うたまるです。
最近、右よりの有名ビッグYouTuberが右と左について、興味深い考察をしていたので、その考察を分析することで保守とリベラルの不毛な論争の決着をつけたいと思います。
保守といえば、ほとんどの論者が核保有賛成、対するリベラルでは反対。
戦争についても保守派は必要論、リベラル派は不要論を展開する傾向があります。そこで両者の違いを今回は論理学の概念をつかって完全分析!
この記事ではこの対立を全称と特称、演繹と帰納、という論理概念を駆使して解き明かし、左右に建設的な議論を実現するための橋を架けようと思います。
※京都学派的な保守とネット右派は根本的にまったく異質、この記事ではネット右翼を扱う
注意点
この記事では某youtuberの左翼と右翼の議論がかみ合わない現象に関する脳科学的考察を取り上げ、その考察が当の考察対象たる左右の議論が齟齬を生じる現象と同じ論理構造にあることを示し、そのことによって右翼と左翼がじつは同じ論理的思考傾向を持つことを提示する。
某YouTuberというと長いので、このYouTuberを以下、イエスと呼称する。
イエス論をベースとするのは非常にその考察が、左右の対立現象を分析するうえで都合がよくうってつけだからだ。イエスがちょうど右よりの思想で、ネットの右よりの人たちの価値基準や思考傾向を非常によく代表していると思うからその意味でも、非常に都合が良い。
というわけでイエス批評っぽい側面が生じるが、狙いはイエス批評にはない。たんに都合がよいので引用するに過ぎない。だからイエスはネット右翼の象徴として扱うことになる。したがってネット系保守に対する批評であり内省という意味をこの記事は含む。
また、さらに解説を分かりやすくするため、この記事では便宜的にイエスの思考傾向をカリカチュアした架空の存在を前提に議論をすすめたい。
その架空の存在をイエス学派と呼ぶ。
イエス学派はイエスの考察に観られる客観論理主義、客体主義、現実主義の傾向を極限まで高めた架空のイエス原理主義の集団を示す。だからネット右翼の象徴となる。
この架空の存在、イエス学派の批評を介して左右の対立の本質的問題構造を解き明かす。
演繹と帰納、全称と特称
この記事は客観論理主義者=ネット右翼主流派を想定読者にするため、彼らが高い価値をおく演繹と帰納を軸に論を展開する。そのためここで演繹と帰納の簡単な説明をしておく。
※曰く客観論理が売りの右翼なら、演繹と帰納は大事だろう
帰納とは、当記事では本来の右翼が重視する思考態度に対応するが、これは個別の具体例をベースにその個別の例から共通性を取り出して、それを一般規則、一般法則とする論理形式をいう。
たとえば具体的な個別の現実のロン毛の人を100人集めて彼らの共通点として背が高いという一般法則を取り出すことを帰納的という。
個別⇒一般、という論理思考のこと。
演繹とは、一般規則がまずあって、その規則を個別の具体的事例にあてはめることをいう。とりわけ三段論法のことを示すことが多い。
一般⇒個別
たとえば
大前提(一般規則、一般法則):ロン毛の人は背が高い。
中前提:山田くんはロン毛だ。
結論:山田くんは背が高い。
これを三段論法という。
この記事では左翼の思考態度を演繹に対応させる。
特称について
特称とは現実に具体的に存在しているか否かを問える対象をいう。特称の戦争であれば、ウクライナ戦争など現実に存在する特定の個別具体的な戦争を示す。
全称について
全称とは個別具体的な現実の対象ではなく存在の有無を問えない普遍的な概念などに相当する。いわば集合レベルの概念。
全称の戦争であればそれは現実に存在する具体的戦争ではなく、抽象概念でありイメージ・イデアとしての戦争のこと。
イエス理論と本体論の罠
イエスによると、右はシステム化脳で左は共感脳だという。この脳分類は脳科学的な先天的器質論だという。
イエス理論によれば、右が戦争や核の必要性を説くのは徹底したリアリズムの帰結であり論理的な判断を優先してのことだという。
※イエス理論では命題論理と弁証法論理、その他諸々の論理の区別は想定されず、論理=論理学的論理のみとなる、これが普通の人の認識だと思う
したがって右は感情的理想論や主観的経験論にはくみせず、エビデンスベースドの客体(現実)=客観主義の論理による判断をなす論理的知性(体系化能力)に優れたシステム化脳にあるという。
対するリベラルは、みんなが言っているからとかの権威に弱く、なんとなくの空気や世間への共感、感情を優先するため論理的思考力が低く、現実よりも権威的・空気的な理想にとびつくので、理想主義から反戦、反核に至るという。
論文をよく読む人のなかには、これはけしからん考察だ!と思うかたもいるとは思うが、ようするにイエスはネチズンのつぼをおさえたポジショントークを意識しつつ、ありていに意見を述べているのだと思う。身体医学・古典自然科学領域と社会科学・本質領域の区別がごっちゃなのはビッグYouTuberとしてまずい気もしなくもないが、YouTuberの中では比較的良心的だろう。
これが、普通のネチズンの感覚であることをインテリ左翼も知るべきだろう。またイエスの意見はある意味、物語としての一つの真理はついていると思うので採用した。
というよりこの意見は僕にとっては教材としてもっとも優れている。
あとイエス理論は、全体の傾向としてはある程度はあたってる可能性もあるかもと思う。もっとも標準偏差がでかすぎて相関係数が小さい、または異なるパラメータを入れ込むと分布がより多彩なことが浮き彫りとなり、左右ー共感システムの区分けが大雑把すぎて無効なことが発覚するとは思うが。
またシステム化脳と共感脳の分類そのものも無理がある。論理的思考やパターン化・体系化の能力を一様序列で論じるのは不可能だ。
※たとえば超高IQ系アスペルガーは論理学的論理の体系化には優れるがメタ論理レベルの体系化をする能力は低い傾向がある、そのため本質領域では最高レベルの論理生産はすることができにくい傾向にあるだろう。システム化脳といってもメタ論理の客観論理に対する上位互換性を入れ込まないとまったく現実を説明できない。また共感力の一義的な序列化など到底不可能でナンセンスだ、俗流脳科学の典型に思う
次に当該動画にてこの理論に関連してイエスが紹介した話も要約しておく。
彼は血液型占いを信じている人は共感脳だ(傾向がある)!という。そして血液型占いをエビデンスのないつくり話で嘘だ!と考え、これを相手にしない(傾向がある)のがシステム化脳だという。
