うたまるです。
「選挙にいっても自分の一票で選挙結果が変わる確率はほぼ0%。したがって自分の投じた票は決定権をもたずなんら選挙結果に影響しないので投票するのは時間と労力の無駄。よって投票はゲーム理論的に無意味。」
この論破困難な定番の論理をこの記事では完全にくつがえします。
子どもになんで非合理的なのに投票に行くのか聞かれて困っている大人もこの記事を読めば、きっちり自分の言葉で子どもを説得できるかと思います。
そのためこの記事は子ども達に投票を促す立場にある大学の教授や学校の先生にも参考になること間違いなし!
投票が無意味という論理
じつは僕自身、大学生の頃から、自分の票が決定権を持つ可能性がほぼないため投票することは無意味と考えていた。
ところが大学生のころ知人、友人と投票の話をすると、この考えを否定された。そして決まって彼らは僕に対して「みんなが無意味と考えて投票に行くのをやめたら選挙が成り立たない」と反論してきた。
そのたびに僕は「それは違う、僕が投票するか否かと他人が投票するか否かの意志決定は独立しており、なんの関係もない。したがって論理的にその反論は無効」と返していた。
すると誰もこれに反論できなくなり議論はふわふわとなって消えてゆく。この手のやりとりは人生で10回くらいはしているが例外はなかった。
ようするに、ゲーム理論的に行動するなら、候補者が接戦で自分の票の重みが増え、決定権を握る可能性が感じられるといった超特殊状態でもないかぎり、投票行為は時間の無駄という結論になってしまうのだ。
みんなが同じように考えたら困るとかいうのはレトリックで自分の意志決定とみんなの意志決定は関係が無い。ちなみに議論の相手だった投票に行く派の人も僕の話を聞いて行くのをやめるということは一度もなかった。
というわけで、以降、ゲーム理論的、数学的なこの無敵論法のどこに詭弁が含まれているのかを確認し撃沈してゆく。
投票とは何なのか
投票の意味
そもそも投票の公共的機能とは、多数決によって国民の代表者である議員を選別することのみにあるのではない。
このことが分かると無敵の合理主義論法が孕む致命的な欺瞞が見えてくる。
まず前項で確認した数学的な理論は、投票の意味と機能を暗黙裏に議員の選別のみに限定することでなりたっている。
したがって無敵論法には前提の欺瞞があるのだ。
まず心理学的には、投票というのはその行為を介して有権者に政治参加への意志を育み、社会に主体的に参与する姿勢を基礎づける機能がある。
したがって選挙権の行使は一つのイニシエーションとして機能する。
イニシエーションというのは民族学の用語で、これは共同体の成員がその社会的なステータスを変更する際に新しい社会的ステータスを心理的に基礎づけるための儀式のこと。
たとえばキリスト教の聖餐式とか洗礼、あるいは入社式とか卒業式、成人式、結婚式といった式典などのこと。
もっとも今日の式典においては形骸化しておりイニシエーションとしてはまったく機能していないというのが一般的な深層心理学の理解である。
投票行為とイニシエーション、ネット投票の罠
ここで選挙の投票とイニシエーションとの関連をみてゆこう。
まず選挙権には年齢の線引きがあるが、この線引きはイニシエーションにおいて重要となる。
これがもしなんの制限もなければイニシエーションとして機能しないわけだ。つまり大人となり社会的責任をおうことと投票行為(政治参加)とが、年齢制限によって紐帯される。
こうして共同体への参与と個々の大人としてのアイデンティティ(実存)を結びつけ、政治参加への主体性(欲望)をつくりだす。したがって投票における年齢制限は、イニシエーションにおける心理的基礎づけを支えているのだ。
ところで世間ではしばしばネット投票が騒がれるが、投票の意味をイニシエーションとする観点からは懸念がある。
というのもイニシエーションには場所の設定が欠かせない。式典において非日常的な華やかな装飾が必要なようにイニシエーションには日常から分離した空間が必要となる。
これは高い金を払って映画館という仕切られた空間で独特の雰囲気もとに映画を観るのと、サブスクで家で映画を観るのとでは、同じ映画でもその体験がまったく変わってしまうことを考えると分かりやすいだろう。
そのため年齢枠のみならず場所の枠の設定は投票行為に実存的な重みを生み出す機能をになっているのだ。
余談だがこの構造は心理カウンセリングにも通じる。心理カウンセリングでは料金、時間、カウンセリングルームといった枠(線引き)がそこでのカウンセリングを非日常的なものに変えるとされる。
そのためユング派は料金を変更したり、場所や時間をあまりに軽々に変更することはよくないという。
