※この記事はメタファー:リファンタジオの重大なネタバレを含みます!クリアした人向けの記事です!また考察記事でありこの記事の内容は一つの解釈です
うたまるです。
ペルソナシリーズでも有名なアトラスの新作タイトル、メタファー:リファンタジオをクリアしたので考察レビュー記事を書くことにしました。
というわけでこの記事は既にプレイしてクリア済みの人向けの記事です。
さて、ペルソナはユング心理学の用語であったが本作で登場するアーキタイプもまたユング心理学用語。アーキタイプとは元型とも呼ばれる原始心像の元として想定された概念。
ファンタジオ・幻想といえば深層心理学!というわけで、深層心理学の幻想分析の手法を駆使して作品を分析・考察したいと思います。
この記事では、本作がなぜ不安という感情をテーマにしているのか、なぜメタフィクション構造をとっているのか、これらメタ構造や不安が本作の主題たる民主主義とどのような関係を持つのかを考察・解明してゆきます。
王子の呪いといばら姫

さて、本作ではフォーデンに狙われた王子は聖母性をもつレラのいばらの呪いによって、長き眠りにつくのだった。
グリム童話やフランスの昔話にくわしい人やユング好きであればこのモチーフの元ネタは明白であろう。
そう、いばら姫だ。
いばら姫とは、グリム童話の一つ。
簡単にそのあらすじを紹介しよう。
姫が15歳になると魔女(糸を紡ぐおばさん)の死の呪いで死ぬことが賢者によって予言される。それを回避するため赤ん坊の姫は賢者の加護をうける。この加護により呪いは弱まり、死ぬのではなく100年の眠りで済むようになる。
また王は娘をまもるため対策をする。しかし姫は15歳になるとやはり魔女の裁縫針でひとつきにされ、茨の呪いがかかり100年の眠りにつく。
その呪いで姫ばかりか城そのものも深い眠りにつき、城はいばらに囲われて孤独と静寂に支配される。どのような人もこの呪いを解くことはできなかったが、やがて100年の月日を経て一人の勇敢な王子がやってくると、王子はなんなく茨を突破して姫にキスをした。
そのキスで姫は目を覚まし、いばらの呪いは解かれたのだった。
完
じっさいには13人の賢者が出てきたり、呪いにかかる前の話が結構ながいのだが、本作に関係するラストの部分だけをダイジェスト紹介するとこんな感じ。
そんなわけで本作で王子が聖女・聖母的なレラのかけたイバラの呪いにかかり長き眠りにつくが、分身の王子がやってきて呪いが解けるという展開は、いばら姫がモチーフと思う。レラがかけるはずの呪いも元は死の呪いであったが手違いで眠りにつく茨の呪いになってしまったわけで、このあたりもいばら姫の物語と一致する。

いばら姫のユング派解釈、フランツ解釈によると、呪いをかけた糸を紡ぐおばあさんはアーキタイプの一つ、グレートマザーの負の側面(魔女)のメタファーだという。思春期の女性があらゆる異性を拒絶して、心を閉ざす時期がしばしばあるのは有名だが、そのような女性の心理を基礎づける幻想がいばら姫なのだ。
※グレートマザーと女性の眠りや離人症との関連は過去に動画でとりあげているので飽きたのと、今回の分析にはそこまで関連がないので割愛する。興味ある人は河合隼雄の本を参照
するとレラの力がグレートマザー的でレラが母性的な理由もよく分かるだろう。パリパスのバジリオ兄弟をレラが救ったのも彼女の母性・グレートマザー性をよく示す。
いわば本作におけるレラとの対決は王子が大人になるために要請される象徴的な母殺しであり、グレートマザーの克服とみることができよう。またレラはソグネというドラゴンをつかえているが、ドラゴンもユング派ではグレートマザーの一つとされる。
王子がこころなしか少女のようなルックスなのもいばら姫っぽさがある気がする。
不安と民主主義
本作のテーマは民主制と幻想にある。
作品世界は革命前夜のフランスといった感じだ。間違いなくフランス革命を意識した作品だと思う。
リファンタジオの世界ではクレマール、ルサント、ローグ、ニディア、イシュキア、パリパス、ムツリム、ユージフ、エルダの9種族がおり種族差別がたえない。
そんな中世・近世ヨーロッパ風ファンタジーな王制の国にあって、王の魔法により次の王が世襲ではなく、一切の身分、種族の差別なく、より多くの国民からの支持をえた人となることに。
男女・種族・階級を問わない普通選挙による民主主義の到来である。
本作は剣と魔法の世界で近代民主主義が生じ、そのなかで主人公が王を目指す物語だった。
ここで重要なのは不安がもっとも重要な感情として取り出されていること。
じつは不安とは近代に特徴的だ。
近代哲学の巨人、ハイデガーは人間のもっとも根源的な感情を不安だという。また不安は近代以後に特権性をもつ特殊な感情とされる。つまり本格的な不安とはもともと近代の誕生と同時なのだ。
※近代以前に不安を主題とする哲学は存在しない、近代になってハイデガーやキルケゴール、ラカンなど多くの学者が人間の根源感情として不安を扱いだした、またフーコーも構造主義の誕生を近代において生じた意味と存在との乖離であり存在論と命題論理の乖離による不安の産物だという
そんな不安とはなにか?
