※この記事はアニメ『慎重勇者』のネタバレを含みます
うたまるです。
こんかいはアニメ『慎重勇者~この勇者が俺TUEEEくせに慎重すぎる~』をユングの深層心理学理論を総動員してガチ分析!作品の知られざる魅力に迫ります。
※最後におまけでラカンでも分析
ぼくは異世界転生作品はわりと好きでよくアニメを見るのですが、慎重勇者に関しては、正直いって世間の評価、圧倒的に過小評価だと考えています。ということで記事にすることにしました。
この作品、ぼくはとても好き。
昨今のポストモダン化するアニメ・ラノベコンテンツにあって慎重勇者の物語は非常に重要な位置をしめ学問的見地からも、その価値は確かなものです。
また慎重勇者があまりも素晴らしい作品過ぎて、はからずもこの記事、平易で分かりやすい本格現代ユング入門としても読める記事になったと思います。
ではさっそく慎重勇者の魅力に迫りましょう!
慎重勇者とは
題名 | 慎重勇者 ~この勇者が俺TUEEEくせに慎重すぎる~ |
ジャンル | 異世界転生 ファンタジー |
原作者 | 土日月 |
監督 | 迫井政行 |
話数 | 12話 |
放送日 | 2019年10月2日~12月25日 |
土日月のライトノベルが原作のアニメ。
タイトルから昨今の異世界転生作品にありがちな主人公最強系作品を連想させるが、主人公が無双しないのが特徴。
むしろ敵が理不尽な強さなので、主人公がかなり弱い作品ともいえる。主人公がその弱さをあり得ない慎重さという性格によって補い、困難を切り抜けるところに本作の1つの面白さがある。
また慎重な主人公、聖哉と女神リスタルテとのボケとツッコミのような展開も多くギャグ的な要素がほどよくちりばめられているが、王道の感動的な展開もある。
昨今の文学・アニメ・漫画・映画の物語研究的な背景を抜きにして、素朴に見てもとてもよくできていて、かなり面白い作品である。
したがって本作は、深層心理学的にマニアックな理屈で見ても面白いし、理屈抜きでも面白いという最強の作品。
ところで聖哉という名前の主人公が登場するロマンチックなアニメの最終話が聖夜の翌日、クリスマスに放送されたのは偶然なのだろうか。
あらすじ
現代の日本人であり、180㎝超のイケメンにして1億人に一人のステータスの高さを誇る主人公、龍宮院聖哉は、救済難易度S級レベルの世界「ゲアブランデ」を救う勇者として女神リスタルテに召喚される。
紆余曲折を経て、ありえない慎重さで困難なゲアブランデ救済を成し遂げる。
ユングで読み解く慎重勇者
逆転した世界
本作の特徴は、現代日本と神々の住まう統一神界とファンタジー世界の三層構造で展開するところにある。
そんな本作では女神リスタルテが人間である聖哉を勇者として召喚するのだが、リスタルテは聖哉に恋をし、聖哉とつながることを願望する。
しかし神と人との交わりは禁忌とされる。
このことと関連して非常に重要になるのが、スキル能力透視とフェイクの存在。
能力透視は対象を眼でみることで、その相手のレベルや攻撃力、取得スキル、耐性などのステータスを見ることができる。
対するフェイクは相手に能力透視でステータスを見られたときに偽のステータスを見せて本当の自分のステータスを隠すスキルである。
本作では冒頭からリスタルテは聖哉のステータスを能力透視で見るのだが、聖哉は密かにフェイクを使い仲間のリスタルテに対しても自分のステータスを隠していた。
ところがアニメ第二話での聖哉の実力とステータスが一致しないことで聖哉のフェイクに気づいたリスタルテはフェイクを破り、聖哉の「見るな」というプロテクト(禁止)を突破して本当のステータスを覗く。
また第一話では聖哉は慎重を帰して統一神界にとどまり、自分専用の筋トレ部屋の個室に閉じこもって筋トレによりレベル上げをし、女神を筋トレ部屋から追い出し、入るのを禁止するシーンがある。
じつはこの一連のシーンは全て昔話や神話の構造の逆転によってなりたつ。
まず通常、神の世界の女神に恋をして接近を試みるのは人間である聖哉の側となる、ヨーロッパ文化で言えば宮廷愛などはその典型だろう。
禁止によって彼岸の神の世界に普遍的な理想としての女神を幻想し欲望するというのが旧来の人間の愛のひな形である。
ところが本作ではこの構造がひっくり返り、女神の側が人間に恋をして欲望し、人間の側が女神に対して禁止をかしている。
さらにグリム童話でも日本の神話や昔話でも定番となっている「見るなの禁」と「入るなの禁」が本作では逆転して登場する。
一般にフランスの昔話『青髯』にしろグリムの『マリアの三人の子ども』にしろ、日本の『ウグイスの里』にしろ、『鶴の恩返し』にしろ、神や超越者の側が見るなの禁(入るなの禁)をかし、人間の側ないしは自我の側がその禁止を破る。
ところが本作では女神リスタルテの側が人間の聖哉の『見るな』の禁止を破っているのだ。
もちろんこの逆転には本作の根幹的なテーマを読み解く上で、非常に重要な意味があるがとりあえずここでは、女神と人間の恋と禁止の逆転があることを確認するにとどめる。
※本作をユングで読解する上で一番大切なのがスキル能力透視。能力透視の真の意味については最後に解説する
フェイクと慎重な性格の理由
つぎに確認したいのはフェイクというスキルが何を意味するのか、その心理学的な意味である。
フェイクによるステータスの偽装は、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の分離をしめす。言い換えるとこれは外面と内面のズレの成立といえる。
このことはユングとかラカン以前にあまりに基本なので、心理学好きの読者にはお気づきのかたも多いと思うが、心理学に明るくない方も読者には多いと思うので解説する。
もともと成人の内面(内心)は外面(表情、外的態度)とは一致していない。しかし、赤ちゃんは感情(内心)を隠さずそのまま表(外面)に出している。
そのため赤ちゃんは表情や泣きわめきといった身体表現にそのまま内面が反映されている。よって赤ちゃんは身体と精神が一体であり外面と内面が融合しているのだ。
ところが人間は言語を習得するとともに、自分の感情を隠すことになったり、嘘をつくようになる。
嘘というのは特に重要で、言っている言葉の内容と本当のこととのズレを生じる。虚勢をはり、弱点を隠したりと人間は嘘をつくことで身体と精神、外面と内面がズレてゆくのだ。
このような言語における外面と内面のズレ、嘘の習得がフェイクに相当する。
フェイクは嘘のステータス、数値や文章を見せることであり、まさに言葉の内容とその言葉の意図(真意)とのズレなのだ。
また内面と外面がズレることで、人間の意識は無意識と意識へと分裂することにもなる。そのためスキルフェイクは無意識の成立ないしは、無意識からの意識の分離を示す。
ここで重要なのは、とりわけ顕著に内面と外面とが分離したのは歴史上は近代に入ってからだとされる。
じじつ近代に入るとヨーロッパでは肖像画、壁掛けの鏡、個室が登場する。近代以前の内面と外面が明確に分離していない時代では、家・住空間には個室が存在せず全てが共有の部屋であったとされる。
(※壁掛けの鏡は他者から自分がどう見えるかを確認するもので外面を装うときに使う。鏡は自己自身を見る私と見られる私とに私が分裂することにも対応する)
そのため、本作の第一話の冒頭、主人公が個室のプライベートな筋トレハウスにこもり、女神を追い出して、一人隠れて筋トレすることは近代の成立に対応し、スキルフェイクの獲得と密接に関わる。
以上からスキルフェイクと個室での聖哉の筋トレは心理学的には相同的だといっていいのだ。
また外面から区別された内面の成立とは、外面を装い、内面を隠すことでなりたつ。
そのため内面の成立は他者から自分の内面を隠すこと、他者の侵入を禁止にすることで成り立つ。
ようするに外面とズレた近代的な個としての内面とは、他者の内面から切り離されること、元来共有されていた内面を他者の内面から分離し近代的な個を獲得することでもある。
このことからもフェイクと筋トレ部屋の見るな・入るなの禁が内面の成立を示していることがよく分かるだろう。
また内面の成立は一貫性をもった自己同一性を示す。つまり内面と外面の一致する主客未分の赤ちゃんのような人間は赤ちゃんがそのつどの衝動を垂れ流すように一貫性がまるでない。これは今しかない刹那主義といってもいい。
そのため、内面と外面の一致した人は、いまこの瞬間だけの快楽に耽り未来を不安視することもない。
それに対して内面を隠し、外面を偽装する近代的な内面を確立する人は自己に一貫性を持つ。
つまり、そのつどの衝動に流されず時間的に一貫した内的な隠された意志をもつことで、身体外面を装いフェイクで内面を隠すことができるのだ。
後の議論を先取りすると、これは父なる一神教が心身二元論を中心とすることにも関わる。キリスト教に典型される一神教の心身二元論とは心と体、内面と外面の分離を示し、自己存在(時間)の一貫性の獲得を象徴する。
以上より、主人公聖哉は最初から神経症水準の主人公であり、その意味で本作は近代的な文学にカテゴライズされると分かる。
