うたまるです。
ジブリ作品の監督として有名な高畑勲による辛辣なアニメ批評(自己批評)をご存知でしょうか。
高畑氏の批評は僕のようなゲームフリークやアニメオタク、シネフィルなどのサブカル愛好家や評論家、クリエイター、監督にとって耳が痛いことで有名なようです。
というわけで、今回は高畑氏によるアニメーション史観(アニメ批評)を超克し、ファンタスムの世界を蘇生します!
この記事の経緯と前提:注意点
この記事はYouTuber『おまけの夜』の動画で高畑勲によるアニメ批評の解説を見て書いた。
しかし書き終わったあとで高畑勲の評論文を読まずに動画で聞きかじった内容のみで記事にするのはまずいと思い高畑勲著『アニメーション、折にふれて』購入して読んだ。
そこで分かったが高畑勲は単純にアニメーションを批判するでなく、加藤氏の理論に依拠しつつ日本文化の底流をなす現在主義の功罪と絡め、現代のたとえばなろう系異世界転生作品に見られるような物語性やアニメーション演出を主な批評の標的とする。
つまりアニメーション全般の否定でなく今日的なアニメの潮流をこそ批評の標的とする側面がある。
しかしながら、その批評には明確な幻想(アニメ)に対する現実世界の優位という前提が置かれている側面があるのも事実、その意味ではファンタジー全般を批評する側面を持つ。
ここでは高畑勲のアニメ批評がもつ現実優位主義の側面にフォーカスして、その批評がどのような構造によって要請されるかを暴き、その論理のヘーゲル的な止揚を試みる。
したがってこの記事では高畑勲氏のアニメに対する多様な姿勢のうちの一つを抜き出し拡大したうえで論じることになる。
ゆえに他方、高畑論はファンタジーが現実との接点をもつことを重視しているともとれるが、当記事はその側面をより純化し強化することに寄与する。
つまり高畑論にはファンタスムそのものの否定という側面とファンタスムの今日的形式(内容)の否定という側面が内在しており、この記事が試みる止揚とは前者のあり方の否定に他ならない。
ゆえに当記事は、高畑理論がもつファンタスムそのものの否定性をすくい上げそれを止揚(批評)する。
その点で当記事の高畑論解説は総合的な高畑論総括と異なり、ある面のみを拡大するため偏った印象を与えるかもしれない。
高畑勲のアニメ批評の概要
僕たちが高畑勲のアニメ批評を乗り越えるにあたり、まずは高畑氏の批評の概要を確認したい。
高畑勲による批評の要諦
以下に高畑理論のファンタジー批判の要諦を示す。
かつて創作物の読者や観客は自らの想像力によって能動的に感情移入をする必要があったが、アニメーション技術の発展、CGの向上、巻き込み型の映像演出の誕生によって、アニメを見る観客の視点は物語を俯瞰する視点から主観的に入り込む視点へとシフト。
ディズニーなどの欧米のアニメではキャラは客観視点で描かれたが日本のアニメーションでは主観的映像演出(巻き込み型)が生み出された。
※巻き込み型とは、それ以前の客観的、三人称視点的な構図と異なり、主観没入的な構図を示す
アニメにおける視点の客観から主観への移行とCGの発展で、アニメ視聴者の感情移入は受動的となる。これによって大人がアニメを抜け出せなくなり、現実へと帰還できなくった。
感情移入とは元来、自分が感情移入してゆくものだったが、アニメの変遷にともなってアニメが感情移入する主体となった。これによって視聴者はファンタジーにつかりきって抜けられなくなる。
さらに3Dアニメーション技術の誕生によってくだらないアニメにリアリティが与えられ、非現実的なご都合主義のイメージに安直なリアリティが生じ、観客はその欺瞞に没入しアニメに現実逃避の場を見出すに至る。
またアニメの提供するリアリティは現実を超えて、子どもたちの原風景を構成、現実がアニメにおとるものとして廃棄され、ますます人はアニメ世界に引きこもる。
かくして引きこもりが増えるに至る。またアニメやゲームの物語も虚構としての心地よいリアリティを与え続けるものが増えた。努力描写を欠き視聴者の分身たる平凡な主人公がご都合主義的に成功を収める物語は現実社会へのイメージトレーニングとして破綻している。
したがってこのような幻想世界から抜け出せない人たちは、作家か評論家か引きこもりになる。
ゲームが引きこもりの癒やしなのではない。ゲームやアニメが引きこもりを生み出す。
だからアニメや漫画はくだらなくてよかった。というのも成長するにしたがいあんなくだらないものに夢中になっていたのかとファンタジーを捨て現実にコミットできるから。
※ただし高畑はトイストーリーなどピクサーアニメを高く評価している。おもちゃを主人公とすることで人間である視聴者は人ですらないオモチャとは同一化に限界が生じ、ファンタジーと距離をとれるため
以上が高畑勲によるアニメ批評=自己批評の概要である。
ユング心理学を知る人には言うまでもないが、このようなアニメ史観、アニメ批評はキリスト教ないしはポストキリスト教としての啓蒙主義思想に近い。
高畑理論が含みもつ一面を一言でまとめれば、それは、夢から現実へ覚醒せよ!というキリスト教的なテーゼを含む。
また高畑の批評はアニメーターである高畑勲自身による自己否定であることも非常に重要となる。
『おまけの夜』による解説動画
以下に、『おまけの夜』というYouTubeチャンネルの高畑による批評を解説した動画を貼っておく。
