※この記事は深層心理学の理論にもとづく一つの解釈です
うたまるです。
この記事を読めば、YouTubeが脳に与える悪影響についてが分かり、結果として頭をよくすることに繋がるかと思います。
記事ではYouTubeの隆盛にともなってテレビ番組がホルホル化しだしたこと、ベストセラーから比較文化論が消失したこと、文学が百田尚樹化したことなどの現象をYouTubeの言論構造から体系的に説明づけ、YouTubeが子どもの脳に与える悪影響についてを検討してゆきます。
日本の言説の変遷
YouTubeについて論じる前に準備として、日本のマスメディアにおける言説がどのように変化してきたかを簡単に確認したい。
僕はミレニアル世代で大学生になるまではTV人間だったので、その経験に基づいて簡単にその変遷を以下に示す。
90年代末のTVでは白人、黒人、東アジア人、東南アジア人とバラエティに富む出演者がおり、忌憚のない意見をぶつけ合う談論風発にあった。
当時は日本のアジアでの経済的地位もいまより高く、グローバリゼーションが叫ばれるなか、国際社会であり異国文化への感心が高く、こうした番組が盛んだったと思う。
とくに重要なのは海外の人が堂々と日本のダメなところをぶつけ、それに対して日本人が反論するといった議論が交わされていた点だ。
今のホルホルなマスターベーション番組しか知らない人には想像もつかないことだろう。
そこには日本人の内省があった。外側から自らのあり方を批判的に振り返るリフレクションの構造があったといえる。
ところがここ15年あたりだろうか、TVでは日本スゴーイしか言わなくなり出演する外国人はほぼ白人だけに。
そして白人にやらせで日本スゴーイを連呼させる民族的自慰番組が量産されていった。日本のTV番組に出てくる白人は自国文化を紹介することもなく、ひたすら日本スゴーイと連呼するだけの気色悪い書き割りでしかなくなった。
この愛国ホルホルの流行に先行してネット右翼ブームが起きたのは有名だ。
YouTubeではネトウヨ系と呼ばれる人たちが生じ、中国崩壊秒読み!韓国はもう終わり!とどうでもいいデマを流し続けるネット保守論客が誕生。彼らの中にはヘイト的言説で億単位の金を荒稼ぎする人もいる。
もっとも当時は、歪んだ反日的教育をしたりする人の発言力が高く、そうした言論に対するカウンターとしての反動保守という側面もあった。
※僕は大学で中国バンザイを繰り返す頭のおかしい教授や、アメリカには外国人参政権があるので日本は移民を大量にいれまくって外国人参政権を導入せよと嘘を連呼したり、自衛隊は違憲だから解体して米軍基地もつまみだし、話し合いで中国とわたりあうべきというお花畑の教授の教育を受けてきたので、ネトウヨの気持ちも多少は分かる
さらに現代、日本では白人の移民が増えており、白人達のコミュニティでは日本に移民して、ニッポンスゴーイを連呼するだけのホルホル愛国ポルノYouTuberなるビジネスモデルが拡散している。日本食を食って、ニッポンは地上の楽園!もう母国には帰れない!と発狂芸を演じるだけで月に数百万を楽々と稼ぐことができるので、白人による大量のホルホルYouTuberが激増中。
※日本以外の国ではこの現象は確認されていない。世界一のホルホル民族が日本というのは事実だろう
また、出版物を観ても日本人の意識と言論の変遷はよく分かる。
20世紀末のベストセラーには中根千枝のタテ社会の人間関係、土居健郎の甘えの構造、河合隼雄の中空構造など日本を欧米文化と比較し、自国を冷静に批評する論文が一般大衆にも広く読まれていた。
ところが21世紀になると百田尚樹が人気となる。21世紀のベストセラーは知的水準が下がり、日本を自画自賛する本が増え、竹田恒泰による愛国ホルホル本が大ヒットを記録する。
※このホルホル化のきっかけにはねつ造による日本の貶めをやったテレビ局の影響が少なからずあるだろう
このホルホル現象に呼応する今日日の言説はシンプルだ。
まず経済合理性を絶対化する合理主義の言説。つぎにこれに対する反動としての妄想のディスクールとしてのオカルトや陰謀論。
合理主義の言説では技術楽観主義のリバタリアンやネオリベが台頭する一方、百田尚樹を筆頭とする保守系がある。
スピ・オカルト系や陰謀論者の場合もこれをエセ科学やエビデンスなどの合理主義的なものによって裏付ける傾向にある。
そのため合理主義とオルタナティブな合理主義とに分離していると考えられる。