すると聖哉の慎重な性格の心理学的理由も見えてくる、つまり隠された内面を持つ聖哉は過去、現在、未来の自己に対して一貫性をもった自己同一性を獲得している。そのため未来を考えて動くのでどうしても慎重になる。
近代主体(強迫神経症)は刹那主義のように今だけ考えるわけにはいかない。するとあらゆる可能性を想定して対策する神経質さに収斂してゆくことになる。
聖哉がまるで強迫神経症のように強迫反復的で儀式的な行為により敵を消し炭にするのも、過去、魔王にトドメをさしそこねて失敗したという理由はあれど、そもそもが近代主体的な内面を持っていることに由来する。
(※ユングやラカンでは神経症はノーマルな近代的内面を獲得する人のことをいう。したがって普通の人=神経症と定義される)
とくに見るなの禁止を徹底し、不足の事態や想定外を嫌う聖哉はヒステリーより遙かに強迫神経症的である。
ここで詳しく説明はしないが、いま流行の多くの異世界転生作品や漫画、文学の主人公は聖哉のような内面と外面が区別され一貫した意図と信念をもった近代的な自己同一性を形成しない。
そのため聖哉のような主人公の作品はそれだけで希少ともいえる。
もちろん本作は時代精神を反映しない古い型の作品というわけではない、そうならばわざわざ記事にしない。
レディパーフェクトリーと欠如
聖哉の決め台詞に「レディパーフェクトリー準備は完全に整った」がある。
これはありえない慎重さから、あらゆる可能性を想定し相手の隠された思惑・奥の手への対策を固め、確実に勝利できる確信がえられたさいに聖哉がいうセリフ。
したがってこのセリフは聖哉にとっての理想の状態とえいる。
となるとこのセリフが崩壊するところに本作の最大の転換点があるのは言うまでも無いだろう。
すると見えてくるのがアニメ第6話で魔王を倒せる唯一の武器、聖剣イグザシオンの獲得を放棄したエピソードになる。
じつは第六話は本作において一番重要な話となっている。六話で聖剣を取り逃したことで完璧な準備が不可能になり聖哉のプランに初めて欠如が生じるのである。
第六話「竜王なのにズル過ぎる」のあらすじ
六話は本作を理解するにおいて一番大事なので簡単にそのあらすじを紹介し、ユング心理学的に物語を解説する。
あらすじ
聖哉ら勇者のパーティーは唯一魔王を倒すことのできる最強の聖剣イグザシオンを求め竜族の里へと赴く。
竜族の里では女王の竜リヴァイエがおり、聖哉のパーティーメンバーで竜族の少女エルルの命を捧げることでイグザシオンが手に入ることが判明する。
リヴァイエはエルルに対し、「わらわはそなたをうらやましく思うぞ、そなたは魔王をうる聖剣となれる、竜族の誉れじゃ!」と語り死を促す。
エルルが竜穴奈落と呼ばれる大穴へ突き落とされることでその命が聖剣イグザシオンに変わるという。
いざエルルが飛び降りる直前、聖哉は仲間を犠牲にすることを認めず、リヴァイエに反旗を翻す。
ところが、リヴァイエはおそろしく慎重で用心深い性格であり、晩餐にしびれ薬をもっていた。そのため聖哉以外のパーティーメンバーはしびれて動けなくなってしまう。
聖哉だけは持ち前の用心深さで食事を口にしたふりをして吐き出していたため難を逃れた。
そこでリヴァイエは神竜化、昔話に出てくるような巨大な竜の怪物へと変容する、リヴァイエは耐性により対竜武器以外の攻撃が無効。
聖哉はこの事態も想定し、対竜武器、ドラゴンキラーをもっていた。
リヴァイエと戦闘になるが、さらにリヴァイエも、徹底した慎重さのため、エルルにあらかじめ死のネックレスを装着させており、ネックレスの死の効果を発動。
これにより3分でエルルが死ぬことになる。
聖剣イグザシオンを手にするのに、奈落に落として殺すのも、死体を奈落に落とすのも変わらないという。
さらにリヴァイエはスキル、アルティメットウォールを発動、これにより全身を硬化させ無敵の状態にとなる。
聖哉は素早さを上昇させる種を食べまくり、連撃を加えつづける。リヴァイエにあまりダメージはないものの攻撃の反動で徐々に後ろへ後退し奈落へと落下しリヴァイエは死ぬ。
これによりエルルは助かる。
結果、聖剣は手に入らなかったが、聖哉はもっていた剣をつかってスキル合成を使いトリックでその剣を聖剣イグザシオンかのように見せかけ、イグザシオンを手にしたかのように周囲を欺き、仲間や竜族の人々を安心させる。
女神リスタルテだけは剣が偽物だと気づく。
聖哉は女神にイグザシオンなしでどうやって魔王を倒すのか聞かれると「ガナビーオーケー、何とかなるさ」という。
ガナビーオーケーはもちろん、レディパーフェクトリーと対照的なセリフで完璧ではないことを示す。
ここで初めてこれまで準備万端で完全だった聖哉に聖剣イグザシオンという欠如が生じたことが分かる。
第六話「竜王なのにズル過ぎる」解説
まず竜の里の長であり女王の竜リヴァイエはユング心理学では負のグレートマザーや無意識のメタファーと考えられる。
いうなればリヴァイエは母なる無意識を象徴している。
また重要なのは、リヴァイエの用心深さにある。リヴァイエの用心深さ、慎重さは主人公聖哉の慎重さに通じている。
したがって母なる無意識の怪物であるリヴァイエは聖哉自身の分身でもある。このような自我意識(聖哉)と無意識(リヴァイエ)との同一性を捉えるのはユング心理学の基本となる。
というのもユングでは分離も結合も本質的には同一のものの分離であり結合と捉えるため。
ようするに、人間は無意識より意識が分離して自我が生じるわけでもともと意識とは無意識と一体であったと考えるのだ。
そのため母なるものと、その息子である自我は心理学的には同一性をもつ。
また竜の里の長が女性であり母として描かれているのも見逃せない。女神などの神の住まう統一神界にも父なる神が欠けるように竜の里にも父が欠損している。これについての解説は後の項で解説する。
ここで簡単にクラシックなユング心理学の無意識と意識、母と息子との対応を説明する。
主客未分の自意識を持たない赤ちゃんは、最初、母親と一体の関係にある。この最初の無意識だけの赤ちゃんの母子一体の状態から無意識は母に喩えられる。
そして人間の子どもが自意識、自我を獲得するときには、母から自律して自己の主体性を獲得する必要がある。これが母離れに対応する。
このとき母離れは心理学的には象徴的な母殺しとして示される。たとえば童話『ヘンゼルとグレーテル』ではちょうど母離れし自我を確立する時期にある双子が魔女を殺して、成長する。
ヘンゼルとグレーテルでの魔女はもちろん母親の負の側面、子どもを呑み込む母を示す。
つまり母親というのは子どもを守り、包み込み庇護する存在だが、子どもが母から独立しようとすると怒り過保護になって子どもの主体性を呑み込んでしまう存在でもあるのだ。
そして母は無意識に対応しているため、母の子どもの主体性を呑み込む属性がリヴァイエとして無意識の属性に対応している。
余談だが、鬼滅の刃の風柱が幼少期に人食い鬼と化した母を殺しているのも、まったく同じ象徴的母殺しの主題を踏襲している。
ここまでの説明で無意識が母に対応したり、自己の無意識として自己自身に対応したりと多義的なことが分かると思う。
ここがユング心理学の肝で、ユングの概念は非常に多義的であり、実体概念ではなく関係性と運動に力点が置かれている。
そのためユングを実践する場合、スタティックな解釈はしてはならない。
話を本題に戻そう。
以上の説明から竜リヴァイエ殺しは、象徴的な母殺しにおける自我の誕生、無意識からの意識の分離をしめすことが分かる。
またリヴァイエは聖哉自己自身でもある点に注目するとリヴァイエのスキル、パーフェクトウォールが重要になる。
パーフェクトウォールはもちろん、聖哉を象徴する決め台詞「レディパーフェクトリー」に対応する。すなわち自己の完全性を示すのだ。
パーフェクトウォールを攻撃して押しだし奈落へと突き落とした聖哉は、ここで自己の完全性を断念するという自己去勢を実現したことを示す。
そのために最強の武器イグザシオン(理想)を欠如し、パーフェクトに変わり、ガナビーオーケーというセリフが出てきている。
次に、なぜパーフェクトという理想の断念と母殺しが、リヴァイエ殺しという1つの描写に集約し、両者が相同性をもつのかについて簡単に説明する。
これを説明しようとするとラカンの考え方が入るのでラカン調の解説になってしまうのだが、母と一体になるということは、母の理想の子になることにも等しい。
つまり主体性がなく母と一体であるといのは、母の求める理想の対象(ファルス)と化すに等しいのだ。
その意味で人間の理想とは母の子どもへの欲望にあるともいえる。
そして理想とは僕たちの希求する欲望の対象に他ならない。そのため理想は母のファルス(剣)、聖剣イグザシオンそのものでもある。
ここでもしイグザシオンを聖哉が手にしていたらどうなっていたかを考えよう。
すると六話のラストのセリフはガナビーオーケーではなく、いつも通りのレイディパーフェクトリーだっただろうと考えられる。
パーフェクトは当然、理想的な自己のあり方なわけだから、イグザシオンはパーフェクトな対象、母の理想だと分かる。
ここに母が希求するイグザシオンが聖哉の理想でもあることの意味は集約されるのだ。
