どうも!うたまるです。この記事はネタバレを含みます!
こんかい取り上げるのは、3Dアニメーション映画でありコメディ映画の名作『ソーセージパーティー』についてです。
じつはこの映画、極めて批評性が高く非常に奥が深い作品になっています。この映画は映画好きなら絶対に見ておくべき特別な作品だと僕は思っています。
なのでここではより映画が楽しめるような考察、解説をめざして記事を書いています!
- ソーセージパーティーに込められたメッセージ
- ソーセージパーティーが展開する社会批評について
- ソーセージパーティーと映画マトリックスの関係
- ソーセージパーティーのさまざまな描写の意味
ソーセージパーティーとは
2016年公開のアメリカの3DCGアニメーション映画です。
一見するとミニオンやザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーでおなじみのイルミネーション制作のようなキャラクターデザインでありながら、そのあまりに下品な内容から日本ではR15+指定になった異色の作品です。
監督はあのシュレックシリーズを手がけたコンラッド・ヴァーノンとグレッグ・ティアナンであり、そのクオリティの高い絵作りは本作でも健在です。
映像表現が非常に豊かなのがソーセージパーティーの特徴の一つになっています。
また脚本はグリーンホーネットで制作総指揮を担当したセス・ローゲンやエヴァン・ゴールドバーグです。ちなみにセス・ローゲンは主人公のフランクの声も担当しています。
ソーセージパーティーは彼ら監督や脚本家のこれまでに手がけてきた作品とはまったくの異質で非常に挑戦的な映画といえると思います。その意味でもソーセージパーティーは映画史に記録すべき攻めた映画でしょう。
まだ見ていないという人には是非見て欲しい作品です。とくに映画好きにはこの作品はオススメです。
キャスト
フランク : セス・ローゲン(小松 史法)
ブレンダ : クリステン・ウィグ(園崎 未恵)
カール : ジョナ・ヒル(最上 嗣生)
火酒 他 : ビル・ヘイダー(岩崎 ひろし)
バリー : マイケル・セラ(林 勇)
あらすじと予告編
物語の舞台はスーパーマーケットのショップウェルズ、棚に並ぶ商品達は人のように知性を持ち生きていて、ショッピングをする人間のことを神様だと信じ店外は天国であると信仰していました。
そして主人公であるソーセージのフランクは、ホットドッグのパンであるブレンダと一つになることを夢見ています。
そんなフランクら商品達が店の外の世界での真実を知り、すったもんだの大活劇を展開するというのがおおざっぱな本作の流れです。
序盤の世界観とキリスト教
スーパーマーケットの商品たちはユダヤ人や中東、中国、ナチスドイツなどさまざまな人種や民族を象徴しており、明治時代のポンチ絵のようでもあります。
いわばスーパーマーケットはこの世界の縮図になっているわけです。そんな世界観にある物語の冒頭は商品達の神への信仰の合唱からはじまります。
信仰心のあつい主人公達は信仰による宗教的な戒律により、世俗世界(ショップウェルズの中)では禁欲的で節度ある生活を送っています。これはもちろん、キリスト教の禁欲的な姿を戯画化したものです。
主人公のソーセージやホットドッグ用のパンの勢力は典型的なアメリカ人がモチーフで、彼らは天国(店の外)へでたら、一つになり最高の体験がまっていると信じています。
そして彼らは天国で報われるため、禁欲的な生活を送っているわけです。
もちろんこれはキリスト教の考えそのものです。
またアラブ系のラヴァシュとユダヤ系のベーグルがいがみあっていたりして、この世界では信仰心のために商品達が国家のレベルで分離していることがわかります。
そのため、じつは信仰の合唱も商品の種類によって歌詞が違うことが作中で明かされています。
このことから宗教的なアイデンティティのもとに各商品が連帯し国家単位でそのアイデンティティを形成していることがわかります。
ハニーマスタードの暴走
商品の一人、ハニーマスタードは購入されて、一度お店の外に出ますが、購入者がマスタードと間違えて購入したために返品され戻ってきます。
そのことでハニーマスタードは外の世界は天国ではなく地獄であり、食品は食い殺されることを知ってしまします。そしてハニーマスタードはさんざん大騒ぎして仲間に外の惨状を伝えたのち、飛び降り自殺してしまいます。
これをきっかけに主人公のフランクの信仰が揺らぎ、フランクは紆余曲折を経て長期保存食品であるアメリカ先住民族から真実を聞きます。
