うたまるです。
最近、テック系の人々を中心にシミュレーション仮説が流行っているのをご存じでしょうか。
たとえばイーロンマスクなどはシミュレーション仮説肯定派として有名です。またゲームや映画などの創作の世界、ことにSFジャンルおいてもシミュレーション仮説のネタが流行。
しかし、現象学をある程度理解している人にとって、シミュレーション仮説に無理があることはよく知られており、当ブログでもそのことは別の記事で解説しています。
それにも関わらず、現代ではシミュレーション仮説が盛り上がり、素朴にその仮説が信じられているのが現状。
というわけで今回は、シミュレーション仮説が流行している理由を探ることでシミュレーション仮説に隠された驚愕の真実を明らかにします。
ここに先んじて結論を述べれば、シミュレーション仮説とは現代人の夢であり、その本質は、夢自身が終わらないことにあるのです。
その意味で現代人とは精神分析的に「シミュレーション仮説の夢を観る主体」と定義可能。
さらにこの記事では「シミュレーション仮説=ホモデウス=子どもの夢ユーチューバー=反出生主義」という知られざる構造を完全解説します。
またこのようにシミュレーション仮説をファンタスム(白昼夢)として見抜いてゆくことで、ポストモダン漫画・文学の隆盛を含む今日的諸現象を悉皆に説明し尽くすことも可能となります。
というわけでシミュレーション仮説に隠された知られざる秘密をいまここに明らかに!
シミュレーション仮説とは
詳しくは以下の記事を参照ください
シミュレーション仮説とはこの現実世界がコンピュータ(計算機)によってシミュレーションされた仮想現実であるとする仮説。
以下にシミュレーション仮説の要諦を示す。
まず現段階で人類は気候変動シミュレーターによって気候の予測をしたり、さらにはオープンワールドジャンルなどのTVゲームなどで計算機の創り出すシミュレーション世界を利用している。
その意味で架空の世界をシミュレートすることや現実の再現予測はすでになされている。
そのため、もし人類が自己自身である人類世界そのものを計算機によって、ほぼ完全にシミュレーションしたとすると、シミュレートされた人類がシミュレーション世界の内部でさらにシミュレーション世界を創ることになる。
すると、さらにシミュレーションされた人類がシミュレートした人類が、人類世界をまたシミュレーションする、という具合にシミュレーション内にシミュレーション世界が連鎖することとなる。
いわばシミュレーション世界は増え続けるマトリョーシカと化すのだ。
この場合、1つの本物の人類世界に対して、大量のシミュレーション世界が存在することになる。するとこの世界が本物である確率は限りなく0に近くなる、というのが流行のシミュレーション仮説の要諦になる。
シミュレーション仮説の不可能性
シミュレーション仮説の不可能性についても既に上記のリンク記事で詳しく解説したので詳しく知りたいかたは、上記リンク記事を参照して欲しい。
※上記記事を読まれた方はこの項目は飛ばしてください
ここでは簡単な説明にとどめる。
最初にシミュレーション可能なものを考えよう。
まず機械の演算は質量や物体運動における物理空間の座標移動などはシミュレーションすることができると分かる。
しかし、よくよく考えると質量は数値化できても、重量物に僕たちが感じる重さは数値化のしようも客観的な表記のしようもないと分かるだろう。
いわば主観としてのリアリティは何一つ数値化も客体化もできない。科学やシミュレーションであつかえるのは主観から切り離された客観・数値だけなので、主観それ自体であるところの現実感だとか重さ、あるいは感情といったものは科学やシミュレーションの対象にはならないのである。
このような主体の現実感としての重さなどのことを、脳科学ではクオリアという。これは存在論では存在ともいう。
また、この世界は主観によって現実として捉えられており、主観性を超えた世界というのは存在しない。
そのためシミュレーションのやっていることは世界を数学的な空間座標へと還元し、座標化されたコマ送りの絵として世界を描いているに過ぎない。たんに計算された数字の羅列が画面の発行ダイオードに対応しているだけであって、そこには重さだとかのクオリアは存在しない。
また現実のアクチュアリティというのは主観それ自体にあり、当の主観すなわち生命というのはシミュレーションすることができない。
このようにいうと脳科学で可能と思われるかもしれないが、いくら脳という物質やその物理的運動、電気信号などを観測したところで、生き物の意識=主観には到達しない。
そのため脳神経の物理的運動や構造をいくら科学的に解析しても意識・主観(クオリア)とは関係が無く両者を因果的に対応させることは原理的にできないのである。
重いという感じ、現実感、感情、欲望、力への意志といったものは、空間的に存在する物ではないので定規で測ったり、物理的な計測器をつかって測定したりということができないということ。つまり客観的な測定可能性を持っていない。
すると脳神経という物理的に存在する物質の測定値とクオリア・現実感とは科学的、数学的には全く対応させる手段がなく、解明のしようがないわけである。
またそもそも主観的な感覚は、客体ではないので表示する手段も存在しない。空間的な物の視覚像であれば液晶画面などの発光ダイオードの明滅によって表示できるが、主観そのものは原理的に表現のしようがない。
以上から一般に流行するシミュレーション仮説には、いくつもの論理的な飛躍があり荒唐無稽と分かる。
シミュレーション仮説と科学信仰
世間一般で言われているところのシミュレーション仮説は冷静に考えればかなり無理があるのだが、現代人にはその仮説に熱狂し盲信する人も多い。
なぜここまで強く信仰されているのだろうか。
その理由の1つは科学信仰にある。すなわち現代における脳科学信仰、心は脳という物質に還元可能だという信念がシミュレーション仮説の背景にあるのだ。
