うたまるです。
※この記事は映画『攻殻機動隊 SAC_2045 最後の人間』のネタバレを含みます!
このあいだ『攻殻機動隊S.A.C.』の解説記事のコメントに『最後の人間』を観劇した方から、最後の人間の考察を読みたいとの要望があったため、鑑賞して参りました。
劇場版はNetflix独占配信の『SAC_2045』シーズン2の全12話を2時間にまとめ、新たなシーンを加えた作品。
想像以上にシーンに改変が加えられており、楽しめました。
この作品、ポストモダン論などを知らないと、ちゃんとした意味を理解するのが困難で、当ブログ記事のような解説を必要とする側面を持っていると考えられます。
旧作のSACシリーズをラカン派精神分析とすれば本作は、旧作のラカン的なエッセンスに加え、その中心にニーチェの思想が組み込まれているのが最大の特徴と考えます。
最後の人間とはまさにニーチェのいう超人やその対極にある末人のことに違いありません。
というわけで全国の神山ファン、攻殻マニアの皆さんお待たせしました!
さっそくラカンの精神分析とニーチェを中心に『最後の人間』に秘められた作品の意味を探求してゆきましょう。
『2045』シリーズは旧作の『SAC』の続編であり、本作の理解に『SAC』の理解は欠かせません。なので可能であれば旧作を解説した以下の記事をあらかじめ読んでおくことをオススメします。
攻殻機動隊SAC_2045 最後の人間とは
作品名 | 攻殻機動隊SAC_2045 最後の人間 |
監督 | 神山健治、荒牧伸志 |
原作 | 士郎正宗 |
時間 | 126分 |
公開日 | 2023/11/23~12/14 |
2022年5月からNetflixで配信された3DCGアニメ『攻殻機動隊 SAC_2045』シーズン2の全12話に新たなシーンを追加して再構成した映画。
三週間限定の公開で観劇できる劇場も限られる。
『2045』はネットでは酷評されることもあるが、攻殻ならではのその哲学性の高さは全攻殻作品のなかでも最高レベルにある。
極めて高度な現代社会批評をしているのが特徴。後述するが作中の「N」はニーチェの「ニヒリズム」のことだと考えられる。
また旧作ではサリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』が作品のキーとなっていたが、本作ではジョージオーウェルの『1984年』がキーとなる。
とくに『1984年』に登場する「ミニラブ」や「101号室」は本作でも強調される。
押井守などの攻殻と比較すると神山の攻殻世界は現実の現代日本によせた現実的な世界観になっている。そのため街の景観なども現実の現代日本にちかく風景のサイバーパンク感はやや控えめとなる。
通常版との違い
ここでは劇場版『最後の人間』とNetflixでシーズン2として公開された全12話との違いを、僕の記憶に頼って紹介する。
ただし、最後の人間は公開中の映画なので、この項では改変の革新的な部分については一部ぼかした表現にしておきます。
まず最大の違いは冒頭にある、通常版では5話の『ROOM 101/夜と霧』でのトグサの過去の回想シーンが映画版では冒頭にくる。
さらに回想シーンそのものに編集が加わり、多くのフラッシュバック的なシーンがちらつく演出が増えている。
このシーンを冒頭に変更したことの意味は物語終盤、アニメでいえば最終話の『DOUBLE THINK/事象の境界線』でプリンの説明を受けながらエレベーターを上がってゆくシーンでのセリフの変更に関わっていると思われる。
僕の記憶が正しければ、エレベーターで少佐がプリンからうける説明が映画版では、根源的な記憶に介入してダブルシンクにする、という感じの説明になっている。
もちろん根源的な記憶とは映画では冒頭に移行したトグサの過去の回想シーンのこと。
ちなみに5話のタイトルにある「ルーム 101」とはジョージオーウェルの小説『1984』に登場する部屋、101号のことであり、この部屋は、反逆者を拷問し、心をへし折って洗脳する場所とされる。
ちなみに原作の攻殻機動隊を参考にしてつくられたとされる映画『マトリックス』でも101号室や拷問シーンが登場する。また本作では映画マトリックスを意識したシーンが大量に出てくるがそれは後述する。
(※1984の101号はMGS5にも登場する)
また通常版では10話『CLOSE CALL/覚醒しちゃいました』でプリンがバトー専用のタチコマではなく少佐専用機に乗り込むシーンでの一悶着があるのだが、これが劇場版ではカットされている。
このシーンは少佐とプリンとの対応関係を示すシーンと見なすことができその意味で重要そうであったが、劇場版ではカット。