YouTubeの基礎構造
どうでもいい前提の認識を紹介したので本題に入る。
YouTubeにはYouTubeを観ることの有害性を訴える動画が存在しないのをご存知だろうか。
いくら『YouTubeを見るとバカになる』とか『YouTubeは有害』と検索してもひとつもYouTubeを批判する動画は出てこない。
唯一の例外でホリエモンがYouTubeを観るのはバカが多いというニュアンスの主張をする動画があるのみ。
なのに、YouTubeではTVを罵倒したり、TVを観るとバカになるという内容の動画は無限に出てくる。
つまりYouTubeを批評する現象の不在をここでは問題にしている。
このようにいうとTVだってTVを否定しないじゃないか、という人がいるだろう。
TVといえばTVゲームが売れてゲームに視聴時間を奪われだしたころ、エセ科学でありデマであるゲーム脳という嘘を垂れ流したり、視聴者からの批判に嫌なら観るな!と連呼する程度の人たちが運営する総務省と癒着した放送局のコンテンツだ。
重要なのは、ではゲームはどうなのか、である。じつはゲームにはゲームを批評するゲームが存在し、世界的な大ヒットを実現している。
それが小島監督のMGS2だ。このゲームではゲームをすることがなんなのかが問われ、ゲームが不気味なものとして描写されている。
そのため百田文学のような読者の気持ちよさだけを安直にめがけるあり方とは対蹠的で、プレイヤーにプレーのカタルシスを与えないような演出が随所に展開される。
プレイヤーにどこかゲームをすることのヤバさを印象づけるところのあるそういうゲームだ。
それでいて大衆の心をつかみ大ヒットした。もちろん永遠の0よりMGS2のが売れている。
※大衆に媚びたものは無知な人にしか通用せず得るものも小さいが、深い作品は無知な人にも博識な人にもとどき、無知な人の脳に変革を起こす
だから自己批評するコンテンツはあるのだ。TVとYouTubeが異常に低レベルなゆえ病的自己肯定感にあるだけで本やゲームは自己批評性を持っている。記事にもしたが、安部公房の小説『なわ』も僕の解釈によれば、小説を読むということが薄暗いフェティッシュな欲望をもっていることを描写している。非常に自己批評性(メタ認知性)が高い。
さて、YouTubeにYouTubeの批判がないという自己批判現象の不在、これに対するポジの現象がある。
それが、この動画を観ている人は賢い!私のチャンネルのファンは賢い!という言説だ。
YouTubeのインフルエンサーを確認すると高確率で、自分のファンを賢いといったり、自分のコンテンツを高度だ!と自画自賛するものが多い。
誰がどう見ても幼稚園児レベルの内容なのにそれをとびぬけて高度でありこの内容についてこれるお前は賢いという具合だ。
※程度の低い解説も多くある、程度の低い解説ほど人気になる傾向が高く、視聴者に神のように崇められている
ようするに内省がないことがYouTubeのアルゴリズムが要請するコンテンツ特性だ。
内省とは自らを振り返ること、それは反省すること。私が私について考えるというメタ認知は内省・反省としての自己関係を意味する。
そして人が何かをふりかえるとき、そこには問いが形成される。
だから自己を自己が省みることを示す反省が自己否定というニュアンスを持つのは偶然ではない。もし自己の行為全てに疑問がなく無欠だという確信があれば、人は自らの行為をふりかえろうとはしない。
自己の行為を振り返るときには、その行為は本当に正しかったのか?と問われる必要がある。あるいは誤っていたと悟ったとき内省される。
だから問いとは正しさへの疑念であり正しさの欠如。つまり自己の欠陥が予感的にであれ獲得されたとき人は自らを振り返る。
この否定の運動であるリフレクションが私が私を意識するメタ認知を構成してゆく。
とすれば、自己批評の存在しないYouTube、行為の満足をせき立て無欠性をおしつけるYouTuberのセールストーク(この動画をみる貴方は賢い!という発言)。
両者はともに内省の不在という言説構造に起因する同一現象といえよう。両者には相同性があるのだ。
不在の現象とその現象のポジ的な現れともいえる。
さて、youtubeのアルゴリズムは近年、仕様が変化してきており、検索意図・検索キーワードを無視して検索結果を表示するようになっている。
