※この記事はシンゴジラとゴジラ-1.0のネタバレを含みます、また作品考察は当たり前ですが全て解釈です、作品の意味は客観的にそれ自体としてあるのではありません、したがって当記事も解釈です
うたまるです。
今回は、庵野秀明監督作『シン・ゴジラ』を分析し新しいゴジラ論を提出します!
さらにシンゴジラの謎とされるラストシーンの尻尾の意味も説き明かします。
最近、作家の百田尚樹がシンゴジラと山崎監督のゴジラ-1.0の両作品を大絶賛していたので二つを見比べました。その結果シンゴジラはゴジラ-1.0と比較することでこそ、その達成や意味が浮き彫りになるのでは、と考え至りました。
そのためこの記事では両作品を比較することでシンゴジラにおけるゴジラの特殊性とその意味を読解してゆきます。
さらにゴジラ映画はゴジラの形態、デザイン、フォルム、挙動を中心に読み解くことで、作品の構造が分かるという結論に至ったのでそれを紹介します。
ただしゴジラ-1.0に関しては極めて辛辣な酷評になるので、山崎ゴジラが好きな人で作品批評を好まない人は閲覧注意です。
この記事の構成
シンゴジラを分析し、ゴジラ映画論を展開するにあたり、本作がもつ政治家や官僚、有識者らの活躍を中心とする革新性やゴジラの第二形態が海洋生物の痕跡をとどめエラ呼吸から肺呼吸への移行シーンがあったり魚のように瞼がないといった生物学的ディテールに優れる点、およびゴジラが311震災や原発、原爆、敗戦などの日本人の心的外傷のメタファーである点、これらは既に周知なのでそれについては焦点しない。
この記事が明らかにするのはゴジラの形態やゴジラの象徴のされ方がゴジラ映画の構造を決定づけている点。
したがって当記事は、シンゴジラにおけるゴジラの形態の意味と特異性を明らかにすることで、シンゴジラがなしたゴジラ映画の革新的な転回を明らかとし、それが映画論の新たなパラダイムを提示するものだと示す。
さて、こうしたシンゴジラの卓越を紹介するにあたっては、シンゴジラと対蹠的なゴジラ像を提示するゴジラ-1.0と比較すると分かりやすいので、この記事では両者を比較してゆく。
両映画のゴジラのフォルムの差異がゴジラという象徴の形式の違いに起因すること、およびその違いが映画の構造や芝居の演出水準のあり方に直結することがこの記事では示される。
結論を先んじていえば、シンゴジラのなした映画論的パラダイムシフトとは、ディザスタームービーにおける映画読解のあり方を解体する。つまり災害・怪獣が何を象徴しているかを読解することでなりたつ旧来の映画解説を解体するのだ。だからシンゴジラは旧来の映画の見方そのものを根本的に無効とし、まったく新しい映画読解を観客に要請するといってよい。
ゴジラ-1.0の酷評
ゴジラ-1.0の概要
最初にゴジラ-1.0の特徴を示し、シンゴジラの卓越性を説くヒントとする。
※以下ゴジラ-1.0のゴジラを山崎ゴジラと呼称する
簡単に映画の梗概を紹介しよう。山崎ゴジラは百田尚樹がいうように永遠の0のゴジラ版だ。
ときは戦中、特攻隊の隊員である主人公の青年(神木隆之介)が、戦地にてゴジラに遭遇、彼は零戦に乗り込み機銃掃射によりゴジラ掃討を命じられるが怖じ気づき逃走、結果、仲間はゴジラによって殲滅させられる。
このシーンはプロローグで本作では終戦後、主人公が東京へと帰郷し戦後復興に向かうさまがメインで描かれる。しかし彼は、自分だけ逃げて生きのびた罪悪感から終戦後も戦争を終えることができず、戦争のトラウマに苛まれる。
つまり特攻隊だったが死を恐れ、特攻から逃げていたらいつのまにか終戦になり、気づけば仲間の特攻隊員は全員勇ましくゴジラ(敵艦隊)に玉砕して靖国に逝っていたということ。
