〈『日本人は集団主義的』という通説は誤り〉の間違いを指摘

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どうも!うたまるです。

「日本人 集団主義」のワードでググるとトップに表示される『日本人は集団主義的』という通説は誤り | 東京大学という論文があまりにも突っ込みどころが多いので、その論証の瑕疵を指摘します。

この記事で何でも東大が正しいわけではなく、何が正しいか自分の頭で考える必要性が少しでも伝われば幸いです。

研究概要

東大のサイトによると、日本人は集団主義との通説は間違い、実証主義的研究により欧米に比べて集団主義とはいえないと発覚し、日本人は集団主義だという通説は心理的バイアスによって形成された嘘だという。

この時点でつっこみどころしかありません。なんで断言できるのか謎です。
断言できないことを断言する研究は一番やばい。

いわく実証的な研究にしぼり、日本人は集団主義、欧米人は個人主義、の通説を検証しその間違いを証明したそうです。

まず人文学における学部一年生レベルの常識なのですが、人文領域の議論を実証的に明らかにすることは原理的にできません。
出だしからまったくのアホ論文としか言い様がないです。

勝手に都合よく歪曲される定義

この論文、なんと集団主義と個人主義の定義を自分に都合よく、歪曲しています。

自分の意見を曲げて集団の意見に従う同調行動と、自己犠牲で集団に貢献する協力行動が集団主義であると決めつけられそれに反する態度が個人主義と定義されています。

定義がでたらめです。手に負えません。文化人類学の比較文化論を読み込んでいるぼくとしては、さすがにカチンときます。

まず一般に深層心理学や民族学研究で言われる伝統的な欧米の個人主義というのは、上記の集団主義の定義に反するものではないです。

明らかにストローマン論法(論敵が言ってないことをねつ造して、叩くレトリック)。迷惑なのでやめて欲しい。

個人主義とは、集団に反発する反抗期の子どものことでも自分の利を優先する自己中のことでもありません。

アメリカ型の本来の個人主義というのは個の権利の保証によって共同体の利益を守るというニュアンスに近いです。
相手にも自分と同じだけの権利があるという人権意識を持つことが個人主義の意味です共同体のことを無視して自分勝手にふるまうことを個人主義とは言いません。

また複数の統計的な日米比較研究をまぜこぜにして根拠としているのだが、日本社会では年々共同体の解体がすすんでいます。この10年でもかなりの変化があり疫学的にも日本人の主体が変質していることが示唆されています。

集団主義といっても、それは共同体との関係によって規定されるので、共同体の変遷や他国との差を無視してまぜこぜにすることはできません。

つまり地域共同体が崩壊すれば、いかに集団主義な人であっても、地域住民(集団)のことなどおかまいなしのエセ個人主義(自己中)になるということです。
しかし、これは見せかけであって心性としては集団主義とかわらないわけです。

実証主義研究とは皮相的な目に見える行動を判断指標とするため、上述のような行動の背景にある文脈を無視してしまいます。
そのため人文知領域では実証主義は成立しません。これは人文学の常識です。

意味不明な言語学研究

東大の誤謬だらけの研究によると「日本人の自己は、個として確立しておらず、自分が属する内集団と一体化している」という論旨の言語研究は間違っているという。

さらに日本語の特性が「他者とは明確に切り離された自己」の存在を示していることを明らかにした!と断言しています。

どうやって明らかにしたのか、実証主義的には原理的に断言できないので、この論文のスタンスは意味不明。

実証主義といっていたのにいきなり実証主義ではない定性的な言語の解釈研究を根拠にしてくるので読んでいて困惑します。

しかも断言って、どういうこと?