それは恐怖ではない。恐怖には具体的な対象がある。不安とはより根源的であり、特定の対象をもたぬもの。それは存在の不安であり死の不安である。
たとえば死は対象が喪われるのでなく対象を在らしめること、在ることの無であろう。体験できぬ無が死の内実であり、それは不安を喚起する。
より実存的にいえば自己が日常了解している自らの存在意味が喪失するような、この世界と自らに関する意味の根源的欠如が不安であり死なのだ。人は体験不能の死を、自らの体験可能域を飛び越して先駆的に覚悟するとき、自らの人生の意味を問い、そのとき初めて自己存在の決定権の獲得と引き換えに、意味の欠如としての不安を露呈する。
人は、この自己の存在と意味をめぐる根源的欠如、この欠如をして個人主体であり近代民主主義の主体を可能たらしめており、この欠如に対する底知れぬ不穏の念を人は不安と呼ぶ。
さて対象を持つ恐れへの対処は容易であり、その対象を処理すればたちどころに消失する。
しかし不安は対象を持たぬゆえ消すことができない。この不安を消そうとすれば何か特定の対象に不安をおしつけ恐怖へと変換し、その対象を処理するという仕方にたよる他ない。しかしこの場合の対象とはかりそめ、不安の本体ではないため対象を消したとて、また新しい対象へと不安は投影されよう。
不安は対象ではない、無であるから消すことができない。人は人間であるかぎり不安を消し去ることはできない。
※ラカンはさらに不安への考察を深め、不安の対象ならざる対象を対象aと呼び、不安は対象を持たないわけではないとしたが、長くなるからこの説明は割愛
また近代に本格的な不安が誕生したということは不安とは、世界が神話的意味を喪失したことで誕生したともいえる。だから不安は世界の根拠となる神が死んで生じた。
つまり世界の根源的根拠である神の死がこの世界における根源的な意味・根拠の欠如をつくりだし、それが不安となったのだ。
また私・自己主体とは世界の意味(言葉)の連鎖の中にあって意味づけられる。とすれば世界の意味の欠如は私の意味の欠如と重なる。世界がその根源で意味を欠くとき、私もまた自らの意味を根源的に欠く。
※意味の連鎖の中に私があるとは、私はサラリーマンだ!という風に言語的意味の連鎖体系に私が組み込まれていることで自己を言語的存在におけるということ、ここが乱れると精神病となる
つまり自己紹介を考えると分かりやすいが、私が何であるかは世界と私との関係としてしか記述しえない、すると世界の意味を説明できない場合には世界との関係でしか示せない自己の意味も説明ができない。何かを説明しきれないということは、その何かには意味の欠如があるのだ。
自己や対象に関してその意味を、意味の意味の、、、という仕方であれ問いうる限りは意味には欠損がある。
また対象の意味とは私と対象との関係の記述、私にとっての対象の記述だから、対象の意味の喪失は自己の意味の喪失でもある。このような世界と私に関する根源的無意味さ、欠如が不安を呼び覚ますのだ。
さて本作では王笏によって国民の不安を回収して国民の精神を保っていたのだった。これは近代以前の王政の時代に(本格的な)不安などなかったことに対応する。いわば不安は王という宗教的権威(神)であり、その神話の魔力によってかき消されていたのだ。神話的コスモロジーと一致する古代人にとって不安など存在する余地がない。すべては神話的に意味づけられているから不安はない。恐怖こそあれ不安は、近代のように主題化されることがない。
ここで不安について簡単な補足をしておこう。人は病気を恐れるがときにそれは恐れというよりも死の不安という形をとる。あるいは不安を防衛するために具体的な身体の病気に不安を押しつけて恐怖へと置き換え安心しようとする。
このような現代人の心理はどこからやってくるか。
それは一つには身体であろう。身体とは私でありながら、その健康のこととなると私には分からない。なんの自覚症状もなく検査をしてとんでもない病気が見つかるということもある。自らであるはずの身体に私の予期しないまったくのおぞましい他者の主体・病魔が巣くい自らをむしばんでゆく。