さて、問題は血液型占いに対して、その真偽を重視する価値づけでありパースペクティブにある。
ここにはもちろんイエスの主観的価値観、感情があるわけだが、このときイエスが無自覚に前提するのは、性格に客体としての本体を措定すること。
枢要なのは、この本体措定の帰結として、血液型占い類型の記述がその本体と一致しうるか(どの程度当たるのか、真偽判断)ということだけが重要だという信念の形成がなされる点。
イエスの本体論的な前提の誤謬は自明であり、論理的にそのことを証明できる。なので実際に性格=意味の本体論が無効であることを示そう。
性格に本体=客体はないとは、性格が自己解釈としてしかありえないということ。あなたはどのような性格ですか?という問いについて解釈なしの客観的答えは原理的に不可能だ。
と言うと、頭の弱い実証主義者は行動主義的な記述をすればいい!と発狂するが、それも無効だ。
※そもそも行動主義とは性格や心がそれ自体主観であって客体ではないために、これを客観科学的に記述するため客観的に記述可能な行動だけをあつかって行動から性格について言及する性質をもつ。したがってその言論の有効性はどこまでも不明瞭で有効射程が限定的なことが前提、しかし近年の行動主義学者は知能の低さから、行動=性格が操作的恣意的であることを無視して絶対真理化する傾向にある。事実、科学的リテラシーのない大衆ほど行動主義論文を鵜呑みにする、非常に単純なので俗耳に入りやすい
行動の意味を決定するためにはコンテキストの特定が避けられないが、ゲーデルの不完全性定理によって、そのコンテキストを一義的に規定することが不可能なのは数学的に証明されている。
※コンテキストなしの行為は意味が特定できないとは、たとえば、ある人がある人を殴るという行動の意味はその前に殴られていたとか、そのとき暴言を吐かれたといった状況や文脈に相関してしか特定できないということ
行動と意味(性格)は絶対的に違う、もし行動と意味(性格)を=で結ぶなら、その客観的根拠を提示すべきだ。しかしそれができないことは論証されている。客観的に観測可能な行動はコンテキストを抜かれているので、性格=意味の多義性の問題を克服しえない。
具体例を出そう。僕の解釈によると、かつてエビデンスベースドを信条とするコンテキストスルーのイエス学派の中心概念には、努力遺伝子なる人間の価値の全てを決定する究極の天才因子が存在するとされた。
※最新のイエスでは努力遺伝子は究極因子イエスXではなく普通の行動遺伝子に格下げされその神話性を去勢されたようである
イエス学派の聖典、行動主義系遺伝子研究の論文によると、子どもに楽器の演奏を義務づけ、子どもが、その義務づけられた演奏行為を継続することが努力の定義とされる。
このとき、一卵性双生児でかつ教育環境の異なるサンプルに演奏義務を与え、演奏行為の継続性を観測しそれを統計処理する。
すると家庭環境の違いに関わらず、一卵性双子では演奏行為の継続性につよい相関があると分かった。
この結果から努力は遺伝で努力遺伝子があることが証明された!という。
中学生がするような低レベルな指摘をせざる得ない。
いうまでもないが、この実験ではインセンティブが無視されている。つぎに演奏行為に対する脳のドーパミンなどの報酬系の反応についても無視されている。
以上の二点から帰結する当該研究の瑕疵の最初の一つは、この実験が楽器演奏に対して快楽を感じやすい人と感じにくい人がいた場合、演奏行為の継続性が努力遺伝子ではなく、なにに快楽を感じるかという快楽傾向遺伝子によって決定している可能性を無視する点にある。つまりそれが努力遺伝子によるという根拠がなにもない。エビデンスに対して結論が飛躍してる。
たとえば演奏行為でなくサッカーであればどうだろう。演奏は続けられなかった子どもがサッカーなら継続する、というのは当たり前にある話だ。これでは努力遺伝子は反証され、快楽傾向遺伝子だ!となるだろう。
※単一の因子設定をすることがまずアホ
つぎにここが核心なのだが、現実にはインセンティブによって努力をするかいなかが決定する。たとえば自分のためには努力できない人でも人のためには努力する人がいる。だからどのようなインセンティブに価値をおくかということが演奏行為の継続性を決定づけている。動機なしの努力など現実には存在しないから、この事実は疑えない。
この場合、努力遺伝子ではなくインセンティブ(動機)傾向遺伝子によって行為の継続性が決定していることになる。というよりインセンティブの影響を考慮しないのは無効だ。
※動機(主観)は行動記述が非常に困難なため行動主義では、この世界に動機が存在しないという妄想が前提される傾向があるだろう、少なくとも努力遺伝子研究は動機が存在しない前提でないと結論が成立しない
そもそも義務としてあたえた行為の継続性が努力なんであれば、先輩に誘われてイヤイヤやったパチンコにはまってジャンキーになる人は努力遺伝子の結果なのか?
ナンセンス過ぎるだろう。この実験を無意味とは思わない、ただしエビデンスと結論との裂け目に非論理的妄想が展開されており、科学論文=客観論理的文章として成立していない。
だから行為からコンテキストを抜き取って、それをコンテキストベースでしか存在しない意味対象(努力)に短絡・同定するのは誤謬。つまり努力に本体はない。
※これだけボロかすに叩くには理論的根拠がある、この本体論パラダイムはそれ自体で全体主義化を招聘する構造を内在する。脳みそついてる有識者は徹底的にこれを潰す言説をはった方がいい
努力という主観的意味と客観的行動をごっちゃに同定する論理の混乱がある。研究者の認知機能に障害が懸念される。
コンテキスト抜きの行動は意味を構成しないし(意味の多義性にぶちあたる)、性格・社会の原因論は原理的に意味領域(解釈)を超えることができない。
念のためさらに限界までレベルを下げた補足をする。もし行動=意味をこのバカ実験に匹敵する水準でやっていいなら以下のようなバカ実験も有効だろう。
架空バカ実験:よのなかにはカリスマ・天才がいる。そこでフォロワー5000人以上(カリスマ)の人物を対象に一卵性双生児で家庭環境の違うサンプルを集めた。
架空バカ結論:すると家庭環境が違ってもカリスマになる傾向が統計的に実証された。よってカリスマ遺伝子が存在すると分かった。カリスマは遺伝する。
これは人間に古来より神聖と呼ばれる選民がいたこと、たとえばイエスキリスト、王、現人神の存在がカリスマ遺伝子=神遺伝子によることを実証している!そして私はフォロワー数十万人、私は選ばれた、私には神の因子、神遺伝子が刻印されている!
