タロットが当たる理由をユング心理学で解説【科学者を論破】

筆者所有のギリシャ神話のタロットカード

うたまるです。

今回はタロットについて、科学的、心理学的に検証してゆきます。
タロットというと、占い師けんけんなどに、インチキとか当たらない、デタラメだと言われる一方で、一部の人たちからカルト的人気があり古来より多くの人々に愛されてきました。

そんなタロットの意味をユング心理学で解説し、タロットが当たるのか論争を完全決着させます

この記事の内容を理解すれば、タロットをインチキよばわりしてくる人たちをフルボッコできます。

またユングで解説と言っても、タロットカードの象徴解釈はしません。ここで論じるのはタロット占いは当たるのかについてと、占うという営みがそもそも何を意味するのかについてです。

タロットと運命の知られざる関係にも踏み込みタロット否定論者を完全に論理的に駆逐できる内容にもなっています。

雨乞いの儀式とタロット

タロット占いの当たる当たらないを理解する上で、最初に雨乞いの儀式を参照し、そこからタロット占いが持つ因果関係を明らかにする。

また雨乞いの儀式もタロットも本質的に非常に近いので雨乞いの儀式を理解することはタロット占いを理解することに直結する。

タロット占いに対する批判ではタロットカードと現実の出来事には何の因果関係もない、だから当たらない、というロジックをさっそく論破してゆこう。

雨乞いの儀式と雨の関係

太古の時代、人類は農作物の成長のため雨を望み、雨乞いの儀式をした。

そして今も雨乞いの儀式をする部族は存在している。

科学万能を騙り論理実証主義を標榜する占いアンチは、雨乞いの儀式と雨が降ることとの間の因果関係を否定するだろう。

ところがこれは的外れと言わねばならない。そもそも現代において雨乞いの儀式をしている側は、儀式によって雨が降るとは考えていない。

雨期に雨乞いの儀式をなすことで、循環する季節を部族の神話的コスモロジーのうちに基礎付け、雨という現象についてを自らの生に連関させることに雨乞いの意味はある。

そこでは雨と儀式は一体であり、雨が降るから儀式が行われ、儀式が行われるから雨が降るという儀式と雨との共時的な認識が支配的といえる。

したがって部族における儀式と雨との因果関係的な認識とは相互的な関係にある。双方がともに結果であり原因であるというウロボロス的な関係なのだ。

だから部族が我々の雨乞いの儀式によって、雨が降る!という言い方をしたとしてもそれは現代人の認識のように雨乞いの儀式が物理的に外界の天候に作用して雨が降るという意味に解すべきではない。

では相互的・共時的な儀式(主体的意味付け)と外界の雨(客体)との関係が、そもそもなんなのかを確認してゆこう。
ここが分かると一気にタロット占いが何をやっているのか分かるし、アンチ占い論者を完全論破可能になる。


雨乞いと主客未分

現代人は雨などの天候と、その天候に対する主観的なイメージや感動を分離する。

つまり現代人の場合、雷に神の怒りのような迫力を感じてもそれは自分の内面だけで感じる主観に過ぎず外界の雷とはなんの関係も無いと考える。

したがって現代人おいては、神話的な雨乞いの儀式という共同主観的な雨に対する物語(比喩・印象)と外的現象(客体)の雨そのものとの関係は切断される

このような儀式と雨とが分離された現代的意識では、儀式が外的な雨に対する原因とはならないのはいうまでもないだろう。

しかし古代人の意識はそうではない古代人にとって外的なモノや出来事(客観)と、その外的なモノに対する主観的なイメージは融合している。したがって内面と外界、主観と客観はひっついており分離していない。

そのため主観的なイメージはそのまま外的事実でもあり、外的事実はそのまま主観的イメージでもある。このような古代人の意識ではイメージおいて外的出来事が規定され、その逆に外的出来事においてイメージが規定される。

事実、文化人類学の研究によって、前近代的な部族や古代人の言語活動には比喩がないことが分かっている。
比喩がないということは、大きな木を見てそこに神のごとき偉大さを感じれば、その木がそのまま神になるということだ。

