うたまるです。
今回は臨床哲学でおなじみ、京都学派の精神科医、木村敏の理論を手っ取り早く理解し、使いこなせるようになるための方法と木村敏の本ベスト5を紹介!
木村敏といえば『時間と自己』は非常に有名で日本を代表する古典、皆さんもタイトルくらいは聞いたことがあるのでは?
そんな木村の理論はフランスやドイツでの評価も高く、その論文は国内でも圧倒的な被引用数を誇ります。
日本には木村の熱心なファンも多く、木村現象学は1度ハマると抜け出せない沼のような魅力にあふれるのが特徴。
かくいう僕も木村からの影響が大きく、物事を考察するとき、無意識に木村的視点から考えてしまうほど。
ユングやラカンを理解するときも木村の理論には個人的にお世話になっています。
そんな木村敏の最大の特徴、それは木村理論を理解することは分析ツールや知識を手にするのとは根本的に異なること。
木村を理解することで、木村理論は物事や世界、自己自身を解釈・認識するうえでの一つの主観として永続的に機能します。木村理論はその意味で一つの主観・主体であり、生きた知として読者の中で作動し続けるわけです。
しかし木村というと難解な本が多く、どの本から読めばいいか一般の方にはよく分からないというのが現状。
Amazonレビューなどを見ても、木村を初めて読んだ人のレビューが多くまるで参考になりません。
さらにネット記事で木村を調べても、お前その理解力でよく木村について記事書こうと思ったな、ググっただけじゃん、というレベルのゴミ記事が氾濫しています。
そこで、この記事では木村現象学理論を学ぶための方法と、どの本から読めばよいかを徹底解説!
木村敏、初期・中期・後期
日本を代表する現象学者の一人で、ドイツ留学のさいハイデガーと対談したこともあり、ハイデガー存在論(現象学)に精通する。
一方で京都大学出身のため、京都学派、西田哲学にも明るい。学生時代、木村は西田哲学をハイデガーとの比較から解説する講義を受けており、そのことが木村現象学に影響している。
主にヴァイツゼッカー、ハイデガー、西田幾多郎の影響を受け、独自に自覚的現象学を提唱し、独創的なあいだ論、時間論、生命論を展開する。
初期木村は、あいだ論が中心であり、最初期にドイツ語で書かれた離人症論文はドイツで高い評価を得る。
しかしながら木村の専門は統合失調症の臨床研究と治療にある。そのため木村は、あいだ論をベースに統合失調症の現象学を通じ、中期には時間の構造を明らかにしてゆく。
こうして、初期あいだ論は中期に至り時間論という側面が強くなり、後期にはヴァイツゼッカーへの回帰が強まり、あいだとしての時間論は、生命論へと発展。
木村自身は後期における「あいだ」の生命論へのケーレを「生命論的転回」と呼んでいる。
あいだ→時間→生命、これらは全て同じことで、存在論的な根源性としての存在それ自体やクローンフェルトでいうメタコイノン(超越的共同性)としての「あいだ」を示す。
つまり、ある段階から積極的に「あいだ」を時間として捉えるようになり、最後にはそれを〈生命〉として研究するようになったということ。だから木村の本は最初期から最晩年まで一貫してすべてつながっているのだ。
また昨今では脳科学の世界で、クオリアが科学では分析不能であるとかまびすしいが、このクオリアこそが「あいだ」であり、木村敏は間違いなくクオリアの現象学の世界一の研究者でもある。
茂木健一郎のアレなクオリア理解など木村と比較するレベルにさえない。
また木村の本では全体的に、ハイデガー、西田、ビンスヴァンガー、ミンコフスキー、クローンフェルト、ブランケンブルク、テレンバッハ、フロイトなどへの言及が特に多く、どの論文集でも高確率でこれら人物の名前が登場する。
とくに初期、木村が自分の文章のスタイルを確立していない時期のものは西田の影響がかなり強く、後期のケーレ以後はヴァイツゼッカーへの言及が増えてゆく傾向がある。
木村敏の本を読む前に
一番大事なこととして、哲学や現象学的精神病理学の知識がまったくない状態で、木村敏の本をいきなり読むのはオススメしない。
もちろん『臨床哲学講義』という、いきなり読んでも大丈夫な木村敏の入門書は存在する。
しかし、それを読むだけでは深い理解を得られない可能性がかなり高い。
