うたまるです。
今回は吉本やフーコーの研究で有名な山本哲士の本『哲学する日本 非分離・述語制・場所・非自己』を紹介します。
今回は本を一回しか読んでいないこと、および僕の理解が完全ではないことから控えめのタイトルに。
僕の理解での本のまとめ的な記事になります。この記事を読むとこの本の内容がどうして重要かくらいは分かるはずで、これからこの本を読まれる一般の方の助けになるはず。
僕は心理学のニワカオタクのようなもので哲学はまるで詳しくないですが、この本に関してはなんとか概ね理解できたつもりです。
さて、この本、このブログで紹介してきた本の中では難しい部類に入りますが、哲学専門の人でなくても概ね理解できるくらいの難易度。
ただしハイデガーか西田どっちかについてある程度知っていないとまともに理解できない可能性もあり。逆にハイデガーの言語の意味の存在論的差異のロジックさえ知ってたらそれだけでかなりの内容が理解できます。
参考になる記事
哲学する日本をまったく人文学の知識のない人が読むにあたって、オススメの記事があるので紹介。以下の記事を読んでから本書を読めばかなりのところを理解できるでしょう。
まだラカンの理解が浅い頃に書いた記事でロジックに甘さや不適切な箇所もありますが、以下の記事は誰にでも読めます。
以下の記事は少し難しいですが、哲学する日本を理解する上で参考になるはず。僕が山本の述語理論の本を読む前に書いた記事ですが、山本の述語理論をイメージという観点から理論化したような記事です。
ただし、イメージの生成原理の考察箇所には若干の説明不足があり理論としてはやや不完全です。
概要
おおよそ550頁くらいある分厚い本で文字数が多いです。山本哲士の本としてはこれでも軽い方ですが。
※僕は山本の本はこの他に吉本隆明と共同幻想論という本を読んでいますが、そちらの本は松本卓也の人はみな妄想するという、大きめの本が小さく薄く見えるくらいごっつい本で物理的重量が重くて腕がつかれます、なのに山本の本は電子書籍化されておらず、その意味でかなり不便、こんなに分厚くて重い本は場所もとるし不便なので電子書籍化すべきです
おおまかな内容を示せば、日本語が無主語言語でコプラも人称もないということから哲学する日本としての哲学を構成しようという本。
ここで日本の哲学は哲学することであり、主語的な日本哲学とは異なるのがポイントかもしれません。
そんな本書は、日本は〈日本〉ではない、という刺激的な文から日本の哲学を論じます。
全称命題が存在を問われないことから、日本を全称として多様な場所の側に視点をとる日本論を展開するわけです。
念のため補足すると全称命題とは、全ての火星人は嘘つきである、という具合。
全ての火星人は火星人という概念(集合)の記述に相当するため、個別の火星人(要素)の実在の有無を問うものでないから、この命題の真偽判断では火星人が存在するかしないかという現実原則(幻想と現実の判断原則)は機能しないということ。
※全称命題はフロイトの快感原則に対応
逆に特称命題では火星人には嘘つきの個体が存在するとなるので、存在の有無(現実吟味)が真偽判断に絡んできます。
そこで、日本はある、という既存の日本論を特称としての日本と見抜き、これを明治天皇制のナショナリズム日本論として批評するところに本書の意義と特徴の一つがあるでしょう。
なので多様な場所の多にして一なる状態をして全称の日本を論じる、それが哲学する日本ということの意味の一つ。
そんな本書では非分離、述語意志、場所、非自己が中心概念として設定され、この概念構成から哲学することが問われます。
これは西洋の主語制言語における分離、主語、社会、自己(自我主体)に対応します。
とりわけ非分離と分離、場所と社会の対応が重要。
本書の意義と論旨
僕の理解で本書の意義をいえば、それは近代社会と近代国家がもたらす象徴界の構造がコプラ的な論理学的論理、因果律的同一律によって支配化するこで生じる、誤認からなる存在論的差異の抹消、近代の自己解体というのっぴきならない現象にたいして、社会の場所への還元を実現し、天皇制とクニブリとの二重性なす場所資本の設計をなすことで、象徴界にウロボリックな場所時間の系列と因果的同一律とを併存させてその安定化を計るという具合。
※象徴界とは言語化された認識世界体系のこと