すでに説明したように物理的空間を占める物質であれば、これを客体として扱い、数学的に空間の位置情報として記述できる。
そのため心という非空間的なものを脳という空間を占める物質に還元できるという唯物論的な発想とシミュレーション仮説とが不可分の関係にあると分かる。
また脳科学的な唯物論には、物と心、客体と主体、空間と非空間との差異の認識上の消失が認められる。
このような心(存在)と物(存在者)との差異を現象学では存在論的差異と呼ぶ。
したがって脳科学・古典自然科学とは心・主観の実在性を否定し、客体=物だけを実在すると捉え、空間的にある物だけを扱い世界を数学的・客観的に記述し説明する営みといえよう。
この場合、存在論的差異は消去され、全てが物のみで語られることになる。さらに今日における科学万能論は、科学によって全てを知り尽くすことが可能であるとする時代精神にも帰結する。
それゆえ、客観的な物だけによって全てを説明し尽くせるというイデオロギーが現代では優性となる。そして、その結果生じてくるのがシミュレーション仮説なのだ。
つまりシミュレーション仮説は主体を含めた全てを空間的な物として捉えそれを数学的に還元可能とすることで成立する。したがってその根本思想はラプラスの悪魔とそう変わらない。
もし科学の知には限界があると考えるならシミュレーション仮説は疑問を差し挟まれることになるだろうし、心と脳との存在論的差異を見抜くならば、そもそも世界をシミュレーションするのは無理だという結論になろう。
だからシミュレーション仮説への確信は科学への信仰と、それによって生じる唯物論的な存在論的差異の混淆(全ては物に還元可能)によって可能となると考えられる。
科学と客観と主観の関係
ここまでの説明で世界を、客観的に計測可能な物質の運動へと還元する自然科学的世界観がシミュレーション仮説の根底にあることが分かった。
なので、ここではシミュレーション仮説を支える自然科学とはいったいなんなのか、どのようにして可能になったかを確認しよう。
まず科学は客観の成立によって可能となる。科学が重視する再現性や実証主義といった価値観も客観的な事実を取り出すための操作および判断基準と考えることができよう。
科学における再現性とはいつどこで誰がやっても同じ結果が取り出せることをいうが、これは自分以外の人が実験をおこなっても同じ結果になることを意味する。
したがって再現性の確認は自己の主観を排除する操作といえる。自分以外の人間がやっても同じであれば、自分の主観は実験結果から除外できるというわけだ。
このように科学は主観と客観を峻別し、主観を否定して客観だけを扱うことで客観的な法則や事実を導くいとなみといえる。
しかしここで重要なのは客観とは主観それ自体のうちに構成された仮構、仮説に過ぎないということ。
つまり僕たち人間は当然ながら自分の主観からは逃れられず、この現実が夢や妄想、あるいは映画マトリックスのような仮想世界である可能性を排除することができない。
(※映画マトリックスの仮想世界はシミュレーション仮説と異なる、マトリックスではシミュレーション世界を感じる脳=身体は実体のある現物。シミュレーション仮説では世界を感じる主体自身が数式に過ぎない)
いわば客観とは例外なく可疑的なのだ。
たとえば客観的な物を認識するとき、自分にだけ見える自転車は幻視(主観)とされるが、すべての人に同じように見える自転車であれば、それは客観的に実在する物として扱われる。
よって主観と客観の区別は、言語を介して自己の主観を他者の主観とすりあわせたり、自己の知覚・感覚の生々しさなどの直観を頼りになされる。
つまり主観のうちで主観と客観との差異が生成され、両者が分離することで客観は仮構される。
この虚構としての客観が科学では唯一の現実として扱われるのである。
客観概念の成立史
客観概念は優れて近代的概念である。
というのも客観概念は太古の昔には、現代のように明瞭には存在しないからだ。
そのことは太古世界の世界観・コスモロジーを参照すると分かりやすい。
というのも太古の人々にとって、神話という共同主観的な物語こそが史実であり客観的な歴史でもあったからだ。事実かつての日本では神話としての古事記が同時に客観的な歴史書でもあった。
神話・物語というのは主観的なイメージ(比喩)の世界であり客観的な外的事象の話とはことなる。つまり台風によって農作物が荒らされる体験をすれば、それは荒ぶる風の神の行進によってあらされた、という具合に物語イメージとして認識されるのである。
つまり荒ぶる風の神というイメージが、台風に襲来された人々の心に生じる台風の荒々しさ、迫力、恐怖といった主観的な印象のアクチュアリティ、生々しさをうまく表象しているのだ。
また内的な真実(リアリティ)としては人々の印象によって語られる物語・神話のほうが、風速何メートルといった科学的で客観的レポートよりも遙かに現実的である。
逆に客観的な数値化されたレポートはそれ自体、徹底して無味乾燥であり、主体にとってのリアリティの一切が捨象されている。
というわけで神話・物語という共同主観性が、客観的な出来事と同一されて語られる太古世界では、まだ主観と客観との自己内差異化は弱く主客は未分性が強かったと考えられる。
ちなみに、このような客観と主観のあいまいな時代では比喩がないことが知られる。それもそのはず、太古世界には客観と主観に明確な差がないのだから、客観的な事物(主語・存在者)でもって主観的なイメージ(述語性・存在)を喩え表す、比喩という概念は存在できないわけだ。
また前項で示したように、客観とは全ての人にとって同じように見える主観的な外的知覚像に対して与えられる。それゆえ自分にだけ見える知覚表象は幻視という主観に過ぎず実在性を否定される。
というわけで、神話などを介して共同体の中で共有されていた主観的な物語が否定され、自分と他の人との主観が分離し、個々に異なる主観を形成することで、主観は他人と異なる個人的な主観として限定され客観(普遍)と区別される。