比喩のない意識では、あらゆる内的なイメージは外的事物として実体化することになる。そのため古代人にとって、神話という内的な物語(比喩)も外的事実として実体化している。

つまり比喩であれば、「まるでこの木には神がやどっているようだ!」となるが、比喩がなくなると、「この木には事実として神が宿っている!」となるわけだ。

比喩なき認識とは、外的・客観的対象の木に対する内的・主観的な印象としての神のイメージ(偉大さ)が、そのまま実体化し外的な木と一体となることを意味する。

また、このような内外、主客の一体化は、主観的イメージによって外的対象の知覚を能動的に変化させることを可能とする。

つまり主観的なイメージひとつで、森の木は神木になったり、ただの木になったり呪いの木になったりして、人々の主観的・物語的世界に参与してゆくということ。

すると雨乞いの儀式において、その儀式が外界の雨にどのように原因しているかも分かるだろう。
雨は儀式を通じることによって、降るべくして降る神の恵みとして、物語的に実現するのである。

逆に言えば、儀式なしの雨はいわば、無意味の雨、偶発的な雨に過ぎない雨が民族的なコスモロジーにおいて必然性をもって降るのはあくまでも儀式によって雨という外界の対象が意味付けされ、再規定されるからに他ならない。

この意味において、儀式は降るべきものとして雨を降らせるといえよう。

最低限の説明をしたのでいよいよタロットの秘密を暴いてゆこう。

タロット占いの運命と意義

タロットカードの画像
タロットカード

タロット占いとは、シャッフルしたカードを定められた方法で規則的に配列し、そのカードを自分で選ぶことで自らの行く末ととるべき行為を決定する一つの儀式である。

このことから、タロットには外的出来事の内的な基礎付けの機能があり、雨乞いの儀式に似た構造があると分かる。

つまり、外的な出来事を愚者や塔など様々なイメージ(比喩・物語)と結びつけ、自身が経験する外的な出来事を主体に基礎づけるいとなみがタロット占いといえる。

ここでタロットの価値を知るため、科学的な世界観を確認しよう。

科学的世界観によって、主観から完全に切り離された外的出来事は、個々人の主体に対して全く必然性をもたない偶然に還元されてしまう。

つまり世界は意味(リアリティ)を喪失している。主観から切り離して客観がある以上、これは当然である。

たとえば交通事故で恋人が死んでも現代の科学的世界観においては、その交通事故(外的出来事)にはなんの意味も無い。まったく無機質な物理学に還元されてしまう。

よって科学的には、まったくの偶然、無意味に理由なく、恋人は失われたと結論されるのだ。それゆえ啓蒙主義的な科学万能論は圧倒的なニヒリズムを抱えているといえよう。

以上からタロットとは主体から切り離されて意味を喪失した外的出来事に、主体的な意味を表象する内的イメージ(カードの絵)を結びつけることで、外的出来事を自己存在に基礎づけ、自分にとっての主観的な世界・出来事との必然性を回復させることだと分かる。

これこそがタロット占いの現代的意義に他ならない。外的出来事を個人的に受け入れるとき、その出来事が個人的な必然性を生じるのはいうまでもなかろう。

一目惚れが分かりやすい例だが、一目惚れの相手はたまたま自分の目の前にいただけで客観的には必然性がない。しかし一目惚れした当人にとってその相手とその場所で偶然に居合わせたことは紛れもなく運命であり必然なのである。

したがって意味とは偶然を必然へと受容・変換することに他ならない。この意味で、内的な意味付けは外的出来事に原因するといえる。

というのも必然性とは強力な因果関係のことに他ならないからだ。したがってタロットが当たるというときタロットは個人的な外的事象を主体的に意味付け、そこに客観的・科学的な因果関係ではなく個人的・主観的な因果関係=運命をとりだしているのだ。

だからタロットは当たる当たるとは、言い換えれば、タロットという儀式を通じて客観的には偶然に過ぎない出来事に内的、実存的な因果関係がつど創られるといってもいいだろう。この点はまことに雨乞いの儀式とそっくりである。