細かな変更でいうとこのあたりになるが、やはり最大の変更はラストに集約される。
劇場版は、シマムラタカシと少佐との会話がかなり変更加筆され、まさに最後の人間というタイトルを凝縮したセリフになっている。ここでのセリフの変更は決定的なもので、本作がニーチェをベースにしていることが示唆されていると考えることもできる。
ちなみにニーチェは、神の死(ビッグブラザーの死)を宣言し、神なき時代の最後において人類は末人へ至り、超人への跳躍が必要とされるという思想を説いたドイツでも最高の哲学者である。
またラストで少佐がジオシティへと飛び込む直前、プリンが新人として9課に加入するシーンにも変更があり、トグサが少佐の様子のおかしさに気づきバトーに相談するシーンが挿入されている。
旧作の要諦
旧作についての詳しい解説は僕がYouTubeに投稿したこちらの動画を参照ください
ここでは旧作のSACについて簡単にまとめる。
すでに旧作『攻殻機動隊SAC』は過去の記事や上の動画で詳細に解説しているのでここでは簡単な対応だけ確認する。
まず旧作はラカンの精神分析における三者構造のモデルが物語の構造の中核をなし、三者構造を反復する形で物語が進展する。
その三者構造とは、タチコマ、バトー(天然オイル)、少佐がそれぞれ、欲望する子ども、欲望の対象、欲望の対象を禁止する父の関係をむすぶ構造。
またバトーがタチコマに与えた哺乳瓶のような形の天然オイル(欲望の対象)にはタチコマに個性を持って欲しいというバトーの欲望(ゴースト)が込められていた。
旧作では、この哺乳瓶(天然オイル)に託された母なるバトーの欲望を欲望することでタチコマはゴースト(主体)を獲得したのだった。
また本作の理解で欠かせないのは、タチコマ、天然オイル、少佐の関係がそのまま、笑い男(アオイ)、村井ワクチン、セラノ社長やバトー、マルコ(サンセット計画)、米帝CAIに対応しこれらの対応がそのまま、日本、敗戦(原爆)、アメリカ、に対応していたこと。
さらに旧作でスタンドアローンコンプレックスの発症因子が禁止する父の不在ないしは父の歪みにあり、米帝CIAや今来栖尚といった歪んだ父が問題であったことは本作の理解に欠かせない。
欲望する子 | 欲望の対象 トラウマ | 対象を禁止 する父 |
タチコマ | 天然オイル | 少佐 |
笑い男 | 村井ワクチン | 今来栖尚 |
バトー | マルコ サンセット計画 | 米帝CIA |
日本 | 原爆 | アメリカ |
精神分析で読み解く最後の人間
上の項の解説に従い、本作の三者構造を確認しよう。
この確認を通すことで本作の持つ時局性が浮き彫りとなり、旧作の2002年当時と2023年とでの社会のあり方の異なりを明らかにできる。
プリンの三者構造①:バトーとプリン
本作でも上の項で紹介した三者構造は顕在である。
その最たるものが江崎プリンになる。
プリンは旧作のSAC10話『密林航路にうってつけの日/JUNGLE CRUISE』に登場したマルコの犯行の犠牲者の遺族である。
プリンは家族をマルコに殺される。しかもサンセット計画というかつて行われた米帝の残虐作戦と同じやり方で家族全員をやられてしまうのだ。
マルコの犯行後の凄惨な現場を目撃したプリンは家族を禁止にされ家族がトラウマとなる。
ここでプリンの家族の死の目撃はバトーがサンセット計画の残骸を目撃したことに重なる。
これはそのままアメリカが日本に原爆を落とし、その凄惨な現場を見せつける様子に対応していると考えられる。
そんな被害者遺族にして目撃者のプリンは証人保護プログラムによって名前を変更させられ、まったくの別人として生きることになる。
このとき、新しい名前を江崎に授けるのがバトーである。
2045では過去の回想シーンとして、マルコの事件後、落胆する江崎にバトーがプリンを渡す回想シーンが印象的に描かれている。
この回想シーンにより、江崎がバトーを好きだったのは、彼女がプリンとともにプリンという名前をバトーから受け取ったためだと分かる。
じつは子どもに欠如した欲望の対象(殺された家族)を名付け、その欠如を基礎づける名前を与えることを精神分析では〈父の名〉という。
この〈父の名〉は父から与えられる自分の名前という意味も持つ。
そのため江崎にプリンを与えたバトーはプリンに父の欲望を託し、プリンという〈父の名〉によって江崎プリンに家族と自己自身の欠如を認めさせたといえる。
したがってバトーは2045では〈父の名〉に相当する禁止する父の座についている。
旧作では前述の通り母として母の欲望をタチコマに与えていたことを思うと、これは対照的シーンといえる。
つまり子どもが江崎であり、欲望の対象が殺された家族(マルコ)、禁止する父はバトーに対応している。