古代の世界と現代社会の類似と相違
以上から太古的な世界では間主観的な共同主観性によって客観が呑み込まれる仕方で主客未分の状態にあったといえるだろう。
ところで、このようにいうと主観的な太古世界と自然科学を信仰する客観主義の現代とは真逆ではないか、と思われるかもしれない。
ところがそうではないのだ。
じつは客観主義的な現代と主観主義的な太古世界とは非常によく似ている。それゆえ現代ユング派などは現代人の主体構造である非定型発達について太古的であるという旨の主張を最新の臨床論文に記述していたりする。
以下にそのことを確認してゆこう。
ここで科学信仰とシミュレーション仮説の項で説明した存在論的差異の議論を思い出してほしい。
すると現代においても太古においても、ともに心と脳、主観と客観との存在論的差異が消失していることが分かる。
つまり太古世界であれば、比喩がないため主体(存在、比喩イメージ、対象化作用)と客体(物、対象)、主観と客観との存在論的差異がない。
対する現代であれば、心(主体、対象化作用)と脳(物、対象)との差異がなく、心=脳であり全ては物質(存在者)へと還元可能とされ存在論的差異が抹消される。
さらに話を分かりやすくしよう。
手短な説明をするならば、現代においても太古においても、ともに信仰と客観的知との間の差異(存在論的差異)がないのである。
たとえば、太古では主体により日々繰り返される儀式的な信仰という行為(祈りなど)によって、そのつど実現する神話的コスモロジーと、客観的な外的出来事である史実(知)とのあいだに差異がない。
※神話的世界は信仰という主体の参与なしには実現できない。だれも儀式をしなければ神話の世界観は途絶えてしまう
それゆえ古代日本では、古事記(神話)は主体一体の物語比喩であると同時に、主体・主観と切り離して客観的に成立する歴史でもあった。※厳密には主体から完全に切れた客観など太古にはない
これは客観概念成立の先駆けとなった西洋の聖書についても同じ事が言える。真面目に信仰していた中世の人間は誰も創世記が比喩的な物語だとは思っていないのだ。
このように存在論的差異なき世界では主観と客観との差異がない。
次に現代における信仰と客観的知との混淆を確認しよう。
SNS、とくに政治系ユーチューバーでは、左右に分かれたインフルエンサーが、敵対する陣営についてを「あっち系」とレッテル貼りして聖戦に興じる様を確認できるだろう。
彼らがアッチ系というときアッチというのは客体であり、その存在と定義はあたかも客観的なものとされる。
しかし、当たり前だが、アッチなんてものは客観的には実在しない。それは宗教的な信仰が日々の儀式的信仰行為を必要とするように、儀式的な主体の参与を必要とする。
つまりインフルエンサーが、日々のSNS配信でせっせとアッチ系!というラベルを貼り、アッチ系とは~である!という謎解釈(主観)を仲間内で共有し賛同しあう儀式的な信仰行為によって、そのつどアッチ系という神話を具象化しているのだ。
これを現代の神話と言わずしてなんといえばよかろうか。
(※シュミットが政治を敵と友の峻別行為に見て取ったように政治とは信仰=神話、すなわち主体の知に属する、けっして政治を科学することはできない。ゆえに政治では弁証法が求められるだろう。またシュミットの政治論は一神教的神話=政治に過ぎない)
SNSによる主体の信仰行為の参与によって、勧善懲悪の神話的コスモロジーを開き、その神話の内に住まい、神話的聖戦を自己の実存の支えとする現代人のあり方は太古のそれと変わらないのだ。
もし身近にアッチ系と騒ぐ人がいたら、それは信仰かと聞いてみるとよく分かるのだが、まず信仰だとは認めないだろう。
例外はあれど信仰ではなく客観的事実として、あっち系は~な悪である!的なことを言い出すと思う。
まさに主観と客観との存在論的差異がないわけだ。
繰り返すが、現代では主観は客観的事実に呑み込まれ、主体性を剥奪される。対する古代では主観性の方が客観を呑み込むという違いがある。いわば太古では客観が主観化している、ないしは共同主観性から客観が分離していない、対する現代では主観が客観化してしまうといえる。
また、このことは最近流行の流行語からも確認できる。
「それってあなたの主観ですよね?」という言葉がいま小学生のあいだで流行っているらしいのだが、この言葉の意図を翻訳すると「その意見は客観性が欠如していますよね?客観でない意見は妄想であって価値が0です」という具合になるだろう。
いわば現代では客観科学信仰の結果、客観だけが実在となり主観的・主体的=個人的なものはその存在を否定され、たんに客観の欠如としか見なされないのである。
それゆえ欠如としてネガ的にしか主体性(存在)が認識されなくなり、このことが今日的な脳科学万能論の原因であると考えられる。
また昨今の客観主義的な時代精神が主観を客観化させるインセンティブを与えるのは言うまでもないだろう。主観的なものの価値どころかその存在そのものが認められないのだから。
(※初期~中期ラカンの欠如論の問題もここにある、竹田青嗣も言っていることだが存在を欠如という必要はない)
ちなみに、このような現代における主観の客観化が、人間主体の解体、および近代的な自由や人権の消失に帰結することは既に以下のリンク記事で詳細に論じている。
現代社会の境界消失とシミュレーション仮説
これまでの説明で現代社会では存在論的差異が抹消し、その結果主観と客観との境界がなくなりつつあることが分かった。
ここで存在論的差異の消失とシミュレーション仮説との対応を完結にしめそう。
シミュレーション仮説とは、この世界には、現実とシミュレーション(夢・ゲーム)との差異などなく、世界の全てがゲーム・シミュレーションに過ぎないという願望に他ならない。
したがってシミュレーション仮説の双子としてメタバースを考えることもできるだろう。
ここで現実とシミュレーションとの差異というのはもちろん存在論的差異に相当する。
