うたまるです。
今回は、日本語の不思議、「前」と「先」が未来を示すこともあれば逆に過去を示すこともあるという謎を完全解決!
たとえば
「先ほど不発弾が発見されました。この先、爆破処理による爆音が生じるのでご注意ください。」という場合、文中の最初の先は過去を示しているのに、つぎに登場する先は未来を指しています。一見すると矛盾があるように思えますが、この矛盾を解決します。
前と先とは
前とは広辞苑では「進んでいく先にある方」。
先とは広辞苑では「進んでいく前方」。
以上から目指す先、進行方向の側を前とか先ということが分かる。
前と先の時間
「この前」、「前年」という場合、前は過去を意味する。ところが「この先」という場合、「この先なにがあるか分からない」というように未来を示す。にも関わらず「先月」という場合は「前月」と同じで過去を意味する。
そして「前先」という単語は将来を意味する。
また空間的には前は「目の前」というように視線の方向、進行方向の側を示すと分かる。
日本語の前と先には、時間的な意味の反転が見られ、過去と未来の両方を意味しうる。
しかしながら、前という場合、過去を示す場合が多いようである。それに対して、先では未来を示すパターンが多々見られる。
前と先の違い
では前と先では何が違うのだろうか。
前の場合は、空間的には「目前」など目の前、つまり至近距離に使われる傾向があるが、先だと「この先に崖がある」というように遠くのまだ見えていない地点が範疇となる傾向がある。
このことから前は直前であったり目の前であったりするのに対して、先とは進行方向の先にあるもの、つまり予定された未来が含意されることが分かる。先は前よりもスパンが長いのだ。
じじつ先年という場合は過去2~3年のニュアンスがあるが、前年という場合、1年前というニュアンスが強まる。
さらに「その先に横断歩道がある」と「その前に横断歩道がある」でも意味が異なる。
「その(場所の)先に」という場合、進行方向や目的地の道中のある地点(その場所)の前方=目的地側の空間に横断歩道があるという意味になる。
他方、「その前に」という場合、その場所の手前、つまり進行方向と逆側、自分がいまいる地点とその場所との間に横断歩道があることを示すのか、その場所より目的地側に横断歩道があるのを示すのかが分からない。
このことから、先という言葉が予期や予定、予測などのニュアンスを含む長い間隔を示すのにたいし、前は、予定や目的意識というニュアンスが薄く、眼前に飛び込んでくるモノや目の前に現前しているモノを示す傾向があると考えられる。
つまり空間的には先は、今自分がいる地点と目的地との間の全域を示しうるのにたいして、前は目の前、つまり自分(前の基準物)の前方にあって自分との距離が近いほどより前になる。
つまり、空間を示す「その前に横断歩道がある」であれば、人物を基準とする場合、横断歩道はその場所よりも基準となる人物に近い側(手前)にあるが、その場所の方を基準とすれば、横断歩道はその場所より目的地側にあることになるのだ。
そもそも手前という言葉があるのも基準によって前の向きが反転するため、前方の基準を手に固定することで、向きを固定するためと考えることもできよう。
また以上のことから、前とは方向のみならず基準点との距離の近さが重要な基準となっていることが分かる。
(※ただし「もっと前」「ずっと前」ではより遠くを示す。この場合、遙か過去、自分(基準物)の生まれた時点や無限遠の過去を基準とし、その過去(最前)に対してより近いものが、もっと前とされていると解釈することもできる)
前と先の矛盾解消
ここでは前と先が文脈によって過去を示したり未来を示したりする矛盾を解消する。
まずは具体的に矛盾を見てみよう。
「先ほど沖で地震が発生しました。この先、津波が予想されるので避難してください。」
この文章では、文中の最初に登場する先は過去を、後に登場する先は未来を示す。
この時間の方向の逆転はそもそも時間が過去から未来へ向かうのか、未来から過去へ向かうのかという問題と密接に関わると考えられる。
もし時間を過去の積み重ねとして、時間が過去を原因に予定調和に進むと考えるのであれば時間は過去から未来への流れと解釈できる。
ところが、予測不能の非因果的な未来が向かってきて今となり、その今も流れて過去へと過ぎ去ると考えるのであれば、時間は未来から過去へ流れると解釈せざるえない。
このように時間の向きは何を基準にするかで逆転する。自己主体を基準に人間主体が計画を立てて将来を切り開くと考えるのか、天命によって未来が人へ与えられるのかで時間の進行方向の認識が変わるともいえるだろう。