なので木村を読む前に最低二冊、読んで欲しい本がある。
その一つがハイデガーの入門書。
できれば竹田青嗣の『ハイデガー入門』と、それとは別に、頽落論について詳しく書かれた入門書、たとえば仲正昌樹の『ハイデガー哲学入門──『存在と時間』を読む』などを読んでおくとよい。
ちなみにぼくはハイデガーの本はこの二冊しか読んだことがないが、木村のハイデガー論を理解するぶんならそれで十分。
しかしハイデガーだけでは不足で次に西田哲学の入門書を読んでおいてもらいたい。
オススメは佐伯啓思『西田幾多郎 無私の思想と日本人』と『福岡伸一、西田哲学を読む』である。
安心して欲しいどちらの本も高校生でも読める難易度かつ良質な入門書。ちなみにぼくは西田哲学の本はこの二冊しか読んでいないが、木村の西田哲学に依拠する論考を最低限理論的に理解する分にはこれで十分。
西田やハイデガーを知って木村の本を読むのと知らないで読むのでは、理解のレベルに致命的な差が出る。
事実、ぼくはハイデガーの入門書を一冊読んだだけの状態で、木村の本『時間と自己』を読んだことがあるが、そのときは理解が浅く、離人症と鬱病の時間論までは辛うじて理解できても、統合失調症に関する時間論(自己同一)は全く理解できなかった。
ところが、ハイデガーに加え、上記の西田哲学の入門書を読んでから、時間と自己を読み返すと面白いように理解できたのだ。
急がば回れ、木村の本を楽しむには、ハイデガーと西田の入門書の準備を!
どうしても前準備なしにいきなり木村の本を読み理解したいという人は『臨床哲学講義』(創元社)を読んでください。
木村敏を読むコツ
木村敏の本を複数冊読んでいると、どの本にも高確率で出現するワード(ターム)があることに気づく。そのためどの本にも出てくるワードはとくにしっかり理解して暗記するとよい。
ここでは優先的な理解と暗記が必須の木村ワードを紹介する。
あいだ
あいだ論が木村のベースなので「あいだ」のワードは要チェック。
あいだとは、モノとモノがまずあって両者に関係としてのあいだが生まれるという自然科学的な前提と異なる。
あいだというのは、モノに絶対的に先行するモノの淵源として規定される。
人と人とのあいだ、とか、時間と時間とのあいだ、音と音とのあいだ、という使い方も多い。
あいだのことをコト・ノエシス・メタノエシスとかいったりもする。またテレンバッハの内因性を示すエンドンなる語も木村本の定番ワードだが、これもあいだに属する概念。
ノエマ
木村の現象学では定番の単語、フッサールのノエマーノエシス相関とは異なるのでフッサールの対概念と誤解しないように。
ノエマ=存在者。
存在者って何って人はハイデガー入門を読んでもらいたいが、ようするにモノ・客観対象のこと。
ノエマ的身体、ノエマ的自己の二つの概念が特に大事。基本的にはノエマ的という使われ方をする。
ノエシス
木村現象学におけるノエシスはフッサールのそれとは全く別物。ノエシスとは欲望などの行為の源泉であり動きのこと。竹田青嗣でいう能うに相当させることもできよう。これこそが時間の正体である。
ノエシス的自己という形で頻出する。後期になるとメタノエシスというワードがここから派生する。後期のメタノエシスは後期の〈生命〉に対応したりもする。
共通感覚
アリストテレスの共通感覚(コイネーアイステイシス)がベースで、ここからリアリティ・現実感を説明づけ常識(コモンセンス=共通感覚)へとつなぐのが王道。
多くの木村本でコイネーアイステイシスからのセンススコムニスからのコモンセンスのコンボが登場する。
メタノエシスやノエシスに属する概念なので非常に重要。あいだもまた共通感覚の場所だといえる。
ようするに五感の感覚に対する能動的な意味感覚のことを共通感覚と木村はいう。
メタコイノン
木村独自の概念ではなくクローンフェルトの提唱するテクニカルターム。メタノエシスとだいたい同じ意味。
超越的共同性ともいう。個と普遍、みずからとおのずからとの止揚を支える根源生の原理みたいな感じ。
おのずから・みずから
どちらも漢字で書くと自の文字が入る。
自ずからとは自然であり、おのずからして身ずからとなる、とされる。