※この例を馬鹿馬鹿しいと思うなら本質がまったく見えていない。行動と意味を短絡することが全体主義の構造条件になっていてこれは論証できる。実証レベルでいうとヒトラーはまさにゲルマン民族の神聖(主観・意味)を統計とエセ科学によって遺伝子(客体)に見出した。
もし努力遺伝子の論文が有効ならこれも有効になるだろう。
これは科学ではない。カリスマ遺伝子も努力遺伝子も電波系の妄想としかいいようがない。
だからコンテキスト不在の行動やらフォロワー数値を、努力とかカリスマとかのコンテキストレベルの概念に乱暴に接続すると意味不明になる。
努力遺伝子とか知能遺伝子は、いっけんそれっぽいだけで理論的にはぐちゃぐちゃ。もちろん知能が遺伝するのは事実ではある。ただこれが何%かとかそういうことは一義的に言及できる条件を持っていない。知能に対する因子がべつの行動遺伝子と複雑に絡みつき、さらに環境因子がそれに複雑に連動している。だから複雑過ぎて因果構造を客体的に取り出せる可能性がない。理系的にいえば複雑系の領域になる。そのため心理学的にも複雑系的にも、行動遺伝子の統計研究結果にはほとんど価値はない。
まして努力など知能よりもさらにずっと客体化可能性がない。まず努力の示す範疇が広すぎる(勉強の継続とスポーツの継続はまったく違うし、動機がないと中毒と努力の区別さえなくなる)し、努力の因子が多すぎて、漠然と遺伝する、とさえいうことは不可能だ。まともな科学的リテラシーや統計の知識があれば、いうまでもなかろう。
※ただしデザイナーベビーなどの実用において、知能を筆頭に多くの性格の行動遺伝子の研究が有効に機能しないということではない、というよりそれが機能するような限定が社会と認識において生成されるということを含め、総合的に一定の実用性を実現するだろう、しかし努力遺伝子に関してはこのレベルでさえ無理があると思う
行動主義の過度に単純化されたロジックは俗耳に入りやすい。だから俗人を熱狂させやすい。
というわけで血液型占いの真偽や客観的信憑だけが問題意識として主題化し価値づけされるのは、性格に本体を想定し、本体を言い当てているかの真偽判断をするため。
しかし、性格に本体はない(コンテキストなしの性格はない)わけだから、高い認識水準で論理的な人であれば、血液型占いにおける価値の中心点は真偽判断ではなく、それを語ることの効果であり、占いの記述を信じたり信じなかったり、それをつど語ることとの弁証法的な関連に重心移動する。
そもそも客体論理主義者は客体論理に対して距離をとれない(論理自身を客観化できてない)。だから共感脳的な感情的権威主義思考が、システム化脳者の定義に潜在している。
※共感脳の汚点がシステム化脳の当の思考スタイルそれ自体に潜在し肥大する構造をこの記事では論証してゆくことになる
おそらく思考傾向の行動統計と脳生理学や生物学、解剖学のあわせわざで共感脳とかシステム化脳が主張されているのだろうが、この場合、類型の定義は無効だ。無効というのは定義(特徴)の記述は真理(本体)記述になりえず、弁証法記述しか不可能だということ。
※~な人はシステム化脳、というときの~の部分を客観的に記述できる条件がないということ、~の部分は本体でなく時代コンテキストなどのコンテキストベースド。時代精神や社会制度の影響が強く時代によっても変ってしまう
この意味が分からない人は古典自然科学の基礎を思い出そう。リンゴの落下を観測して記述しても、リンゴの落下には影響しない、このように対象と対象を観測・記述することとが因果的に切断されていることが客観的記述の条件。
それゆえ性格の類型学はこの古典自然科学の原則に反しており客観記述の可能性を持っていないということ。
さて、重要なのは、共感脳・システム化脳という生物学的・生理学的な脳類型が前提する論理体系(主客二元論)が、脳類型自身を語ることの効果(人に語らせることの効果)を無視する論理構造にあること。より厳密にはその類型論理が自身を語る(語らせる)意(価値づけ)を内在していて、しかもその構造に内在する力動(意)が回帰しつつ隠蔽されるのだが、このことがもたらす効果と論理構造自身の変質が左右の対立の根源的問題を構成する点がこの記事の肝となる。
つまり性格を本体(客体)と設定するとそれに対する解釈(観測記述、物差し)と本体とが切断されてしまい、解釈は本体に影響しない、と前提される。そもそも観測行為が本体に影響すると考えると性格を本体ではなく、コンテキストベースの解釈領域(主観相関的)だと認めることになるから、本体論を採用すると物差しで計る対象(性格)への物差し自身の影響を問えなくなり、解釈⇒性格の作用ベクトルが抑圧される、という論理的に当たり前の指摘をしている。
ともあれ人間はシステム化脳・現実主義と共感脳・理想主義に分かれ、両者はスペクトラムにある、という類型学は非常に俗耳に入りやすい。
だいたい共感能力とシステム化能力が相克するという前提からして一概に言うのは不可能だ。信念補強的エビデンスをかき集めて、ズレた結論に飛躍させているのでは、と邪推したくもなるが、脳類型の論文を読んでいないからツッコミはやめておこう。
※憶測でこの類型の穴をツッコミ出すと記事が終らない
ひとつだけつっこむと共感でひとくくりに論じるのはメチャクチャだ。共感能力の多寡を一義的(一様序列的、量的)に規定できるという妄想を前提にするのは頭がおかしい。
するとこの類型に納得できたり、何か効果を感じている人はプラシーボ効果であろう。
この理論を信じて、たしかにその通りだ!と感じて、この類型にしたがってハウツーを組み立てて生きやすくなったみたいなことなら、そりゃメカニズムのレベルではプラシーボ効果だろう。
※脳・性格の類型学はそれ自体が価値や意味(パースペクティブ、コンテキスト)を不可避に内在するので、その意味で物語に過ぎない。それは深層心理学でも行動主義でも脳科学でも性格・意味に関する限りは変らない。ただし深層心理学はこのことを自覚する。いわば神話(解釈)であることが自覚された神話であり、この自覚がエセ科学でなく深層心理学としての学であることの根拠となる。だからもし論理の社会的適用が一つの解釈だという自覚もなく脳類型を信仰するなら、エセ科学であり宗教と変らない。それゆえプラシーボ効果に等しいといっている。エビデンスに基づく仮説だ!との反論があろうが、認識が対象に回帰する構造にあるので、エビデンスに基づくかいなかは本質的に何の関係もない、だいたい深層心理学にもエビデンスはある。ともかく脳類型論は客観記述の可能性を原理的にもっていない
つまり人間精神への解像度の高い人にとってこの脳類型が提供する人間解釈の物差しは、あまり現実に当てはまらないと思う。というか当て嵌め可能性をもっていない。つまり解像度がゆるく人間精神の認識が大雑把で心についてのシステム化程度の単純な人にとってしかこの類型学を中心的物差しにして有効に機能させることはできないだろうということ。
※何も知識が無い人にはピグマリオン効果とかバーナム効果とかコンコルド効果とかハロー効果とかが凄く人間心理の現実を説明するように思えるけどシステム化の水準をあげて体系を高度化してゆくとこれらがまったくその把握には訳に立たないことくらいなら誰でも分かるだろう。どのような物差しが実用的かはその物差しを使う人物の認識水準・システム化程度でまったく変わる
念のため補足するとイエス学派の本体論は、前世紀末における論理学者や数学者、哲学者を巻き込んだ言語論争で無効性が論証されている。ラッセルやヴィトゲンシュタインといった歴史に残るずば抜けた高知能の数学者、論理学者、哲学者が何十人も大論争し(少なくとも本体の特定可能性がないことだけは)決着した話だ。21世紀に知能が落ちる目立ちたがりの行動主義研究者が終った話を蒸し返してきて、その俗耳に入りやすい短絡的で単純なロジックに大衆が籠絡されているに過ぎない。
ここが分かると、あとは右と左の問題も連鎖的に全て解ける、そのことをこの記事で確認してゆこう。
核と戦争:全称と特称
本題に入ろう。
左翼はいう。反核!反戦!
右翼はいう。核は秩序維持に必要!戦争も戦力も安全保障や防衛の要!
かくして両者は永遠の平行線をたどり、互いに一切、折衝したりはしない。まったく不毛に罵倒するだけだ。
なぜこのような現象が起こるのか、イエス学派はいう。
※イエス学派とはイエスではなく、その客体イズムな思想を共有しドグマ化する架空の原理主義者団体のこと
左翼は論理的頭が弱い!だから俺たち右翼のクレバーなリアリズムを理解しない。きゃつらは蒙昧な理想主義者のピースヘッド、平和脳をこじらせた猿である!
※現実のイエスはこんなことは言わない
どうだろう。この程度の解釈にとどまる右はそんなに論理的だろうか?
