。
(※試しに疎外について幸福体験から記憶痕跡S1、欲求から要請、欲望というお馴染みの教科書的説明を執筆したところ、そのままよくある入門書の内容となり、一般読者がついてこれない難易度になったので、独自の解説をします)
まず赤ちゃんは最初、主客未分であり、親である〈他者〉の内面と自分の内面とは分離していません。
共通感覚は空気であり共同の主観性だと言いましたが、まさにその世界であり赤ちゃんの内面は内面以前の純粋なあいだなのです。
しかし共通感覚によって逆説的に自他の内面が分離することになります。たとえば子どもが山を登っていてヘトヘトにつかれた情動になったとします。このとき母が余裕の表情で余裕な情動の眼差しを子どもに向けたとします。
すると共通感覚の作用で子どもは母の余裕を直接に感じとりその母の内面を直に体感します。ところが子どものヘトヘトに疲れている現実は変えられません。
すると自己の内面のヘトヘトと母の余裕とで両者の内面は分離することになります。また母の眼差しは空間的に離れた母の場所にその余裕さを現生させる効果もあるでしょう。
こうして自他の内面はそれぞれの身体の内に限局されることになります。
また母の内面との一致はフロイト的にいえば近親相姦に対応します。内面(主体・主観)が融合すること直接に母と一体となることに対応するわけです。
自分の気分に対して、予期せぬ断絶として生じる母の余裕さの闖入は、ある意味では死であり子どもの去勢にも相当します。
つまり世界がヘトヘト、世界こそが自分という状態では、自分と異なる〈他者〉の内面のない自分だけの世界が広がっているわけですが、自分と異なる他者の内面の成立によって自分の内面はその無限性を去勢されるわけです。
ある意味で客観と融合していた主客未分の自然一体の内面は、客観世界から分離し自己存在は、個人的な気分へと格下げされるわけです。
このような自他の最初の分離のプロセスを疎外といいます。
またこの疎外のプロセスは父によって子が母との直接の一体性を禁止されることに対応しています。
母子の融合的関係が禁止にされることや、子を呑み込む母が禁止にされ子どもの主体性が承認されることにも対応します。
このとき象徴的な父性が言葉によって母を禁止することで、子どもは言語によって親の承認を間接的に得るようになります。
こうして母子一体の直接的な享楽は禁止となり、言語という三人称性を介して社会的に享楽の獲得が目指されます。
またこのことは鏡像を直接に獲得するのでなく親の承認を迂回して獲得するようになることに対応します。鏡像というのは五感などをそれぞれ代表する自己の部分対象を視覚的に統一する自己の統一的な像であり自己の理想像(理想自我)を示します。
つまり自己の主体であり存在を表象するのが鏡像。最初の鏡像は言語化されていないので言語的な意味を持ちません。ゆえにつどの今による共時的な同一性(自己統一)に属します。
ところが疎外によって自分とは異なる〈他者〉が構成され、子どもは〈他者=親〉に依存し規定されて生きることになります。これによって鏡像は〈他者〉の承認を迂回して獲得されるようになります。
また疎外により自己との直接の関係性(二人称性)を切り離された〈他者〉は三人称性を形成するため言語を司ると言えます。
つまり、言語とは声の高低などの感覚の直接性(共通感覚)を捨象することで成り立つものであり、第三者にもその意味が伝達可能な情報交換の方式であり、第三者つまり三人称に属する客観性と公共性をもつものだということです。
そのため言語は客体(存在者)に対応するわけです。
以上から疎外による〈他者〉の構成が子どもを言語の主体として言語世界へと参入することを可能とします。
むしろ言語世界への参入のことを疎外といいます。つまり疎外とは言語世界へと自己が疎外されることを意味し、鏡像の直接性が失われることを示します。
(※疎外のプロセスは身体がシニフィアン化し諸欲動が階層化されることで身体が言語に所有されることを示す。これは自由意志と自己支配の成立契機とも密接に関わる)
ひらたく言うと最初の鏡像は母子一体の世界であり、自己の存在を示す鏡像は「これ」とか「それ」としか言いようのない直接的な固有性をもつ主客未分の二人称的な対象。この場合は「これ」には言語的な意味がありません。「これ」って何?となるわけで二人称的な個物(S1)は西洋言語的意味(道具機能)を持たないのです。
対する〈他者=言語〉を介した鏡像(言語的意味単語)とは、学年成績一位とか弁護士とか東大生といった親の承認・欲望を示す社会的・言語的な言語象徴(シニフィアン、S2)に置き換えられます。