タロットと運命

筆者所有のギリシャ神話のタロット
ギリシャ神話のタロットカード

タロット占いがユング心理学視点で優れていると考えられる特徴に偶然の受動がある。

上の項目で示したとおり無意味な外的出来事を主体的に引き受け、能動的(主体的な)意味づけをなすことで人はニヒリズムを克服して生きてゆける。

つまり、このような心理療法的ないしは儀式的なタロットのプロセスは、偶然を主体的に引き受けて主観的な必然(運命)となす、という形式でなされる。

ここでタロット占いを具体的に見てみよう。

タロットは、シャッフルしたランダムのカードを複数枚配置し、その中から任意のカードを自分で選び、そのカードをめくって露わになるシンボルによって占い意味付ける。

まずカードをシャッフルすることは偶然を意味するつまりプレイヤーはカードのランダムな偶然性を引き受けるしかない。好みの運命を自分の都合で選ぶことはできずシャッフルというランダム、偶然に自らの運命は託されることとなる。

またシャッフルされたカードは裏返され、テーブルに複数枚配列され、プレイヤーはその中から自らの運命を自分の手で選択することになる。ここが重要で、もしテーブルに一枚のカードだけしか置かれなければ、主体的に選ぶこと、選択ができず、主体の能動性がなくなってしまう。

といって配列されたカードが表向きで、つまりシンボルがあらわな状態で選択してしまえば、選び取られるカードは最初から必然であってタロットの本分は損なわれる。

だから偶然に支配されたランダムなカードから一枚を自分の意志で選ぶとは、偶然を意味付け内的な運命(必然)とする主体の能動的な参与をなす重要な行為だと言わねばならない。

あらゆる儀式がつど行為されることで意味をもつように選びとるという主体的な参与によってこそ主体的な意味としてタロットのイメージ(意味)は機能するのだ。

したがって占いは人生における外的出来事を率先して主体に基礎付け、そこに実存的な意味(運命)をつくりだす行為的な儀式といえる。

この意味でタロットとは、人間の生の営みの本質構造がモデル化され、むき出しになっている。体験の主体的な意味付けなしに人が生きられないことは離人症を見れば明らかである。

タロットが当たるとは

この項では、あらためてタロットが当たる、ということの意味を整理しよう。

タロットが当たるというのは内的で個人的、主観的な確信における外的事象の主体的意味付けに他ならない。

自身の人生に意味ある出来事して、外的な出来事を積極的に組み込み偶然をして運命となすこと。
したがって受動をして能動へと転ずることがタロット占いの意義でありタロットが当たるということの本質と言える。

占いという主体的選択行為によって、外的事象を運命(意味)として引き受けつつ創りだす(意味付けする)とき、その意味は、ある種の人生という物語を構成するのだ。

つまり占いは個人の物語(ヒストリー)を主体的に形成し、その物語は主体の積極的な外界への参与を促し、未来をつくりだす。

そのため占いは物語において未来を予感したり、つくりだすことでもあり、その意味でタロットの示す未来は物語によって一定の主観的必然性を帯びることとなる。

繰り返すが、主体的な意味付けにおいて生じる必然性こそがタロットが当たる、ということの真実に他ならない。

タロットと科学

タロットはデバンカーや統計信者の占い師けんけんから激しく罵倒されているようだ。

しかしここまで読まれた方なら、そのような科学的批判が、まったくの的外れであることはもうおわかりだろう。

統計的に相関係数などを算出し、そのデータから客観的な因果関係を高精度で抽出した、科学的予測占いにおける未来への言及はまったく意味が違う。

占いは本質的には客観性だとか客観的出来事には関わらない。占いがその領分とするのは客観的出来事に対する主体の参与であり、主観性に他ならない。

占いが関わるのは主観的なウロボロス的因果関係。

いわばイメージに関わるのが占いなのだ。たとえば木を見てそこに神のごとき偉大さ(意味)を感じたとしよう、科学はこのとき木に感じる主観的な印象(神のごとき偉大さ)を取り扱うことはしない。