つぎに現代における心と脳、シミュレーションと現実との存在論的差異の消失があらゆる境界の消失と連動していることを具体的に確認しよう。
たとえばバーチャルユーチューバーが流行っているが、そもそもVチューバーは現実の存在なのかファンタジーの存在なのか非常に曖昧。Vチューバーの中の人はある程度キャラを演じている人もいれば素を出している人もいる。
さらにキズナアイはキズナアイとしてテレビに出て現実のタレントとして意見をいうこともあった。こうなるともはやその境界がないと言わざるえない。
以上から分かるようにVチューバーは夢(フィクション)の存在が現実と夢の境界を逸脱して現実化した存在とみることができる。
さらに昨今では完全に市民権を得たコスプレブームもまた夢と現実の混淆といえよう。フィクション(夢)の存在に現実でなりきること、またハロウィーンにおける渋谷という空間はそのデュオニュソス的な祝祭性もあいまって完全に現実と夢が融合している。
いわばハロウィーンの渋谷は1つ集団白昼夢といえよう。
こうした今日的な境界喪失を描いた作品も多くある。古くはフィリップ・K・ディックのSF小説がそれにあたるだろう。またディック的な世界観を継承しシミュレーション仮説的な今日を予示しSNS時代の現代を予言した歴史的傑作ゲームとしてMGS2は見逃せない。
世界的に有名で偉大なるゲームクリエイター小島秀夫のMGS2(2001年)では主人公が現実とシミュレーションの境界を喪失し、夢と現実が混淆していく様がゲームプレイヤー自身にも及ぶという画期的なメタフィクション的仕掛けが仕込まれている。
この2023年を予言したような作品といっていい。そのためMGS2ではポストモダン批判的なセリフにも満ちている。ちなみに僕は学生時代このゲームで語彙力や哲学的思考を身につけた。このゲームがなければこのブログもこの記事も存在しない。
さらに小島秀夫の最新作『デスストランディング』(2019年)の世界では共同体がバラバラに解体し、生と死の境界すらもが曖昧となる。そのためゲームオーバー(終わり)すら存在しない。このようなゲーム構成はまさに本記事が提示する境界なき時代、シミュレーション仮説を夢観る時代の精神構造に完全に一致する。
また当ブログで記事にした須田剛一のゲーム『Travis Strikes Again: No More Heroes』(2019年)ではストレートにシミュレーション(夢・ゲーム)が現実を浸食する問題がテーマに掲げられ、これがゲームクリエイターとプレイヤーとの関係として描かれている。
じつはこのブログ記事でいま説明している『現代人はシミュレーション仮説の夢を見る』という小論はこのゲームの記事を書いているときに思いついたものだったりする。
さらに当ブログで既に解説した映画『ソーセージパーティ』(2016年)やクレしん映画の『天カス学園』、『攻殻機動隊sac_2045 最後の人間』でも境界消失が描かれる。
※以上の作品の解説は以下のリンク記事を参照
現代人はシミュレーション仮説の夢を見る
いよいよ本題に入ろう。ここではシミュレーション仮説とは現代人の夢それ自体であり、その夢(シミュレーション仮説)は夢自身が終わらない夢であることを示す。
存在論的差異消失と自他境界喪失
すでにここまでの解説でなんとなく存在論的差異の消失と境界喪失の関連は分かったと思うがここではその仕組みを簡潔に説明する。
ここで、古代では主観と客観が未分で曖昧だったことを思い出そう。古代社会では主観は神話などの共同体で共有される神話によって共有されており、自他の主観は未分化といえる。
したがって主客の存在論的差異の抹消とは、自他の境界消失を意味する。当たり前だが、ここでいう自他の区別というのは身体の個別性ではなく精神(主観)の個別性のこと。他者と隔てられた内面がなくそれゆえ、客観(外界)と内面との差異もないのである。
すると今日的な存在論的差異もこれと同じで自他の境界を喪失することが分かる。ここで僕たちが一般に捉える客観の定義を確認する。
客観の今日的定義は「個々の主観性と無関係に成立する一義的な認識のこと」といえるだろう。じじつ自然科学では1つの真理が探究され、心理学のような主観そのものを取り扱う人文学と異なり学派に分裂することもない。
そのため自然科学では例外もあれど基本的には1つのスタティックな真理・法則が発見され完全なコンセンサスを得るにいたっている。
なので主観(アッチ系など)を客観化し信仰を客観的知と勘違いして生きる現代人の主観もまた他者と未分化にあるといえる。
(※ここでの他者はラカンでいえば大文字の他者に相当する、他者の欠如がないとは存在論的差異がないということ)
また現代社会では価値も動機も全てが金=フォロワー数という単一の価値に還元されてしまう。このような単一の動機(金のため)に覆われた価値の一様序列化した世界では、自他の主体性(行為を生ずる動機)に差が出ないのはいうまでもないだろう。
というわけで存在論的差異の消失と自他の境界喪失とは、ともに同一現象を示す位相語の関係にある。ようするに境界とは差異のことに他ならないのだ。
そして自他の境界が喪失することは世界のあらゆる境界の喪失にも対応する。またこのことはシミュレーションと現実との境界喪失のメカニズムに直結する。
次の項ではそのことを確認しよう。
種々の境界喪失とシミュレーション:疎外
自他の境界喪失における他者の喪失と自己化はそのまま無意識と意識、夢と現実との境界喪失に帰結する。※ここにいう喪失した他者とは自分の内面(世界観)と異なる内面をもった他なる主体のこと、自他未分の現代では他者(の内面)は自己化しているため自己しかない。
夢は無意識への王道であるという言葉があるように、夢とは無意識にも属している。また夢(幻想・空想)と現実との分離が意識と無意識の分離によって生じることからも意識と無意識がシミュレーション(夢)と現実との境界(差異)の喪失を意味すると分かる。