問題の本質を洞察してゆこう。
まず左翼のいう核・戦争と右翼のいう核・戦争は異なる対象を示す。だから彼らは喩えるならプリンはいならい!なんだと!ゼリーは必要だ!ゼリーが不要など認めるか!ふざけるな!ノーモアプリン!プリンはいらない!とまったく意味不明な言い合いをしている論理的思考力0の人たちなのだ。
これで右翼をシステマで論理的というのは僕にはお笑いなのだが。右も左も、たんに非論理的で頭のおかしいフーリガンではなかろうか。
※右左で分けるのも古くて上下で分かれるとか色んな議論があるが、あくまでこの記事はイエス学派の神話的コスモロジーを前提に考察を展開する
話は簡単。
左翼のいう核・戦争は政治情勢コンテキストをもつ特定の個別の現実的戦争を示していない。彼らのいう核・戦争はコンテキストぬきのイデアのごとき戦争。宙ぶらりんのイメージとしての戦争であり核のこと。だから左翼はコンテキストスルー(ノーモアコンテキスト)。全称の戦争・核。
対する右翼のいう核・戦争とは、政治情勢コンテキストをもつ現実の具体的な個別の戦争、ないしは、そういった個別の現実の戦争の束から帰納法的に取り出された傾向と意味を措定された現実コンテキストを持つ戦争のことをいう。
つまり現実の戦争が右翼のいう戦争。本来の右翼はコンテキストベースド。特称の戦争・核。
※ノーモアコンテキストを地で行くイエス学派が右翼というところに問題の核心があるがそれは後述する
そりゃコンテキスト抜きの戦争と時代情勢コンテキストを前提する現実の戦争とでは判断の審級が違うわけだから、合意なんてあるわけがないだろ。意見が対立してるというより、論理的知性を欠くため審級が混乱してるのに気づいてないだけ。
ようするに右翼の戦争は存在命題に対応する。精神分析で言う現実原則に属する。といってここから理想の排斥が生じると現実的とはいえない。ただし現実主義とはいえる。これについては現実と主観がどのように分離知覚されるようになるかが分かるとよく理解できる。現実主義と現実的とはまったく意味が違う。
ここをごっちゃにするから、ウヨもパヨもどっこいの非論理的白痴に留まるのだろう。
右翼の非論理と左翼の論理
左翼の間違いはわかりやすい。彼らはコンテキスト抜きの戦争や核が不要であるべきという、右翼も同意するより他ない論理判断を、現実の個別の戦争の必要性判断に対して演繹的に押しつけることで論理破綻を生じている。つまり左翼は現実に理想がないことがひきうけられていない。
※左翼は現実と理想、特称と全称を混乱する
だから反戦や反核を非論理的とか共感脳というのはまったく論理的ではない。すくなくとも右翼と対立する理由として、反核・反戦の思想をそのように記述する合理性は一切ない。
厳密には現実のコンテキストベースドな不要・必要の判断審級(現実原則)を無視して、理想の審級を個別の現実事例の判断に一方的に押しつける理想⇒現実個別という演繹(三段論法)判断が有する審級の混同が非論理的なんであって、理想として反核や反戦を掲げたり思ったり、重視することを非論理的とはいえない。
つまり平和の歌とか歌ったり反戦反核を問いかける人を非論理的などというのは論理的に間違っているということ。
そうではなく、現実の個別の戦争や核の必要性の判断について、その個別のコンテキストを無視して、理想の審級で現実戦争の不要論をとくのが非合理的ということ。
対する右翼の非論理性も分かりやすい。
右翼は理想論をバカにして唾棄する態度をとり、核が平和に必要だというコンテキストベースドの判断からコンテキストを抜き取ってドグマ化する白痴が多い。
※こうなると右翼もコンテキストスルー化する
右翼は自らの核の必要の命題が現実のコンテキストを条件とすることを忘れるために、左翼のコンテキストなき核不要の判断と競合するカオスを創り出す。
彼らは自らの核や戦争の必要の前提条件となるコンテキストを決して問わない。現実を観ろよとはいうが、核の必要を迫る現実がどのような現実構造と条件においてあるかを決して問わない。そのような視点を持ち得ない。もちろんこれは現実への過剰な肯定の欲望のため。
理想を唾棄する客体主義の態度は最初にあったはずの現実コンテキストをいつのまにか形骸化し自壊してしまう。
それは、結論の前提となる現実状況の具体的条件を問わなくなるということ。
※古典自然科学領域では客観論理は自らを対象化、俯瞰する必要は無いが社会領域はメタレベル(意味レベル)にあるから客観論理それ自体を客観視しないとメチャクチャになる
つまり、一位じゃなきゃダメなんですか?という伝説の発言と右翼の発言は同じ。
もし理想がいらないという場合、戦争=普遍暴力の縮減へと向けた意志はいらないことになる。
正気だろうか。
このようにいうと現実的な中間目標やメルクマールの設定が必要なんであって現実に基づかない理想を抱くのは非合理だ!という批判がありうるだろう。
しかしそれは根本的に間違いだ。
理想なしの現実目標なんてものは想定しえない。
分かりやすくいえば、願望や夢、純粋な欲望はそれ自身としては現実的判断をもっていない。
人はその具体性の程度に関わらずなんらかの理想や純粋な欲望(意)をもっていて、その理想であり欲望を実現しようと思うときに、その理想であり願望を現実に即した中間目標として加工する。
夢を抱いたことのない人間なんてのはほとんど考えられないだろう。
※厳密には純粋な理想は現実にくじかれることを経て理想と呼ばれうる
この説明ではまだ仮説的だろうか。
核心に迫ろう。
左翼の理想こそが、現実にその実現を目指し、社会をよりよくへと導く右翼の現実的判断を支えている。
逆にいえば、理想を完全に放棄した場合、現状が肯定され、それゆえ普遍暴力を縮減する意志は生成されず、また現実判断が依拠するコンテキストの条件構造についても内省されることがない。したがって最終的には現実目標自体が歪み、そればかりか全体主義に突入し民主主義崩壊を不可避に生じる。
※理想は客体主義の内省条件を構成する、もし現実がベストなら誰もその現実を振り返らないということ
実現可能なものだけを価値づける構造が客体論理主義の論理構造に内在し、この構造が現実主義を妄想化するようにできているということ。
つまり理想そのものの放棄・無価値化は現実からその不平不満を抹消するに等しい。このことは現実の絶対的肯定(絶対満足)という欲望に帰結する。というのも現実に欠如するもの(不満足)が理想とされるものの正体だからだ。
これは仮説ではない。現象学的に誰にでも確かめ可能である。たとえば核なき世界や戦争なき世界が現実に実現したなら、それは理想とは呼ばれえない。
僕たちがこの社会に抱く理想はまずほとんど例外なく、その個人が社会のうちに生きて感じてきた理不尽、不平、矛盾、不正義、といった現実社会の欠陥をベースに構成されている。被差別民があれば、差別なき社会を理想とするだろうということ。
また社会に主体的に参与する(民主の)ためには何らかの社会の欠如・欠陥への不満を抱くことなしには実際的にも原理的にも不可能だろうということ。
素朴にいって、世界のよりよくを考えるために、この現実世界を根源的レベルで内省するためには、現状では実現しようのない何かが意識・欲望されねば不可能なのは自明だろう。
だから理想の放棄・無価値化はすっぱい葡萄というか、すくなくとも嫉妬関係の制御がきかず決闘関係が支配化するときにこそ生じるということは相当程度論証できる。
※細かい説明は割愛するが一様序列化する社会価値の無欠化は、全ての人が単一の序列関係を強制されるので横の関係がなく嫉妬競合関係を人々に強制する、たとえば弁護士がサッカー選手に嫉妬するみたいな本来はあまりない現象が日本人に多いのも内省の不在から生じる