科学の研究対象は客体なのだから、これは当たり前だろう。

対する占いや儀式が伝統的に取り扱ってきた対象は、木という客体そのものではなく、木という客体に対する主観的な印象(意味)であり比喩的なイメージだ。

まず科学と占い、両者の対象の次元の違いをごっちゃにして批判するのは馬鹿げている。

占いの課題と問題点

タロットカードの画像

ところで既に述べたように古代では主観と客観は一体化していたため、外的事象を扱うことと内的イメージを扱うことに差はなかった。

しかし科学が生じ科学が支配する現代人の意識では主客は峻別されている。

現代の占いの最大の問題はここにある。かの有名なCGユングが、とくにこのことを問題視していたのは周知のことだろう。

主客が一体だった時代から引き継がれている占いの儀式は、外的出来事と内的出来事の区別がない。
そのため現代において古代・中世からの占いを素朴に引き継いでしまうと主客が混同され、その本義が見失われてしまう。


いわば占いの形骸化が起きてしまうのだ。

たとえば占いの因果関係や未来への言及を、そのまま客観的な因果関係や予測と混同し、実体化してしまえば、主体的な意味付けという占いのミッションは喪失され、危ないオカルティックな占い信者を生み出すことになろう。

これは非常に問題で、現代では、タロットを含む占いを入り口にした霊感商法詐欺ビジネスが横行している。その被害者は数知れず場合によっては人生を破壊されてしまう。

この主観(心・内面)と客観(外界)の区別は、医学においては身体医学と精神医学(心理学)の区別に相当する。じじつ近代に入って両者は明確に区別されるようになった歴史がある。

そのため古代の医療は精神も身体も区別なく全てシャーマン、日本で言うとイタコなどが引き受けていた。太古の昔は、身体と心の区別がないので、身体的治療までシャーマンがやっていたのだ。

しかし現代では主客を峻別する西洋医学と科学が入り込み、主観性の病は心理療法が扱い、身体(物質)は身体医学が扱う。
(※心身問題は非常に複雑で、たとえば脳科学の心脳問題にもあるように脳・身体(物質)と心(非物質)との関係は多くの学問で文理問わず論争が絶えず、身体医学と精神医学も明確に分けることができない)

そしてエレンベルガーの指摘にあるように、現代の心理療法のメカニズムは古代のシャーマンの儀式とさほど変わらない。現代の心理療法の起源はシャーマニズムや占い、宗教にある。

(※心理療法に限らず、たとえば政治も政と書いてマツリゴトと読む、これは宗教的なお祭り事が語源である。政治もその起源は宗教儀式にある)

したがって、占いも、自らの意味と扱う領域を明らかにする必要があろう。

まず占いは客観的な因果関係にも客体にも関与しないことを宣言し、その職能が現代における魂(主観性・イメージ)の救済に限定されることをはっきりと認めるべきだろう。

このようなイメージと客体・客観との差異をユング心理学では心理学的差異(=魂)と呼び非常に重視している。いわば現代のタロット論争はこの心理学的差異の混淆に起因しているのだ。

(※心理学的差異という用語そのものはユング派の心理学者ギーゲリッヒによる。この用語はハイデガーの存在論的差異がベースとなる最近は魂を勝手に実体化してオカルトと思い込む情弱が多いので困る)

というわけで、占い師がよくやる、あなたは何年前に離婚して犬を何匹飼っていて、どうたらこうたらと具体的な客観的出来事を予言するようなマジック・パフォーマンスは考えものである。

こうした主客の分離した現代で、このようなパフォーマンスは、明らかに占いの職分を否定し、占いをいだの霊感商法に変質させる一因ではなかろうか。

タロットとユング心理学

ここでは、タロットとユング心理学、精神分析がいかに同質であるかを確認しよう。

まずはタロットの特徴であるランダムなカードを自ら選択するという偶然の必然化のプロセスをユング心理学で紐解く。

タロットが、もし選ぶカードが表向きであれば、プレイヤーは自分にとって自分にふさわしいと思うシンボル(意味)のカードを選択することになる。

これでは日常の自我意識の体系から一歩も出ることがなく、心理療法として機能しない。つまり占いにならない。

ところで心理療法の歴史は神経症(ヒステリー)の治療にはじまる。神経症とは心の問題から当人を困らせる症状がでる状態のこと。

神経症は、自分は~な人間だ!という自己存在に対する意識の決めつけがあり、その自我意識の決めつけから溢れた自分の知らない自分の一面が、自我によって無意識に抑圧されることで生じると解釈される。