夢(ファンタスム)の歴史と高畑勲の共通点
さて、高畑理論を理解するためにはどうしてもファンタジーの人類史を心理学的に把握せねばならない。
したがってここでは人類最古のファンタジー、夢の人類史を振り返り、高畑理論と近世、近代の夢理論との相同性を確認したい。
読者はこの項を読むことで高畑理論がキリスト教的な夢理論と共通点を持つことを知るだろう。
※夢の歴史についてこの記事は河合俊雄『夢とこころの古層』を参考書籍とする
古代の夢
西洋では紀元前1200年頃のギルガメッシュ叙事詩において、夢とその解釈が中心的な位置を占める。
この頃の地中海世界の夢は神から送られたものとされる。これは旧約聖書についてもいえる。
また古代インドでも夢と現実の区別はつけられていない。
※ただしギリシャ文明では現代に近い夢理論も一部存在
また古代ギリシャではインキュベーションという聖地の洞窟にて治療夢をみることで病気を癒やす儀式が盛んであり、夢は身体医学にもつうじていた。というより精神医学と身体医学の区別が古代には存在しない。
さて、近現代における夢分析は、古代と異なりその解釈を必要とし、フロイトが示すように夢は抑圧された欲望を隠し持つのであって、その夢が隠す無意識の欲望を言葉によって解釈することで神経症の治療がはかられた。
※ユングも夢を解釈することを目指したが、夢は隠さないといい、夢の操作である移動(換喩)の機制を認めなかったのはあまりに有名
したがって古代において夢は直接的でその解釈を必要とせず、しかもその夢は直に神と繋がっていたわけだ。現代で夢が個人の脳という閉ざされた器官に限定された主観的なイメージと解されるのと比べるとまったく対蹠的だと分かる。
さらに日本の古代の夢も紹介しよう。
日本の夢といえば、古事記に登場する崇神天皇の物語はあまりに有名だ。崇神天皇は疫病で社会が混乱に陥ったさい、神とであうため専用の神床(かむどこ)にこもる。
すると夢に大物主(神)が出てきてオオタタネコという人を見つけ自分をまつらせよ、という。さっそくオオタタネコなる人物を発見し祭らせると疫病は収まり一件落着。
※天皇は天照系だが大物主はスサノオ系であり天皇がスサノオ系を祭るところに日本神話の特異性があったりする
神床で夢を見て解決する夢のあり方は古代ギリシャのインキュベーションにも似ている。
ここで重要なのは夢を見るのは天皇であって、その夢の作用は夢という幻想世界(アニメ)を超えて現実に直接に作用すること。しかも天皇個人の現実ではなく民族全体の現実に直接に作用してしまう。
夢は公的であり古代日本では、しばしば夢は王だけがみる特権的なものだった。夢にでたオオタタネコなる架空の人物を現実に見つけ出してお告げを実行するなど現代の夢分析ではない、極めて直接的な夢のあり方。
またこれと関連し古代では三人同夢、二人同夢もよくあった。このことからも夢世界は個人の内面に限定されず他者と直接無媒介につながっていたことが分かる。
※三人同夢などの現象は現代では、ある場所に居合わせた人たちが同じ心霊現象を目撃するといった事例に対応するだろう。主観的な心霊体験が間主観的に共有されているので三人同夢と類似の現象といえる
他にも夢喰い獏の話や夢の破壊的作用など興味深い古代の夢の特徴があるが、とっとと本題にすすむためそれは割愛し、以下に古代の夢の要点をまとめよう。
まず古代の夢は現実と夢との境界をもたず、そのまま夢世界と外的現実とは直接的につながっていた。
さらにこれに関連して夢は個人的なものではなく民族全体で共有され、王の夢みる力が民族の運命を握ることもあった。
現代で夢が現実と区別され、あくまで個人の脳が観る個人的で主観的なものとさるのとは対蹠的。
また古代の夢には解釈はほとんど必要なくそのままの形で理解された。これも現代で夢を象徴(比喩イメージ)とみなし、その意味を解釈するあり方とまったく異なる。
また三人同夢などの夢の普遍性と夢と現実の境界のなさは同じことを示す。というのも外的現実というのは客観的(普遍的)であって夢(主観)と客観の区別がないとは、自分の主観と他人の主観とが未分化であることを示すからだ。
つまり、主観が個人的なものとして他者の主観と区別されることで、はじめてそれは私の主観として外的現実(客観)から区別されるということ。
わかりやすく言い換えれば、みんなに見える赤い箱は現実に実在するが私にだけ見えて他の人に見えない箱があればそれは私の主観(幻視)に過ぎないように、私の主観が他の人の主観と異なることで主観は客観から区別された主観となる。
したがって私個人の主観として夢が他者の内面と区別され個人の内面に閉じられることはイメージ(夢、アニメ)と外的現実との分離を示す。
これを哲学や心理学ではしばしば主客分離といったりする。
以上から、客観や外的現実といわれるものは、主観(意識)の内で自他の内面の差異化に伴って主観それ自身が分節することで構成された主観的構造に過ぎないことが分かるだろう。
※初期ラカンのシニフィアンの論理は言語を他者の審級と見なし、主客分離を言語化のプロセスとして暴く
現実とは心的現実(幻想)が一次的であって外的現実は二次的なものにすぎないのだ。またハイデガーも前者を実存的時間、後者を客観的時間としてカテゴリーを分け前者をこそ本質的だという。
