うたまるです。
今回は映画好きで知らぬ人はいない映画評論家の町山智浩とインフルエンサー活動家、暇空茜との対談について深層心理学的な考察をしてゆきます。
この記事では、対談のきっかけとなり、争点ともなった車椅子を巡る人助けの問題について切り込み、暇空茜の何が問題かを提示、さらにどのようにすれば車椅子福祉の問題を解決できるかを提言してゆきます。
また対談で主な争点となった人助けとは何かについても深掘りしその答えを提示してゆきます。
暇空茜の主張の問題点とは
最初に暇空茜のレトリックを暴露し彼の詭弁を論駁、そこから新しい障害者福祉のあり方を考えたい。
暇空茜の主張
暇空茜がXでポストした車椅子ユーザーに対する主張を以下に要約する。
車椅子は助けてもらう側で他人を助けない。
よって助けてもらって当たり前で相手の気持ちが分からない。
結果、一般の人から見て傲慢に見える。
さらに対談によって明らかとなったポストの意図、文意を以下に要約する。
車椅子の人も人助けはするが、車椅子を持ち上げるなどの身体を使った人助けはその障害のためにすることがない。
したがって、車椅子ユーザーは車椅子を持ち上げて助けてくれる人の気持ち(身体的負担)が分からない。
結果傲慢となる。
これに憤慨し町山氏が暇空に反論したのがそもそもの対談のきっかけである。
暇空茜の主張のトリックと欺瞞
暇空の発言には三つのレトリックが仕込まれている。
まず、車椅子の人は人を助けないという言い方をする必要が無い。
本来ならば、車椅子の人は車椅子を持ち上げるなどの身体負荷のかかる行為全般を、その障害のためにすることができないので、車椅子を持ち上げるなどして自分を助けてくれる人の気持ち、すなわち重い物を持ち上げるなどの負担の程度が分からないのかもしれない。というだろう。
ただしくは以上のように言うべきだ。
以上の車椅子ユーザーのありようを示すのに、わざわざ人を助けないということで暇空はいくつかの効果を狙っていると考えられる。
まず、人を助けない、一方的に助けてもらうだけの傲慢な奴という印象操作。
つぎに身体を使って人を助けないという表現の嘘。
助けないのではなくて、その障害のために身体をつかった行為全般ができないのである。できないのとしないのとでは全く意味が違う。
そもそもそれができたら、車椅子は人に助けてもらう必要がない。
お分かりだろうか。こうしてあたかも車椅子ユーザーがその傲慢さゆえに人助けを拒絶しているかのような印象を与えているのだ。かりに暇空にその意図がなかったとしても、暇空の言説にはこのような効果が生じるのは論理的に否定しえないだろう。
するとここにはどのような歪んだ欲望があるのかも類推できる。
つまりこうだ。暇空は主に敵を見つけ出し、障害者などの分かりやすい対象を的にかけヘイトを煽る。
こうしてネット民と敵を共有することで自らの支持者との一体感を演出、支援や影響力を拡大する。
暇空によるとXのポストで月50万の収入があるとのこと。
そのため小銭稼ぎでヘイトスピーチをしている可能性もある。
この言説の怖いのは、身体の障害という変更不能の点に傲慢さの原因をこじつけ、障害者差別を扇動して金を儲けている点。できないことをしないとすり替えたり、人助けに限定してそれをしないと言ったり、本人の力で変更できない障害そのものにヘイト感情を誘導したり、やってることが差別扇動でしかない。
変更不能の障害へとヘイトの原因を誘導することで、健常者と障害者の対立を創り上げるにあきたらず、両者の分断を調停不可能とする。そのような狙いが見て取れる。
こうして健常者と障害者のありもしない分断をでっちあげ、その対立構造を利用して暇空という商品を訴求、自己顕示欲を満たしつつ小銭稼ぎ、これが彼のビジネスの基本スキームではなかろうか。
自らの言説でヘイトを煽り両者の対立を先鋭化、その衝突を致命的なものとすることで、さらに障害者へのヘイトが強まる。そうして創り出した衝突と分断を根拠に、ほらね、言ったとおりでしょ、とでも言うつもりなのではないか。そのような疑いが拭えない。