(※江崎視点において、マルコは母の子どもの主体性を呑み込む欲望、ないしは歪な父と見なせる)
プリンの三者構造②:少佐とプリン
つぎに重要なのはプリンが少佐に対応していることである。
旧作でタチコマに禁止をかす父は少佐であったが2045ではプリンがその役を務める。さらにダメ押しで劇場版『最後の人間』でこそカットされたが、通常版の2045では、プリンがバトー専用機でなく少佐専用機に乗り込むことでタチコマにつっこまれるシーンがある。
もちろんこれは少佐=プリン=禁止する父の対応を示す。
以上からプリンはバトーの欲望を介してバトーが憧憬を抱く少佐へと向かったと考えることもできよう。
プリンがタチコマに命令をしたり言葉による禁止をかすシーンが2045では多く見られるがこれは全て父の禁止に対応する。
このプリンと少佐の対応は重要でプリンが死ぬことで、少佐と同じ完全擬体となることにも対応する。
さらに終盤において少佐とシマムラタカシとともにプリンだけがダブルシンク化=N化を免れ真実を知るものとなったのも少佐=プリンであるためだろう。
もっとも少佐とプリンがダブルシンクを免れた理由は、プリンはゴーストがないためであったのに対し、少佐はロマン主義であるためとされており、少佐とプリンでは根本的に異なるところがあると見ることもできる。
本作の分析にあたり非常に難しいのはプリンが一体何者なのかということにある。とくに『最後の人間』を見るとなんとなくプリンと少佐の違いが強調されているようにも感じなくもない。
米帝の異なり
プリンの次に気づくのが、2045での米帝のポジションと旧作での米帝のポジションとの違い。
じつはこの違いは本作の理解において一番大切となる。
旧作では米帝は日本にとっての父であり、同盟国でありながら日本に対して傲慢な態度であった。そのため、たとえば旧作の『2nd GIG』に登場した日本の主体性(欲望する子)の象徴とも見なせるクゼは米帝に殺されてしまう。
よって子ども(日本)の主体性を認めずそのゴーストを殺す獰猛な父として米帝が描写されていたと見なすこともできるだろう。
2045でも米帝は傲慢な父として立ちはだかる。しかし、米帝もNに接続され、事実上シマムラタカシに敗北する。
また米帝のNSAエージェントのスミスも氷漬けとなる。これもCAIのエージェントに手出しできなかった旧作と対蹠的といえる。
これらはビッグブラザーの死を意味していると考えられる。ビッグブラザーとは小説『1984』に登場する実在しない幻想としての絶対的な父なる独裁者のこと。
じつは現代社会のことを精神分析や哲学の世界では、父の死した時代と捉える。そのため本作における米帝の父の座からの転落とビッグブラザー(シマムラタカシ)の消失は非常に重要となる。
簡単に示すとマルクス共産主義が信じられていた時代は、世界の黒幕としての父や、万人が信じる大きな物語(普遍的な世界観)が生きていた時代といえる。しかし現代では共産主義革命は敗北し大きな物語(父の神話)は解体した。
また、このことにも関連して父権や父性といったものが社会や家族から消え去りつつあるのが現代の特徴とされる。
この父の死の問題は、後のニーチェとNの関係について説明する項でも触れる。
なのでここではとりあえず、歪な父であり世界の悪事の黒幕としての父が死んだことが、旧作との違いだということだけ記憶にとどめておいて欲しい。
シマムラ、アオイ、クゼ、少佐
2045でのシマムラタカシは旧作のアオイに対応する。
まずは両者の共通点を確認しよう。
両者はともに理想と社会正義を抱き、その実現に向けて奔走し、物語のキーマンとなる。そのためどちらもが中心となる事件の首謀者になっている。
また二人とも少年であり、物語論的には主体や自我を象徴していると見れる。
二人とも、この時代への絶望、日本人の主体性のなさや大衆の愚かさへの諦観を持っている。
などなど多くの点で共通点が見いだせるのだ。
したがって二人は対応関係にある。また米帝との関係で言えば、旧作2nd GIGに登場するクゼとの対応も見て取れる。クゼもまた大衆の愚かさに嘆きつつも理想を抱き己の理想のため戦った人物であった。
そして少佐もまたクゼやアオイ、シマムラタカシの側の人間として描かれている。
いずれにせよ、アオイもシマムラタカシも、そしてクゼもアメリカを象徴している感のある歪な父との対決を必要とした存在と言える。
(※アメリカ=父との対決において生じる子どもの葛藤をエディプスコンプレックスという)
したがって少佐、クゼ、アオイ、シマムラタカシはすべて同じ人物と見なすことができよう。ではそれは本質的には誰なのだろうか。
現代の大衆への絶望と諦観、理想と挫折との狭間で揺れるそんな人物はたぶん一人しかいない。
そう、神山健治監督だ!