※プロローグで離陸していない零戦に主人公を乗せて陸上でその機銃を撃たせるという理解に苦しむ不自然な描写をなすのも、零戦で特攻することから逃げたこととゴジラから逃げたことを重ねる記号表現
次のシークエンスでは戦後復興に励む日本で、一人戦争のトラウマから抜け出せない主人公の前に再びゴジラが現れ日本を火の海とかす。
国民を守るため主人公は再び立ち上がり、ゴジラ討伐戦争へと参加。今度は勇ましく戦闘機で特攻してゴジラ(敵艦の記号)を海に撃沈する。
※飛行機には過去の戦争の反省から脱出装置がつけられていて主人公は生き延びる
かくして過去の敗戦の情けない自分を刷新し、主人公は心理的な終戦をなす。
おどろくべきことに山崎ゴジラの吹く炎の爆煙はこれ見よがしな記号的キノコ雲をなし、銀座を火の海にするシーンなどはさながら東京への原爆投下といった景観だ。
山崎ゴジラではゴジラは序盤から終盤までなんどか火を吹くが毎回これ見よがしなキノコ雲をだすことで、ゴジラが敗戦と原爆のメタファーであることを記号的に表現する。正直言って、バカなのか?となる問題のシーン。
シンゴジラとは対蹠的に、本作は戦争も戦後復興も、したがってゴジラ討伐作戦も庶民が主役となる。官は馬鹿者とされ、民が主体的に活躍してゴジラを沈静化するのだ。
山崎ゴジラは過去の敗戦を振り返り、国民の命を乱費し死を前提に特攻を強要した愚を改めつつ現場で戦った英霊の精神をこそ称揚し、敗戦に区切りをつけるという意図があるのだろう。
したがって全般にネット保守が歓喜する安直な昭和ノスタルジー、戦争ノスタルジーに溢れる。
官より民を好むネット保守ビジネスのビッグネーム百田尚樹が絶賛する理由が分かる作品といえよう。
ゴジラ-1.0の問題点
本作を見た素朴な感想は、オールウェイズ三丁目のゴジラだった。といってもオールウェイズ三丁目の夕日は見たことがなく伝聞でその駄作ぶりや雰囲気を知っていただけで、山崎監督がオールウェイズの監督だということも知らなかった。
だから山崎ゴジラの監督がオールウェイズの監督としったときは驚いた、マジにオールウェイズだったのかよ!と。
本作の視聴は僕のようなタイプにはかなりのストレスを伴うので僕の普段のブログの内容を理解できる人は見ない方がいいと思う。
というのも、主人公がいちいち何回も何回もしつこくセリフで、自分は戦争を終えれない、自分だけ生き延びた罪悪感がある!という論旨のセリフを言い続けるからだ。
さらには主人公はご都合主義的に女と出会いそれと内縁の妻のような関係となるのだが、そこでのカッスカスの人情ドラマも無意味にバカ長くて辟易する。こと人間の心理描写としてはまったく成立していない。
全ての登場人物はカルカチュア的でいかにもな記号演技をこれ見よがし。
終始、登場人物のセリフは聞こえよがしの歌謡曲状態、舞台演技や歌舞伎のような大仰でコッテコテのお芝居臭が横溢する。
まるで登場人物にリアリティはなく、書き割りが人形劇でもしているようでイライラさせられた。
さて序盤で主人公が、血気盛んな若者がもっと戦争が長引いていれば俺も活躍できた、と言うのを聴いてキレるシーンがある。このシーンだけで主人公が戦争を終えれないことの強調は十分だろう。
プロローグのシーンを見れば幼稚園児にも主人公が戦争を終えれない人ってことは理解できるから戦争を終えれないという説明セリフは一切必要ない。演技で表現することを説明セリフで表現させるなといいたい。実写が細やかな役者の芝居と行間で内心を表現するコンテンツだと理解していないのだろうか。
アニメでもここまで過剰な内心の説明セリフはありえない。
しつこく内心をセリフで言い続け、内縁の女の前で発狂しながらそのトラウマの内容をあますことなく本人が実況説明するシーンでは脚本家に殺意がわいてしまった。