つまり視聴者は自分で観るコンテンツを選択することがほどんどできないのだ。だからYouTubeを批判するコンテンツが存在しないのかすら本当は分からない。YouTubeがそういう動画を検閲して僕に対して表示しないようにしている可能性を否定できない。これを個人が確認するすべはほとんどない。
またYouTubeは依存性の高い無内容の反復的動画を好み、そういったゴミを生産するクリエイターを優先する仕組みになっている。そのため迷惑系などがでてくる。迷惑系はYouTubeのアルゴリズムが迷惑系のような動画を優先・優遇する仕組みになっているから生じる。
よく迷惑系YouTuberを批判する人がいるが、そもそもYouTubeが彼らをそそのかし培養しているのであって、YouTubeを批判しない限りなんの解決にもならない。
※有名だが犯罪者系YouTuberのローガンポールは犯罪活動の資金をYouTubeから大量にもらっていた。YouTubeは彼の犯罪行為を熟知しつつ大金を送金し続けた。YouTubeは事実犯罪企業であり起訴すべき
YouTube化する日本
YouTubeにおける内省構造の消失、自己肯定化はいまの日本人の言説そのものである。
たとえば、愛国ホルホルの流行。
これも自己批評性を喪った日本人そのものであり、自己批評しないYouTubeと重なる。
また、大衆文学にもその片鱗をみることができる。
百田尚樹の永遠の0はその典型だ。
この作品では日本人の自己内省として過去の敗戦と主人公の祖父の罪が問われてゆく。
しかし驚くべきことに、敗戦はすべて新聞社や軍の幹部に責任転嫁され、自分たち(読者)に責任はなく、自分たちは無欠だったという結論にたる。これに呼応して主人公の祖父の罪(臆病者)も冤罪で祖父は完璧超人の無謬だったと発覚して物語は終る。
つまりこの作品は日常のなかでの存在不安からくる自己への問いであり内省を無効化することで大衆迎合をなす文学という一面をもつ。
この作品はまさに、昨今の内省なき日本人の誕生を基礎づけたモニュメントなのだ。
また僕はカエルの楽園も読んでいるが、こちらの作品でも、コテコテのアンパンマン式善悪二元論が出てきて、自分たち(ハンドレッド)の価値観が無欠の絶対的正義として描写される。
永遠の0にもいえるが、百田尚樹は自らの価値観である合理主義的(客観主義的)な物差しに対して距離をとることができていない。
これは他者と自己とが分離できていないといってもいい。というよりそのような分離をなす裂け目を強迫的に埋め立てるような倒錯的文学を形成している。百田の権力論がマルクス主義的でプラクシス(主語的、目的的、実践)的なのもこのためだ。
※他者と分離ができないとは、社会的価値基準をなす三人称的な他者=大他者に欠如がないということ。科学に喩えれば百田の世界では反証可能性のない科学になっているということ。自己の客観的な価値と意味とを問い(私は何者かを問い)認識するのが自己認識であるから客観審級の他者(世間)の視点から自己を見ることが自己関係(自他関係)を構成する、ここで分離とは自己と他者がその差異をして同一することを示す
このような文学はジジェクが資本主義を倒錯といったことと重なる。
※百田文学についてはこちらの永遠の0の批評記事を参照
もし20世紀後半であれば百田の小説はここまで売れなかっただろう。まさにYouTube時代のYouTube文学なのであり、その構造はYouTubeとまったく同じだ。
ともに言語空間における欠如の否認という構造をベースとする相同性をもつ。
じつは戦中のファシズム、ナチスの全体主義、これらは言語空間における欠如の消滅を絶対的な発動条件としている。
ここでいう欠如とは自己への問いを構成する自己疑念であり欠落のこと。
現代日本はその言説構造だけを観れば戦前と非常に酷似している。もっとも明確な違いもあるのだが、だからポスト全体主義というべき状態にある。
いずれにせよ、百田は元TVの構成作家であり、数字だけを価値として数字とりのみに狂奔してきた人物で、まさに数字だけを人間の価値とするYouTubeと同質。
そんな彼がYouTube時代に人気を博するのは必然であろう。
ネットVSテレビ:嫌なら出てけと嫌なら観るな
さてYouTubeにおける内省のなさ、自己肯定感の充満、これと同一構造にある今日的言説に、嫌なら観るな!嫌なら出て行け!がある。