さらにとうの理論もあまりにずさんです。

「私は寒い」という文の中の心理述語「寒い」は、話し手の心理状態を表すために用いられるが、同じ内集団に属する他者の心理状態を表すために用いることはできない。たとえば、「母は寒い」とは言えない。日本語は、内集団の中でも自己と他者を明確に区別する特性を備えているのである。

東京大学のサイト記事:『日本人は集団主義的』という通説は誤り
URL:https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/press/p01_200930.html

日本語が主語なし、述語だけでなりたつことから自他未分性が強いとする定説への反論なのでしょう。
しかし、間違ったことを断言されても迷惑です。

まず母は寒いとは言えない、というのは当たり前。
母は、という主語を指定しているからです。

しかしただ「寒い」というときには自他未分の表現として成立します。

つまり「母は」、と主語を加えることによって自分と母(他人)が分離するのであって、その逆ではありません。
しょうじき馬鹿すぎて何を言っているのか分からないレベルです。

このことを現象学的に確かめてみましょう。

まず少し空気を読まねばならないような関係性において、会社や学校で意見を聞かれたとします。
そのとき「僕は~だと思います。」というのと「~と思います。」というのは同じでしょうか?

よく想像して欲しいのです。
ほとんどの日本人は「僕は」という方が心理的負担が大きいことを確認できるかと思います。

つまり主語を加えることで自他が明確に分離するのであってその逆ではないのです。
はっきり言って東大の研究は論理的にめちゃくちゃですしレトリックだらけのフェイク記事です。迷惑なので検索上位からは消えるべきでしょう。

もちろん、主語を省略できない英語で主語を述べるのと、主語を省力可能な日本語であえて主語を加える選択をするという意図が生じる日本語を直接比較することはできません。

しかし古英語では主語はほとんどないのです。個という概念が可能となった近代に至るにつれ英語では主語が絶対化してきた歴史があります。

こうした事実を無視して、瑕疵だらけのデタラメを断言するのはやめて欲しいです。

こういうことをするから東大はトンキン大学と馬鹿にされてしまうのではないのでしょうか?

嘘のある東大の研究

さらに、日本人が大戦中にとった集団主義的な行動は、外敵の脅威に直面したときに人間集団がとる普遍的な行動である、と決めつけています。なにを根拠に断言するのでしょうか?

基本的にまったく根拠なく断言するのが、この論文の特徴です。

まず国民総出で自爆特攻なんてことは他の国ではありません。歴史の勉強からやり直すべきでしょう。歴史は一回性であり、再現して確かめることができないので断言はできませんが、日本人の特殊集団ー個関係によって特攻が生じたとする可能性を提示するのは自然ではないでしょうか?

自分に都合良く定義や出来事をねじ曲げ誤謬をまき散らし実証主義を標榜しながら、まったく実証性のない妄想を断言するフェイク論文にはあきれます。

ネットの情報がいかにゴミか分かる例です。東大という権威がどうどうと嘘を垂れ流してくるので手に負えません。

さしずめ、インパクトのある研究結果を言いたくて、ホラをふいてしまったのでしょう。

たしかに定説を疑うことは大事ですが、はじめから結論ありきで恣意的な研究をするのは違うでしょう。

正しい一般的な見立て

東大のフェイク記事に騙される人をなくすため、一般的な文化人類学的、深層心理学的解釈の一つをここに提示します。

まず集団主義ー個人主義は単純に対立関係として措定されることはないです。

個人主義とは正しくは、中世的な集団への帰依による個の消失を否定し、近代的な集団の構成員たる個として、その責任の引き受ける個人と深層心理学では考えます。

したがって共同体への参画意識なしに個はありません。

共同体(集団)を無視して個を主張するだけのあり方はエセ個人主義、ないしは日本人が個人主義を誤解するときに生じる解釈に過ぎません。

したがって集団主義と個人主義は必ずしも対立せず、むしろ両者の対立において動的に安定するという弁証法的関係性を特徴とします。

また集団に心の底まで帰依している人にとって集団と個との摩擦がないという理解も重要です。
この場合、集団主義でも自覚の上では個人主義ということが起こるわけです。

つまり行動や自認の背景にある文脈の参照なしに皮相的な行動のみから両者を短絡的に切り分けることはできません。
そのためこうした人文領域の研究では現象学などの手法が欠かせないのです。