このような理想を介した母子の欲望の同一性、および理想(イグザシオン)を欠如することで生じる母からの分離が、六話の心理学的な基礎構造となる。
また六話ではエルルが母なる無意識を表象する奈落の竜穴に呑み込まれそうになるため、聖哉の自我はエルルが象徴しているともとれる。
他にもユング的に王道のノイマン的な解釈をするならば、母なるものが象徴的に殺され、そこから姫(エルル)が分離してエルルを意識に統合したとする見方もできる。
ひとつ言えるのはもともと一体にあった無意識の母から分離したことで、竜の娘、すなわちリヴァイエの分身であるエルルが獲得(結合)されたこと、結合と分離の弁証法的な動きが物語において反復されていることである。
この結合と分離の同時性と反復は、慎重勇者のユング的読解における1つの結論にもなるので、後の議論に先んじて触れておいた。
ちなみに旧約聖書に出てくる海の怪物、リヴァイアサンはユング心理学では母なる無意識の怪物の象徴として非常に有名なもので、リヴァイエの名前の由来はリヴァイアサンだと思われる。
なので、もしかすると作者はユング心理学かラカン精神分析を知っているのかもしれない。
(※六話はラカンを中心において分析するとかなり面白いのでそれは最後におまけとして解説する)
とりあえずここでは、六話が母なる無意識から分離したことで理想(聖剣)を欠如し、自我が主体性を獲得する話であること、そして、統一神界同様、竜の里にも父がいないことに注目しよう。
父なき慎重勇者
9話で聖哉一行は帝都にたどり着く。その帝都では威厳ある老人剣士、戦帝ウォルクス=ロズガルドが最強クラスの魔王軍の四天王を瞬殺する。
こうして帝都にきて本作はじめて父らしい父が登場するのだが、なんとこの戦帝、戦闘後に赤ちゃんの姿になり幼児化、おしっこを漏らして泣き出してしまう。
つまり父なるものが本作では悉く機能しておらず欠如しているのだ。
父の不在を印象づけるシーンとして、他にも、アニメ序盤の回で聖哉が統一神界で修行をする話がある。この話では剣神セルセウスという威厳ある男の神に聖哉は修行をつけてもらう。
ところが修行三日目には聖哉が父なる神であるセルセウスを超え、最終的にはセルセウスをボコボコにし、剣の道を引退させ、完全にふぬけにしてしまう。
つまり本作では女神が統べる統一神界では父なる神は冒頭でふぬけとなり、竜の里にも母だけで父がいない。そしてたどり着いた帝都でようやく登場したと思われた父は、すぐに赤ちゃんになり、おしっこを漏らして喚く始末。
これらの描写が意味するのは現代における父性の終わりに他ならないだろう。
そしてこのような父性の終焉こそは数多くの古典、さらには最新の深層心理学の論文でも頻繁に指摘される現代社会における父性の死を象徴していると考えられる。
またこのように考えることで、聖哉の近代主体的なあり方、外面と内面の分離という描写が持つ真価が明らかになるのだ。
ちなみにラカン的に読み解く場合は、魔王を父亡き時代に鉄の秩序のもと回帰してきた現実界の超自我として見なすこともできる。これについては後におまけのラカンの項で解説する。
(※ユング的には魔王はウロボロス的父性として解釈することもでき、ウロボロス的父性は母性原理の負の側面としてラカン派の回帰する現実界の超自我と対応させられる)
というわけで次の項目では父なき現代の特徴を概観し、本作の時局的な側面を確認したい。
父なき現代社会①:一神教と父
慎重勇者の魅力を理解するため、ここに父のなさという観点から現代社会の心理学的な概要を示す。
まず現代における父のなさとは歴史的にはフランス革命に端を発する。
ここで父性を中心とするキリスト教のあり方から父性社会と父性機能の心理学的機能を確認してみよう。
まず父なる一神教では父なる神が「光あれ」という言葉を発することで、世界は光と闇に分かれ、7日間にわたる神の創造により人と動物、天と地などあらゆるものが言葉により分離・創造されることになる。
このことから父性とは分離・切断の機能をもつとユング心理学では考えることが多い。
また父の分離の機能は、さきほど解説した、竜の怪物、母リヴァイエの呑み込み一体化してしまう力から子どもを分離する機能に相当する。
そして一神教の父なる神が言葉によって世界を創造する行為は、この母からの切断の機能に対応する。
つまり母子一体の世界とは、原初の混沌、ないしは、我と汝、母と子の直接的な二者関係の世界に相当する。
それに対して言語というのは第三者の介在する三者構造を基本とする。つまり、言語とは自分とはまったく無関係のその場には居合わせない第三者(彼、父)に対する伝達を可能とするコミュニケーション装置であり、そのような言語のもつ三人称性(公共性・客観性)こそが母子の直接性の切断によって獲得されるわけだ。
とくにラカン派では父の言語による禁止が母子の直接的関係(近親相姦)を禁止にし、イメージの知覚世界(想像界・身体イメージ)が言語によって上書きされると考え、この言語化のプロセスを疎外という。
(※この疎外により無意識は言語のように構造化する)
したがってラカンでもユングでも父性は切断と言語を象徴すると考えられている。
また一神教では神は世界の外部に措定される。これは多神教のような世界の内に神がいるコスモロジーとは根本的に異なるが、神が世界の外部に置かれたことで、世界の内と外の分離が生じ、これはそのまま主観と客観の分離・切断に対応する。
かくして一神教的な父が優れて西洋的な客観主義、すなわち自然科学の母体となっていることが分かる。一神教なくして自然科学なしといっていいだろう。このブログでは色んな記事で解説しているがニュートン力学なども明らかに一神教的なコスモロジーの体現といえる。
一般には古代ローマのヒュパティアの惨殺やガリレオの宗教裁判にはじまり、現代ではアメリカ南部での進化論教えない問題、平面地球協会などのせいで、キリスト教と科学が対立するもののように誤解する日本人が多いがこれは全くの馬鹿げた誤解であり、学問の世界では一神教が自然科学を生じたのは常識だったりする。
というわけで、一神教によって身体と精神も分離し、心身二元論の考えが登場。これにより自由恋愛や職業選択の自由などを持つ近代主体と自由意志、誕生のための基礎が整う。
すなわち心身二元論は、身体と精神、外面と内面のズレを示し、このズレはそのつどの身体的な衝動を禁欲し精神によって1つの目的(禁欲による最後の審判)へと向かう一貫性をもった主体を可能とする。
もっとも神の生きる宗教の時代では、決定主体が人間にはなく神にあり、自己決定や自由はまだない。
父なき現代社会②:父の死
このような一神教時代を終える象徴的な歴史的出来事がフランス革命。
フランス革命では第三身分の中産階級が第二身分と第一身分、すなわち宗教家と貴族をぶっ殺し、さらには、身分制度(世界)の外部にいる父なる王ルイ16世を始末して、神ではなく人間が人間の主体となる時代を到来させる。
父なる王ルイ16世は一神教の父なる神に対応し王殺しは父殺しの意味を含意し、フランス革命によって、自己決定と自由意志が花開くわけだ。
これまで神が人間の全てを決定していたのに神が死んだことで、人間が人間のすべてを決定するようになり、職業選択の自由や自由恋愛が生じたといえる。
(※ニーチェの神は死んだ、という宣言とニヒリズムも、このことを示す)
ちなみに、もともとヨーロッパでは職業は神が決めるもので、そのためドイツ語では召命(ベルーフ)と職業(ベルーフ)は同じ単語である。
このとき職業選択の自由は、職業(外面)とそれを選択する個人(内面)とのズレを生じることとなる。
したがって神殺しは、父なる神により分離された外面と内面を、より本格的に分離することとなる。このさらなる分離によって近代主体が開花したといえよう。
以上から主人公の聖哉は、神殺しによって生じた自由意志をもち、自らの運命を自ら切り開く近代主体といえる。
父なき現代社会③:現代と境界消失
18世紀末におきたフランス革命よりはや228年、現代日本では聖哉のような近代主体はほとんど消滅したことが精神医学の統計によって示唆されている。
このような近代主体の今日的崩壊はユング派でもラカン派でも父性の消滅によって説明される。
たとえばユング派であれば、20世紀後半の段階で、MLフォンフランツによるサンテグジュペリの著作、『星の王子さま』を分析した永遠の少年元型論によって母親コンプレックスによる近代主体の解体が示されている。
(※フランツは『永遠の少年』という著作で、現代をプエルノイローゼと診断し、現代人は母の呑み込む力に対抗する父性のなさのために近代的な自我をたちあげることが困難となっていると指摘。また進撃の巨人は典型的なプエルノイローゼ作品になる)
またラカン派にいたっては、ラカンが60年代には〈他者〉の〈他者=父〉はいないといい、〈父の名〉の消滅によって母の気まぐれな欲望が優位となり、結果、獰猛な現実界の父として死んだ父が回帰し、世界は鉄の秩序に支配されるだろうと警鐘をならしていた。
ユング派、ラカン派いずれも半世紀ほど前から、社会や家庭から父性・父権が消失することで、母の獰猛で気まぐれな欲望が優位となり、近代的な主体が解体すると考えていたのだ。
