※この記事はゲーム『Marvel’s Spider-Man 2』のネタバレを含みます!またこの記事では物語の読解をします。記事の読解は一つの解釈です。物語の意味に本体は存在しません
うたまるです。
最近、PS5でスパイダーマン2をクリアしたのでレビュー記事を書くことにしました。
このゲーム、グラフィックがすさまじくNYCの景観には驚かされます。
高いゲーム性、作りまれたヴィジュアルや世界観の高さが売りのゲームですが、しかし、いかんせんストーリーが雑というか、映画版スパイダーマンと比べると物語性に乏しい印象も。
というわけでゲームの良かった点を紹介し、次にストーリーの深層心理学的な分析や個人的不満点を考察レビューしてゆきます。
※僕は前々作のMarvel’s Spider-Manもプレイ済みだが前作Marvel’s Spider-Man:Miles Moralesは未プレイ
Marvel’s Spider-Man 2とは
題名 | Marvel’s Spider-Man 2 |
ジャンル | アクションRPG |
ゲーム機 | PS5 |
開発 | インソムニアックゲームズ |
発売日 | 2023/10/20 |
前作に『Marvel’s Spider-Man:Miles Morales』、前々作に『Marvel’s Spider-Man』がある。
ゲームレビュー
ゲームボリュームは龍が如くシリーズやペルソナシリーズ、ラスアス2などと比べるとだいぶ短め。やりこみ要素をどれだけプレイするかによるが15時間もあればメインストーリーはクリアできてしまう。
ニューゲーム+があり周回プレイが楽しめるようになっている。
前々作と比べるとバトルシステム面はさらに進化しており、最近ゲーム業界で人気のパリィが加わりさらにゲーム性が高くなっている。パリィは必要ないという意見もあるようだが、僕はパリィがあった方が楽しめた。また前々作(Marvel’s Spider-Man)で緩慢だったMJのアクションも大幅に改良されている。
さて、本作のコンセプトは思うに、臨場感あるニューヨークの世界観をスパイダーマンがスウィングやスーツの滑空で縦横無尽に駆け巡る映像の迫力にかかっている。
もとより今のスパイダーマン人気はトビーマグワイアの実写映画化のヒットによるところが大きいわけだが、映画ではスパイダーマンがスウィングしてNYCを移動する没入型の構図が斬新で、スパイダーマンが摩天楼をウェブで立体的に動く迫力ある映像は今ではスパイダーマンのシンボルとなっている。
※没入型とは日本のアニメーションに起源をもつとされる構図で、左右ではなく前後の奥行あるキャラクターの動きを描写する構図のこと
PS5により進化した映像技術により、そんなスパイダーマンの映像的魅力を遺憾なく発揮すること、ここに本作のコンセプトがあるのだろう。
とりわけ映像面で驚かされたのがビルのグラフィック。膨大な数にわたる高層ビルの窓を覗くと、窓に周囲の町並みが映り込みつつ、その向こう側に3Dモデルで部屋と光源が描写されており、これにより、従来の表現ではなしえなかった圧倒的なビル群のリアリティを実現している。
ニューヨークの夕焼けや夜景の美しさはこれまでのゲームグラフィックの壁を越えたものになっていると思う。巨額の開発費を感じる。
またニューヨークの再現度は高く、金融街、フェデラルホール、タイムズスクエア、エンパイアステートビル、セントラルパークといったNYCの顔も健在である。
GTA5にあった縮尺の欺瞞がない等身大のリアルなニューヨークが描かれる。
そんなわけでMGS2で雷電とソリダスが戦ったフェデラルホールの屋上にもいけるし、ソリダスが倒せなかったGW(ジョージワシントン)の銅像もリアルに描写されている。またタンカー編の聖地、ハドソン川もマップ上にあり、あの海兵隊のタンカーはこの川を下ったのかと感じることができる。
ただし、本作のNYC描写には一つ残念なお知らせがある。
なんと前々作にはあったクライスラービルがないのだ。頭頂部がアールデコデザインの僕が一番好きなニューヨークの顔がない。ゲームプレーをしてすぐに、これは何事か!と思い調べたところ、クライスラービルのオーナーが変わり、新オーナーがビルの肖像権的なものを主張してゲーム化を許さなかったらしい。
MGS2で雷電とローズが口論した映画のビル論争の片割れ、クライスラービルの不在はあまりに大きい。もっともその欠如が僕にクライスラービルを欲望させているだけかもしれないのだが。
なんというか、クライスラーのオーナーにはあきれた。アメリカ人はどこまで強欲なのか。金、金、金、まるで本作のノーマンオズボーンのようだ。