木村は自ら(みずから)を身ずからと表記することも多い。これは非常に重要で身体性から主体を論じる視点になる。こうした身体の重視はラカンなどの西洋的なスタンスには希薄。
日本語の自然(じねん)や、みずからとおのずからについては河合隼雄も注目し理論化している。
存在論的差異
ハイデガーの有名なキーワードである存在論的差異は欠かせない。木村は存在論的差異を非常に重視する。
存在論的差異とはノエシスのことで、モノがあるということ(存在)とモノ(存在者)との差異を示す。
ちなみにラカンの欲望は、完全に存在論的差異に対応しているのだがなぜか誰もそのことを指摘しない。ラカンの欠如とは差異のこと。この差異が抹消すると欠如がなくなり、それをラカンは排除という。
またユング派になると存在論的差異を心理学的差異=魂としてイメージとの関係で独自に理論化する。
そのため存在論的差異はユング・ラカン・木村敏に共通する人間理解のための最重要概念。
三者ともこの差異こそが人間の主体性の正体ないしは根源だと結論している。
(※補足:精神分析では表象(シニフィアン・存在者)が抑圧(禁止・隠喩)されることで心的エネルギー(情動・存在)が表象から分離して任意の別表象へと移動することが可能となる。この分離・差異化した心的エネルギーが存在論的差異と理解すると全部繋げて存在論的にラカンを理解可能)
また竹田青嗣の話を理解する上でも存在論的差異の理解は非常に有効。
あいだ系 (存在系) | モノ系 (存在者系) |
ノエシス ノエシス的自己 メタノエシス メタコイノン 共通感覚 エンドン こと 存在論的差異 存在それ自体 存在 おのずから 自然 気 行為的 時間 | ノエマ ノエマ的身体 ノエマ的自己 もの 存在者 身ずから 行為的直観 |
(※存在と存在者との間としての差異はそれ自体、存在系に属する。また両者の差異の抹消した存在者もあることに注意)
他にも気とかポストフェストゥム・イントラフェストゥム・アンテフェストゥムとか自然な自明性の喪失とか行為的直観、超越論的自我を経験的自我が肩代わりとか現存在の超越だとか、まいど木村本に登場するワードは、枚挙にいとまないが、とりあえずは上記のワードがでたら優先して理屈を理解しその単語を暗記するといい。
木村本の定番ワードは全てが現象学的に連動、連関しているのでしっかりとワード間の対応の理屈を捉えよう。
ちなみに何冊も読んでるとあまりにも繰り返されるのでこの辺の単語は嫌でも覚えてしまうから安心して欲しい。
最強の木村敏の本5選!
まず最初に僕がこれまでに読んだことのある木村敏の本を提示。というのも僕は全ての木村敏の書籍を読んでいないから。つまりこの記事でのベスト5は全ての本を読み込んだ上でのベストセレクションではありません。
僕のいう読んだ本の基準は最初から最後のあとがきまで、参考文献の項目を除き、1文字も飛ばさずにメモをとりながら、理屈を理解しつつじっくり最後まで読んだ本のこと。例外はあれど基本的に二回読んでいて、『自己と時間』は4回読んでます。
※以下の本、『あいだ・自己・時間』と『臨床哲学の知』のみ半分しか読んでいません。
『自己と時間』
『自己・あいだ・時間』
『からだ・こころ・生命』
『あいだ』
『人と人との間、、、』
『自己ということ』
『分裂病と他者』
『新編 分裂病の現象学』
『異常の構造』
『臨床哲学講義』
『臨床哲学の知』
1位:時間と自己
木村敏の本で一冊、一番すごい本を選べと言われたら、木村読者のほとんどがこの本をあげるだろう。
木村の本では一番有名で、人気も圧倒的。
ページ数:193
発売日:1982年
出版社:中央公論新社
難しさ:★★★☆☆
本書は『あいだ・自己・時間』という専門的な論文を一般の読者むけに分かりやすくした本。
ただし、それでも本書をいきなり読むのはオススメしない。絶対にハイデガーと西田の入門書を読んでからのがいい。
離人症や鬱病の話はいきなり読んでもかなりのところを理解できるのだが統合失調症の理論は難解で、いきなり理解するのはかなりハードルが高い。
この本は、俳句など日本文化を参照しつつ、離人症を「あいだ・こと」の欠如した客観時間(モノ時間)、鬱病をポストフェストゥム的な公共的時間(頽落的時間)、統合失調症をアンテフェストゥム的な個別性時間(我と汝的時間)、癲癇(てんかん)や躁状態をイントラフェストゥム的な原時間(即自的・純粋なコト時間)として捉え、時間と自己のあり方との関係と等根源性を明らかにし時間の謎に迫る。