暇空の言葉選びには当然、本人の欲望が反映される。歪んだ欲望があるから、こういうレトリカルな言説でヘイトを煽ってしまうのだろう。またXは無法地帯であり、近代社会の人権や自由を破壊している。ヘイトスピーチでマネタイズできる仕組みをどうにかすべきだろう。
ちなみに身体障害者などの一般と異なる社会的な法の待遇を受ける人たちにヘイトを向けるのを精神分析では享楽の盗みと呼ぶ。
そのため深層心理学的にみて障害者ヘイトを煽る彼の手法は古典的なアジテーションの手口である。
現代の福祉理論の問題点と町山説
現代社会では車椅子などの障害者への援助、人助けは合理的配慮として規定される。
じつはこの合理的配慮という観念こそが暇空的なヘイターを産出する遠因となっていることが懸念される。すくなくとも深層心理学的にはそのように考えるのが余地がある。
しかしながら難しいのが他方、障害者福祉には合理性(普遍性)の規定が必要でもあること。そのため障害者福祉の合理性はそれが正しく理解されねば機能せず、滑稽な独断論となる。
そこでまずは妥当な合理的配慮の理念を本質観取してみたい。
すると障害者福祉の合理性が、自由の相互承認にあることが分かる。つまり合理的配慮とは多様な価値観や身体的形質の個々人が互いをおなじ人間と認め対等の権利と互いの自由を保障することで社会の自由な多様性を実現するにあたって要請されるところの合理性と分かる。
したがって自由な多様性社会のために要請される法が障害者福祉としての合理的配慮だ。
一般福祉の充実なしに自由の相互承認はありえない。たとえばアメリカではロビー活動で資本家が政治と癒着し、法律が一部の資本家によってねじ曲げられていることが知られ多くの有識者によって問題視されている。また福祉がなくなれば、貧困は死に直結し、暴力の蔓延は必至となる。
よって富の再分配や権利の平等、福祉の安定なしに自由な市民社会はなく、これの実現にとって障害者福祉は欠かせないということ。
より深層心理学的な観点から言っても福祉の過疎化は、貨幣一様序列を惹起し過剰な想像的競合関係を生じることで市民を分断においやることが考えられる。
※すでに日本社会の言語構造は想像的競合が極に達している
したがって障害者福祉におけるその合理的配慮(普遍的根拠)とは一般福祉の根拠としての自由の相互承認の保証と分断による普遍暴力の抑制にあると分かる。
※障害者をその障害によって普遍的人間(人権対象)から除外することはできない、というのも誰もが事故などで障害者となりうるため、まさか事故で障害者になったからといって私は私で無くなったとは誰もいえまい
ただし、既にいっているように障害者福祉の問題はたんに合理的配慮、素朴な普遍のディスクールのみでは解決が難しいと考えられる。
というのも困っている車椅子ユーザーを助けることが合理的だというのは、つまりそこに合理性がなければ助ける必要がないことを含意しうるからだ。
そもそも人が人を助けるのは合理性を超えているのであって、生きた対人関係の輪をなす福祉のあり方を合理性という枠のみに去勢することは人間関係をギスギスさせる。
合理的ならば助けるのは当たり前、それゆえ合理的意志決定では人助けに主体性が生じない。
合理的判断では個人的な信念だとか感情だとかの個々人に固有の意志であり主体が、その判断から排除されることになる。
このことは純粋に数学論理的な意志決定であれば、数式によって答えを出すことができ、主体なき計算機械にでも決定が可能であることを考えればよく分かるだろう。
合理的判断とはいわばゲーム理論的な自動思考なのであって、その本質は思考停止と何ら変わらない。
個人の個別的意志や合理性を超えた内なる動機を排除して誰もが同じ結論にいたる客観合理的判断が人間の主体性を殺すといってもよい。
このような脱主体化された対人関係によって共同体を維持しようという合理的配慮なるスローガンには危険性がある。合理的といわず普遍的配慮と呼ぶほうがいい気がする。したがってここでは合理的配慮が示す普遍性、合理性がいかにあるべきかを問い詰めよう。