したがってここではラカンの理論をヒントに自他の分離と、意識と無意識の分離との相同性を示し、シミュレーション仮説が夢と現実との混淆であることを確認する。
ここで重要になるのがラカンのいう疎外。意識と無意識の最初の分裂をラカン派は「疎外」という。疎外について以下に詳しく観てゆこう。
疎外とは簡単にいうと自己の内面と他者の内面とが分離する契機のこと。この自他の内面の分離を通じて、存在論的差異が生じ、個としての主体が誕生する。またこの疎外によって人は、言語世界を生きる主体となる。
(※疎外の解説は鏡像・身体(ファルス)が大他者の迂回によって象徴的に書き換えられ所有されるとしたり、原初的享楽が禁止によって迂回され現実原則≒快感原則の言語システムに従うという感じが一般的だろうが、一般読者向けにここでは分かりやすさを優先する)
最初、人は自他未分にあり母(他者)の内面と赤ちゃんの内面は結合している。つまり母子一体の幸福にある。この原初の母子一体の幸福を享楽という。
母子一体の世界に言語・社会の主体としての父が登場し、母子一体の二者関係、ないしは子どもを呑み込む母を言語の法によって禁止する。
これにより母子は引き離される。この最初の引き離しを疎外と呼ぶ。ここで母子の直接無媒介的な一体化は破られ、子どもは父の言語的な法を迂回して間接的に母の承認を得ねばならなくなる。
疎外によって、言語の法が定める母の禁止が生じ、言語という享楽の迂回路が構成される。このことは自己を言語的に言及することにも対応する。たとえば私はテニスプレイヤーだという具合に社会的象徴=言語的意味単語(テニスプレイヤーなど)を介して自己を間接的に獲得せねばならないのだ。
大事なのは、この疎外において母との直接の一体化(近親相姦)が父の脅しにより禁止されること。これにより子どもは母との一体化願望を無意識へと抑圧することとなる。
つまり父の禁止における抑圧こそが意識と無意識の分離を生じ、意識と無意識に分裂した主体を生むのである。
(※この直接性の享楽の全てが禁止・疎外されると男の式、一部が疎外され損ねると女の式となる)
ここで禁止・抑圧が自由意志の主体の根拠となることを確認しよう。
まず母子一体の近親相姦の禁止とは身体的な衝動の抑圧・制御である。この抑圧は父の言語の法によって生じる。
したがって言語活動の主体である精神が、身体のつどの刹那的な衝動を禁じることで葛藤し抑圧を生じること、これが疎外の段階に相当する。
つまり精神と身体とのズレ=差異が疎外によって生じることになる。ゆえに禁止が生じる意識と無意識の差異はそのまま、身体と精神の差異に対応すると分かる。
またズレて失われた身体を精神が言葉(言語思考)によって動かすことで精神は身体を支配=所有することになる。ちなみに言葉・精神による身体の自己所有が心身の差異の同一であり時間の過去・現在・未来という一方通行の流れを生じる。
(※この差異の同一は欠如の引き受けといってもいい。また疎外で鏡像が大他者の承認を迂回するようになるとイマジネールはシニフィアンによって書き換えられ、そこで身体はシニフィアンによって所有される)
そして自由意志とは1つには身体が精神の命令通りに動く感覚であり、あらかじめの自己の計画に基づいて、つどの身体的衝動を抑え込み自己を計画どおりに仕上げることで得られる感覚でもある。
そのため自由とは、精神と身体との差異をその条件としている。もし心身が完全に一致すればそれは刹那主義の即自であって、一貫した意志の実行という自由は生じない。
ここで精神は存在(対象化作用)、身体は客体(物、対象)であるため両者の違いは存在論的差異に他ならないと分かるだろう。
(※存在論的差異はそれ自身、存在に属するがこれを客体=シニフィアンの側から欠如として見抜いたのがラカンのいう欲望)
つぎの項では、この疎外における存在論的差異の誕生が現実と幻想をいかに峻別していくのか、そのメカニズムを確認しよう。
(※厳密には不安定な欠如が言語的に名付けられて引き受けられる段階が疎外の先にあり、これを分離という、また疎外以後分離以前を倒錯という。倒錯は否認によって規定される。しかしここでは議論を簡略化し疎外と分離の区別は意識しない、疎外と分離については当ブログのハンコックなどの作品考察記事を参照して欲しい)
幻想と現実の区別と現実原則
ここでは夢(空想)と現実の区別が存在論的差異といかに関連するかを確認する。
アンナフロイトによれば、子どもは現実原則(現実吟味)という夢と現実を区別する機能が弱く、空想と現実との境目が曖昧であるため嘘やごっこ遊びにより満足するという。
つまり、小学生が友達に賞をとったと嘘をついたりするのは嘘と現実が曖昧なので嘘が現実のように感じられ満足に繋がるからというわけだ。
大人が嘘で自分を大きく見せても現実ではないことが自覚されてしまい虚しくなるだけなのは言うまでも無い。
もっとも境界なき時代を生きる現代の大人は子どもと大人の境界もないため嘘(空想・夢)で自分を膨らます幼児的なあり方も当たり前になりつつある。たとえばインスタで写真を加工するのも一種の空想と現実の混淆という側面を含みうる。
前項で確認したように母子一体の原初の満足体験=享楽は、禁止により言語秩序を迂回して間接的に得られるようになる。
この間接的に得られる安全化した享楽の快を求めるのが、快感原則であり現実原則と呼ばれるものである。
自由意志の主体、すなわち母(他者)から分離し自律した個としての主体を脅かすことのない間接的な快楽を現実原則は求めるのだ。
そのため現実原則は享楽の言語秩序の迂回路を意味している。また享楽が主体を脅かすのはそれが母子一体の直接性であるため。つまり母子一体へと逆戻りすることは母から自律した個としての主体の死を意味するわけだ。だから享楽は言語を迂回する必要がある。
ここで大事なのは言語秩序が日常性・社会性・公共性を意味し、その意味での現実性であること。
