うたまるです。
最近、久しぶりに論理学的論理(自同律、排中律、矛盾律)についての論理(メタ論理学、心理学)の考えをまとめてみようと思いました。
これらについては時間の構造化によって可能になっていると考えると、ある程度、説明することができます。またここが分かると自然科学、ダーウィニズム、経済、認識論問題、自由意志、国家といった問題を体系的に理解可能となります。
ブログを始めてはや一年と3ヶ月。そろそろ僕のブログにも固定のマニアックな読者がいるのかもしれないし、いないのかもしれない。けどいるかもってことで今回は読者に甘えて、あまり手加減しない文章になりました。どうせ死ぬほど分かりやすいバーションで書いてもPVも伸びない主題なので、今回はとってもハードな記事になってます。
木村敏とかラカンとかユングが好きな人にとっては、それらの内容の理解を深めるのにちょうどいい歯ごたえの記事です。
※この記事は自分のためのまとめ的な側面が強く、過去最高難易度に、また考察が今ひとつのパートもあり、僕にとっては価値のある内容なのですが、、、
※ただしイメージの生成原理の考察とか興味深い内容も多々収録!この記事を理解してもらうとラカン、ユング、木村敏の理論部分をかなりの程度で理解可能になるはず
この記事の構成
この記事は僕の最近の研究成果をまとめたものである。なので僕の代表的理論である時間理論を解説した当ブログの以下の未来予測記事の論考がベースとなっている。
※↑の未来予測記事について書いたときはまだラカンの理解が浅く、統合失調症論などを含め部分的に考察に誤りや甘さがあるのだが、そのことを考慮しても、僕の理論が誰にでも分かるようになっている
メタ論理学論考の狙い
メタ論理学というとポストモダニストがやる形式論理の徹底を介して、そのことでカントのアンチノミーのように、そこからアポリアを取り出し形式論理の不可能性を論証してこれをメタ論理学として主張する茶番がある。
この記事で試みるメタ論理学論考はそのような馬鹿馬鹿しいものではない。ここでのメタ論理学とは自同律、排中律、矛盾律という論理学の論理法則がいかにして生成されるかについての心理学的論理である。
さて、このような考察はいかなる意味をもつだろうか。それはまず主観客観の一致不能という認識問題についてこれを解消すること、あるいはその解消が現象学に実現しているのになぜ不可能になっているのか、その原因を突き止めること。そして認識問題が自由意志における誤認と相同性を持つことを特定し、人間の自由(実存)に関する問題として認識論問題を扱いつつ形式論理主義の欠陥をあきらかとすることにある。
書きながら書くことを考えるフリースタイルのこの記事では、まず実存論的時間の構造化の論理と主客の分離を意味する現実吟味の成立の過程を示す予定だ。
そこから客観を構造化する法則性として同一律、排中律、矛盾律が生成されることを明らかとする。
さらにこれと自由意志の成立、能動的主体性(主語的同一性)の成立との相同性を確かめ、近代主体という能動性がもつ誤認の構造を確認したい。
このことに付随して身体の所有と身体との差異としての言語の意味論が展開されるかもしれない。
どのくらい網羅的に解説するかまだ決めていない。
どうやって要領よく考察を展開するか、過去記事との重複をどうして処理するのか、骨が折れるだろう。
※記事の内容に重複があるとブログの評価がGoogleのシステムにより下げられる
ともあれ、言語学における形式論理主義が言語を形式論理によって基礎づけるという狙いが認識論的誤謬や自由意志の錯誤に基づく存在論的顚倒に過ぎないことがこの記事では暴かれるだろう。
またヘーゲルは表象を概念(哲学論理)の運動へと還元することを示したが、この本質は僕の理解では能動と受動、中動を巡る想像的誤認を解消し、欲望の弁証法を開くこと、すなわち存在論的差異を開くこととほぼ同義である。
この問題を解くことは現代のくだらない分断や資本主義の矛盾を解消することにつながる。少なくとも何が根幹的な問題かは明らかとなる。
ようするに、国民の一定数がここでのロジックをある程度、理解しさえすれば、それで社会の問題は解消へと向かう運動を開始する。社会論を論じるさい、多くの有識者は自由と客観に対する想像的誤認から反現象学的な主観客観パラダイムで思考を展開することで、くだらない形而上学的循環(独断論と相対主義のシーソーゲーム)に陥っており、これによって社会に関する人文学的言説が無効化されてしまっている。
この状態を解消しない限り、問題はなにも解決しないと考える。
論理学の成立と分離
自同律(A=A)、排中律(あるモノはAか非Aかのどちらか)、矛盾律(あるものはAでありかつ非Aであることはできない)
この3つは論理学は数学と客観法則の基本となる。
3つの律は、論理的抽象法則なので時間性を持たないのだが、しかし3つの律が成立可能となるためには、時間の一方通行的な連続性が構造化されねばならない。
というのも、まず生の体験世界を人間は生きており、その生の時間世界のうち、類身体性に相関する知覚の間主観的普遍性において成立する現象を客観として主観から分離し、そこからその客観系を支える存在構造を抽象論理化したものが論理学だからだ。
したがって、時間存在としての日常の生の体験からいかに客観系が構造化(分離)されるか、という心理学的・発生的な分析なしに論理学の根拠を基礎づけるメタ論理学を考えることはできない。
生活現実を無視して、抽象的な論理学法則空間がアプリオリに与えられていると考えるのは明らかに荒唐無稽なのはいうまでもない。それは神が言語を与えたというくらいに馬鹿げている。
というわけで時間という観点から以下にこれらの構成要件を確認しよう。
同一律と時間
最初に、これはいらないかもしれないが、ためしに客観的な論理で同一律の条件を確認したい。
AがAであるためには、Aに一貫性であり同一性が必要となるが、同一性とはあるモノがどの瞬間にも同じモノであるということなしには考えることができない。
たとえば、ある特定の対象Aを想起したり、目の前に知覚したとする。このときその対象Aを、AはAである、とか、AはAと同じであるというためには最初のAとその後のAが同じである必要があるが、もし、時間に連続性(同一性)がなければこれは成立しえない。
ある瞬間のAと別の瞬間Aが同じという場合、ある瞬間と別の瞬間とが時間的連続性(変化空間の同一性)がなければ、成立しないからだ。
このとき、A=Aとは、そもそもある瞬間のAが同じ瞬間のAと同じだという意味ではないのか、という疑問があるかもしれない。
しかしこの場合も時間の連続性なしに同一律は成立しない。
というのも、ある瞬間を対象化することで、AはAとして対象化されるわけだが、対象化された瞬間は既に痕跡であり、ある瞬間と今とはズレている。つまり人間の意識は今それ自身のうちで今を対象化(客体化)することはできない。するとあるAの瞬間は今においてある痕跡としてのAと異なるし、そもそもAとAとの比較も成立しない。
繰り返すが、そもそも同一律とは無時間性の数学的抽象概念ではないのか、という疑問もあろう。しかし既に冒頭で指摘したように、時間のうちに存在する日常場面におけるAはAであるの成立を抜きに抽象的概念法則としての数学的同一律が生じることは考えられない。
数学法則は日常体験のうちで主観と分離して成立する客観(ノエマ)の構造、法則性の取り出しから成り立っているからだ。もしそうでないなら論理学的論理法則は全くの偶発的で恣意的な法則ということになってしまうし、どうしてそれが生じたか発生的なことも問えなくなる。
なので次に、より心理学的な観点で検証しよう。
同一律と私
論理学における対象AがA自身と同じということは、AはBでもCでもなくAという意味である。論理学的同一律は排中律、矛盾律とセットであるからこれはゆるがない。
さて自他未分の始原より、私という自意識が析出し、これが自同律を構造化する。つまり自他の分離によって私は他者ではなく私となる。
ここに自は非自(他)ではなく自である、という矛盾律の成立が確認できる。これはまた世界は自(快)であるか他(不快)であるかのどちらかである、という排中律を生じるだろう。このとき自は自であるとは自己の時間的な同一性を必要とする。
しかし心理学的にはこの議論はこんなに単純には記述できない。そもそも主語の私とは主体を指示する語であり、その意味では客体(対象)ではない。しかしそれでいて私ということによって対象化されている。ここに同一律や排中律などの構造化と時間の構造の秘密がある。
次に実存論的な観点から、人間の自己同一(自同律)を確認しよう。
私の同一律と主語と述語
論理学A=Aは日常体験における『AはAである』の成立なしには生じ得ない。
さて、AはAである、というとき、Aである(存在する)、は述語であり行為的である。つまり行為的意味であり、あるということ、Aを対象化する現象学的志向性であり欲望における対象化の動きが、~である、という事態を示す。であるとは関係企投的な道具的存在性の現れであり、Aはという主語のAは、事物一般的な客体的Aを示す。
だから統合失調症などでは私は私ではない、という事態もある。これは私という既知の客体、歴史言語的身体に、そのつどの主体性が収束せず他性を帯びることで生じる。カント的に言えば、純粋統覚がないということ。
フッサールでいえば、純粋自我が私という自己性に向かわず発散してしまい純粋自我の同一性がない状態を示す。
さらに現象学的にいえば自己の同一性がないとは、エポケーされたままで既知のノエマ(客観、客体)に存在であり欲望が収束しないということ。
したがってAはAである、というのは言語(シニフィアン)にそのつどのAの対象化作用であり道具的意味性が収束していることを示す。
ハイデガーでいえば、そのつどの関係企投的な個別的意味(道具的存在性)が言語の一般的意味にその差異を同一する、このことで私は私である、が可能となっている。
なお、個別的意味(関係意味)と一般的意味との差異を存在論的差異と呼ぶ。
木村敏が時間論においてコトはモノを蒙るとしたのもこの差異の同一を示す。
※これまで当ブログではハイデガーの道具を客体としての一般的な機能をもつという意味と実存的な気遣い連関を生じる実存的意味という2つの意味で使っていましたが、これは僕の誤読で、ハイデガーの道具は後者の意味に限定されます
※存在論的差異は、コトとモノとの差異というニュアンスも含む
このことはカントの統覚からも分かるように自己の自己同一性であり自己の個別化原理の正常な作動を意味する。
すでに確認したように、AはAである、ということによって時間の同一性であり連続性が成立し、これによってAはA、A=Aが可能となるから、AはAである、という同一律がどのように可能となるかを心理学的に抽出することで、論理学の秘密を解くことができる。
また、ここでは同一律を、AはBでもCでもなくAとしているから、排中律も矛盾律も同じ時間的条件をもつ。
少し小難しくなったかもなので、すでに以下の議論は当ブログの他記事で書いているが、ここは内容の重複を恐れずに、少しだけ普通の人にも分かるように説明してみる。
まず、私は私である、とは、この記事をごらんの皆さんの目の前のスマホが、皆さんにとって、いつもと同じ皆さん(自分)のスマホである、ということの成立と同義である。
これはカントの統覚の考え方の基本にもなっている。
※統覚とは自己が認識する対象や表象の全てには私が考える、が刻印されているという考えで感性と悟性を繋ぐ作用だがカントは統覚をアプリオリにあって人類に普遍的なスタティックなものとした、しかし現実には子どもには事実、統覚はなく、統覚は動的で心理学的構成条件をもっている、精神分析の優れた仕事の1つは統覚の構成が現実吟味として記述されていることなのだが、このことに気づいている人を僕は見たことがない