そして2023年現代日本では本当に近代主体が解体したことが疫学統計によって示唆されている。
(※そもそもアニミズム的な日本においては近代主体など歴史上一回も成立したためしがないという論考もあるが、そうだとしても現代日本は近代以降、歴史上もっとも近代主体が解体しているふしがある)
重要なのは、現代では、人間に禁止(戒律)をかし、母子を分離する父性(神)が消滅したことで、ポストモダン(相対主義)が隆盛し、そのことで境界が消滅していること。
たとえば、現代では男や女といった性別さえもが交換可能となり、自己選択できるようになっている。このことはもちろん一概に悪いこととはいえない。しかし、こうした選択に断念の存在しない無限の選択によって現代では職業も性別もなにもかもがその固有の意味を喪失し、境界が溶けてしまっている。
このことはグローバリゼーションにおける国境の消失とも連動しており、ネオリベが支配する現代社会では、すべての価値がお金かフォロワー数に還元されてしまう。
また、ありあまるお金があればフォロワー数がたまり、フォロワー数があればお金になるので、フォロワー数は現金等価であり実質的にはお金と変わらない側面がある。
そのため、現代ではあらゆる価値は金という単一の価値基準で決定し、その結果、人間のあらゆる動機はお金に収束してしまう。
これによりサラリーマンになるのも野球選手になるのも、違いがなくなったといえる。
つまり何になるか、何を選択するかは問題ではなく、どれだけ稼ぎフォロワー数を手にするかだけが問題となるということ。
このような状態では野球選手とサラリーマンとのあいだには実質的な差(境界)がなくなってしまう。
こうしてあらゆる職業間の境界は消滅することとなる。国籍も性別も固有の意味を消失しつつあり、現代ではあらゆる自己を示す境界が融解しつつあるのだ。
そして、境界消失は、これまでし示してきた外面と内面のズレ・分離を融解してしまうことに通じる。
グローバリゼーションの現代社会には異界も彼岸も存在せず世界は均質で交換可能なのだ。たとえばエジプトでも日本でも同じマックが食えたりする。
さらには翻訳機能が進歩して言語的な境界も埋まりつつある。また全ての動機(内面)がお金という単一のものに支配される現代では、他者から区別された内面もまた成立しない。
かくして父性を失い、父の禁止なき現代日本人は、母の呑み込む欲望に翻弄され、外面と内面が融合を生じ、『チェンソーマン』のデンジとか村上春樹の小説の登場人物のようになってきている。
ここまでが分かると、なぜ慎重勇者において父性が不自然に欠落するかも明白。わざわざ年老いた戦帝まで登場させ、それを幼児化させるのも、かつて社会に秩序をもたらした父権が現代では失われたことを巧みに描写しているとも解釈可能なのだ。
ここまでで本作が非常に現代社会に対する回答として洗練された、時局性のある作品であることがわかるだろう。
本作においては、父なき時代に父なしで聖哉が自らに母や理想との欠如(分離)をつくりだしていることがもっとも重要となる。
また女神リスタルテをはじめ多くの女神が聖哉に恋をして、肉体関係(近親相姦)をせまる理由もここになる。
つまりこれは、父なき時代における母の一体化の欲望にさらされる現代人のメタファととれるのだ。
(※当たり前だがこれで母性が敵だとか、保守的な父性を素朴に復権すべきとはならない、そのような短絡的発想は時代錯誤であり退行的、全くもって深層心理学的には無効とされる。そんなに単純な問題ではないということ)
本作では、リスタルテやリヴァイエのみならず、弓の女神ミティスもまた聖哉を狙う。ミティスは露骨に性的関係を迫る女神でこれまでに何人もの召喚した勇者と関係をもち、勇者を脱落させている。
まさにミティスは父性なき世界で、自我を呑み込むグレートマザーの負の側面を表象しているとみることもできる。
またミティスはアニメ第八話で全裸で大木にぶら下がる形で聖哉を誘惑するが、ユング派のフランツによると木にはグレートマザーの意味があるという。
境界喪失と慎重勇者
ここまで慎重勇者が現代社会における父性の死と、その死を契機とした母の一体化の欲望の暴走、およびそれと相同性をもつ、あらゆる境界の消失、内面と外面の差異の消滅による近代主体の解体を示してきた。
ここでは、慎重勇者において、どのように境界の消失が描かれれいるかを簡単に確認しよう。
女神が聖哉の内面を覗こうとしたり、結合しようとしたりする境界消失は既に指摘したが、他にも、聖哉たちが簡単にファンタジー世界ゲアブランデと統一神界を何往復もしていることに境界のなさが見て取れる。
統一神界は神の世界でありユング心理学上は彼岸であり無意識に対応すると考えられるが、本作ではその彼岸と、此岸に対応するゲアブランデとを、簡単に行ったり来たりする。
まるで観光気分で2つの世界を都合よく往復するのでもはや2つの世界にはほとんど境界が成立していない。これは観光地化によってかつて彼岸とされた場が、その神聖と彼岸性を消失するグローバリゼーションの現代と対応して読み解くことができる。
さらに第9話ではクロスド=タナトスという破壊不能の最強の死に神が現れ、聖哉は倒せないと悟り、統一神界へと逃げる。
するとクロスドタナトスは次元を超えて統一神界に乱入、大暴れしたあげく統一神界の破壊の女神によって存在を消去される。
このようにゲアブランデの存在が平気で境界を侵犯して神の世界に現れることも現代的な境界のなさをよく示すと考えられる。
(※マーベル映画、スパイダーマンのマルチユニバース化なども現代人の境界喪失を示している)
クロスドタナトスに関してはラカンのラメラや無意味のシニフィアン、現実界の概念で捉えた方がよく分かるので後のラカンの項目で解説する。
またこれ以外にもゲアブランデの魔王はチェインディストラクションによって勇者や女神を完全に殺すことができることが判明する。
本来、召喚されてきた勇者はファンタジー世界の住人と異なり、ファンタジー世界(夢)で死んでも記憶を失って元の現代日本に戻るだけなのだが、ゲアブランデの魔王のチェインディストラクションは、勇者や女神の存在を完全に抹殺することができるのだ。
これは幻想であり夢(無意識)の世界が現実との境界を消失し、現実を呑み込みこんでしまっていることを示す。
慎重勇者と聖哉の影、ロザリー
慎重勇者では第七話で、聖哉の影に相当するキャラ、ロザリー=ロズガルドが登場する。
彼女は無鉄砲、無計画で場当たり的、猪突猛進という感じで聖哉とは正反対の性格をしており、ゆえに聖哉をいらつかせる。
このような自分と正反対とも思える自分を苛つかせるような人格像をユング派は影という。影はコンプレックスの一種であり、ユングにおいては自我もまたコンプレックスの1つに過ぎない。
また影をユングは、生きられなかった人生の反面だという。
影は他人にそのイメージが投影されることで、自己と関係できるという。ユング心理学では、対人関係を介して、うちなるイメージである影と影を投影された人物とが区別(分離)され影が引き戻されることで個性化の過程が進むと考えられているふしがある。
そんな影、ロザリーは戦帝の娘であり、父の子として描かれる。
じつはアニメの終盤で判明することなのだが、ロザリーの性格はもともとの聖哉の性格とそっくりなので次の項ではそのことを確認しよう。
聖哉とリスタルテの過去
じつは聖哉が召喚され勇者に選ばれるのは二度目であり、はじめて勇者として召喚されたときの聖哉はロザリーそっくりのガナビーオーケーを連呼する、その場の勢いで無計画に突っ走る性格だった。
しかしそんな聖哉の性格が災いし、異世界イクスフォリアで恋仲となり自分の子を身ごもっていた仲間ティアナ姫(女神リスタルテの転生前)が魔王にお腹の子供ごと惨殺され、イクスフォリアの救世に失敗してしまう。
これにより異世界で死んだ聖哉は記憶を消され、元の現代日本の世界に戻される。
一方、ティアナ姫は殺されたが、その魂は前世の記憶を消され、女神リスタルテとして転生、リスタルテは女神としての務めで、救世難度Sのゲアグランデを救世するため偶然にも聖哉を召喚していたのだった。
というわけで、聖哉は失われた始原の過去では今その瞬間の感情で動き、運命の女性と結合していたことが分かる。
そしてその欠如した始原の記憶において聖哉とリスタルテは魔王のおぞましいトラウマを刻印されていたのである。
したがって、影としてのロザリーの性格は過去の聖哉自身に対応している。
第一に重要なのは、過去の聖哉の性格であろう。聖哉の刹那主義は人類のプリミティブな時間意識に対応し、神経症的な現在の聖哉とは真逆にある。
したがって過去の聖哉は外面と内面が未分化の即自的な主体といえる。そのため未分化性がつよく母なる女性との肉体的な結合(近親相姦)を示すがごとくティアナとの肉体関係があったことが示唆されていると考えられる。
第二に重要なのはこのような原初の結合が魔王という心的外傷の痕跡とともに、欠如(忘却)した過去としてあること。
この二点を次項では、本作を特徴付ける作品の全体構成に対応させ本作の究極的な意味として見抜いてゆこう。
慎重勇者の中核理論:結合と分離の結合