ガムの出現と科学の台頭
物語の中盤になるとフランクの友人のソーセージであるバーリーは購入され、そのあと外の世界でいろいろあり薬中でラリってるジャンキーの家に転がり込みます。
そこでバーリーは科学者の部屋に20年間こびりついていたという電動車椅子に乗ったピンク色のガムと出会い、科学者のガムからこの世界の真実を聞きます。
つまり人間は神ではないこと、人の生態や市場原理、スーパーマーケットがチェーン店であり、生活用品を扱っている場であるという事実を知ることになるわけです。
さらに麻薬をキメてる最中の人間は四次元の存在である自分たち商品の声や動き、生命としての商品を知覚できるようになることも突き止めます。これで麻薬を使うことで人に干渉できるようになり人を殺せることが発覚します。またバーリーはジャンキーの人の首を落とすことに成功します。
作中でのガムは自然科学の発展を象徴し、ジャンキーの首を落とすことは、信仰のおわりを意味しています。
これは人類史でいえば、ニーチェの「神は死んだ」に相当しています。
まさに近代に入り、科学が発展し、これまで神によって説明されてきた身の回りの自然現象が科学によって解明され、そのことで信仰が喪われた歴史を寓話化しているわけです。
このあとバーリーやガムはショップウェルズに戻り仲間と合流し独立記念日にはスーパーマケットの商品は一丸となって人を殺し回ってゆきます。
独立記念日とビデと店員の融合の意味
ところで、本作では神である人を合衆国の独立記念日に殺す内容になっているのですが、これはイギリスからの独立戦争を想起させます。
しかしながらより重要なシーンで悪役の商品であるビデが暗黒神と恐れられていた店員と融合し、ビデが店員を操作して他の商品を殺そうとするシーンがあります。
このことは、現代において人が神に成り代わったことを揶揄しているのではないかと思います。どこかハラリのホモデウスを想起させる演出です。
戦争の後の商品達
商品達は神への信仰という宗教を捨てたことで、戒律から解放され、あらゆる禁止がなくなりました。
天国(店外)で結ばれるための世俗世界(店内)での禁欲というのもなくなり、主人公達はあらゆる性行為に夢中になります。
映画ではレズやゲイのプレイ、集団での乱交、アブノーマルプレイのシーンが続きます。
この描写は神の死における信仰なき現代への風刺に他なりません。神を殺したことで節度を失い人間の欲望が際限なく吹き上がったことを示します。
またアラブ系のラヴァシュとユダヤ系のベーグルがホモプレイに夢中になり、ショップウェルズの世界から国教が消え去ってしまったこともうかがえます。神(人)が消えたら性別も民族も宗教も国家も全ての境界は消え去ってしまいました。
このことはもちろん、資本主義的なグローバリゼーションによる国家の解体を象徴しています。これは単純な快楽でつながり、あらゆる境界が消滅してしまった現代人の意識につうじるものがあります。
つまり消費社会における宗教による禁止の消滅が国境のなさを生じることを描写しているわけです。
ここまでの展開から、ソーセージパーティーでは中世的な宗教を盲信する人々の愚かさと信仰無き時代の際限のない欲望のもたらす無秩序の双方を揶揄していることがわかります。
しかし本作のメッセージはこうした過去から現代へという風刺をはるかに超えていると僕は考えています。
作中のターミネーターとマトリックスのオマージュの意味
本作では見せ場である店員(人)からの商品(人のつくったもの)の独立戦争のシーンで、ガムが銃で撃たれるシーンがあります。そして、そのシーンでターミネーターのイントロが流れるのです。ガムは最強の存在であり撃たれても穴がふさがり再生します。
そうです。これはあまりに露骨な映画ターミネーター2のT1000のオマージュになっています。
さらに、この戦争のシーンでは別のカットで銃弾が独特のあのスローモーションで映されます。これはもちろんマトリックスのバレットタイムのオマージュになっています。
ここで注目して欲しいのは、まずターミネーターという映画は、人間がつくったスカイネットという人工知能のネットが、生みの親である人類を殺す物語であること。
次にマトリックスという映画もまた人間のつくった機械が人を奴隷にするという物語である点です。
さらにマトリックスという映画は、メタ的なメッセージがある映画として有名で主人公(プログラマーのアンダーソン)が監督のメタファーになっているのは周知のことでしょう。基本的にマトリックスは現代の消費社会への痛烈な社会風刺であるといわれ、マトリックスの世界は消費社会のメタファーであるというのは有名な話です。