つまり、もしいつもの自分のスマホが視界に入り、その感覚与件から欲望や気遣いが喚起され、スマホがスマホとして対象化されるさいに、その現象学的志向性(欲望、純粋自我)に同一性(統覚、自己所属性)がない場合、スマホは意味不明な何かとしての無意味として対象化され、私の目の前のスマホはスマホではない、という同一律の崩壊した事態となる。
※この無意味な対象・表象をラカン派では現実界のシニフィアンと呼ぶ
人はこの同一律の崩壊をして狂気と呼ぶ。
さて、このときスマホならざるスマホの相関者として生じる私という存在もまた、自己の言語的な既知性と歴史性から排除され非自己化する。つまりカント風にいえばそのスマホは私は考えるの既知性の刻印を喪う。だから統覚なき表象においては、私は私ではないとなる。
このとき自己存在である私の言語的な既知性は自己の身体的像によって規定される側面がある。たとえばガタイがよく厳つい見た目の身体の人は、その内面も猛々しいものが社会から言語的に期待される。より普遍的にいえば性役割などは身体の性別的差異によって世間から要請される。
言語は社会的なものだから、自己のあり方は身体を介して社会からの一般的な期待や要請(言語)によって抑圧、方向付けされる。とりわけ現代ではバイオメトリックスなど自己のアイデンティティは客体身体の生体データへと還元され、そしてその客体身体の同一性に不随して内面人格であるつどのあること、欲望、超越論的自我の同一性が期待、要請される。
※後に身体所有と時間と言語構造を定式化して論じるので、身体性の説明を入れてます
このように自己自身と他者に対象化されるところの自己の身体像には、これまでの社会からの要請などの歴史性として、主体内面(身体像の意味)に既知の方向性が規定されることとなる。
いわば身体的自己は言語においては、なんらかの見た目印象的かつ歴史的な内面的自己表象(男らしさ、女らしさ含む)を固定的に要請する。このとき内面的自己表象(人格表象)をノエマ的自己、客体的身体像を身体的自己、自己のつどのである(統覚、純粋自我)を、ノエシス的自己と呼ぶ。
※ここでのノエマ、ノエシスはフッサールのものでなく木村敏のもの
よって身体性に付随し身体を規定する言語体系から、ノエシス的自己が非自己化して逃げてゆくことで自己の同一性が崩壊するわけだ。つまりそのつどの、である、が私という言語空間の体系に位置づけられる既知の自我イメージ(ノエマ的自己)から逃避し、自己の同一性が崩壊する。
このことは統覚や言語化の破綻を示し、である、というノエマ的意味へと向かう意味作用=現象学的志向性が言語対象である既知のノエマへと収束せず、非言語化し無意味(絶対的未知性)を形成する。繰り返すがラカン派ではこの無意味を示す言語を現実界のシニフィアンと呼ぶ。
※現実界とは象徴界の外部を意味し、象徴界を基礎づける審級、1つには純粋なコト、永遠の今の地平とも見なせる
さて精神病理学には親密な未知性(木村敏)という概念があるが、これは初めて見る風景にも、昭和っぽいものにはノスタルジーを感じたりすることをしめす。つまり対象が未知であってもその意味としてのイメージであったり雰囲気としての意味であり欲望(ノエシス的自己)の側は同一性(統覚)を持っているということ。だから未知の対象を見ても人間の自己性は保たれる。これを精神分析では父性隠喩と呼ぶ、この隠喩の機能は転移(神経症)の条件になっているので統合失調症には転移がないと言われる。
そもそも懐かしいというのは、過去の思い出の表象が喚起するノエシス的自己性が、眼前に現前する対象に生じることをいう。フロイトのいうリビドー備給とは現象学的にはこの意味で述語的同一性として、もとあった表象の述語性(ノエシス的自己、~である)が新たな対象表象の述語性と同一、反復する事態を示す。
フロイトがいう対象愛とは、したがって表象の死、喪失における意味(霊魂)の現前のことであり、この意味での対象の死を意味するだろう。
※論理学的同一律は言語論上は主語的同一性といえる、述語的同一性とは論理学的同一性とは異なる実存的な意味ベクトルの同一性を示す
人がつど変化する空間であり時間に同一性を持てるのは、対象の実存的意味の側であるノエシス的自己の同一性(述語的同一性)による。そしてこの同一性は、親密な未知性という現象が示すような時間の今における過去の述語的意味面(ノエシス的自己面)の現前性と反復可能性=同一性とに支えられる。
したがって時間的な空間の同一性もまた、ノエシス的自己としてのリビドーの同一性を条件としている。時間の連続性とは今の反復においてあるといえるだろう。
しかし、過去の述語的意味の反復(現前)にあって、それでも過去が過ぎ去ってないと言われるのは、現代的な主語的同一性(ノエマ的同一性=論理学)の言語空間においてである。
ところで言語空間という言い方もあれなので、以後は言語空間をラカンの言葉をかりて象徴界と呼ぶ。
念のためよくある勘違いをここで確認しよう。よく自己同一性を身体などの客体(ノエマ的身体)の同一性と混同している人がいるがそうではない。もしそうなら、精神が入れ替わるというドラマやアニメでよくあるフィクションが成立しなくなる。
自己同一性とは対象化作用としての主体であり欲望、純粋自我(ノエシス的自己)のノエマ的自己へのつどの同一によって可能となる。これはそのまま時間の連続性や反復性と密接に関わる。
ちなみに中身が入れ替わるというのは、ノエマ的自己が異なるノエマ的身体を持つという事態を示し、ノエシス的自己のノエマ的自己に対する同一性は揺るがない。
さて精神病理学では、私であり、私の相関者である対象の同一律(自己同一性)の崩壊を統合失調症と呼ぶのだが、この現象は分かりやすくいうと、ノエマ的自己・ノエマ対象、つまり既知的な客観概念としての客体に、その客体の在る(である)ということであり、述語行為的意味が収束しないことを示す。
この事態は象徴界の客観一般的な意義連関構造(言語記号の差異体系)から主体(欲望、差異それ自体)が排除されることで生じる。
※ラカンはこの事態を母の言語に欠如がもたらされない事態として読み解き、これを父の欠如、父の名の排除として定式化し、これによって述語の同一性・反復である隠喩が形成されなくなると考えた
つまり同一律の破綻の1つの形式は自己主体を既知の客観系であり公共系である象徴界に定位できない事態を示す。
※離人症に於いては私は私であるというとき、である、が生成不全となり統合失調症と異なる形で自己性が崩壊する
※この議論でラカン派に欠けるのはイマジネールな古代の象徴界システムの洞察で、ユング派はそれをよくやっている
議論をまとめよう。
主語的同一性(A=A)を支えるのは、述語的同一性(Aである)である。
述語的同一性が破綻するとAはAではない、という意味不明な事態になり私の自己同一性が喪失する。この事態は述語性(ノエシス的自己)が主語的既知性であり歴史性を拒絶するため。
このとき主語的対象とは客体=ノエマである。
後の議論を先取りして言えば、ノエマの可疑性(欠如)が奪われることで象徴界が主体の自由を押しつぶすように作動してしまい、これによってノエシス的自己が言語外(現実界)へと放逐されてしまうことで自同律が崩壊する。
※ラカン派のS1=単独的シニフィアンとは、木村敏でいえば非自己化したノエマ的自己を示す
言語とコト
ではここで同一律を可能とする時間の構造を確認したい。
先ほど、私は私である、とは私というノエマ(言語化された対象)に純粋自我(私の意味化)が収束することだと示した。
さて、体験世界の同一律が破綻するのが統合失調症であるがこれは病碩学などの研究によるとヘルダーリンが人類最初だという。ヘルダーリンはヘーゲルと交友があり、18世紀末から19世紀の人物だ。
つまり18世紀以前に人類に統合失調症はない。
※神経症も同じで近代以前には存在しない
ということは18世紀の言語空間(象徴界、主語性言語空間)が統合失調症を可能とした、と考えることができる。じじつ古英語には主語は少なかった。
余談だが21世紀に入り、今現在に至るまで急速に統合失調症は激減している。軽症化や普通化が起きており、発症しない統合失調症が過半数の現代人だとする普通精神病論は根強い。
※理屈を理解する人にとって普通精神病論は説ではなくほぼ事実だと分かる、しかしそもそも頭の弱い専門家が多すぎてコンセンサスが取れない。頭の弱い人は自分の理解できないことは間違いという法則を発動するので学問を破壊している
したがって近代主語的な象徴界における論理学的同一律(排中律、矛盾律)の成立とその破綻としての統合失調症は表裏一体であり、ともに近代に成立した形式だとえる。
しかしここで論理学とは紀元前にアリストテレスによって整理されたのではという反論もあろう。あるいはピタゴラスは数学を使いこなしたとか。たしかに論理学的な同一律それ自体は紀元前からある。しかし当時は論理学は一般には支配的な法ではない。事実、古代ギリシャの言語表現を見ても、述語的同一性が優位であった。つまり当時は論理学的同一律は、数学的言語などの特定分野においてのみ成立する世界観であったといえ、そのため統合失調症になる人はいなかったのだ。
日常言語における主語的同一性の支配力があって初めて統合失調症の条件を満たすことは言うまでもない。
少し難しくなったかもしれないから、分かりやすく述語面について確認しよう。
さて述語的同一性が優位の古代的象徴界とは足が鹿のように速い人に対して、彼は鹿だ、という象徴界システムだ。
現代人であれば、彼は鹿のように足が速い、といい、鹿はあくまでも比喩として規定され、存在の本質は主語(彼)にあるとされるが、古代の言語世界では彼は鹿それ自体と同一視される。つまり主語客体ではなく、その存在(リビドー)であり行為的意味(主体、印象、ノエシス的自己)の側こそが実在とされたわけだ。つまり逆に言えば、主語の同一性こそが中心となるのが近現代の象徴界となる。
このことはイタコなどのシャーマンの憑依に関する現代人と古代人(スピ系)との対応を考えると分かりやすいだろう。
科学的啓蒙主義を信仰する現代人の言語世界では、イタコの憑依は単に芸であって、身体ノエマ的同一性(主語的同一性)のあるイタコが別人になるなどあり得ない、と考える。しかしスピ系と呼ばれ啓蒙主義者から迫害される人たちは、イタコに別人が憑依した、と考える。つまりイタコはイタコではない、となる。
両者の違いは両者の象徴界の構造の違いに起因する。啓蒙主義者にとって象徴界は単一の欠如をもつニュートン時間構造(主語的同一性の象徴界)か、その欠如以後において欠如を埋めてなりたつ非定型発達構造かのいずれかであり、古代系は欠如がなくかつ複数形の断絶(今の充溢)をもつ異なる象徴界を生きている。
いうまでもないがどちらの象徴界システムが正しいとかは一概にはいえない。どちらも厳密には妄想である。これは厳密論理的にそうだということ。一般の日本人はあまりに権威主義なので、科学的世界認識を中世のキリスト教徒のように絶対化してしまっておりこのことをいくら解説しても理解しないので僕はうんざりしている。
※ただし、もし一般意志=自由の相互承認による万人の公平と自由をなす世界を目指すなら素朴な宗教的象徴界は断念せねばならない
ここで古代の言語を考えるのに日本語象徴界は分かりやすい。日本語は主語がなくコト性の言語だからだ。
たとえば芭蕉の句、古池や蛙飛びこむ水の音、これは外的な状況を示す文であるが日本人はこの景色の記述から共通のコト(述語的意味性)を感じる。コトとは句が示す客観的出来事が伴う情感であり雰囲気=ノエシス的自己のこと。
