どうも、うたまるです。
近年の日本では発達障害が急激に増えているのはご存じでしょうか。また近年では発達障害というより非定型発達スペクトラムと呼ばれることも多いようです。
じつはここ最近は定型発達(従来の一般的な人)のがマイノリティになりつつあるとさえ言われています。というのも人間の心の構造はこれまでにも変化してきた歴史があり、いま急速にその変革期を迎えているという話もあるからです。
今回はそんな発達障害についての基本と日本で増えいている理由を解説してゆきたいと思います。
発達障害の歴史
発達障害とはもともとはアメリカ精神医学会による診断基準であるDSMによる診断名です。ところがDSMの診断は年々変化しDSM-Ⅳになると知的障害と区別され広汎性発達障害と呼ぶようになり、発達障害という一般的な呼称は診断名からは消えてしまいました。
そのため近年日本でもちいられている発達障害という診断は主に広汎性発達障害を示し、ADHDなどの軽度発達障害を含めている場合が多いようです。
また広汎性発達障害は自閉性障害を含むのですが、もともと自閉症はカナーとアスペルガーが独立して提唱したものです。両者とも統合失調症を特徴付ける意味で「自閉」の語を使っており、自閉とは人や外界との接触の欠如を示しています。
カナーは言葉を話さない重症な自閉症をあつかっていたのに対し、アスペルガーのあつかった自閉症は「大人のように話す」というような特徴を持つため、両者の自閉症には開きがあります。
また、自閉症の問題は早期幼児期に発現することから、母子関係に原因が求められ冷蔵庫マザーという子どもに冷たい母親の接し方が問題視された時代もありました。
しかし後に冷蔵庫マザー説は否定され、脳科学の発展などにより発達障害は中枢神経の問題とされるようになります。
そのことで育て方よりも、生得的な障害と見なされ、発達障害への対応は心理療法よりも訓練が中心になってきたという経緯があります。
しかし、最新の日本の現場ではユング派の心理療法が発達障害児にたいしてめざましい成果をあげてきてもいるようです。
また発達障害に対する研究や認識は社会制度やそれにともなう政治的な背景によって変化しているとする研究もあります。
じっさいに日本の発達障害の研究もアメリカなどの自閉症児童の保護者団体によるロビーイングの影響を間接的に受けているようです。
精神医学とお国柄
発達障害を含む精神医学に関する疾病の捉え方は国により異なります。
DSMは国際的な指標にはなりますが、病因論を排除して、ただ機械的に症状に都合のいい名前をつけているというのに近く、本質的ではありません。
つまり身体医学にたとえるなら咳が多い人を咳症と分類しているようなもので、それが風邪なのか結核なのか肺炎なのかということを不問にすることで客観的診断を可能にしているのがDSMだといえます。
ぶっちゃけDSMは便宜的に症状に名付けているだけに近いので、精神疾患を理解するのにはまったく訳にたちません。
DSMがなにも症状について説明をできないのは、心や意識というものが自然科学の対象のように客観的な「もの」として扱えないからです。
つまり目の前に物理的にある物質の性質ならば、研究者の主観と切り離して、その性質を記述できるのですが、心とか意識というものは、実体がなく研究者の主観から切り離して、その仕組みを記述することができないので、意見がまとまらないわけです。
なので病因論を含めてしまうと研究者の派閥によって意見が割れてしまうためDSMでは症状に名前をつける程度のことしかできないわけです。
このことは発達障害だけでなく神経症とか鬱病、統合失調症、パラノイア、非定型精神病などあらゆる精神や認知の障害に共通していえることです。
このようにいうと心や意識は脳科学的に解明できると思われるかもしれませんが、いまのところ心の解明は脳科学ではまったくできていませんし、できるようになるめどもたっていません。
クオリア一つ脳科学では説明できないというのはあまりに有名な話です。
そのため精神医学というのは国により解釈も定義も異なります。
じじつ発達障害児への対応でいうとベルギーなどではラカン派精神分析による治療をする施設があったりしますが、アメリカではラカンやフロイトなどの精神分析は否定され認知行動療法や脳科学が主流となっています。
発達障害などの精神医学の情報を集めるときは、このことを理解していないととんでもない勘違いをすることになります。
発達障害の特徴
カナー型自閉症とアスペルガー型自閉症ではかなり差があることは「発達障害の歴史」で触れましたが、ウィングという研究者は自閉症にはいろんな症状があるものの、それらの根っこは同じだということを提唱しました。
そうしてウィングにより自閉症スペクトラムという概念が提出されることになりました。
この概念は現代の発達障害の考え方の根底にあるものでもあり重要です。
ただし現代では自閉症スペクトラムからさらに範囲が拡大しADHD(注意欠陥・多動性障害)を包括し、発達障害スペクトラムという考えができ、さらにこれを拡大し非定型発達スペクトラムの考え方が主流になりつつあるようです。
ちなみに非定型発達スペクトラムになると、発達障害スペクラムと定型発達(ノーマルの人)のあいだの領域の人は、生得的な障害ではなくなってきます。