欠如した原初(イクスフォリア)の記憶にある、聖哉の外面と内面すなわち身体と精神の一致、そして母なる女性(ティアナ=リスタルテ)との結合は、呑み込む魔王によって死を迎えている。
これはユングの究極到達地点、錬金術における結合の主題に対応する。ユングは人生後半を扱った心理学者であり、ユングの個性化の過程の究極は死にある。
そんなユング心理学では究極の結合は死だとされている。じじつユングにおいて有名な錬金術の心的過程を表象するとされる「賢者の薔薇園」という絵の図5は「結合」という題がつけられ、男女が交わっている絵であり、その次の図6の絵では「死」という題がつけられ男女の死を示す絵が示される。
よって死はユング心理学では究極の結合なのだ。
しかし一方でユング心理学において死には別の意味もある、それが分離・切断・否定である。
つまりティアナとの結合によってそのあと、魔王によって意識と無意識の分離としての死がもたらされたと考えることができるのだ。
そして、その始原の過去が死によって欠如(忘却)させられ、けっして帰ることのできない彼岸(無意識)として分離し意識である外面と内面の分離した結果、慎重勇者(聖哉)が誕生したと考えられる。
以上から、結合が分離を生じたと見れる。
ここで本作がひたすら、結合と分離を反復することで物語が構成されていることを確認する前に、簡単にユング心理学の基礎である、『結合と分離の結合』というパラダイムの理路を解説する。
まず結合と分離の結合とは、結合と分離は別々ではなく本質的には同時性と同一性をもつという考えのこと。
この考えは、自然科学的な物を扱う場合に重要となる論理学的論理とは区別され、心理学的な心を扱う上で基本となる弁証法的な論理といえる。
結合と分離の同一性を示すものに自意識があるのだが、ここでは分かりやすさを優先し、誰にでも分かるように解説する。
ここで分かりやすくAとBの結合を考えよう。すると自然科学的な通常の結合ではAとB、2つの異なる実体がありそれを接着剤かなんかをつかってくっつけるイメージになるだろう。
この通常の結合イメージとは打って変わり、ユングの結合というのは、最初に前提されるAとBの分離がもとよりAとBとの一体性に依拠すると考えている。
たとえば、国内の政治思想では右と左がよく敵対していて、互いに、右は~である!とか左は~である!と互いを固定的・一義的に定義して実体化しあう様子がしばしば確認されるのは周知と思う。
このように実体化して右(A)と左(B)をとらえると、両者の結合は先ほど示した自然科学的なAとBの通常の結合イメージに落ち着くだろう。
しかし思想や態度を示す、右とか左というのは実体ではない、つまり互いに独立して存在しているのではない。
というのも左をどのように定義・境界づけするかによって右自身の定義が変わってしまうからだ。言い換えれば右の人は左を定義することによって自己自身をつど定義しているといえる。
このことから思想における左右の分離対立はじつは両者の関係に依存していると分かる。互いに互いの敵対関係なくして自己自身を存在させることができないわけだ。
これは右がなんでありどのようにあるかを左が掌握し、その逆もしかりといってもいい。
このことを念頭に政治思想における左右の関係をユング的に捉えてみよう。
するともとより左右、両者が相互依存的な一体関係にあるからこそ、両者の分離は、根源的な一体関係を担保として可能となっていると見なせる。
そして両者の結合もまた、根源的な忘却された原初の一体関係のためにこそ可能となっていると考えるのだ。つまり結合はここでは再結合の意味を持つ。
さらに補足すると、最初にAとBが独立して存在しているのでなく、両者の一体となった原始的関係性がまずあって、その関係性よりAとBが互いの関係項として析出するということ。それゆえ関係するという結合性によってしか分離はありえないのだ。
したがってユング心理学が目指す結合というのは、最初から到達されているのであり、むしろ最初に到達されているからこそ目指すことが可能となるものなのである。
また、このような結合によって分離し、分離の動きが再結合へと向かう結合(肯定)と分離(否定)の一体関係・運動関係(結合と分離の結合)を弁証法という。
(※ユングの結合はあると考えるところが性的関係・結合はないと考えるラカンとのパースペクティブの最大の違い)
これがユングの思想の到達点、結合と分離の結合の簡単なあらましである。どうということはない単純な話なのだ。
ちなみにここでいうAとBや右と左の関係のことを主体とか主観という。主観は厳密には私の中にあるのではなく常にあいだにあるのだ。
さらにユング的結合について補足しておくと、本来は相互一体の関係の次元に属する右(A)と左(B)を、日本の極右と極左がやりがちなように、互いを独立して個別に存在するものとして実体化してしまうと、両者の関係性によって生じるべき弁証法的な動きが静止してしまうと分かるだろう。
「私」と無関係に対象(敵)を独立して定義し、固定的な物と見なしてしまうと、その対象の変容および「私」の自己変容の可能性が否定されるに等しいということ。
凝り固まって敵対する構図は世の中に多くあるのでそれを思い起こしてもらうと分かりやすいだろう。また、このような実体化によって凝り固まり自己変容(世界変容)の可能性がせき止められた状態が神経症の症状を形成するともいえる。
このような凝り固まりは結合と分離の同一性が損なわれ、結合と分離が自然科学的に捉えらてしまうことで生じている。
(※この結合と分離の取り違いをユング心理学では心理学的差異の混淆という)
よってユングが結合と分離の結合によって言わんとするのは、右(A)と左(B)が実体ではなく原初的な一体関係を共有する動的な相互規定関係にあること見抜くことで、凝り固まった自分(A)と相手(B)の実体化を解消し、結合と分離の動的変容への可能性へと開かれることだといえる。
慎重勇者の最終分析と究極の意味
レディパーフェクトリー、慎重勇者の究極の意味を理解する準備は整った!
と言うわけでここから本題に入る。繰り返すが慎重勇者の物語は基本的に結合と分離の結合に集約することができ、結合と分離の反復として解釈できる。
じっさいに本作の結合と分離の弁証法的な動きを確認しよう。
まず失われた原初の記憶であるイクスフォリアでの聖哉とティアナ姫との結合関係は世界と聖哉(自我)、無意識と意識との太古的な結合・一体関係と見なせる。
つぎに太古的結合それ自体の運動に基づき、魔王による死という究極の結合において分離が成立する。これにより場当たり的で即自的だった聖哉は、慎重で隠された内面を持つ近代主体として誕生。ティアナ姫も聖哉との結合を禁止され分離される形で女神リスタルテとなり再び聖哉と関係してゆく。
さらに、聖哉はかつて結合していた自己自身であると同時に母なる無意識を象徴するリヴァイエを奈落へ落として分離し、聖剣イグザシオン(ファルス・理想)を欠如することで、パーフェクトな自己像という理想と現実の不完全な自己像との分離を実現する。
こうして「レディーパーフェクトリー」一辺倒だった聖哉は「ガナビーオーケー」という準備の欠落した状態となる。
つまり原初の結合より分離するも今度は父性なき世界で彼岸の理想へと結合してしまっていたのを、自ら断ち切り、理想と現実とを分離したのだ。
注目すべきはこの理想の分離(欠如)において、外面と内面の一致した原初的未分離の聖哉を示す「ガナビーオーケー」というセリフが出ること。
これこそユング的な意味での分離における結合を示す完璧な例といえる。このように本作では、結合に始まり結合それ自体を示す死によって分離され、その分離ゆえに女神達から結合関係を迫られる動きが生じ、さらなる分離が結合を示す「ガナビーオーケイ」によって実現しているのだ。
この結合と分離の同時性の反復構造は、さらにとどまることなく進む。
じじつ物語は後半に至ると、境界喪失を表象する全てを呑み込み無に帰すクロスドタナトスが登場、ゲアブランデと統一神界との境界を侵犯し全てを呑み込もうとする。
すると聖哉の計画により破壊の女神ヴァルキュレが現れ対象を完全に消し去るヴァルハラゲートによってクロスドタナトスを冥界におくりそのゲートを閉じる。
これはヴァルハラゲートにより敵を彼岸へと分離し門を閉じることで再び世界に境界を生じたと解釈することができる。
そして魔王との決戦では聖哉は最後まで内面を隠しきり、女神リスタルテやエルルなどの仲間を騙して単身魔王の元へと赴き魔王と対決する。
イグザシオンなして倒すため聖哉はヴァルキュレから教わったヴァルハラゲートによって魔王を消滅させようとする。
そのとき女神リスタルテは聖哉がいないことに気づく、そこでリスタルテは最高位の予知の女神イシスターの元へ訪れ聖哉の消息をたずねる。
そこでリスタルテは本来ならば立ち入り禁止(入るなの禁)の時の停止した部屋へと案内され聖哉が単身で魔王城へむかったことを知る。
さらに聖哉は魔王がチェインディストラクションで女神リスタルテを殺そうとしていることを知り、仲間を守るため単身で突入したことが判明。
これにリスタルテは納得できないといい、なぜ慎重な聖哉が修行せずに魔王城へ向かったのか尋ねる。これにイシスターは聖哉がフェイクのスキルで隠し続けていた聖哉のステータスを公開する。