一次が万事で本作には中身がまったくなく、ネット保守が大好きな主題を記号的に入れ込んで、紋切り型の戦争反省メッセージで味付け、形式的に現場で戦った英霊への畏敬をよそおう。またこれと通じて庶民の活躍を主題とし政治家などのトップを見下し、安易な大衆迎合をなす。
問題はその記号性にある。
繰り返しになるが、ゴジラが火を吹けば原爆のキノコ雲そのものがあがり、主人公はそのトラウマ、内心をあますことなく自分で実況中継。
さらに全ての主要キャラはセリフにおかしなリズムと抑揚をつけ、ミュージカルの舞台演技のようにくっさいセリフを歌い出す。
すべての表現が裏のない表面だけの記号なのだ。
リアリティは皆無、ありもしない妄想としての昭和ノスタルジーを描き出し、さながらディズニーランドのごとき哀愁ランド感を醸す。
はっきり言えば愛国ポルノや昭和ポルノ、特攻隊ポルノでしかなく現実逃避の究極形態であろう。
これと密接に関わりゴジラのルックスも記号的なゴジラ感をなす。いかにもな記号的ゴジラは火を吹くときにも背びれが規則的かつ人工機械的(象徴記号的)に機動して、その意図が分かりやすい。だからエネルギーを機械的にチャージしてカウントをとりながら火をはく始末。
まことにUIに特化した機能的なゴジラのデザインには空いた口が塞がらない。
ゆえに問題はゴジラが何を象徴しているかではなくどのように象徴されるかにつきる。
山崎ゴジラが狂っているのは、観客のみならず映画世界の登場人物にいたるまでもが、最初からゴジラをゴジラとして熟知していて、それが敗戦という日本人の集合的トラウマだと知っていること。
だから山崎ゴジラは何も隠さないし、キャラクターもセリフ(外面)と内心とに差異がない。映画そのものがペラペラで奥行きが存在していない。というか本質的な意味で他者が存在しないし外部がない。
ゴジラさえ意識外の外傷ではなく意識化された記号でしかない。
最初から私のトラウマはこれこれで、戦争が終えれませんと言葉にして周囲に実況説明しまくる主人公はひたすらキモ過ぎる。
ちなみにラストシーンでは恋仲の女に戦争終わりましたか?とセリフで言わせている。いくらなんでも酷すぎないだろうか。今の日本人の主体構造はこのレベルになってしまったのか?
ともかく芝居にもシーンにもノイズはなくただひたすらに心地よい郷愁ノスタルジーとしての空想が展開されている。オールウェイズで三丁目な映画としか言い様がない。
ゴジラ論概論
周知の通りゴジラシリーズのゴジラは放射能による突然変異生物で、ゴジラは震災や原爆、原発といった日本人の集合的なトラウマのメタファーである。
したがってゴジラ映画とは、心的外傷と人間主体との関わりを巡る極めて深層心理学的な映画だ。
なので心的外傷がなんなのかを抜きにゴジラ映画を語るのは難しいだろう。
だからそのことを説明しよう。
心的外傷とは神経症の症状。神経症は精神分析においては無意識に抑圧された幼少期の心的外傷の記憶表象が異なる表象(症状)に置き換わったもの。
したがって無意識(海)に抑圧されたゴジラが無意識より意識へと上陸し暴れる構図は神経症モデルとなる。ゴジラが心的外傷の象徴である以上、この構造は深層心理学的に必然性がある。
精神分析は無意識の主体である心的外傷=症状=ゴジラの意味を解釈によって紐解き、それに言語的意味を与える象徴化の作業をなす。
さて神経症とは抑圧された外傷体験がゴジラなどの異なる表象に置き換わることであった。
このような置き換え(隠喩)を抑圧とか抑圧物の回帰とよぶ。
つまり心的外傷を無意識へと抑圧し意識にあがってこれなくすることで人間の心は無意識と意識へと分裂する。この分裂は分裂した主体といわれ、精神分析では人間主体は分裂として捉えられる。
またこの分裂は外面と内面の分裂に対応する。これを映画論的な次元で言い換えるとセリフと行間の分裂とかセリフと文脈、セリフと内心の分裂といえる。
※三丁目のゴジラにはセリフと内心の分裂がない