また言語が客体・客観の系に属するということは、存在欠如と因果的時間の項で解説したことから、因果的時間に対応することが分かります。
ようするに直接性を否定した三人称性の他者=言語とは客観の成立と不可分であり、客観を構成する時間は因果律的なニュートン時間だということです。
(※客観とは論理学における同一律・矛盾律・排中律からなる。また同一律は因果律的な時空間の連続性を示す)
直接の二者関係の禁止よってなりたつ「三人称性=言語」では意味がそのつど今によってコロコロと変わったら困るわけです。
そんなことになったら言語の第三者への伝達機能が成り立ちません。したがってつどの変化は因果律によって既知的・予定調和的・過去還元的に規定され、同一律によって客観的に固定される必要があります。
このような言語対象である存在者の既知的な意味の同一性を支え、第三者への伝達性を実現するのが、因果律的な時間・空間の連続性になります。
したがって最初の鏡像(S1)によって獲得される直接的な自己の言語的意味を超えた固有性は父の禁止における疎外によって言語的意味へ置き換えらるといえます。
このような置き換えをなす父性の去勢(直接の禁止)の機能をラカンはファルス関数と呼びます。
男の式の疎外と時間
キリスト教徒であるニュートンが時間に絶対的始点を考え因果律的な「過去から未来へ」という言語・客観性のニュートン時間を考えたことからも分かるように、フロイト時代の一神教圏における疎外では最初の鏡像(S1)は余すことなく言語世界へと疎外されます。
(※厳密には最初の鏡像とS1とではニュアンスが異なります)
つまり、自己存在の二人称的で絶対的な固有の直接性(S1)は完全に去勢され、その全てが言語的意味の地平(S2)へと疎外されてしまうわけです。これは母子の直接性が完全に禁止され、自他が完全に分離させられるということ。
すると世界は言語的な客体(シニフィアン)だけが実在であり、言語以前の存在・共通感覚は言語の欠如としてしか捉えられません。
したがってかの有名な初期・中期ラカンの欠如論とは、一神教的な完全なる疎外をへた主体における世界解釈(幻想)に過ぎないのです。
これはとても一神教的でフロイト的な世界観と言わねばなりません。
このようなザ原父というべき、悉皆に疎外された主体をラカンは男の式とか強迫神経症と呼びます。
ここでせっかくなので疎外を異なる角度から確認し理解を深めておきましょう。
たとえば僕たちは共通感覚や存在によってとっさに行為することがあります。たとえば溺れている人を目撃して気づいたらいつの間にか飛び込んで助けていたとか。
このようなつどのとっさの行為をラカンのタームである「欲求」と呼ぶことにしましょう。
人間の存在・主体性であるこうした欲求は人助けという社会的意味に還元できる要素もありますが、厳密には意味に還元することができません。
それは思わずの行為であり、とっさの動きであって、その欲求の行為を後から振り返って言葉によって解釈し言語的意味を与えるのが精一杯です。
ですが男の式に示される主体では、これを全て言語的解釈・意味へと還元し尽くそうとしてしまうわけです。
ちなみに欲求に対する言語的な意味解釈のことを「要請」といいます。
そして、欲求と要請との差異をラカンは欲望(主体)だといいます。そのため欲望とは存在(欲求)と存在者(要請)との差異のことなのです。
繰り返しますが、この存在と存在者の差異をハイデガーは存在論的差異と呼びます。
つまり究極の言語的意味は、存在論的差異のために欠如していて決して要請が欲求に一致しないこと、すなわち言語象徴的な自己と本当の自己(存在)との不一致が、慢性的な不満足を生じ、あらたな言語象徴への飽くなき欲望を生じるとラカンは考えているのです。
(※この欲望の飽くなき象徴探求における換喩の動きを欲望の弁証法と呼びます)
ラカンの欲望が存在論的差異というのはガチに深層心理学全般の理解で必須なので説明しときました。深層心理学に興味ある人は理解必須です。
(※ここが分かると存在論的差異を抹消し存在者へと還元する現代的態度が自殺行為だと分かる。僕が当ブログでしばしばポストモダンを批評する理由もここにあり。また当ブログでシミュレーション仮説を否定する記事を書いた理由もここにあり)
(※疎外を説明しておきながら分離を説明しないのはよろしくない気がするので、簡単に分離の概要を示すと、分離では〈他者〉の内面=欲望が言語によって名付けられます。これにより疎外で生じた〈他者〉の欠如が引き受けられるのが分離。この父の名付けがないと現実的な対象として母と一体化しようという倒錯になります)
後期ラカンとユングの交差点:女の式
いよいよ、ラカンとユングの知られざる接近に迫ります!