すでに聖哉のレベルは上限の99に達しており、修行は無意味、そもそも物語中盤の竜の里でリヴァイエと戦った段階でレベルがカンストしていたことが明らかになる。
こうして、隠されていたステータスが明らかになり隠されていた聖哉の仲間を守るという内面が発覚(結合)、これはもちろん、リスタルテと聖哉の結合を示している。
つまり、厚いフェイクの壁によって隔てられた聖哉の内面が、聖哉自身、リスタルテから完全に分離し姿をけしたことによって明らかとなりリスタルテと結合したといえる。
ゆえにこのシーンは、分離と結合の同時性そのもの。
さらにこの後、イシスターによって女神リスタルテはティアナ姫時代の記憶を見せられ、聖哉が慎重になった理由や死骸と化した敵を消し炭すら残さず執拗に魔法で焼却しつくす理由を知る。
このシーンは本作の感動ポイントとなる。そもそも感動という人間の感情とは結合と分離の結合にあり、本作の感動は物語上の必然ともいえる。
また、聖哉の内面(本心)を知ったリスタルテは、その後、禁止を犯してパーティーメンバーと一緒に聖哉のもとへと直接ワープ。
聖哉はヴァルハラゲートを発動して魔王を彼岸へと消し去るが、ヴァルハラゲートはその代償に術者の聖哉の命を奪う。
聖哉は代償でダメージを受け死に向かうが治癒魔法が特技のリスタルテは聖哉を治癒して命を助ける。ところが魔王はヴァルハラゲートの門から首を出し、世界を道連れに滅ぼそうとする。
これに対してさらにもう一度ヴァルハラゲートごと魔王をさらなるヴァルハラゲートで封じて閉門し魔王の存在を消し去る。しかし二度目のヴァルハラゲートの代償は強力で治癒不可能の死を迎える。
こうして物語は再び死によって円環を閉じる。ちなみに幸いにもヴァルハラゲートによる魔王消滅によってチェインディストラクションの効果は切れており、聖哉は記憶をうしない現実の日本に戻る。
聖哉が日本に生還したのは夢(ゲアブランデ・無意識)と日常現実(日本・意識)との境界が取り戻され、夢と現実、内面と外面、自と他が分離したことによる。
もちろんこの分離は、魔王をヴァルハラゲートの閉門によってゲアブランデから分離すること、冥界と現世との境界の生成に対応する。
以上より、アニメ一期では、最後に究極の結合である死に至り、境界なき現代社会に境界を回復して現実へと聖哉が分離されて話が終わっているのだ。
よって聖哉が救ったのは夢であるゲアブランデと同時に、日常の日本でもある。両者もまた実体ではなく関係においてあるのだから。
(※現代における境界のなさとは、夢と覚醒、空想と現実との境界のなさに集約される。夢の救済=夢分析とは現実の救済である)
このように本作では幾度となく結合と分離の弁証法的運動の反復が生じその反復を中心に物語が構成されていると分かる。
さらにいえば、物語全般に渡り活躍するスキル能力透視の見る・見抜くという行為、これはユング心理学では対象と主体、見られる者と見る者との分離を象徴する。
そのため能力透視で見ることで相手の隠された内面(ステータス)へと到達・結合するシーンはまさに、結合と分離の弁証法的な同一性を示すものである。
とくに重要なのは、本作では全ての物語的な結合と分離の動きが、遠い過去にあったイクスフォリアでのティアナ姫と聖哉との結合関係それ自体に内在していたということにつきる。
したがって最初の結合それ自体の内に物語の全ての結合と分離の動きの根源があったといえる。
また、このように本作を見抜いてこそ本作の魅力と価値が引き立つものと思われる。
慎重勇者における結合と分離の意味
これまでの説明で、本作が父性なき現代社会の境界の消失の問題を描いていること、そして父性なき世界への回答としてユング的な結合が提出されていること、また結合と分離の弁証法的な動きに支えられて主体が分離によって境界を回復する物語であることが分かった。
ここではなぜ本作が、結合と分離の結合により境界を回復した近代主体へと向かう物語構成をしているかを考察する。
まずは現代の問題を整理しよう。
現代では、もはや父性はないため何らかの具体的な父性の権威に頼ることは難しい。そしてなにより現代の境界消失は様々な実体化を生じることで、不毛な分断を惹起する。
現代のポリコレ界隈を見れば、社会がいかに正義や真理といった関係の次元に属する概念を実体化(客体化)し、それゆえに致命的な分断におちいっているか分かるだろう。
ここで本作がなぜユング的結合を現代社会における回答として取り出しているのかを理解するため、父性の消滅がもたらした境界消失と実体化(客体化)の関連を簡単に説明する。
まず、現代では境界が消滅し主観と客観、外面と内面の区別が曖昧になっていることを思い出そう。
するとこのような状態では客体(実体)と関係性との差異もまた曖昧となり両者が混同されてしまうと分かる。
つまり、善と悪、右と左などは純粋に概念であって物ではない、そのため相互依存的な関係性によって規定される。したがってその根源は根源的な一体性(結合)にある。
そしてここにいう相互規定的な関係性というのは、まさに心・主観・主体のことに他ならない。
たとえば善悪というのは、私の主観によって規定される、そのため、他の人とは微妙に定義が異なるわけだ。
このように関係概念とは全て主観的であり、厳密にはそれ自体、主観・主体といえる。善悪は主観(関係)から切り離しては論じようがなく自然科学的の対象(客体)にはなりようがないと言ってもいいだろう。
ところが主客の境界、外面と内面の境界が消失した現代ではしばしば、主観が客観化してしまう。両者の区別がないために主観は容易に客体・客観として実体化してしまうわけだ。
といっても現代は、素朴に太古的な主観と客観の未分化に至っているのではない。
現代の主客未分は科学主義と主観性批判によって生じている。このことを確認しよう。
まず太古的な時代では神話という主観(物語)が共同体の構成員間で共有されそれが1つの共同主観を形成していた。
そのため神話的な物語と客観的な外的出来事とが混同され、物語が現実の出来事(歴史)として捉えられていた。
よって太古の時代は、主観にこそ価値が置かれ主観が共有されることで客観が主観に呑み込まれていたといえよう。
対する現代ではそうではない。現代ではまず主観から切り離された自然科学の知が最高権威として君臨し、神話などの物語の類いは下手を打てば妄想として全否定されてしまう。
幽霊がオカルトと一蹴されることを考えるとこのことは分かりやすいだろう。幽霊は主観・印象に属するものでそもそも科学的対象ではないのに科学的な対象(物)と混同されることでその存在を否定されている。
したがって現代では主観(幽霊)は客観性の欠如としてしか見なされず、客観だけが存在すると考えられているふしがある。
たとえば、「それったあなたの感想ですよね」という流行語も、主観的なものの価値を根本的に否定する意識によってなりたっているのが分かるだろう。
このような主観から切断された客観性だけに価値と実在性を与えるところに古代と現代との最大の違いがある。
(※さらに客観など存在しないという態度をこれに加えたのがポストモダン)
このような主観性を排除して客観だけを崇め、その上、自然科学の発達によって、客観的な認識へと自分が到達できるという価値観が主流となっているのが現代といえる。
こうなると自分の主観的意見を表明するにも客観性を示さねばならなくなり、本来、主観でしかない善悪や右左が実体化(客観化)させられることとなる。
さらに主観・心という関係に属する概念は脳科学信仰によって、脳神経という物質へと還元可能とされてしまう。
話をまとめよう。まず古代の主客未分では主観性(関係)の側が客体を呑み込む形で主観と客観が融合していた。しかし現代では客観の側が絶対化し主観(関係)が客体化(実体化)させられ主客未分化したということ。
以上から父性を失ったことで境界消失した現代社会の問題とは、心(関係・主観・概念)の実体化(客体化)にあり、これを解消するには関係を関係と見抜き実体化を解除する必要があると分かる。
そしてその実体化の解除こそが後期ユングの最高到達点、結合と分離の結合、なのだ。
(※現代ユング派の言葉でいうと大切なのは心理学的差異を見抜くことといえる)
実体化を解除する結合と分離の弁証法が、実体(客観)と関係(主観)との差異を見抜き、両者を分離することにあるのを思い出そう。
以上が慎重勇者がユング的な結合(結合と分離の弁証法)を父性なき時代の回答に提出することの必然性である。
また本作でスキル能力透視の描写が強調、反復される理由もここにある。
というのも能力透視とは、実体化した相手(登場キャラのイメージ)を見抜き、その実体性を否定、論理的なステータスへと還元する行為だからである。
つまり能力透視は、イメージの実体性・直接性を否定し、イメージを関係性として見抜いてゆく態度として結合と分離の結合を象徴するといえる。
それゆえ慎重勇者ではリスタルテが聖哉を能力透視するたびにフェイクスキルが多彩に変化するシーンが多くある。これは能力透視という見通しによって、相手のあり方が変容し弁証法的な運動が生じることを示す。