つまり景色が醸す雰囲気であり意味、こと的な自己性が言葉によって示される。ここでは古池と蛙の描写が醸す日本人に共通すると間主観的に信憑される雰囲気でありコトがモノの表現を介して示されている。
ようするにここでのノエシス的自己は間主観的な共通感覚として喚起するから、芭蕉の句は表意文字的、オノマトペ的性質をもっている。つまり句のノエシス的自己は自他未分にあるということ。
※当ブログでの表意文字とは、意の表れというニュアンスで使っておりシニフィアンとシニフィエとの癒着構造全般を示すので表語文字との区別はない
このようなコトとしての共通感覚(共通主体性、共通述語性)が前提とされ、これは主体が自己となる以前の共通の次元、間主観性、共同主観性の強さを示す。
対する主語性の言語にある欧米では共通感覚がもつ行為的意味の共同主観性が個々に分裂しているといえる。欧米では自他の分離が強いわけだ。
※甘いは共通感覚だが、では欧米人は甘いを個別感覚とするのか、であれば甘いといっても他人に伝わらないじゃないか、と思われるかもしれないが、そうではない。甘いということが喚起、接続する表象に共通性がなくなるということ。つまり日本人なら特定の同じ音像に誰もが同じ音色の甘さを感じるが、欧米では甘い音色を喚起する音像(表象シニフィアン)が人によって違う可能性があるということ、だから英語は表音文字的なのだ
すると主語が省略できず文頭に固定される英語象徴界の主語的同一性の秘密が見えてくる。
まず主体が共同主体であり自他未分の言語を考えよう。すると述語の主体は特定個人の主語に還元されないと分かる。
むしろこの場合正しくは、共同主体性より生じる述語作用としての主体性は個別の身体を経由して表現される、という形式をとる。この場合、身体的自己に対する主体は私という主語には還元されない。
そもそも述語それ事態が主体なのだ。主体性としてのノエシス的自己それ自体が主体だということ。
客体としての主語(ノエマ的自己)に先行して述語性(ノエシス的自己)があるわけなので主語やノエマ的自己はそもそも主体(主語)にはならない。したがって日本語には中動態が生じる。たとえば、私には山が見える、など。
ここで私には、とはもちろん主語ではない。私にはとは、私に於いては、というべきだろう。於いてとは場所を示す日本語だ。
つまり、ここから山が見える、というのと私に於いては山が見える、には大差がない。
中動態の要諦は無主語だということ。つまり述語それ自体が主体だということ。
だから共同主体性から述語を分離し、私が述語の主体となることで英語のような主語性言語が可能となる。
つまり逆にいえば、主語的同一性が優位の英語象徴界システムとは、述語の分離と個別化を、述語に対して遡行して主語的私(ノエマ的自己)を先行することで実現するシステムなのだ。
したがってフランス革命にあった個人の自由意志とは述語に先立つ私の確立にある。人間がつどの行為に責任(自由)を持つことができるのは述語(ノエシス的自己)が主語的な同一性(ノエマ的自己)によって方向付けられ、そのことで主語的同一性が述語に先行してあると見なされることによってである。
※主語的同一性・論理学的同一律による述語面の統制が近代幻想の本質
つまり英語では述語に主語が原因すると考えるから、主語(ノエマ的自己)が文頭にくるわけだ。また英語では述語の頭にノットという否定が入るが、これも主語が述語性の手綱を握り、述語的衝動を抑圧する神経症構造のあり方を反映する。
対する日本語では述語のお尻に、たとえば、見えない、という具合に、ない、という否定が入る。これは述語性それ自体が否定として生起する事態を反映する。つまり主語が否定主体ではなく否定形の述語が自生しているのである。
※日米の否定形の着眼は山本哲士がYouTubeで指摘していたのでそれを参考に考察した
ここまででなんとなく主語的同一性優位の象徴界システムと述語象徴界との違いがつかめたと思う。これを十全に把握するには時間の構造化の議論が避けられないので、後の項でそれについて解説する。
イメージの生成原理と2つの象徴界
ここでさらに2つの象徴界について確認したい。
まず本記事の趣旨に照らせば。主語性言語こそが主観と客観の分離を構成し、論理学を構成する。しかし述語性言語なしに主語性言語などありえず、英語も遡れば中動態言語にゆきつく。そのため述語性言語からいかにして主語性言語が構造化されたかを明らかにすることで主客の分離と論理学の構成要件を抽出できる。
さて、述語性言語を今度はイメージの生成という側面から論じよう。
述語性言語を主客未分として見てきたわけだけど、じつのところ述語性言語も言語であるからには、主客の分化は経由している。本当に未分化ならそもそも対象化すら困難な現実界の露出という事態となり言語が発生しない。
じつのところこの分化は僕の考えではイメージの生成に対応する。ここでイメージとはアニミズムにおける聖霊とか山の神様とかトイレの神様とか魂とかオカルトにおける幽霊のことである。
イメージはいうまでもなく、述語的意味表象であり、その意味で表意文字的である。漢字が絵というイメージなのもこのため。
つまりコトとモノが融合しているのがイメージなのだ。
しかし同時にコトとモノの分化、吉本隆明でいう共同幻想と対幻想と個人幻想の分化がイメージの構成要件となる。
たとえば死者の霊は、ある人が死ぬことで実現する。
そもそも対象が喪失しなかったなら、霊イメージ(リビドー、シニフィエ)は対象から分離できないから、述語的同一性を発動できない。彼は鹿だ!というとき鹿という意味イメージは、客体的な鹿から分化しているからこそ彼に憑依できるといってもいい。
つまり比喩なしに言われる鹿(表象)とは鹿の霊なのであり、彼の魂にその霊が憑依されることで、鹿だ、と言われるのだ。
現代ユング派はこのことから物の殺害であり喪失(生け贄動物の殺害儀式)がイメージを可能とする、と考える。
よって対象客体の喪失は主体性(述語、霊)と客体(主語)の最初の分化なのだ。分かりやすく言えば霊とは喪失を介した客体の意味的同一性を支える実存的アイデンティティの表象化・ノエマ化である。
※喪失の悲しみはイメージの獲得であろう、悲しみの涙がそれ自身を癒やすのはこのために違いない
さて論理学を可能とする分離の前段階にある主客の初期分離(分化)をラカン派の疎外理論に対応させることでさらに詳しく分析しよう。
まず対象の死や喪失がどうして人間の認識として構成されるかを探る。
すると、客体対象の述語性(ノエシス的自己)が他者性も持っていることが、対象喪失の条件だと分かる。
客体の述語性について説明すると、たとえば、山がいかめしく盤踞する、という場合、いかめしく盤踞する、という述語性が山のもつ述語性(意味、主体性)であり、山が他者としての主体性をもつことの本質である。
私の予期を超えて、つまり私の意識が自身のうちに逗留することに対して断絶的に闖入する対象存在の意味面、これこそが対象喪失の最初の条件となる。これはラカン派でいう疎外(視線触発φ)の条件でもある。
※未来予測記事では存在の他性として解説している
客体の主体性(ノエシス面)は、これよって原自己から切断され、客体がイメージとして持つ述語的主体性となる。
このとき客体の側が自他未分の主体性(述語性)をもつため、客体が変形するなどなんらかの形でそのイメージを損なうとか眼前から消え去るとかした場合に対象の喪失が起こる。
つまりもし、客体の側に主体性が感覚されなかった場合、述語的意味性は原自己性からまったく剥離することがないので、実存的な意味での対象喪失は起こりえない。つまり分化した他者としての主体性を対象が生じないので、対象が消えても自己喪失感を生じない。
※ここでの他者は未分離だが分化したような他者、ウロボロス的他者のこと
また分かりにくいので一気に分かりやすくする。
たとえば、リンゴを食べて美味しくある、と感じるとする。この美味しさという述語的意味(ノエシス的自己)が他者としてのリンゴに回付されることで、美味しいということは、リンゴという表象を形成可能となる。
しかしここで美味しさが原自己から剥離せずリンゴが美味しさの主体として、つまり他者主体として生じない場合を考えよう。
この場合、美味しさ(述語性)はリンゴの表象を結実することができなくなる。つまりイメージの生成不能が起こる。もちろんこの場合もリンゴは美味しいと言われうるが、美味しいということはリンゴではなく原自己に属している。
だから物の殺害としての霊のイメージは、そのつどの対象の在るということ、ノエシス的自己性が他者性を帯びることで可能となる。というより物の死とはおそらくは、物が他者性をもつ述語的意味を帯び、次にそのことで対象欠如が喪失として作動することを指す。
したがって物の死、対象喪失とは、それ以前にノエシス的自己の他者性(到来性)の成立を条件として隠し持つ。この条件を満たさない場合、生け贄を捧げる死の儀式も意味をなさず霊を形成しえない。
※ノエシス的自己の他者性、到来性がない状態をラカン派は視線触発φの不成立であり疎外の排除と見なす
※この考察に思弁的と思われる人もいるかもしれない。しかしここをよく考えないと自閉症やアレクシシミアがなんなのかが分からないし、どのような意味を持って人類が疫学的に自閉化してきているかも分かりにくい。問題は現代人の象徴界と存在態勢の変質がなぜ起きているかではなく、何を意味するかであり、この考察ではその意味が問われている
さてイメージの生成条件が判明し、イメージ(述語性)が支配的なアジア的象徴界のシステムについてもある程度のことが分かった。
つぎに、そこからどうして英語的な主語的象徴界システムが生じたかを分析しよう。
イメージの死と主語性言語の誕生
まず主語性言語には一神教が密接に関わる。もとより一神教の神は旧約聖書にあるように言語によって、世界を6日で創造した。そのため一神はイメージよりも言語の主体(根拠)である。
一神教が偶像崇拝やアニミズムなどイメージを禁止していったことはあまりに有名だろう。
これが意味するのは客体に主体性を回付することの禁止である。
あらゆる主体性は神による万物の創造という理念からも明白だが、森羅万象の述語面はすべて1つの神に回収される。
かくして客体(モノ)と主体(コト)とのアニミズム的契合(イメージ関係、シニフィアンとシニフィエとの癒着)は解消されることとなる。
すべての述語的意味性は神という単一の存在者(客体)に回付されるので言葉がもつイメージ、表意文字的側面はこれにより駆逐されたのだろう。
ここに主体(ノエマ的)と主体性(ノエシス的)との最初の明確な分離がある。
※繰り返すがここでのノエマ・ノエシスはフッサールでなく木村敏のもの
神という単一の存在者が、つまり象徴界システムにおける起源であり時間の始点(神)が、最初の主語主体(述語に先回りする主語)を形成したと考えられる。
すると印欧語から中動態が消滅し、受動態が登場した理由をうまく説明できる。
単一の神(主体)によりウロボロスの環は切断され、呑み込む頭(能動)と呑み込まれる尻尾(受動)とが分離し、受動態が析出したのである。
つまり、述語性の主体でありしかも述語性に先回りする能動者(存在者)としての神が人間のノエシス的自己の関係項の一方(能動者)として立ち現れ、これによって人はノエシス的自己(述語面)の関係項のもう一方の受動者(受動態)として生じることとなる。
このことは、中動態⇒能動態のプロセスにおける能動態が、他者性としての述語性を自己自身の意志として引き受ける、引き受けの契機をもつこと。そしてそのような古い能動態から引き受けが分離して受動態を形成することに対応する。そしてまたこれは2つの象徴界の時間様式において円環的時間がニュートン的直線時間へと多層的に再構造化されるプロセスそのものでもある。