時間を空間にたとえれば、未来という目的先へ向かって「船=時間」が進行すると捉えれば過去から未来へと時間は進むと考えられる。
ところが、時間は船ではなく川の流れであって、人は川の流れの中にあって不動の岩だと考えると、時間は未来から過去へ進むと考えれるのだ。
したがって人間中心主義的な世界観であれば、時間は主体の側の行為によって紡がれることとなり、船のオールを人が漕ぐことで進むものとされ、逆に諸行無常というように万物が勝手に流れ過ぎ去るとするならば、時間は過去へと流れさってゆくものとなる。
つまり、人を時間の主体とするか、世界や対象を時間の主体とするかで向きが変わるのだ。
ここが分かると前と先の矛盾を解消する解釈を構成できる。
前や先が過去側を意味する場合、その出来事を体験する人ではなく事象の側、客体の側が時間の主体として想定されていると考えられる。流れゆく世界は過去へと向かっているので、時間の進行方向を前とすると過去になるわけだ。
たとえば「予定が前倒しになる」という場合、ここでは予定をたてる人ではなく、予定(客体)のほうが主体となるため前倒しの前は過去の側を示すと解釈できる。
その逆に前や先が未来を意味する場合は、人が時間の主体とされていると解釈できる。時間の主体を人の側とすれば、時間は将に来たるべき予定された将来にむかって、つき進むので未来の側が前となるわけだ。
すると例文「先ほど沖で地震が発生しました。この先、津波が予想されるので避難してください。」の意味もよく分かる。
地震の発生が思いがけないこととして到来したとすれば、被災する人の側には主体性がないわけだから、地震の側が主体であり、それは未来から過去へと向かう時間となる。それゆえ最初の先は現在に対して過去を示す。
そして、津波の到来はここでは、人によって予測され予定に組み込まれることで、備えることができる。
だから「この先」としての津波の到来は現在に対して未来を示すと考えられる。
また前述の通り「先」はまだ現前しない予定を含むが、前は予定を含まないことが多い。そのため、「この前」というと過去のニュアンスになってしまう。
まとめると例文の「この先」が未来なのは、この先の津波を予測し備える人間が主体となるためだと解釈できる。
ゆえに「先」は眼前にまだない先の未来や予定を含意すると考えられる。
対する前は予定や遠い未来・目的地を示さないことがおおい。それゆえ「前」はしばしば人ではなく客体(到来する出来事)の側を時間の主体とする。
それゆえ過去の方向が前側となる傾向がある。
また先ほど、予定の前倒しは、予定という客体の側を主語としていると説明したが、予定されたことでも前倒しが過去側を前方するのは、予期せず思いがけず予定が予定に反して、つまり人間の計画に反して早まることを示すためと解釈できるだろう。
以上からも過去の側を前や先とする場合、時間の主体は人間ではなく、客体(出来事)の側にあると考えられる。ただし先という場合、予定を示すニュアンスが多いので未来を示す頻度が増えるわけだ。
中世日本と先と後
16世紀以前の日本では常に、未来は後、過去が先だったという。
つまり古い時代では、未来は未だ来ない予期不可能のもので眼前にあるのは過去だったのだ。これは自然の脅威に翻弄され受け身的に生きる古代の人にとって時間の主体が客体・出来事の側にあったためと考えられる。
よって将に来たるものとしての将来、人が計画的に生きる生き方こそが、未来を前や先とする考えの起源と考えられる。
この16世紀における先と前の転換は、人間を将来を計画して紡いでゆく時間の主体とすると時間の向きが過去から未来になるという、当記事の考察とも一致する。
また人類学的、深層心理学的な観点からいえば、将来を先とする世界観は農耕に起源を持つと考えられる。農耕定住とは狩猟自然採取文化の後に生じたもので日本で言えば縄文時代が狩猟中心、弥生時代が農耕中心。
農耕は人類最初の自然破壊であり、テクノロジーの誕生を示す。農耕では自然の大地をテクノロジーによってコントロールし耕作する。また農耕は毎年の計画的な収穫を可能とし人々に未来を予定する生き方を生じさせる。
よって将来を先とするきっかけは農耕文化によるのだ。
ちなみにメランコリー(内因性鬱病)の起源は農耕文化にあり、この予定を計画的に生きる鬱病的な時間態勢をポストフェストゥムと呼ぶ。
人類学の調査で狩猟民族にはメランコリーが存在しないことが知られている。
(※農耕と一口にいっても風土によってその時間意識はかなり異なる。これについては和辻哲郎の風土論が詳しい)
一寸先は闇と葉隠れ
「一寸先は闇」という言葉は、見据えて予定することで創られる「先」がもつ本質的な予期不可能性=偶然性をうまく捉えている。