したがって症状は自我(私)が受け入れるのを拒絶した自己の一面が症状(私ならざる他者)として行為や象徴の形で漏出している状態といえる。

ユングの場合には心の全体性を想定し、一面的になりすぎた自我意識の補償として、意識と無意識の心のバランスを回復すべく、心が抑圧された一面を自我として認めろというメッセージを症状として発信していると考える。

また自我意識は日常生活に属し社会的な自己のあり方=ペルソナに支配されがちで自らの決めつけによる同一性に固執しがちとなる。

こうして自我が頑固になって心からのメッセージを無視することで、バランスが崩れさらにメッセージ(症状)が強くなるジレンマが神経症のよくあるパターン

また自我意識が決めつけ的な自己イメージに固執するのは、自我が属する文明社会の日常性が、同一性を要求することに関わる。

文明社会では昨日と今日で性格がかわってしまったら困るということ。文明とはその起源を農耕にもつことからも分かるように、予定することでなりたつ。

たとえばバスが何時何分にくるかが分かっているから人は計画通りに通学・出勤できるわけで、文明とは変わらないことを要求する。

もし変わるとしてもそれは計画通りの変化しか認められない。つまり経済成長などの成長という積み重ね、連続性を前提とした変化だけが許容され、計画にない偶然性(非連続性)は排除されてしまう。

予定によって発展する文明社会では客観的な必然生が求められるといえよう。

かくして、このような同一性と連続性に支配された日常世界に順応する自我意識は、硬直的で抑圧的となる。

よってもしかりに、タロットで選択候補のカードが全て表向きで配置されたら、そこでの選択は自我によって計画された同一性と連続性の支配する神経症的な未来の選択に直結する。

これではますます抑圧は高まり神経症は悪化するのだ。

したがって予期せぬ偶然が必要になる。偶然とはタロットでカードをシャッフルすることからも分かるように、ランダムな確率に支配された出来事を示す。

偶然の出来事を予測できる人など存在しない。したがって偶然とは想定も予期もできず、文明の連続性と予定性に支配された自我意識の外側に属するものといえる。

意識の外部を無意識と呼ぶ訳だから、無意識へ抑圧されるものは主体的な意味付け(必然性)を拒まれたものであり、それらは主体にとって全て偶然である。

したがってタロットにおいて裏返されたランダム(偶然)なカードを自ら選択し引き受けることとは、偶然という抑圧された症状の元を意識へと統合する行為を示す。

自ら選び取るということに自我の能動性があり、主体的意味付けという行為として偶然は必然へと転じるのだ。

以上から、タロットが持つカードの偶然という運命を引き受けることは、そのままユング心理学的な心理療法プロセスを踏襲していると分かる。

タロットを科学者が見れば、なぜ裏返されたカードを選ぶのか、裏返されているなら選べないのと同じ事、選ぶ意味が無いと考えるだろう。そして科学的に考える限りその理由を洞察することはできない。

しかし心理学はそれが、引き受けるという受動的能動性の儀式であり主体化のための人間に根源的な行為であることを見抜く。


せっかくだから次にラカンやフロイトの精神分析でタロットを確認しよう。

精神分析では、言い間違いなどの自我意識の想定外の主体の行為を錯誤行為といい、これは症状と同じ次元に属すると解釈される。

フロイトの有名な精神分析のテーゼにそれ(イド)があったところに私を至らせねばならないというのがある。

これは自我意識からはみ出て私の行為としては引き受けられなかった、私ならざる「それ」による錯誤行為(偶然)を私の行為(必然)であると引き受けよ、という主体化の要請である。

これもタロットの偶然を選択行為により主体化するプロセスにそのまま相当していると分かる。

(※ラカンは症状をメッセージと享楽に分け、メッセージの欠如の引き受けを精神分析の本質とする。ユングとラカンの違いは根源的今をあるとするか欠如とするかであり、ユングの視点は木村敏に極めて近い)