このような自己自身にも関わらず、自らに知られていない自己知・身体知への根源的欠如、それを生み出すのが近代の健康幻想であり医療幻想によって上書きされた身体なのだ。
伊藤計画の小説、ハーモニーの世界は、この身体の不安をテクノロジーと統計の言語が埋め立てることで生じており、本作の主題ともじつは密接に関わる。
自分自身のことなのに自己自身が決して知ることのできないブラックボックスの主体である身体、その身体の不可知域は意志をもつかのように身体自らをむしばむ。
またこの不安の今日的表明のもうひとつが脳幻想である。脳科学によって心を完全に解明することができるという幻想。それは妄想に他ならないのであるが、このようなエセ科学的妄想に取り憑かれるのはなぜか?
それは私という存在がどうしたって私によっては知り尽くせないブラックボックスをもつことの拒絶、自己存在の絶対的な未知・欠如への拒絶のためだろう。この欠如から目を背けることをハイデガーは頽落と呼んだ。また頽落で落ちる先をラカンは現実界の超自我=ニンゲンと考えた。本作の化け物ニンゲンは欠如を喪い不安に襲われそれを拒絶した人間の姿に他ならない。
※頽落論は形而上学的二項対立、本来的と非本来的のパラダイムにあり、哲学としてあまりよくないとされるが、これを主体が欠如なき象徴界に嵌まることと解釈するなら、そう悪い言葉でもない
そんなわけで不安を埋め立てようという衝動が、脳科学によって心を解き明かせるという妄想をつくりだす。いわば脳科学(AI万能論)への信仰は一つの独裁王や神を妄想することと等価なのだ。このように考えることはできないだろうか。
だからこそ本作では王であり王笏(ファルス、対象a)こそが、そのような不安を埋め立てる魔道器として描写されたのだろう。王と王笏は世界と個々人の根源的意味の全てを基礎づける究極の根拠であった。欠如・不安をうめたてる究極の根拠、それが王笏の役割だ。
また主人公は記憶喪失であったが、これも自己の根源的意味の欠如を示すだろう。フロイトでいう幼児健忘に対応してもいる。
自分が根源的には何者なのか分からない、何者でもなく迫害され居場所もない存在。
※迫害され居場所なしとは言語的な意味の連鎖から弾かれた存在といえる
自己の意味(根源的記憶)を忘却した存在、そのような存在の不安にあって、主人公はそれに耐え民からの承認を得て自己の存在意味を自ら決定してゆく。このとき主人公が王になる覚悟は社会言語的な近代人(人間)になる覚悟に等しい。
というのも王だけは不安を消すことができないからだ。王にとって世界の根源的意味の根拠は自己自身。しかし王は全能ではないから自分のことを知らない。そして王だけは誰にもその不安をおしつけることができない。せいぜいが先代の王に押しつけるか宗教におしつけるのが限界だろう。
王は孤独であり最初の人間(近代人)。それは最初の不安の主体だということ。だからこそ王は最初の幻想の綴り手なのだ。
したがって民主制とは自らが自らの主体となること。であればそれは国民一人一人が自らの王となることを意味する。
王の孤独と不安を自らが自らの王として抱えること、ここに民主主義の条件がある。誰もが王となりうること、これこそが誰もが自らの王であることの条件だろう。
さて、ルイの狂信者は不安をルイに預けて、ルイを全知全能の神として崇める。ルイに世界の意味の欠如(不安)をおしつけ、自らはルイの奴隷として不安のない世界を生きる。
このとき独裁者が生まれる。民主主義は個々人が自己の不安を無視したり、それを誰かに押しつけるとき、独裁の王を創り出すのだ。
さてハイデガーを参照したラカンはさらに不安に対して一歩すすんだ洞察を展開する。