※このような夢に関する理論や受け入れの変遷はそのまま夢内容の構造の違いにも反映される、じじつ数十万例を軽く超える100年にわたるユング派臨床研究から夢の構造が人間の主体の構造にともなって変容することが強力に示され続けている
中世の夢:ヨーロッパ
古代の夢を見たので、今度は中世の夢の特徴を確認しよう。
ヨーロッパでは中世に入るととたんに夢の神的な威力もリアリティも退けられる。
これはキリスト教による影響が大きい。
じじつ旧約聖書には散見された夢という文字も新約聖書になると激減し9つの夢しか出てこない。
しかも新約では夢を見るという動詞は使われない。
聖書では「目を覚ましていなさい」という言葉があり、キリスト教は夢と眠りについて否定的で覚醒(外的現実への適応)を支持するのが特徴である。
古代ギリシャから日本神話にいたるまで、宗教において神への経路として重宝された夢がキリスト教では否定されるのだ。
むろんこのようなキリスト教の夢の否定は、そのまま高畑理論におけるアニメーションの否定、および現実社会への外的適応の賛美に直結するのはいうまでもない。
かくしてキリスト教は唯一の神を世界の外側におくことで、アニミズム的(アニメ)なものを全否定する。
かつてのキリスト教の贖罪規定書には自然信仰や迷信の禁止が規定されており、その当時はそうした信仰が生きていてそれをキリスト教が長い歴史をかけて排除したことが分かる。
つまりキリスト教は多様な神話世界の全てを個人の妄想・主観に過ぎないと否定し、一神教の神話のみを客観的現実の座につけ、個々の主観と客観とを分離したと考えられる。
この過程で個々の夢も個人の主観として外的知覚と区別され否定されることとなったのだろう。
つまり西洋では一般にいわれるような科学の発展による否定よりも前の段階で夢は既に否定されている。だから西洋では夢は中世と近代とで二重に否定された。
中世の夢:日本
日本の中世では自他、夢と現実、生死などはまだ未分性が強い。しかし古代との明確な違いも見られる。
たとえば聖徳太子が「夢殿」に託宣を乞うのでなく、禅定のためこもったのも、夢が私的なものへと転換するのを示す。
つまり中世日本において夢は崇神天皇のような公的現実より、プライベートな私的現実へと接続するようになった。
河合俊雄によれば、古代の終わりとは、公的なものと私的なものの分離にあるという。
この公私の分離から中世日本の夢は私的現実、生死や個人の運命をその主題とするようになったのだ。
※日本の公私概念は他者構造として日本語の言語構造と密接に関わる
しかし平安時代には、誰かも分からない住人の夢が疫病の流行を食い止めたという記録もある。そのため個人の夢は共同体と繋がっている側面も強い。
古代では王だけに独占され公的だった夢は中世になると私的なものとなったり、庶民の夢が公的意味をもつ事例も出てくる。中世日本では夢は共同体とつながりつつ個人的な現実とも直結し、また他人の夢を奪いその効能を盗むといったことも起きていた。
近世以降における夢
日本では江戸時代、18世紀末になると流行小説に邯鄲の枕を買う物語がある。
枕には値札がつけられ、購入して好きな夢が見られるという話。ここでは夢は神からのメッセージではなく庶民の欲望とされる。
このような夢を個人の願望充足と見なす考えは近代を代表するフロイトの夢理論に一致する。
さらに河合俊雄の著書によると、その小説の挿絵には夢が吹き出しの中に描かれ、その吹き出しが夢見手から出ているという。つまり夢は外的現実との境界(吹き出しの枠)をもった個人的なものとして描写されているのだ。
以上から西洋の影響とは無関係に日本においても夢は個人的なものとして変遷してきたことが分かる。
※西洋にも日本にもある歴史的夢の発展は、ヘーゲルのいう弁証法的な精神の自由、概念の運動を連想せざるえない
西洋近代の夢
西洋近代に入ると自然科学が隆盛し産業革命が起こったことで宗教が否定されニーチェによって神の死が宣言される。
これによって夢も無意味なものとして切り捨てられるにいたり、外的現実(客観)だけが実在だと宣言される。
現代社会においてしばしば、それってあなたの感想ですよね?という言葉が飛び交うがこれは主観的な価値判断に意味はない、客観的事実だけが大事というに等しい。
やたらと現代人がエビデンスと連呼するのも主観否定的に客観性を示せということに他ならないだろう。
このような否定が、先ほど確認した、中世ヨーロッパにおけるキリスト教のアニミズム否定(夢否定)と同型なのはいうまでもない。
つまり現代人はあくまでも客観的世界が絶対的に主観から独立してあると考え、その独在する客観に自己の主観を一致させよ、と言っているのだ。
※このような狂った認識論的錯覚がポストモダニズムや独断論の淵源となる、これをラカンは想像的誤認と呼ぶ
高畑理論の正体
既に確認したように、主観と客観の分節と独立は、西洋においては、まずもって主観の否定(自己否定)という仕方で生じた。
現代の科学的イデオロギーが支配する社会もこの一神教的な系譜にある。そのため外的現実への適応が崇められ、内的なファンタジー世界は子どもの世界、アニミズム的な世界として罵倒されることとなる。
また高畑のアニメ批評でもアニメ(アニミズム)は本来くだらないものでだから子どものうちは一時熱中しても大人になると馬鹿馬鹿しくなり覚醒するものであるべきだとされる。