またハイデガーの他にも、アリストテレスやデリダ、ベルクソン、サルトルなど様々な哲学理論が参照される。そのためいきなり読むと部分的にきついところがどうしてもある。
時間の謎を解き、独自に時間の正体を詳細に暴いた世界屈指の怪書。この本に衝撃を受けて腰を抜かす人も多い。人生最高の本にこの本を上げる人も多いのではなかろうか。
あまりに有名な本のため、とくにいうことがない。とりあえず読もう!としか言いようがない。
2位:分裂病と他者
木村の本で時間と自己以外でベスト本を選べと言われたらこの本。木村敏の後期、ちょうど生命論的転回が成されたころに執筆された本。そのため完成度が極めて高い。木村敏の一番脂がのっている時期の本。
ページ数:427
(ページ数は文庫版)
発売日:2007年
出版社:筑摩書房
難しさ:★★★★★
ぼくが読んだ木村敏の本では『自己・あいだ・時間』の次くらいに難しかった本。これぞ木村敏というハードさがある。
また本のボリュームもかなりある。みっちりと圧縮され、タイトに詰まった文章でこのページ数なのでスルメのような噛み応えがあり味わい深い。
本書では木村理論の根幹をなすフッサールとは異なるノエシス・ノエマ概念が詳細に展開される。
本書の特徴は、その本格的な論考にある。本格的で難しいからこそ、やはり圧倒的に面白い!
苦労して本書を読み切ることができれば、読者は自分の人間存在に対する根本的な理解度の圧倒的な向上を体感することになるだろう。僕のレベルを一番上げてくれた本。
本書は木村本にしばしばありがちな構成で、序盤はとっつきやすく簡単な内容だが、読み進めてゆくとだんだん難しくなってゆく。話が一貫しているので、基礎から入ってそれが高度に展開してゆく感じ。
見所の一つは、序盤の木村が電車の車窓から見えるノスタルジックな見知らぬ民家を認識したさいのその認識過程が現象学的に分析・解説されているところ。これが非常に直接的に木村理論を理解する上でたすけとなる。
実際の体験を現象学し、それを非常に分かりやすい言葉で簡潔に説明してくれているので序盤のこの記述は全体を理解する上でも大事。
また、この車窓の民家の現象学から、「親密な未知性」という木村理論のタームが説明される。木村は、これをサルトルの語る不気味な欠如と比較し、親密な欠如だという。
サルトルの欠如論はミレールがラカンの主体を構造主義の体系に理論的に組み込むに当たり参照したことでも知られるので、ここでの木村の論考は非常に興味深い。
また本書は、キルケゴールなどを参照し「自己とは関係に関係する関係である」という有名なテーゼの意味を解説、これが「自己とは、存在する存在者に存在論的差異する存在それ自体」と読み替えが可能なことを明らかにしている。
この晦渋な記述から分かるように、本書の全部をしっかり理解しようと思うととんでもなく頭を使わされる。
しかし故に何回も木村の主張を頭で反芻しどういう意味だ、こういうことか?いやこうか、と格闘しながら読めば、読み終える頃には圧倒的にレベルアップする。
あとは重要な記述として存在者と存在との相互規定的な弁証法的関係が述べられたりもする。
さらに最大の特徴をあげるならデリダへの本格的な言及が見られる点だろう。本書ではデリダの差延の議論や二重の外出についてが木村理論に組み込まれてゆく。
木村がデリダの理論にここまで踏み込んだ本を僕は他に知らない。
ぼくのような哲学理論に明るくない読者は熟読を迫られるだろう。とてもすらすら読むことはできず、理解するために頭を酷使させられるので、知力を強化したい人には本当にうってつけの本。最強の脳トレになることうけあいだ。
本書は木村本のなかでもとりわけロジカルな記述が多く、ぼくのようなある程度、現象学的・体系的に理解しないとイライラして気が済まない細かい人間には非常にありがたい本でもある。
他にも見所だらけで、替え玉妄想や文字のゲシュタルト崩壊が感覚的な対象(感覚与件)と知覚対象との無限小のズレによって生じることや、この差異が身体性と関わることなどが示されたり、対人恐怖症と身体性の問題も詳細に分析される。