ユングにならぶ幻想研究の第一人者であるラカンによれば、不安とはむしろ自己存在の根源的欠如に対してよりも、その欠如が生じた後で、その穴が埋め尽くされることにあるという。つまり真の不安とは不安(意味の欠如)が消滅することに対する不安だという。不安の消失とは不安なき時代に戻り王の奴隷となることであるから、ひとたび獲得された主体的自意識にとってそれは自己自身の死に直結する。
それゆえ不安は決して消すことができない。不安を抱えて引き受けることなしに人は人となることができない。
※ヘーゲルは主奴関係がまずあって、つぎに主奴関係が自己関係へと内在化し、この内在化として自らが自らの主=王となることを近代の条件としたのだろう
不安について分かると本作の意図もよく分かるだろう。
王笏を破壊し自らの不安に自らで対処してゆく本作の生き方は民主主義の誕生に対応している。
私が世界と自己の意味の欠如(不安)を引き受けて私の生き方を決めること、それは政治への主体的参与に他ならない。
人は自らの根源的意味を喪うが、この喪失が自由の根拠となると同時に不安を生じるのだ。
神や王がいた時代であれば、私の意味も生き方も神によって予め決められている。そのため私の生きる意味も私の生まれた目的も最初から与えられていて自己決定権がなく、自己存在に対する意味の欠如も存在しない。
ところが人が人間の主体であった神を殺し、王を排除して民主主義となると、人間は自らの意味の根拠であった王であり神を喪い、自己の存在の意味を自ら決定せねばならなくなる。このとき意味は欠如として人々に不安を与えもするが、その欠如こそが人間に自己存在の自由を保障する。
たとえば神の死後に私の根源的意味は○だ!と決めてみても、その意味を決定した当の自己にはなんの根拠もないということ。自己の根源的意味に先行してそれを決定する自己が根源的根拠の根拠となってしまい、根源が底抜けしてしまう。この根拠の無限後退による底抜け構造が意味の欠如と近代の不安と近代の自由との関係である。
本作はこうした自己の真理(意味)のあり方と政治制度との連動を幻想の本性に即して極めて的確に洞察しえている。
ともあれ、いつでも自己の意味を問いかえし、自らの本当のあり方を主体的に考えられる根拠、それは自らと世界の意味の根源的欠如であり不安にあるのだ。
この不安たる自由は職業選択の自由であり恋愛の自由であり政治的言論の自由、信仰の自由へとつうじる。
余談だが、このような近代に固有の相互の自由の承認について、これを宗教と同じ信仰に過ぎないというデマゴーグがいるがそれは違う。宗教というのはファンタジオ・幻想・神話を客観的史実として語るのであり、自由の相互承認とはそのような宗教幻想を幻想でありメタファー、フィクションと洞察することで誕生する。
※フーコーはこの違いをエピステーメーとして的確に描写しえている
だから理論上、正確には自由の相互承認は信仰かもしれないが、それはポスト宗教のレベルにしかありえない。近代の自由概念とは信仰が客観的な知からズレてゆくこと、そのような差異(欠如)を支える特殊な信仰なのだ。
※この時点で本作の現代社会への問題認識の正しさは、岡田斗司夫なんかも絶賛していた某学者の遙か上をゆく。いかに日本の大学の人文学者にポンコツが多いかはゲームをやってれば猿でも分かる
ファンタジオと不安

幻想とは理想である。少なくとも本作は『幻想』を『現実には欠如した理想』として描いている。
※このような彼岸に欠如なき対象世界(対象a)を空想すること、この空想をラカンは根源的幻想と呼ぶ
理想とは不安のない完全な世界である。また不安である世界の意味の欠如は不満足を生み出す。
社会が不完全であり理不尽であるとき、人はその不満足から理想を描く。かくて人の描く理想、社会のあるべき姿とは、現実の社会における欠点から生じ、その欠如を埋めるようなものとして描写される。
完全な理想世界には意味の欠如などない。自らのなんであるかは完全に把握され、自己の使命(意味)にはなんの欠落もなく、いかなる不満足もない。
それゆえ、幻想は不安がないという形の不安をその核に持つ。幻想は不安を核とする主体の墓場なのだ。幻想はそれが現実化してしまえば主体を殺すものでもある。