理想を抱くとは現実に欠如をもたらすこと。その欠如を否定的に肯定しようというあくなき現実への生の意志(現実を理想に近づけるクレバーな意志)を構成すること。
また欠如=不満足とは現実と空想(理想)を識別し現実を冷静に判断する機能(現実吟味)を成立させるもの。
※欠如と現実吟味の関連性の論理は他の記事で解説しているので割愛する
反戦や反核が人を熱狂させるのは、現実が普遍暴力に溢れているからだ。だから理想を抱くことは現実が不足であること、社会に理不尽や問題があるという認識を可能とする根拠である。
それゆえ左翼が反戦と反核を主張するときにはいつでも僕たちは、現実が理想を欠いた不完全にあることを思い知らされる。そしてそのことを介して自己と現実社会についての内省が促される。本当にこれでよいのか?と。
またはいかなる構造や条件がこのような理不尽がなくせないことの前提になっているのか?と、ここにきて現実コンテキストベースの一般規則は、自らの依拠する現実コンテキストを内省する(思い出す)に至る。
このような左翼の語らいの効果と客観論理の運動の連動がまったく見落とされることでフーリガン政治がおっぱじまり、やつらは共感脳で頭が悪い!というそれ自体あまり賢いとは言いがたい解釈がドグマ化してゆく。
かくして左右はともに現実に対する欠如を喪い、妄想化する。
もし社会現実には問題は何も無いというのなら、人は社会制度の奴隷であり全体主義を招聘することになる。理想を全否定したり現実を全否定する左右のディスクールは原理的にナチスや戦中の全体主義に向かう欲望を構造的に内在しているということ。
ひとたび理想の排斥を徹底したとき、そのような排斥の語らいがどのような状態へと収束するか、つまりその現実主義=妄想化=客体論理主義の構造が何を目指し(価値付けし)、それを人に語らせるのかが問題である。と同時に、現実主義の理論は本体論的性格上、自身が語られること(それを語ること、意)の効果を隠蔽(無内省)するようにできている。
結論をいえば、現実主義の語りは明確にあらゆる現実社会の欠如を埋め立てる欲望に支えられている。初発の動機がもし違ったとて、語ることの効果が死の欲動(欠如の埋め立て)を惹起する構造になっていることはうたがいえない。さらに初発の動機からして死が渇望されている。
普遍暴力はなくせない、すでに現状社会は問題がない、理想論はバカだ、というイエス学派のディスクールはそれ自体、非現実思考だといわざるえない。
現実主義では本体への過剰な価値付け(欲望)が作動し、そのことで一般法則(戦争は必要)の反証可能を担保する帰納方向の論理ベクトル(個別⇒一般)が自己消去されるということ。この作動が帰納的ベクトルの論理構造の核となる欠如=理想の排斥として生じるということ。
この客観論理主義構造の動的自壊が現実においては右翼現実主義と左翼理想主義の致命的断絶として現象している。
またこの現象に付随する現象それ自体として、イエス学派的な理想排斥ベクトルを持つ、主客断絶系客観論理主義が生じている。ようするにイエス学派の考察は考察対象それ自体の表れということ。
簡単な話でウヨとサヨは現実主義と理想主義の断絶として争ってるわけだけど、イエス学派はこの断絶問題について、それをさらに断絶化してゆく物差しを押しつけている。だからそもそもイエス学派の学説それ自体が問題(断絶)を再生産する問題自身となる。このように客体=本体ではない対象を客体化すると逆接的に対象と距離がとれなくなり客観性が自壊する。
右翼の語らいでは本体論の帰結として、帰納的に取り出された一般規則である戦争・核は必要だ!という命題から現実のというコンテキストが実質的に消去(忘却)され、結果、一般規則が演繹化を蒙ってゆくベクトルが強力に作動するわけだ。
客観論理自身の内省なしには、自らの命題のよってたつ前提条件=コンテキストは自覚されえない。
補足
まず現実主義はコンテキストベースドの個別の戦争や核から、帰納法的に一般法則を措定する。
つまり現実主義とは、現実の個別⇒一般規則という帰納的推論方向をもつ。つねに個別の現実の束が一般に原因するため、現実主義。
左翼の理想主義は、コンテキストを消去した普遍法則(理想)として戦争と核の不要をとく。そしてこの普遍法則、一般規則をなす判断を三段論法によって個別のコンテキストベースドな現実の戦争の必要判断におしつける。
つまり
一般規則:戦争は不要である!をたて、個別の現実の紛争や安全保障について~の紛争は戦争である!をたて、そこから戦争は不要であるから~の紛争は不要である。と結論する三段論法がなされるわけだ。
一般⇒個別がベースとなり、現実の具体的個別(特称)の判断に対して理想の一般法則(全称)がつねに先行させられるために理想主義。
さて、すでに現象学をつかって確認してきたように、ここで問題となるのは理想は現実と相克すること(その欠如として立ちはだかること)において、現実の内省を支え、現実を構成するものだという事実。
※コンテキストが消えたり、一つしかなくなったりすると必ず真理主義化して空想と現実の混乱が生じる、現実主義は現実的ではない、厳密には現実主義は自身を語らせることで現実を妄想化する効果をもつ、構造とはそれ自体として動的(回帰的)だということ、意のない構造はないとも言え、それは構造とは客体ではないということでもある
※古い構造主義はソシュールが典型だが構造を客体と見なす、そのため構造の意による回帰的運動が見逃されやすい、当ブログの構造論は全て構造を動態と見なし意を中心に洞察している
この理想と現実との弁証法的本質関係が見逃され、主観と客観の二項対立=理想と現実の二項対立をベースとする現実主義=客体論理主義が支配的になるとなにが起こるだろうか。
左翼と右翼の議論が不可能になる。
理想を無価値として消去する右翼にとって左翼は抹消対象でしかなく、理想の絶対化を叫ぶ左翼にとって右翼は駆除の対象でしかないからだ。
そして、現実主義の論理が全体主義(本体至上主義)を欲望する(本体を価値付ける)構造にあるように、理想の絶対化もまた、理想の法による完全な隷属を強いる社会を構成する意志をもつ。
※全体主義が本体主義なのは本体主義が現実の欠如・欠陥を排除するため
※帰納的一般規則からコンテキストが消えると現実認識から反証可能性が消去されるという理論的に当たり前のことが現実主義と理想主義との関係においてどのように作動するかというメカニズムをこの記事はずっと説明している
かくて左右は同じものに過ぎない。だからもう意味の無い対立は終わりにしよう。
分かるまで考えつづければ誰にでも分かる理屈だろう。
つまるところ、左翼と議論するときは、右翼は、私はあなたの反戦と反核に100%賛同している。だから同志といってよい。しかしだからこそ、現実のこの情勢にあってはこの事例に限れば核武装は必要なのだと考える。この判断は核なき世界を現実にもたらすためにこそある。現実を理想に近づけるためにこそ、私は核の必要をともに論じたい。といえばいい。
会話にならないとかいう判断は、相手が何をみてなぜそう思い何を欲望しそれがどのような論理的構造においてあるか、また右翼自身とどのような相即においてそれが意志されるか、その全てを可能な限りで掌握してからにすべきだろう。目の前の木しか見えない部分的推論、統計の粗暴な演繹的適用には価値はない。
ここまでが分かると話がはやい。