これは想像だが神山監督の絶望や葛藤が少佐、クゼ、アオイ、シマムラタカシというキャラクターを構成しているのではなかろうか。
僕には理屈を超えてそう感じられる。とくに劇場版『最後の人間』を見て、そういうことか、しかしこれは監督の諦観だというのか?それとも僕が投影しているに過ぎないのだろうか?という気持ちにさせられた。
少なくとも劇場版『最後の人間』のラストの少佐とシマムラタカシの会話は、近代的人間の時代への哀愁を感じさせられるものになっているのだけは確かである。
いずれにせよ、神山監督の根底にある現代人への諦観のようなものが神山の攻殻シリーズの核をなすとすれば、本作がニーチェへと収斂したことは必然と考えられる。
ニーチェと最後の人間
ここでは劇場版『最後の人間』および通常版の2045とニーチェとの対応を解説する。本作はニーチェを軸に創られていると思うのでこの項は本記事の肝となる。
Nとは何か:Nihilism
劇場版のタイトル最後の人間とは、ニーチェが神の死すなわちビッグブラザー(シマムラタカシ、米帝支配)の死の後の時代に生じるとした超人ないしは末人のことと思われる。
したがって、結論からいうとNとはニーチェでいう末人のことであり、それは今時の言葉で言えばポストモダン的な主体、すなわち一般的現代人のことと解釈できる。
なのでおそらくは「N」というのはニーチェのNihilism(ニヒリズム)のNではなかろうか。
ニヒリズムとはこの世界に絶対的な真理などないという価値観を意味する。つまりキリスト教的な父なる神、ビッグブラザーがいた時代には信じられていた絶対的な価値がない時代に誕生する価値観をニヒリズムという。
そして絶対的な価値が信じられなくなり、すべての価値観が「それってあなたの感想に過ぎないですよね」と見なされるニヒリズムの時代に世界を覆うとされるのが「末人」。
本作のダブルシンクする主体、Nとはこの意味での末人と見なせる。
というのもニーチェの小説『ツァラトゥストラはかく語りき』において末人とは神の死んだニヒリズムの時代に生じる一般的な人のことだとされる。
そしてニーチェの小説では、末人は対人関係などの摩擦を嫌うものとされる。実際にツァラトゥストラには‘’人間関係で摩擦を起こすものは彼ら(末人)にとって馬鹿者‘’という記述がある。
2045ではNは摩擦係数0の世界に生きたがるというセリフがあるのは周知のことだろう。
したがってダブルシンクによって摩擦なき世界に安住しようというNは末人と考えられるのだ。
末人が訪れるとされる神(父)なき時代とは、米帝が支配者であり黒幕の時代から降りた時代のこと。本作で言えばシマムラが米帝を出し抜いた段階であり、ビッグブラザーとしてのシマムラが表向き死んだ段階が神なき時代に相当する。
このビッグブラザーとしてのシマムラの死がダブルシンクの完成とリンクしているのも、ニーチェの末人をNと考えると辻褄があうのだ。
さらに補足すればシマムラは母子家庭であり父を欠いている、これは神の不在をしめす。さらに米帝でありアメリカとしての歪な父を象徴するキャラクターであろう生徒に性的虐待をしていた数学教師の山田は殺される。
山田はシマムラにとっての大切な女性を自殺に追い込む父であり、まさに米帝的な父であるが、その山田はシマムラのつくったシンクポルによって殺される。
このように旧作では強力で倒せないものであった父なるもの(ビッグブラザー)は2045では始末されてしまうのだ。
また末人の意味を補足しておくと、末人は、羊飼い(ビッグブラザー、イエス)や先導者なき羊の群れであり家畜のようなものとされる。
ちなみに『最後の人間』ではダブルシンクが完成するとシマムラは非存在となる、というセリフが付け足されている。
つまりビッグブラザー(父なる神)としてのシマムラの完全な消失がNであり末人を完成させるということ。
もちろんこの消失によるシステムの完成は、旧作でオリジナルの笑い男(アオイ)が社会から欠如することで、スタンドアローンコンプレックスが作動することに対応している。
そのためこの意味でもシマムラはアオイといえる。
少佐のループとニーチェの永遠回帰
Nが末人とすると、末人の生きる世界はまったく同じことのループでないといけない。
というのもニーチェの末人およびニヒリズムは永遠回帰とセットで語られるからだ。
すると少佐が物語終盤でループ世界にとらわれそうになるもそこから脱出したシーンが思い出される。
この少佐の体験したループは作中ではNの世界とされるわけだが、これはまさに永遠回帰といえる。
ニーチェの永遠回帰とは、世界の時間はまったく同じことの無限反復にあるというもの。
ちなみにジョジョのプッチ神父のメイドインへブンも永遠回帰がモデル。
よって永遠回帰では世界が永遠に周回して、まったく同じ事がおきるという。
これは何を意味しているのだろうか?