※周知の通り深層心理学では子どもの世界を古代アニミズムと結びつけるのは定番
高畑のアニメ論の一側面が、一神教の延長上にある近代的イデオロギーを前提にしているのは明らかだろう。
さらに、このように洞察すると彼がアニメーターでありながらアニメーター的存在を辛辣に批評することにも合点がいく。
というのもキリスト教の原罪が典型だが、近代主体とは自己否定を経た主体のことで、その自己否定を介して主客を分離し、夢やアニメ(主観性)を否定する存在だから。
私の主観を他者の主観と分離することを考えるとこのことは分かりやすい。つまり他者の主観と未分化のうちは自己主観は自己のうちに限定されずそのまま普遍的客観性と融合している。
この普遍との融合を切るとは、自己の認識や価値観が絶対ではないと知ることを意味する。つまり自分の価値と矛盾し自己を否定する他者の価値観をも対等に認めねばならわけだ。
たとえば野球選手にとって野球のスキルが人間の価値であろうが、学者にとって野球のスキルは無意味な玉ころ遊びに過ぎないかもしれない。このとき野球選手が学者の価値観を認めるとは自己が無価値となる世界観も認めることに直結する。
つまり自己の価値を相対化し、そのことで自己を否定するプロセスを経て、主客分離が生じるのである。
高畑理論としてのアニメ酷評(自己否定)も、この意味で主観および主体の自己限定の営みに他ならない。換言すれば近代アニメーターとしての原罪を取り出しているといってもいい。
高畑理論の止揚にむけて
さて、基礎前提をなんとなく理解してもらったと思うのでここから本題に入る。
イメージと客観現実の実相
高畑アニメ批評にメスを入れる前に、本来のイメージと客観との関係性を改めてこの項で確認しよう。
古代においてイメージは現実であり外的現実とイメージは区別されなかった。
それゆえに幽霊とか神というイメージ(印象表象)が客観的実在と見なされていたのである。
※厳密には現実物の否定(対象との死別など)が霊などのイメージを、そのイメージの否定がイメージと客観の分離を構成するが、ここでは簡易化して論じる
ところがイメージ(夢)は否定される。このことで外的現実と内的現実との差異、つまり客体とイメージとの差異が生じて、両者は存在論的に異なるカテゴリーに分類されるようなった。
ここで大事なのは、客観的現実とは主客未分の意識の内で、自他の主観の違いが明らかとなったことで、意識が分節、差異化して構成されたに過ぎないということ。
何か主体や意識に先立って客体、客観現実があるのではないということ。
あらゆる対象、客体は自己身体のそのつどの世界との出会いにおいて生起する欲望(主観)によって分節されるわけだ。
※ただし意識を超えた世界は実在する、ただそれはニーチェがいうように認識の対象(客体)ではなくカオスであり生成だということ
たとえば腹が減ってるときにリンゴを見れば美味しそうなリンゴとしてリンゴが対象化・分節される。もしなんらの欲望も関心も無ければリンゴは感覚背景に溶けて対象化されえないだろう。
またリンゴの客観的な像というのは存在しない。たとえばエコーロケーションによって世界を認識するコウモリにとってリンゴの像は赤くない。そもそもコウモリの世界に色などないだろう。
つまり身体の器官と欲望とによって、つどカオスな世界が分節化されて対象が生起しているに過ぎないわけだ。
そして神もいないので客観的な世界の像というのも存在しない。
以上の事実が示すのは、もとより人間の生きられる世界には主観しかないということ。
この主観のうちで言語を介して獲得された普遍性の高いものが客観として仮説的に構成されているに過ぎない。客観とは意識のうちで自己分節的に構成された主観に過ぎない。
※厳密には主観とは主観ー客観の二項概念のため主観しかないというのは正確ではない
したがってユングはイメージのリアリティを提唱する。客観的現実があって意識があるのでなく意識世界がまず先にあるということ。
すると高畑理論の一端は、意識を否定し客体を絶対的なものとして独立して措定することで成立する側面を含むと分かる。
それゆえに高畑理論ではときに、主観(イメージ)と外的現実(客観)は独立して存在させられ、主観なしの客観世界という近代主体的な幻想が展開される。
※他方、高畑論では同時に幻想が現実を支えることへの洞察も含まれる
もし、現象学的に正当な認識をするのであれば、イメージを語らうこと、イメージを紡ぐこと、イメージを批評すること、それ自体が現実に作用し現実を構成することに直結すると考えられよう。
というのもイメージの世界、空想の世界と現実は同一のものの自己分節であってイメージのなんであるかは現実の様態に規定され、現実もまたイメージの様態に規定されるからだ。
客観的認識(公共的価値)は時代とともにうつろい、そのつど主観(空想)との関係において分節されている。
両者は個別に独立存在しているわけではないので、イメージについて語ったりイメージをつくることは逆照射的に現実を意味づけることに通じる。
事実、ユング派の心理療法では原則的にイメージ(夢、幻想)しか扱わない。そしてイメージのみを扱っていると、現実が変わって癒やされる。およそ現実を反映しないイメージなどないといってもいいだろう。逆にイメージを反映しない現実もありえない。
