レイシズムとは?最新の心理学が解き明かすレイシズム3.0の仕組み

雪原とフェンスの画像

うたまるです。

今回は、レイシズムを最新の深層心理学研究によって徹底解説。

最近、巷を騒がせるレイシズムには歴史があります。じつは昔のレイシズムと今のレイシズムでは構造が異なることが深層心理学の世界では指摘されているのです。

深層心理学の世界では、ヒトラー時代のレイシズムをレイシズム1.0とか科学的レイシズムと呼び、ヒトラーのようなカリスマなき時代に台頭する今日的レイシズムを、レイシズム2.0や文化的レイシズムと呼びます。

そして近年、レイシズム2.0に混じって台頭するのがレイシズム3.0。

というわけで、今回はレイシズムの歴史とその構造、変遷を紐解き、今日的なレイシズム問題の根っこを明らかにします。

なおレイシズム1.0と2.0はラカニアンである松本卓也の著書『享楽社会論』に詳しく解説されており本記事は『享楽社会論』を参照しています。
また、レイシズム3.0については最新の研究を踏まえた上での僕の独自の考察になります。

レイシズムとは

レイシズムとは人種差別を意味する。

レイシズムでは、他の人種より優れているという信念のもと他人種を迫害差別する態度を示すことが多いため、優生学や選民思想を伴いやすい。

またレイシズムの温床となる優生学とは、人間集団において生殖を管理することで優れた遺伝子を残し、劣等遺伝子を末梢することを正当化する程度の低いエセ科学である。優生学はダーウィニズムなどの自然淘汰説の乱暴な解釈や遺伝子研究の発展にともない19~20世紀にかけて台頭した。

レイシズムの歴史

レイシズムの歴史は古代に遡る、そのためここでは19世紀以降のレイシズムを扱う。

科学的・優生学的レイシズム

アメリカの黒人奴隷やヨーロッパの植民地政策など優生学に基づく人種差別が行われた歴史がある。

またアメリカでは1930年代に優生学のもと断種法が施行され、社会不適合者を断種した狂気の歴史がある。

さらに日本においても第二次世界大戦後、知的障害や精神障害の人間を優生保護法のもと断種するという不愉快極まる人権侵害が法のもとになされた度しがたい歴史がある。

またレイシズムの歴史で欠かせない人類史上最悪の人種差別は、アーリア人至上主義を掲げたナチスによるユダヤ人大虐殺だろう。

ちなみにナチスが提唱するアーリア人とは、元はインド・ヨーロッパ語族を示す言葉で、言語学に属する類型だったものを、優性学的・生物学的に再解釈したエセ科学的概念になる。

ナチスによれば純血のアーリア人こそがドイツ民族であり、アーリア人こそが世界を統べる偉大な民族だという。もちろんこれは古代妄想に過ぎないが、当時は優生学による科学的な装いがほどこされ、1つの科学として信奉されていた。

またナチスが抱く、優れた民族アーリア人という空想は、アトランティス大陸伝説のオカルトと融合することで神話的誇大妄想にまで高まり、エセ科学的な妄想人類史を形成するに至る。
(※アトランティス大陸とは古代ギリシャの哲学者プラトンの著作に出てくる伝説の大陸(島)で、その文明は栄華を極めたが滅び水没したという)

以上からレイシズムは1つの神話を形成にも結びつく極めて心理学的な現象だと分かる。

優生学がいけない理由

ところで育種や遺伝子組み換え大豆、競走馬のサラブレッドなど人間以外に対する品種改良は、優生学的側面をもつ。そのためなぜ人間に対して遺伝的選別をしてはいけないのか疑問に思われる方もいるかもしれないので、その理由のうちの1つを紹介する。

まず競走馬や作物などの品種改良はあくまでも人間にとっての価値観の枠内での優劣である。
つまり競走馬の優劣は競走馬の外部である人間によって決定される。

対する人間や社会の真価とは、その価値(優劣)を自己自身によってつど規定し創造・刷新する主体性にあるしたがって自己と社会の価値の基準を外部の客観的知(科学的知)によって固定する優生学は極めて宗教的・前近代的であり人間の自由意志の否定に他ならない。

僕たちは僕たち自身の価値・優劣の絶対的根拠をもっていない、それゆえに人は価値・優劣から自由であり新しい価値基準をつど創造し、変化してゆくことができる。

もし優生学を人間社会に適応すれば、優劣は単一の基準に固定され、人間社会の価値観は固定されてしまい自由意志を失うのだ。

したがってレイシズムとその根っこに巣くう優生学は、僕たちの自由を殺す。

優生学とは科学に対する神託の投影に過ぎない。

文化的レイシズム

ここでは21世紀のレイシズムを概観する。

21世紀においても、一部の無知な人たちには優生学のようなエセ科学的レイシズムが信仰されている。しかし昨今、主流となるレイシズムはもはや科学的装いを必要としないという。