人はたんに合理的に自分を助けるマシーンに感謝することはない。主体を持たない自動機械に対して誰が感謝するというのか。これでは助けてくれる人は道具と変らない。
恩義や情を感じるのは、そこに自由意志の介在、つまり主体性の介在があるからだと考えられる。
つまり、自分が勝つか負けるか分からない戦いに挑むとき、計算機を引っ張り出してきて勝率を計算し自分の側につく人間と、計算など無関係に自分を信じてついてくる人間、どちらに人は恩義を感じるかということ。
また合理性を超えたところに人間関係や共同体を可能とする同胞意志はある。さらにいえば共同体のメンバーシップなしに人権はありえない。ゲーム理論の囚人のジレンマが示すように主体(メンバーシップ)を欠いた合理的判断によって人は非合理な地獄への道をつきすすむことになるだろう。
これを言い換えれば公平性の主体とは、その法(合理的配慮の法)の規定、表現において、一般意志(相互承認の意志)の欠如をもつことによって可能となる。したがって障害者福祉における合理的配慮とは全体主義的な法ではない。つねに改変可能性を含む一般意志の最善表現である。
このとき誰もが法の曖昧(一般意志とのズレ)を目がけて、そこに自己の主体性を忍ばせることができる。であればこそ合理的配慮は、その合理性の欠如にこそ介護者の主体を含み、その主体性こそが車椅子ユーザーと介護者との人間的関係の回復を実現するのではなかろうか。
よって、合理的配慮がかす法(義務)が曖昧で解釈の余地を含むことで、それに従う福祉従事者や一般人の主体性が障害者の援助場面に賦活し、その主体性を軸に障害者福祉をめぐる両者の分断が止揚されるだろうということ。
つまりもし仮に障害者が傲慢になるというのであれば、それは障害のためではなく、過剰なマニュアル主義、全体主義的な制度設計を想起しうる合理的配慮という言葉に問題があるということ。
このような構造によって不和が生み出されているとすればこれは改善可能で、障害者と健常者の対立は止揚可能だ。変更不可能な障害に原因をこじつけても社会が壊れるだけでまったく意味が無い。
ところで人権(万人に対等な権利)とは相手も自分と同じ人間であるということ、その意味での交換可能性よって可能となっている。したがって他者への配慮もまた、もし自分が相手の立場だったらという交換可能性を担保とした主体的想像力が重要となるだろう。
※メンバーシップの重要性はここにある。また障害によって障害者を普遍的人間とは違う傲慢な悪に貶める含意のある暇空のロジックは人権の成立を不可能とする
すると町山智浩が人助けを利害関係のなさと定義したことの意義もよく了解できるだろう。
いわば合理主義とはゲーム理論的に産出される損得勘定において最適解を産出することを是とする主義。そのため町山氏の人助けの定義は障害者福祉を素朴な合理主義に矮小化することへの批評と解釈する余地がある。
ともあれこのような変更可能なところに積極的に問題を見出すことなしに、両者の分断を解決することは不可能だろう。
何が原因かは言うまでもなく解釈に過ぎず実証可能性をもっていない。したがって求められるのは、ありもしない客観的な絶対的真理よりも、いかにして克服してゆく力動を見出すかという意志にある。
もちろん、ここでいう客観性の否定は荒唐無稽な飛躍した解釈を許容することではない。そうではなく、客観的な不動の絶対真理など存在しないという事実を認め、解決に向けて普遍的な合意可能性のある問題の成因(ノエマ)を見出してゆく主体性(欲望)が問題解決には欠かせないということ。
※ここでいう真理の不在とはないという様態においてすらないということ
自然科学のような物を扱う学とことなり人文社会領域である福祉の問題を考えるにあたってはこのように全く異なる思考パラダイム(現象学)が必要だ。
とりあえずここで僕は合理的配慮というスローガンを批判し、これを普遍的配慮や一般配慮と呼ぶことを提唱する。
ここでの普遍的とは、その合理性(普遍法)が欠如を含むことを示す。なのでなんなら欠如を含みもつ合理的配慮と言い換えても良い。