そんなわけで本作はMGS2の聖地をお手軽にめぐりたい人にはおすすめできる。またスパイダーマンの世界観に没入したいという人やアクションRPGを楽しみたい人にもおすすめ。
ただし、本作には一つ不満を感じた。それがゲームシナリオだ。
脚本が少し雑じゃないか?と感じた。けっして悪くはないのだが、雑な気がしなくもない。
映画版スパイダーマンのよくできた凝った脚本と比較すると、どうしても見劣りして感じる。また小島監督作品や龍が如くシリーズ、ペルソナシリーズ、ラスアスシリーズの優れた脚本と比べるとどうしても物足りなさを感じる。これらストーリー重視の作品が好きな人には、微妙にオススメしにくいところがある。
ともあれ、この記事では本作のシナリオライターの意図を作中描写にたよって紐解き、精神分析を使って解説してゆこうと思う。
Spider-Man 2 登場人物
物語の理解で重要になるキャラにしぼって簡単に紹介する。
ノーマン・オズボーン
ハリーの父で、元NY市長。資産家、実業家、科学者。
ニューヨークを仕切る権力者、独善的で傲慢な一面がある。妻を遺伝性の難病でなくし、ハリーをその病から救うために奔命する。
本作シリーズの裏の主人公的なポジションにありピーターパーカー以上に重要なキャラと思う。
ピーター・パーカー
主人公のスパイダーマン。
本作では失業中。ヒーロー活動と日常生活のバランスが取れずにいる。本作では狂言回しに過ぎない側面があると思う。
マイルズ・モラレス
二代目のスパイダーマン。高校生。
マーティン・リーに父を殺されており、本作ではリーへの怒りを克服することになる。
ハリー・オズボーン
本作の最重要キャラの一人。ピーターとMJの親友でノーマンが溺愛する息子。
母の遺伝性の難病が遺伝・発病し生死を彷徨うが、ノーマンのあまりに危険なシンビオート治療で復活する。
メリー・ジェーン・ワトソン(MJ)
ピーターの恋人。NYの大手新聞社デイリービューグルの記者。上司のジェイムソンに悩まされる。
マーティン・リー
前々作『Marvel’s Spider-Man』ではメインヴィランを務めたミスターネガティブ。本作ではマイルズの精神的成長に関わる重要なキャラ。
父の仇としてマイルズの前に立ちはだかる。ある意味でマイルズにとっての父ポジションにある。
クレイブン・ザ・ハンター
本作の主要ヴィランの一人。崇高な理念や思想性はほとんどなく、たんに戦闘狂で戦死するため自分より強い相手を追い求める。脳筋。
正直、本作でもっともよく分からないキャラの一人。山賊のような組織のボスに見えるが、どういうわけか最新の軍事テックも使いこなすハイテク山賊組織(ハンター)の原父である。資金源はなんなのか?どうして、脳筋の彼がこんな組織を実現しているのか本当に謎。
シンビオート
人物ではないのだが、本作のラスボスであるヴェノムの本体。
宇宙より飛来してきた謎の寄生生命体で宿主の負の感情を利用して精神を乗っ取り地球を支配しようとする。クロノクロスでいうラヴォスポジション。ハリーの治療に使われ、ノーマンの手によりハリーに寄生させられていた。
ハリーがシンビオートに呑み込まれたヴェノムの姿はノーマン・オズボーンがハリーとニューヨークに対して持つ支配欲などのメタファーなのかもしれない。
J・ジョナ・ジェイムソン(JJJ)
大手新聞社デイリービューグルの編集長的なポジションの人。
MJの上司で横柄な人物。いつもスパイダーマンを批判しているが、その根底にあるのは、おそらくは法のもとの平等。
だから自警活動をするスパイダーマンにとってとっても大事な人。スパイダーマンをある意味で支えている人といえる。MJにとっては独裁者的、原父的人物だがスパイダーマンにとってはスパイダーマンが一人の主体であれることの根拠を担っていると考えることもできる。つまりスパイダーマンが法外の自警活動をしている、ということを突きつける存在で、それゆえにスパイダーマンに正義について考える自由を与えていると解釈する余地がある。
このキャラには子を承認する父と子の主体性を呑み込む父との二面性があり、精神分析から本作を捉えた場合、隠れた重要キャラといえそう。本作ではMJとの関係が子を呑み込む父JJJで、回想シーンでのピーターとの面接シーンは子を承認する父JJJともとれる。
ちなみに、スパイダーマンで僕が一番好きなキャラの一人はJJJ。
Spider-Man 2のストーリー梗概
本作のシナリオを精神分析的に読み解くうえでポイントとなるストーリーの梗概を示す。
プロローグ
ハリーがノーマンのおぞましい治療を受け、ノーマンの手から出てくるシンビオートに呑み込まれる印象的なムービーで本作は幕をあげる。プロローグのこのムービーは本作シリーズを理解するうえで一番大事。
ピーターはマイルズとともにNYCを守るスパイダーマンをしていた。そんなピーターはマイルズの高校の物理の教師に再就職を果たすが出勤初日にサンドマンがNYCを襲撃。