これまでに男の式が二人称的な自己の固有性を全て三人称性の言語的解釈・意味へと疎外してしまうことを確認しました。
じつは後期ラカンはそのような男の式のまずさを自覚し、女の式へと理論を移します。この男から女への転回が世にいうラカン対ラカンなる後期ラカンのケーレの正体です。
ではさっそく女の式を確認しましょう。
女の式とは自己の二人称的な固有性、意味を超えた「これ」としかいえない直接性が残っている主体を示します。
つまりある程度はファルス関数によって疎外されていて自己存在は言語的意味へと置換されているけども、幾分かは疎外されずに直接性として残留しているのが女の式(ヒステリー)です。
これにより後期ラカンでは話す行為それ自体に生じる意味を超えた享楽・存在が捉えられます。
つまり意味に還元されない存在の固有性の部分が言語を話す行為に張り付くわけです。これを〈他〉の享楽といいます。
これは、そのつどの今において直接性としての自己存在が生じるとも言えます。また言語的意味を超えた自己存在のことをラカンはS1といいます。S1とはシニフィアン(言語、能記)であると同時に無意味な直接性でもあります。
(※女の式のS1をジジェクは存在者(量子力学)と存在(相対性理論)との統一理論(ひも理論)に喩えてます)
そのため存在そのものを表象した存在と一体の記号(存在者)をS1と見なすことができます。
そして意味を超えたS1は、存在によって、そのつどの自己対象として反復することになるわけですが、言語的意味という因果的な時間性の外部にあるために、ニュートン的連続性の時間を構成しません。
つまり、つど言表行為の背後にあって言語的意味を超えるS1は、根源的な今としてつど反復します。
また後期ラカンは欠如の代わりに現実界(言語の外部)のS1を有るといい、S1を中心に理論を再構築しました。
つまり起源(今・始点・原因)は欠如していると言っていた中期ラカンが後期になると、その起源に対してS1という今を措定し、S1=今はある、といっているわけです。
また依存症などの今(S1)の反復という時間を後期ラカンを継承するミレールは重視します。
以上からすでに確認したユングの今においてつど過去(始点)が創られるという時間意識と後期ラカンのS1の反復が近いことは一目瞭然なわけです。
よって後期ラカンはニュートン時間に根付く過去から未来へという時間意識を前提する起源の欠如からユング的な今(S1)の反復へと移行したわけです。
繰り返しますが、このような今を中心とする論理は、ユングに極めて近いのです。なぜなら、すでに説明したとおりユングは今において過去と未来がつくられ、つど現前する今こそがリアリティ(根源)だとしているからです。
またユングはイメージを中心にし、ラカンのような換喩的なシニフィアン連鎖(ニュートン時間)を重視しなかったわけですから
このことはラカンの言語へと疎外される以前の原初の鏡像(イメージ)と対応させることもできるでしょう。
さらにユングはイメージの言語的解釈を重視しましたが、同時にイメージは言語的な意味を超えていることも非常に重視したことで知られます。
このことはまさにラカンの女の式そのものでしょう。
ユングの論旨をラカン的に翻訳してみれば、イメージ(鏡像、S1)のいくらかは疎外され言語的意味(S2)をもつが、疎外されずに残る直接性(S1)もある、ということになります。
これはまさにラカンの女の式の定義にピタリとはまるのです。
(※ユングのいうイメージのニュアンスはS1とは異なるため、完全に対応しているかは疑問もありますが、かなり近いのは確かだと思われます)
ちなみに女の式はラカン派ではヒステリーに対応します。ヒステリーとは〈他者〉を自己のうちに認め、その〈他者〉の欲望の対象として自己を措定する主体を示します。
ここでいう〈他者〉とは自己を超えた未知性(クリーゼ)を示します。ようするにつど今における過去と未来の刷新(未知性)の作用がここでの〈他者〉に対応します。
そんな女と対照的で、男の式では主体の欠如という1つの言表不能な根拠(欠如)によって全てが言語的意味(シニフィアン)により還元され既知的な決定論的ニュートン時間を構成します。