なぜ合理的配慮が蔓延するのか
さて、どうして社会共同体の安定と維持に関わる障害者福祉が、主体性を欠いた合理主義(全体主義的普遍性)に汚染されているのか疑問に思うかたもいるだろうから簡単に解説したいと思う。
まず合理的配慮なる言葉にはそもそも疑問を感じる人がいると思う。
すくなくとも僕は合理的という言葉には主体を積極的に排除しようという全体主義的な欲望を感じてならない。
※ただし合理性は必要でその合理性には欠如がいる
ではいかなる欲望や動機によって人助けが合理性のみに還元されるうかを考えよう。
すると合理的配慮のスローガンがカント倫理学の徳と福との一致の論理と重なる事が分かる。
ヘーゲルによるとカントは人助けなのどの善行をなすことは現実の幸福に直結すべきで、それゆえ神は要請されねばならないという。神がいれば天罰覿面であり、徳をなせば幸福となる世界が実現するということ。
徳福の一致なしには善行を行う動機がなくなるというわけだ。
しかしこれは明らかに現実と違う。人助けをしたからといって、無残に殺されてしまう人もいるわけで。
そのため徳と幸との一致はそうあって欲しいという願望による信仰に過ぎない。
すると合理的配慮とは一つのカント的な理想論の延長にあると分かる。
理想(空想)と現実(外的現実)との差異を抹消するある種の空想が合理的配慮という言葉によって現実化しているといってもいい。つまり人助け(徳)は合理的(現実的)と一致せねばという信仰。
人助けが合理的とは、精神の自由としての徳が外的現実の福をなすというのに等しかろう。
このような理想と現実との混淆は必然、人間から主体性を奪い合理主義的全体主義へと至る。
というのも既に指摘した通り、社会の法規範はその欠如であり欠陥によってこそ大衆に主体性を生じることができるからだ。
念のため補足すると、合理的配慮の法がマックの接客マニュアルくらい精密で解釈の余地なくその法に従う者の行為を規定しつくすなら、その法の従者はいっさい自己の主体性をその法によっては表現できなくなるということ。ロボットになる。
逆にマニュアルが虫食いのとき、人はその欠如を目がけてマニュアルの意図の欠如に自己の主体性を入れ込むことができる。このマニュアルはどのような態度を私に求めているのだろうか?と主体的に考えるわけだ。
かくしてマニュアルの法に対して人は主体的に参与可能となる。
つまり法の意志(意図)は法の文章からは欠落しており、その欠落ゆえに法は個々人の主体的解釈の余地を残す。この解釈の余地としての法の欠落が主体を参与させ、法そのものを人間が主体的に改変したりといったことを可能とする。
このとき、法の文章から欠如した文意が徳をなす精神の自由に対応し、具体的な法の文章が外的現実の福に対応している。つまり両者の差異(欠如)を埋める徳福一致は法に対する人間の主体性を抹消し、全体主義を惹起する。
合理的配慮はいうなればこの法の欠如を埋めたて現実と理想の境界を溶かすイデオロギーに過ぎない。このようなイデオロギーはかえって障害者福祉を困難とし、暇空的な差別的思想を蔓延することにもなろう。
だからこれを普遍的配慮とか欠如した合理的配慮と呼ぶことを提案している。
※この記事のここまでの合理的配慮の論考は竹田青嗣の論考の影響を極めて強く受けています。そのためオリジナリティは皆無です
人助け論争
ここでは、もう一つの福祉論に入るまえに、町山&暇空の対談で最大の争点となった人助け論争のけりをつけたい。
※この問題の解決も竹田青嗣の論考がベースです
町山は人助けを利害関係のない援助だという。
暇空は人助けか、いなかは助けられた人が決めることで第三者が決めつけることではないという。
町山の人助け論は人助けを利害計算(合理的損得勘定)を超えた主体の参与に見出すものと考えると非常に本質的で正鵠をいた回答に思える。
他方、暇空の意見もじつに明瞭で合点がいくだろう。
二人の見解を比べると町山説の場合は助ける側の動機に焦点し、暇空説の場合は助けられた側の判断に焦点が当てられているのが分かる。