実証主義的研究を無意味とは言いませんが断言できないことを断言するのはやめましょう。エセ科学でしかないので。

また有名な議論を参照すれば、たとえば権威主義と反権威主義が対立関係ではないことを考えると分かりやすいかもしれません。

つまり反集団主義は集団主義の対極とは限らないわけです。

また仮に個人主義と対立するものとしての集団主義であればそれは、自分の頭で考えない主義と言い換えれるので、権威主義と同一することもできるでしょう。

すると個人主義が素晴らしいという言説が流行し、一つの権威性を帯びることで集団主義(権威主義)の人たちは、表面的に個人主義的な生き方を擬態することも考えられます。

こうなると行動から短絡的に判断する実証主義では個人主義的行動の背景にある動因(集団主義)を考慮することができません。

人間社会は複雑です。実証主義的に矮小化し極論を断言されても迷惑。
最近はネットを中心に、瑕疵のあるエセ科学的実証主義が蔓延していてぼくはかなり迷惑しています。

東大には馬鹿な発言はやめていただきたい。

どの観点から見るかによって日本が個人主義か集団主義かは変わります。それらを決定するのは個別のパースペクティブです。

既存の人類学、深層心理学、現象学における日本人研究は、より深く本質的な視点によって体系的に、日本人の性質を洞察、説明することを主眼とします。

したがって、その限りにおいて概ね日本人の権威主義気質、個の弱さは支持されているわけです。

これを表層的で中身のない実証主義により、文脈を無視して批判されても迷惑です。 
まともに先行研究の論旨も理解せず理論的に無効な幼稚な批判でマウントをとるのはやめましょう。

Googleについて

Googleの検索エンジンは膨大な記事やサイトをキーワードに即して検索結果に表示するために、検索順位を決定します。

つまり記事を採点して良質な記事や信頼性の高い記事を上位表示させるシステムになっています。

ところが記事は膨大であり人が読んで判断するのは困難。
そのためAIによって判別しています。

一説によると権威性を重要視するGoogleは東大などのネームバリューや参考論文のリンクなどで権威性を査定すると言われています。

自然科学など意見の完全な一致のある分野においては確かに権威による判断は有効だと考えられます。しかし解釈を前提とする人文領域では権威による判断は無効です。

専門知識のある人が読んで判断する以外に信頼性を判定する方法はありません。

事実、人文学問の解説記事では検索上位がデマや粗悪なゴミ記事によって埋め尽くされ、まともな記事が出てこないことがよくあります。

人文学分野ではSEO対策だけしたゴミ記事に研究者の良質な記事が勝てないのが現実です。

コメント

  1. ミト より:

    「まず国民総出で自爆特攻なんてことは他の国ではありません。歴史の勉強からやり直すべきでしょう。歴史は一回性であり、再現して確かめることができないので断言はできませんが、日本人の特殊集団ー個関係によって特攻が生じたとする可能性を提示するのは自然ではないでしょうか?」

    あちらは断定、こちらは「断言はできませんが」「可能性を提示」と断定を避けているのはいいとして
    逆に「日本の特殊性に原因がある、他には起こり得ないことだ」と断定して語られる場合、それに異を唱えること自体は有意義なのでは? 

    「国民総出で自爆特攻」という特殊な事象の原因に複数の要素がある(総力戦・追い詰められた状況・島国)として、すべてが一致するのが第二次大戦末期の大日本帝国であっただけで、個別の要素自体は他の集団にも存在しうるし、揃えば同じことが起こるかもしれないのでそれを研究したほうが「昔の日本だけ」で済ませて考えないよりも同じ悲劇を防げる可能性があるのではないでしょうか

    それと、論理と人格は切り離すべきとはいえ、乱暴な表現や文体が目立つので訂正したほうが良いのではないでしょうか
    「瑕疵のあるエセ科学的実証主義が蔓延していてぼくはかなり迷惑しています。東大には馬鹿な発言はやめていただきたい」と社会を動かすことを望んでいるならば、より多くの人間の論理による健全な賛同が得られるように、しなくとも良い悪印象を与える言動は謹んだほうがあなたの利益に叶いますし、他者の感情を煽ることで不健全な支持を得るならば、あちらの記事と変わらないアテンション・エコノミーに基づいた言論と評されてしまう危険性があるかと思います

    • うたまる うたまる より:

      嘘でもって過去の文化人類学の研究を不当に貶め、自己の研究をアピールする人をついバカと表現してしまいました。
      メリットが皆無なのでそのうち記事を非公開にしときます。

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