ゆえに心的外傷としてのゴジラは抑圧されたもの、敗戦や震災が意識に回帰するときに置き換えられた表象(ゴジラ)なわけで、ゴジラ映画では抑圧による外面と内面の分裂(抑圧)が前提される。
だから山崎ゴジラは人間のトラウマの描写としては破綻しているのだ。
当たり前だが、嫌な思い出=心的外傷は誰も思い出したくないから抑圧され意識にあがるときにはまったく別物に置き換えられ、それが症状となる。
※トラウマでは現実のトラウマの記憶がむき出しでフラッシュバックすることがあるが、この場合、そのトラウマは意味をもっていない。山ゴジのよう最初から意味(記号)としてむき出しで意味の外部を持たないゴジラ表象は心理描写として成立していない
だからゴジラが何を置き換えているかは、最低でも映画の登場人物に対しては隠されていないとゴジラ映画としてまったく機能しない。
もしゴジラ=原爆キノコ雲が最初から知らされているのなら、なにも抑圧されていないのとおなじだし、わざわざゴジラに置き換える意味が無い。
したがって山ゴジの問題の本質は抑圧の破綻にある。つまりゴジラから抑圧が排除されているので抑圧の効果であるキャラクターのセリフと内心との差異も排除され、内心は隠されず全て字義通りにセリフ化しているのだ。
またこの抑圧の停止は最新の現代ユング派および現代ラカン派の主流解釈によると精神病および発達障害の主体構造と一致する。
神経症とは抑圧によって自己を言語化する主体のことで、これを現代の深層心理学の多くの派では定型発達とかノーマル、近代主体と呼ぶ。
だから普通の人は神経症だといえる。
山ゴジは抑圧による隠喩が機能停止しており、なにも抑圧されず全てがむき出しとなる。これは精神病の症状であって問題がある。精神病や発達障害はもちろん悪ではない、しかし近代文明社会の定型としては機能しないので、普遍的(定型)の物語であるゴジラ映画で抑圧のない構造は危険である。
文化人類学の知見のある方には周知と思うが近代以前、中世や古代の人には抑圧がほとんど見られない。したがって山ゴジはプレモダン的な原始的心性の現れであり、近代の文明社会を不可能とする危険性がある。
こうした抑圧を排除した象徴性をもつ映画は適切に批評し止揚せねばならない。金になればなんでもいいというのは間違いで金儲けは大事だが、もっと人として大事なことがあることに山崎監督には気づいて欲しい。
ゼロ戦だとか特攻とか英霊とか昭和ノスタルジーとか、庶民の力だとかを記号的にぶっこめば国内では絶賛され、コンスタントに高い興業収入を達成できるのだろう。けどそれで日本がよくなることはない。
シンゴジラのゴジラ形態論
ゴジラ論を圧縮して解説したのでいよいよ本題に入る。
シンゴジは、心的外傷としてゴジラを捉えて考察してゆくと、映画論的なパラダイムの刷新をなす傑作だと分かる。またシンゴジの達成はゴジラとは何かという問いのつきつめにおいてある。
山ゴジと対蹠的でシンゴジのゴジラは、最初の形態では(第一形態)、それが生き物なのかすら曖昧。その見た目も記号的で象徴的なゴジラとはまったくことなる。
完全な未知、未確認現象、もはや、それ、としか言いようのない直接性の何かとして第一形態は描かれ、政府要人は、それの解釈(意味確定)をめぐっててんやわんや。
それが生き物だと確定してからも、ソレが捕獲対象なのか駆除対象なのか追放対象なのかさえ分からず、それの解釈をめぐる議論が克明に描かれる。
ここで重要なのは症状(ゴジラ)とは、本質的に名無しであり、意味をもたず、それとしかいえないということだ。それとしか言いようのない何かを言葉によって解釈し意味を与える(名付ける)ことで、それは象徴・ゴジラという形をとり、ゴジラと名付けられる。
※この症状解釈は70年代ラカンをベースに人口に膾炙したもので初期ラカンやフロイトとは微妙に異なります