じじつ今日の人種差別をふりかえっても、かつてあったようなエセ科学的言説は見当たらない。
日本で言えば在日差別などがあるが、これらではトンスルがどうだとか朝鮮飲みという口元を隠す飲み方がよくないだとかの文化的あり方の違いが差別の標的となる。

またヨーロッパでも、今日の人種差別では異なる文化的な作法が差別の対象となりやすいという。

したがって今日的レイシズムは文化的差異に依存する。
とくに近い国、近い文化圏における小さな差異が問題となるという指摘がある。そのため在日朝鮮人への差別は、彼らの見た目が日本人と似ていることが一因となっているという説もある。

レイシズムの心理学

レイシズムの歴史を概観し、科学的レイシズムから文化的レイシズムへとその軸足を移しつつあることが分かった。

ここでは科学的レイシズム(レイシズム1.0)と文化的レイシズム(レイシズム2.0)の心理学的メカニズムを確認し、これからの時代に台頭するだろうレイシズム3.0を明らかにする。

レイシズム1.0の仕組み

ナチスに典型されるレイシズム1.0を精神分析では父への同一化によるレイシズムと考える。

このようなレイシズムはフロイト的精神分析のパラダイムとも重なるところがあるが、その最大の特徴は社会秩序を象徴するカリスマ的父の存在にある。

つまりナチスでいうヒトラーのようなカリスマ的リーダーへの同一化を介するレイシズムである。

いわばジョージオーウェルの小説『1984年』におけるビッグブラザー的な存在が、社会の秩序と法を根拠づけた時代ではビッグブラザーへの同一化を介して差別が行われた

そこでは普遍的な知として科学的知が活用され、絶対的な真理である科学のもとにレイシズムが断行されることになる。

このようなレイシズムは権威主義によって引き起こされるのは言うまでもない。

ところで共同体とはポジティブに自分たちを規定することができない。つまり日本人という民族的紐帯は他民族という外部との差異によってしか規定できない。

そのため共同体の幻想はつねに外部(敵)の設定に依存している。

それゆえ人は、自分が同じ共同体の仲間であることをアピールし、仲間ではないと排除されることを恐れている。
そして除外されないため、人々は敵をつくりだし糾弾することで自分こそが共同体の仲間であるという根拠をえる。


このような共同体における自己存在の外部(敵)への依存の構造がレイシズムを生じると精神分析では考える。

したがって為政者(ビッグブラザー)は敵を確定することで政治を可能とする。政治なるものとは友と敵の峻別にあるというシュミットの思想もこのことに関連するだろう。


レイシズム2.0の仕組み

21世紀の文化的差異に起因するレイシズム2.0ではもはやビッグブラザーのような社会の秩序を可能とするカリスマ的指導者(父)は存在しないという。

そのため2.0のレイシズムは、カリスマへの同一化を必要せず、それと異なるメカニズムで作動する。

また現代における父性(ビッグブラザー)の不在は、フランス革命における王殺し(父殺し)に起因すると精神分析では考える。

西洋社会における父殺し(フランス革命)は、今日における社会の父権的権威の失墜の遠因だという。
また、このことは現代社会における大きな物語の解体に直結する。

かつて想定されたこの世界を裏で支配する黒幕(父)は消滅し、もはやこの社会をあやつり、裏で糸を引く影の存在はいないのだ。

我が国でいえば、一部の左翼から全ての悪の根源とされた安倍元首相(黒幕、父)は暗殺されてしまった。

そのため世界を決定づける根拠となる父は日本でも完全にいなくなったといえるのかもしれない。

このような支配者としての父なき時代、黒幕を殺し民衆(兄弟同盟)が解放された時代、それは一見してユートピアに思えるが、じつはそうではなく殺された父がとんでもない仕方で回帰すると精神分析では考える。

というのも父の死は、社会の文化的秩序がその根拠を失い、相対化されることを意味するからだ。

このことを理解するため、ここで人間の社会化の構造を確認する。

まず僕たちは社会の法、文化的秩序によって社会化されている、そのためつねに直接的な満足を禁止された状態にある。つまり社会を生きるにはつどの欲求を制限し、文化的ルールに即して生きる必要がある。

冠婚葬祭などの文化的儀礼も、そうしたルールに他ならない。

たとえばスーパーでお腹が減ったからといって、レジを通さずに商品をその場で食べるのが許されないように、僕たちは直接的な欲を制限されレジを通すという社会的・文化的ルールを迂回して欲望を満たすこととなる。

このように言語的、社会的に生きる人間は、つねに気づかぬうちに直接的満足を断念させられている気づかぬうち、というのは普段ぼくたちはルールを無視して直接に満足をもとめる願望を抑圧されていてそれに気づけないからだ。