どちらが正しいだろうか、どちらも否定しがたい。
この問題は簡単に解決できる。
両者の問題は真の人助けとか人助けそのものといったありもしない本体が想定されていることにつきる。
しかし当たり前だがそんなものはない。人助けは主体的な解釈や感覚であって、それぞれの立場によって変わる。立場超越的な人助けそのものなど存在していない。
つまり、助けられた側が助けられたと思えばそれは助けられた側にとっては人助けだということ。助けた側が自らのその行為を人助けとするかはまた別の話なのだ。
したがって人助けという主観・主体的意味が、個々の主観を解離して人助けそれ自体として客体的に存在するという間違った前提がこの話をおかしくしている。
だから、人助けの定義を論じるのであれば、助ける側にとってはいかなる条件がそろえば人助けといえるか、助けられる側のその条件は何かという二つの条件を考える必要がある。
もし助けられた側が絶対的に人助けという意味を決定するのであれば、助ける側の動機は一切不問となるし、その逆もしかりであろう。このような判断が異常なのはいうまでもない。
したがって人助けが立場によって、個々の主体によって異なるということが暇空と町山の両氏に抜け落ちていたことが議論の混乱の一因なのだ。
※このことは普遍的な人助けの意味を問えないことを意味しない。そもそもこれが人助けだという普遍的合意がありうるからこそ人々は、それについて問いうる。ただし立場別に問わねばならないということ
オルタナティブな障害者福祉
最後にオルタナティブな障害者福祉を論じよう。さきほどは普遍的ディスクール(男性的論理)から一般福祉(合理的配慮)を論じたのでここではそれとことなるパラダイム(女性的論理)によって、福祉へのオルタナティブな回答(他の配慮)を示したい。
さて僕たちが人を助けるときそこにはどのような感情の流れがありうるか。
思うにそれは他者への共感や不自由の感覚ではなかろうか。つまり相手が困っているときや困りそうなとき、その困りを共感、予感、直観して自分事とするから助けるのではなかろうか。
そこには他者を介した自己の救済という意味合いがあるのかもしれない。
つまりここでは障害者の障害という特殊性よりも、同じ人間としての共通感覚が人助けの動因となるのが分かる。いずれにせよ人は合理的な利害計算のみで人を助けるのではない。合理(打算や理屈、意味)と非合理(無意味)の総合として助けるのだ。
したがってここでは非合理(非普遍)の側面に視点をとって人助けの本質動機を共通感覚として捉えたい。
※共通感覚とは情動の言語を超えた直接的疎通、たとえばもらい泣きとかを示す。つまり主体の言語外の自他未分の領域
この場合、障害が欠如として、つまり障害(困り)として感覚されているのが分かる。
もちろん先天的な障害者にとっては初めからないのであり、それを欠如(障害)というのは不自然かもしれない。しかし他者の援助を介して自己の欠如(障害)が知られることにこそ意義があるように思う。
ようするに障害者にとって何らかの機能の欠落は最初からの欠落であって、そこに不自由だとか欠如はない、あるいは小さい。
ところがその機能の欠如を健常者は欠如として感覚し、それを自分事と捉えうる。もらい泣きが他者のなんらかの喪失を自分ごととして相手の悲しみを自分の悲しみとし引き受けるように、ここでは健常者を介して一つの機能の欠如が障害者へと知らされる。
この伝達は言語ではなく共通感覚によってである。
人が空を飛ぶ鳥を見て飛べないことに不自由(欠如)を感じることがあるように、他者を介し、他者に自己主観を入れ込むことで障害は価値ある欠如として意識されうるということ。
すでに勘のいい読者はお気づきと思うが、人間が人間化される条件とはこの欠如の引き受けにおいてである。だからここでは障害者の機能の欠如を巡る共通感覚によるその欠如の引き受けが重要となる。