本書は、近代社会におけるコプラ的な主述分離の因果構造・同一律構造の暴力的な不安定性に対して、コプラ的な近代社会と述語制の場所との併存による安定化を基礎づける書として読むと、体系的にまとまって理解できるかと思います。
※コプラとはBE動詞のこと
本書の商品(主語制)と道具(述語制)の対比も、商品はその意味であり機能が物質的形状に客体化され、ハイデガー的な道具としての側面が消去されることを提示しています。
このような道具=関係の次元、つまり存在者の意味や機能がもつ一回性とか関係相関性の消去とそれに付随する機能・意味の一般化・客体化が近代社会空間の暴力性として本書では描写されています。
※これについては竹田青嗣の言語的思考へがもっとも分かりやすい、竹田でいう一般的言語表象が商品に対応する。竹田の本を読んでおくと本書の商品論はよく理解できる、商品論は言語論に他ならない
このような存在者の機能と意味を一般化してしまう商品の技術を本書は分離技術と呼びます。
これは機能が客体に実体化し一般化するということであり、特定機能をもった商品のデザインは、その機能を代表する客体的形状に固定されるため自由なデザイン設計がなされなくなったりします。
たとえば車は100年たっても基本デザインがかわりません。
※ダイソンの羽のない扇風機はこの点で非常に重要かも
これに対して箸、ふろしき、下駄は、場所の非分離技術であり道具としてその機能を行為的に表します。
たとえば風呂敷は結び方で機能が変りますし、形式も自在で状況によってはゴザになったり、リュックになったりと自由自在。
つまり機能がそのつどの人間との関係に相関して道具的に生じるわけです。
ここに主体と客体との非分離関係が確認できます。なのでこれを非分離技術と呼びます。
このような分離技術と非分離技術の違いこそが述語性日本語と主語制英語の構造の違いに依拠しているというのが本書の主張。
また近代化を場所の空間化だといいます。つまり場所は固有の時間(雰囲気)をおびており、場所の側に行為性としての述語意志(雰囲気、情緒)があると考えるのですが、このような場所が近代に至り、物理学的な絶対空間へと貶められ、時間も場所の固有性から分離した時計ではかることができる標準時間=客観的時間=客観的機能と化し、場所から意志・時間を消去してしまうに至ります。
※時間が機能や意味であるとは時間がそのつどの目的意識における投企により、今からとしての未来を構成したり、その投企をなすための気分の自己了解を契機とする状況や記憶などの被投性から今までとしての過去を分節し、今が再帰的意識において自己に限定される形で過去・現在・未来に分節して時間の因果連続的な流れが構成されるという意味、このような実存的な時間の全てが空間・言語に疎外され尽くすことで意味と時間は空間化・客体化し物質座標の物理的変化の側に重心移動して標準時間・ニュートン時間が支配化する。かくして時間の本質域・道具性は時間から乖離した二次的な主観として誤認される。これを機能の客観化とか一般的意味化ということができる。本書の描く近代空間の暴力性はおもにこの強迫神経症の構造を示している
かくして時間一体であった場所は均質空間と均質時間とに分離し、空間化を蒙るわけです。この場所の空間化を本書は道具の商品化に対応させ、近代資本主義の資本が商品でしかないことの要因と特定してゆきます。近代資本主義は全ての物を商品に変えてしまうのです。
※空間と時間の分離が神経症と精神病の発生条件
したがって場所に対立する社会とは近代空間のことで、これがデカルト、ニュートン、ライプニッツの空間概念として提出されます。
本書の場所論について詳しくは当ブログの以下の記事をご覧ください。サッカーを近代空間のスポーツと洞察し空間と場所の違いを山本理論をベースに展開しています。
長くなるので割愛しますが、日本語ではなせ細いものを本と数え平たいものは枚、丸いのは個と数えるのかも述語制言語であるという点から明らかにします。
ともあれ本書の肝は因果律的な論理によって空間が場所を滅ぼし、全体主義的な暴力が主体を消し去る問題を、日本語の場所論によって克服する理論が示されているということ。
また日本では、近代空間化が天つ神の天皇制の系譜に対応し、場所が国つ神のスサノオ系の系譜に対応することを示し、この二重性を実現する場所資本を設計することで近代空間の暴力的構造を克服するというのがポイント。