本格的に説明するとフロイトの死の欲動や後期ラカンのサントームや依存症としてS1の反復の話となり非常に長くなるのでここでは簡単な解説にとどめる。
簡単にいうと末人にとっての時間とは何もかもが必然性を失い偶然に過ぎない時間である。つまり末人における、そのつどの現在の全てが偶然となる時間を永遠回帰という。
これはデジャブを考えると分かりやすい。じっさいニーチェの永遠回帰がニーチェ自身のデジャブ体験にあったことは有名である。
デジャブとは今この瞬間の出来事とまったく同じ出来事を特定不能の過去にも体験しているという錯覚のこと。まさに全く同じことの反復と考える永遠回帰の体験である。
(※デジャブの存在論的解説を書いてみたが、長くて少し難解になったので割愛)
デジャブはそのつどの今の世界認識や自己の知覚体験に対して絶対性や必然性を感じることができない精神状態(離人症)と密接に関わるため神の死んだ時間の本質ともとれる。
ここで話を分かりやすくまとめよう。
まず父なる神が死んだことで歴史(時間)に運命という必然性がなくなり偶然だけになった世界が現代なのだということ。
つまり神がいた時代とは神が森羅万象を目的的に創造したとされるため、時間であり歴史には最終目的があるとされた。
すべてのものには絶対的な神の目的があり、すべてのモノの変化=時間はそれゆえ決定論的に進行すると考えられたわけだ。
このような必然性(運命)に支配された時間意識ではループは生じない。なぜなら神の創造という明確な時間のスタート地点があり、最後の審判という明確な時間のゴール(目的・終点)、歴史の終焉が設定されているからだ。
また神の運命にある世界意識の人は最後の審判に備えて品行方正に過ごすことになる。いわば人生とは死後のゴールに向かう道程に過ぎない。全ては最後の審判、死後の楽園という明確な終わり、ゴールへと向かう必然性をもつ。
ところが神が死ぬと、人生の出来事、自分の価値観や自己のアイデンティティ、性的属性にいたるまでそのすべてに意味が無くなる。つまりただの偶然になってしまう。
こうなると私が私である必然性がない。そもそも確固たる自己同一性(アイデンティティ)を形成することさえできない。
すると、人間の意識は次第に今だけの感覚になる。昨日の自分と今日の自分、そして明日の自分を同じ一人の自分として連続・同一する運命(目的・根拠)がないわけでそのつどの今だけを生きる刹那主義が横行する。
ぎゃくに言えば、最後の審判という死後の世界に向かい必然を形成した時代では昨日の自分も今日も明日も最後の審判にむけて計画的に努力するという目的意識で同一されていたのだ。
末人すなわちNとはこの意味で、今だけの時間、今だけの快楽を永遠回帰的に反復する主体といえる。
これがポストモダン的主体すなわち末人の時間意識、永遠回帰である。
神の死によって時間には始点も終点もなくなりただ、無目的な今が永遠に反復し回帰するだけになったということ。
(※厳密に説明すると存在論的解説が避けられないので人口に膾炙した分かりやすさ優先の解説にしてます)
絶対的な生きる意味をうしない自己同一性すらあやふやとなり、今この瞬間の快楽だけをむさぼり摩擦を避けて生きるようになった腑抜け、これこそがNであり末人である。
いわば漫画『チェンソーマン』の物語冒頭のデンジのような人が現代人=Nの典型、今にしか生きておらず今の反復において人生を過ごす人ということ。
少佐はなぜループを抜けたのか
するとここで疑問がでてくるだろう。そもそもダブルシンクにならないポストヒューマン、シマムラタカシやプリン、少佐とは何者なのか、なぜ神なき時代に永遠回帰を脱し末人を免れたのかと。
じつはニーチェは神なき時代の永遠回帰の世界では、ほとんどが末人となると予言していたが、そこには超人が現れるとも言っている。
超人とは末人の世界に少数だけ現れる、神なしに絶対的な価値・理想を自ら創りだしそれを信じ、大衆からの評価や承認と無関係に己の個人的な運命を生きる主体とされる。
もうおわかりだろう、超人とはシマムラタカシであり、少佐である。
神なき永遠回帰の時間のなかでその偶然の今に絶対的な個人的運命を見出すもの、それが超人である。したがって超人の時間とは偶然即必然、偶然をして必然(運命)をなす。
決して絶望せず、絶対的な価値を自ら創造する、ないしは自己を超えた世界の偶然性を引き受けるという受動的な態度からつむぎだす存在。
いわば受動と能動の止揚、偶然と必然の止揚をなす時間を生きる究極の人類である。
ところでニーチェの永遠回帰には運命愛というものがある。
これは偶然に過ぎない永遠回帰の時間を運命として引き受けそれを愛することを示す。この運命愛が超人の精神といえる。
(※力への意志が偶然を必然へと変える、力への意志は意志自身を意志する、この再帰性が現存在の存在者の同一性の核として生成に刻印された存在を引き受け、その偶然性を必然と化すのだがやや難解かつ本作とあまり関係ないので力への意志と運命愛の存在論的メカニズムの説明は割愛)
まとめると少佐もシマムラもビッグブラザーなき時代に理想を持ち、偶然という運命を愛すことでダブルシンクを超えた超人となったということ。
この考察は劇場版『最後の人間』での少佐とシマムラの会話を聞くと納得しやすいと思う。最後に残った人間性とは超人のことなのだ。
しかしここで疑問なのは江崎プリンである。彼女は超人というよりゴーストがないから、ダブルシンクにならなかったとされる。
また江崎は死人でもある。するとダブルシンクを超えた超人の世界とは、末人にとっては死の世界として本作では描写されているのかもしれない。
