うたまるです。
核兵器といえば、平和のために廃絶を唱える人たちと、平和のために核武装を唱える人たちがいて、どちらも平和を実現することを目的としつつ、その実現の仕方について対立しています。
というわけで今回は核を巡る意見対立について、国家幻想の観点から考察してゆきます。
核兵器必要派の主張:現実主義
しばしば日本の保守と呼ばれる人たちは、日本の非核三原則を否定し核武装を推進する傾向にある。
というのも第二次世界大戦で日本に原爆が投下されて以降、冷戦下における宇宙技術開発競争の結果、大陸間弾道ミサイルが登場し、核抑止力による戦争抑止によって今日の国際平和が維持されてきた側面があるからだ。
冷戦がホットウォーにならなかったのも米ソの核抑止力による相互確証破壊が幻想されたためだろう。相互確証破壊とは核兵器を撃たれたら撃ち返す、このことで両者がともに滅びることを確信する一つの信憑である。確証という信憑であり相互破壊というカタストロフへの幻想が現代の国際秩序を支えているわけだ。
周知の通り核兵器誕生以降、大国と大国とが全力でぶつかり合う大戦は一度も生じていない。
またどんな弱小国家でも原子力潜水艦から核ミサイルを発射する能力さえあれば、どの国もその小国を侵攻することはできない。核兵器がコスパ最強の防衛兵器と言われることがあるのもこのためだ。
そのため自国が侵攻され、国家を潰されるとなれば核による恫喝で防衛することもできる。そのため論者によっては各国が核武装し、大国の傲慢を退けフェアな関係を築くためにも核兵器が欠かせないという意見もある。
またパトリオットミサイルを含む大陸間弾道弾迎撃ミサイルの精度にも限界があり、コストだけが無駄にでかい大陸間弾道弾迎撃ミサイルではミサイル防衛は事実上不可能だという専門家もいる。
というわけで核兵器の所有は国際平和の維持に寄与しつつ一国の安全保障と独立と自律を実現するうえで必要不可欠だ、というのが核保有論者の思惑だろう。
また日本は米国の核の傘に入っており、核による戦争抑止を米国に依存している。だから米国の傀儡政権しか生まれないし、国民も自律することができない。日本の保守派の考えを代弁するとこんなところだろうか。
もちろん核兵器で世界から戦争がなくなることはない。たとえば対テロ戦争、小国間の小競り合い、部族紛争、内紛、国境線上での小規模戦争などなど、核抑止によっては防げない戦争というのもある。
とりわけ都市や国家に潜伏するテロリスト相手に核兵器を使用することは不可能だ。
まとめよう。
積極的核武装を含む核兵器容認派の意見は相互確証破壊による合理的で現実的な秩序維持の有効性に支えられている。ゲーム理論的な意志決定があるといってもいい。
そして現代の国際関係においては安全保障のみならず経済的にも政治的にも一国が独り立ちして、一人前の発言力と自己統治力を発揮するさいも核保有が必要となると核保有論者は考えている節がある。
日本の保守派には比較的に核武装論者が多いが、日本の保守が現実主義でリベラルが理想主義と呼ばれる理由もこのあたりにあるに違いない。
核兵器廃絶派の意見:理想主義
次は核兵器廃絶派について考えよう。
彼らの思いを僕なりに想像すると、おそらく核戦争が人類滅亡へと繋がるという懸念があるのだろう。
核による相互確証破壊が成立するためには、いざ核戦争となればお互いの破壊が確証される必要があり、核兵器はその破壊を信憑させるだけの威力があるわけだから、なんらかの不測の事態から核戦争となれば人類崩壊の可能性もあるわけだ。
といって核兵器が消滅したら前世紀初頭のような世界大戦の時代にまで国際秩序が退行する可能性も否定はできないだろうが。
しかし、なにより核兵器廃絶は人々の心に訴える非合理的な説得力をもっているように思える。というのも合理的観点からは一国の外交戦略としても国際秩序の維持の点でも核武装の有効性は明らかだからだ。
つまりことの本質は、それにも関わらず多くの人々にとって核兵器廃絶が一つの理想として捉えられている点につきる。そもそもほとんどの核兵器廃絶論は合理的外交論によるのではないから、これを合理的外交戦略だとか合理的国際関係論、安全保障の位相で論駁したとしても、それでは核に関する合意を形成できないのである。
核兵器廃絶という欲望の構造、なぜ普遍的な理想としてそれが称揚されるのか、という人間心理への洞察なくして、つまり氷の論理(合理主義)によって理想を論駁することは不可能だと言いたい。
核兵器廃絶の欲望とは