また対人恐怖症といえばもちろん日本の文化存症候群であり、本書の理解は日本人やその社会的特性を分析するうえでも欠かせない。
さらに本書では、境界例(境界性人格障害)について、木村の現象学的なアプローチでの理論化が成されている。
境界例といえば、自我心理学とメラニークラインの対象関係論の影響を受け、低次元の防衛機制である分裂(パラノイアスキゾイドポジション)を中心に精神病と神経症との中間状態として理論化されるのが一般的。
そのため、現象学派の木村の理論は、その種の精神分析理論とは真っ向対立し、目新しく非常に面白い。
木村の現象学理解によると境界例は、始原なるあいだへの回帰願望(死の欲動)と個別的存在本能としての生への意志とのアンビバレントによって特徴づけられる。
漫画で言うと『メイドインアビス』は木村解釈にもとづく境界例の葛藤として、まことにふさわしいと分かる。母なる自然への回帰願望と、それが意味する個としての死の不安との葛藤、本書は、ここに境界例の本質をみてとる。
本書はアニメ漫画オタクも必見なのだ。
また本書はラカンの構造主義との対立が意識されラカンへの言及が非常に多い、そのため構造主義批判も展開される。
ラカンでおなじみのシニフィアンは、木村のノエマ(存在者)に対応するが、木村のノエシスはシニフィエ(シニフィアンで提示される意味)には対応しないという本書の解説はとても印象深い。
つまり言おうとすること動きがノエシスであり、ラカンでいう欲望、あるいは言表行為がノエシスに相当していることが本書では仄めかされる。
それとタイトルにあるとおり、他者論が展開される。木村といえば自己論がベースで、その木村が本格的に他者を論じるというところに本書のコンセプトがある。
この本に挑戦する方に向けて、本書を読むうえで意識しておいた方がいい、本書の論旨の一つを取り上げる。
本書では存在→存在者というパースペクティブに木村現象学の特徴があり、ラカンに代表される構造主義は存在者→存在というパースペクティブになっていることが示される。この視点の違いからラカンが欠如(無)と呼ぶ存在を木村が豊かに探求できる理由が示される。
(※享楽や一者へ着目し欲望から欲動へと重心を移した後期ラカンは木村にやや近いかもしれない)
本書が持つこの視点を意識して読むことで木村の言わんとすること、つまり本書の全体的な文脈がつかみやすくなるだろう。
本書を読んだり、逆にラカニアンの新宮一茂の本を読むと、ドイツ現象学系と構造主義のラカンは決定的に異なるような印象を受けるかもしれないが、実際にはラカンの理論と現象学系の論理はかなり近いところが多く、二つを学ぶとどっちの理解も深まるので相性がいい。
どちらもハイデガーで読解できるところが共通している。
ちなみにラカンと構造主義の関係について知りたい人はジャック・アラン・ミレールの入門書が参考になる。
3位:異常の構造
やはり異常の構造は欠かせない。この本はとても読みやすく万人向け、中盤までなら、いきなり読んでも十分理解できる。木村の本の中では異色と言われる。
ページ数:182
発売日:2022年
出版社:講談社
難しさ:★☆☆☆☆
本書の原本は1973年に刊行。
一般の人へ向けて書かれており木村敏の本としてはかなり簡単。途中までなら中学生でもしっかり理解可能。
かつて東大の受験で文理共通の現代文の問題として採用されたこともある、日本を代表する名論文。
異常と正常の関係をあきらかにし、なぜ人々は超能力や霊能力などのある種の逸脱を激しく批判する一方で、高知能という一種の平均からの過剰な逸脱は礼賛するのか、という素朴な疑問を解いたりする本。
したがってデバンカーなんかに興味がある人にもオススメ。個人的にはデバンカーの占い師けんけんに読んでもらいたい本。
この本に関してはいきなり読んでも十分に楽しめるかもしれない。
ただし、後半に至り、フィヒテの1=1の議論が参照され、話が自己同一性なんかにさしかかると、木村のいわんとすることを十全に理解するには、この手の議論へのかなりの理解が必要になってくる。
最終的には反精神医学に対する独自の批評を行ったりもする。