この幻想の両価性をラカンはエスバレ・ポワソン・プティットアー(根源的幻想)と呼ぶ。
幻想・理想は現実(此岸)と分離した彼岸であり、理想は彼岸にある限りで理想だが現実化すればたちどころに不安をつくりださずにはおれない。
もっとも理想は実際に、それが社会に実現したときには、あらたな社会矛盾を生み出し、その矛盾・欠如がまたあらたな理想を構築する。この理想と現実を巡る一致と不一致の運動を近代民主主義の産みの親の一人であるヘーゲルは弁証法と呼んだ。
またこれをラカンは欲望の弁証法と呼ぶ。
ユングはこれを自己実現の過程とか個性化の過程と呼ぶ。
※ラカン・フーコーの歴史論とヘーゲルの違いは不可能なものとか欠如についてを中心化するか、それを無視するかにあると思う、欠如とは誤認=幻想がつくりだす自身の影=幻影に過ぎない
このとき理想と現実はその差異(欠如)をもって一致するのである。本作で幻想小説の続きが描かれるのは幻想が実現して新たな幻想(欠如・不一致)が創出される弁証法を示している。
これはまさに近代の本当の設計図にかなった精巧な民主主義の描写である。幻想の形式と民主制度と人間の自己の真理・自己関係は極めて密接に連動しており、本作はそのメカニズムを極めて正確に洞察しえている。
不安、理想、幻想これらが民主主義の本体を構成するのだ。
民主主義の実現はたんに多数決をすれば実現するというものではない。それは制度には還元できない。明確な心理学的条件を持っている。このことを本作は徹底的に描写している。民衆がその不安から独裁王のルイを渇望する様は幻想を喪った民主制が民主という国民の主体性を自己破壊し、王制独裁に退行する現象をよく示すだろう。もし多数決をしておれば民主主義だというならナチスドイツも民主主義だということになるし、戦中の日本も民主主義だということになる。
1931年の満州事変以降の日本の排外主義とファシズム化は大正デモクラシーによって生み出されたもので、事実、民本主義を唱え大正民主主義の音頭をとった吉野兄弟が生み出した民意反映派の革新官僚どもが民意に答える形でファシズム化と総動員法をしつらえ、それが第二次世界大戦の愚行・天皇全体主義を招いたのだった。
民意さえ反映してれば国民主権などというのは心理学や政治哲学に関する壮絶な無知と人間存在に対する無思慮からなる白痴の妄想に過ぎない。ましてや行動主義的な統計化可能な客体指標によってのみ民主主義の程度をはかろうなどとはあまりに馬鹿げている。客体的指標はコンテキストを無視するため、その意味を確定することはできない。
いま意味と客体(幻想と現実)の分別もつかない低知能学者や為政者の恐るべき妄想が世界を食い潰そうとしている。このような意味と客体の混同こそが民主主義をくらう欠如の消失の条件なのだ。
ゲームクリエーターが理解していることを学歴だけのエリート官僚や言論人がまるで理解していない。
さて、じつのところフランス革命の根拠となったルソーの社会契約論もまたこの弁証法を狙ったものであった。
ルソーの一般意志とは、幻想であり理想のもう一つの名である。一般意志は究極の理想、見果てぬ夢、万人の自由の実現、自由の相互承認。
その一般意志(幻想)を代表するのが法や規則、社会制度であり公共事業といった現実一般である。
それゆえ一般意志は決して具体的な法でも制度でもない。それら現実とは位相を異にする幻想・理想である。
だから二つは決して静的に一致することがない。二つは動的に一致するのだ。私の存在意味が運動するように社会の意味もまた運動する。
じつはこのようなヘーゲル的弁証法の構造を持つのがユング心理学。それゆえ本作はギーゲリッヒの現代ユング心理学の理念にも極めて近いといえるだろう。
幻想とメタファー
メタファーとは象徴のこと。幻想は象徴でもある。象徴とはいわば比喩。
幻想は現実と分離した空想のこと。それゆえ幻想は現実ではないと自覚されたものをいう。
では幻想は無意味な白昼夢なのか?