ようするに症状をカードに置き換え・転移してみれば、タロットはすっかり心理療法として機能しそうなのだ。

また、タロットの構造から言えるのは、運命とは実存的・主体的な必然性のことであり、本質的にそれは偶然であること。

タロット・運命・偶然

もし客観的な因果関係が明白であるなら、人は未来を自分勝手に選択できる。そのため科学は客観的因果関係を暴くことで事象の未来をコントロールすることを目指す。

そのような科学の取り出す客観的必然性は、予測可能なゆえ選択可能とえいる。
たとえば、シミュレーションでいつどこに隕石がおちるか分かっていれば、人は隕石をよけることができる。

しかし運命とは避けることができな絶対的な定めを意味する言葉である。つまり客観的な必然性は運命とは必ずしもなじまない。

むしろ避けられない事態とは、予測できない事態なのであって、それは偶然の出来事に他ならない。神にサイコロをふられたら人はもうその運命にゆだねるしかないだろう。

以上から予期できない偶然を自己存在にとっての決定的事態として引き受けるとき、客観的偶然は主体的・実存的必然である運命となるのが分かる。

この素朴な現象学的考察が意味するのは、運命とは客観的な概念ではなく、主体的概念に属している事実。

ゆえにタロットは運命をときに変更し、時に引き受けさせ、また引き受けによって能動的に創りだし、人間存在にもっとも根幹的な運命への干渉を可能とする強力な儀式だといえる。

客観概念を語るしかできぬ科学では運命という主観性を取り扱うことはできない。

したがってタロットは科学万能の現代に残された、科学の介入できぬ人間存在の聖域への通路であり、すぐれて心理療法的なポテンシャルをもっているのかもしれない。

現代のオカルト

最後にせっかくなので現代のオカルト(過度な神秘主義)についてとりあげる。

まずいうまでもなく占いを客体的だと思い込んでいる場合は霊感商法にあう可能性が高い。そのためオカルト的だと言える。
必ずしも悪いこととはいえないが、この時代に主客がごっちゃになってしまうとリスクも大きい。

つぎに、主観を扱う占いと客観性を扱う科学との対象の差異を混淆しストローマン論法のかまびすしい論理実証主義者。これも典型的なカルトではないかと考えられる。

このタイプの科学万能論者は統計や科学的という権威ワードに弱く、そのくせ科学の定義すら知らなかったりする人がやたらと多い。

たとえば某自称国際政治学者を思い出して欲しい。彼女がAIの統計計算によってコロナピークアウトの完全予測を実現した!という主旨の非科学的な大予言者宣言をテレビで開陳したことは記憶に新しいだろう。

これこそ現代のノストラダムスではないだろうか。少なくともフロイトならそう考えるだろう。

重回帰分析も統計学もまったく知らないくせ、科学とか統計とかAIとかの権威ワード1つで思考停止して盲信する日本人は多い。

どうということはない、大衆にとっては、かつての宗教と信仰が、そのまま科学と知に置き換わっただけなのだ。宗教と科学が異なる位相に位置しながら反目しあう理由もここにある。

ネットのそれっぽいだけスカスカの情報に毒され、学問的な知性を欠いた大衆にとって、科学とはどこまでも宗教の代換え品なのだろう。
現代ではエセ科学が呪術的に信仰されている。

このことはメンタリスト(メンタルマジシャン)を参照しても分かりやすい。タネのある手品をしてみせて、これが科学と心理学の力です!とホラをふく、すると日本人はこぞってそれを信じて鵜呑みにする。

こういう、やからがタロットだとかの占いを非科学的だと吠える様は滑稽を通り越して不快でしかない。

およそ科学とはほど遠く非科学的発言を乱発するカルト教祖が科学真理教から誕生した事実は見逃せない。

占いが客観的な事物を扱うエセ科学と混同され批判される一方、大衆の科学幻想は極めて宗教的な色彩を放つエセ科学観に支配されている。

ゆえに科学信者とオカルトマニアは本質的には同質といえるだろう。

もはや心理学的差異の混乱は、社会を崩壊させかねない事態に至ったといえば言い過ぎだろうか。

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