たとえば、いくら空腹でもレジを通さずに商品を食べたいと思う人はいないと思うが、これは禁止の法によって直接の願望が抑圧されるからに他ならない。

また、僕らは『GTA』などのTVゲーム(空想)では犯罪をして楽しむわけだが、ゲームとは空想であって現実ではない。現実でゲーム(空想)のように人を殺せば、罪悪感にさいなまれトラウマになるのはいうまでもないだろう。よって無意識に抑圧された願望は空想において生かされる。


また世界の法の根拠となる父ビッグブラザーがいない世界では、文化的法を介する間接的満足の経路が何の根拠(父)も持たないことを露呈する。

そのために異なる文化的迂回路をもつ異文化の人々が多様性のもとに同じ社会に現れるかくして人々は異なる満足の迂回路を持つ他者に取り囲まれて生きることとなる。

また僕たちは、自己に迂回路を設定し直接的な願望充足を断念させた文化秩序の象徴であり法の主体である内なる父(他者)に根源的な恨みをもっている。それは直接的満足を自己に禁止する父への恨みである。
(※この恨みがエディプスコンプレックスにおける父殺し願望)

この内なる父への恨みこそが、文化的レイシズムの淵源だとミレールはいう。

つまり異文化の人たちは僕たちとは異なる迂回路によって満足をえる、それは僕たちの目には、自分たちの禁止の法をおかしズルをして直接的な満足、完全な満足をえる存在に見えてしまうのだ。

自分と異なる文化の迂回路(規則、儀礼)は、あたかも内なる父と密かに癒着し、完全な満足をなす例外的迂回路を与えられていると見なされてしまう。

そのため、異文化の人が完全な満足を得ているという錯覚が生じ、レイシズムが始動するという。

かくして自分たちが完全に満足できない(間接的にしか満足できない)のは、異文化の他者が満足を奪っているからだと錯覚されてしまうという。これをミレールは「享楽(満足)の盗み」と呼ぶ。

具体的には、「移民が満足(仕事・給料)を奪ってしまうから自分の生活に満足できない」という具合である。

もちろん移民政策は一般論でいえば財界の思惑がからみ、格差拡大に繋がっているというマクロ経済学的な背景もあるだろうが、それとは別の次元の根源的な満足(享楽)の問題が、移民に投影されてしまうのだ。

かくして殺した父は、無意識へと回帰し、凶暴な法と化して、異文化の他者を差別してゆくこととなる。

(※この項での解説は、『享楽社会論』の内容をかなり強引に膾炙、翻訳し、一般の方にもなんとか伝わるように正確さより分かりやすさを優先している。厳密なロジックや正確な内容を知りたい方は『享楽社会論』を参照して欲しい)

余談だがユング心理学、とりわけ河合隼雄なら、文化的レイシズムを影の投影として見なすかもしれない。その場合、影とは禁止を犯す自己自身の投影として理解できる。

ちなみに影というのは自分のもつ性質のうち、自己認識にとって、自己からは除外され抑圧される自己の性質をいう。ようするに自分の認めたくない自分の人格像(コンプレックス)のこと。

影は自己の性質として受け入れられないものゆえ、他者に投影される。

つまり内なる社会的法を守る自己から除外される影は法を逸脱して満足をくすねる内なる盗人として解釈できるのだ。したがって影とは、「享楽の盗み」をはたらく内なる他者といえるかもしれない。



レイシズム2.0の精神分析的解決

このような内なる父によって基礎づけられる自己の満足(享楽)への憎悪からなるレイシズム2.0に対して、ジジェクは否定のうちにとどまること、「幻想(空想)の横断」によって克服できるという。

「幻想の横断」というのは、自己の社会的欲望がつねに完全な満足を欠いていることを自覚すること。

つまり幻想の横断とは、完全な満足を得る他者など存在しないこと、そのような他者が空想に過ぎないことを理解することであり、幻想から距離をとってそれ(自己の幻想)を自覚することなのだ。

この自覚によって、移民や異なる文化の他者に対してあらぬ投影をすることがなくなるという。

幻想の横断(サントームとの同一化)としての現代社会の克服について詳しくは、以下の記事参照

レイシズム2.0のユング的解決

先ほど、「享楽の盗み」を働く異文化の他者は影であり内なる盗人だとしめした。
このような解釈にたてば、精神分析とは全く異なるレイシズムの克服が開けてくる。

ユング的視点では内なる盗人である影が投影されたレイシズムの対象とは、コミュニケーションすることが望ましいと考えられる。

実際に関係性をもって接すれば、相手がどんな奴であれ、影の投影は引き戻され、享楽を盗む他者が幻想(投影)に過ぎないことが気づかれるだろう。そのことで完全な満足は断念され満足の欠如は引き受けられると考えられる。