そもそも核兵器による国際秩序維持にたいしてこれを合理的に正当化し、核抑止を人類のあるべき平和として措定すること、ここに違和感がある人が多いのではなかろうか。
核抑止論とはつまるところ相互不信による国際関係を前提とする。まず相手国が不当に攻めてくるかもしれないという相互不安を前提とし、この不安を暴力装置(核兵器)によって抑制しようというジャイアニズムがあるわけだ。
つまり核抑止力を持つということは、相手が攻めてくるという幻想をある意味で実体化する側面が否めない。それは不安を実体化したうえでこれを核で抑止(抑圧)するという心理的プロセスをたどる。
あるいは簡単にいえば近隣諸国とは互いに銃を突きつけあう関係だという意識が実体化されるという見方もできるだろう。
また核兵器は、国家間の境界を峻別する役割を担う。とりわけ国境線を核の防衛や抑止を仲介して国家アイデンティティとして国民心理に基礎づける作用があることは否定できまい。
つまり核兵器による相互確証破壊というストーリー(幻想、信憑)は、それと不可避に国家幻想の形式を限定するのである。
といっても読者のなかには国家幻想とはなんぞや、という方もおられるだろうから簡単に補足しよう。
まず国家(国籍)とは吉本隆明の共同幻想論を読むまでもなく幻想でしかない。
このように言うと、いやいや具体的な法律、憲法によって国民は現実客観的に定義されているのであってそれは幻想ではない、との反論があろう。
しかし、それは間違いである。
まず発生的にいえば共同体幻想(紐帯意識)が先にあって、その幻想にかなう形の法が幻想される、ないしは法幻想が共同体幻想を規定し共同体幻想がまた法幻想を規定するのであって、人間の幻想や主体を抜きにスタティックな近代法が生じるなどはありえないからだ。
よく最初に個人があって個人があつまって契約を結び共同体ができるという妄想を騙る論者がいるがこれは心理学的にナンセンスである。
無人島で最初から一人の人間に個人とか人権とかいう概念はありえないわけだから、個の生成には共同体の規範・幻想が先行している。
まず法の成立には、法を基礎づけ方向付けるところの人間観や国家観が共有されていなければならない。そして、そのような法を方向付け基礎づけるところの世界観一般は幻想としかいえない。
厳密な意味での客観的な意味世界を想定することは不可能だといえば、このことはよく分かるだろう。
たとえば人を殺してはいけない理由、殺人禁止の法もこれを厳密に客観的に基礎づける論理は存在しない。したがって殺人の禁止は共同主観的に共有された共同幻想を根拠とする。
このことから法自体は具体的な規定であっても法の根拠は全て共同幻想によって成り立つといえる。
さらに近代の法は国家に帰属するわけだから、近代の法規範は国家共同体幻想の構造やあり方に依存すると分かる。個人の所有や自由を保障する個人に関する法幻想も、じつのところ共同体=国家幻想と個人幻想=個人との分離(逆立と解離)の構造に依拠するといってもいいだろう。
余談だが、吉本隆明の共同幻想論はこのような観点から国家の成立プロセスを分析している。
より分かりやすく言えば、僕たちは日本人であることをアイデンティティとできるわけだが、このことも日本という共同体が、自己の実存(物語)を形成しうる幻想として成立していることを示す。国家とはその意味で優れて幻想的、物語的、意味的な概念なのだ。
だから国の歴史にしても、その歴史を知ることでその国の精神に触れることができる。でなければ保守と呼ばれる人たちが歴史を重視する理由が存在しない。
つどの歴史的事象を生じる国民的意志(共同主体、共同幻想)が歴史出来事の背後に想定されていて、それを理解し共有することでアイデンティティとしての歴史観=物語が成立するといえよう。もし歴史的出来事が物理学のレポートのごとき記述でしかないなら歴史は、リンゴが重力により落下した、というようなものでしかなく国家観だとかアイデンティティにはなりようがない。
話を戻そう。
つまり、核抑止幻想は領土の侵略に対してこれを阻止するという目的を含む。そのために核抑止幻想では国境線が明確化され、国家の空間的境界がスタティックに確定してゆく。
これにともなって国家幻想のあり方も変容することとなろう。
まずこの場合、国土と国民との繋がりが強固となる可能性が考えられる。
するとこれは農耕社会に特徴的な幻想構造を強めることが分かるだろう。というのも文化人類学の研究から分かっているように、狩猟自然採取型の原始未開社会および前古代社会では定住しないので土地と人間はスタティックな仕方ではつながらない。