嫌なら観るな!はもちろん過去にあった反フジテレビデモに対するフジテレビ側の反論だ。この幼児的反論の結果、本当に誰もフジテレビを観なくなって、今ではフジは視聴率最下位争いをする最底辺民放に陥落した。
そんなフジテレビを駆逐したデモの主体であるネチズンの標語に嫌なら出てけ!がある。
これは愛国心を高ぶらせたネット右翼が共有する愛国のメルクマールだ。
さて、民主主義を実現するには民主制度とはまったく別の心理学的条件が絶対的に存在している。その条件が要請する愛国精神は嫌なら出てけではない。国家や社会の価値規範や制度、法にはつねに欠陥があり、それゆえ理想と現実には根源的な差異があるが、この差異を受け入れろ、欠如をひきうけ国家(自己)を内省せよ、というのが民主主義を実現するための心理学的条件だ。
※民主主義と知能は深く関連する、高度な抽象的思考の獲得なしに民主主義はありえないので、民主化の構造はそのまま国民知性の構造とシンクロする
※深層心理学のみならず竹田青嗣の現象学理論もこの心理学的条件をよく示す
※国家の欠陥をひきうけるとは国家を外在化して叩くことではない。自分事として国を叩くことであり自己否定を肯定しろということ
したがって嫌なら出て行けとは、内省の否定だ。国家のあり方に疑問を持ち、その欠陥を指摘する意見を嫌なら出てけで排斥する排外主義は、内省のなさであり、YouTube的な欠如の埋め立てに他ならない。
また、吉本隆明の共同幻想論では高強度の共同体(全体主義)には三つの原則があるという。それは共同体の批評の禁止、敵の共有と攻撃の義務化、共同体からの離脱参入の困難化、の三つ。
※ひぐらしのなく頃に、の雛見沢村のルールはこの三つが当てはまる、高強度な共同幻想にある
高強度の危ない共同体はその外部を恐怖の地獄とする物語をねつ造し、共同体を抜けることの恐怖をすり込んで抜けれなくする。
※独裁全体主義の北朝鮮はその典型
するとネット右翼が騒ぐ日本は地上の楽園!海外はデスランド!という言説とセットでなされる嫌なら出てけ!はまさに共同体の批評の禁止に該当すると分かる。つまり戦前ファシズムの日本人と今の日本人は言説構造が近い。
民主主義とは理想の欠如としての現実をひきうけ、それによって弁証法的に社会や国のあり方を訂正してゆく運動をなすこと、これを絶対的心理条件とするのだった。この条件を満たす心的構造を分離と呼ぶ。この分離を拒絶するのが百田文学でありYouTubeであり全体主義だ。
※このとき国家や社会の制度が象徴してしまう世界観や人間観、これを制象と呼ぶ。たとえば司法制度は行為について責任の主体=主語を制象・幻想する制度。この制象がもたらす誤認が民主主義の自壊を引き起こし全体主義を招聘する構造になっている、制象を考えるとは制度とその意を分離して内省することに等しい
嫌なら観るな!へのアンチを展開したネット右翼、ネチズンのたどり着いた究極の答えが嫌なら出てけであり、どちらも同じ構造、自己否定と内省の否認にある。
現代日本の語らいの構造が欠如を埋め立てる内省の消失にあること、この一つの構造が多様な局面で具体的な言説として現象している。嫌なら観るな、嫌なら出てけ、YouTubeを観る人は賢い、YouTubeの批判の不在(欠如の欠如)、日本は理想の国、これら個別の言説は全てディスクールにおける内省の消失という同一の構造の異なる現象面の記述に他ならない。一つのサイコロが観る角度で数字を変えるようなもので内省の消失という一つの構造(サイコロ)が現実の多様な側面に相対して具体的に現象したものに過ぎないということ。
だからネットVSテレビとか、右翼VS左翼とか、リベラルVS保守とか、こういう対立構造は表層的なもので、両者はともに同じ構造を持つ等根源的事象に過ぎない。ここの基礎的な構造認識ができてくると、日本社会の政治言説も何もかも、全てが馬鹿らしく意味がないことが分かるだろう。
また、欠如の喪失は必然的に自己愛を加速する。近年のインフルエンサーが自分大好き系ばかりで自己愛を垂れ流す理由もここにある。自己愛者をロールモデルに個々人が愛他的譲渡と自他未分による危ない社会化をなしているといってもよい。
もし子どもを自己愛性人格障害にしたくないならネットから子どもを切断すべきだろう。勉強に関係ないものはオフラインにして、文学や映画、漫画、ゲーム(ソシャゲは除く)に触れさせた方がよい。
数えられるものとしてのYouTube