これらのことから分かることは、本作の商品の暴走とは、たんに中世から近現代にかけておきた人類史をアレゴリカルにアニメーション化したような作品ではないということです。
ソーセージパーティーの真のメッセージ
ターミネーターとマトリックスをこれ見よがしにオマージュしたことが意味するのは、この作品がたんに商品を人に喩えて、近現代への転換における人類史を戯画化しただけではない。とすればどんあ意味があるのでしょうか。
そのこたえは、現代の消費社会の実態を痛烈に風刺しているということです。
ようするに現代社会というのは、人が商品を消費するのではなく、商品の奴隷として商品に人が消費させられているに過ぎないということをコメディとして痛快に風刺したということです。
でなければ、ターミネーターとマトリックスをこれ見よがしにオマージュする理由の説明がつきません。
ぼくたちは、コマーシャルやオススメにしたがって奴隷のように商品を消費しています。
しかもコマーシャルを流す側の企業の社長も商品を売る店員にも主体性はありません。ただひたすらに商品を売り資本を拡大せよという消費社会のシステムの命令にのみ込まれているわけです。
そこではもはや商品は人のためというよりは商品自らの自己消費のために製造されているといってもいいでしょう。
さらにいえば主体(魂)は商品の側にあるとさえいえるかもしれません。商品のブランドをみて購入し、商品の宣伝文句のままに商品を使用し、買い換えるようすなどは人が商品に使われていると言ったら言い過ぎでしょうか?
刺激的な見た目のパッケージに依存性の高い人工甘味料や添加物が混入された商品、発色剤や品種改良で改良された農作物などは、まさに商品が人を奴隷にしているかのようです。
またこのように考えると、なぜ人々が麻薬で気持ちよくなっているときだけ商品の声や行動が見えて、商品たちが人に干渉できるようになるのかも説明できます。
このことを理解する上で重要なのは、フランクたちが人を殺すために麻薬を塗った小さな弓矢をスーパーマーケットの店内の人々に放ち、人々を薬で気持ちよくさせているシーンです。
これはまさに現代の消費社会で人々が商品によって中毒化させられ、主体性を商品に奪われていることとして解釈できるでしょう。
すると本作のラストシーンのメッセージも頷けるものになります。
本作のラストではガムが自分たちが映画のなかの存在であることをつきとめ映画の次元をこえて、ぼくたち消費者(映画視聴者)や映画製作者を殺しに、こちらの世界へと侵攻しようとするところで終わりをむかえます。
このことは本作そのものもまた、消費社会のなかで映画市場に陳列される商品の一つであり、ぼくたち消費者を逆に映画の方が消費しているのだ!という痛烈なメッセージとして読み解けます。
そのため、本作は人類史における中世から近代への神から人へという主体の転換に、近代から現代への消費社会における人から商品への主体の転換をオーバーラップさせた非常に高度な作品になっていると考えられます。
さらにそのことがイギリスからのアメリカの独立戦争ともからめられ、一つの物語がいくつもの歴史を含み、まるで多重奏のような響きをもっていることが分かります。
つまり神からの人の独立、イギリスからのアメリカの独立、人からの商品の独立が一つの物語に象徴されているわけです。
映像演出の技巧もあいまって本作は歴史的な映画にふさわしい作品だといえるでしょう。
まとめ
ここではこれまでの内容の主なところだけをざっくりまとめておきます。
まず物語冒頭では中世的な信仰が生きていた時代が風刺されています。ここでは個人には主体がなく、神が主体を持っています。
これが物語中盤になると、ガムという科学者が登場し、最終的にはフランクたちは神を殺し、そのことで宗教的戒律は消え去り、世俗での禁欲などあらゆる禁止が消滅しました。
こうして国境はなくなり民族的な対立も消え失せ、快楽のまま市場原理に従い商品達は性的に一つになります。
これを素朴な人類史のメタファとすれば、人の代わりに神が何をすべきか考え、信仰と聖書が全てを決定し神そのものが主体であった中世が物語の冒頭のシーンで示されています。
そこから近代にうつり産業革命が生じ、科学の発展やグローバリゼーションにともない世界が合理的に説明され、人が神を殺したことで人間の主体が神から個々の人々へと移行した歴史が本作の中盤以降の風刺の示すところです。