このような近年における発達障害概念の拡張の動向は、現代社会のあり方が生得的には発達障害の素質のない人間を発達障害的な認知に近づけてしまっていることで生じているようです。
ウィングによる自閉症スペクトラムの三つの特徴
ウィングがあげる発達障害の三つの基準は現代の発達障害のスタンダードな理解になっているものです。
①相互社会性の障害 | 視線が合わないこと、体に触れられるのを嫌うこと、要求関心が一方的なことなどのこと |
②コミュニケーションの障害 | 話し言葉の遅れ、相手の話を聞く場合に字義通りにしか理解しないこと |
③想像力の障害 | ごっこ遊びができない。もの真似がそっくりそのままで想像性がないこと、常同的な反復行為など |
発達障害の本質的な性質
ここまで教科書的な説明をしてきましたが、ここから一気に本質的な話をします。
ここからは、ググれば分かることは一切書きません。通常はほぼネットで知ることは不可能だろう本質の議論をコンパクトに圧縮して可能な限り分かりやすく解説します。
一人称代名詞と発達障害児
よく自閉症児などは自分のことを「私」や「ぼく」というような一人称代名詞を使わずに「Aちゃん」と言ったりします。
このことは自分を他人と並列して存在する物のように認識していることを示します。
じつは、自分のことを自分とか私と呼べるためには、この世界を認識する主観=主体として自己を認識する必要があるのです。つまり私というのは身体像という物から分離して、身体を認識するところの主観であり主体のことを示すわけです。
そのような心理的な主観の自覚により人は自分のことを自分とか私というように一人称代名詞で呼べるようになります。
つまるところ非定型発達スペクラムというのは、このような意味での主観、主体としての私の不成立を特徴としているのです。
このように考えていくと発達障害は非定型発達の特徴や症状をことごとく体系的に説明可能になります。
日本語と発達障害について
主体の喪失というと、発達障害を悪者にしていると言われそうなので、念のため補足すると、主体が有無と善し悪しは全く関係がありません。
そもそも前近代の世界では主体などないのが普通です。
事実、前近代における古英語にはI(私)という主語はほとんどありません。また日本語などは現代でも主語のない発言や文章は一般的です。
主体(主語、一人称代名詞)の誕生というのはあくまでも近代的なものであって前近代では主体はほとんどなかったわけです。さらに言えば、日本人などは言語学的にもともと発達障害に近いことがわかります。日本語の主語のなさ、語順の関係なさなどは発達障害の認知構造に極めて近いといえます。
このことは英語と比較するとよく分かるので以下に英文を示し解説します。
「I play tennis.」
という場合は語順は変更できません。必ずS(主語)のあとにV(動詞)そのあとにC(目的語)で語順が決まっています。
ところが日本語では
「テニスをする」だけでも成立しますし、「するんだよテニスを俺は」というふうに語順を変えてしまうこともできます。こんなことは英語では絶対に許されません。
ちなみに日本語の主語のなさや、語順の弱さは、日本人が空気に飲まれやすいことを示していたりもします。
主体がないことで起きるコミュニケーションの障害
主体がないことで生じることとして、ウィングがあげる三つの特徴の一つ②コミュニケーションの障害が生じることが分かります。
この障害は言葉を字義通りにしかとらない障害のことですが、これは主体がないことをしめしています。
つまり相手の発言の文脈(主観的な世界観や意図)に応じて言葉の意味をくみ取るということが難しくなるわけです。
なにせ主体がないということは、他者の主観と切り分けられた個としての主観(意図)を持っていないということなので、自分の意図と相手の意図が分離していないわけです。
すると言葉は単一の意味しか持てなくなるので、字義通りにしか解釈されなくなります。
主体がないことでおきる時間意識
発達障害ではその時間意識の独特さも指摘されています。
これは癲癇性格の人にも言えますが、発達障害では「いま」という時が中心になり、過去からの継続という意識や未来への想像が「いま」に呑まれやすい傾向があります。
つまり今その瞬間の気分で過去の思い出が楽しくなったり、遠い将来が明るい見通しになったりしやすいということです。
このことは比較的に一貫した自己の連続性が弱いということを示してもいます。
発達障害と文学やアニメのキャラ
ここでわかりやすく発達障害のキャラクターを紹介します。
『ドラえもん』ののび太は発達障害的だといえます。他にも『チェンソーマン』のデンジは発達障害の典型になっています。あとはゲームなら『The Last of Us Part II』のアビーも発達障害的です。
この三人のキャラクターは刹那的で今が支配的なのが特徴で非常によく発達障害の時間意識が表現されています。
基本的にデンジは現代人の典型でもあるので、発達障害という主体の希薄さというスタイルは非常に現代的だといえます。ちなみに村上春樹の小説のキャラクターも発達障害や解離的な特徴が顕著なことで心理学の世界では有名です。
主体がないことで今が優位になる理由
私という主語的な主体を持たず、主語がでてこないということは、世界はそのつどの感覚によって強く影響されるということになります。