ゆえに本作の能力透視の最たる機能は、イメージの実体性の否定としての見通しであり弁証法的な分離といえる。だからこそ能力透視は見るという意味で分離、隠された内面へと到達しようという意味で結合の性質を帯びているのだ。
(※昨今の多くの異世界転生作品のステータスは、価値の一様序列化であり、慎重勇者のステータスとはまったく異なるポストモダン的な文脈を持つ)
じじつ、現代ユング派において結合と分離の結合では、イメージを見抜きその実体性を否定することで関係と実体との差異(心理学的差異)を見抜くことが重視される。
またユング(ヘーゲル)的な観点でいえば、ここに僕が公開する作品評論はまさに慎重勇者と一体であり、慎重勇者それ自体の「分離=スキル能力透視」の作業に他ならない。
ちなみに慎重勇者の物語を現代ユング心理学ではアニマといい、この記事の評論をアニムス(能力透視)という。
(※ここでのアニマは古典的なユング心理学のアニマ・アニムス概念とは異なる。アニムスは見ることとして表象されので能力透視そのものといえる)
ようするに作品外から作品の具象性・実体性を否定して、作品を象徴的に紐解き、関係性として見抜く、この記事の評論行為それ自体が、慎重勇者という作品内におけるスキル能力透視のイメージとして表象されているのだ。
具体的な敵イメージをステータスとして言語化し、イメージの実体性を解体する能力透視と、具体的な慎重勇者という物語イメージ(アニメーション)を、言語によって論理的な構造へと変換するこの記事は同じということ。
ヘーゲル精神現象学を知ってる人向けに補足すると慎重勇者という作品は「行動する良心」であり僕の記事が「批評する良心」で、両者は結合と分離の結合という弁証法関係にある。
いわば、この記事はそれ自体がユング派の夢分析となっているのだ。作品評論という営みが持つ公的機能もここにある。
最後に少々駆け足で、慎重勇者の心理学的に究極のところを解説してみた。少し小難しく感じた読者もいるかもしれないが、曖昧で説明に甘さの目立つ一般的な現代ユング解説本よりだいぶ分かりやすくまとまったと個人的には思う。
ここまでの内容が分かれば、現代ユング派の基礎理論の核心は、とりあえずのところは理解したことになるはず。この記事は図らずも現代ユング派入門となったのでユング好きにも価値あるものになったと思う。
慎重勇者の記事がユング入門にまで至ったのは、慎重勇者の完成された物語がユング理論の究極にまで到達したためであろう。
その意味でも慎重勇者は異世界転生作品の金字塔といえる。最高としかいえない。本作はもっと評価されるべきではなかろうか。
また本作はユングで分析してこそ、その秘められた魅力を開くことができると思い今回はユングをベースに分析した、しかしラカンで見ても面白い要素がいくつかあるので最後におまけでラカン的な分析を断片的に紹介したい。
おまけ:ラカンで観る慎重勇者
ラカンで観る第六話
すでにユング的に解説した第六話「竜王なのにズル過ぎる」を今度はラカンで読み解こう。
まず母なる竜のモンスターが求める聖剣イグザシオンをラカン派では、母の欲望の対象と見なし、これを母のファルスという。ファルスとは男根であり精神分析では剣のことでもある。
そのため聖剣イグザシオンはまさに、母の欠如を埋める想像的なファルスそのものである。
この辺は精神分析を少しでも知ってる人で本作を見た方なら誰しもが気づくことと思う。
またラカン的には、六話では聖哉よりも、エルルを自我と見なすほうが簡単に解釈できる。
というよりも六話だけを精神分析の教科書的に読み解くなら、呑み込む母がリヴァイエ、子どもがエルル、母を禁止して子どもの主体を生かす父が聖哉となる。
またラカンでは禁止をかす父は、「ファルスを持つ父」と規定される。そのため「剣=ファルス」を持つ聖哉は、まさに母を禁止にし、母を穴に突き落とし欠如させる象徴的な父そのものといえる。
以上の説明から分かるようにあまりに出来過ぎとしかいいようがないほど六話はラカンの話にはまる。
また、このように見てゆくと典型的なエディプスコンプレックス論に落とし込んで、物語を分析できる。
ちなみにエディプスコンプレックスとは、母(リヴァイエ)や子ども(エルル)が近親相姦的な直接的一体関係になる願望を抱くも、それが父によって禁止され、母が欠如し母子が分離することで子どもに葛藤が生じる関係のこと。
またラカン派では、竜穴奈落は象徴界(言語的な世界、社会秩序)の欠如を示す。この欠如はエルルという子どもの主体が成立するための隙間ともいえる。
また、竜穴奈落、すなわち象徴界の欠如は、現実界(言語外の近親相姦的な直接性の世界)を示し、現実界はこの場合は主体の死を示す。
そのため竜穴(現実界)に落ちると死ぬのである。現実界的な〈物=聖剣イグザシオン〉の場所が奈落ともいえる。
主体 | 欲望対象 母の欲望 欠如 | 禁止者 |
子ども | 母の ファルス | 父 |
エルル | イグザシオン | 聖哉 |
分析に必要な対応を示したのでさっそく、物語を解釈してみよう。
まずリヴァイエに、聖剣イグザシオン(ファルス)として激しくエルルは欲望される。エルルは竜穴奈落に落ちて死ぬことで、聖剣イグザシオンとなるという。
エルルは使命を果たすため死にたい気持ちと死にたくない気持ちで葛藤する。
そこに聖哉がやってきて、ドラゴンキラー(剣)の二刀流でリヴァイエを押しだし竜穴へと落として始末する。
その結果、聖剣イグザシオン(S1)の代わりに、イミテーションの剣(S2)を聖剣イグザシオンを代理表象する剣として掲げる。
さらに聖剣イグザシオンとなるという使命(S1)を失ったエルルに対して、新たに荷物もちとしての社会的な役割(S2)を与える。
(※これは母の気まぐれな欲望が父の象徴的な欲望により安定化することを示す)
以上が精神分析的な観点でまとめた六話のプロットとなる、これを精神分析的に読み替えると以下のようになる。
母リヴァイエに現実界的な〈物=聖剣イグザシオン=ファルス〉として欲望される子どもエルルは、母の欲望によって母に呑み込まれ母子一体となりその主体性が死に瀕する。
子どものエルルは母リヴァイエの気まぐれな欲望に呑み込まれ、自分の主体性が消失すること、すなわち死への恐怖を抱く。
そこに母を禁止にするファルスを持つ父、聖哉が現れ、母子の直接的な一体を禁止し、母リヴァイエの欠如を作り出す。
これにより子どもの主体性(欲望)は、母に呑み込まれずに救われエルルが生還する。
こうして母のファルスである現実界的な〈物=聖剣イグザシオン〉は断念される。
そしてその代わりに象徴的なファルスとして聖剣イグザシオンを代理するイミテーションの剣が手に入る。
イミテーションの剣は、荷物持ちとしてのエルルを示す。つまり荷物持ちという社会的象徴としてのエルルがイミテーションの剣といえる。
イミテーションの剣は偽物であり、それ意味で、欠如がある。この剣の欠如はそのまま母の欠如、欲望の欠如にも対応する。
魔王を倒す道具としてのエルル、それは現実的で直接的な完全なエルルのことであり、聖剣イグザシオンそのものである。とすればイミテーションの剣は欠如したエルルであり、荷物持ちとしてのエルルなのだ。
ここで、ユング項での解説を思い出そう。ユングの項では、母リヴァイエの欲望の対象こそが完璧なる理想の自己像だと解説したが、イグザシオンとしてのエルルはまさにその理想に相当する。
したがってエルルは、完璧な自己像としてのイグザシオン、つまり魔王を倒す道具としての役割が欠如し、その代わりに社会的で現実的な役割である「荷物持ち=イミテーションの剣」として新たに生まれたということ。
この荷物持ちとして生まれること、母の欲望が荷物持ちと新たに社会的(象徴的)に名付けられることをラカン派では、〈父の名〉による「分離」という。
またイミテーションの剣を持つ聖哉こそが、ラカンのいう象徴的ファルス(身体)を持つ父に対応する。
ざっくりと解説するとこんなところである。詳細な説明は長くなるの割愛する。もっと詳しくラカンを知りたい方はこのブログの他の作品考察の記事やラカン関連の記事を参照して欲しい。
というわけで、6話はこのように、ラカン的な嵌まりが良すぎて話が精神分析的に完成されている。
そもそも穴に聖剣に母的な竜の名前がリヴァイエというのは、露骨に精神分析的なメタファーがつまっている印象が強い、作者は精神分析を知っているのだろうか。知っていてこの物語構成にしているのなら、かなり精密に理論を理解していると考えられる。
クロスド=タナトスと現実界
不死にして最強の敵クロスド=タナトスをここではラカン的に解説する。
ラカン的に分析する上で重要なのは、クロスド=タナトスのステータスである。スキル能力透視でステータスを確認しても文字化けして意味不明な表記が出てくる。
しかもこれがフェイクによる偽装ではなく、ありのままのクロスド=タナトスのステータスだという。まさに規格外の例外者といえる。
ところでこの文字化けしたステータスがラカン派では重要になる。これをラカン派では「無意味のシニフィアン」という。