※主語的同一性=ニュートン時間(直線時間)、述語的同一性=ウロボロス的時間(円環時間)
そのため、アジア的象徴界をウロボロス的時間、英語的象徴界を直線的時間と見なすことができよう。
時間論については後の項で検討したい。
一神教におけるイメージ崇拝の禁止が受動態の構成、表音文字性の強化とどのように連動しているかはこれでよく分かったと思う。
話をまとめると、まず述語的同一性が優位な場合は論理学的な同一律を形成しない。その場合は私は私でなくして私であるということが起きる。彼は鹿であり彼であると言えてしまうのだ。
つまり排中律や矛盾律がなりたたない。
対する主語的同一性の象徴界では自他の分離のために自は他ではなく自である、という論理学的な同一律が可能となる。
重要なのは、主語的同一性の象徴界が、純粋統覚(抑圧機制)をもった述語的同一の原理によってしかありえないこと。また科学における反証可能性という事態からして明らかなように、~の物は、実は~だった、という訂正の可能性(今による過去の書き換え)が客観認識にも隠されている。
だから今の認識によって過去が遡行して変更される。また自己の近代的アイデンティティも、つど今による隠喩的な述語的同一性によって遡行して書き換わる。
僕たちが、しばしば自己存在の存在仕方の自己配慮と自己了解の場面において、予めあったかのように自己の運命(宿命、過去)を今(偶然)において発見するのもこの構造のためなのだ。
これは今における偶然性が引き受けられることで運命(必然)を形成するということでもある。だからウロボロス的な象徴界システムはその構造のうちにニュートン時間的象徴界を包摂するように、あるいは自身を上書きするように否定神学システムを形成し時間的な幻想を構成する。
一神教の神が言語の一般的意味を否定神学システムにおいてニュートン時間的に構成したことは疑う余地がないだろう。ちなみに宗教幻想分析から近代主体の解体因子を取り出すことも可能である。デリダの存在はとくに一神教的象徴界システムの帰結として分かりやすい。
補足:ユング派とラカン派
ユング派では一点透視法的な立体空間の成立を近代として記述する。
これに対してラカン派では空間の奥行きの生成を疎外、他者の構成によって生じると考える。
また後期ラカンでは症状の一般理論にあたる主人のディスクールからも分かるように疎外と分離はセットで捉えられる。
このことから述語性言語の象徴界においても、ある次元では分離(抑圧)が成立しているし、さらに現代における母の言葉は主語的同一性をベースとするので疎外(言語化)がそのまま近代空間に直結すると考えているのだろう。
女の式の議論を考慮するとやはり前者のニュアンスがあるように思う。だからヒステリーのような弱い抑圧が述語性言語の象徴界を構成するのだろう。
というわけで昔の人に、実存の論理学的同一律がまったくない、ということはなんとなく考えにくいように思う。
おそらく象徴界システムの疎外の程度はスペクトラム的ではなかろうか。強迫神経症では幻想レベルでは完全に疎外されつくしてはいるが。
身体を持つことと時間の構造化
ウロボロス時間、直線の時間
なんだか難しくなった気がするからこれまでの意味=時間についての議論を少し視点をずらしつつ、かみ砕いて繰り返そう。なので上の項の肝がしっかり理解できた人はここは読む必要は無い。
まだ世界がアニミズムだったころ。時間は円環(ウロボロス)を基本とした。古代社会における母系性農耕社会でも時間は円環として表象されていた。
※しかし吉本隆明の共同幻想論を参照するまでもなく、農耕は直線の時間にある近代国家の起源となる
さて母性原理が優位な円環の時間とは述語的同一性が優位な時間である。つまり比喩のない象徴界では時間は円環の表象性が優位になる傾向がある。
直線の時間を近代的な主語性の時間、ニュートン時間であり因果関係が過去から未来へと一方通行に存在する時間とすれば、円環の時間とは今に属する結果の側が過去に属する自身の原因に原因するような時間。
つまりこれは、述語的同一性により今目の前にある景色の行為的意味性が過去の記憶表象(見たことある景色の記憶)の行為的意味性と同一することで、今において過去が現前する意識。ここでは今において過去の印象がアクチュアルに書き換わったりする。
これは心理療法や物語を考えると分かりやすい。リベンジものの物語では、過去に恐怖から逃げ出した人が似たような状況になったとき、今度は恐怖を克服して立ち向かうことで過去をやり直す体験をし成長する話はよくある。
もちろんこれは現実にもあるが、このような体験は過去が現在において述語的同一性のアクチュアリティにより現前することで可能となる。
ここで現代人の場合、行為的意味よりも客体(シニフィアン、ノエマ)の側が実在とされるから、過去が現前したとは捉えられず、現在の状況に過去を想起した、と認識される。
なのでノエシス面に実在を見出す古代人の場合、過去が現在において真に顕現したという認識となる。この隠喩の効果により時間は今において過去を規定し、過去において今が規定される相互限定的関係(ウロボロス)となる。
これが原因と結果、過去と今との先後関係がくるっと円を描く円環の時間。
したがって論理学的同一律であるA=Aは、それよりも古い述語的同一性世界におけるAはAでなくしてAである、という過去と現在、2つの異なるノエマの述語的同定のメタ論理構造から一神教的イメージの否定を経て析出すると分かる。
アニミズム的なイマジネールな象徴界においては、ウロボロス的時間構成が優位となるため、古代人は時間を直線ではなく円環のウロボロスとして表象したわけだ。
また、繰り返すが古代人のコト(共通感覚、イメージ)とモノ(客体)とは完全に一体なのではない。したがってモノとコトとの最初の分化がアニミズム的円環の時間を基礎づける。そもそも言葉がコトを示すモノであるということからして、言語が可能となるためにはまず円環の時間の成立が要請される。あるいは言語によってそのような時間が開かれるともいえよう。
つまり動物はこの意味において言語を持ってはいないのだ。動物の言語モドキはモノから分化したコト(ノエシス面)を表示することができないということ。だから動物のそれはコトの葉とはいえずモノの表示(純粋標識)でしかない。
時間、分離、身体
身体所有論と時間については未来予測記事で誰にでも分かるように細かく説明してしまっているので、ここでは簡易的なまとめにとどめる。
ウロボロス的時間主体についてまとめておこう。
ウロボロス的主体とは、中動態的な時間意識、円環の時間性をもつ。ウロボロスとは呑み込むという能動性(原因)と呑み込まれるという尻尾(結果)、これらが分化しつつ一体となること、つまり相互規定的な因果関係の成立が見事に表象されている。
これが意味するのは私に所有される対象と対象に持たれる私との弁証法的な相即である。
直線の時間とはウロボロス的主体の中動態的能動性から引き受けの契機が分離し、能動態ー受動態(原因ー結果)の時間構成を構造化するのだった。またこれは既に確認したように、主体性(述語性)と主体との分離による。
この分離の形式は空間的にはルネッサンス期の一点透視法的なパースペクティブにも対応するがそれについては他記事で詳述しているから割愛する。
この時間の構造化にあって象徴界は単一の起源(過去の一点としての時間の始点、究極原因)を欠如として抱え込む。つまり否定神学的システムを構造化、幻想する。
これについてラカンのモデルを使って示すこともできるがここでは僕の身体と所有のモデルをつかって簡単に示したい。
まず、人は身体を自己として対象化する。さらに企投とは、身体を持ち、道具存在として身体を扱うことで成り立つ。たとえば暑苦しいという情状性(気分)の自己了解から気遣いによって窓という存在者を外気をうけて暑苦しさを緩和する道具として生じさせ、その実存的な目的を達成するために身体を窓を開けるための道具として行使することが現存在の企投を実現するということ。
もし行為が身体と完全一致していれば即自であり無意識的行為と言われるだろう。たとえば熱々のヤカンに触れて手を引っ込める条件反射などは即自にあり、無意識(他者)の行為と見なされる。
私が身体言語的に抱く自己イメージを超える身体行為が発露したとき、それを人は無意識(他者)と呼ぶ、といってもいい。
つまり身体を持ち、身体の行為に計画性と制限を与えることにおいて、意識と無意識とが分離するのだ。よって精神が身体からズレつつ一致する(ズレこみの引き受け)ことを僕たちは身体を持つという。
問題はこの所有の形式にある。
ウロボロス的象徴界において、身体と精神は分化しているが分離しきっていない。ここで身体と精神は、客体と主体に置き換えてよい。そもそも主客の分化、分離とは身体客体の分化、分離を構成する身体所有の形式によって生じるのだ。
つまりウロボロス的時間主体では行為的意味性は客体の側にあって、その意味性の他者性(到来性)によって身体的行為が生起するわけだから、身体は他者の身体でありかつ自他未分離にある。
※身体は外界との接面であり、外界の到来と所有との二重性を持つ
このような自己と身体との関係では、身体に自己が侵襲される、つまり身体に精神が持たれる意識が優位となろう。
客体とはアニミズム的・ウロボロス的自然の主体性とイメージによって繋がってもいるから、大いなる自然という大他者が自己の身体と繋がっているともいえる。
ともあれ、身体の側が精神に対して優位性を持つのであるが、精神もまた身体を使うのでなければそもそも生活はできない。
つまりウロボロス的な身体所有とは持つことが同時に持たれることであり、そのことが隠されていないような身体ー自己関係を示す。
対する直線的時間構成ではラカンで言う分離の契機を経て、精神が身体を一方的に持つ意識(誤認)が生じる。
つまり身体を介した他性をもつ行為性が抑圧されることで、身体は一方的に意識の管理化(所有)におかれているという誤認を生じる。
つまりつどの行為性の主体としてのノエマ的自己(自我)が一方的原因としてノエシス的自己に遡行先行しつつその主体となって、自己身体を所有するという意識の成立が象徴界におけるニュートン時間構造の成立に相当しているのだ。
しかしこのとき、共同主体性ではない論理学的に分離する個としての主体性(ノエシス的自己)の自己限定は、いうまでもなく、身体の限界によって可能となる。身体という物理的有限性と独立性をもたない、身体なき無限の精神があったなら、私という意識は私に限定されようがないことを思えばこの説明はいらないだろう。
したがって、私が私になるとは、身体からの限定を引き受けること、ラカンでいう去勢のプロセスによって可能となる。このプロセスは自己否定のプロセスともいえる。アンナフロイトの攻撃者への同一化の議論はこのことを理解するのに非常に重要である。現実吟味(主客分離における客観現実と夢空想を区別する機能)がどのようなプロセスで可能となるのかといえば、それは自己限定(去勢、自己否定)によってである。
※なおこの自己否定はラカンの文脈では母の去勢であり父からの自己承認としての自己肯定性として記述されるが、本質的には当記事で言う自己否定と同じことを言っている
このことは、私の考えが私の自己主張における主張内容のなかの私という主語に自己回帰することで、主張する私と主張とが無限にズレていく構造を生じるが、これがラカンでいう換喩であり、時間の始点の欠如化の効果である。
※現実吟味とニュートン時間の構造化についてはラカンのコイントスモデルが非常に分かりやすい、他の記事でコイントスモデルについては詳しく解説している