これは英語の主語である「I」の我の強さを考えるとわかりやすいです。まず、いつなんどきも省略をゆるされず全てに先立って文頭に置かれる「I」があるということを考えてみましょう。
するとこのような「I」という常に変わらぬ主体がまず最初にあって、その主体によって、そのつどの今という世界観が見いだされていることが分かると思います。ここでは主語であり、主体である「I」の一貫性と同一性(アイデンティティ)にしたがって、そのつどの今が連続的に積み上げられることが分かるかと思います。
このような主体優位の英語的な世界観では、時間は過去が優位になります。
アイデンティティのもとに、「今まで」という過去の連続として、そのつどの今が規則的に積み上げられるので、今この瞬間の感覚だとか気分にはあまり左右されないわけです。
なぜ発達障害や非定型発達が激増しているのか
なぜ現代、発達障害や非定型発達が急激に増えているのかをここでは明らかにします。
スマホやSNSの普及と発達障害の関係
現代ではスマホやタブレットが普及しツイッターやFacebookなどのSNSを利用することが当たり前になってきています。
このことが発達障害の増加に関係していると考えられます。
たとえばInstagramでもFacebookでも、人はしばしば、自分の輝いている瞬間を切り取ってアップします。
そのことで、SNS上に理想的な自己像を自分の分身として作りだし、それをゲームの操作キャラクターのように操作しクリエイトしているような状態になります。
場合によってはフォトショップなどで画像を加工したりもするわけです。
このように、ある種のバーチャルな自己像を自身が所有し、SNS上で操作することでより多くの「いいね」や「フォロワー」を獲得するオンラインゲームに参加しているというのが現代人の特徴になります。
またバーチャルなSNS上での評価は現実での評価に直結し、SNSはその意味で現実であるともいえます。SNSで多くの承認をえることでお金が手に入り現実に豊かな生活が可能になるので、その意味でネットは現実なのです。
ここで重要なのは、SNSでの価値基準は承認数という唯一にして単一の数値に還元されるということです。
このことからは、②コミュニケーション障害に特徴される相手の発言の文脈や意図に応じて言葉の意味をくみ取ることができない状態をよく説明できます。
つまり、この世界にフォロワー数などの承認数という単一の価値基準しかないということは、世間の価値観とは異なる個人的な価値観、世界観はどこにも存在しないということです。
もっとわかりやすくいうと、世界中の人々が承認数を稼ぐことを目的にそのためだけに映画をみたりアニメを好きになったりしているところがあるわけです。
こうなると個々の人がそれぞれに違う価値観をもっているということが分からなくなります。
そもそも主体というのは世間の価値観とは異なる固有の価値観を持つことでもあるのでそれがなくなれば主体は自然と消滅することになります。
じっさいに昔のオタクは自分が好きだから突き詰めるというスタイルが主流でしたが今のオタクはみんなが見ているアニメだから見るというふうに変化してきています。
現代では共感を得られないような趣味は価値がなくなったともいえるでしょう。このような現代のスタイルはそれ自体が発達障害的だといえます。
定型発達と非定型発達の違い
主体を持っている定型発達とは、ゲームで喩えれば、自己を画面外から俯瞰して認識する主観としての主体が、俯瞰される対象としての身体的自己像=操作キャラクターに同一されているような状態をさします。
そのため、自己を俯瞰する視点が画面内のキャラクター個人に回帰するので、画面外の客観視点からは区別された個としての主観(主体)を形成します。
これに対して主体が希薄な非定型発達というのは操作キャラクターだけがあって、それを見て操作している主体は個(主体)として意識されません。そのため自己の価値観と世界の普遍的な価値観の区別がないわけです。
まるでスマホのなかにこの世界が入っていて、世界の外である画面外から、画面内に表示される操作キャラクター(自己像、SNSアカウント)を操作していてるような意識が非定型発達といえます。
世界の外の絶対的な視点、神の視点から自己を操作する意識、これこそが現代人の意識の特徴なのです。こうした現代人の意識は歴史家のハラリがいうホモデウスとも親和性を持っています。
まとめ
- 発達障害という診断単位は歴史的に変化してきている
- 発達障害の範囲は拡大しており現代では非定型発達スペクトラムとなっている
- 国によって発達障害の捉え方や基準、治療は異なる
- 発達障害の基本はウィングのあげる三つの特徴
- 相互社会性の障害
- コミュニケーションの障害
- 想像力の障害
- 一人称代名詞は主体の成立に関わる
- 日本語は人称代名詞の使用頻度が少なく日本人は主体が希薄
- 発達障害は主体が希薄であるというのが本質
- 主体が希薄になると時間は今だけになる
- 発達障害が増えた原因の一つにはSNSがある
- 定型発達は主観からでられない
- 非定型発達は主観がなくなり客観と一致している
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