YouTubeは数字が数字を再生産する仕組みになっている。視聴維持率とクリック率によって評価がなされ、その評価値の高いものが優先的に拡散される仕組みだ。
最近は仕様の変更でインフルエンサー優位(人気インフルの動画は手当たり次第に拡散する仕様)だったのがシステム優位(個人の閲覧履歴にある動画と同じカテゴリーのうち依存性の高いバカ動画を粘着して表示する仕様)となり、エコーチェンバー化がより強化されたという分析が出回っている。
ともあれ数字だけの世界がYouTubeだ。
YouTubeの価値観には数えられないものは存在しない。あらゆる価値は定量可能性にあって数えられる。
したがって価値の固有性は存在しない。単一の客観的価値基準だけが支配する。比較可能な標準化された単一の経済価値しかない。価値にはなんの多様性もない。
※このような外部のない単一の序列化を河合隼雄は一様序列と呼び警戒した
このような数字の外部を持たない価値観の構成もまた内省の消失を実現する。ここには数字に欠如がない。
数えられない物を提示しないとは数に外部がないということ。すべての価値はあますことなく経済的価値(一般的価値)に還元できるのだ。ここでは経済的価値は欠如なき無謬にある。
経済合理性に外部などないということ。売れたものだけが価値、数字だけが価値ということ。
※この構造が分かると現象学が客観を信憑の審級と見なすことの意義がよく分かる
したがってyoutubeの価値には、その価値に内省を促す、なんらの限界も欠如もないということ。
価値の外部について確認しよう。
たとえば、思い出の品を経済的価値に換算できるだろうか?
不可能だろう。大事な思い出の品をメルカリに出品してもその思い出は経済的価値=値札には換算されず経済領域からはみ出してしまう。このとき経済価値=合理主義に欠如が生まれる。
※この欠如の成立をフーコー権力論から記述すると死の個別化ということがいえる、ハイデガーの死の記述はこのレベルで読解する必要がある
ある夏の思い出とある冬の思い出はともに固有のoneであり数えられない。夏の思い出十個と秋の思い出8個を交換という風にはできない。思い出の価値はそれ自体固有かつ特殊で定量化して比較できるようなものではない。
このような思い出価値=主体的価値=個人的な価値を抹消したり、それすら完全に経済還元して主体的なものを余すことなく客体化=商品化する作用がYouTubeのディスクール構造であり、この構造をこの記事では欠如の埋め立てとか分離のなさとか内省の消失と呼んでいる。
だからYouTubeの数字に価値を絶対化し収益に動画投稿のインセンティブを還元し尽くすアルゴリズムこそが、人々に内省構造を持たない動画を創らせる根源的な原因になっている。YouTubeはこうしたことを熟知していて悪意をもって意図的にこのようなデザインをしているというのが僕の見立てだ。
もし子どもを思考停止したバカにしたくないなら子どもにだけはyoutubeを見せてはいけない。もちろん受験勉強のための動画など教育に有効な動画もあるから一概には言えないが、ようするにYouTubeづけにしたらダメだと言うことだ。
わけの分からない下等な危ない動画を子どもの脳にすり込むように作動するのがYouTubeだ。有意義な動画はあっても隠されてしまう傾向にあるだろう。
娯楽ならゲームや映画のがはるかにいい。
子どものIQの伸ばし方
僕は自分にとって誰が頭が良いかを自分で判断できるため、他人の価値基準である知能指数には何も価値を見出していないが日本人の親は文化人類学的には数字偏執狂のようだから、どうでもよい数字を伸ばす方法を教える。
まず知能指数や偏差値を絶対化しないことが大事だ。というのも賢さの評価を自分の頭で考えるのでなく数字に判断してもらうような人間は思考力が低く何一つ自分の頭で考えれない、数字という権威にたよることでしか自らを確からしめることができない白痴だからだ。このような日本のママ的な価値観に子どもを被爆させると脳がスポイルされ思考停止した低知能下等生物になるおそれがあるだろう。国際社会で日本人がバカにされやすい理由の一つも自分の頭で考える脳みそを欠落する傾向が高いためだろう。
※客観風数値が無意味とは言わない。しかし限度があるだろうということ。それでしか判断できない人が多すぎると思う