イエス理論では血液型占いはその真偽だけが問題であり価値とされ、客体主義=現実主義によって性格の本体論を措定するのであった。
このような本体論では主観から独立存在させられた客観が妄想され、そのような客観・本体こそが絶対の価値だと欲望される。
この構造に観られる、客観の客体化(客観を主観と無関係にそれ自体として独立して存在させること)と客観のみに価値を偏在させる力動が問題なのだ。
現実主義におけるこの真理教的な価値づけが理想=欠如の価値下げ(排除)を行い、内省構造を自壊することで帰納的現実判断は反転し演繹的妄想主義へと変質する。
※かくて異常と正常とは反転し正常なる狂気が瀰漫、世界は退廃する
※客観主義自身が意(解釈の物差し=主観)でありコンテキスト(意)を持つと自覚しないと客観主義の論理構造の回帰的動態性を把握することができなくなると言ってる
この理想と現実の断絶、主観と客観の断絶が現実社会における欠如を埋め立てるため、理想の排除を惹起する。右翼本体主義の欲望が左翼を排除する論理を再生産し続ける。
だから血液型占いに対するイエスのパースペクティブ(本体論)そのものが、当の右と左の議論が平行線となる理由であり、この構造とまったく相同的な構造(演繹判断主義)を左翼がもっているということ。ただ左翼の場合、力点が理想の側に反転しているだけ。
※左右はそもそも独立に意志したり思考しているのではない、そのように考えることはできない。このくらい小学生でも分かるだろう。全体のシステムを考えない限り意味が無い
イエス学派は左右の議論がうまくいかない(二項対立する)こと、という問題の原因を当の二項対立構造をつかって引き出してるわけだから、もう明らかだけど、彼の問題に対する答えが当の問題を構成する原因なんだよってこと。
統計とイエス学派
イエス学派(現実主義の妄想化)の構造を統計の生成と活用の側面から論述してみよう。
さて、知能の統計を例に考える。
たとえば行動心理学で、知能の高い人のサンプルを大量に集めて、その行動特徴を統計処理し、努力する人は知能が高い!という一般規則を帰納的に取り出したとする。
この統計規則は個別のサンプルから抽出されるので帰納的だ。ここで問題はこの規則を活用し個人の知能を判断する場合。
この場合、一般規則⇒個別となり演繹的。
それゆえ、統計学では一般規則の生成は帰納、適用は演繹という関係になる。
もし現実主義であればこの演繹判断をなすさい、統計による一般規則に対して個別の実際のあり方を優位にみる。このように観てあげないと反証可能性が担保できなくなる。つまり内省なき統計規則のドグマ化、妄想化が生じる。
したがって完全にその判断は左翼の理想主義と同化する。
具体的に考えよう。統計的に○県民は知能が低い!という一般規則があるとする。目の前にとある具体的な○県民がいる。この具体的な個人としての○県民と会話をしたら凄く賢く、量子力学までマスターしていた。
この場合、現実的な者なら、統計的な一般規則は無視して、目の前の具体的な○県民の○○さんは頭がよい、と判断するだろう。そもそも統計は帰納的に一般規則を提出しているのだから当たり前だ。
ではイエスはそのような判断をする傾向にあっただろうか。
僕の記憶によるとイエスは具体的な個人の知能を判断する根拠にその個人の具体的発言でも知能指数テストのスコアでもなく努力する傾向とか成功者である傾向(統計的一般規則)を主張し、珍妙な三段論法をつかって自己の知性を主張していたような記憶がある。
※なんとなくの記憶にすぎない、具体的にいうと努力する人は賢い、私は努力するということをやたら言ってた記憶がある、曖昧な記憶なのだが、記憶違いがなければ、非統計学的三段論法だと思う
これで僕はイエスを否定したいのではない。
そうではなく、イエスが崇拝する客体主義=論理学的論理主義=現実主義の論理構造は、逆接的にも現実的判断の能力を自壊するドグマ化=演繹絶対化の構造に向かうと示してる。
※演繹判断が悪いのでなく、演繹判断に対して帰納による反証可能性が消えるのが悪いといってる
※この演繹判断ベクトルの一方通行化は一月万冊やベイトソンのいう線形思考=客体論理と密接な関連があるがそれは割愛する
といっても、過去の言動のうち信念補強に都合のよいものを一例だけ引用し、N=1ででっちあげのストーリーをこさえているとの反論もあろう。
しかし、イエスがどうなのか、はこの記事で問題にしていない。だから総合的にイエスが現実的かどうかとはまったく別問題として、ときとして現実主義的のイエスが、ドグマ化・妄想化することがあるとすれば、それは当の現実至上主義の態度のゆえなのだ、という解釈の有効性を提示してる。
つまり現実主義者は自身のリアリズムの根拠となるコンテキストベースの態度を喪失し、その結果、帰納的判断の優位性が消去され、演繹的理想論者とまったく同じコンテキストスルー(無内省)な構造に変質しがちだ、ということ。
エビデンスベースドだけにとらわれコンテキストを消去するのは社会心理領域ではやってはいけない。
少なくとも、客観主義は欠如(現実への不満足)を排除するために現実吟味に必要な帰納法的態度を逆接的に消去する構造になっている。
理想主義者を共感脳と語ること(論理が人に語らせること)が、自らを理想主義者の演繹構造へと実現する効果(意)をもっているよってこと。
だから論理とそれを語らうこととの運動、論理がその構造のうちに語らう欲望を構成して論理構造自身に回帰することを理解しないと、そもそも本当の意味での客観論理的にも現実的にもなれず妄想的現実主義になりますよってこと。
※何回も繰り返すが、本体論ではその物差し=客観論理主義のコンテキストや記述作用が消去されてしまい、客観論理の自壊を止めることができない、そこで現象学的な主客の認識論的ケーレが重要となる
べつに身体医学の領域では客体主義で問題がない。ただし、社会は本質領域なんであって、自然科学と社会科学を混乱するとアホなことになる。
イエス学派では現実主義と現実的ということの違いが自覚されず、それを語ることの効果により、どんどん妄想的=全体主義的を煽るようなベクトルがある。
いうまでもなく理想排斥的右翼の混乱した態度はますます左翼の理想絶対化主義を助長する。まず左翼は右翼に対するアンチとして自己のアイデンティティを構成してるのだから断絶的認識は無効だ。
まとめ
簡略表
右翼現実主義:コンテキストベースの一般判断
↓
現実至上主義の客体への絶対的価値付け(欲望)
↓
左翼理想論の排除と理想審級自体の削除(特称と全称の混乱)
↓
一般判断から現実コンテキストが形骸化(帰納ベクトルの消滅)
↓
ウヨ現実主義の妄想化&パヨの妄想化(反証可能性の消失)
この記事は、たったこれだけのことを言ってるだけ。凄く簡単。
理想主義は現実が欠如をもつことをつきつけ、これによって現実主義者は自らの現実的な一般規則に対して、それが依拠するコンテキストを内省する。
かくしてコンテキストベースドな現実判断を回復し、反証可能性のある客観認識を実現する。それとともに、現実の問題をより深く捉え、よりよくへと思考する生の意志を形成する。
つまり右翼は左翼を引き受けて対峙しつつ肯定することで自らの現実的態度を実現する。
このとき要請される洞察が特称としての戦争・核と全称としての戦争・核との存在論的審級の異なりの自覚。
また主観(理想)と客観(現実)とは独在しておらず、弁証法的な分離と同一の同一関係にあることが理論的に把握される必要もある。あるいはコンテキストなしの客体=本体はないということが理解されて主客の二項対立、理想と現実の二項対立という誤認が止揚されねばならない。