とはいえネット投票を否定するつもりはない、しかし、政治なるものの本質を歪め、合理性へと還元しようという風潮は、あまりに短慮である。
※選挙戦略上、ネット投票で若者を中心とした新規の有権者が投票に参入することを与党が快く思わないのはいうまでもない
また投票とイニシエーションの関連でいうと、選挙そのものがお祭りだという議論がある。
というのも、政治はマツリゴト(政)のことなわけだが、政の語源は祭り事だから。
しばしば選挙をデュオニュソス的祝祭と表現するのもこのため。
政治とは元来、宗教的な祭りなのだ。
合理的政治論と投票無意味論
さっこん、政治を合理化しPDCAサイクルを回して効率的に政策決定しようだとか、合理的システムによって政治や社会統治を実現しようという、いかにもアメリカ的な議論が我が国でも巻き起こりつつある。
※このような合理性の全てを批判する意図はない、しかし政治の本質は合理性には還元できない
しかしこのような政治観、社会統治論は政治が持つ祝祭性やイニシエーションという側面を知るものにとってはあまりに無知で短絡的と言わねばならないだろう。
いずれにせよ政治を合理主義へと還元し社会をAIなどのシステムによってコントロールしようというアメリカ的思想、それこそが、投票に行くのは合理的に無意味という考えの正体である。
これと関連し最近は投票行為を市場の競争原理へと還元し、政策やマニュフェストを商品、有権者を消費者と見なすむきもあるが、このような短絡的な政治観は政治の脱主体化を招き共同体の解体を生じると考えられる。
したがって合理主義政治論を前提とする投票無意味論の論破には政治が事実合理主義によっては解決も機能もしないだろうことを説得的に示す必要があろう。
政治なるものの本質
かつてドイツの思想家、カールシュミットは政治なるものの本質を友と敵との二項対立にあるといった。
この友敵理論は有名なので読者も聞いたことがある人は多いだろう。
シュミットはナチスの理論的支柱を担っていたため彼の思想には問題があることが指摘される。しかし政治なるものの本質を友と敵との峻別に見出したその洞察は無視できない。
というのも政治とはそもそも国家による国家の統治であり、民主主義であれば、国民による国民自身の自己統治のことだからだ。
したがってその意味で政治とは共同体が共同体自身を認識・規定することにかかっている。
そもそも国家を統治するとは、国のあるべき姿、進むべき道を見定め、その道を突き進み、あるべき姿となるために法を制定したりすることだと考えられる。
するとここでは国家の国家による自己認識が決定的な意味をもつのはいうまでもあるまい。
つまり日本であれば日本とは何なのか、日本という国の本質・真理とは何かという日本国民の自己認識なしに国の行く末を考えることは不可能だということ。
またそもそも政治は共同体の自己統治なわけだから共同体としての仲間意識がなければ、法も秩序も社会保障も一切機能しなくなるだろう。
軍事独裁政権ならいざしらず、民主主義であれば共同体意識がないと空中分解してしまい統治どころではない。
そのため、そのつどの共同体による共同体の自己認識を共有することで共同体として、まとまる必要がある。
シュミットの友敵理論の要諦もここにあるのだ。
共同体がなんであるかとはそもそも構造主義言語学が示すように、ポジティブには定義できない。
言語が全て差異によってなりたつように、友(国家共同体)とは敵との差異関係によってしか確定できないわけだ。
したがって友と敵の峻別とは共同体の自己規定のことであり、この自己規定・自己認識が国の進むべき道を示すことになる。
これは個々の人間に置き換えてもいい、自分が将来何になるかを決めるには、自分がそもそも何なのかを認識することで可能となる。共同体でもそれは変わらないということ。
というわけでシュミットは政治の本質が共同体の自己統治=自己認識にあることを喝破している。
シュミットの過ちとSNS政治の分断理由
しかし、シュミットは政治の本質を見通しながら、致命的なミスを犯している、そのミスのためにナチスへ加担することになったと考えられる。
ここで、何を長々と政治論を展開しているんだ、とっとと投票無意味論を論破しろ!と思う読者もいるかもしれないが、ここのところの理解なしに十分な論破はできないのでお付き合い願いたい。
話を戻そう。
シュミットは、友と敵の峻別によって共同体(友)を創出することを見抜いたが、そのとき友と敵が政治行為(峻別行為)によってそのつど創られる観念、イメージに過ぎないということを見逃した。