また、ネットで高知能指数の人を何人か観察したが僕にはただの低知能のアホにしか見えないということも珍しくない。僕の知能について疑問がある人は僕の知的産出物であるこのブログの記事で僕の知能について自由に判断してもらってかまわない。もし僕以上の知的成果物を生み出せないなら、僕のいうことを一つの参考にしてもそう悪くはないだろう。
さて、臨床心理学の論文によると、子どもが分離を実現することで、つまり内省=自己否定の自己肯定を獲得することで知能指数が非連続にドカッと上昇する事例が大量にあるのが分かる。ユング派心理療法を介して、心的誕生や心理学的誕生を曖昧にであれ達成した主体はそのことで突然、知能指数が跳ね上がる現象が大量に確認されている。
だからYouTubeばかり見せていると分離=内省構造が破壊され子どもの知能指数が数十は低下する可能性が考えられる。
子どもの脳をスポイルし、その人生を破壊したくないなら、くだらないYouTubeやインフルエンサーから子どもを守る必要があるだろう。YouTubeを完全に遮断しろというのではない。あまり見せるなということだ。育児をするならYouTuberもテレビスターも基本的に中身がなく大学のインテリ教授すらもごく一部を除くと白痴でこの社会にはまともなロールモデルなど存在しないことを知るべきと思う。
※訳の分からない権威を崇めると子どもにまでその思考停止が伝染し、子どもの脳に対する児童虐待となるおそれがあるのでやめようということ
余談だが、僕にとって某レジェンドな育ママの教育論は、学術的論理も根拠も一切なく教育公害としか言い様がない。
※YouTubeとテレビはこの手のヤバい奴を神化するバカ発生装置という側面をもつだろう
念のため自己批評性=内省と知能とメタ認知の関係について補足しておく。
しばしばメタ認知が高い人は知能が高いということが叫ばれる今日この頃。もちろん頭のよい理論なり知的成果物を産出する人だけが頭がいいのであり、バカなことしか言わない人はいくらテストのスコアが高くても表層的なメタ認知が高くてもバカであるとしか言い様がないが。
しかしなぜメタ認知と知能には相関があるのか。その理由は簡単だ。ヘーゲル精神現象学からも明らかだが、古代の人は客体と主体が未分化であった。このような主客一体の認識水準にあっては主体が主体を自己へと限定し自身を対象化する能力に乏しい。
いわば抽象的な理論を形成する力が弱い。
主体が主体自身を対象とすることがメタ認知であるが主体は対象ではなく対象化することである。そのため自己に認知された自己対象と認知する自己主体自身とは存在論的位相が異なり決して一致しない。この不一致がもたらす自己知への根源的欠如、これが理想の欠如としての現実を構成し現実原則という現実と空想(理想)を識別する機能を発展させる。
※ヘーゲルは物を概念の運動ととらえメタ認知構造の獲得によって発展するとした、たとえば子どもにはリンゴはただの食べ物だが、大人にはリンゴは植物学的な意味をもったりとその概念の内実が高度化するがこの概念の高度化が人間の自己認識レベル(メタ認知)の弁証法的な発展に対応するわけだ
かくして、現代においてはアニミズム的な霊的世界は主観(子どもの空想)であり、神話は比喩として解釈されるにいたる。これが近代の脱呪術化の流れだ。
高度な理論は主体が対象ではなく対象化することであり、対象化作用(対象のあるということ)と対象との分別をつけることで成り立つ。この認識が高度なメタ認知としての自己認識を実現するということ。そして高度なメタ認知には必ず欠如としての自己内省が必要ということ。
このとき対象と対象化すること(主体)とは差異をして同一させられ、そのことで私は私である、という自己同一を実現している。このようにメタ認知の構造をメタ認知することがヘーゲルのいう歴史の完成(人類の知性の最終到達点)の要諦であろう。
フーコーでもラカンでもユングでもヘーゲルでもハイデガーでも西田でも木村でも、このメタ認知の基礎構造の理解を前提にして、より高度な理論生産をなしている。
ここではメタ認知とは何かというメタメタ認知の記述をしているわけだが、このメタメタ認知をなすことがメタ認知機能の一つの達成だ。こうした心理学的ないしは哲学的思考を可能にする構造条件をこの記事では分離とか内省の引き受けと呼んでいる。
日本人がペーパーテストが得意でも欧米から知能が低いと見下されがちなのも、このメタ認知機能・内省機能が表層的なレベルで停滞し、低レベルな思考しかできないためだろう。