つまり一寸先は闇という言葉は「先」が「前」の含意する時間に対する受動性=偶然性を含んでいることを僕たちに教えてくれているのだ。
先が予定した将来を射程とする傾向があるのはすでに話した。すると一寸先は闇とは予定していた将来=先が予期に反して先の見通せない闇であることを示す。
これは将来=計画に絶対がないという主体の能動性・計画性の本質をうまく示している。むしろ一寸先が闇=偶発的であるからこそ、つまり人間主体が偶発的アクシデントを自分事として引き受けるからこそ、先=将来設計が可能となる。
理屈を説明しよう。
まず将来を予定するとは未来を予測し自分の意志を未来の原因として結果=未来を思い通りにコントロール・選択することで可能となる。
ところで性的属性でも職業でも何でもいいが、自分の自由意志で自分の何であるか=実存を自己選択したとする。しかしその場合、選択するより以前の自分は何者でもないことになる。
自分が何かを、つまり自己の起源=存在理由を自己自身で選択する限り、その選択に先立つ、虚無の選択者=自己が発生してしまうわけだ。原因が無限後退するといってもいい。
するとそもそも人は自己存在の根拠をもつことが、つまり自己選択することができなくなる。自分の根拠に先立って選択する自己が生じるとしたら、その選択した根拠は選択者=自己自身の根拠にはならないということ。
これでは人は自らの生を始めることができない。ちなみに、これは現代社会の問題でもある。
したがって人は自己の外部から自己存在の根拠を引き受けねばならない。ここで自己の外部とは偶発性である。というのも予定されたことは人が選択可能だが、偶然は誰にも予測ができず選択可能性がないため。
したがって偶然とは時間の因果的連続性の断絶=死・一寸先の闇を意味し、その断絶こそが予定を生きるという因果的連続性としての生を可能ならしめるのだ。
これを言い換えれば、先は闇を抱えるからこそ可能となるといえる。
(※ラカンはこの断絶をシニフィアン連鎖の断絶であり連鎖の根拠=欠如であるという。またこの断絶をヴァイツゼッカーはクリーゼと呼ぶ。このクリーゼをして相即をなすことを主体という)
ちなみにラカン派精神分析ではこの偶発性の闇のことを欠如と呼び、この欠如こそが人間の能動性=主体だという。
また、将に来たる予定された将来=先にとって予測できない地震のような偶然の出来事(闇)は、根源的な死の不安となる。
しかしながら、時間がもつ「闇=偶然=予測不能性」こそが生の時間=先を可能とする根拠だということも見逃せないということ。
ところで葉隠れの有名な一節「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」。
この一節がいう死とは、さきほど解説したように、その死・闇・偶然を引き受けることで翻って自己の生の意味が刷新され自覚されるという日本人の実存的な時間意識を示すと解釈できる。
つまり、葉隠れの一節は、死を前に、ないしは、死の最中において、自己の生まれた意味・先が遡行して現前するという日本人の実存のあり方を示している。
話をまとめよう。
つまり、先がしばしば示すことが多い、人間主体を中心とした農耕的な時間の流れ、過去から未来へと流れる時間とは、それが本質的に逆向きの流れ、未来から過去への方向性を持つことで可能となっているのだ。
そしてその闇(死)をして生となすこと、すなわち偶発性をもつ未知なる未来から過去への時間をして、予定される過去から将来への流れが可能となることを葉隠れの一節「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」は示しているのである。
すると葉隠れの一節はニーチェの哲学とそう変わらないものとして読み解くこともできる。
日本語の先と前をこのように解釈することによって、葉隠れをニーチェの運命愛として読み解くことも可能なのだ。
コメント
いきなりですけどpsのゼノギアスとかどうですか?
ff7でクラウドが宣伝してたゲームですw
登場人物にラカンという名前が出てくるたぶん唯一のゲームかも
作者がユングとニーチェ読んでたっぽくて
アニマアニムスとか用語が出てくるという
作者がラカンをどこまで理解してたかは不明ですが
ラカン好きな人に刺さりそうなゲームです
https://www.youtube.com/watch?v=O0OMw8zZx8Q&list=PL7TnpoHilaDAwuH8TTakI3-0ZT_XUeg3q
これがストーリー動画です
もし一定のクオリティの分析ができたら、記事にしようと思います。