僕たちは言語によって思考し言語によって現実世界を認識している。また言語体系がそのまま時間と空間の構造を規定してもいるのだ。
言語が公共性・社会性である理由は言語の機能を考えると分かりやすい、以下にその詳細を確認しよう。
まず原初の母子一体の近親相姦関係を人称以前の世界、ないしは母子の直接的な二者だけがいる二人称性の世界とする。
その場合、母子の外部からその直接性を切断する言語の法である父は第三者の視点であり三人称性に属することが分かる。
したがって言語とは第三者、三人称性を持つ。それゆえ言語は、声質や音の高低などの感覚の直接性が去勢されているのだ。
この言語の三人称性のおかげで、僕たちは自分とまったく関係ない知らない第三者の考えていることや感じたことなども言語によって知ることができる。
こうして言語は直接の関係性のない他者(第三者)との意思伝達を可能とすることで、社会を実現しているのだ。
したがって言語は三人称性であり主観的な二人称的直接性を切断した客観現実の位相に属すると分かる。(※客観が主観という二人称性の否定にあったことを思い出そう)
そのため言語世界の成立、および言語世界から主観・主体が分離することが、客観現実と主観空想との峻別、すなわち現実原則を可能とする。
母子の直接性の禁止が疎外に対応することは既に示した。ここではラカンの有名なモデルをつかい疎外における迂回路の成立と時間の構造化を確認することで現実吟味がいかになりたつか確認したい。
ラカンは時間化=言語連鎖(シニフィアン連鎖・換喩)を表す簡単なコイントスのモデルを提示している。
以下にその概略を占めそう。
まずコインが「表の時は+」、「裏の時はー」とする。つぎに「++なら1」、「+ーまたはー+なら2」、「ーーなら3」とする。
10回コイントスをした結果、「裏表表裏表裏裏裏表裏」としよう。これは「ー++ー+ーーー+ー」となる。
したがって「2⇒1⇒2⇒2⇒2⇒3⇒3⇒2⇒2」となる。ここで一回一回のコイントスをそのつどの今の認識と考えよう。
するとこの数字の連鎖は時間の連鎖的・連続的な経過に対応すると分かる。またこの規則では「1⇒3」という時間の移行が禁止されているのが分かる。1が3に移行するには絶対に2を経過する必要があるのだ。
今と次の瞬間の今とが繋がり通時的な過去⇒未来へと経過する連続的で連鎖的な時間意識はこの数列のモデルが示すように不可能なパターン(1⇒3)の迂回によって成り立つのである。
ここで不可能なパターンとされるのが、享楽の直接性に他ならない。
(※本当はこの迂回は◇aに対応するはず)
時間とはゼノンの飛ぶ矢のパラドックスからも分かるように客観的に捉える限り非連続な今の継起に過ぎず連鎖=連続性を構成しない。
(※時間の連続性は欲望において成立するが、高度に存在論的議論となるためその解説は割愛する)
今の継起が過去⇒現在⇒未来と連続性をもって連鎖するのは、疎外における迂回によるということ。
いわば今における、次に来る今の可能性の限定・断念という、断念された可能性=不可能性の迂回が必然性を創りだすことで今と未来とを因果的に連鎖させ、通時的時間を構成する。
コイントスモデルはこの時間の構造化のあり方を奇抜かつペダンチックに示しているのだ。
ようするに1⇒3というような不可能性(禁止)が生じることで、日常的な客観現実を支える時間が構成されるということ。
これは今までと今の積分としての自己を引き受けた主体が、自己の能力の現実を自覚し、自分に不可能な未来=次の今を去勢することで時間が構造化されることに対応する。
分かりやすく言えば、一貫性をもった時間意識に生きる自由意志をもつ主体とは、不可能という限界をもった自己の引き受けによって成り立つということ。
これは社会的な通時的時間感覚そのものが、疎外の去勢によってなりたつともいえる。
たとえば、いま三ヶ月で10㎏痩せるという計画を立てたなら1ヶ月後の自分も今(過去の自己決意)の計画に従わねばならない。過去を引き受け、そのつどの身体の直接的な衝動を抑圧してこれを実現しなければ、痩せる自由すら成立しないのだ。
自他の境界=身体の抑圧=身体の所有の成立はかくして、時間の成立に関わると分かる。
そして、この時間の成立は現実的な自己計画を立てることを可能とするわけだから、現実化可能と不可能(空想)との峻別能力に直結すると分かるだろう。
この時間を構成する現実化可能と不可能の峻別能力こそが現実吟味であり現実原則≒快感原則なのだ。
したがって疎外という直接性の去勢によってもたらされる直接性の迂回=不可能の成立が、可能と不可能、現実と夢の境界を構成すると分かる。
(※本来、このモデルでの解説では対象aのロジックが欠かせないが面倒なので割愛した、対象aこそが迂回されるのである、その迂回路をラカンは◇と表記する)
ちなみになぜ時間化と社会性・言語・客観が関わるかというと、時計の時間こそが社会を秩序化し成立させるため。時計という公共的時間なしに社会の秩序は成立しないのは言うまでもなかろう。
時間とは元来、徹底して主体的・個人的なもので時計時間は主体の時間性を天体の物理的空間運動によって普遍化したものに過ぎない。
(※じつはドゥルーズの空間構成と他者の理論と現代ラカン派の視線触発φの理論をコイントスモデルに適応すると空間の遠近感と時間の対応が分かる、このロジックはユング派でいう一点透視図法と近代主体の理論に対応したりする)
ここまでのまとめ
ここまでの解説で、最低限の基礎理論の解説は完了したのでさっそく結論に向かいたいがその前に、ここまでの要点をまとめておく。
僕たちは、シミュレーション仮説が、存在論的差異の消失を意味することは既に観てきた。すべてを客観性へと還元する時代精神こそがシミュレーション仮説であった。
そしてこの差異=境界の喪失が自他の境界喪失、意識と無意識の境界喪失、身体と精神の境界の喪失といった種々の境界を消し去り、これらの喪失がシミュレーションと現実の境界の喪失に対応することを確認した。