本体論、二項対立主義において不可避に生じる審級の混乱と理想の排除は、本体論理(論理学的論理)の構造上、それ自身を自壊し、空想・主観と客観がごちゃまぜとなる。というのも内省=理想=欠如の喪失によって現実の可疑性=反証可能性が消去されるからだ。
これを統計の判断使用における演繹の絶対化と呼ぶ。
またこの客観主義の論理構造の自壊する動態が把捉されないのは本体論的性格のために論理の適用の作用が隠蔽されるからでもある。
以上から、イエス学派が人間の性格を本体化し、また、その本体論のパースペクティブによって左右の対立の原因を取り出すとき、当のその原因の取り出しそのものが実際の原因であることが論証される。
このことは問題認識自身が問題それ自体でもある、という主客の相即関係があることを意味する。この問題領域は本体論にあるイエス学派においては自覚・内省の可能性をもっていない。
社会科学、意味領域において観測と観測対象は分離しようがなく、回帰構造をもつゆえ、イエス学派の主客断絶のパースペクティブは学問的有効性をもっていない。そればかりか意味の領域において客観主義を誤用する場合にはその効果として客観主義論理それ自体の自壊を不可避に生じるともいえる。
右翼がコンテキストベースで特称の戦争群からコンテキストベースの戦争の必要命題を構成するのは統計が帰納的に一般法則を取り出すのに対応する。
次に右翼がそのラジカルな現実主義によって戦争必要命題からコンテキストを消去することで演繹的独断論化が生じる。
これは統計によって帰納的に取り出された一般規則を物差しにつかうとき、過剰に演繹的に物差しを行使するあり方に対応する。
統計がその客観主義のために適用場面で演繹化か支配化してエセ科学化するのと右翼が帰納から入って演繹の絶対化をなすのは、まったく同じ現象である。
おまけ
本質領域(心、社会領域)のエビデンスの考え方の基礎を記しておく。
まずエビデンスをノエシスと呼ぶ。次にそのノエシスをベースに導く結論をノエマと呼ぶ。
ノエシスは行動主義のデータなどのことで、このデータを解釈して結論としてのノエマを解釈するのがエビデンスベースドの論文となる。
ここでノエシス⇒ノエマを繋ぐメカニズムはブラックボックスにあり確定できない。したがってノエマとは客観的事実ではなく、信憑された仮説に過ぎない。
あくまでも解釈であってノエマは可疑的。客観科学では反証可能性をもつ暫定的な客観的法則がノエマに相当するが、本質領域ではノエマは暫定的な信憑になる。
だから、あくまでブラックボックス(無本体)でノエマは運動態となる。とくに対象とその記述が回帰する本質領域ではノエシスとノエマが循環する構造になっている。本質領域のノエマは見つけたり発見するものでなく構築的だということ。
このことを理解しよう。
終わりに:類型学にもの申す
イエス学派のケーススタディから右翼と左翼の対立の構造を本質観取してみた。
今回は帰納法と演繹法、全称と特称という観点から統計の特徴と絡めて、左右の論争における本質的な問題構造を暴露した。
なんだか冗長だったり、執拗に理屈っぽい文章になったところがある。しかしこれには明確な理由がある。
この記事の想定読者は、何を隠そう、あの頭の固い、論理的なことに感情的に固執する感情型現実至上主義右翼、イエス学派。
ちなみに、客体論理の自壊の構造をラカンは想像的誤認として理論化している。ラカンではこの誤認を、分離後に男は疎外を否定し、分離後に女は分離に固執する、と記述する。
この男女の有名な公式を今回の議論にあてはめると、女性は理想主義的傾向があり、自身を理想として(理想の語り部として)男性に欠如をつくりだす。
対する男性は、そのような欠如であり他者の闖入を埋め立て、合理の無欠を欲望する現実至上主義となる。あるいは理想を完全に掌握(摘み取り)しようとする。
つまるところ性的規範と知的態度(帰納と演繹)との関連をラカンは理論化している。
となるかもしれない。イエス学派の二項対立論考を深層心理学にデプラスマン(移行)するとこういう具合だ。
また本来は論理学的論理と時間の構造化の議論や主語の生成といった議論がこれに絡むが、そこまでいくと、客観真理主義者の知性では厳しくなるので割愛している。
※だいたい幽霊はいるとか言うだけで、あいつは共感脳で論理的知能がお釈迦だ、とか短絡的な決めつけを乱発するアホだらけになったら嫌だろ。そんなに人間の知能も心も単純化できない、複雑さに耐えるのは辛いかもしれんが複雑さに耐えられないとデマゴーグに欺されて全体主義になる
※神秘主義的な言説を僅かでもとれば、エビデンス連呼してくる某意識高い系の低知能メンタリンググループやデバンカー崇拝グループからスピ系!オカルト!とバカにされるのが目に見えている
※僕のブログではレッテルマンを警戒し予知夢のレポートなど超心理学的なさっぱりメカニズムが分からない不思議な事例への言説は排除している。知能とか一つのパラメータで社会行動の傾向全般を記述するような破滅的な単純化が蔓延するせいで、こうした警戒がいる。そのパラメータ設定が客体論理への過剰な価値付け(意、主観)を持っていることがそれを持つことの効果として自覚されないのがヤバい
余談だが、知能指数=頭の良さ、というデマが拡散している。しかし、実際にはクイズノックが峻別するように頭の良さと知能指数は別。
頭の良さは印象・主観のこと。知能指数は客観的スコアのこと。
両者を一致させることはできない。誰を頭が良いと思うかは人やシチュエーションによる。
※この主観と客観スコアとの差異をこの記事では欠如と呼んでいる
エビデンスベースドなクイズノックはそのことをよく理解している。
また知能指数の高低の特徴は客観的な記述可能性を持っていない。たとえば、高知能者は謙虚だと知っていきなり自己評価を下げ出す人もありうるだろう。あるいは観測者がその物差しを押しつけることで対象が抑圧・変形される。
これでは記述と対象のあいだのバイアスを除去できない。
知能指数の高い人を頭がよいというのだ!という人もいるだろう、しかしそれは文脈によるし、その定義を一般化できるのはイエス学派の人だけで普遍性がない。また発生的に観ても、知能指数テストがある前から頭が良いという概念は存在しており、その印象概念を疑似的に客観化するため生み出されたのが知能指数テストだ。だから話が顚倒している。それゆえ現実の頭がよいことに合わせてテストの方を帰納的にアップデートすることが前提になる。それをひっくり返して、知能指数テストに賢さを合わせろというのは演繹的誤謬に過ぎない。馬鹿げている。
もとより、知能指数テストではメタ論理的論理力はあまり測れない。論理学の構造を問うメタ論理を考えるには相当程度の論理的思考ができないとやりようがない。だからメタ論理性を知能に組み込めない知能指数テストは非常に問題がある。他にも多くの穴が知能指数テストにはあるだろう。インセンティブを考慮できないのもその一つだ。
さて、理論物理学者でバークレー大学で最先端の研究をしている野村泰紀は物理の才能と数学の才能は異なるという。数学が凄いできても物理の卓越した体系論理をひらめけるとは限らず、そこまで数学が得意でない人が物理学の高度な体系的論理をひらめいたりがよくある、という。
イエス学派では、数学だけひたすら強い人(一部のアスペルガータイプ)と理論物理学で凄いシステム化をなせるが数学は相対的に劣る人(おそらくノーマルタイプ)、どっちがシステム化脳で論理的なのか。あるいは博覧強記系(中井久夫)の論文と深い系の論文(木村敏)はどっちのがシステム化が上なのか?