さて障害者を助けるという欲望のうちには他者を介した自己の欠如の自覚が援助者と障害者との双方に生じる。人助けをする人はその障害に自己の可能性を見出すのであって、いわばありえたかもしれない自己の可能性として援助をするわけだから互いに欠如を自己に引き受けるという契機が障害者の援助にはある。
※人助けとは僕の本質観取によると多分にかつての自己の救済という意味を含むと思う、人はかつての欠如を打ち消そうとして他者を介して自己愛を満たすのだろう、だから助ける者と助けられる者とは一体である
もっともこれはヘルパーや介護職などの業務とはやや異なる。ここにいう障害者援助をめぐる欠如関係とは、街で偶然に出会った障害者を助けるということ、および共同体意識とそれによって可能な相互扶助社会の意識であり無意識である。
ここで日本人の主体のあり方を確認し不自由(欠如、分離)としての自己欠落の自覚がいかに重要かを確認しよう。
まず欧米では自由が主張され自由が重んじられてきた歴史がある。対する日本では自由よりも不自由が意識されやすいと考えられる。
たとえば日本語では足が不自由という言い方をするが英語ではしない。また不自由を英語でいえばinconvenienceであり直訳すると不便となる。
そして日本人にとって自由はあまり意識されない、そのため福沢諭吉がリバティを自由と訳したことで自由という語が一般に広がったという話もある。
僕の仮説はこうだ。日本人にとって自由があまり意識されないからこそ、日本では不自由という奇妙な言葉がよくでてくる。
つまり欧米の自由はカントが自由を自らを律して善をなす精神の自由として理解したことから、自己による自己の抑制や制御、企投のニュアンスが強い。
対する日本語では自由は自らに由ありということではあるものの、その語の使用という観点でいえば、無葛藤的ないわば、まにまにというべき自然状態を示すことが多いように思う。
日本では、自らを意志のもとに律するというより、自由気ままにという感じで勝ってきままの自然状態が自由という言葉に含意されているのだろう。すると日本人にとって自由とはそれが失われて初めて意識可能なものだと分かる。
いわばカント的な自由では私を見る他者としての自己と見られる鏡像的な自己との分裂を前提に鏡像的自己の所有と企投に自由が見出される。
たいする日本では自由はそのような主体の分裂を生じない自他未分の一体感、いわば忘我状態や無我に見出される。そのような自然一体の意識では自由は自由として対象化できぬ上、認識上は二次的となる。
よって日本人にとって一次的なのは自由の欠如たる不自由に他ならない。つまり欧米の自由=日本の不自由ということ。
自然一体の意識を裂き他者と自己を分かつ裂け目、そのような自己における自己欠如の様態として不自由および悲しみがあると考えられる。
周知の通り日本文化は本居宣長がいったように「もののあわれ」にある。この哀れとは悲しみや涙のこと。河合隼雄がこれを原悲と呼んだのは心理学ヲタにとってあまりに有名だろう。
悲しみも涙も別れの主題に欠かせない。ここで悲しみの別れとは本質的には自然と自己、大他者と自己との分離であり主体の分裂に相当する。
ようするにプリミティブな動物的意識から人間的な社会的自意識を確立するにあたり原悲たる共通感覚を介した自己欠如の引き受けは欠かせないということ。
したがってここに展開する障害者福祉論は日本社会の保守的な近代化(西洋化、普遍化)の経路の確立をその目的とする。もちろん原悲は心理学的には韓国の恨と非常に近い心性となるためアジアの多くの民族にも共有可能である。これは閉ざされた民族主義ではない。さらに西洋においても一神教以前の歴史においてはこのような日本的心性を取り出すことができる。
したがって十分に世界的な普遍性をもつ。
主体の分離を言語や法と異なるカテゴリーから記述するとそこには原悲、怒り、笑い、不安といった情状性を取り出すことができる。
とりわけ涙、悲しみが人間の分離と主体化、すなわち一般意志と法、徳と福、理想と現実との分離としての主体の生成に決定的に重要となる。ここで論じられたのは、欠如をもった合理を可能とするこれら二項の分離を支える情状性としての不自由=悲しみである。