大混乱に陥る街を救うため授業そっちのけでマイルズとともにサンドマンを沈静化。
これにより教師を解雇され無職に。
警察がリーなどのヴィランを輸送中、謎の組織ハンターの襲撃をうける。輸送の護衛にあたっていたスパイダーマンらはハンター戦闘員と対峙する。
マイルズはマーティン・リーへの復讐心のため、ハンターと囚人リーの取り合いとなるが、リーはハンターに捕獲されてしまう。
またハンターのボス、クレイブンはバルチャーなど複数のヴィランをタイマンで抹殺していた。
そんななか、ピーターは、スパイダーマン(非日常)とピーターパーカー(日常)とのズレ、バランスのとれなさに悩み、亡きメイおばさんのバランスが大事という言葉を想起する。
ピーターはMJに対して同棲を提案するも、MJはマンハッタンの大手新聞社デイリー・ビューグルの記者としての生活を優先したいという。
そこにヨーロッパで治療中ということになっていたハリーが元気になってやってくる。
ピーターはハリーの研究所に再就職することに。
そのあとハリーは遊園地でハンターの襲撃からスパイダーマンを助けようとして、シンビオート(エグゾスーツ)の力に覚醒する。
さらに紆余曲折あり、ハンターの襲撃でクレイブンに刺されて瀕死のピーターを救うためハリーは自身のシンビオートをスパイダーマンに移植。
これにより、ピーターは一命を取り留めるも、ハリーは力を失い再び病に体を侵食され、みるみる衰弱してゆく。
他方、ピーターは徐々にシンビオートに精神を乗っ取られ傲慢になってゆく。他方、マイルズはリーとの戦いを通じて、父デイヴィスの不在(死)を引き受け、リーを憎み続けることをやめる。
ヴェノム化したピーターはクレイブン、マイルズとの連戦を経て、シンビオートを自身から引き剥がすことに成功。
するとハリーはピーターからカプセルに入ったシンビオートを奪い、ふたたびシンビオートと一体化するが、これによりヴェノム化。
ヴェノム化したハリーはノーマンの研究施設を破壊し脱走。
さらにシンビオートの巣となる隕石を手にしたヴェノムは、シンビオートを増殖、NYCにシンビオートをばらまき、市民をヴェノム化。
ピーターはヴェノム化した市民に襲われ再びシンビオートに取り憑かれるが、マイルズとリーの協力でこれを克服。アンチヴェノムの力を手にする。またマイルズはリーからネガティブパワーを引き継ぐ。
ピーターとマイルズ、MJは隕石を奪取しハリーの研究所の量子加速器で隕石を破壊。ピーターはハリーの要望もあり、やむおえずアンチヴェノムの力をハリーにつかいハリーに取り憑くシンビオートを駆除する。
これによりハリーは昏睡状態に陥りノーマンはスパイダーマンを逆恨み。
エピローグではMJはデイリービューグルを辞職、ピーターはスパイダーマンを引退してマイルズにスパイダーマンを引き継ぎMJと同棲する。
Marvel’s Spider-Man 2のストーリー解説
まず以下の写真を参照してほしい。以下の写真は、本作のプロローグのムービーシーンである。
写真をみて分かるようにシンビオートがノーマンオズボーンの体から出てきて、この後、ハリーを呑み込んでしまう。
もちろんこれは幻想描写となるが、それゆえ、これこそが本作の主題のほぼ全てだと思う。
次に以下の写真を見てほしい。
こちらは物語序盤、遊園地でハリーがシンビオート(エグゾスーツ)のスーパーパワーに覚醒してピーターとそれを喜ぶムービーシーン。
なんと背景にノーマンオズボーンの看板とデビルズブレス(悪魔の息)の落書きがこれ見よがしにムービーに写り込んでいる。
これが偶然というのは絶対にありえないので脚本家の意図が明確に表れている最重要シーン。
ハリーの背後に悪魔の父ノーマンありなのだ。
ようするにノーマンオズボーンがゲーム版スパイダーマンの主人公なのである。これはダースベーダーという父を主人公としたスターウォーズと同じようなものだろう。ただし、父と対決するのはハリー(アナキン)ではなくその親友のピーターとなりそうだ。
ラストでハリーが意識不明となった理由、ノーマンがスパイダーマンに復讐しようとするシーンの意味もここに帰結する。
また以下のようなシーンもある。
上の写真はピーターとハリーの高校生時代の回想シーンのラスト。
二人は学生時代、夜の高校に侵入して警備員をまきバックアップのUSBメモリーを回収するのだが、学校から出ると突然二人の前に黒塗りの物々しいヘリがやってくる。ノーマンがハリーに緊急の連絡をするため飛んできたのだ。
夜の高校に侵入していたハリーの居場所がどうしてノーマンにはピンポイントで分かったのだろうか?
ハリーは放課後、学校へいくことをノーマンに伝えていたのだろうか?