また境界喪失=存在論的差異の消失が、自由意志や時間を解体し、自己決定する個としての近代的主体を不可能にすることも分かった。またこのことは現代人が現実原則が弱く、児童空想的で夢と現実の区別がつかないことを示す。
つまるところ現代人は客観性に拘泥するあまり、逆説的に主客が未分となり、時間=自己の経時的な一貫性=同一性すら失っているのだ。
こうした現代人の刹那主義としての今の反復の意識は漫画『チェンソーマン』の主人公デンジや村上春樹の小説のキャラクターによく表れている。
かくして僕たちは現実と非現実(虚構・空想・シミュレーション)の差異なき悪夢的世界へと陥っているのである。
シミュレーションと幻想
空想が現実化されてしまう現代人の自他未分の主体構造においては、空想=幻想の現実化が生じる。
(※厳密にはラカン派の幻想の定義によると欲望=近代主体を構成しない自他未分の主体には幻想はなく妄想があるとなるかもしれない、しかしそれでもこれを幻想=夢と呼びたい、なぜなら誰でも夢は見るからだ)
また人間の空想とは本質的に外傷性をもっている。たとえば、僕たちはゲームやサスペンスドラマでは当たり前に人を殺したり、あるいは殺人事件や死体を映像として視聴することを好む。
穏やかな老人だって、お茶の間でサスペンスドラマを観るのは好きだろう。
しかしこれをひとたび現実に体験したらどうなるだろうか。リアルな死体など誰も観たくはないのではなかろうか。
あるいは実際に殺人などしたら大変な精神的外傷となるだろう。このように空想=フィクションとは、抑圧され隠された願望のはけ口という側面を持つと分かる。
そして抑圧されているものといえば、疎外の解説でしめした通り、直接的な享楽なのだ。直接的な享楽が個としての主体の死に直結することを思い出そう。
すると僕たちの空想にでてくる抑圧された願望は時として、死に直結する外傷性を持つことが分かる。
しかし現代人は疎外が不十分で抑圧を持たない、ないしは抑圧が極端に弱い。そのため空想はその外傷性を発揮しない。
あるいは外傷のただなかにあり、享楽からの防衛が困難となり、つねに抑うつや不安定な状態にある人もいるかもしれない。
また児童空想的な万能感、誇大妄想じみた自我肥大もまた、本来外傷的なのだが、その外傷性がないのが現代だといえる。
ともかく幻想される死が僕たちの根源的な願望と外傷性の双方に通じることが分かったと思う。次に、境界なき世界が死と生の差異を喪失することで、世界から終わりが消去されつつあることを確認したい。
終わりなさが分かれば現代人の夢であるシミュレーション仮説が覚めない=終わらないことに対応すると分かるだろう。
(※根源的幻想として主体とその原因との布置があるがそれについては割愛)
終わらなさと不死:ユーチュバーの夢
『終わりのなさ・覚めない夢』と化した現代人の夢=シミュレーション仮説について示す。
まず現代社会における終わりなさを確認しよう。たとえば女性アイドル、昔であれば20代後半になたったり結婚したら引退強制という感があったが現代では、でんぱ組.incなど年齢や結婚出産にとらわれないスタイルも増えているようである。
日本の権威主義的なエイジズムは異常なレベルと個人的に思うので、このこと自体は本当にいいことだと僕は思う。
しかし、こうした年齢などによる制約、境界のなさもまた現代的病理の表出という側面をもっていることは見逃せないのだ。
つぎにユーチューバーを観てみよう、ユーチューバーといえば今の子どもの将来の夢の筆頭。
そんなユーチューバーとは何者なのか、じつは彼らを観察していると、何者なのかというのがさっぱり確定しない。多くの例外はあれど子どもに人気のビッグユーチューバーともなると、そのつど数字になるネタに奔走するためやることが定まらず安定しない傾向がある。
まるで連想ゲームのようにやることは横滑りし再現がなく目的も終わりも見えない。あるいはそのつど今その瞬間の消費社会の直接性の享楽を追い求めることに奔命しているともいえよう。
その時間感覚はまさに今その瞬間の数字稼ぎにあるといってもいい。ぼくも複数のyoutubeチャンネルに関わっているがトレンドを逃すと数字にならないので大変だったりする。
ユーチューバーはある意味では何者でもなく、自己の存在を定まった存在に確定するのが難しい。まるで『転スラ』のリムルのように無形のスライムで、捕食=同一化によってどんな存在にもなれる無限性をもっているともいえる。
そこにはコイントスと疎外の解説で確認した、直接性の迂回という不可能性がないのである。
かくして去勢=禁止のない現代人は境界=限界をもたず万能の可能性の内にとどまりつづけるのだ。
その意味で子ども達の将来の夢であるユーチューバーもまた終わりなき夢であり夢自身が終わらないという夢に他ならない。
またこのことはこれまでに説明した一様序列性の問題とも密接に関わる。たとえばあらゆる主体性=動機がフォロワー数=金に還元された現代では野球選手になるのもサラリーマンになるのも変わらない。
もんだいは収入かフォロワー数なのであって何になっても変わらないのだ。とすれば、何かになることはもはや他の何かになることの断念=不可能を意味しない。これではコイントスのモデルで確認した時間を構成できない。
近代であれば、テニス選手になったら画家は諦めるというように、1つの選択は他の選択=自己の可能性の断念であった。そしてこの断念=不可能性を迂回は、抑圧にともなう直接性の享楽の迂回=現実原則に対応する。
いつまでも可能性は断念されず1つの始まりは何の終わりも意味しない。とすればそこには始まりも終わりもない今だけがあるといえるのだ。
母子一体=主客未分のため個としての生はなく主体は生じない、またそれゆえに終わりも始まりもないため死=終わりはない。
このことはハラリのホモデウスという夢物語にも見て取ることができよう。ホモデウスでは人は不老不死となり神=客観へと主体=主観が一致するという。