生への意志それ自体が日常性への固執を内在しており、人間の異常への排除と渇望のアンビバレントが構造的に避けがたいことが示される。
本書については『分裂病の現象学』で多くの直接的言及が見られるので本書を読んだ人は分裂病の現象学を読むのもオススメ。
4位:あいだ
やはり『あいだ』は欠かせない。生命論的転回をなした節目となる後期木村の論文。音楽好きは絶対読んだ方がいい。
ページ数:218
発売日:2005年
出版社:ちくま学芸文庫
難しさ:★★★☆☆
木村敏の本では平均的な難しさ。ページ数も少なく気軽に読める。
とりあえずこの本を読むと、音楽を聴くという体験が根本的に変わる。音の聞こえ方が変化し音と音との間のノエシス的な躍動をつかむことができるようになる。
これを読まずに木村を語ることはおろかとさえ思える本。
多くの楽器を演奏し、とくにピアノはコンクールで優勝したこともある木村敏による、音楽の演奏や音楽を聴く体験の現象学は圧巻である。
静的な認識や概念の現象学と違い、音楽のような動きに関する体験の現象学は難易度が高い。
本書では、その音楽体験を木村が独自の自覚的現象学を駆使して巧みに本質直観する。
また、本書ではメタノエシスという後期木村のタームが登場し、ノエマ・ノエシス・メタノエシスの概念が噴水の水源・水圧・噴出口・水の放物線に喩えられ、非常に分かりやすく示される。
他に特徴をあげるなら、ベイトソンのダブルバインドへの論考は欠かせないだろう。
この手の学問書を読まれるかたで知らない人はいない、かの有名なダブルバインドについて、木村がついに独自の解釈を展開する。
そこで木村はダブルバインド、すなわち言語レベルのメッセージと、それに対してメタレベルにある身振りや表情、雰囲気などのメタメッセージの関係を逆転させるとツンデレになることを指摘する。
ラッセルも真っ青の新発見である。
したがってアニメによくあるツンデレを考察するうえでもリアルに本書は欠かせない。
また本書では、アリストテレスの共通感覚(コイネーアイステイシス)についての分かりやすい説明もある。
また分裂病と他者と同じく、生命論的転回以後の著作のためヴァイツゼッカーのゲシュタルトクライスが参照される。とくに断絶を意味するクリーゼについても分裂病と他者と同じく重点的に述べられる。
ちなみに本書のクリーゼは精神分析の錯誤行為や父性隠喩に対応させて読むことができる。ラカンの論理と木村を繋ぐうえで本書のクリーゼとラカンの大文字の他者、句読法、錯誤行為との関連は見逃せない。
5位『人と人との間 精神病理学的日本論』
5位は激戦、本当に悩みました。やはり木村による日本の文化論は貴重。
ページ数:238
発売日:1972年
出版社:弘文堂
難しさ:★★☆☆☆
木村敏の本としてはあまり難しくなく読みやすい。ページ数も少なめ。ただし他の著者の日本論の本に比べるとやや難しい。
精神科医による日本の文化論の古典といえば土居健郎『甘えの構造』はあまりに有名だろう。
本書は土居の甘え論にも踏み込み木村が積極的に土居へ問題提起してゆく。土居と木村の論文を介したやりとりはその当時、闊達な議論が公に旺盛だったことを思わせる。
ちなみに土居の増補版の甘えの構造には木村へのアンサーが書かれていたりする。そのため現象学的精神病理学・深層心理学の黄金期の賑わいが行間に宿った本と言える。
そんな本書は和辻哲郎の風土論を参照し日本の風土一体の国民性・人間観を明らかにする。本書の特徴は、外部から日本人を研究対象として客体化する、いわゆる実証主義系の文化論とは一線を画する点にある。
本書は現象学的に、そして内在的に日本人の性質をあきらかにしてゆく。
また定番の対人恐怖症だけでなく、統合失調症や鬱病における欧米との明確な症状の違いなどから、日本人の本質を洞察する。
また森田療法におけるヒポコンドリー性基調や言語構造の差など文化論系の臨床心理学本では、おなじみの記述もおさえてある。
臨床心理における日本の文化論でいうと河合俊雄『中空構造日本の深層』など他にもあるが、本書の洞察はそれらとは違った独自の持ち味がある。
本書の個性の一つは和辻の風土論に依拠し風土という観点から、木村現象学によって日本の民族性をつまびらかにする点、とにかく名著なのだ!