もしかしたらスマホのGPSかなんかでハリーの居場所は24時間、父のノーマンにつつぬけという可能性もあるのかもしれない。
いずれにせよ、ハリーにとっての父のあり方を印象的に示すシーンだろう。
さて、精神分析を使うとこのような父の物語は解説が楽なので精神分析をベースにストーリーを紐解きたい。
まずシンビオートをラカン派ではラメラと呼ぶ。ラメラとは現実界の不気味な身体のことで形をもたず破壊できないスライムみたいな身体のこと。
この場合の現実界とは心的外傷や主体の死の世界を示す。
ハリーが治療で手にした新しいシンビオートの身体(エグゾスーツ)はいわば父の身体といえる。つまりノーマンオズボーンの原父的な独裁欲が息子ハリーの自律心を呑み込むことを象徴、布置するのがシンビオートなのだ。
父の欲望の前では、あたかもハリーは父の身体の一部、たとえば父の右腕とかに成ってしまい、自律した自己主体を生成できないということ。
※このことは即自として身体それ自体になることと等価、欧米的自由は対自にしかない
するとハリーの最後の決断とハリーが意識不明の昏睡と化した意味が明瞭となる。これは父の欲望によって窒息死されそうになったハリーの主体性が、父に抵抗するための行為と見なせる。というよりラカン派ではこのように解釈する。
父に対して自己を欠如させること、意識不明となり父から距離をおくこと、これによって主体の自律を目指す戦略なのだ。
よってシンビオートに体を乗っ取られ暴走するヴェノム化したハリーの姿はノーマンオズボーンのNYCに対する支配欲そのものと見なせる。隕石を手にし、NYCをシンビオートで支配してゆく姿は印象的だろう。
というわけでハリーが目覚めることの物語上の条件は、ノーマンオズボーンがニューヨークや家族に対してもつ支配欲を断念することにある。つまりスパイダーマンを逆恨みしたり、技術力でハリーを蘇生しようとしても決してハリーは本質的な意味では目覚めないということ。
だからノーマンオズボーンは妻の喪失を引き受け、自らの欠如を受け入れねばならない。そうしない限りハリーは助からない。
詳しい人向けにいうと、母の欠如を生み出すことで自己主体を実現するために乳児がミルクを拒絶する態度とハリーの意識喪失はまったく同じ。だからハリーの意識不明は精神分析的にはハリーの父への抵抗と見なせる。
ようするに父の欠如(父と自己との分離)がないことが問題なわけだから、ハリーは自身を父から喪失させることで、父との分離を計ろうとしている。
自己が主体的に生きるための父の欠如を作り出す。そのために彼は自ら進んで昏睡に陥ったのだ。
さて、このラインで本作を分析してゆくと、ほかの描写にも整合的な読解が可能となる。
それがMJとJ・ジョナ・ジェイムソン(JJJ)との関係だ。
ジェイムソンはもちろん原父のメタファーであるから、MJがデイリービューグルを辞めるのは父からの分離に相当する。そのためMJもシンビオートに寄生されるが、シンビオートを脱ぎ捨てて父の身体(ファルス)であることから離脱し、つまりジェイムソンから分離した自己身体へと生まれ変わる。
このことは父からの分離=辞職、によってピーターとの同棲に踏み切るMJのあり方によく示される。父からの分離なしに彼氏との同棲はないということ。この分離は父と娘の近親相姦の禁止とそれによる彼氏の成立とみなしてもよい。
では本作のもう一人の主人公、マイルズはどうだろう。
彼は、リーを憎み、リーと闘い、最後にはリーを理解する。またマイルズはリーのネガティブな精神世界で、亡き父デイヴィスとであう。リーは父の仇であった。
これについてはフロイトのメランコリー論から考えると分かりやすい。フロイトによると鬱病は対象喪失によっておこるという。つまり恋人などの大事な人を喪うことで、自分のそばから消え去った故人への怒りが生じるのだが、その攻撃心が対象不在のために自己自身に向き変ることで鬱になるという。
つまりリーは不在の父であり、喪失した父(デイヴィス)への怒りと密接に連動している。リーもまたマイルズにとってマイルズの父が布置されているわけだ。リーの精神世界に父デイヴィスがいたのもリー=デイヴィスを示すため。マイルズに戦う力を与えるリーの役割は父的である。
したがってマイルズとリーとの関係は、主体が自律的に生きるために必要となる父の欠如(喪失)を引き受ける態度を表象していると考えることができる。
ノーマンオズボーンを父、ハリーを子としたエディプスコンプレックスというパースペクティブで本作の脚本を読み解いた場合にはおおむねこのような読解・解釈が要請される。言うまでもなくハリーやマイルズとノーマンやリーの物語は現代人と現代社会の関係性のメタファーとなっている。
また本作のボスの一人、クレイヴン・ザ・ハンターは仲間だろうがなんだろうが強いやつを求めて殺害する典型的な原父であり、ハリーを呑み込む父ノーマンオズボーンに対応する人物だと分かる。
原父 | 子 | 分離結果 |
ノーマン | ハリー | 昏睡 |
MJから見た ジェイムソン | MJ | ピーターと 同棲 |
リー | マイルズ | スパイダーマン 継承 |
クレイヴ | スパイダーマン | スパイダーマン 生存 |
ヴェノム (父子融合) | ー | 消滅 |