(※無意味のシニフィアンの登場する作品には他にPS4のゲームでアニメ化もした『スカーレットネクサス』がある。この作品は明確に精神分析が意識された脚本をしており、有名なフロイトの孫のフォルトダー遊びのモチーフまで登場する)
これは現実界の言葉といってもいい。つまり社会的な言語によって意味付けされていない現実界の存在であることを示す。
するとクロスド=タナトスは、神経症の症状のようなものとして解釈できる。神経症の症状もまた、社会的・言語的な意味づけをされていない無意味の文字のようなものだからである。
またクロスド=タナトスは現実界の決して消し去れない部分欲動ともとれる。するとこれをラメラとも解釈できる。
ラメラ、部分欲動とは、たとえば口唇のチュパチュパしたくなる衝動だったり、触覚のプチプチを潰したくなる衝動だったりをいう。つまり統一・統合された一個の人間主体にあって、その統一性から外れて口唇などの部分的な器官が自律して抱く欲動の対象のこと。
この対象は言語的な次元から外れるため言語的には文字化けした文字で表象されるより他なく現実界的なものである。
というわけでクロスド=タナトスは人間の本質的に消し去ることのできない直接性を求める死の欲動。さらにクロスド=タナトスは象徴界の欠如として統一神界(象徴界)にあいた穴であり、象徴界を呑み込むものである。
死の欲動とは、(母子の)直接性・一体性に没しようという性質ゆえに死につうじる。また死の欲動は反復的に求められることが知られる。
(※ニーチェの永遠回帰と死の欲動はしばしば関連付けられる。永遠回帰とはジョジョのメイドインヘブンのこと)
ちなみにタナトスとは精神分析でも死を意味する。そのためやはりクロスド=タナトスは現実界の存在であり、死の欲動であり、ラメラだと考えられる。
するとクロスド=タナトスが破壊の女神の破壊術式、ヴァルハラゲートによって冥界の世界へと葬られたことも合点がいく。つまり現実界の死の欲動であるタナトスは本来あるべき冥界=ヴァルハラゲートの向こう側へと帰ったということ。
なかなかこれを本作全体の文脈に結びつけ整合的に解釈するのは難しいが、本作の興味深い要素としてここにおまけとして解説してみた。
魔王と現実界の超自我
慎重勇者では、父性の消失が強調される描写が目立つことは既に解説した。ここでは現代における父性の消失の象徴であり、かつて偉大なる父であった存在として描写される老いた戦帝ウォルクスに注目したい。
戦帝が、じつは裏切り者であり魔王の力によって若き日の姿を取り戻し、聖哉と死闘を繰り広げたことを思い出そう。
このことに関連して、他に父らしいキャラを見いだすなら、ゲアブランデの魔王が思い浮かぶ。
以上から、かつての父は老いて幼児化し死すも、その亡き父は聖哉(主体)に死をつきつける暴君として現代社会に回帰してきたとみることができる。
王とは精神分析においては父のメタファー。そのため魔王や裏切りの戦帝は、フランス革命によって殺された王(父)が現代に回帰してきた姿として見れるのだ。
じつは現代ラカン派の最新の現代社会分析によると、神殺しと王殺しによって死んだ父は、回帰して現実界的な父として、現代に戻ってきたと考えられている。
(※死した父がポストモダンの現代において、現実界の超自我として回帰する話は詳しくは、松本卓也著『享楽社会論』およびスラヴォイジジェク著『ラカンはこう読め』を参照)
すると本作の父性の欠如の強調、および戦帝ウォルクスの裏切りと暴走、魔王の描かれ方は、見事にラカン派の回帰した現実界的な父の議論に対応すると分かる。
また聖哉は魔王をヴァルハラゲートによって冥界へと封じて殺す。そのためヴァルハラゲートの冥界の世界は、ここでも現実界に対応する。
ここで簡単にジジェクの議論に乗っかって、魔王すなわち回帰してきた現実界の父について解説する。
ジジェクは現代社会とは父なる神を殺し、言語・社会の秩序の根拠となる父が無意識へと葬られたという。
ここで葬られた父とは法としての禁止をかす父と見なすことができる。
そのため、ポストモダンにおいては、あらゆる禁止が禁止されるという。これはもちろん現代社会に溢れる相対主義の社会を示す。
禁止の禁止としての現代社会を僕なりに分かりやすく示すと、それは性別も国籍も性的属性も職業もあらゆるものの境界がなくなり、際限のない自己決定の自由が称揚される社会である。
(※性別や国籍を自己選択できることが悪いわけではなく、選択がなんらの限界も引き受けも生じないことが問題になるということ)
またジジェクは禁止の禁止について、ポストモダンの親は子どもに「放課後、祖母の家にいきなさい。といってもこれは命令ではない。強制しない。もしお前が行きたいと思っていないなら行かなくていい。」と話すという。
これに対して、父権が機能していた時代の父は子どもに対して「放課後、祖母の家に行け。これは絶対命令だ。お前が行きたくないのはかまわないがとにかく祖母の家には行け。」と命ずるという。
前者のポストモダンの親の言葉は、実質的には子どもに内面の自由すら許さないものだジジェクはいう。つまり行きたいと思って祖母の家に行かされることになるわけだ。
対する後者では行くことは命令されても内面の自由は認められるという。また内面の自由は将来的に父への反抗も可能とするだろう。
このようにポストモダンの禁止なき言葉は、子どもの内面の分離を妨げて呑み込む恐ろしき現実界の超自我(魔王)の命令となるとジジェクは言っているのだ。
また、この恐ろしき禁止の禁止とは、客観的な社会秩序の主体(欠如=現実界の根拠、死んだ神)それ自体と自己が同一化してしまうこととして理解できる。
以上より科学の知と融合し人がテクノロジーによって神と化したホモデウス時代とは、魔王(現実界の超自我)に主体を呑み込まれ、人々が魔王と一体化し魔王化する時代ともいえるだろう。
本作の一連の父を巡る描写、とりわけ魔王や戦帝のあり方はまさに今日における現実界の超自我の問題を扱っていると考えられる。
というわけで破壊術式ヴァルハラゲートは現実界の超自我(魔王)を現実界に封じ、現実界とゲアブランデ(日常世界・象徴界)を分離し両者の間に境界をもたらすものといえる。
欲望のグラフと慎重勇者
アニメの慎重勇者では物語終盤11話で欠如した過去が明らかとなり、物語の意味が遡行して明らかとなる。
つまり、11話になって、なぜロザリーに腹を立てていたか、なぜスライムや魔王軍四天王の死骸をかき集め、高火力な魔法を死骸に向けて狂ったように連発し、消し炭さえ残さず死骸を焼却していたのか、慎重なのはなぜか、といったことの理由が判明するのだ。
これにより、1話から11話までの物語の意味が読者の中で大きく再構成され変わることとなる。
このようなラストで遡行して物語り冒頭の意味が変わる物語構成は神経症水準に相当し、ラカンでいう欲望のグラフに対応する。
欲望のグラフとは、人の話す言葉には根源的欠如があるため、句読点が打たれるまで意味が揺れ動き確定しないことを示す。
つまり言葉が根源的な意味根拠を欠いているために、言葉が言い終わるまで、その文の意味が収束せず、言い終わることで、その文の冒頭から、文の意味(時間)が遡行して決定することを示す。
これはそのままラカン派において、歴史が事後的に書き換わることの根拠にもなっている。
この考えでは根源的な欠如のために過去から未来への一方通行の時間性を前提しながらも、その結末によって過去の意味が書き換わるとされる。
(※もし言語主体が完全性をもっているのなら世界の時間は決定論へと収束し、話す前からあるいは、最初に発話する一語の段階で、話し終わりまでの意味が完全に決まってしまい事後性がなくなるということ)
心理療法において、歴史の事後性は非常に重要で、もし歴史に事後性がなければ、人は過去におった心的な傷を癒やすことができない。つまり過去を変えることができるからこそ人の心は癒やされるし、新しい存在へと心理的に生まれ変わることができるのだ。
したがって精神分析でもユング心理学でも歴史の事後性は、非常に重要で心理療法の根拠といえる。
また、ここに示した根源的な意味の欠如は、ユングの項で解説してきた心理学的差異すなわち、実体と関係との差異に相当している。
ただし、初期・中期ラカンの場合は実体の側が絶対視され、その実体の欠如として関係と実体とが不完全な仕方で分離されることとなる。
このような分離は問題があるため、後期ラカンは考え方をユング的に転回するのだがそれについて知りたい人は以下の記事を参照して欲しい。
話を本題に戻すと、物語終盤で聖哉の思惑が確定したことで、物語の冒頭から、その意味が書き換わる本作のあり方は、それ自体が非常に聖哉的(近代主体的)である。
聖哉の物語はその構造それ自体が聖哉的といってもいい。
ゆえにこのような内面と外面の分離した近代主体的なパラダイムの物語がポストモダン化した現代社会と向き合うなかで紡がれた事実は何よりも尊く重要に思われる。
今回は以上。
途中、グローバリゼーションの境界消失が人間主体を失わせることを示したが、このことについて映画で詳しく知りたい方は以下の記事がオススメ。
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