ここで、この見逃しがいかに無残な状況を惹起するにいたるかを、昨今の我が国の政治的言説の傾向を確認することで確かめたい。
日本ではSNSによって日々政治的な分断が煽られ、あっち系(敵)というレッテル貼りによって共同体が分裂しているのを確認できる。
これだけ合理主義が叫ばれる情勢にあって、現実の昨今の政治的語らいが友と敵の峻別にあることは見逃せない。
よく観察すると分かるがエビデンスを連呼して大衆を煽る政治系YouTuberに限って、論証も実証も不可能な物語(イメージ)を客観的事実だと吹聴していたりもする。
このように敵と味方の識別行為にあたって、屁理屈やエビデンスなどをアリバイに、敵をその峻別行為と無関係に独立して実在するものとして実体化(客体化)することで政治的ディスコミュニケーションが発生していると分かる。
したがって、分断社会の止揚においては、敵と味方を分けること、敵をつど定義して団結すること、このとき敵にも味方にも実体がないことを見抜くことが重要となる。
だいいち、敵という場合それがなんらかの意味において悪とされる、そこには正義という客観化不可能な個人的信念の共有と信仰とが前提とされる。
※言うまでも無いが、正義は客観的には確定できない、文化や人生経験で変わってしまう主観的信仰である
この個人的な信念、信条といった主体性=信仰こそが政治なるものの条件であって、あくまで政治は主体主観的なものだと見抜くことが必要なのだ。もし政治から信仰(主体)の次元を抹消し主体の入り込む余地をなくせば、政治の語らいは機械的な合理性だけが支配する歪な空間となる。
そこでは個々人の主体化や自己実現が、政治や社会=共同体から完全に切り離されてしまう。
社会的存在として自己を主体化することなしに人は大人になれないわけだから、これでは政治はなりたたないし、共同体意識も成立しなくなり共同体が解体してしまうのは言うまでもない。
かくして今日、我が国に蔓延する合理主義によって主体を排除する市場原理を中心としたシカゴ学派的な経済観による政治の合理主義化は、必然、そこから弾かれた主体を全体主義者(陰謀論、独断論)として政治空間に回帰してしまうのだ。
SNS政治で不毛な政治闘争を繰り返し罵詈雑言をまき散らす人々が、敵と友を実体化するのも、その根底には個人的なもの主体的・主観的(信仰的)なものを排除する合理主義化がその背景にあるということ。
ようするに、信仰を信仰として物語を物語(メタファー)として語ると、「それあなたの感想ですよね、妄想乙!」と否定されてしまうのが合理主義政治であり、このような脱主体化した語らいの空間で、人々が自己主体を政治に賭すには、物語をさも客観的な事実であるかのように主張するより他ないのだ。
というわけで本来、物語にすぎない陰謀論や敵と友が合理主義によって、実体化、客観的事実化されるところに今日的政治の混乱は集約されるだろう。
シュミットの理論も結局のところ、信仰と客体との差異を見逃したことでナチス的な全体主義を惹起したと考えられる。
繰り返すが、インフルエンサーが日々、あっち系と喚くとき、彼らはそれが一つの解釈であり差異関係に過ぎないこと、つまり敵というのがただのシンボルに過ぎないことを見失う。
あたかも敵が実体としてあるように錯覚する。しかし誰が敵で誰が友かは、そのつどの線引きにおいてしかありえない。そして線そのものは解釈に過ぎず概念的なもので実体がない。
にも関わらず自分たちとの関係性を抜きに、独立して敵が存在すると思い込む。
つまり共同的な主観性の産物に過ぎない敵を物理的に独立してある人物に実体化してしまうのだ。
しかしもし敵が峻別すること、日々あっち系と名指し、みんなで集まってレッテルを貼るという儀式行為への参与なしに可能ならば、そもそもレッテルを貼る必要も無いし、誰が友で誰が敵かを問うこと自体できなくなるだろう。
友と敵を峻別する行為に政治なるものの条件を見出したシュミットの洞察は、このことを見逃した。
友と敵はあくまでも、そのつどの共同体における信仰の儀式(日々のレッテル貼り)によって、そのつど産出される幻想でしかない。だからこそ共同体の外にいる人にはカルト集団にしか見えないという問題もでてくる。
また政治は僕たちの人間性であり主体と関わっている。その意味で政治は生物学的な肉の塊、生理的な現象としての生物ではなく、一人の主体性をもち言語を語る人間に関わる。
この点に政治を経済的合理性へと還元してはならない理由がある。詳しくは割愛するが、ネオリベ的な経済空間は人間を生物学的、生理学的な肉の塊と見なし、これを統計的に処理して、商品によって大衆の本能的な欲求を直接に満たそうとする側面を持つ。