さらに精神分析で分析すると世界を呑み込み支配しうよとするシンビオートが求めた隕石の正体も都合よく分析できる。隕石は精神分析では対象aとか現実界の物と見なす。
対象aとは、今回の分析の文脈に即せば、父から子供が分離するときに要請される、父の欠如(シンビオートからの分離)を表象する欠如として布置される対象のこと。
これは人間が言語化するさいに生じる人間の欲望の原因(対象)として理論化されるものでもある。
より正確には、対象aは父の欠如を示しつつ、その欠如を生める対象として幻想される欲望の対象のこと。
ようするにハリーが父に飲み込まれて父の身体の一部になることが、ハリーが父にとっての欲望の対象であることと切り離せないように、自身が父の欲望の対象として取り込まれることでヴェノム化が起きている。
このとき父がハリーではなく外部の社会的な象徴に欲望のまなざしを向けたなら、ハリーは父の欲望を完全に満たすことができなくなる。つまり子にとって父が欠如する。つまり父は自己の欠如をおぎなうべく外界の象徴を欲望し、そのことで子供の前から欠如し不在を生じる。
この不在が子の父からの独立を生じ、子供の主体性を実現するわけだ。具体的にいえば、父は自分ではなく、この社会(象徴)に何を欲望しているのだろうか、と父の欲望の意味を自分の頭で主体的に考えるようになり、そんな父の欲望(欠如)を欲望して社会へと自己の関心欲望をシフトし、これにより自己存在の社会化(象徴化)と主体化を実現するということ。
このとき、対象aは欠如を埋める父の欲望の対象であるから、もしこの対象aを主体が手に入れたり取り込んでしまったらどうなるだろうか。そのときは自分が完全に父の欠如を埋める対象aそれ自身ということになって父に飲み込まれヴェノム化することになる。
※対象aは父が自己に欠如したものとして欲望する外界の対象(欠如)であった、よって父や子が対象aを手にしてしまうと父の欠如が塞がってしまう
であるから対象aとは人間の根源的な語らう欲望の核でありながら、それは近づくことのできない対象なのだ。つまり対象aはつねに欠如していなければならない。もっとも分かりやすく喩えると、月が地球の周りをまわるように、人間主体は対象aの周囲をぐるぐると公転する存在なのだ。
等速円運動では中心に向かう力が向心力(引力)として働くも、接線方向へ向かい中心から離れてゆく力と向心力が拮抗して、中心との距離が縮まらない円運動を開始する。
これと全く同じ構造が人間の自律的な主体=欲望という運動の正体なのだ。
だからヴェノムが隕石を取り込むことは対象aに接近しそれを手にしてしまうことで、原父ノーマンオズボーンに取り込まれて自我を喪いヴェノム化することを意味する。そのため登場人物らは隕石を欲望し奪い合い、主人公たちは隕石を消し去ることに躍起になっている。
以上が本作に対するラカン派精神分析的な普通の解説になると思う。
※本当はノーマンは父の不在、想像的な父、あるいは母の現前というべきなのだが、一般人向けに、分かりやすくするために少し表現を変えている
まとめよう。
本作は父と子の父の不在であり欠如をめぐる物語である。すると父の欠如を引き受けるイニシエーションを突破したマイルズ、父娘の近親相姦的な関係を脱して会社をやめてピーターと同棲するMJ、原父ノーマンオズボーンから分離するために自ら意識不明に至るハリー、欠如として消え去る対象a=欲望の対象としての隕石の消失が物語の筋だと分かる。
これら本作の主題は全て、エディプスコンプレックス的であり、父からの分離としての主体の誕生によって体系的に説明可能ということ。
もとより上に掲載した画像を見てもらえれば、脚本家が概ね、父からの分離を企図して脚本をしあげたことは、ほとんど疑いえないと思う。ヴェノムが地球を支配しようとする欲望はヒンビオーとの欲望というよりノーマン(資本家や現代人)の支配欲を象徴していると観るのが妥当だろう。
ちなみに隕石にある渦巻模様はユング派ではグレートマザーの象徴とされる。渦巻は全てを呑み込む母性の象徴。前々作(Marvel’s Spider-Man)でユングが引用されていたことを思うと、その象徴的意味を知ったうえで隕石に渦巻模倣を描いている可能性もあるだろう。
さらにこの主題をもう少し深堀したい。
と、その前に、本作の脚本の個人的な不満足点を挙げる。
ストーリーの個人的不満点
序盤のマルコ戦、壮大なスケールでヴィジュアル的に栄えるバトルなのだが、マルコは以後、メインシナリオには絡まない。また一番、解せないのがピーターの立ち回り。
ピーターはスパイダーマン活動に気をとられすぎてバランスを欠いていたという感じのことがなんとなく作中の描写で仄めかされるが、ピーターの成長とか変化は本作ではほとんど描かれない。
だからピーターはシンビオートに寄生される前とシンビオートから自律した後で人格的な成長も変化もほとんど確認できない。スパイダーマンをマイルズに託すくらいしか変化がない。
これでは彼がシンビオートに寄生されて傲慢になったことに意味がない。
この観点でいうとシンビオートに寄生されるのはマイルズのほうがふさわしいのである。
サムライミ監督版のスパイダーマン3ではピーターは、シンビオートに寄生されるだけの影を持っていて、シンビオートとの対決を介して、自らの影と向き合い成長する姿が、かなり手の込んだ緻密な構造として描かれているのだが、それと比べると本作のピーターは、物語をすすめるための狂言回しに過ぎない気がする。