この程度は人文学の最低限の基礎になるので理解しておくと、色んな人文学書を読む上で、助けになる。またメタ構造の理解は数学でもプログラミングでも基本的なことなので、この程度の初歩的なところは子どもに理解させても損はない。
ともあれ、この程度が理解できて高校レベルの国語の現代文のテストで満点が取れないということは考えられない。もし子どもの頭をよくし成績を上げたいなら、この記事程度の内容はある程度は理解させてもよいだろう。
YouTubeの動画は倍速でも視聴できるくらい内容がカスカスで思考停止を誘発する。
読書経験のある人なら分かると思うが、スラスラ読める本をいくら読んでも知能は向上しない。脳に負荷をかけないと脳は怠けてバカになる。
筋トレと同じで脳の発達には適度な思考負荷が必要だということ。
考えさせるアニメとか文学とか映画とかゲームに触れさせて、それが子どものうちに根源的問いであり欠如を構成することに成功した場合、知能は本質的な意味で向上する。
終わりに
永遠の0を読んで思ったが、なんで誰も内省の不在と数字主義という観点からの批評を加えないのか謎。
あきらかに彼の文学はYouTube化する日本の宿痾を象徴するモニュメンタルなものだろう。僕の百田批評・youtube批評をトリッキーと感じる人もいるかもしれないが、それは間違いで非常にベーシックな変哲のない、分かる人には最初から明らかな批評しかしていない。なぜ誰もこうした学問の基礎レベルの批評をしないのか、イライラするほどだ。
現代の言論人は大衆をグッと見下して、幼稚なことしか言わない傾向がある。そういう大衆をバカにした態度が本当に大衆をバカにしてしまうことが理解されていない。
記事の難易度調整で割愛したが、内省の消失がLGBTQの問題と密接に関連している。もちろんポリコレもそう。
また、永遠の0の権力描写は抑圧者がいて上から抑圧してくるという北朝鮮のような権力モデルを想定している。
これが馬鹿げた描写なのはフーコーを参照するまでもないだろう。彼は権力の始発の点に国家とか具体的な権力者を権力の主語として前提し、主語が権力なる物を所有して民を抑圧すると考えている。
百田のファンが読むこともあるかもしれないから書いておくと、百田文学の構造はLGBTQ,,,の際限なきディスクールの増殖を加速するものであって彼がLGBTQを批判するのは滑稽でしかない。もう少しネット保守は自分の頭をつかった方がいいと思う。
またフーコーの権力論からいえば、彼が最近世界的に大炎上した女性性に対する爆弾発言は生物学的性(生殖機能)の社会化(人口問題、生産人口問題)を根拠に政治的性規範論(性教育、個人のリビドーのあるべき)を語るもので、
彼には、ディスポジティフ(組み込み装置)としてのセクシャアリテ(性、ジェンダー、生殖、性癖など他分野へ移行・結節する多様な性概念一般)の内部にあって生政治(数値化される統計的な生命の権力、レギュラシオン、欲求の言葉)とディシプリン(個人身体への規律訓練の権力、要求の言葉)を結ぶ、両者の差異の同一をなす機能として生物学的性(自己の真理、欠如、性機能+リビドー)が構成されているに過ぎないということが自覚されていない。
この国の為政者の知的レベルの低下は深刻であり、民主主義が何かも、性と権力と知とディスクールの構造がどうなっているかも知らない、ということさえ知らない、無知の知すらない恐ろしき無知の怪物が国家の舵取りをするという狂気の時代に突入している。そしてその無知に無頓着なまま性の問題にも自信満々できりこんでゆく。なんの冗談だろうか。
ところで最近、山本哲士のフーコー権力論入門を読んでいるがこれが面白い。
なぜ誰もフーコーを参照した現代社会論を語らないのか理解に苦しむ。フーコーは古くなることがない。
フーコーというとデリダとかのポエマーのお仲間でヘチマ系インテリに祭られてるゴミだろ、と思っている人も多いかもしれない。
実のところ僕も以前はフーコーをデリダと同じゆるふわ系ポエマーと思い込んでいた。しかしフーコーの権力論はひと味違う。単純に娯楽的読み物としても面白い。とにかく面白い。面白いということは鋭く根源的だということだ。
深層心理学が好きなら山本哲士のフーコー権力論入門はまちがいなく刺さる。
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