原則として症状はそれを意味へと置き換えることを目指すが、症状の核は言語外の無意味であり、それとしかいえない。
※このような言語外の無意味、不気味な生物学的直接性の何かを現実界の物という
だからフロイトにおいてもラカンにおいても症状とは最初の形態(第一形態)であり、それは何らかの意味(ゴジラという名)を持つと想定された無意味なものに過ぎない。
したがって心的外傷とは本質的に意味を持っていない。
簡単に説明しよう。たとえば震災で家族をなくすことを考えてほしい。そのとき人はなぜ自分の家族は死なねばならなかったのか?を問うことになろう。
このとき問われるのは震災という無意味な症状がもつ意味。震災は自然現象であって意味をもっていない。しかし人は震災の体験を言語的意味へと連絡して、主体的にそれを意味づけることなしに、その体験である家族の死を受け入れることができない。
※トラウマの処理として意味付けの放棄というモードもあるがこまい話は割愛する、このブログは一般の人向けに分かりやすさ優先、またこの無意味の説明にはややレトリカルな側面がある
つまり無意味なそれとしかいえない現実界(意味外のソレ性)の表象が心的外傷の核なのであって、これを言語的(社会的)に解釈して意味づけることで、ゴジラという象徴へと、それを疎外(置き換え)してゆくのである。この症状の意味付け、象徴化が精神分析治療の基本だ。
このような意味と無意味を巡る症状との関わりこそが精神分析臨床における人間と普遍的なトラウマとの関係であるといってよい。
したがって、シンゴジラのゴジラが第一形態では名無し(未知の意味不明)であり、第四形態へと近づくにあたり徐々にゴジラっぽいルックス(象徴的、意味的)となり、ゴジラという名前・意味が与えられるのは症状(心的外傷)が解釈によって意味づけられる心的過程の巧みな描写なのだ。
お分かりだろう。ここではゴジラが何を象徴しているかは問題ではない。シンゴジラの卓越は、ゴジラの真理が象徴以前のソレ(無意味)にあることを暴き、ソレが人間主体によって解釈(分析)され言語化されることで象徴化(意味化・ゴジラ化)していることを暴く点にある。
よってゴジラ映画にとってゴジラが集合的外傷の象徴であり災害=症状をなす以上、全てのゴジラとは本質的にはシンゴジラのゴジラとしての構造を持つ。
したがって庵野監督の達成がどれほど大きいか分かるだろう。登場人物が必死にソレの意味を特定してゆき、社会的な意味を確定することで症状を攻撃したり、停止させたりと適切な対処へと向かう。
ここでは無意味なものを中心とした象徴(意味、知)と主体をめぐる布置が問われている。
この観点で観ると本作の意図も分かりやすい。
さてシンゴジではゴジラは究極の完全生命体であるとされ、決して殺すことができないことが発覚する。
つまりゴジラとは不滅なのだ。
この死ぬことのないゴジラは神経症の症状(トラウマ)が原理的に消去できないことを見抜いている。
説明しよう。抑圧された症状を言語的に解釈するとは自己が何者であるかの意識的な自覚の刷新である。つまり自分の症状(無意識の欲望)の意味を確定することで症状を自我意識へと統合し無意識の抑圧物をひきうけることで一時的に症状は消える。
しかし症状は復活する。というのも私は~を欲望する人間だ!と症状を解釈すると、私は~を欲望する人間ではなく、私は~を欲望する人間だと自己解釈する人間だ!というように自己認識が回帰してしまい私の真実が自己認識からズレてしまうからだ。
つまり言語的意味の外部の無意味が症状の核であるからこうして自己存在の意味は自己言及によって意味外へと脱落する。この脱落があらたな抑圧物(トラウマ)となって症状への置き換えを生じ、新たな症状を創り出す。だから症状を統合して解消する操作は同時に新たな症状を産出する操作となる。