いずれにせよ、超人であるシマムラがダブルシンクによって全世界を末人の楽園に変えてしまうというのはあまりにも衝撃の内容なのは確かだろう。僕には本作が壮絶な作品に感じられてならない。
世界への諦観のためか、超人の誕生の可能性を見ているのか、神山監督が何を思いこのようなラストにしたのかは計り知れない。
Nぽと境界喪失
本作ではトグサなど一部の人物が「Nぽ」と呼ばれ101号室送りと言われて、Nたちに追われるシーンがある。
Nぽとは、Nのなりかけのこととして理解できる。
Nぽは、ミニラブという人をN化する郷愁ウイルスをくらってなおNに完全にならない人のこと。そのためNぽは、摩擦を起こそうとし戦う生を欲する。
ちなみに周知のことで言うまでもないがミニラブは『1984』に登場する愛情省のこと。
プリンを車に乗せた男はNを自称するもNぽとして連行されるが、プリンが彼の電脳に侵入するシーンがある。
そこでプリンは「ゴーストラインが限りなく溶け出している、こいつ白昼夢でも見てるの?」という。
このことからNやNぽは現実と空想の区別のつかないその境界が溶けた主体と考えられる。
両者の違いを言えば、この境界が完全にとけた主体がNだと考えられる。この境界喪失は空想と現実、夢と現実、フィクションと現実、アニメやゲームと現実に対応する。
するとNやNぽのあり方を現代人の意識と見なせることが分かる。
たとえば現代社会ではコスプレが流行っているがこれは現実と空想(物語・創作)の境界が溶けていると見なせる。プリンを車に乗せたNぽがコスプレ衣装をもっていたこともこのためかもしれない。
とくにヴァーチャルユーチューバーという存在ではその境界(ゴーストライン)の消失が顕著であり、もはやフィクションの存在なのかリアルな人間なのかすらよく分からない。やってる中の人も素なのかキャラなのか分からなくなっているのではなかろうか。
このような主観的空想と客観的現実との今日的境界喪失はまさに空想と現実の混淆したダブルシンクの世界の到来なのである。
空想という主観性を客観的現実と隔てるゴーストラインが溶けた状態、これこそが末人でありNなのだ。
N化の仕組みと郷愁ウイルス:根源的幻想
NぽやNを理解する上で郷愁ウイルスがなんなのかが欠かせない。
これは劇場版『最後の人間』でより詳しく解説されている。
郷愁ウイルスは通常版では5話、劇場版では冒頭のトグサの回想シーンにあたる。
ラカン派精神分析ではトグサの回想を根源的幻想と呼ぶ。幻想とは夢や白昼夢などを含む空想のこと。
根源的幻想とは厳密に言えば主体と欲望の原因との関係を示す幻想のことだが、平たくいうと、トグサが9課としての自己同一性を形成するにいたり、今のトグサを形成するにいたった根源的な記憶のことと解釈すると分かりやすい。
劇場版のプリンの説明によると、郷愁ウイルスはこの人間主体にとっての根源的な幻想として構成される記憶に作用することで主体をNにすると考えられる。
また5話のタイトルが101号室であり、トグサは5話の回想シーン(根源的幻想)で拷問を受けているので、ここで郷愁ウイルスにより精神をN化されそうになったと解釈することができる。
ここで具体的にトグサの根源的幻想の梗概を確認しよう。
まずトグサは幻想の中でしきりに、自分は生きのびて、その後に9課のメンバーとなり少佐と仕事をすることになると自らに言い聞かせる。
しかし回想が進むにつれ、次第にトグサは自分はここで死に、9課になって少佐と捜査をするのは死後の夢なのか、と考えだし、死を受け入れようとする。
そこに突然少佐が現れ、トグサに対して、崇高な死と卑小な生をとき、生きろという。
この少佐の言葉のためにトグサは幻想のなかで死を免れる。
このことから少佐によって生きる選択をしたこと、つまり公安9課としての自己を捨てずに持ち続けたことでNになり損ねたと考えられる。
ここで死を理想と考えよう、というのも幻想において少佐は死を崇高といい生を汚辱というからである。
すると幻想で死ぬとは自己が理想と一致することと解釈できるだろう。本来、理想とは幻想であり現実にはありえない。そもそも理想は現実では欠如しているからこそ、理想として欲望され、その欲望が主体の主体性を構成するのである。
したがって理想に一致するとは主体性の死である。完全に理想の自己になってしまえば欠けるものがなく満足だけがある。そのような状態では人は何も欲望することがなく、主体性は成立しない。
これでは死んでいるのと同じなのだ。したがって根源的幻想では理想は死なのである。
またそれ故に理想の自己と現実の自己は不一致でなければならない。さらにこの不一致がもたらす自己欠如感がゴーストラインすなわち客観現実(外界)と主観空想(内界)との境界(差異)を構成すると精神分析では考える。
したがって根源的幻想のなかで死ぬとはゴーストラインが完全に溶けてダブルシンクとなることを意味するのだ。
このことは旧作の解説記事や動画の理路にそくせば少佐が理想を〈父の名〉により禁止したことでトグサは末人になり損ね主体性を維持した、と考えられる。
なんとか一通り、本作の基礎を説明したので、次にいよいよ本作のメタフィクション性について解説する。
コードとダブルシンク
物語のクライマックス、シマムラはダブルシンクの完成の最終局面に入っており、少佐がシマムラの後頭部に接続されたコードをつかむシーンがある。
少佐がコードを抜くと、ダブルシンク化は破棄され、抜かないとダブルシンクが確定する状況で、コードを抜くか抜かないかは、少佐に委ねられる。
ところが本作では少佐が抜いたのか抜いてないのかが分からない。
これにより視聴者にダブルシンクが生じることになる。
このメタフィクションは何を意味するのだろうか?