それは違う。
幻想は現実のメタファー。現実に相関してあるもの。もっといえば幻想が現実を構成している。幻想なき現実は存在しない。
幻想は意味の領域にあり意味は現実に先立つ。
たとえばなんらの欲望もなしに対象を認識することは可能か、これはほとんど不可能である。
そのつどの欲望であり意志に相関して対象が対象化するのだ。
つまり客観的な物は幻想のレベルにある意によって生じている。このとき幻想は主観と客観を分離するものとして構成される。
それゆえ、幻想は客観現実をつくりだす主観なのだ。
※このような幻想を現実の領野Rとラカンは言っていると思う、主客の分離を現実吟味と呼ぶがこれは幻想によって現実に理想と意味が欠如を構成することで可能となる。それゆえ幻想が現実を構成する
さて、現実と理想の狭間(差異・裂け目)にいるモアが幻想を綴るものであった。
幻想をつづるのは現実を理想に近づけるため。だから理想・幻想を産出する意とは、理想と現実との差異それ自体なのだ。
この差異を心理学的差異(ユング派)とか存在論的差異(ハイデガー)、あるいは欲望(ラカン)、権力への意志(ニーチェ)と呼ぶ。
幻想と現実の入れ子:リファンタジオ
本作の目玉の構造は、なんといっても幻想世界のなかの幻想が現実だということ。
さて、ファンタジーといえば異世界転生が典型だが、かなり高い確率で中世~近世ヨーロッパ的な王制国家の乱立するヨーロッパ風となる。
この理由はなぜだろうか。なぜ現代人は過去の時代に理想であり幻想をみるのか。
その答えは王制の時代、魔法(呪術)がまだ信じられていた時代においては、意味の欠如がなかったからではなかろうか。
幻想・理想とは欠如なき完全なる世界、心的外傷としての世界を幻想という彼岸の領域に空想し、欲望する営みであった。
とすれば、根源的意味喪失を病む現代人にあっては中世の時代は彼岸の理想といえるのではなかろうか?
しかしより本質的には理由は別にあるだろう。
幻想・理想には失楽園という考え方がある。これは古くはプラトンのイデア想起説にも観られるものでフロイトの理論では喪われた根源的知覚の同一性をもとめる欲動のあり方にもよく現れる。
まず人は乳児の頃、欠如なき即自の原初的世界にいるが成長にともなって対象の喪失、理想と現実の分離、意味の欠如を体験するに至る。
この欠如の段階に到達して、原初的状態は喪失されたものとして意識され、その喪失であり欠如をして、それが現実における欠如を条件とする理想と重ねられる。
つまり喪失したことで事後的に過去は楽園として記述される。この過去の喪失による事後的な理想化の作用が現代人に中世ヨーロッパ的な世界を幻想の雛形とさせる要因ではなかろうか。
より素朴に言えば欲望される理想は欠如したものであって持っている物は既に持っているから欲望できないということ。だから喪失が理想の構成要件となる。
リファンタジオの作家も理想について、このような洞察・解釈をしたのではなかろうか。
とすれば現代人の理想を中世~近世フランスのごときユークロニア連合王国に見出したことは頷ける。
しかし中世的迷妄と封建主義をあくなき理想の追求によって終らせたのが当時の人たちであり、フランス革命であった。彼らのその理想が現代の民主主義の礎となっている。
つまりそのような近世・中世ヨーロッパの人たち、ユークロニアの人たちが幻想した世界こそが現代民主主義の世界であろう。ここに幻想と現実との入れ子構造が生じる。
人は喪われた過去への幻想的ノスタルジーを抱く。しかし当の過去は未来である現在の現実に幻想を重ねていた。
誰しもが子ども時代を懐かしむが、子ども時代にあっては子どもは大人への憧れを抱いているものだ。
とすれば始原の楽園を布置された過去は、未来へと向けられる幻想と等価といえるのではなかろうか。幻想小説が夢みた未来の民主主義の世界が当のユークロニアの世界では滅びた過去の文明と重なるのもここから説明できるだろう。
人は理想を抱いて明日を紡ぐが、同時にノスタルジーにも浸るのだろう。
人間のノスタルジーはいつでも幻想なのだ。それは喪われていることで生じる幻想であり、現実のそれではない。喪失の効果によって事後、思い出補正がかけられた幻。
人間にとって過去も未来も喪われている。
であればともにその二つは幻想に値するだろう。