また言語的・既知的な意味(自己の原因)においてニュートン的連続性と同一律的自己同一性を幻想する男では、自己のつどの行為や言動に、自己を超えたそのつどの今の持つ未知性、すなわち〈他者〉が介入することを認めません。
言語の主体として自己の全てを自己が把握し、世界の全てを言語的な意味によって還元しようとする存在にとって自己主体のつどの行為に〈他者=未知性〉があることは受け入れなれないわけです。
このことは男の式の典型である英文法を見るとよく分かります。英語では通常は主語(I)が必ず文頭にきます。日本語のように主語の位置を文末にズラすことは認められません。
したがって主語(I)とは、動詞や目的語など他の全ての事象・言語に時間的に先立つ絶対的原因の地位に固定されているわけです。
私が考える、というように考えるより先に考える主体として私が措定されるのが男の式であり西洋言語ということ。
つまりそのつどの今における主語(I)の述語的行為は主語の意図を超えることが許されないということです。したがって主語(I)を超えて主語に先行する根源的原因としての未知性=〈他者〉は抑圧されます。
ようするに決定論的時間では全てが完全に言語的・既知的意味のもとに決定しているために、そのつどの今における意味を超えた〈他性〉は抑圧されるということです。この抑圧が強迫神経症の症状を構成します。
たいする、女の時間である今の反復は、根源的な今において隠喩的に過去(原因)と現在(結果)を共時し、現在の〈他者〉性において、過去を刷新する作用をもつため、結果(現在)が同時に過去(原因)となり過去が現在の結果にもなります。
つまりここでは結果と原因、過去と現在は相互因果関係を結ぶのです。これは、そのつどの非連続な偶発性=〈他者性〉が過去や未来へと連続される作用を示します。
このような時間意識は極めて円環的でアニミズム的なものです。
(※柄谷行人のいう交換様式Dはこの円環の時間における止揚ではなかろうか)
以上から、ユングが父性より母性を重視したりシニフィアン連鎖=換喩より、イメージの隠喩を重視したこと、さらにはニュートン的な因果律的経時より、つど今の反復として神経症を理論化したことと、ラカンの女の式との相同性は明白だと考えられます。
さらには心的エネルギー・リビドーを性的に限定したフロイトに対して、ユングがリビドーの多様性を指摘したことも女の式における、根源をつどある今の多様性にもとめる共時的な時間意識に対応させて理解することができます。
このようにユングを女の式として理解することでフロイト・中期ラカンとユングの違いの多くを体系的に説明づけることが可能です。
後期ラカンを超えるユング
S1を存在を表象する主客未分の存在者(シニフィアン)であり、時間のそのつどの今であるとすれば、これは共通感覚に根ざし、自他未分の普遍性を持っていることが分かります。
つまり会話をしていて言語の意味を超えて感じる相手との共通感覚による直接的な情動の感応(疎通気分・享楽)こそがS1を形成すると考えることができるわけです。
ラカン派はかたくなにS1の固有性を強調しますが言語以前の直接性であるS1は自他のあいだを表象するもので、存在を帯びていると解釈できます。
それゆえ自他の普遍性に通じる経路として理解すべきだといえるでしょう。
いわば自明性における、おのずからをして身ずからとなすような普遍性から生起する絶対的固有性と考えられます。
いずれにせよ、S1に認められる有としての根源的今は自他(存在者)に先行してある自他未分(存在)の位相である共通感覚につうじています。これは木村敏でいうメタノエシスと関係が深いともいえます。
とすれば、このようなつどある今に視座をおくユングが個人を超えて、集合的無意識や元型を考えたのも頷けるわけです。
個人の底にある自他の共通性として取り出したユングのこれら主要キーワードは、存在としての根源的今がもつ自他以前の無人称的なあいだ・共通性として解釈する余地もあるでしょう。
しかしラカン派はS1と今の反復という多神教的時間性に到達したにもかかわらずなお、自他の峻別以後という存在者の次元にとどっまっているふしがあります。