視聴者がダブルシンクによって末人となること、これにより、視聴者はいわば2045というフィクションであり空想の世界に入ってしまうことになる。
つまりここでのメタフィクションの機能は、現実と空想(2045の世界)との境界、すなわちゴーストラインの消失・融解を示していると解釈する余地がある。
すると末人、ダブルシンクがゴーストラインという境界喪失、つねに白昼夢を生きている主体であったわけだから、
メタフィクションという第四の壁の破壊、すなわち物語作品と現実の境界の消失はNの境界喪失に対応すると分かる。
これがコードの行方を秘匿しメタフィクションを構成した意味だと考えられる。このように分析すると非常にうまく体系的に解釈できるのだ。
いわばコードの顛末を隠したことで、作品を画面越しに観劇する視聴者を画面内の空想世界である2045の中に吸収し、フィクションと現実との境界をなくしたということ。
したがってダブルシンクとは、SNSなどで摩擦やサステナブルウォーのたえない現実世界を、父の不在という時代精神的病理を深めることで逆説的に解消しようという試みととれる。
とすればあまりにそれはディストピア的な解決と言わねばならないだろう。
だからこそ少佐を描き、少佐のように生きる道を示していると解釈することもできるが、どうなのだろうか?
個人的にはあまりに衝撃的な内容に感じる。僕自身は2045を観たりニーチェを知る以前から世界はNのような人間で飽和し人間の歴史は終焉を迎えると予測していたので複雑な心情である。
もっともこの記事の分析は1つの解釈であり、どこまで神山監督の意図に合致しているかは定かでない。
しかしアオイやクゼ、旧作の少佐などを介して一貫して表現され続けた大衆への諦観と失望が神山監督自身のものだったとするなら、この記事の分析は、ぐっと信憑生を増すのではなかろうか。
本作の究極のところはなんとか解説しきったので、ここからはマトリックスネタなど、触れていない小ネタをおまけで紹介する。
おまけ:マトリックスと2045
攻殻好きの方なら周知のことと思うが、2045はマトリックスのオマージュシーンだらけである。
ここではざっと僕が気づいたマトリックスオマージュシーンを取り上げる。
まずは米帝NSAのエージェントのジョンスミス、これはもちろんマトリックスのエージェントスミスである。ルックスも名前も完全にエージェントスミスそっくり。
つぎはシンクポルでの処刑シーン。これはマトリックスリローデッドで大量のスミスがネオにおっかぶさるシーンのオマージュ。
次はククーシキンを巡る高速道路でのカーチェイスの場面で車の上に飛び乗った少佐が車内の人にむかって銃を乱射するシーン。これもリローデッドのカーチェイスシーンでスミスが車の上に飛び乗って銃弾をかわしたりするシーンのオマージュ。
さらにトグサがNぽ認定されて追われるシーンでトグサはカナミに導かれ歩道橋をジャンプするが失敗して落ちるシーン。
これはマトリックスでネオがモーフィアスに導かれビルとビルの間を飛び越えようとして失敗するシーンに対応する。
そしてシマムラの着用しているコート、これはネオのコートと同じ。そのため少佐が物語ラストで羽織っているコートもネオでありシマムラのもの。
またネオが椅子に座って後頭部にコードがささっておりそれを抜くかどうかというシーンもマトリックス的である。マトリックスでも椅子に座り後頭部がコードに繋がれている。
さらにトグサが回想シーンでミズカネに似た女に拷問されているシーンもマトリックスを意識しているのかもしれない。
以上は僕が気づいた限りでのマトリックスとの類似点になる、そのためもっとたくさんマトリックスオマージュがあるかもしれない。
これだけしつこくマトリックスが繰り返されるということは意味があると考えるのが自然だろう。なんの意味もなくマトリックス漬けにするとは考えられない。
そこで考えたのだが、マトリックスではコードの抜かれた現実の世界があり、空想(仮想世界)と現実との境界ははっきりしている。
またマトリックス世界にはアーキテクトという父と予言者という母が絶対的なものとして存在している。したがって予言者の思惑が絶対的に作用している。
それに対して2045では父はおらず、シマムラも非存在となり支配者は不在となる。
さらにコードの抜かれた世界と抜かれたなかった世界との境界がなく現実と空想はダブルシンクによって融合し人々は空想を現実として生きることとなる。