場所とローカルの違い
場所といってもローカルとか地域とか地方とかではありません。
ローカルとか地域という場合、移動主体が主語的にまずあって、その主語主体がある地域に移動したりすることが前提されてしまいます。
また地方では中央がまず存在して、中央を主語化して自身を中央相関的に辺境=地方として表象してしまいます。
しかし場所はそうではないです。場所とはそれ事態が場所意志としての述語と一体の状態といえます。
たとえば、川端康成の小説の一節、トンネルを抜けるとそこは雪国だった、この文には主語がありません。トンネルを抜けるのは誰かが書いてないわけです。
これが場所の表現です。
場所とは動き移ろう主体ならざる主体のようなもの。だから場所を移るという日本語表現になるのです。私が異なる場所に移動するという欧米言語の表現ではこれは考えられません。場所は動いている、歩いてこそ場所は賦活し止まっているうちには場所は希薄だということ。
※山本は主体とか主というのと場所や述語は馴染まないという
川端の一文を英語に翻訳すると電車が主語に設定され、その描写は外から列車がトンネルを抜ける場面を俯瞰する構図となり、列車のなかにいるという日本語の文章のニュアンスが完全に崩壊します。
列車を主語として主語の列車が移動して雪国に到着するあり方、これをローカルとか地域と呼びます。
対して場所は場所の側が主ならざる主体のような感となって、移動し移ろうのです。
その場所にいる人間であり場所を感じている個体は場所と非分離にあり個体として独立分離していないということ。
場所論から、山本の洞察の見事さを紹介すると、彼は現在の環境対策、地球に優しくが間違いだと見抜きます。地球が客体化され、人間が主語として優しくすることで環境問題に取り組むという仕方のまずさを適切に指摘しています。
そこには場所はなく、環境との共生はなされないということ。
また環境問題は、産業がするから環境がするへと主語をすり替えただけでは何も問題構造が変らないことも見抜いています。これは西洋のコプラ文がどんなに人間主体であり主語を疑ってもフロイトのエスがするという言表にあるように、主述構文化してしまい述語のするを因果的に統制し所有する主語主体が想定されてしまう限界に関連します。この主述構造が先ほど示した近代空間であり商品社会の暴力性の根源的構造=因果律的同一律だということ。
したがって環境破壊を招く構造によって環境を守ろうとしても、かならず全体主義的なひずみが生じるということ。
つまりフロイトのエスを産業とか環境に置き換えているだけになってしまい商品的な因果律的な自同律構造から抜けることができないわけです。この構造からは全体主義的な議論しか出てきません。
本書と京都学派
本書は場所論を論じるため西田幾多郎の哲学の本格的な入門書としても読めます。
西田の場所は近代空間との対比としての場所という観点から読むと、非常に合点がいくのです。僕は西田の場所論にあまりピンときていなかったのですが、この本を読んで納得できました。
本書は西田を参照することで場所を三つの相に分類し、それを有の相、相対的無の想像的相、絶対無の相と呼びます。
有の相は主語的なレベルで既知の客体水準にあると思います。
相対的無の想像的相とは、そのような対象が意味対象として生じる自己の相関者として現れる瞬間の対象の相のことだと思います。
絶対無の相は対象以前の既知性を解体する位相と僕は解釈しました。
西田は意志を特殊が一般を包摂するものとし、知識を一般が特殊を包摂するものとします。そして両者の統一を直観と呼びます。
これは一般的言語によってそのつどの道具的意が意味づけられる語りの過程において、その道具的意味の痕跡として道具的意味を一般化し、また意の個別性を捨象することを知識、対して一般的言語をかりてきて、そのつどの意を表現する道具とすることを意志と示しているのでしょう。
そして両者の統一としての直観は個別的な意が一般的な言語に一致する意味充足の手応えであり信憑を示すでしょう。
しがたって直観は存在論的差異の同一に対応すると僕は解釈しています。
※ここでの存在論的差異は道具的意と一般的意味との差異のことで、これが信憑における意味充足・意味作用によって差異をもったまま同一するのが直観と僕は理解した