ラカン派はS1を他者とは異なる固有性として自他の峻別のみに固執してしまう、このことは男の式からまだ脱却し切れていないことを示していると解釈できるでしょう。
(※男の式が悪いのではなく、男の式とは女の式なしには成立さえできませんがそのことについては長くなるので割愛します、興味ある人は僕のYouTubeのヘーゲルの動画を見てください)
しかしラカン派もユング派も僕が知る限りでは、木村敏や竹田青嗣が重視する存在の行為性(能う)・存在そのものへの着眼が弱くイメージだとかS1だとかの具体的な対象に依存しているふしがあります。
これでは発達障害をはじめとする人間心理の本質を見逃すことになるでしょう。
じじつ存在の次元から見ると様々な主体の存在様式を簡単に規定できます。
たとえば、離人症は存在の消去、神経症は存在における〈他性〉の抑圧、発達障害は存在における〈他性〉の排除、統合失調症はつどの存在の非連続化、鬱病は存在における〈他性〉の否認、として分かりやすく体系的かつコンパクトにまとめることができます。
この存在に視座をとるやり方は木村敏的であり僕は木村敏の影響をかなり強く受けています。
河合隼雄と女の式
戦後日本にユングを輸入した有名な臨床家・心理学者に河合隼雄がいます。
河合隼雄といえばレジェンドなのでご存じの方も多いでしょう。かくいう僕も河合隼雄きっかけでユングに入ったくちです。
じつはそんな河合隼雄の理論に「女の意識」というものがあります。
河合隼雄によると女の意識とは、現代日本の精神的行き詰まりを克服しうる意識であり、日本の原悲文化に根ざすものだといいます。
そんな女の意識を本記事の文脈に照らして簡単に示すと、女の意識は女の式に属し、男の式と対立するのでなく、男の式を内包してある多にして一なる意識だといいます。
また女の意識は、男の式のような単一の原理によって全体を規定してしまう普遍性の世界ではなく、女の式のような固有性と多様性、複数形の女性の世界と考えられます。
女の意識論の多神教性、多にして一というあり方、これはラカンの女の式の特徴に近いです。というのも女の式では普遍的な女性なるものが否定され固有性において多様なる女性が成立するのが特徴だからです。
ようするに、女の式は、言語を超えたつどの直接の固有性に開かれた一期一会の世界、今において共時する世界であり、その世界は疎外されている要素もあるため、男の式のようなあり方も考えられるのです。
フロイト時代の単一の〈父の名=原父〉から、ラカン以後の複数形の〈父の名〉への移行をなす神(父)なき時代において、女性の意識論や女の式は非常に重要な概念と言わねばなりません。
ラカンとユング・河合隼雄、世間ではまるで違うものと誤解されていますが、その最終到達点は近いところがあり、存在の地平、共時する今へと導かれているのかもしれません。
終わりに、ユングについて
最近、ラカンニアンの本を読んで後期ラカンとユングの対応が自分のなかで、なんとなくまとまってきた気がしたので衝動任せに記事にしました。
いつも通り、無計画の下書きなしで執筆したのですが、今回はそれが裏目に出ました。専門性の高い内容を記事にする場合は最低限グランドデザインを決めてから執筆しないと、わかりやすさが損なわれ説明が甘くなることを思い知りました。
また身体の出来事としてのS1とユング派と身体性など身体をめぐる解説をするのをすっかり忘れてしまい、本来欠かせない身体論が抜けてしまいました。
今回の記事は説明や構成の甘さから無意味に難解になってしまい反省しています。
念のために大切なまとめをここに書いておくと、女の式では「共通感覚=根源的今=存在」の一部が疎外されずに残存するために、今が中心点となり、今において起源(過去)が隠喩的に共時させられるということ。
対する男の式は根源的今が全て言語的意味である存在者=シニフィアンへと置換されてしまうので今が欠如と認識されてしまうということです。
ここで、これまでの解説で取りこぼしたユングと後期ラカンとの関連を簡単に紹介しときます。