というわけで、幻想の本質について解釈(夢分析)を行い、その解釈を当の幻想自身に入れ込んだことで生じたメタファンタジー、リファンタジオが本作の基礎構造をなす。
このような構造を現代ユング派ではシジギーにおけるアニマとアニムスの運動であり魂の働きとして洞察する。
人は夢や空想において幻想にふけり、その幻想イメージをメタファーとして解釈し意味づける。
すると解釈それ自体を再び幻想が取り込んで新たな幻想を構成する。このとき具体的イメージ・幻想をアニマと呼び、その解釈(夢分析)であり、自己内省の機能をアニムスと呼ぶ。
したがって近代民主主義とは魂がアニマとアニムスに引き裂かれつつその差異の一致の運動をなす、そういった幻想形式を不可避に生じる構造にあるのだ。これがユング派の基礎的な考えとなる。このアニマとアニムスのシジギーにおける戯れを幻想化・アニマ化したのが本作だということ。
※魂というとスピ系だとうるさいのがいるが、ここでいう魂は心理学用語であり心理学的差異を意味する
また王や王子が理想の自己像と現実の自己とに分裂・分身した本作において、この幻想と現実、理想自己と現実自己との結合と分離の結合という主題は、随所によく現れている。本作が文学における分身小説のジャンルである理由もまた、近代民主主義における人間の自己解離のあり方を反映したものだろう。
茨の呪いから解放された王子は自らの死によって自己自身と結合し、その結合において理想と現実の分離と結合の弁証法を回復するのが本作の基本である。少なくともユング心理学ではそのように読解される。本作の民主主義が理想と現実の差異の一致をなすことにこれは対応する。
また王子の理想の自己像が主人公であり、主人公が理想の王として求めたのが王子であったこと、この構造も本作の幻想の幻想が現実で現実の幻想が幻想という構造と一致するだろう。じつに美しい脚本構造を備えた物語だと分かる。
幻想・理想 | 現実 |
ユークロニア王国 (現実にとっての幻想) | 民主制日本 |
民主制日本 (ユークロニア王国 にとっての幻想) | ユークロニア王国 |
主人公 (王子の理想) | 茨の王子 |
茨の王子 (主人公にとっての 理想の王) | 主人公 |
リファンタジオと現代:戦争なき世界と戦争ある世界
幻想・理想が現実の民主主義における法などを生み出す根拠であると分かった。
昨今の世界の民主主義は雲行きがあやしい。不安に駆られた大衆が不安を対象におしつけ防衛する様が確認される。
不安に駆られた本作の古代人=現代人がニンゲンとかし人を襲うのもこのためだ。
現実界の化け物というべきニンゲン、それは不安をおしつけて処刑するための相手にうえた現代人の姿に重なる。
公金チューチュー(享楽の盗み)だなんだと騒ぎ、いもしない悪を探し出して政治的処刑ショーを楽しむ。またこの不安を糧とした裁判ショービジネスが莫大な富を生み出し経済活動として際限なく肥大してゆく。
右と左の対立の構造について以前記事にしたが、ここでも理想と現実の差異(欠如)の否定が保守とリベラルの双方で問題となっているのだった。
簡単に要点をまとめておこう。
簡単に示せばリベラルの人がいう戦争不要論の戦争は戦争という概念であり戦争全体(全称・全ての戦争)の不要をいっており現実の特定の戦争のことではない。逆に保守のいう戦争必要論は具体的な個別の戦争(特称)の必要性を念頭に戦争をなくすことが不可能だと言っている。あるいは右翼は、全ての戦争は必要ないという左翼の全称否定命題への反論として、少なくとも現実にある~の戦争は必要であると存在肯定命題で反駁しているともとれる。
しかし左翼の全称戦争(現実から切り離された戦争それ自体)が今ある現実世界というコンテキストを念頭においていないところに議論の混乱があるのだった。可能か不可能か(在・不在)でなく理想を語っているのがリベラルの判断審級で、右翼は現実の在・不在(実現可能性)を判断審級とする。
しかし、現実のよりよくを考えるのには理想(現実の欠如)を語ることが欠かせないのだった。
それゆえ右(現実)と左(理想・幻想)は二つとも必要なのだ。この両者の弁証法が民主主義水準の現実を幻想において構成しえている。