このように解釈すると分かりやすい。
この意味をつくるものと作られるものとの逆対応の関係構造を安定させ全体主義を避けるのが場所資本であり非分離技術の効果というわけです。
また本書では印象派のモネの絵画や若冲の鶏の絵についての述語技術論が展開されます。西洋のルネッサンス以後の一点透視図法を分離技術に分類し、これを世界を対象化(照らしだし)し、また見るところの光と対象との分離ととらえ、モネの睡蓮から光それ事態の対象一体化した姿を取り出し、その対象と主体(光)との非分離を洞察し、これを場所としての芸術として分析する優れた芸術論を展開します。
僕も日本画については独自に述語優位の日本語という観点から分析して記事にしていますが、僕の考えと凄く似ていて驚きました。
また、本書で見逃せないのはハイデガーの限界を世界内存在が社会内存在に過ぎず、主語ありきの気遣いからしか時間を語れない点にあると喝破し、その理由をドイツ語のザインが存在表現とコプラ表現の区別のなさに見出す点です。
主語的存在しか論じれていないということ、ハイデガー存在論ではそのため空間と時間の分離が前提で社会空間以前の場所の位相が記述されていないのです。
木村敏がハイデガーを分節以後の今の生成より以前にある永遠の今を論じないといった理由もここにあるでしょう。木村敏好きにとっても興味深い洞察です。
また僕のオリジナルの考察ではハイデガーのこの問題は彼が所有を負課と分離して捉えたことに見出していますが、この所有と負課の分離も山本のザインの考察に対応するかと思います。反近代であり反西洋としてのハイデガーの考察は、その職分を果たすには不足があるということ。
これでハイデガーの否定神学構造の問題もきれいに説明ができます。また西田の存在論が述語的存在論・場所の存在論でありハイデガーを超える要素をもつこともはっきりします。山本は、この理由も日本が存在表現(がある)と繋辞表現(である)とを区別することにあると見抜いています。
さらに本書では和辻哲郎の風土論が場所ではなく近代国家空間にあり天皇制風土論に過ぎないことを見破ります。
和辻はハイデガーの存在を存と在とに分け、存を自覚的に持つ(有つ)こと、在を社会においてあることだといい、自覚的に有って社会にあることが存在だと読解してしまうのです。
まるでカントの純粋統覚としか僕には思えません。
このようなハイデガー読解は荒唐無稽で、現象学のカントへの退行でしかないでしょう。
なるほど、この強固な主語による存在の統制・統覚はまさに天皇制近代の発想そのもの。
また本書は、柳田民族学を天皇制ナショナリズムとして退け、場所とクニブリに注目する坪井民族学を高く評価します。
さらに天皇制を民族学研究から探り、いろは歌からあいうえおの五十音表化による、シニフィアンとシニフィエの分離として暴きます。歌は豊かな述語表現であり表意的(オノマトペ的)なので、いろは歌の放棄は場所なき標準語・表音文字に対応するわけです。
50音表の起源も古代天皇制のコスモロジーにあります。天つ神の阿(ア)行という感じ。明治初期に50音表化して日本語が学校教育に組み込まれたのも天皇制近代が学校と関連するからです。
他にも罪の主体化と主語との関連など主語化のあり方に触れていて面白い考察が多いです。一回読んだだけでも記憶に残る話が多く、こうして記憶のみを頼りにしても書くことが山盛りなのがこの本の面白さの証拠。
他にもヘーゲル論や、ダーウィンと今西の対立など面白い話が一杯あります。
非自己論と木村敏の理論との対応
本書では非自己論が展開されます。神様のおかげという心理、恋愛、認知症などから非自己の正体を明らかにします。
たとえば認知症とは中期記憶からダメになるもので記憶に支えられた社会的な自己イメージが解体して非自己と場所がベースになっていくことだといいます。ここから認知症福祉とケアの理論を生産しています。
そんな本書の非自己は木村敏のノエシス論とそっくりです。
木村でいうノエマ的自己が山本でいう自己に対応しノエシス的自己の生じる瞬間が非自己に対応しているはずです。
木村のメタノエシスは、非自己の動きそれ以前に想定される水準と考えられます。非自己は自己に先立つ行為性であり述語意志のことでしょう。そのため恋愛などの対幻想は非自己と非自己との非分離関係として理論化されます。その非自己から欠如として疎外されるのが自己であり、自己と自己との対関係として婚姻関係を構成するというわけです。