また本書は日本人が「我々、日本人」というのとフランス人が「我々、フランス人」というのとでは本質的に意味するところが違うことを明らかにする。
さらに本書はトランスカルチュアル精神医学としての、つまり自国に固有の文化の底に人類普遍の共通の構造を取り出すという科学とは異なる優れて現象学的な精神医学の可能性を説いた本であり、その社会的意義はあまりに大きい。
今の時代にこの本を読むと精神医学、臨床心理学のみならず文化人類学や社会学など人文知の凋落ぶりに悲しくなる。
本書を読むと現代人がいう頭の良さ(知性)と1972年時点での知性とではまるで質が違うことに気づかされる。
理解のための読む順番
まず大事なのは、最初にあらかじめ西田とハイデガーの入門書を読んでおくこと。
これが一番大事。
そこまで順番は気にする必要はないが、オススメのコースはこれ。
①自己と時間→④あいだ→自分ということ→②分裂病と他者→分裂病の現象学→③異常の構造→⑤人と人との間、、、。
さらにオススメなのが、ラカンを理解して木村を読むこと。ラカンの理論と多くの点で対応するので、ラカンを理解しておくと相互に理解が深まる。また木村自身もラカンへの言及がしばしばあるため本格的な木村理解にラカンは欠かせない。
ラカンの入門書や入門の仕方は以下の記事を参照して欲しい。
木村の本に外れなし
こんかいランキングをつけていて感じたのは木村敏の本は総じて質が高く外れがないと言うこと。
木村の本の多くは情報量がすさまじく、文章が凝縮している。だからとてもじゃないが一冊を網羅的に理解するには一冊では足りない。
だから何冊も読んでじっくり考え一歩一歩、木村理解を深めてゆくより他ない。
学問や教養とは元来そういうものだろう。
古典は読むたびに味わい深い、そのため木村の本は読むたび新たな発見がある。
終わりに
木村敏の本を読むといつもむなしさがある。それは現代人の知性の劣化を感じるからだ。
現代人にとって頭がいいというのはクイズ芸人とか雑学王とかナゾナゾ名人だとかなのだろう。それは官僚的で、効率的に知識を集積し脳内に備蓄する知識の量、それを支える記憶力や、単純な解法のパターン化とパターンの暗記力に還元しつくせる。
このような受験戦争やポイントゲーム(クイズ)を勝ち抜くために合理化されたマシン的(想像的)知性が、学問的な知性とはなんの関わりもないのはいうまでもない。
まるで日本人は日本猿になったといえば言い過ぎだろうか。いずれにせよ人文学は死んだ、それは哲学が終わりを告げたことに関わっているに違いない。
程度の低い言論人が知の巨人を騙り、大衆を籠絡して金をしぼりとる。
この手のテレビに出てくるレベルの低い自称社会学者だとか自称国際政治芸人だとか自称精神科医には愕然とする。
東大理三に子どもを入れればそれで英雄の母親になる時代、猫も杓子もネームバリュー、まるで中世日本にタイムスリップしたかのようだ。
東大やメンサの肩書きを水戸黄門の印籠に置き換えて見れば、現代日本は見事に中世日本とオーバーラップする。
コメント