したがって本作はマトリックスのもつ黒幕がいるとか、この世界には外があるといった陰謀論を生み出すような構造を批評しているのかもしれない。
おまけ:ダブルシンクをもたらす者
2045ではシマムラだけでなく少佐もダブルシンクをつくりだす。
たとえば、オモシロにねつ造した記憶を与えたことで二重記憶をつくりだしたのもダブルシンクと考えられる。
またシマムラの母に送った手紙もシマムラの母にダブルシンクを生じたととれる。
なので少佐がコードの運命を握ることで視聴者にダブルシンクを与えたとも解釈できる。
また2045のシーズン1の8話でトグサは二重スパイを装って日米安保条約部地位協定3課の連中にトグサの死という幻想を与えている。
これもダブルシンクと見なせるだろう。
これは旧作で多くのキャラが笑い男を模倣したことに対応しているのかもしれない。
おまけ:サステナブルウォーとは
2045の世界は、経済活動として持続可能な戦争に突入する。これにより世界各地でレイドと呼ばれる内戦が勃発。
サステナブルウォーとは、この経済的活動としての世界各地で勃発する戦争のこと。
持続可能戦争について誰もが思い浮かべるのは湾岸戦争だろう。湾岸戦争が兵器の在庫処理のために行われたという指摘はあまりに有名である。そのため戦争行為そのものが消費社会における経済活動へと呑み込まれたととれる。
しかしサステナブルウォーは何も武力闘争による紛争だけを意味しない。
たとえば、2045で登場するシンクポルというSNSによるネットリンチによる殺人事件、これも作中ではレイドみなされている。
シンクポルが現代社会のネットリンチやそれによる自殺を表象しているのはいうまでもないだろう。
したがってSNSにおける闘争行為もまた経済活動のためのサステナブルウォーだと考えられる。するとサステナブルウォーは現代社会の対立構造と本質的に変わらないと見なせるのだ。
たとえばYouTubeでは、対立構造のあるコンテンツが高い再生数とチャンネル登録者を生じることが知られている。
とくに政治系の話題でその傾向が顕著で、今なら岸田首相を酷評するとコメントがつきやすく再生数が伸びやすいことがYouTuberのあいだでは有名。
左右の思想的対立もまたネットビジネスにおいては欠かせない。思想的対立は現代においては経済活動に過ぎないのだ。
日々、誰かや何かを「あっち系」と罵り、いもしない敵を実体化して集団的な闘争と団結をつくりだし、子ども向けヒーローショーのごとく単純化した勧善懲悪の世界観を共有して終わりなきヒーローごっごにあけくれる。
このようなショービジネス化した政治対立を扇動することでインフルエンサーが情報弱者から金をしこたま搾取する。このような例は枚挙にいとまがないのだ。
以上から、こうしたネット上でインフルエンサー主導で扇動される対立のほとんどは、経済活動、すなわちお金儲けが動機となっていると考えられる。
そのため消費社会における経済活動として持続可能にコントロールされた闘争が日々再生産され続ける今日の情報化社会のメタファーとしても、サステナブルウォーを捉えることができる。
すると物語終盤、通序版では最終話、プリンが少佐にむかってNを説明するシーンで、「(Nは)みんながみんな自分のやりたいゲームを別々に楽しんでいる」と言うセリフがぐっと身近になる。
このやりたいゲームというのが、ネット保守としてリベラルと戦うゲームだったり、リベラルとしてネット保守と戦うゲームだったりすると考えると分かりやすいだろう。
現状、ゲームプレイヤーは敵味方に分かれて摩擦をつくりだしているが、いずれ末人=Nが完成すれば、この摩擦抜きにゲームプレイが成立すると考えられる。
じじつ、youtubeのコメントらんを観察しているとあるチャンネルではAという意見が全肯定されコメントもそのAを絶賛するものしか見当たらないのに、別のチャンネルを覗くとAはゴミという意見でコメントらんが埋め尽くされているということがしばしば観測される。
まるでパラレルワールドのようにチャンネルごとに異なる世界(ゲーム)が成立しているのだ。そして双方のチャンネルの人たちは互いにまったく関わりを持たない。
これは摩擦なしのゲームプレイに近いのではなかろうか。とすれば2045という作品が提示する摩擦なしのゲームプレイという社会には十分なリアリティがあると考えられる。
それは末人化した人類の到達点ではなかろうか。
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