言い換えれば、人は土地の所有という概念を形成しない。
むしろ土地に人が所有されているような意識に近かっただろう。
しかし、古代社会になると日本では水田稲作が普及し弥生時代には完全な農耕社会への移行が完成する。これにより定住して土地を所有するという概念が形成される。
この土地の所有という幻想が、自然を対象化しこれに農耕というテクノロジーによる操作を加えて、計画的に自然から富を得るという世界観や計画された将来の収穫の到来という因果的時間意識が構成される。
かくして土地の所有によって、人と自然の一体関係は切断され人は主体として土地や自然という客体を所有するという幻想を生み出してゆく。このことが血縁共同体の幻想から超血縁共同体=国家共同体幻想への分化を生じ、最終的には近代国家という幻想が構成されるにいたる。
国家とは農耕と定住、土地の所有を介して可能となった新しいタイプの共同体幻想なのだ。
国家幻想の成立について詳しくは吉本の共同体幻想論を読んでいただくとして、話を進めよう。
※国家幻想について今の僕の理解で説明すると数万字の長さでかつ、小難しくなるので割愛する
つまり、核抑止論幻想は農耕を起源とする土地の所有と限定、空間の境界線の確定とを旨とする近代国家幻想を強化する幻想だと考えることができる。
この場合、核兵器を持つことは国土を領有すること(土地の所有)と等価である。
そして人々はそのような幻想に対する根源的な罪の意識をもっているのではなかろうか。というのも僕には核兵器と聞くと、合理主義的にはその保有なしに日本の自主独立はないと考える一方、より根源的なレベルではなにか核抑止という幻想そのものに対して人間の原罪のようなものを感じるからだ。
ハイデガーは罪悪感を欠如にみたわけだが、核兵器の罪とは一つには人間が自然から切り離され、自然が欠如したことへの罪、テクノロジー一般への罪、土地=自然を一方的に所有する罪ということもできよう。あるいは核抑止とは侵犯(タブー)への制裁であるから、所有(テクノロジー)そのものに対する罰といった方が適切かもしれないが。
このように考えると核兵器廃絶が原発などの核の平和利用の否定と密接に連動する人間心理の機微もつかみやすい。
核抑止幻想の本質
そろそろ話をまとめよう。
まず核なき世界は一つの理想幻想を構成する。というのもまず現実には核があるから、核なき世界は現実には欠如している(実現していない)ことで始原にあった楽園を投影されるにたるからだ。
核なき世界がいわんとしているのは、冷戦以前の世界大戦への退行ではない、そんなものは理想にならない。
核なき世界と僕たちが言う場合、それは核なしに可能な平和を実現する新しい共同幻想が欲望されている。核の放棄はここでは詳しくは触れないが、おそらくは時間を持つこと、所有すること、土地=身体を持つことに対するオルタナティブが前提されているのだろう。
持つこと、手で道具的存在者(鍬)をつかむこと、こうした近代の時間や所有に対する何らかの弁証法へと向かう共同主体性が見せる夢、それが核なき世界の意味なのだろう。
※理想が欠如であり外傷でありタブーであるという点についての精神分析的解説は他記事の内容との重複を避けるため割愛、気になる人は当ブログの作品考察記事を適当に読んで欲しい
さて、撃たせないための核兵器が核抑止の基礎理念なわけだから、核兵器にはタブーと法の原型がある。すると核兵器はファルスとして布置されていることが分かる。ファルスとは精神分析における人間にとって禁止されて欠如した欲望の対象を意味する。
またファルスは法の欠如を埋めるものであり、主体に法を基礎づけるもとでもある。
これについての詳しい説明も当ブログの他記事との内容の重複をさけるため割愛するが、ここで僕が言いたいのは、核兵器=象徴的ファルスとは、到達不能であるために所有されるという性質を持つこと。
核兵器=身体=象徴的ファルスは持つものであって成るものではない。そして人が何かを所有するとは、その何かと自己主体とが分離することで可能となる。それはちょうど農耕によって土地=自然が所有可能となったとき、人が自然から切り離されたことにもいえる。
農耕以前において人は自然そのものであり人は自然に成っていたのだ。
この観点でいえば、非核三原則における日本はアメリカの核兵器=ファルスそれ自体として布置されている。精神分析的には日本人にとって日本はアメリカに所有されたファルスそれ自体=核兵器そのものといってもよい。