いわばノエシス的自己としての主張行為が主張内容の内にある主語=ノエマ的自己に限定される、このことで原因の無限遡及を生じゲーデルの不完全性定理のようなアポリアを形成する。つまり不完全性定理のアポリアは去勢の効果なのである。
※不完全性定理とはある規則を設定するとその規則を可能とする規則が外部に要請されこれが無限に繰り返されて、いかなる規則も基礎づけられないということを数学的に証明したモデルで、この本質は象徴界のニュートン時間的構造が始点を自己消去することの効果といえる
重要なのは、身体を引き受けること、この去勢が身体を一方的に持つニュートン時間を幻想構造化しているにも関わらず、ラカンでいう想像的誤認によって、去勢なしの自由意志=ニュートン時間が可能だという誤認に支配されることにある。
この誤認であり、体験と認識との差異こそが欠如(ノエマの可疑性)を構成するのであるが、この欠如を持たない言語が彼岸にあるという幻想=誤認が問題なのである。
またデリダの帰謬論的相対主義思想の問題は、この差異としての誤認を否認するところに問題がある。彼はその意味で形而上学の典型といえる。
ちなみにフッサールにおける可疑的ノエマの可疑的とはラカンで言う大他者の欠如のことであり、この可疑性が現実吟味を構成する分離となる。そのためにイマジネールな言語では可疑性が消え去ってしまう。
ちなみに、この理解なしに現代のスピ系やオカルト系、陰謀論の言説を理解することは無意味である。
またテクノロジーとは幻想としての外傷を現実化し、幻想と現実との差異を消去するのだが、このあたりの議論は現代人がシミュレーション仮説の夢を見る、ということを示した記事やその他の記事で説明しているので割愛する。
このような洞察の今日的意義はここから、整形手術の意味、ゲーム化した異世界転生作品の意味、創作における身体性の変化、LGBT、などを身体所有から説明し、象徴界の今日的変質を身体性=時間性の問題系として説明できる点にある。
人間の象徴界はいまだかつてない状態に変質している。そのことは僕の提出する理論をちゃんと理解する人にとってはほとんど疑いえない説得力を持って了解できることだろう。
この議論はラカンが資本主義のディスクールで懸念していたことを京都学派的なパースペクティブからより明瞭に示したものともいえる。
ちなみに、とりわけ50年代ラカンは主語性の論理にあり、逆に僕の時間論は述語性の質的変質から、近代主体の解体を説明づける身体優位の論理となっている。
時間と論理学の成立
さて、未来予測記事では、ノエシス的自己とかノエマ的身体とかの専門用語を避け、精神が身体を持つ、と表現したので、これを専門用語で記述したい。
まず未来予測記事に書いた精神が身体を一方的に持つ(近代主体)とは、ノエマ的身体に刻印された言語性、歴史性(既知性)にある程度規定されたノエシス的自己性が積み重なって弁証法的に形成された自我イメージとしてのノエマ的自己の同一性(アイデンティティ)が、そのつど身体に生起するノエシス的自己の生成ベクトルを規定する中で、つどのノエシス的自己がノエマ的自己を自身に先行する自身の主語とするように生じる事態をいう。
※なんか分かりにくいと思うので精神が身体を持つ、でいいと思う、イメージで理解するとうんと単純なのだがそれを言語に翻訳するとなぜか分かりにくくなる
さらにこのことを踏まえニュートン時間を考えよう。すると決定論的なニュートン時間では過去において全ての未来が確定することになる。だからこそ因果関係が一方通行なのである。そしてこのためにこそ人は未来を計画することも可能となる。
すると過去の空間と、今・未来の空間とは因果関係によって連続化、同一化していることが分かる。因果構造になければ、今と今がばらけて繋がらない。つまり今を過去からの継続として数えてカウントアップできない。
そして、この空間の因果時間的な同定が論理学的論理を構成する要件となる。
このことはそのつどの現存在における実存の意義連関の分節として道具的存在性のもとに存在者が存在するにも関わらず、その存在者(ノエマ)はシニフィアン連鎖として事物一般的な機能的連関構成もつ事物存在(一般的意味)だという事態にも関わる。この二重性は時間のモノとコトとの二重性と相同的だろう。
いわば存在者の事物一般的意味が時計の時間として時空間を均質に連続するベースなのだろう。時計とは世界を均質化し間主観的(客観的)に計画・企投するためにある。また時計の時間とは空間を時間に先行させる構造にありこれが存在論的顚倒であり誤認を生じるに違いない。つまり秒針あるいは太陽というモノがまずあって、これが空間的に位置を変えることが時間だという錯覚を時計はつくりだしてしまう。
現実には逆で、ハイデガーが指摘するように時間(存在)がモノをモノとして対象化し、空間を開くのである。
だから時間から完全に実存性を消し去ると必ずゼノンの矢のパラドックスを生じる。このことは離人症の人が主観性を排除したはずの事物一般的意味やその連関を理解不可能になったり時間が今の非連続と化して過去から未来へと時が流れるという連続性(同一律、因果性)を了解不能になることからよく確認できる。
つまり厳密には実存性のない一般意味など存在しないのである。だからこそ、A=Aの条件はAはAである、にかかっている。つまり、であるという述語性が言語によってモノ化することで直線時間が生成され、それによって空間の決定論的で論理学的な連続性と同一性が生じるのだ。
さて時間に偶然というのがあれば偶然は過去によって規定されえないから偶然の瞬間は過去からの時空間の断絶=非連続となる。
したがってニュートン時間の構成は今と未来の空間が過去の空間と同一であること、過去によって基礎づけられることを示す。それゆえか時計の針の動きは予め予定された動きしか許されず、その予定から外れれば壊れた時計と見なされる。
ここで空間とはもちろん対象、存在者一般のことでもある。対象とは空間を占め空間的に実在するものだから空間に属する。
※時間はコト、空間はモノに対応する
否定神学システムの象徴界において私が私であるという時間的な同一性が排中律、矛盾律を含む理由もここにある。このような近代的自己同一は存在者としての現存在(自己)が他性・断絶を生じずに過去(時間の始点、欠如)によって規定される時間的連続性においてあると誤認されることで可能となるアイデンティティなのだ。
また時間における他者性(偶発性)の闖入は時間の裂け目ともいえる。このような時間の裂け目にあっては自己の論理学的同一律はない。だから近代人は偶然性に直面したときには論理学的同一律を守るために2つの対応をなす。
※既に確認したようにこの偶然性がイメージ生成であり疎外の条件となる行為的意味性における他者性(到来性)である、また偶然の今とは起源の隠喩でもあり、永遠の今に属する
1つは、それは偶然に過ぎない、としてその偶然を無意味化し無視する。もう1つは、偶然を自らの欠如した起源に書き込まれていた自己の同一性をなす運命の発覚として遡行的に起源を書き換えて過去からの連続性を担保する対応(反証された客体とする対応)である。
古代人の場合、後者の対応では過去が現前したという共時的意識をなすが近代人では、隠されていた喪われた過去の記憶が今ここに発覚したという意識を構成するのだ。
そして私の決定論的時間構成は私の相関者となる世界事物の決定論的(論理学的)な自同律構成に直結する。私が私の身体に一方的に原因し、予定通りの結果をえる、という所有構造の時間では、偶然性(想定外)は抑圧・排除されねばならない。身体客体の側からの予期せぬ偶発的フィードバックは時間構成(論理学的自同律)を危うくする。
もちろん存在者(ノエマ)はそのつどの私の気遣いに相関して実存的な固有の道具的存在性として対象の意味を生じる。しかし、このときもその意味性は一般的ノエマに収束している。もし述語性(ノエシス的自己)が言語化されたノエマに収束しなくなれば、ノエマの同一性が完全に破綻し超越論的自我(ノエシス的自己)の同一性(述語面の自己所属感)が破綻、隠喩の機能が消えて自己の同一性もなくなり時間が崩壊する。
さて、しかしこのようにいうと近代主体とは、むしろ切断することではないか、と思うだろう。
これについて試しに考えてみよう。
まず主体の自由は私に先行する原因を消し去る、そのために英語の主語Iは全てに先行して文頭にくる。
だから私が起源としての絶対的原因となること、ここに主体の能動性の幻想がある、というわけだ。
しかしここで主語はノエマ的自己である。ノエマ的自己であるからには主体はノエマ的身体の歴史的既知性による自己限定を受ける。もし、國分功一郎が強調するように単に切断性としてだけ主体を捉えるならそれは、ポストモダンの主体であろう。
それは、もはやノエマ的身体の限定を蒙らない寸断された今だけの象徴界と言わねばならない。つどの述語性が自我イメージ(ノエマ的自己)の統制をうけることが抑圧であり近代主体の自己決定の基礎構造である。
その上で主語の私に先だって原因するものがないという誤認に近代能動性の秘密がある。
だから切断するのは歴史ではなく客体であり他者性(到来性)である。近代主体が切断しているのはラカンで言う大他者だということ。エスに先立って予めその場所(絶対的原因の位置)にエスの主体として自我がありましたという誤認なのだ。よって他者からの切断なのである。
つまり思春期などに私が選んだ私の存在の仕方が当の私に引き受けられることが能動性を構成する。始点となる自己選択に先行してそれを選ぶ空白の私が、私の不満足な自由と自己了解の可疑性を構成する根拠といってもいい。
過去を何も引き受けない切断ならば、自己の決定を明日の自己が切断して引き受けないから自己決定も能動性もないのだ。よって私の自己イメージに固執して自己の歴史性を切断できなくなる契機が近代主体の自己決定にはある。
しかしまた確かに歴史を切断する自己決定もある。
近代主体の能動性とは、歴史を切断しうるし、歴史に従属しうる。しかもそのどちらもが去勢への抵抗として生じるのであって、2つは同じなのである。否定神学システムの欠如が埋まる場合、自認する運命と一致するから自己の歴史(運命)に従属しうるが、歴史的身体からの自己限定を拒絶する仕方で象徴界の欠如が埋まれば歴史の切断が生じる。
要点をまとめる。
まずニュートン時間が支配的となる否定神学システムが優位の象徴界において構成されるニュートン時間構造が、近代的能動態を生じる。またこのような時間構造が論理学の自同律、排中律、矛盾律を構成する。
ようするにニュートン時間では存在者の運命は予め決定済みだから、AがAではなくAである、というような状態は形成されない。またAは非AでなくAである、という論理学的同一律の元となる体験は、つどの述語的意味性、ノエシス的自己がノエマ的自己の既知性へと収束し、ノエマ的自己を自身に先行する主語主体として遡行して先行させるように生成することで成り立つ。
つまりAがAではなくAである、というのはAの述語的意味性が帯びる他者性により、今という時間性のうちで過去が隠喩的に反復・現前することにおいてAの運命が書き換わる事態を示す。だからAが死んで(死とはAではなくなること)、その死がAとして引き受けられてAとなる、という死即生が弁証法的同一律の基本構成となる。
※父の名がある場合、ノエマ的自己は身体の言語既知性に基礎づけられつつ、つど訂正可能性を担保するだけの可疑性をもって主語的同一性を生じるが否定神学システムにおける父の名の排除は既知的な言語性から訂正可能性の根拠となる欠如が消え去り、いわば始点となる神(原父)が現前し神との競合関係となる
ところで、ここでの議論は単に論理学的論理の生成メカニズムという以上に象徴界における論理学的論理の支配化・浸食メカニズムになっている。