※自己言及による自己解離については、嘘つきのパラドクスが分かりやすい。クレタ島の人は嘘つきだ、とクレタ島人が言うとき、この発言が正しいならクレタ人は嘘つきなので発言は嘘になるが発言が嘘だと本当になり、真偽が確定せずズレ続ける、症状の解釈はこれに近い。しかし厳密には主体と主体の自己認識とのズレは存在論的差異による
したがって本作でゴジラが不滅といわれるのはゴジラという症状(象徴)が持つ決して言語化しえない現実的な核(第一形態の核、サントーム、無意味)をもつことを示す。
この作品が凄いのはここで、症状の象徴化、解釈という精神分析のプロセスを描くだけにとどまらず症状(ゴジラ)の本質が無意味の非言語性(非象徴性)にあることを見抜き、症状の核である無意味をゴジラの本質として取り出している点。
もし症状が解釈におさまり言語的な意味の外部(無意味)をもたないとしたらどうだろう。この場合、症状は言語化によって完全に解消されるものと見なされるのは自明だ。
つまり症状(ゴジラ)が解釈による社会的な意味付けでは滅ぼせないとする本作の洞察は、ゴジラという象徴(トラウマ)が、最初(初期形態)のゴジラが名無し(意味なし)のソレでしかなかったことにも通じ、本質的に無意味であり非象徴的であることを示す。
名無しのゴジラを丁寧に扱い、ゴジラの持つ無意味の核をこそ本質として象徴化のプロセスを描き出す本作の意味はここにある。
繰り返すが、本作はこの洞察によってディザスタームービーの象徴読解に関するパラダイムを完全に刷新している。ここではゴジラの象徴性や意味は二次的なものとされ、その現実界の無意味に真理が見出されているのだ。
よって、これが~の象徴なんですよという類いの既存の映画評論や解説を無化する本作の構造はあまりにも深い。まさに歴史的名作といえよう。
また、このように消すことのできない無意味(症状)、象徴的ゴジラから非象徴的な核を取り出す本作のあり方は、ゴジラという作品においてゴジラが不滅であることの理由を明確に提示するもので、その意味でメタゴジラ的映画といえる。
つまり単に商業映画の性として、シリーズ化するためにゴジラが不滅なのではなく、ゴジラが心的外傷の症状であるからこそ、ゴジラには名無しの非象徴的・無意味的な心的外傷の核(ソレ、第一形態)があり、その意味に回付不可能な核のためにゴジラは不滅だというわけだ。
人はなぜゴジラ映画というトラウマの反復をシリーズ化し永遠とつくり続け、それを反復して観て享楽するのか、というゴジラ映画そのものの業の構造を本作はメタ的に暴く。
さらにこの観点から本作を洞察すると欠かせないシーンがまだいくつかある。
たとえばゴジラが究極生命体として象徴化(意味づけ)されるシーン、ここでゴジラは嫌なトラウマというだけでなく、欲望の対象で無限の価値をもつ憧れとして言及される。
セリフできっちりとゴジラが価値ある欲望の対象であることが示されているのだ。
ゴジラは人類の脅威であり福音であるとキッチリ主人公に語られている。
これはトラウマが本質的に人間の欲望の対象でもあることを見抜いている。トラウマが欲望の対象であることの説明は他の当ブログの色んな記事でさんざんやっているので割愛。
いずれにせよ、庵野監督は精神分析を知っていると思う。でなければこれだけの映画は創れまい。じじつ監督の出世作エヴァンゲリヲンではリビドーだとかの複数の精神分析学の用語が散見される。おそらく監督は後期ラカンのサントーム理論と一者(S1)の単離の理論を参照してシンゴジラを構想したのではなかろうか。
あくまで一つの仮説だが、そのように思える。
さらにゴジラの口に薬剤をつっこんで消えない症状を安定化させ、それと付き合っていくしかないという本作のテーゼは後期ラカンの分析治療の到達点とまったくおなじだ。