したがって高畑理論は引きこもりの心理療法論としてはそれを解決することはない。
さらに議論を先取りすれば、高畑理論がもつ客観優位主義の一面こそが、幻想に引きこもりイメージと現実との差異を消失してしまう事態を惹起するのだ。
※客観主義が幻想と現実の混淆を生じる逆説構造について詳しく知りたい人はこちらの未来予測記事を参照して欲しい
もっとも重要なイメージの特性について書き忘れたことに気づいたのでそのれについて述べよう。
まずイメージとはアニメを見ても明らかだが、極めて具象的である。そのためイメージや物語はあくまでも比喩である。
つまり野球をしていてボールが塀の向こうの雷親父の窓ガラスを砕き、そのボールを取りに行って雷を落とされたとしよう。そのとき雷親父は恐ろしき雷のように感じられだろうが、あくまでも雷のイメージは比喩であって、まるで雷のよう、というに過ぎない。
※親父と雷の比喩を精神分析では父性隠喩といい隠喩は現在のアクチュアリティと過去の表象とを結ぶことで意味を産出する、精神病では隠喩が比喩として構成できなくなる、そのため昨今の陰謀論における陰謀(比喩性なき隠喩)を妄想性隠喩と呼ぶ
つまり雷というイメージではそれが持つ恐怖や迫力の印象といった抽象的な意味が問題となる。
神話や宗教の比喩物語が外的現実と無分別に素朴に信じられた時代は終わっているので、現代では、イメージの具象性を比喩として否定し、言語的な意味概念へと換言する必要があるのだ。
※ドゥルーズのアンチオイディプスは近代における隠喩がもつ比喩性の尊重を否定している節がある
おもに作品評論が必要となるのも、このことに通じる。分析なしに夢が直接的に理解された時代から夢がフロイトによって分析解釈される時代へと移行したように、主客の分節によってイメージの具象性を言語的意味へと換言する作業も必要となる。
※ただしラカン派だと逆方向の解釈といって直接性への還元に注力するモードもある
それゆえに映画、アニメ、ゲームにはその意味を理論的に解説する評論家や批評家が絶対的に必要となる。これは近代にフロイトという夢分析家が要請されたことに通じる。
評論家が幻想(作品)を解説するディスクールこそが幻想の意味を外的現実に還元するといってもいい。当記事の作品解説もこの意味での現実の構成を最優先の目的とし、これをヘーゲルは批評する良心と呼ぶ。
つまり当ブログの作品解説はすべて夢分析(イメージの具象性の否定)という目論みを持つ。
アンチパシーとホメオパシーと高畑
高畑理論においてアニメやゲームは引きこもりの原因として犯人扱いされ、その排除による解決が迫られている節がある。
しかしこのようなアンチパシーもまた近代啓蒙主義の誤謬に過ぎない。
原因を特定しこれを排除するというパラダイムはそれ自体、自然科学のモデルであり近代身体医学(自然科学)の基礎である。
事実、深層心理学における心理療法は原則としてホメオパシーをベースとする。ユング派ではこれを傷それ自体による癒やしと捉える。
悲しみの涙がその悲しみの内に悲しみを癒やす力があるように、傷は傷自身のうちにそれを癒やす力動を内在しているのだ。
※ホメオパシーとは悲しみの涙それ自体が自身である悲しみを癒やすという考え、アンチパシーは悲しみに対してそれを否定する笑いなどで解決しようとする考えで発熱したとき解熱剤を出すのがアンチパシーとなる。身体医学ではアンチパシーがベース、精神医学ではホメオパシーがベース
また原因と結果を分けて考え、個別の対象としてそれらを論じ、原因を排除するパラダイムはそのまま客観主義のパラダイムと一致する。
つまりここでもアニメを原因としてその否定によって問題を解決する高畑理論は主観と客観を独立的に分離するパラダイム(アンチパシー)につかる。
したがってアニメに引きこもるからアニメが悪だというのはまったく本質ではない。
また因果律は主観性を排除した客観を志向する自然科学においてベースとなる思想であり、それゆえ近代司法とも親和性が高い。
近代司法と自然科学がともに近代を代表し近代民主国家の要となるのも、両者が近代的因果律をベースとするため。
客観の審級にある公共や社会の領域における司法において因果律は徹底される。たとえば損害賠償訴訟では、損害の原因が追及され、その原因を一義的に特定することで賠償責任を確定する。
このような因果律はそのまま各主体の同一律を構成し、この同一律(アイデンティティ)が契約を可能とする。もし昨日の自分と今日の自分で異なることを許せば、あらゆる契約は成立しないだろう。
※同一律とはA=A、昨日の私=今日の私のことで数学や論理学の基礎となる定義
つまり今の自分を原因として、今の自分の意志によって未来の自分をあらしめ(企投し)、自己の時間的同一性(一貫性)を因果的に確定するという自己意識の生成が客観現実や社会契約の構成要件となっているのだ。
いわば自己は自己によって所有され、過去の自己によりこれからの自己の挙動を時間的に操作されているのである。このような因果律によって統制された自己の一貫性=自己の同一性なしに客観は構成されえないといってもいい。
このような因果性による時間がニュートン力学における時間性(客観時間)に一致するのはいうまでもない。外的現実は客観時間によって同一性を持つ対象の世界ということ。