この非自己が場所から分離することでそれが暴力性を帯びることが示されます。
たとえばストーカーは非自己の一方的な肥大から非自己を共有しあっているという妄想が自己幻想されて生じます。
終わりに
本書は現実を生きて考える全ての人にとって、深く納得できるものになっているだろう。逆に権威に頼った大学の研究者には理解できないようである。
この本は僕の考えと似ているところが多々あり興味深かった。この時代に生きていれば感じずにはおれない根底的に通じる何かが明らかにあるのだ。ともかく生き方も世代も知識もまるで違うのに考えに多くの一致があった。
さて、述語性と述語制の違いに触れたい。述語制とは述語優位の日本人の場所的な生き方が言語規則によってどのように制度構造化されているかというニュアンスだと思う。だから述語制のあり方を明らかにすればどのような場所構造が述語のあり方にどう対応しているかも分かるということだろう。
僕は述語性として日本語を論じれば十分と思っていたが制には深い意味があるようだ。
また本書はナチス全体主義と戦中日本の全体主義を的確に表現している。ナチスを主体化の主語化、日本を主体化の述語化だという。
分かりやすいが、さらに簡単にいえば単一の主語の絶対主体化、一つの述語の絶対主体化と言い換えられるだろう。
本書ではプラクティス・実践とプラチック・実際行為の違いが徹底的に強調されている。僕の考えだとプラクティスは主語による目的的な社会的行為を示し、プラチックは無目的的で無主語的な日常の行為や慣習を示すのだと思う。
ともあれ、今の日本の言論は極めて想像的なレベルにあり、場所なき述語意志が暴走している状態にあるだろう。そんな現実にあって本書が提示する非分離技術・場所資本は非分離によって分離を実現する、さらなる分離の基盤にもなると思う。
ところでこの本、本居宣長の研究に対する論述も多く膨大な文献が参照されている。山本は、いまネットで知られている有名な保守派言論人の誰よりも本居宣長に詳しいと思う。というより日本論についても、九鬼周造などの京都学派の枠を超え、土居の甘えの構造から河合隼雄の中空構造論、その他もろもろまで読破、言及しており、知識理解の水準がYouTuber言論人や二流大学人と次元が違い過ぎて驚かされる。
世の中で天才とか歴史とか神とか言われているやたらとYouTubeに登場する人文学系の言論芸人はぜんぜん歴史じゃないし、神でも天才でもないことを知って欲しい。
山本は世界中に長期滞在してきた経験から四カ国語をマスターし世界中の文献を読みあさっているようである。震災のときは原発事故現場にいち早くかけつけ観察したという。
ところで最近、僕は中学生レベルから解説してくれてる英文法の大学受験用の基礎的な本を読んでいるのだが、2~3週間は読んでようやく分詞構文のところまでたどりついた。こんなに時間がかかるとは。
日に20分くらいで週五ペースで読んでいるのだが、一カ国語の文法をマスターするのにかかる記憶コストは膨大そう。文法は簡単には数学的に割り出すことはできないし、現象学的に出力することもできず規則の暗記勝負であり理系にはつらい。高校時代は英語は赤点で補習をうけていて、受験では英語の問題は単語の問題すら読まずに適当にマークし、数学と物理しかできなかった自分が英文法をやることになるとは。
結局、英語がある程度は分からないと日本語がなんなのかも分からない。
しかし、受験バトルマシンは点取りゲームのためだけにこの苦行をやるという。まったく信じられん。この国の教育は狂気だと思う。偏差値や金にしか価値を見いだせない動物が昭和以後の日本人の正体ではなかろうか。
さておき本書の非分離技術の考えは汎用性が高く、たとえば日本のお笑いの分析にも必須と思う。
日本の笑いについてM1審査員の立川志らくは、イリュージョン的で意味不明だけどフレーズで笑える、という特徴があると言っていた。
これをラカンはララングと呼ぶのだが、ララングへの着眼は時間の根源的今の位相にあり、非分離技術の典型だと思う。
商業資本主義の爆心地にあるM1にあっても非分離が作動しているのかもしれない。
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