かなり久しぶりに時間論のベース部分について考えたためか分かりにくくなったように思うが、この微妙な説明でここは容赦願いたい。
イメージで考えると簡単で身体所有の形式に依存して、円環のウロボロスな相互因果関係的時間モデルの輪っかがハサミで切られて直線の一方通行の因果的時間モデルになる。これによって主客が分離して論理学的論理が象徴界において支配的に作動し強迫神経症的な誤認・幻想を生じ、この根源的幻想(S◇a)が主客を分離する現実の領域=R(幻想)を開く、というだけの話。
重要なのは述語性である(ノエシス的自己、意味性)が蒙る抑圧の機制が時間の構造化と密接に関わっていること。
歴史からの検証:デリダ批判
※僕はデリダはそこまで詳しくありません、なのでこのパラグラフでのデリダ批判には少し雑なところがるかもしれません
ニュートン時間が象徴界に支配的に構造化、作動する仕組みが分かると自由意志の誤認と主客の認識論的誤認との相同性は自動的に理解できるだろう。
自由意志があたかも無葛藤の即自というべき状態において全てを所有・支配できるという誤認は、一方的・直線的な身体所有の条件を構成する身体からのズレ=葛藤・抑圧のない身体所有(即自的所有)が彼岸にあるという誤認・幻想である。
しかし身体とのズレを受け入れることで、その存在論的差異が同一されることが所有(自己同一)の本質契機であった。そしてこの差異が現実吟味を構成する自己否定=自己限定を介して、現実と幻想、客観と主観とを区別するのだった。
よって自由の誤認という問題は、主観客観パラダイムの顚倒としての現象学批判を構成する歴史因子となっていると分かる。
その証拠に声と現象においてフッサール現象学を否認したデリダのポストモダン思想では、想像的誤認というべき、認識と体験との差異の抹消が痕跡している。
つまりデリダは客観こそが普遍性の唯一絶対の地平であるといい、しかも客観はない、ということで相対主義を実現しているわけだが、現実には客観は去勢の作用によって可疑性をもつ審級として構造化されているものであり、信憑の審級であって、デリダがいうようなスタティックな実体としての無の地平ではない。
僕たちは現実に客観と夢を区別しているということ。
さて、次にデリダの正義論を確認しよう。これによってデリダの限界が完全に明らかとなる。
彼はその正義論において、法を無根拠化し脱構築の対象としつつ、正義を単独的であり脱構築できぬものとして超越項にしているが、このポエムっぽい論考には自由=正義への致命的な誤認がある。
※デリダは正義が法規則に従うでもなく従わないでもない、という点に着眼し、このことから定式化されえぬ脱構築できぬもの、として正義を絶対化するのだが、従いつつ従わないとは言うまでもなく人間の自由の根拠のことである。だからデリダの正義=自由意志といえるだろう
まずデリダは、禁止(法)は脱構築可能で無根拠なので、正義=自由の根拠とはならないという。そして正義=自由こそが超越項としてまつりあげられる。つまり禁止の法に先立って正義=自由を絶対化しているのだが、なんということだろう。
これこそが自由意志=身体所有が何の抑圧も自己否定も葛藤もなく単独的に存在するという誤認そのものである。
※デリダは法の無根拠性を論理学的なゲーデルの不完全性定理の考えで論証するがこの論証の無効性は時間論的に明白である、これはモノとコトとの存在論的先後関係の顚倒でしかない
僕のブログでは口がすっぱくなるほど書いてきたが、この誤認はフランス革命という闘争の彼岸にまったき自由というモノがあるという錯覚と同じである。葛藤=闘争の側が自由を構成しているのであって、葛藤と無関係に独在する純粋な自由なる表象は実在しない。
だから法の禁止に先行する単独的正義=葛藤なき自由というのはヘーゲルが批判する表象であり、ラカンでいう想像的誤認に過ぎない。
つまりデリダが客観を不在の資格で絶対化し客観概念を誤認することと、自由を誤認によって無葛藤の物のように表象化することはともに同じ想像的誤認の効果そのものである。だからこの客観と自由に関する2つのデリダの勘違いは相同性をもっているわけだ。
したがって客観の絶対化による主客の混同がデリダには存在している。
デリダが形而上学であることは疑いえないと思う。問題はなぜこんな山師が今も影響力を持っているのかである。
竹田青嗣は20年以上も前に、極めて精緻にデリダの無効性を論証しているのだが。
さて、デリダは正義を絶対化し、つぎに他者と贈与を正義の根拠として論じるのだが、本当に馬鹿げていると思う。
まず一般的法による平等な禁止こそが自由の条件である。これをラカンは分離(父からの承認)といったがルソーの一般意志はそのことをよく捉えている。
法と禁止を否定しても動物園ができあがるだけで人間の社会にはならない。いい加減、憐憫とかノブレスオブリージュだとかの徳目だけで正義を語るのは本当にやめて欲しい。
竹田青嗣の言語学モデルを参考に正義(一般意志)と法の関係について触れよう。
正義とは意である、法とは意の表現である、両者は弁証法関係にあるのであって意は実体的真理ではない。単独的なもの、というよりもそれは法と相即する円環的弁証法の運動である。
国家幻想、自由、客観、言語
国家幻想と自由意志に関しても当ブログ記事、核抑止論論考で書いてしまっているので、補足にとどめる。
血縁を超えた共同体の連合であり国境を持つ国土共同体としての近代国家幻想の起源は吉本隆明の共同幻想論によれば、古代社会(3000年前~1300年前)の農耕定住にその起源をもつ。
※これ以前の共同幻想は国家という形式をとらない
僕の理論でそのことを理論化すれば、個人所有される農具は自己身体の延長にあり、農具は自然をテクノロジーによって所有する最初の技術であり、自然と身体との分離(差異)を介した身体の所有となる。
さらに農具によって開拓される土地もまた企投される対象であるから身体の延長ということがいえる。
この所有の契機が自他の分離、ニュートン時間の構造化に対応する。
といっても古代農耕文化はユング派の研究でも吉本の研究でも母系社会を生じ、その時間意識はまだ円環を基礎とするのではあるが。
このような土地身体の所有は、自他の分離としての個人を可能とし、この分離された個がシニフィアンとシニフィエとの分離を実現するのはいうまでもない。
共通感覚としての共同主体性は、土地と農具、穀物の蓄えとしての個人所有を発端に個に分離してゆきこれによって、言葉の意味が本格的に個々の関係企投として立ち現れるようになったのだろう。
このことがシニフィアンとシニフィエとの契合の恣意性を構成し、2つの分離とイメージの否定をなす契機となった。これは農耕が食料の備蓄を可能とし、このことでシェアを基本とした狩猟世界の秩序を刷新することに対応する。つまりウロボロス的な共同的相互所有から、個人主義的な個別直線的所有へと移行してゆく。
食料備蓄による個人所有の成立は個々人での体験や世界観の差異を生成する最初の契機となった可能性もあるだろう。
※和辻の風土論によれば、同じ農耕でも日本の風土では気まぐれな台風や震災による無秩序があり地中海では規則的、合法則性があり、このことが分離の程度の差につながるという。つまり僕の理論で風土との関連を示せば、無規則の災害は偶然性として時間を断絶するが、この断絶=死を運命(必然)とするところに日本人の実存性と時間意識とがある。武士道とは死ぬことに見つけたりとはこの断絶即連続の今を中心とした述語作用による起源と断絶(無形としての今)との隠喩的同定の時間意識を示すと考えられる
このような主体間での体験世界の格差もまた主客の分離を構成する。近代国家が産業革命による技術と個人の自由を基本とした市民社会として構想されたことを思えば、やはりその起源は農耕にあるといえよう。
今日における共同体、国境、性別といった境界の解体現象も、心理学的・哲学的地平においては、自由意志と主客の分離の解体と相同的であると言わねばならない。
この観点でいえば、アメリカにおける国土と人との関係、アメリカが国土を持つことをどうして実現したかの開拓期の歴史を思うに、アメリカがシカゴ学派やネオリベ、新反動主義を形成する理由の一端を想像することができる。
アメリカは土地と切り離された入植者が計画的に国土を開拓し、建設した人口国家である。この歴史が国土=身体所有の過剰な一方通行性を生じ、このことがアメリカの経済や学問の論理実証主義につながっているに違いない。
歴史的にはメタルギアソリッド2サンズオブリバティにある通りサンズオブリバティ(ティーパーティーのピューリタン)は北米大陸の原住民族であるイロコィ族の精神を象徴する蛇を自らの崇高な精神として掲げていた。だから本当はピューリタンにはイロコィ族の身体的時間性が刻印されていたはずなのだが、初代大統領ワシントンはあろうことかインディアンを虐殺してしまった。このワシントンによる不当な精神史の上書きが現代のアメリカに影を落としているとしたら、どうだろうか。
つまりワシントンは他者のない自己性、エスのない自我(エスがバレされない純粋自由の主体)を幻想し、それを他者(インディアン、エス)の虐殺によって現実化してしまったのだとしたら、いまの共同幻想としてのアメリカの没落は既に建国の段階で決定づけられていたのかもしれない。ワシントンはおよそ250年前、リバティベルをならし、インディアンを大虐殺したのだった。インディアンの虐殺は他者なき自由という誤認の効果であり、自由の鐘はその誤認の象徴として布置されているのかもしれない。
僕の時間理論は国家時間論としては、こうした洞察を1つの可能性として読者に提供するものである。
いずれにせよ、身体境界の喪失、それは整形外科の発展、性転換手術の発展、美容の発展、筋トレの発展に支えられる。テクノロジーがノエマ的身体という自己限定を拒絶し、身体の限界である境界を消去すること、ここに近代主体の消失が組み込まれている。
しかし、いうまでもなくこれらの技術を否定するつもりはないし文明を拒絶しても意味が無い。
だが、これらの技術は問題をつくりだす契機でもある。
身体の選択可能化は国土身体の解体に直結する、それは国家共同幻想が個人幻想の相関者であることを考えればよく分かる。
個人幻想と共同幻想とは分離しているが、客観が主観から分離しつつ実際にはその相関者であり実存論的・心理学的にその構造化を記述できることからも分かるように、個人幻想(主体)と共同幻想(共同主体)とは分離しつつ相即関係にある。
であるから、個人の身体意識と国土という共同身体への意識は連動する。
また近代国家幻想は国土の一方的所有とその同一律、ないしは支配的拡張(企投、開墾)とを基礎とするのだから、やはり国家幻想からして自壊するようなバグがあるのだろう。
※未来予測記事での論理から、国家幻想の自壊も帰結できる
そこで核抑止論を考察した記事では、核ミサイルがファルス(身体象徴)の布置にあると捉え、現行のアメリカの核という否定神学的(単一の父の名)システムをもつ核シェアリングから、複数性の核シェアリングへの移行による国家幻想の変質可能性を論じた。
※今のところ核シェアリングでシェアされる核は例外なく全てアメリカの核のみであるから、全てのファルスにはアメリカのという単一の父なる国の名が刻印されている
※単一の父の名については当ブログのいくつかの記事で説明してる
現状の個人幻想の解体、物語における疎外の運命の否定といった構造を見るに、国家幻想は単一の父の名をベースとした核シェアリングから移行してゆく可能性も検討される。もっともアメリカがそれを許せばの話ではあるのだろうが。
※疎外の運命の否定については当ブログのアクロスザスパイダーバースの解説記事で詳しく誰にでも分かるように解説している
複数形の父の名、つまり色んな国が色んな仕方で核兵器をシェアリングする共同幻想モデルがありうる。