※客観、客体、外的対象とは全て同一律A=Aによって成り立ち、このような自同律は自己関係の因果関係化に依拠する
ここに社会の審級と自然科学領域における因果律信仰とに共通の原理がある。自然科学の発展と近代法治主義の発展が同時代性を持つのにはこのような理由があるのだ。
したがって因果律の措定によって初めて可能となる、原因排除型=アンチパシーを前提とした高畑理論はそれ自体、近代的な虚構の論理に過ぎず、決してひきこもり問題を解決しない。
というのも、このような因果律のパラダイム(虚構)の絶対化こそが主観と客観との混淆、夢と現実の融合としての現実逃避を要請するからである。
※この記事は因果律を素朴に否定するのでなく、その否定によって因果律を回復する弁証法を実現する。素朴な因果律否定をするとハイデガーの近代文明批判のようなよくないことになる
映像演出の変遷の意味
本題に入る前にここでは高畑の考察する映像演出論を吟味し、高畑理論への理解を深めよう。
高畑はクラシックなディズニーアニメでは俯瞰的、客観的、三人称的視点が貫徹されるという。
これが高畑らが開発した日本式の映像演出によって、巻き込み型になった。
巻き込み型はキャラクターが画面の外の観客の側に向かってっくるような奥行きのある構図。キャラクターの主観に近い視点の描写が多用されるという。たとえば主人公の肩をなめるような構図。
このような演出は受動的感情移入を可能とし、観劇時の観客の主体性を貶め、アニメという幻想世界につかりきって帰るべき現実を喪失する。
この高畑のいう日米のアニメの客観と主観との画角の違い。じつはこれは言語学において、言語構造のあり方についても同じ指摘がなされている。
簡易的にいえば、欧米の言語では主語のIが省略できず常に文頭にありこれは、自己を神(客観)の視点から俯瞰して捉える近代主体的な自意識における自己関係を反映するためだという。
近代に入り西洋において姿見としての鏡や個室が生じたことは、当ブログのリトルナイトメアの解説記事で説明したが、私を他者の視点から眼差し、自己を客観視するために主語のIが立てられるというわけだ。
※ラカン派でも主語Iは主体でなく鏡像(大他者=神から見られた自己対象、自我)とされる。また英語で主語のIが頻出するのは近代になってからであり神殺しと主語は密接に関わる
これに対して日本語は存在文が基礎であるという説があり、きわめて中動態的。
中動態とは、「山が見える」という場合の見えるなどのことをいう。
見るという能動態でもなく見られるという受動態でもない、見えるという中動態の特徴はそれが無主語であるという点。
山が見える、という文には主語がない。見えるというのはいわば、見える自身が自生的に発生することを示す。したがって主語なしの主体性、行為性を示す。
このような見る主体という能動態の主語や俯瞰的な自己身体表象を生じない日本的な無主語の意識においては場が支配的となる。
つまり、山が見える、とは「ここから山が見える」と言い換えることができる。ここという場においては誰にでも同じように(共同主観的に)見えるというわけだ。
日本語が自他未分のアニミズム的な言語構造にあるのが分かるだろう。
このような言語構造における主体のあり方が巻き込み型のアニメーションに関連すると考えられる。
つまり主人公の主観的な視点の描画は、ここから山が見える、という中動態の構図に重なり、自他未分の共同主体的なパースペクティブを反映する。
巻き込み型は主人公の視点という場所が観客に共有されており存在文的、中動態的といえる。
高畑論では単純にこの巻き込み型が悪として糾弾される側面が強い。
ところで話はそう単純ではない。
たとえば、ゲームの場合、ゲーマーの方なら知ってると思うが、一般に欧米ではFPS(主観視点)、日本においてはTPS(客観視点)が人気でありこの差は顕著。
僕もTPSのゲームのが好きだったりする。
つまりゲームにおいては話がまったく逆。
これについてはゲームが操作という能動性を前提とすることが関連するかもしれないが、なかなか理由は難しい。
ただ一つ言えるのは現代人の自意識における視点の構造は高畑がいうほど単純でもないのだ。
河合俊雄による村上春樹文学の視点の分析や僕の異世界転生作品分析記事を介して浮かび上がる現代日本人の自己意識における視点は、主観的ではなく、遙か上空にあり自己解離的だといえる。
たとえば僕たちはスマホをつかう。スマホではGoogleマップなどで宇宙の高みから自己自身の位置を知ることになる。
SNSにおいても自己存在は徹底的に客体化され、フォロワー数といった普遍的価値指標がつねに表示され俯瞰的な自己データがつねに自己自身に示される。
さらにSNSでは自分の言いたいことではなく、みんなから承認されることをつぶやくことが目指されている。
自己のつぶやきすらここでは、自分の意志でなく、二人称的な顔と名前のある人のものでもなく、三人称的な匿名性の数字の総体(客観者)の欲望として生成される。
ここでは自己主体は神の視点、三人称的な彼の視点へと同一化するのである。よって見られる対象としての身体自己と、神の視点からそれを見る自己主体との著しい乖離に至る。
これを僕は異世界転生作品を分析した記事ではゲームプレイヤー的主体となづけた。つまり現代人とは、ゲームプレイにおいてテレビ画面の外から自己(操作キャラ、鏡像)を操作し、画面外(ゲーム世界外)にある攻略サイトなどの物語の外部を参照しながら、その物語の客観的な正解を生きている。