そのため生死が融合しゲームオーバーという終わりを失った『デスストランディング』が描く世界とは、このことを示していると考えられる。
シミュレーション仮説との関連で話をまとめよう。
まずシミュレーション仮説は全てをシミュレーション=夢と見なし現実と夢との境界を抹消する夢である。とすればシミュレーションはその外部を持たない、つまりシミュレーションという夢から目覚めることができない。
つまりシミュレーションには終わり=目覚めがない、このことは現実と夢の境界喪失に対応する。それゆえ現代ではバーチャルと現実の境界喪失とユーチューバー的な終わらなさが生じているのだ。
(※終わりのなさと主体のなさについてはラカン派の視線触発φの議論やヴァイツゼッカーの転機における主体の自覚の理論がより本質的だが少々小難しいので割愛、転機については当ブログの『偶発性の精神病理』の記事に書いてある)
シミュレーション仮説の夢とは:反出生主義
これまでの説明からシミュレーション仮説が現代人の夢であり、その夢の本質が、夢自身終わらないこと、覚めないことにあると分かった。
夢の終わらなさとは存在論的差異の消失、すなわち境界の喪失が、自己の可能性の否定=自己の終わりを消去することにあるのだ。
また、疎外なき時代、差異の消失をひたすらに望む現代人の夢とは、限定された有限の生を持つ個として生まれることの否定に他ならない。
したがって昨今巷を賑わせる反出生主義=個として生まれることの否定、もまた、現代人の夢であり、その本質はシミュレーション仮説信仰となんら変わるところがない。
反出世主義者は、現実との折り合いの悪さなどから、空想(妄想)の現実化が機能せず自己の限界を引き受けざるえなくなった主体かもしれない。とすれば、ここでも生じた差異=自己の限界=去勢が排除されようとしていることになる。
疎外を個としての主体の誕生とするならば、疎外を否定する現代の夢が、個としての自己の誕生の否定=反出生主義へと収斂するのもまた道理なのだ。
1つ言えるのは反出生主義者はその存在論的差異のシミュレーション仮説的な混淆のために、自己の心的誕生(主体)を生物学的な誕生(客体)と勘違いしてしまっていること。
したがって反出生主義者は二重の意味で存在論的差異の消失にさいなまれている。
今一度、シミュレーション仮説を確認しよう。
シミュレーション仮説とは、主体を空間的な物に還元できるという存在論的差異の唯物論的混淆にあった。
そしてその混淆がシミュレーションという空想の外部がこの世界にはないという境界消失となり、それはつまり現実と空想との存在論的差異の排除に他ならない。
すると反出生主義の願望もこれと構造的にはそう変わらないことが分かるだろう。
なにも否定されず空想は白昼夢と化して現実を犯し続け、あげくにはそのような世界を率先して夢観る。これこそが現代人なのだ。
それはユーチューバーを夢観る子ども達にも、ホモデウスやシミュレーション仮説を熱く信仰するテック系の大人たちにも共通している。
ぼくたちは消費社会の消費がもたらす刹那的享楽に犯されている、そういう一面もあるのだ。なにもこれは僕が勝手にいっているのではない。
たとえばラカンはそのことを資本主義のディスクールという式で示している。その式の意味するところは、これまでこの記事で説明してきたこととほとんど変わらないものである。
またボードリヤールも似たような文脈で消費の危険性に警鐘をならしたことで知られている。
この記事では資本主義との関連や共同体の解体と個の解体の同時性についてなど、かなり重要だが割愛したトピックも多いが、現代社会においてなぜシミュレーション仮説がこれほどの盛り上がりを見せているのかはこの記事である程度解説できたと思う。
終わりに
最初は説明は短く済むだろうと、気軽な気持ちで記事を書いていたのだが途中でどうやっても短くできないことが分かってきて中途半端な長さの記事となった。
長い記事を書くつもりでなかったため、かなり説明を割愛しており、読者には説明不足の印象があったかもしれない。
また同じ説明をすると飽きてくるので、今回はコイントスモデルで現実吟味を解説した。そのためいつもの説明より分かりにくくなったきらいがある。
しかしながら、「シミュレーション仮説=ホモデウス=子どもの夢ユーチューバー=反出生主義」の提示は記事にするにあたって要求される最低限の面白さと公共性を満たしたと信じたい。
ところでミレールは「人はみな妄想する」という。しかし現代人の夢=シミュレーション仮説が妄想性隠喩かは微妙かもしれない。
ところでなんというかそもそも、現代の象徴界には穴(差異)なんか空いてない気がするのだ。たとえば増殖し続けるLGBT、、、やキャラ、HSPに限界があるとは思えない。
あるいは現代ではシニフィアンそのものが妄想だ、というのならその通りかもしれない。
ともかく現代では、空想がただ終わらないことが空想されているのだ。するとこれは倒錯者の夢なのだろうか。
倒錯では穴(差異)を埋めることが幻想されるという。ならば確かにシミュレーション仮説は倒錯的な側面があるかもしれない。
ところでブルースフィンクによると幻想は真の願望を隠すという。
そして倒錯者の隠された願望こそが分離(禁止)なのだという。またジジェクは現代を倒錯的だといっている。やはりシミュレーション仮説の夢は分離を作り出す隠された願望を秘めているのだろうか。
しかし僕には、現代は疎外なき依存症であり倒錯よりも深く主体が解体しているように思えてならない。
もしかしたら、シミュレーション仮説とは、ある人にとっては倒錯者の幻想であり、またある人にとっては疎外なき依存症の夢(妄想)なのかもしれない。
ただ僕には現代人のむき出しの欲動が、死を否定することで逆説的に外傷化以前の死すなわち誕生の否定に留まろうという欲動が、つまり反出生主義的な欲動が渦巻いているように見えてならない。
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