このようなシェアリングは国境の複層化、すなわち身体の複層化を生じる、ないしは個人幻想における身体の複層化と相同的、共時的布置を構成しうるだろう。
ここで僕が問題としたいのは近代国家幻想の次の形態についてである。
あるいは誤認が解かれ止揚された近代国家幻想があるとすればそれはどのような形態であるか。
止揚された近代国家ではおそらくは単に近代国家幻想のモデルがサステナブルになるという程度のことになるだろうか。
しかし、このまま止揚されずに近代が素朴に解体してしまった場合の共同幻想はどうなるのか、これはまったく分からない。僕にはめちゃくちゃなことになるとしか思えないのだが。
国家幻想の成立と言語の意味
竹田青嗣は言語を実存論的に分析しそのことで言語学の2つのアポリア、意味の多義性、言語規則の規定不可能性の2つを完全に解消した。
ここではその竹田の言語論と吉本隆明の共同幻想論を参考に、否定神学システムとしての近代象徴界を言語の意味論として簡単に考察し、論理学的論理を構成する述語性であるが機能的因果性の連関を構成することと幻想との関わりに迫りたい。
さて、竹田は言語を一般言語表象と現実言語とに分ける。一般言語表象とは、コンテキスト抜きの客体としての言語を示す。そのため一般言語表象は意味を限定することができず、辞書にあるような複数の意味をもつ。
一般言語表象がもつコンテキスト(実存、関係)抜きの辞書的意味のことを竹田は一般的意味と呼ぶ。
これに対して現実言語における個別的意味は一般言語表象を関係企投(意の伝達)のための道具的存在として利用する。
ここで重要なのは一般言語表象がもつ客体化(一般化)された意味、主体(関係)を抜き取られた意味の連関構造こそがニュートン時間を構造化する述語性としての意味であること。
このことを共同幻想論に照らして考えてみよう。
すると、一般意味とは個人幻想と逆立する段階にある国家幻想としての、つまり個人幻想、対幻想、共同幻想とが分離した段階での言語ということになる。これはもちろん主客の分離に相当する。
すると現実言語における個別的意味は個人幻想の審級としての意味連関といえるかもしれない。また竹田のいう意味展開可能性とは述語性としての主体のアクチュアリティが言語として新たな痕跡を形成することであろう。
※竹田の意味が連関構造をつど新たに展開しうるという洞察は、ユングのコンプレックス論を想起させる、ユングは意味をコンプレックス(諸観念の生きた連合関係の展開性)と見なす
ここで吉本を引用する理由の1つは吉本が対幻想を個人幻想と共同幻想の双方から区別し、独自の審級・位相として洞察している点にある。
これを言語の意味論に導入すれば、言語の意味には一般的意味と個別的意味の他に、おそらくは個別的意味の領域に個人幻想的個別的意味と対幻想的個別的意味を措定可能なように思う。
しかしこの場合、対幻想的な言語の意味連関とはなんなのだろうか。我が家の家訓というやつか、プロポーズの言葉なのか。
いずれにせよ、ハイデガーは言葉の意味にも存在論的差異を指摘している。つまり言葉の意味としての存在論的差異とは言語の意味がもつ、個別的意味と一般的意味との二重性のことである。
つまり、この寿司は美味しい、と発語した場合、美味しいという個別的意味、関係的意味は寿司=美味しいという感じに表現されてしまう。これだと私と無関係に寿司の客観的属性として美味しいという意味があるかのように一般化されてしまう。
つまり言語とは個別的意味を一般意味化するように作動するのであり、ここに存在論的差異の混淆であり誤認が生じる原因があるのだ。
僕自身、吉本の共同幻想論についてはまだ、原著の共同幻想論とその入門書に軽く目を通しただけで吉本思想というものもほとんど知らないので、これ以上のことはいえないが、今後、吉本研究に着手し、共同幻想論という観点から意味論をより精緻に整理して、これを時間論と接続することになるかもしれない。
いずれにせよ、フロイトがリビドーの根源を性の欲動に見出したように、共同幻想では対幻想(家族、恋愛など)が始原として考えられている。
また吉本では共同幻想と個人幻想との逆立が問題視されるが、そもそも個人幻想は共同幻想からの逆立なしには分離しないだろう。であるから、逆立とは同時に弁証法的な意味での個人幻想の肯定であり一致だといえる。この逆立の一致こそが存在論的差異の同一としての近代主体を実現している。
全体主義を考えれば分かるが、全体主義では個人は全体に完全に帰依するか、抹殺されるかであって個人幻想を分離しえない。つまり象徴界に個人幻想が生きることのできる欠如(差異)がない。だから、幻想の分離についてこれをたんに逆立といってしまうのは不自然である。
さて、ここで確実に言えるのは、言語の意味の二重性は誤認を生じるが、その誤認を惹起する構造において、弁証法的な差異の同一としての欲望を構成しているということである。このことこそが、時間がコトでありながらモノ(空間性)を蒙らずには時間化(今の過去・現在・未来の分節)を構成しないことに関係しているに違いない。
重要なのは時間と言語に関するこの厄介な意味の二重性における想像的誤認について多くの人文学者が無頓着であり、まるで理解していないことである。この無理解のために現代言語学をはじめとする人文学問の退化が生じているのは、この記事の論旨を理解する者にとっては言うまでもないだろう。
そもそも人文学研究の能力は現行のクイズ化した受験システムによっては選別しえないだろう。学問とは答える能力ではなく問う能力であり、一方的に答えるだけのテストでは学問の適性は測れない。
宗教論の精神分析
関連する考察としておまけ程度に宗教幻想について考えてみた。
まず否定神学構造の象徴界における分離の議論をこれまでに論じてきたが、この分離が否認されたり、分離を可能とする父の名(父性隠喩)を排除する構造が存在する。ラカン派この否認を倒錯と呼び、排除を精神病と呼ぶ。
さてこれが肝心なのだが未分離といっても、もともとの象徴界の構造がどのタイプかで違うのである。
これを世界宗教に対応させてみよう。
まず某世界宗教のバイブルに、教条主義しか認めん、リテラルな解釈オンリーというニュアンスの記述がある。
この宗教は否定神学的な象徴界をもつ共同幻想である。そしてこの宗教の文字は表音文字である。
さてこの世界宗教は、したがって否認や排除を構成していると見なす余地がある。またこの世界宗教は排他的共同幻想を特徴とする。この排他性は内部にも特徴的で宗派間の相互承認は存在しない。
だからやはり凄く想像的な競合関係を構成している。
この宗教はそれゆえにこそ世界宗教としては新興である。これは否定神学システムとその誤認の効果をしめしているように感じなくもない。僕は某世界宗教についてはほとんど知らないので、この考察はかなり雑な考察になる。
さて、おなじく未分離でも日本のアニミズムでは否定神学システムの象徴界における支配性は小さく限定的である。それよりも共時的な今と現前の複数性の象徴界システムを構成する。
この場合は、個人幻想のレベルでは想像的な決闘関係となり阿闍世コンプレックス的な母子結合が中心化するが、共同幻想のレベルでは決闘関係は控えめで包摂的関係となる。
※日本文化はフロイト的兄弟同盟よりも兄弟間争いが強く、これを河合隼雄はウロボロス的父性と呼んだ
このような共同幻想の包摂性を河合隼雄は中空構造と呼び、吉本隆明はアジア的と呼んだ。
共同幻想のレベルでは、想像的な決闘関係が回避されるのである。もとより多神的な世界観では、大他者(主体性、イメージ)が複数形だから、共同幻想の次元では競合などしないのだろう。
かつて河合隼雄はこれからの社会では女性の意識が必要だと説いた。女性の意識とはラカンでいえば女性の式にある複数性の象徴界において男性的な否定神学構造を生かす意識をいう。
つまり河合隼雄は止揚された近代主体を解決にあげていたと考えられる。河合隼雄の戦争体験を踏まえれば、この方向性の読解の正当性は言うまでもないだろう。
僕もこの方向性以外には解決は考えられないと考えている。しかし近年の言論人は執拗に近代の市民社会の理念を標的に叩く傾向があり、反動保守思想の動きも活発なようである。
因果律と最小単位の秘密
時間と空間の原因
カントは理性が全体性や完全性、絶対原因を求めたがるといったが、その理由は理性=論理学が時間の一方向化による連続性によって成立するからである。
この場合、時間には過去の一点に起源としての始点が要請されるので、理性が誤認としての完全な自由を求める本性のために、その否定神学的、あるいは物自体的な起源としての始点(究極原因)が問われることとなる。
したがって最小の構成要素とはそれ単体で独立した作用をもつ要素を示す。
つまり時間的な過去の始発となる一点は、空間的には最小単位としての構成要素として措定される。時間に何者にも規定(原因)されえない絶対的始点が想定されるように、空間にも何者にも構成(原因)されえない最小単位としの量子が構想されることとなる。
ここで全体と部分を考えよう。全体とは複数の要素による因果関係の複雑な錯綜により作動する機構をもつ。対する部分とは単一の作用因である。
つまり最小単位の合成としてあるモノは、内部に様々なベクトルの葛藤を抱えうる。
対する最小単位とはその内部は単一であるから、最小単位の動作は内的葛藤を持たない。
だから最小単位とは単一の作用力(意志)をもつ個体として規定できる。外界の作用に隷属しているとも観れるが、それでも単一の作用力の単位として観れば、その単子を基準とする限り、それは単一の能動体である。
つまり最小単位とはその内部構造については力学的な無葛藤状態にあると人は考える側面がある。
※本当に最小単位が力学的無葛藤かは問題ではなく人はそのように捉えがちということ
またここでは全体が最小単位である部分へと回帰する作用が無視される傾向が強い。最小単位が一方的に全体に作用・原因するかのような誤認がある。
時間を過去の始点に遡ってそこから存在の運命を暴こうとすること、このような決定論的願望を惹起するニュートン時間モデルは、空間面においては空間を構成する単位を限界まで細分化してその最小単位を暴こうとすることに対応している。どちらもが中動態から能動態へと向かうさいの引き受けの契機を受動態に分離して成立しているのが分かる。
つまり時間の始点においては始点に先だち原因するものはなく、ゆえに時間の始点とは単一の能動性であり、その意味で表象性(実体化)を生じる。
表象においては原因も結果もそれは独立した対象としての像をとるから、ここに引き受けと能動との分離が問題となる。
科学が客観に属しながら、恣意的に因果関係を直線化しがちな理由もこれまでの時間と論理学の考察からよく分かるだろう。
ダーウィニズムとネオリベ
ダーウィニズムとは個体が環境に対して適応するモデルとなる。ここでは個体が種としての集団に先行して絶対的説明単位(原因)に措定される。
つまり量子としての個体から生物全体(最小単位の合成)の進化などのありようが洞察される。
ダーウィニズムの物語性はこのような近代主体が幻想する客観に属する論理学の絶対化にある。つまり客観が絶対的な実在とされ、まず客観があって、主観(認識)が生じると考える。かくして現象学と真逆の認識パラダイムを前提する。
しかし現実には既に確認したように客観系である論理学は生の体験世界より、類身体的幻想に相関した知覚像が分離のプロセスを経て構造化されたものに過ぎない。
そのために理性であり論理学はその限界・誤認からアポリアを生じてしまう。ダーウィニズムの量子論的パースペクティブはその背後に自由意志の表象的独在という誤認を前提しており、そのためにこそ、ダーウィニズムの適者生存はシカゴ学派経済学のような自由競争による弱肉強食の社会モデルを正当化する論理として誤読されてきた歴史があると考えられる。