またMJの変化も会話でちらっと示されるだけにとどまり、少しインパクトに欠ける気がしなくもない。なんというか、それぞれの物語がバラバラでまとまりが弱い印象があるのだ。フェリシアもファンサービス的に出てくるだけで、メインシナリオと関係がなかったり。ポッと出で、そのあと一切絡まないキャラが多い。
ハンターの設定も少し雑で、ただの戦闘狂の集団がなんであんなハイテク技術をもっているのかさっぱり分からない。なによりクレイヴンがただのアホにしかみえない。戦闘マニアのサイヤ人みたいな山賊がなんでハイテク技術を使いこなし、軍用車両などを大量に保有しているのかまったく説明がない。
かなり脚本も面白かった龍が如く8をこの前にプレイしていたせいか、とにかくシナリオの物足りなさを強く感じてしまった。平均的なレベルは超えているし、よい脚本とは思うのだが、どうしても他のゲームやサムライミ版の映画スパイダーマン3と比較すると、僕には物足りなく感じてしまう。
NYと父の物語
さて本作の序盤のミッションでは、フェデラルホール前で強盗とバトルになる。
そこにはジョージワシントンというアメリカ建国の父の像がある。
ワシントンはインディアン殺しで有名な初代大統領だ。侵略して建国し、土地を開拓して都市を築く。どこかノーマンオズボーン的なものを感じる。ノーマンオズボーンは資産家で科学者で経営者。
もっとも本作のフェデラルホール前のイベントに、ワシントンとノーマンの同一性を示す意図はないだろうが。
だから強引で個人的な解釈になるが、ノーマンはアメリカ的な資本主義やワシントンの欲望(自由)の象徴にも見える。
ネットで見つけた面白考察(閑話)
本題に入る前に閑話。
最近、秋山未有というモデルが書いたネット記事で日本とアメリカのヒーローの違いについて考察しているものを読んだ。
その記事によると、アメリカのヒーローは自警的で個人が活動していて、日本では公務員とかの組織に属している。
なるほど確かに言われてみれば、と思う。怪獣8号も公務員としてヒーローしてるし、僕のヒーローアカデミアやワンパンマンなんかでもヒーローは公的組織に所属するものとして描かれる。またチェンソーマンも公務員であった。
一方スパイダーマンは個人活動、バッドマンもそう。これは興味深い。
この違いからなぜアメリカでは父の物語となり日本ではならないのかをある程度説明できたりするが、小難しくなるので今回はやめよう。
また、アメコミヒーローには科学者や科学の力がヒーローの力としてよく登場する気がする。たとえばバットマン、アイアンマン、キャプテンアメリカらは科学力に頼ってヒーロー活動をしている。
スパイダーマンも科学によってウェブを発射して戦い、ノーマンもまた科学者であり息子を科学によって救おうとする。科学に関する信仰がアメリカに根強いことを示しているのかもしれない。
蜘蛛に噛まれて超人化という設定も蜘蛛が遺伝子を書き換えたとか、科学的な説明になるのがアメリカヒーローの特徴に思う。
呪術廻戦のような霊力とかはアメリカヒーローではあまり観たことがない。
あと、本作ではヴィランのリーが改心する。悪が改心し仲間となるあり方は一神教的ではない。この構造は日本神話などに特徴的なものとなる。前々作でリーはユング的モチーフをもっており東洋的な文化的背景をもっていた。
本作でいうバランスというモチーフも、おそらくは、リーの東洋思想、道教のタオから来ている。ちなみに陰陽、善悪のダイナミックなバランスを重視するタオは、このブログのアイコンのマークにもなっている。
亡き父の墓標
本題に入ろう。
ハリウッドでの王道の父と子の物語を示したい。
するとやはり映画スパイダーマン:ホームカミングが欠かせない。ホームカミングでは父としてアイアンマンが登場し、子としてのスパイダーマンが父アイアンマンから与えられる厳しい試練を乗り越えて、最後は自律してゆく、という王道(定型)の物語が展開される。
ホームカミングを一言でまとめると、父への反抗期を通して、最後は父からの承認を得て一人前になり子が自己主体を獲得する物語といえる。
だからホームカミングは日本で言う古事記のスサノオと大国主の物語に近い構成となる。
本作の特性を探るうえで父と子の王道であるホームカミングとの比較は欠かせないように思う。
実際に比較してみると、同じ父からの分離を描きつつ両作品にはかなりの違いがあることが分かる。まずホームカミングでは古き良き父親としてアイアンマンが描写されている。だから父からの自律といっても、より本質的にはそれは、父からの承認と父なる世界への参入という仕方をとる。
より精神分析的にいえばホームカミングは父の承認による母からの自律と欠如の構成という構造にある。
対する本作は、そのような子供の主体性を承認する父はあまり登場しない。しいていえばリーがそれに近いかもしれないが、本作の父はオズボーンやクレイブンなど、全てを呑み込むタイプの原父であり子供を承認するような父は、喪失された存在としてしか生じない。