※フーコーの生政治は経済に、規律訓練が政治と国家に属するのもこのためと考えられる
だからこそ政治は主体を扱うし、主体としての共同体が参与することでしか機能しない。これは敵も味方も他人事では機能しないと言い換えてもいい。
MGS2のスネークの言葉を借りれば、なにが正しいか何を信じるか、後生に何を伝えるべきか、自ら考え語り、伝える主体こそが必要なのだ。
こうした主体的で政治的な営みを否定する合理主義政治は共同体を空中分解に追い込み、今だけ金だけ自分だけの人間を産むと解釈することもできる。
日々の生活で感じること、苦しみ、思い、信念、そうした徹底的に特殊個別的で主観的な現実を扱わず、人間を生物学的な肉の塊として統計的に捉え生理現象を管理するだけの管理政治に人は耐えることができない。
※かなり複雑な深層心理学モデルでこれを示すことが可能だが割愛する
政治なるものの回復に向けて
では政治はどのように捉えるべきなのか。そのことをここに示し、投票に行くのは無意味論を論駁してゆこう。
まず友と敵には実体がないこと、それは一つの信仰であり客観的知ではなく主体的知だということを自覚するべきである。
この実体とイメージ、客観的知と信仰との差異を、ユング心理学では心理学的差異=魂と呼ぶ。
ぼくたちは主観的解釈(物語)によってつど敵をつくりだし、仲間内でその信仰を共有し、儀式的行為を介して、その物語を現実化している。
これは宗教の知が戒律や祈りを介した日々の行為的実践を経ることでのみ現実化することとなんら変わらない。
※宗教の起源が祭り=宗教にあると紹介したが、それはこの意味においてである
大切なのはこの信仰と客観との差異を自覚し、主体的な知として政治を語る意志なのだ。
また、もし中世の宗教と現代の政治に違いがあるとするなら、この点にある。
つまり中世において宗教の神話は客観的事実と混同されていたわけだから、そこには神話=信仰と客観実体との差異がない。
対して客観的知と主観的知との差異を自覚することで可能となる政治は、その自覚という点で宗教とは異なるだろうということ。
このような敵という物語イメージと具体的人物との差異の回復は、不毛な対立を止揚し、双方の相互理解の可能性を開くだろう。
またそのことで全体主義に頼らずに政治単位としての共同体を再生することを可能とするに違いない。
というのも敵と味方がつねにそのつどの解釈として変容する可能性について、人々が自覚的となるからだ。
というわけで現代の合理主義、経済合理性に汚染された政治共同体は、少なくとも深層心理学的なレベルでは政治として機能していない。
そのため全ての国民は子どもであって大人は一人もいないとする見方もある。
政治を個々の主体の手に取り戻すこと、それは個々が主体的な人間として自己を実現することと全く同じことである。人間が社会的存在である以上、個を共同体と個との関係抜きに考えることは原理的にできないのだ。
主体としての個もまた共同体との関係においてあり、その差異関係によってしか規定しえないといってもいい。つまり個もまた集団と個とのあいだのことなのだ。
なんとか小難しい議論を避けたここまでの説明で、政治的なるものの本質を読者に感じてもらうことができたと信じたい。
では結論に移ろう。
論破、結論
投票に行くのは無意味ではない、自らの票が議員の選別における決定権をとる確率とは無関係に、投票という行為そのものに主体の政治参加という意味が生まれるからだ。
政治は合理主義へは還元できない。人間が自ら語り考える存在である以上、そして政治が共同体の自己統治である限り、政治(投票)において重要なのは主体的な行為である。
政治はその起源を宗教的な祭りにもつ。したがってどこまでも信仰の次元、すなわち主体的行為の次元に属する。
宗教の信者が、その信仰を儀式的行為によって示し主体的に参与することによって、聖書の物語が初めて現実感を帯びるように、政治もまたその主体的参与によってこそ個々の実存を基礎づけ、人間を主体化するのである。
古くから人間は主体的な共同体への参画を通じて、自己を実現し、尊厳をもって生きてきた。
したがって、こうした人類の歴史と人間存在への無理解が招いた誤謬こそが、投票に行くのは無意味という発想の正体に他ならない。
一般向けに、投票無意味論へ反論するならこんな感じになるだろうか。
オルタナティブな投票
ところで政治なるものの本質をこのように見抜くならば、現代において投票が必ずしも絶対的なものでないともいえる。
なにも投票だけが政治参与の唯一の仕方ではないからだ。
たとえば、公共的な問題について語ること、これもまた政治的営みといえる。地域共同体への貢献、その他もろもろ様々な政治参与が考えられる。