70年代ラカンでは最初は知を想定された分析家(有識者会議)の助けを借りて神経症者が症状(ゴジラ)を分析解釈によって意味付け(名付け)、最後には象徴(意味)としての症状(ゴジラ)から、無意味の核(ゴジラの尻尾)を分離し、その切り離した無意味の核(ソレ)を不滅の安定化した症状として引き受け、それと生涯つきあっていくことが目指される。
このような心的外傷をめぐる分析治療のプロセスとシンゴジラの物語はピタリと一致する。
ちなみにこのように捉えるとゴジラという名前を米国の使者(石原さとみ)が知らせるのは興味深い。シンゴジではゴジラの名前は死んだ日本人の博士によるのだが、その博士=父の名前を日本政府に知らせるのは米国なのだ。
これは敗戦後に敗戦(症状)の意味を確定し敗戦を名付けた東京裁判が米国主導でなされたことに対応するかもしれない。
最後に第四形態のゴジラのフォルムとラストシーンを考察して幕を閉じたい。
第四形態のゴジラは二つの頭をもっているのではなかろうか。つまり尻尾が高く天を仰ぎ頭部の先端が頭部の横につき、頭部が火を吹くように尻尾の先端も火をふくので、あの尻尾は第二の頭だということ。
※既存のゴジラでは尻尾は地べたが一般的
するとゴジラが象徴化の末に到達した姿は抑圧の完成であり、主体の分裂、意識主体(頭)と無意識主体(頭)との分裂なのではなかろうか。
※この解釈では、象徴化したゴジラの自我分裂は疎外S1→S2に相当し、物語全体の諸要素と体系的な整合性がとれる
つまりシンゴジラのゴジラは象徴化されてなお、山ゴジの抑圧・分裂のなさを特徴とする記号ゴジラとは対蹠的なのである。
第四形態の象徴化したゴジラの尻尾、これは第一形態(無意味)とそっくり。
※第一形態は尻尾しか姿を見せない
なので心的外傷の疎外(象徴化、意味付け)における「症状(ゴジラ)=象徴」の意味(象徴界)と無意味(現実界、ソレ性)との分裂が第四形態の双頭の意味であろう。
するとラストシーンで人型の生き物みたいなのが複数、尻尾の頂点に手を伸ばして固まっているシーンについても分かりやすい。
おそらくは心的外傷が持つ無意味の核、症状の核として尻尾状の頭(第一形態の尻尾=無意味なソレ)が目指されている。じじつ現実的な物(無意味)は渇望されつつトラウマとして避けられるアンビバレントな性質を持つとされる。
つまりゴジラの非象徴(無意味)たる第一形態の尻尾を欲望の対象としてアップしてこの映画は終わるのだ。
このことは本作のゴジラの本質が象徴ではなく非象徴にあることの強調ではなかろうか。したがって映画論的なパラダイムシフトを強調しているともとれると思う。
さらに補足すれば、ゴジラが福音とされるのはそれが科学的に解釈されつくした場合を想定している。ゴジラの分析がバイオテクノロジーを発展させ大きな恩恵をもたらすことが期待されているわけだ。
すると尻尾の頭に向かい手を伸ばす人型のゴジラ?とは現実的な無意味の症状の核を意味へと結びつけ、ソレを科学的に解釈し完全に意味付けしようという人間の欲望と見なせる。
じつはこのような欲望こそが精神分析では人間の欲望の本質とされる。そしてこの意味付けの終わりなき連鎖こそが症状を解消するとともに新たな症状を無限に生み出し、症状そのものを無限に分裂させる。つまりゴジラ映画(症状)をシリーズ化して無限に生み出す欲望である。
だからこそ70年代ラカンは意味としての症状(象徴)から症状の無意味の核を切り離し、終わりなき症状の反復を止めることを目指した。それが症状から無意味の核を分離するという精神分析の新境地を切り開いたのだ。
※これを終わりある分析と呼ぶ