たとえば、前々作で亡くなったマイルズの父は古きよき父であったが、本作では故人としてしか登場しない。マイルズの墓参りのシーンはそのことを印象づけるものがある。墓碑銘に刻まれたFATHERの文字はアメリカにおける承認する父の不在を感じさせなくもない。
ピーターについても、古き良き父であるベンおじさんはすでに死んでいる。
古き良き父=アイアンマンやデイヴィスはすでにいないのだ。
その代わりに登場するのは子を呑み込む原父(クレイブン、ノーマン)ばかり。これはもはや僕たちが主体的に生きるための分離の作業に父を使うことができなくなったことを示しているのかもしれない。
古きよき父を素朴に物語に描くことに創作者がなんのリアリティも感じることができない時代となったのではなかろうか。分離不全で意識不明に陥るハリーはアメリカ(NY)の現実を反映しているかのようである。
この観点で考察してゆくとMJのイニシエーションはとくに興味深い。
※イニシエーションとは子どもが大人になるなどの人生の節目に生じる精神的な変容を基礎づける心理的イベント全般をさす
MJは会社を辞めることで主体性を回復するからだ。既存の人類のイニシエーションでは、会社に入社することがイニシエーションであり、これにより分離と主体化をしてきたわけだけど、もはや父なる社会は古きよき父ではなく、オズボーンという資本家(原父)に支配され、社会的参入は主体の死以外のなにものとしても実現しえないのかもしれない。
だから現代社会では脱社会化なしには主体化ができないということなのかもしれない。フロイト流の伝統的な解釈(社会化、意味付け、疎外)に頼った精神分析の無効化が示されていると観ることもできよう。
本作のマイルズを振り返っても、彼の成長はピーターの後を継いで一人の単独的なスパイダーマンになることとして描かれており、プライベートでの社会的参入の描写は希薄となる。彼が終盤にユニーク(固有)なコスチュームをまとうのも街の象徴(鏡像)としてのスパイダーマンが定型をうしなって単独化していることを思わせる。
さて、他の記事で詳しく論じているが、現代における父性の消失というのは臨床心理学の論文ではお馴染みだ。
またこのような脱社会化(脱意味化、辞職)による主体の再建をラカン派は逆向きの解釈とか、一者の単離と呼び、精神分析の最終地点に設定している。
さて、この観点でいえば、ピーターの回想シーンが非常に重要なものに思われる。その回想シーンでは、ピーターがまだスパイダーマンになって年月が浅い時期、デイリービューグルにスパイダーマンの写真家として面接にいく。
電話で遅刻しそうなピーターにむかって、辛口なことをいうJJJ。そこではニューヨーカーたるものかくあれ、という定型的な説法が語られるのだが、なんだかんだJJJは遅刻するピーターを最後まで待っており、ピーターの持参した写真も起用する。
ここには古きよき父の姿があるように思う。脚本上はJJJはMJとの関係ではクレイブン的な原父として機能しているように見えるが、スパイダーマンとの関係でいうと必ずしもそうではないのだ。
そしてスパイダーマンへのJJJの辛口批評も法のもとの平等に根拠をおいている節があり、その限りでは正当なのである。
完全な正義などないということ、スパイダーマンは決して無欠ではないということを彼は主張している。とすれば、JJJの批評はスパイダーマンに主体の自由を保障する欠如を生み出しているといえるだろう。あるいはジェイムソンがまとうマッチョイズムは古き伝統のシンボルであり、現代社会においてこうした伝統的社会規範(父)はもはや調和的に存在することができない、ということなのかもしれない。
もし、NYCが、つまりこの社会が父性を欠くという歪みを解消するとしたら、その可能性の経路の1つは、JJJのようにニューヨーカーのあり方を説き古い規範(定型)を説法しつつ、個々を尊重する父がなんらかの仕方で弁証法的に実現することにあるのかもしれない。
本作のシナリオには、脚本家がこの時代を生きる人間であることの痕跡が、こうした形で刻まれているように思う。この時代の内に生きて、物語をつむぐ場合、もはやホームカミング型の古い型の物語は、すくなくとも素朴な形式としては生じえないのではなかろうか。
科学と主体
科学は統計などによって人間の生命を直接に扱うところまで来ている。このことに関連するが、アメリカの精神医学は歪んでおり、心という主観・主体を客体化し科学によって解明・制御することに狂奔している。ウェアラブルコンピューティングによる精神状態のモニタリングや脳へのインプラントの研究もアメリカでは行われつつあるのだ。
テックが人間の心を脳として管理、制御、支配する不愉快なディストピアがそこまできている。
本作でいえば、ハリーの命を救おうとするノーマンは科学者で、科学によって息子の命をコントロールする存在といえるだろう。このような科学の無機質で直接的に快楽(生命)を制御しうる言葉をラカン派の哲学者ジジェクは現実界に属する言語として捉えている節がある。
平たく言えば、科学の言語(技術)は、欠如(対象a)を彼岸にもつ社会言語的な意味と価値の地平と異なる位相にあり、欠如なしに主体であり命を直接表現できる言葉だということ。
とすると、どこかに度の過ぎた科学信仰への問題提起が本作には潜在しているのかもしれない。科学の言葉が欠如を埋めてしまう作用に対して、主体が抱く心的外傷としての死が本作では表象されたと観ることもできよう。