むしろ、投票しさえすればよい、という杓子定規な発想もまた政治を形骸化し、人間の主体性を奪うことに繋がるだろう。あらゆる式典が形骸化しているように投票もまた形骸化していることは考えねばならない。
※日本人の場合、投票するのは正しい、という思考停止の方が問題と思う
投票に行くのは優等生だから行く、みんなが行くから行く、このようなざまで投票率が上がってもなんの意味もないことだけは確かだろう。
学生時代、僕の疑問になにも答えることができず、しかもそれについて全く考えようともせず、自らの投票行為について振り返る姿勢もなかった同級生達の思考停止が嘆かれる。
一部有識者のあいだで日本には民主主義はない、という意見があるが、僕は、個人的にはその点について完全に同意する。
というわけで、各人がそれぞれにベストな仕方で、主体的に政治へと参与することが求められる時代だと考えられる。
余談だが、普遍(投票)ではなく、おのおの単独的な仕方で、というのは現代ラカン派の主体化のロジックとして重視されてもいる。
またユングなどは最初から個人的なもの、単独的なものを目指しており、その過程を個性化と呼んでいる。
普遍としての投票は、合理的な選別機能を担うという意味でも全否定されるべきではないが、オルタナティブ(単独的)な投票(政治参画)について考えるべき局面に来ているのは確かだと思う。
終わりに
じつは最近、ながながとP5の解説・考察記事を書いていて、そこではラカンの理論やフーコーのロジックにどっぷり触れている関係でその一般の人向けの説明が難しくかなり手こずっている。
そのため息抜きで、思いつきの記事として殴り書きしたのがこの記事だったりする。おそろしくスラスラと無思考でちゃらんぽらんに短時間に書き終えることができて驚いた。
ラカンの解説は本当につかれる。
ところでTV系の有名な言論人は、投票に行く意味を議員の選別のみに還元し合理主義の前提に乗っかった稚拙なロジックで大衆をだまくらかしている。
さすがにレベルが低すぎてヤバいだろということで、今回は学問的な見地から基礎的な議論をしてみた。この程度の記事を僕に書かせる日本社会の言論人の次元の低さにはうんざりしている。
この国ではおよそまともな議論が成立せず、ほとんど幼稚園児というような政治言説に溢れているように感じる。
わかりやすいだけの中身のないそれっぽいレトリックに騙されず、僕自身も含めて少しでも自分の頭で考えることを意識して欲しいと思う。
レイシズムの記事で優生学批判を書いたのも、日本のほとんどの大人が、まともに優生学がダメな理由すら説明できないことを知って驚いたのがきっかけだったりする。
流石に思考停止が酷すぎないだろうか。お上が悪いと言ってるから悪い、で済ます人が多すぎだと思う。
日本人は思考停止していると欧米から指摘されることがあるが、こうした現状を鑑みるに反論のしようがないと思う。
自分の頭で考えないなら、民主主義は諦めたほうがいいだろう。
ちなみに、Googleはぼくのような個人ブログが政治的な言説を主張することをよく思っていないらしい。これは扇動や陰謀論の問題があるため個人ブロガーは政治に口を出すなということかもしれない。
ここでは学問的な見知から十分に妥当なことをいっているつもりだし、特定の思想や信条、政策論への言及も誘導もしていない。なにより具体的なことは自分の頭で考えるべきと思っているので、このブログでは基本的に具体的な政策についていうことなどない。
純粋に学問の話をしているつもりしかない。したがって政治ではなくメタ政治的議論を扱っている。
つまり誰に投票すべきかという話ではなく、そもそも投票とはどのような営みなのか、というメタレベルのテーマを俎上にのせている。
というわけでGoogleには政治とメタ政治との分別をつけてもらいたい。メタ政治は扇動とも陰謀論ともまったく関係が無いからだ。
もっとも当ブログでは深層心理学という学問を紹介するにあたり、やむを得ずネオリベ(管理社会)に関して批評的な言説をとることもあるが、それはラカンの精神分析理論からして、資本主義のディスクールというモデルまでこさえてネオリベを標的に批評している関係上、避けられないからであり、特定の思想の誘導という意図はない。
そもそもネオリベ批評的な言説も、僕の個人的意見というより深層心理学という学問における一般的なスタンスを学問的に紹介しているに過ぎない。
Googleにはこの程度のことは理解して評価についての分別をつけて欲しい。
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