『投票に行くのは無意味』を論破してみた【合理主義政治の罠を暴露】

選挙箱のフリー画像

ところで世間ではしばしばネット投票が騒がれるが、投票の意味をイニシエーションとする観点からは懸念がある。

というのもイニシエーションには場所の設定が欠かせない。式典において非日常的な華やかな装飾が必要なようにイニシエーションには日常から分離した空間が必要となる。

これは高い金を払って映画館という仕切られた空間で独特の雰囲気もとに映画を観るのと、サブスクで家で映画を観るのとでは、同じ映画でもその体験がまったく変わってしまうことを考えると分かりやすいだろう。

そのため年齢枠のみならず場所の枠の設定は投票行為に実存的な重みを生み出す機能をになっているのだ。

余談だがこの構造は心理カウンセリングにも通じる。心理カウンセリングでは料金、時間、カウンセリングルームといった枠(線引き)がそこでのカウンセリングを非日常的なものに変えるとされる。

そのためユング派は料金を変更したり、場所や時間をあまりに軽々に変更することはよくないという。

とはいえネット投票を否定するつもりはない、しかし、政治なるものの本質を歪め、合理性へと還元しようという風潮は、あまりに短慮である。

※選挙戦略上、ネット投票で若者を中心とした新規の有権者が投票に参入することを与党が快く思わないのはいうまでもない

また投票とイニシエーションの関連でいうと、選挙そのものがお祭りだという議論がある。

というのも、政治はマツリゴト(政)のことなわけだが、政の語源は祭り事だから。

しばしば選挙をデュオニュソス的祝祭と表現するのもこのため。

政治とは元来、宗教的な祭りなのだ。

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