まず後期ラカンでは、症状への同一化とサントームの議論があるのですがこれは、S1を言語的意味から切り離し、終わりなき解釈に突き進む自己分析(自己解釈)に終わりをもたらし、S1の絶対的自己の固有性に開かれるというコンセプトになります。
じつはこのサントーム的な発想は東洋思想によくある悟りに近いところがあり、ユングによると東洋では善悪から距離をとり、善悪を相対化するといいます。
ここで試しに善悪は欲望の次元、つまり公共や世俗・言語(S2)に属すると解釈してみます。すると東洋思想をS1のS2からの切り離し、およびS1への同一化に近いものとして解釈できるわけです。
そもそも漠然と悟りなる状態を意識してみると中途半端に世捨て人的な達観があるそんなイメージが僕にはあるのですが、言語世界から自己の核心を切り離すサントームの理論にはなんとなくそういう雰囲気を感じます。
ところでユングは善悪にコミットしない東洋思想のあり方に疑問をしめしてもいます。つまり善や悪へのめり込んでこそ、善悪の動きが生じてイメージが生きてくると考えるわけです。
つまり悟り的なものとユングは違うところがありそうだということです。
このあたりに後期ラカンとユングの本質的な差異をみいだせるかもしれません。またユングとラカンを理解する上では、ユングの終わりなき個性化とラカンの終わりある分析、ここの対比が最大の焦点となるでしょう。
また、ユングのいう個性化の過程では、まずペルソナとの同一化を解除しペルソナを切り離すことがとかれます。
ペルソナは社会的な役割、仕事などのことで、素朴に理解すれば、かなりのところラカンのシニフィアン・象徴的自己と対応させることもできます。
(※ユングの概念は非常に曖昧で多義的なため、一概にはいえません)
するとペルソナとの分離は、ラカンでいう分離のプロセスとも対応し、固着をとき欲望の換喩的弁証法を賦活することと解釈できます。
さらにユングの個性化プロセスでは、ペルソナの後はアニマと関係することが説かれ、つぎにセルフと続きます。
これをざっくりまとめると、社会という集合的なものから自分を切り離すことと、集合的無意識という集合的なものからも自分を切り離すことが個性化の過程として提示されいるといえます。
ユングによると非日常性の世界である集合的無意識との同一化は自我肥大を起こすため否定されます。
この自我肥大はラカン的にいえば精神病における妄想性隠喩に相当するとも解釈できます。
妄想性隠喩とは公共的な言語的意味による同一律の縛りを厭い、S1の全てを言語的意味から撤収して、S1の直接性を実現する独自の固有的意味世界を構成することを示します。
するとユングのペルソナと集合的無意識、2つの普遍性からの分離である個性化プロセスをラカンの理論によって解釈できます。
ユングの個性化の過程をラカン的にまとめると、S2(ペルソナ)からの切り離しを実現しつつ、疎外そのものを全否定せず、疎外も維持しろということになるでしょう。
(※ユングの理論は非常に奥が深く多義的なためこの解釈に還元しつくすことはできません、これはあくまで1つのざつな解釈に過ぎません)
このように理解してしまうと後期ラカンのサントームとユングの個性化の過程とでほとんど差がないようにも思えます。
ところで、いっぱんにユングというと結合や統合が意識されがちですが、本質的には分離や否定が中心にあり、結合と分離の弁証法を軸に展開します。この辺は俗流ユング論で誤解されがちのようです。
みなさんはユングのように終わりなき弁証法の分析とラカンの終わりある悟り的分析どちらが好きでしょうか?
ちなみに、ぼくはラカンのS1を切り離し欲望から距離をとる分析の終わりや依存症的なS1(今)の反復には疑問があります。
なんというか、ラカンのサントーム論は、普遍性(S2)と固有性(S1)を実体化・分離しているきらいがあるからです。そうではなくて、普遍性が固有性と同時成立であり、普遍と個は客体ではなく関係においてあることを立てるべきに思うのです。
どうにもラカンのロジックはイドよりS1にフォーカスしたりと、実体化が目立つきらいがあります。
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