本質的な意味で質の異なる論理性をごちゃ混ぜな物差しで一絡げに一様序列化して論じるのは無理がある。
※このごちゃ混ぜ一様序列化をこのブログでは内省がないとか欠如がないと言い続けている、だから一様序列モデルの人間解釈の物差しは危ない
たった一つの曖昧で大雑把なパラメータで乱暴に統計記述するのは無効。複雑系の対象にこのような適応をするのは科学ではない。
また世俗に広がる知能指数の高低でコンテキスト抜きの行動特性を羅列するモデルは単純・短絡で、俗耳に入りやすい。悪い低(高)知能と善い低(高)知能者がいて特徴が云々とか、これは科学になりようがない。
これは明らかに管理社会における実用性が高い基準で、そのモデルの特性の意味を理解しないまま乱用するのは極めてエセ科学的で危ない。
また知能指数は知性のディスポジティフ(ひきぬき装置)にあり、伝統習慣的な知性を習慣から切り離して多様な社会制度において組み込み転移してゆく装置であり、知性は観念に過ぎない。知能指数が社会的意味付けを介して学校や刑務所、接客という社会管理場面に転移され、そこから制象としての知能指数の意味が増殖してゆくようにできているように思う。
知能指数の本質はそれが自体性愛化したセクシュアリテであり性的な可能性があること。
知性は個人と社会全体とを接続する観念に過ぎない。
ともあれ行動主義的記述はコンテキストを抜いているせいで関係レベルと対象レベルがごっちゃごちゃ。行動主義では関係構造が消去されるので全体のシステマチックな連動の位相がなくなってしまう。だからシステム化脳が行動主義の本体論的エビデンスベースドを好むという特徴の記述からして無理がある。高度なシステム化をなすならエビデンスベースド&コンテキストベースドにするしかない。
※イエス学派で知の神とされるイーロンマスクやザッカーバーグは経営の天才であって、必ずしも知の天才ではない、つまり経済合理性の審級に最適化している。経済合理性に適応した人は思考からコンテキストレベルが消去される。厳密には経営主体=主語領域なのでコンテキストの消去が生じる(アスペルガー的になる)。だから総合的な論理的知性・システム化知性が高いとは限らない、論理知性を十把一絡げに論じてもメチャクチャになる、大谷翔平に対してサッカーも天才なんだ、というのに近い
だから性格の類型学や知能とかの一つのパラメータに絶対的価値付けをして全ての傾向をそれによって記述する神話は非常にエセ科学である。というより権力の媒介であろう。知能を語ることが抑圧(行為の促し)や管理を権力に促すことに直結している。
またシステム化脳とかMBTIとかHSPを自称するのは自由だが、それがどんな科学的エビデンスの衣をまとっていても、レトリックに過ぎない。また自認は主観でしかない。自分が他人にとって論理的かどうかとか、賢いかどうかは自分が決めることではない。
大事なのは自分にとって自分がどうかでしかない、その自己評価は他者の評価とは違う。自他の区別がないと知能指数だとか、他者の評価(権威、演繹)を絶対化する自他未分から脱皮できない。
また目の前の他人も自分にとってどうかが問題であって他者から観てどうかは関係が無い。おかしなレッテルを貼り付けても意味が無い。
※子どもは自分の好きなものを客観的(他者的)に絶対的価値があると思いたがる
類型学はあくまで占い(解釈)。心は物ではないから解釈しか存在しない。エビデンスに基づくとか脳科学だとか言い出すのは非常に大衆的で本体論的。また性格類型学は沢山あるから、自分に都合のいいものを選んで、どの類型学にもある俗耳に入りやすい科学的エビデンス(笑)で真理主義的に妄想補強をする現象が全国で多発している。
行動主義に関するツッコミをしておくと努力行動(読書や学習行為)があってこれで知能が上がるという因果論は、まったく現実から乖離している。
たとえば僕は深層心理学の愛好家だが、僕とおなじ努力行動をやったとして、深層心理学の論理が身につくかといえば身につかない。行為より動機が問題で、それが自己自身の本質的問い=内省=欠如を構成するものとなるか、が決定的に重要だ。
いくら本を読んでもカスカスのアホがいるが、そいつらは別に知能遺伝子?が悪いとかそういうことではない。そういう相関をとりだせるとしても相関は因果関係ではない。
実際の一次的な因果関係は、深層心理学や哲学、人文社会学、一部生物学などの理解に関しては、読書が欠如=問いを構成するか、という問題でしかない。コンテキスト抜きの努力行動を意味(心、知性)の原因に短絡するのは論理的(機序的)に無効だ、ということ。より厳密には意と行動は切れてない、意のない行動は存在しない。だから意における行動が原因だということ。
既に確認したように論理の構造には価値付けという意が、構造を実現するものとして、かつ構造それ自体に規定・内在する構造自身としてある。
したがって主体(意)が疎外されている(組み込まれている)論理構造の高度化=賢くなる、という現象について意(意味、動機、欲望)はもっとも支配的な因子となっている。
この意の水準を消去する行動主義的パースペクティブで原因論を展開するのは無効だ、といってる。
構造(論理)と意は分離できない。
だから共感とシステム化は素朴な相克関係として規定することは原理的にできない。
そのような二項対立で説明が可能だと錯覚されるのは、客観論理を客体化する誤謬にあって、複雑な現象に対し、単純な物差し(脳類型などの物差し)を強引におしつけ、そこから信念補強的に都合のよいエビデンスをかき集め、それを初めから決めつけられている信念的結論(脳類型)に短絡することでエビデンスベースドを主張、これによりあまり学問に明るくない大衆を扇動することでプラシーボ的信仰をでっち上げているからに過ぎないだろう。
※バカにしてるのでなく、実証主義の衣をまとう性格類型学は、じじつ例外なく妄想の構造をとっている
単純な物差し(俗流類型学、知能高低コスモロジー)を複雑な世界に押しつけて生きていれば、それは古代人が単純な物差しでコスモロジーを開いて気楽に生きていたくらいには、快適に生きれるだろう。しかし、近代社会はそれでは成立しない。民主市民社会は凄く知的コストが大きいので国民が複雑性に耐える力がないと簡単に壊れてしまう。
あと共感脳とシステム化脳の二項対立類型は典型的な客体論理的世界解釈なので、いかに両者の価値付けにポリコレ配慮しても潜在的にシステム化脳を崇拝する欲望を惹起する構造になっているだろう。
現実的=客体的ということの絶対化を前提としたエセ科学解釈において共感脳の価値を崇めるポーズをしても無駄ということ。
僕は当該脳類型の論文は読んでいないがシステム化脳をこそ肯定しようという意志がてんこ盛りだろうことを容易に推理できる。その根拠は本体論的エビデンスベースドをシステム化の高度さの条件として記述していることにある。この記事の論旨を理解する者にとってこれは自明だ。
さて現実主義の意をメタ論理水準に移行する因子として他性への共感(存在の他性)が原理的に想定される。したがってシステム化知能を支えるものとして共感機能の作動は要となる。短絡的な二項対立本体論への抵抗がこの記事の目的といえる。それは左翼と右翼の不毛な争いを止揚し両者を架橋するロジックの提出において実現する。
※メタ論理水準という上位階層への主体の構造のシフトは下位にある客体論理階層の安定化、高度化に通じている、それをこの記事では理想主義が現実主義を支えていると構造論的に論証してる
あと、共感とシステム化の強引な二項対立の絶対化、これは邪推だが、おそらくルイスキャロルとか一部の数学者とかのアスペルガータイプを知的エリートとして肯定したいという欲望の現れでもあるだろう。研究者の願望が垂れ流しの概念設定は問題であろう。
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