またこの共通感覚と原悲による人助け論、福祉論で僕が示したいのは、人助けは自己の可能性の救済であり、あらゆる時間軸の自己であり可能性世界の自己の共時としての世界の時間の解放なのである。
これをオルタナティブなマルチユニバースと名付けたい。
時の解放に関する論考はとても解説が長くなるので割愛するが、これは死という概念の実存論的転回によって可能となる。ここに示す原悲と可能性としての自己救済としての人助けは普遍の、つまり合理性の(欠如の)回復なしには不可能である。
ちなみにこの原悲における福祉論は、数年前に「若女将は小学生」というアニメ映画を分析することによって抽出したもの。
このパラダイムではとりわけ身体性と時間、日本語の中動態などについての論考も欠かせないが、きりがないのでこれも割愛し以上で幕を閉じたい。
※原悲を分離としてあつかったが本来は疎外として捉えた方が分かりやすい。しかし悲しみは分離にも関わるはず、涙とは喪失と獲得の止揚にある
終わりに
ぼくは基本的に時間とかについて考えたい人で福祉だとかの社会派的なことを考察するのは億劫であまり好きではない。
しかしあまりに社会(人間)がぶっ壊れてきているように思えるので、昔の自分の考察に普遍のディスクールを付け足してまとめてみた。
それはさておき、件の対談に対する町山氏へのネット民の評価はあまりに辛辣に感じる。意見の対立のある者同士が対話を実現したという事実をもっと積極的に評価すべきではないだろうか。
これでは対話して、論破できないと身内からも相手からも叩かれるというメチャクチャな状態となり、誰も対話による相互理解を試みなくなる。気に入らないからといって相手を殺すことはできない。対話と相互承認なしに文明は維持できない。
司法闘争も商売化しつつあり、もはや分断利権がはびこり、儲けるにはヘイトと分断を煽れという状態になってきている。このブログの読者に言いたいのは分断やヘイトを煽る人たちからは距離をとって欲しいということにつきる。
それで社会がよくなることはない。もちろん不正を糾弾することは権利であり否定はしない。しかしネットでそれをショービジネスとするのは違う。また暇空の活動は大衆にとって娯楽のための消費になっているように思う。町山氏の問題意識もここにあるのではなかろうか。
町山&暇空対談をまとめた動画がネット上に散見されるが、人間理解に基づき言われたことの背後にある意志を読み取ろうというものは一つもない。これでは意味がない。論破ゲームや揚げ足取りは意味が無い。
いい加減、この幼稚な状態を誰かどうにかして欲しい。年々日本人の幼児性が増しているように感じる。
さて今回は普遍としての規範から福祉を論じたが、ここでの普遍は定型と言い換えることができる。
LGBTといった言語象徴はそもそもその言語の意味する定型の解体を示す。
ユング派が現代社会を定型発達の非定型化と呼ぶのはこの意味で極めて正鵠を射ている。
この象徴における普遍的禁止としての定型の解体が致命的な仕方で現代人の主体を溶かしつつある。
日本の臨床心理学の疫学統計においてもそのことが示されているし、事例研究レベルでもそれは強力に裏付けられている。
現代ユング派の最新の論文集を読んでも現代ラカン派の最新の論文集を読んでも主体の解体を現代の特徴とする点は変らない。
そして近代主体(普遍のディスクール)が解体するとは人権や自由の相互承認、近代的な文明の終焉を意味する。
この問題にはフランス革命を契機とする神の死が関わる。とりわけ60年代ラカンの複数形の父の名の論理、原象徴界の大他者を統御する法の大他者はいない、という言葉は大きい。
一ついえるのは普遍のディスクールが絶対的に必要だということである。普遍は目指されていて欠如していなければならない。そして普遍的な法規範(規律訓練)こそが社会論においては、なによりも最初に要請されるべきである。
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