逆にいえばユング派であれば、他者が享楽を盗んでいると感じ怒ること、したがってレイシズムそれ自体に弁証法的な動きを捉え、レイシズムそのものが完全な満足のなさの自覚へと到達する契機を内在すると考えるのだ。

言い換えれば問題があるときに外在的に解決法を考えるのでなく問題自身の内に内在的に解決の動きを捉えるのがユング(ヘーゲル)の特徴である。

したがってユング派の特徴は、レイシズムなどの特定の状態が内在する弁証法的な動きに注目することにある。

レイシズム3.0の仕組み

レイシズム2.0は現代ラカン派が提唱する最新のレイシズム理論だが、ぼくからすると最先端のレイシズムを把握するには2.0では不足がある。

というのも特定の属性の人を差別するレイシズム的、差別的言説には、「享楽の盗み」だとか不満足の問題を超えたタイプのものが出現してきているからだ。

新しいレイシズム3.0とは、「ホームレスは必要ないので駆逐せよ」という類いの言説や、あるいは「ゾンビ企業は始末せよ」という類いのものである。もっともこれらは人種の差別ではないので厳密にはレイシズムではないかもしれないが本質的にはレイシズムとそうかわらない。

僕が確認する限り、この手の主張を表明する人にはまるで満足の欠如が確認できないつまり享楽・満足が欠損していて、それが盗まれている、というような形式をとっていない。

新型レイシズム3.0では、本来は不可能なはずの完全な満足にとどまり、その自らの完全性(完全な満足)を維持し守るためにレイシズム的な言説が生じていると考えられる。

よって3.0では、世界の根拠が経済的合理性に還元され、経済的合理性という単一の秩序によって、全ての文化的な経路が基礎付けられることとなる。

また固有の文化の価値を放棄し、無機質な経済合理主義へと帰依する主体、このような主体は自己の合理性を単一の絶対的価値として絶対化する。

というのも現代では、かつてのような父権的権威による禁止の法(父の名)は退き、ただそのつど刹那的に満足するだけの消費社会の合理主義だけが唯一の満足の法と化すからだ。

このような単一のグローバリゼーションの法、経済合理性へと同一化する主体、これこそが新しいレイシズム3.0の主体。

自己の価値観が唯一絶対と化したこのような主体は、自己の絶対性のため、異なる価値観とはつねに競合関係となる。

つまり、経済合理性と異なる価値基準を認めれば、自らの価値がその絶対性を失うことになるため、異なる価値とは決闘的な関係となるわけだ。

そして、この決闘的関係こそが、ホームレスの駆逐やゾンビ企業抹殺などの主張へと短絡することとなる。

ホームレスもゾンビ企業も経済的価値の低さが断罪されていることは明らかだろう。つまり、経済合理性を持たないものは何の価値もなく経済合理性を持つものだけが絶対的な価値を有するという一様序列の世界観が貫徹されている。

これは経済的勝者である自己を絶対的な価値、完全なる存在として確定することに他ならない。彼らは経済的成功に運はなく完全な個人の努力・能力のみが要因だという。そして経済的成功だけが唯一の絶対的価値であるとすることで自己を絶対化する。

つまりもし経済的価値以外の他なる価値観を認めると、その価値観(経済的成功を無価値とする価値観)において自己の価値(経済的成功)の絶対性が否定されてしまう。
完全な満足にとどまり欠如を排除するレイシズム3.0の主体にとって、それはたえられないのだ。

かくしてレイシズム3.0では、人々が自己の完全無欠性にとどまるために他なる価値観を駆逐し、敗者を殺害しようと暴走することが懸念される。

このような自己の主観的価値観が唯一絶対の客観的価値観と融合した主体について詳しくは以下の記事

終わりに

今回の記事は松本卓也氏の著作『享楽社会論』をベースにしている。この本は現代社会のあり方を把握しつつラカンの思想の変遷をつかむ上で最良の書だと思うのでオススメ。

ただし、ラカンについて何も知らない人が読んでも、あまり意味が分からない本なので、読む場合は、ラカンについて最低限理解している必要がある。

また、この記事をきっかけに享楽社会論を読まれる方がいるかもしれないので書いておくと、僕は松本卓也氏とは歴史観や政治的スタンスが異なる。

『享楽社会論』を読む限り、松本卓也氏は、どちらかと言えば左よりの歴史解釈に基づく社会分析をしているようである。
対する僕は政治的には無色透明に近いつもりである。

またこのブログでは学問的な解説の都合、やむを得ず取り上げねばならない場合を除き、政治思想的な話はしない。


最後に、本記事が読者にとって、社会やレイシズムについて考える1つのきっかけとなれば幸いである。

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