このような生き方のために自己解離が生じているということ。
画面の外の神の視点から画面内の自己像(キャラ)を俯瞰して生きる。このような画面外の自己と画面内の自己とが解離した主体構造が現代人の自意識における自己関係の基本構造となる。それゆえ自己は拡散し、自他の主体(俯瞰する視点)の識別も喪失することになる。
また異世界転生作品がRPGの形式をとるのも、自分のスペックや性格が客観的に記述される現代の世界観をしめすが、これはSNSによって自己の存在意味が数値化、客観化している現代人の意識に符号するだろう。
このことが示すのは、高畑的な客観主義こそが現代人の問題ということ。
また人文学問の世界における幼児的な論理実証主義の蔓延、Z世代における合理主義の瀰漫といった今日の現象は、いずれも客観至上主義における主観性否定に他ならない。
たとえば「それってあなたの感想ですよね?」という流行語も客観的な事以外は価値がないというに等しい。
したがって幻想と現実とが混淆する現代社会では、その混淆が深まるほどに、近代風の幻想否定と客観主義がはびこる。このような逆説は精神分析的に必然性を持つ。高畑理論の一面が陥るのはこの逆説構造への無知である。
したがって幻想への逃避という事態は事実の片面でしかない。幻想への逃避は同時に客観現実の絶対化をともない誰もが客観性を吹聴する妄想化した客観至上主義とセットなのだ。
この逆説構造(ファクト主義化すると妄想増加)の理屈については後々の項目で解説をしよう。
高畑理論の価値
ここまで高畑理論の一面を拡大し辛辣に批評してきたのでここで高畑理論の一面の優れたところを示したい。
高畑理論がもつ自己否定性、これはまさに現代人に欠落するもの。というのも自己否定が否定されることで現代人の主体は解体したからだ。
これについては既に解説したが念のため、ここに繰り返そう。
まず客観の生成には、主観と客観の分離が必要となる。私の主観が絶対的なものでなく他なる価値体系(意味分節)をもつ他者の主観があること、この他なる主観を認めることは自分の価値観が絶対ではないことを認め自分が絶対的でないことを認めることを意味する。
このような自己を自己として限定し、自分にとって価値あるものが他者にとって無価値だと認めること、このような自己の絶対性と無限性の否定としての自己否定が主客の分離の条件だった。
それゆえ客観性をもつ近代主体の成立には、自己否定が伴う。
高畑理論はしたがって大人(近代)の理論といえよう。
すると、もし高畑がただのアニメ嫌いであれば、高畑のアニメ批評文から自己否定という態度が消失することとなる。したがって彼がアニメーターであることが、高畑の批評における肝となる。
さて、このあたりは自然科学のテクストと人文学的批評文とのあり方の違いを如実に物語る。
自然科学のテクストにおいては書き手の立場や動機は問われない。ニュートンがかりに犯罪者であっても、ニュートン力学の評価や意味にはなんら影響しないからだ。
ところが社会批評文はそうではない。アニメーターから見たアニメの意味が語られるという文章の性質ゆえに読み手は必然的に高畑の立場を織り込み高畑の主体(コンテクスト)を想像しながらその文章のいわんとすることをつかまねばならないからだ。
そのテクストには高畑という主体性、すなわちファンタジー(主観、高畑の霊魂、欲望)が決定的な仕方で入り込んでいる。それ抜きに批評の意味をくみ取ることはできない。
※ウィトゲンシュタインの語の意味とは語の使用である、もこのことを示す
したがって彼の態度において生じる文意、これこそが高畑のアニメ批評文の輝きであり、この時代に彼のアニメ批評が参照されるべき理由なのだ。
さらに加えるなら、今日における夢と現実の混淆という点に着目してる点も慧眼であろう。
また、高畑の狙いが現実と夢との差異の再生と帰るべき現実の蘇生にあることはいうまでもない。
したがってこの記事の高畑理論否定は高畑理論の否定を介して、高畑理論の目的(意志、主体性)を生かそうという試みであり、その意味で高畑勲の魂を生かす試みとなる。
高畑理論が含む幻想否定の一面は、したがって我々の敵ではない。むしろわれわれはそれの否定を介して、テクストの背後にある高畑の主体性を蘇生している。
まとめよう。
高畑理論はある一面においてはイメージ(アニメ、夢)は素朴に否定される節がある。しかしこのような近代的な否定性は逆説的に近代を自壊へと追い込む。
そのためこの記事では、アニメの素朴否定を止揚し、アニメということの具象性を否定、アニメが客体や対象ではなく主体性(比喩)であることを見抜き、アニメを概念のレベルへと昇華しようというわけだ。
これによってアニメはその否定を介して、生命力を賦活することになる。
※繰り返すが高畑は総論としてはアニメそのものでなく今日的なアニメの内容や形式を否定している、しかしその論理にはアニメ全般を外的現実より低く見るアニメ全般の否定の側面がある
高畑理論の逆説的構造について
これまでに高畑理論が含む一側面が近代主体(啓蒙主義)のパラダイムにあり、それゆえに客観絶対主義の陥穽にはまっていることを示した。