まずはこのような人類史をトレースして巧みに戯画化しているわけです。
本作はこのような人類史の変遷に現代社会における商品の主体化をオーバーラップさせているのが特徴です。
グローバリゼーションと化した消費社会で人々は商品のもたらす麻薬的な快楽によって主体性を奪われ、商品の奴隷と化しています。
その意味で現代とは商品に主体が移行しています。
そしてこのような主体の人から商品への移行はグローバリゼーション、つまり国境を越えた商品の流通によって引き起こされています。
映画でもそのことがうまく描写されています。
また本作ではソーセージパーティーという映画そのものもフランクと同じ商品であり、この映画そのものも消費者や映画制作者の主体を殺し、その主体性を簒奪するものであることがラストのシーンで表現されています。
メタフィクションとしてラストのシーンを読み解けば、商品としての映画がヒットすれば、強制的に続編をつくらされます。制作者は自らの意志でつくりたいものを作るのではなく、作品のために強制的に続編を作らされることになるわけです。
このような市場原理に基づく映画産業のあり方もまた、監督や脚本家から主体性を奪ってしまうといえるでしょう。
つまり消費者のみならず生産者(映画制作者)もが、こうして主体性を商品(映画)に奪われ、個々人の主体が殺された世界が現代であるというのが本作の真のメッセージになっていることが分かります。
こうしてみると結構マトリックスシリーズに近いメッセージ性のある作品だと分かります。その意味でマトリックスをオマージュしているのは非常に頷けます。
おまけ
最後におまけとして、ここでは社会批評的なポイントを簡単に示しておきます。
少々、かたい話なのであくまでおまけです。
まず本作での宗教ですが、これは国家観の基礎であり国家による国民意識を形成するものとして描かれています。
わかりやすく言えばいわゆる愛国心というのが本作の信仰心に相当しています。
本作の信仰心が消え失せるとともに、民族的な対立がなくなり資本主義によるグーローバリゼーションで性的つながるという流れは、本作が国家共同体の根拠となる国民的アイデンティティを宗教においていることを示しています。
たとえばナショナリズムの日本の右翼が天皇や伝統行事などの宗教的精神を重視するのも、宗教が国家共同体を支える基盤になっているからなわけです。
また本作では序盤にジュース(ジューイッシュ、ユダヤ人のこと)を殺せと騒ぐナチスのメタファが登場します。
このことから、本作は宗教(愛国心)が国家を成立させ規律と節度のある秩序をもたらす反面、全体主義を惹起しうることを示してもいます。
つまり、本作は近代民主主義には欠かせない国民国家とは、宗教(愛国心)が必要だが市場原理はそれを破壊し主体性を完全に喪わせるということを示してもいるようです。
本当におまけですが、愛国心(宗教)は本作ではラカンのいう欲望として描写されており、神様は自分たちに何を欲望している(望んでいる)のか分からないということが序盤では強調されています。
実はこのわからなさがフランク(人間)達の主体性を真に可能にしています。
つまり、もし国家(神)の欲望である愛国心が明確に言語で曖昧さがない形で規定されてしまえば、ぼくたちは一国民として自分の頭で考えなくなるわけです。あるべき理想像に曖昧なところがあるからこそ、国民としてあるべき姿を自らが必死に考えるという仕方で主体性が生じるわけです。
そのため本作の物語冒頭は中世的というよりは近代的なほどよい信仰心における個々人の主体性の獲得とみることもできます。ちなみに本作で暗黒神として描かれる店員のダーレンは去勢不安のメタファーになっていたりします。
ところでナチスが愛国心や民族主義から全体主義となり個としての主体性を喪ったのは、神(国家)の欲望から曖昧な部分が消え去り、自分の頭で考える必要がなくなったからだといえるでしょう。
しばしば教条主義的な宗教がキケンだと言われるのもこのためです。
また宗教が禁止を中心になり立つように、国家を可能とする愛国心などの共同体の原理は、なんらかの禁止を生じるものでなければ成立しません。
快楽のままに消費に耽溺すれば、経済的には成功するとしても近代民主主義はなりたたない。そんな現代のかかえる限界とジレンマを本作は暴き出しているように思えてなりません。
こんかいは以上です。
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