したがってラストシーンは、症状の意味を欲望しそれに手をのばすことで、無限に分裂・増殖してしまう症状(ゴジラ)の解釈行為に対して、その意味付け=象徴化解釈を断念することで、ソレ(非象徴的ゴジラ)とうまく付き合うことを促し日本人の集合的トラウマを安定化させる必要性を示すのだろう。
ラカンは症状は消えない、ソレとうまく付き合うことが大事だという。これはゴジラは消えない、それとうまくつきあうことが大事だ、という本作と重なるだろう。
僕なりに本作の各シーンや物語の構造といった諸要素を体系的かつ整合的にまとめるとこのような結論に至る。
さて、この作品評論そのものが終わりなき症状(映画)の意味付け解釈に他ならないので、これこそ人間の業というより他ない。欲望の意味を巡る戦いは終らないのだ。映画を増殖させる意味においては、この記事のような意味付けも有効だろう。
以上で主要な分析を終える。
最後に重要な補足を述べるがシンゴジでは第二形態の不気味さが際立つ。この不気味さが現実界の無意味なのだ。だから第二形態の生物的でカオスで生態もはっきりせず、上陸はないという予測を裏切って上陸し街を無意味的に破壊する様は、現実界の怪物(心的外傷)という側面を非常によく捉えている。
これは山崎ゴジラの規則的、合法則的、言語象徴的な動き、意味的な振る舞いとは本質的に異なる。
またこれと関連し、山崎ゴジラとシンゴジラとでは役者の芝居のスタイルも根本的に異なる。
シンゴジラでは石原さとみを省いてリアル路線が志向され、それぞれが政治力学のなかで腹に一物、隠し持つ感じが醸されその本心はセリフでは語られない。
これは内面と外面、内心とセリフとの分裂がある映像演技的な芝居をシンゴジラがベースとすることを示す。つまりゴジラの象徴構造が抑圧による置き換えと意味付けをなすことで芝居も映像演技的に分裂してくるわけだ。
つまり両者のゴジラのデザインや挙動が持つ象徴構造の違いによって、両映画の演技レベルの違いは生じている。
またこのことからシンゴジラが開く映画評論とは、もはや象徴と意味との対応を素朴に語るものではありえない。新しいディザスタームービーの評論パラダイムでは、象徴そのものの象徴化のあり方や構造の洞察と象徴性(意味)の外部にある現実界の無意味が問われるのだ。
じじつ、両作品のゴジラはそれが象徴する意味ついては原爆や震災なのであって大差はないだろう。
古い映画読解では両映画の違いを論じることさえできないということ。
さらなる映画文化の発展を願う飽き性の僕としては、このシンゴジラのパラダイムを継承し、さらに発展させる日本人監督の誕生を期待する。
おまけ:ゴジラ映画の変遷についての感想
シンゴジラは2016年。
ゴジラ-1.0は2023年。
ゴジラ映画は2016年に新境地へと到達、その映画論的な意義は計り知れない。
ところが2023年には一挙に退行し幼児的な児童空想に浸る。
山ゴジが昭和時代という過去へと退行したことと山ゴジの映画のあり方の後退は重なる。令和を迎えてもまだ昭和。
また時代を象徴する大作家の百田尚樹がオールウェイズ三丁目のゴジラを永遠の0のゴジラ版と語ったのは衝撃的だった。
つまり永遠の0とはそういう作品なのだろう。永遠の0はネット保守ブームかこつけて台頭してきた作家が保守好みの題材を記号的にぶっこんで400万部を超える売り上げを達成した怪物作品。映画化もしている。
文学者百田尚樹の映画評では二つのゴジラはともに傑作とのこと。
一般の観客ではなく時代を象徴する大作家の大衆文化評論として彼の評論を聴いているとむなしくすらなる。
金だけの世の中となり、誰もが数字を目指す今日における文化的な知、学問的知の低下はいちじるしいのではなかろうか。
このままではいつか映画やアニメといった大衆文化はどんどん貧弱になるではなかろうか。
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