科学万能が社会を支配するとき、そこには主体の死が待っている。
人は生きようとして死へと向かっているのかもしれないのだ。ノーマンがハリーという主体を生かそうとするあまり、ハリーを昏睡させてしまったように。
科学万能論、テクノロジー楽観主義は科学の言葉がなんの欠如も持たないという誤認の効果なのである。そのような言葉においては人は自らの自由の死を生きるしかない。
おまけ:対幻想とスパイダーマン
吉本隆明の言葉に対幻想がある。これは人間には対幻想と個人幻想と共同幻想があり、これらの幻想では位相が異なるという理論だ。
つまり共同幻想とは間主観的、共同主体的な幻想を指し、対幻想は恋愛や家族への幻想、個人幻想は個人的な幻想を示す。
国家も共同幻想ということになる。
全ては幻想だという前提がこの考えにはある。全て幻想ということについては、たとえば、汚れを考えよう。よく汚れを衛生的で科学的な概念と思い込んでいる人がいるがそれは間違い。たとえば唾液は汚いだろうか。
口のなかにあるときは汚くないのに口から出ると汚くなる。
また下着をアウターの外に着けるといくら清潔な下着でも不潔感を喚起する。また人は唾液を完全殺菌して無菌で衛生的にしてもその唾液を飲むのは汚いと思うだろう。自衛隊がカレーを衛生的なスコップでつくったら炎上したのも、汚れが幻想だとうことをよく示す。
汚いという感情は、実体のない幻想であり意味と価値の審級に属しているということ。というより全ての概念も突き詰めれば幻想に過ぎない。
※汚れは境界侵犯物に対して生じる、たとえば唾液は外にでると自分と非自分の境界が曖昧となる、カレーのスコップも日常の連関構造から逸脱した使用により、境界が侵犯されている。内と外の幻想境界秩序を壊すものが汚穢とか汚れ、禁忌と言われるのだ
そんなわけで家族愛とか恋愛は対幻想と言われるのだが、共同、対、個人で幻想の位相を峻別するのはこれらが互いに独立した価値審級をもっているため。
だからこの考えは仮説ではなく現象学的な事実としてとりだしうる。
また原初においては母子一体の世界があるだけなので、対幻想しか存在せず、したがって対幻想、共同幻想、個人幻想は融合していたという。
さて、ここからが面白いのだが、文明が発展し、共同幻想と個人幻想が分化してゆくと、この2つの分化を補い一致させるために対幻想がつかわれたという。たとえば巫女は対幻想の相手に共同幻想を選択することで対幻想を媒介にして共同と個を一致させた。
さらに山本哲士によると、現代では学校で個人が国民になるべく共同規範としての共同幻想を学ぶわけだけど、このとき個人が共同幻想を組み込むさい、先生ー生徒という対幻想が使われるという。
よく小学生が学校の先生をお母さんと言い間違える現象もここから説明できるだろう。
※山本はさらに学校幻想の構造にまで詳細に踏み込む、そこでは巷で言われる幼稚な不登校論争や学校不要論とは知的レベルが異なる高度な考察がなされていて興味深い
また夫婦が結婚すると性が共同幻想に組み込まれ、賃労働者としての男と家事育児の女というふうに経済的性別化が起きるという。するとマルクスにおける労働革命も資本家と労働者での対幻想の軋轢が問題となっているという見方ができるのだが。
以上から本作でMJとピーターが同棲することは、彼らが対幻想、対関係を媒介に共同幻想に組み入れられ社会化するということ。そのことで性が経済性別化をなすということ。性のあり方、結婚のあり方は従って共同幻想=社会、国家のあり方と密接に関わり同時に個人幻想とも関連するのだ。
この観点から今後のスパイダーマンの物語の展開を考察すると面白いかもしれない。また昨今のジェンダー論争を洞察するうえでもこの論考は欠かせないと思う。
終わりに
どうも考察がこれ以上になくこれまでこのブログが主張し続ける内容を紋切り型で反復したマンネリ化が起きてしまった。
しかし、今の僕にはこれより整合性の高い考察を展開することは難しいようだ。マンネリ化を避けるため、まだ記事では触れてないディスクール論をベースに分析しようとしたり、ユングで考察しようともしたが、どうもしっくりこなかった。
かつてフロイトは自身のエディプスコンプレックス理論で様々な神話が解釈できることに喜んだという。ところが、弟子たちが色んな神話などから毎回、同じパターンで同じエディプス構造を取り出してくるもんだから、最終的にフロイトはこの事態について、かわりばえのない退屈な収穫と嘆いた。
このままいくと、フロイトと同じ轍を踏みそうである。問題は僕の能力であり、物語の意味は本来、無限なのだ。
整合性が高く、しかもマンネリ化しないコンパクトで新しい発見が必要と感じている。整合性を落とせば奇抜な考察は乱造できるだろうが、それでは意味がないのだ。またある程度コンパクトでないとブログ記事にはむかない。
ところで最近、吉本隆明の共同幻想論について山本哲士の本で学んでいる。吉本は僕の想像を超えて、深い理論を構築しており作品読解の新しい地平を切り開くポテンシャルをもっているようである。
しかし吉本・山本の理論はかなり重い。十分に論理を納得的に消化するにはかなりのコストがかかりそう。
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