ともあれ人は、現実と幻想の差異を埋めるためにこそ激しく主張し争うわけだから、人間の主体性であり欲望は、幻想と理想の差異それ自体のことだともいえる。この差異が埋まるとは満足して主体性をなくすことに他ならない。
現代の右と左の狂った断絶は両者がこの差異を別様に排除することで生じる。それは本作でいう不安からの逃避によるニンゲン化に他ならない。
本作のニンゲンが現実のこうしたのっぴきならない混乱を象徴しているのは間違いないと思う。
※幻想と現実の境界を論じる幻想には『MGS2』『serial experiments lain』など、他にも例を挙げればきりがない
以上の身近な例をとってみても本作の時局的意義の巨大さが分かるだろう。作家の問題意識は僕には明白に思われる。
いま、あらゆるレベルで民主主義は消滅しつつある。独裁者の乱立、封建主義への退行はすでに世界中で起こりつつあるだろう。
少なくも僕は日本が民主主義の法治国家だとは一切考えていない。心理学的に日本を民主主義とみなす根拠は僕の知る限りでは存在しない。
どんなに治安がよく多数決が機能し平和であっても、それと民主主義かいなかは直接の関係はない。
素朴にいって脳に心を操作する装置でも埋め込めば犯罪率0、満足度100の世界になるし、表面的には完璧な民主化も可能だろう。しかし誰もこれを民主主義とは呼ばない。
ところで自由主義、社会主義、伝統主義はフランス革命から生まれたと言われる。またフランス革命は権力者からの抑圧というモデルを想定して、その解放として自由を手にしたとされる。しかしこの誤認が今日の混乱の要因である。じっさいには自由は葛藤(現実における理想の欠如)によってしかありえないものだからだ。抑圧者がいてそいつらが究極の理想や自由を抑圧し、隠しもっているわけではない。
ラカンはこのような誤認を想像的誤認と呼んだ。
したがってフランス革命における民主制が生み出した自由を巡る制象(制度がうみだす象徴世界、幻想)の歪みを修正するところに本作の幻想的意義をとりだすこともできよう。
終わりに
年始から、少しなまけてしまい久しぶりの投稿となった。
割愛したが本作ではユージフ族が日本人ぽかったりと、かなり風刺も効いている。
ともあれ本作はユング好きにはピンとくる作品だろう。とりわけ幻想に幻想解釈を入れ込む構造はまさに夢分析的であり、アニマとアニムスの戯れる近代幻想の成就といえる。
ゲームレビューということもあるが、最低限知っておいたほうが良さそうなことをフォーカスして感覚的な記事にしてみた。
この記事でなんとなく民主主義が不安や幻想を核に設計されたものだと分かったと思う。また自己とは何者なのかという自己への問いの構成と政治制度、不安、幻想との関連もつかんでもらえたと思いたい。
さて、義務教育ではルソーの一般意志という単語を覚えされるが一般意志や社会契約論がなにかは一切おしえない。ならルソーという名前を覚えさせる意味が無い。文科省は何を考えているのか意味が分からない。
酷いものである。いったい誰がこんなメチャクチャな教育を義務教育にしたのか?
三権分立とかどうでもいいことばかり暗記させて、民主主義のそもそもの原理や理想と現実との関わり、人間存在の構造を一つも教えないのは異常である。そんなに金だけ人間を育成したいのか?
為政者からしたら、近代民主国家の本当の設計図を国民に知られたら、甘い汁が吸えなくなって困るのだろう。だから核心をふせてどうでもいい教育をし、頭の弱い政府に従順な犬を増やしたいのだろう。
龍が如く8も優れて止揚された近代描写をしていたが本作もまた近代の隠された構造をストレートに見抜き近代を克服する名作だと思う。よく分からないネット言論人のカスカスな話を聞くくらいならゲームをやった方がよほど民主主義や社会のあるべきを理解できるのは確実であろう。知的水準としても政治系や哲学系言論人、よく分からんロジックが雑な学者よりゲームのがレベルがずっと高いと思う。
このゲームの現代社会への洞察のレベルに本職の人文学者のほとんどが到達しえていない。
本作はただ面白いだけの作品ではない。もちろん面白いだけの作品も悪くはないが、本作にはそれ以上の価値、世界を変革しうる力がある。ゲームであり幻想が現実を構成しえている、現代人はこのことを理解すべきと思う。
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