つまりシカゴ学派、ダーウィニズム、両者はともに同じ幻想構造・時間構造の効果として生じている。
つまりダーウィニズムが優生学思想やネオリベの正当化に利用されてきたのは、そもそもダーウィニズムが依拠する認識論的、自由論的パラダイムの存在論的顚倒による。だからこうした誤認には必然性があり、それはダーウィンの進化論がその論を発する前提としておく主客の認識論モデルの歪みに起因する。現象学的には個体よりむしろ種や共同主体のが先行すると言わねばならないだろう。そもそも生存競争という観念からして恣意的な解釈に過ぎず、むしろ種は協調しているともいいうる。
ここでネオリベの論理を確認しよう。自由競争論者ではYouTubeのアベマという報道番組を僕が確認する限り、経済的成功はその人物の能力だけが原因であり、偶然性は存在せず優れた者だけが絶対に成功するという前提のもとに経済論が述べられる傾向がある。したがって潰れそうな会社はゾンビ企業であり、これを抹殺する淘汰圧をかけることで適者生存を実現せねばならない、という論旨のことを報道していた。
この妄想的な独断論を支えるのは供給因だけが全てを決定するという古典派経済学的前提である。これは経営学チックに思う。
というのも経営主体にとって需要はコントロールできないが供給能力とは自身が供給者としてもつ経営能力だからだ。つまり供給因説とは、経済的成功は経営主体を絶対的原因とすることで成り立つ。
つまりここでも円環をきって直進させるニュートン時間の絶対化や時間の始点としての能動、最小単位としての葛藤なき行為主体が想定されているのだ。
こうして見れば、ニュートン時間とダーウィニズムとシカゴ学派経済学との認識論的パラダイムの通底は誰の目にも明らかとなろう。シカゴ学派は規制なき経済の自由を標榜しているのだから、まさに禁止なき自由の妄想に取り憑かれている。
すでに当ブログの他の記事で書いているので説明は割愛するが、ネオリベの認識論的パラダイムの顚倒が放置されたことで、現代日本では急速に近代主体が解体する現象が疫学的に確認されている。
非定型発達化とはこの事態をよく示すだろう。
非定型発達化は人間から精神病を消去(あるいは普通化)しつつあるが、しかしそのミクロな健康さはマクロなレベルでは共同体を解体へと追い込みレイシズムや優生学を蘇らせる原動力にもなりえるだろう。
僕は不安を煽っているのではなく、理論的な根拠のもとに可能性の1つを論じ議論を促している。問題提起をするとすぐに不安ビジネスだとか騒ぐ人がいるが、社会とは問題提起なしには成立しない。問題意識のない主体的な社会参画など存在しないからだ。社会への問題意識がないならそこにあるのは社会従属だけである。葛藤を否定しても意味が無いということ。
ネオリベと存在論的差異
ネオリベと存在論的差異については、当ブログ記事のペルソナ5Rの考察記事で極めて詳細かつ誰にでも分かるようにかなりの長文で丁寧に解説しているのでここではその概要を圧縮して記す。
フーコーの権力論における生権力は規律訓練と生政治とで構成される。規律訓練とは近代国民国家を実現するところの個人であり自由意志の主体をつくりだすための学校教育を筆頭とした法秩序による身体の規則への馴致(身体の言語化、身体所有)、規則を守らせる教育全般をいう。これがパノプティコンモデルの監獄がベースであるというのがフーコーの考えだった。
これに対して生政治とは統計にもとづく生命などの保全を目的とした生物学的な人間管理、公衆衛生などに属する。ここでは個人としてでなく統計的な動物として人が管理される。
このとき規律訓練はラカンのフリュストラシオンにおける母の要請2の言葉に対応し、この要請が直接性の禁止によって個人主体の形成を存在論的差異=欲望=不満足という形で実現する。つまるところ社会的承認を迂回してあらゆる満足(享楽)を得るところの言語化された主体を形成する。
そして、生政治は幼児が母を呼ぶときの欲求の次元、つまり生物学的な直接的満足の要請1(欲求)の言葉に対応する。これは社会言語的な象徴界以前の現実界的な欲求を満たそうとする統計言語の水準にある。
さて、生政治とは消費社会の原理そのものである。いうまでもなく経済空間では統計によって個々人は処理され、しかもその統計によって個人は完全に記述されると見なす。このことは人文学における論理実証主義の蔓延を見ても、マーケティングにおけるビッグデータの活用をみても明らかだろう。統計学をつかって固有名をもつ個人がなんであるかを完全に特定できる、という幻想が生じるのもそれが欲求の次元を直接処理する言語=要請1だからである。
つまり消費の享楽が目指すのは生物学的な直接的享楽を統計的言語によって完全に実現することにある。
関税や保護主義とは経済と消費という生物的欲求に対する母の要請の言葉に他ならず、国家と資本主義経済との二重性(欲望の弁証法)が人間の欲望としての存在論的差異を構成すると分かる。
つまりラカンの人間の最初期における言語化プロセスとしてのフリュストラシオンのモデル(要請ー欲求)はフーコーの国家権力論のモデル(規律訓練ー生政治)にぴったりフィットする。
さらにいえば、金で金を欲望して金を増やし続ける構造は、リビドーがリビドー自身に再備給されつづける自体性愛的構造と相同性をなす。金は欲望の対象であるから資本主義における人々の動機であり、それゆえ経済的欲望の構造はそれ自体で欲望としての存在論的差異を抹消する作用を持つ。
ラカンの資本主義のディスクールの下段に//という無限循環を止める壁がないのも自体性愛的インセンティブ構造をよく示す。
しかもこの自体性愛的なインセンティブ構造は、価値などの真理について、売れているから正しい、正しいから売れている、という真理の循環論法を生じ、これにより相対主義的な独断論(形而上学)を生じる。
以上から近代国家では関税などによる資本市場への国家の介入(要請)が、主体的な国民を形成すると分かる。
これを簡略的に示せば国民国家を要請の審級、市場経済を欲求の審級、両者の止揚であり差異としての欲望の空間を社会の審級、と三層に分けて論じることができるだろう。
またパノプティコンにおける監視者の消失は大他者の欠如に相当する。フロイト風にいえば、この大他者(原父)の死が超自我の内面化を生じ、現実吟味を作動するといえよう。これはラカンでいう去勢の段階で、現実界の父による想像的ファルスの象徴的負債、を示す。
さてフーコーはパノプティコンだと喚き近代国家のパノプティコン的構造を悪認定している側面があるがこれは間違いで、パノプティコンは一般意志による個人の生成に不可欠な自他関係の構造となる。
規律訓練による身体の秩序化は、まさしく自由意志のための身体所有に相当する。だから必要なのは誤認を解くこと、さらなる分離である。
さらにフーコーでは逆向きの介入が主張されるが、これは資本市場の自由を邪魔しないように国家が介入するシカゴ学派的モデルである。
そしてこの逆方向の介入はラカンの分析治療が後期になると逆方向の解釈をなすようになったことと重なる。
逆向きの解釈とは自己がなんであるかという解釈=言語的意味付け(要請)を静止し、単独的な自己(S1)を、言語的意味・解釈との埋まらない存在論的差異の核として取り出すことで欲望の差異を賦活するスタイルである。
※疎外S1→S2をある意味で否定し意味S2を単独的無意味S1に戻すのが逆方向の解釈
つまり70年代段階ですでに先進諸国の象徴界はネオリベの逆向きの介入によって、欠如を排除するよう変質しており、この象徴界の変質のために後期ラカンでは逆向きの解釈へと移行したのでは、という僕の仮説。どちらもが主体に対して要請の言語を撤収する構造にあり2つの逆向きはアナロジーをなす。
ラカンのマテームから見ればフーコーの近代批判の無意味さは明らかだろう。この構造が分かるとLGBTQA…無限増殖やHSPの意味も明瞭となる。これらは欠如なき象徴界の形成、つまり欲求不満なき言語、資本主義のディスクールのことに他ならない。
HSPについては異世界転生作品と同質の物語構造にあり、とくに象徴界の崩壊を象徴するエセ心理学概念である。
いうまでもなく資本主義が悪いのではない、国家の審級が経済の審級に呑み込まれ、不満足を生み出す母の要請の言葉が排除される今日の日本の言論が問題だということである。資本主義と国家とは2つの異なる存在論的審級が重なってフリュストラシオン(社会)を構築することに意味がある。
フーコーにしろデリダにしろ言えるのは不満足のない自由など存在していないということ。それは想像的誤認が見せる幻影にすぎない。だから近代を闇雲に否定しても意味がない。
本記事の論旨と対応させると、ここでのネオリベ考察は客観であり論理学の構造が象徴界においてどうして支配的となるかを示す。またそれだけでなく、論理学の秩序が象徴界の全てを支配したときに論理学的時間構造それ自体が自壊する様を経済幻想の次元で示している。
意味や価値の領域が論理学的論理で扱えないこともここまでの解説でよく分かるだろう。だから論理実証主義の社会学や言語学はもう終わりにすべきだと言いたい。
全ては自由意志の誤認の作用、認識と体験との差異の消失によって生じているのは言うまでもない。すでに僕たちはそれを1つの時代精神の象徴であるデリダの批判を介して確認した。
おわりに
これまで数年間の僕の研究成果のうちから主要なものを概観しまとめる記事として書いてみたが、過去記事との重複の問題でうまくまとめられなかった。
自分の理解がまだ浅いためなのか、そんなに難しくないのに、なぜか解説文を書くと分かりにくくなってしまう。
書いて分かったが最近の僕の研究成果は、吉本隆明の参照で可能となった核兵器ー国家ー身体の布置による国家幻想と時間の解体現象との接続。
あとは木村敏の参照による中動態の着眼によって可能となった、述語性象徴界分析、さらに吉本でいう幻想の分化と分離、ラカンでいう疎外と分離の差異や象徴界システムの種類の明確化。
それと連動して、ユング派のイメージ論の存在論的精密化やラカンの疎外と分離が言語やイメージの地平でどのように記述可能かということ。
この半年あたりの僕の研究成果はようするに、時間理論の国家論への接続とイメージの生成メカニズムと言語分析の進展を通した理論の精緻化につきる。
とくにリンゴの喩えで示したイメージの仕組みや一神教とイメージ否定による受動態の生成の仕組みは、僕の知る限りまだ僕しか言っていない。深層心理学の本だと一神教がイメージを禁止にして主客が分離したとことについて大雑把な書き方しかしてないので、具体的にそれがどういうことか、昔から気になっていたからこの記事を書きながら考察してみた。
さて現代言語学では、言語を客体化し論理学的論理による言語の基礎付けを目指している。これは言語学の矮小化という他ない。吉本の時代から何も変っていない。言語が論理学空間を構成するのであってその逆はない。言語学の顚倒は、客観至上主義の哀れな発露というより他ない。
竹田青嗣が鋭く指摘するように客観系は実存領域を起源とした類身体的幻想に過ぎない。この記事はだから現代言語学批判という意味も持っている。
ところでYouTubeのどの言論を見ても現代社会を象徴界や存在態勢のレベルで総括する統合的な議論は確認できない。
これは言論の退化ではなかろうか。もう少し、言論人には頑張って欲しい。しかし言論人には期待できないので、このブログの読者には自分の頭で考えてもらって僕以上のレベルになって情報発信をガンガンしてもらいたい。僕程度なら数年の読書で誰もが到達可能なのだ。
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