しかし、肝心のなぜ客観絶対主義だと幻想への逃避が生じ、両者の差異が混淆し、帰るべき現実を失うのかという理屈を提示していなかったのでそれを簡単に示す。
さて昨今の現実とファンタジーの混淆を典型する事態に陰謀論問題がある。
陰謀論の多くは客観性を欠いたファンタジーを騙る。したがって陰謀論者の蔓延は主客の未分化を意味する。
高畑的にいえば陰謀論者は甘いファンタジー(陰謀という夢)に逃避しているということになるだろう。
このような事態はなぜ起きているのだろうか。フィルタリングバブルだとかの色々な説明があるが、世間の説明はまったく皮相的に過ぎる。
じつはこうした幻想の客体化こそが客観主義による。
まず陰謀論は原則として政治の領域において頻発する。それゆえ政治の語らいの今日的変質を捉えることで、その理由を特定できるだろう。
すると現代の政治の言説が過度に合理主義的で客観的になっていることがわかる。
エビデンスの提示がつねに求められ、人々は政治を語るとき、自らの意見の客観性と脱主体化とを要請される。
このような事態になると、必然、個々人の主体は言語化の経路をたたれることとなる。語る言葉は悉く客観化されねば誰にも認められないからだ。
すると言表世界より、はじき出された個々の主体性(意志)は、いかにして放出されることになるだろうか。
まず考えられるのは、アニメや漫画、映画、ゲームといった物語への没入によって、現実から主体を遮断することで、個々の主体性は守られるだろう。
しかし、アニメなどの幻想世界へと逃避できない人々の主体性はどうなるだろうか?
ここで陰謀論が要請される。つまり自己の主体性を社会化するための新たな客観世界(妄想)の言葉(妄想陰謀論)が紡がれるのだ。
つまるところアニメを否定してなくすとひきこもりが減るのでなく陰謀論者が増える。
ところで陰謀論者の妄想による主体化を精神分析では妄想性隠喩と呼ぶ。
※ラカンの症状の一般理論では神経症と異なる疎外S1→S2とされる
ここでは専門的な解説は割愛するが、ようするに最近流行の陰謀論というのはパラノイアにおける妄想と同じメカニズムによって生成されているのだ。
行き場を失い合理主義の語らいによって、社会化、言語化を迫害された主体の逃げ場(社会化)として陰謀(妄想)が生じているのである。
したがって高畑理論が依拠する客観性(外的現実)の絶対化は合理主義のディスクールを助長、これにより本来合理性に還元不可能な政治領域や生活領域といった実存域にまで、合理主義の言葉が浸食することを助長しうる。
※政治領域が合理性に還元できないことについて詳しく知りたい人はこちらの選挙投票に行くのは無意味を論破した記事を参照
高畑理論の弁証法的超克
最低限、説明せねばならないことは示したと思う。
というわけで結論を示そう。まずアニメーター高畑勲の意志をくむのであれば、僕たちは、アニメやファンタジーを単純に否定するのではなく、その具象性を評論、批評によって否定し、物語の意味を論理的な言葉によって提示せねばならない。
ここではファンタジーの創作者は作品評論とセットで、イメージの弁証法的自己展開を始めることになる。物語の直接的な体験を現実的な言葉として取り出し、社会的現実へとファンタジーを還元するわけだ。
このような作品解説のあり方は、現象学が具体的経験から、その経験の具象性に付随する意味(美や善悪)に関する条件を言語によって解釈し、意味の合意形成によって社会の共通了解を構成する営みにも近いだろう。
かくしてファンタジーと現実との差異の弁証法的運動を実現することによって、両者の差異化が実現するのである。
このような批評のあり方をヘーゲルは、行動する良心と批評する良心との弁証法だという。
またこれをユング派はアニマとアニムスのシジギーにおける戯れと呼ぶ。
したがって、アニメクリエーターと批評家は本来一体の存在であり、高畑理論がもつ素朴なアニメの否定の一面は、そのイメージの具象性の否定(夢分析、アニメ否定)へと止揚されねばならないのだ。
そしてこのように高畑のアニメ論の一面を否定的に見抜くことによってこそ高畑のアニメ論の魂も生きてくる。
以上が結論である。
というわけで批評もアニメを生み出すことも現実逃避ではなく、現実との差異においてつど現実を構成する営みである。
高畑理論に欠ける要素
高畑のアニメ評論には欠けているのはアニメの巻き込み型や安直でご都合主義的なストーリー展開は、現実社会の歪みに起因するという視点。
なにか高畑勲はファンタジーが安直になったから現実逃避的となったと考えている側面があるが、むしろ現実の側が合理主義、客観優位主義、拝金主義を徹底するために幻想構造が壊れているのが実相であろう。
ラカン的にいうならば、現実の言語の歪みに起因して現実の領野を支えるファンタスムが崩壊し準ファンタスム(歪んだ幻想)が蔓延した結果、現実逃避的なファンタジーが産出されている。
これをアニメが巻き込み型をやったから現実逃避が起きているというのは現実優位主義の価値尺度でありつつ、むしろアニメ優位主義的(アニメ原因主義)であり、顛倒したロジックに思える。
このようなロジックは高畑勲が近代主体的(能動的、自責的)なアニメーターであったことを示し、彼の人間性(主体構造)をよく反映している。
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