核兵器をもつことはこの意味で、アメリカからの分離のプロセスに相当するだろう。というとあまりに核保有について肯定的な読解になりすぎだろうか。
僕は日本が核保有することについて否定はしない。しかし全肯定するつもりもない、というのも核保有は所有に対する、つまり自己身体の所有に対する誤認を惹起しうるからだ。
核の所有はその幻想形式を介して逆説的にも国家幻想を解体してしまう、そういった作用があるのだ。
この所有における逆説に関して詳しくは当ブログの未来予測をした記事で解説しているので気になる方はその記事を読んで欲しい。
要諦を示せば、核兵器は所有が問題となる根源的罪であってタブーの核であり、それはまた国境を峻別することにおいて国土の所有を国民に意識づける。だから核抑止と核の所有とは農耕と土地の所有、および自己が自己の身体をもつことのあり方についての根源的な主体の葛藤を不可避に生ずるのである。
農耕で農耕機具をもって大地を耕すこと、これは道具という身体(手)の延長をもって土地を所有することに他ならない。また土地は持たれるものであるから、やはり土地(農地)もまた所有される自己身体の延長なのである。
鍬という道具が手の延長であるように、農耕は自己身体を農具や土地を仲介して対象化し、これにより自己身体の所有と計画的時間意識(作物の周期計画的収穫)において自己の企投を可能とする。
かくして時間は土地の所有=身体の所有を介して因果的構造化を実現し過去から将来へと一方通行の流れを形成するに至るのだ。
そしてこの自己=時間の構造こそが核所有を中心とする核抑止的国家幻想の基底をなす。しかし皮肉にもこのような所有に関する幻想=誤認こそが当の近代国家幻想を解体に導く、ここに現代社会の諸問題の核がある。
また核廃絶の欲望が目指すのは、近現代がもつ共同幻想構造へのなんらかの弁証法的オルタナティブである。
よって核兵器を巡る葛藤は人間の幻想に依存する不可避の事象であり、葛藤の解消不可能性にこそ人間の自由の根拠がある。
これが今のところの僕の核抑止論に対する意見の要諦である。
核抑止についていえるのは外交戦略的な合理主義の枠組みのみによって核抑止論の全てを論じようというのは甘い、ということにつきる。
むしろ核兵器は欲望=幻想の核を形成するものであり、国家およびその相関者である個人幻想、さらには家族や恋愛幻想=セクシャリティの規範化といった人間存在の諸幻想の構造に直結する。
このレベルで体系的に論じない限り、なぜ一部の核廃止論者はかたくなに性急な核廃絶を論じるのかを理解することができないし、たんに合理的な説得だけしても合意形成できないことを見逃すこととなろう。
おまけ:核抑止の彼岸
核兵器=ファルスが多くの国家に散種される事態がどのような幻想構造を要請するのかは未知である。
日本が核兵器を所有する事態となれば、そのような国際社会は米国やNATOに依存した冷戦モデルの安全保障モデルが成立していないのだろう。
となればおそらくは韓国やドイツといった国々でも核保有がなされる可能性がでてくるかもしれない。
核兵器は北朝鮮など一部の国を別とすれば、大国の戦勝国が独占したいと考えている節があり、その思惑もあって核兵器の拡散は抑制されてきた側面もあろう。また際限なく核が拡散すれば、軍事独裁政権のいかれた独裁者に核が所有され国際秩序が危ぶまれる可能性も否定できない。
そんなわけで核はおおむね大国の戦勝国に許された特権というおもむきもある。このような正嫡的な核所有を精神分析では単一のファルスとか単一の父の名と呼ぶ。
ちなみに、この記事の誕生の原因となっているピースウォーカーなどの一連の小島秀夫ゲームではメタルギアという核兵器が世界中に散種され、核兵器の正嫡性=正統性が破綻しつつある世界が描かれる。
つまり正嫡的核所有を一つの背景としたアメリカ主導の国際秩序の形成は、核の散種=無秩序な拡散によって崩壊する可能性もあるわけだ。
現状、アメリカによる核シェアリングでドイツなどに共有される核兵器には全てアメリカという単一の父の名が刻印されている。
核の無秩序な拡散とはこの意味で、複数形の父の名であり、ポストモダン的な相対主義への諸幻想の移行と関連させることができるかもしれない。
またアメリカに頼らない新しい核シェアリングが起きたなら、それは国境幻想の複層化を生じる可能性もあるだろう。核を共同で所有するとなれば、相手の国と自国とが核を介して安全保障上の国境を等しくすることになるからだ。これにより国境が関係であり幻想に過ぎないことを露呈するかもしれない。
しかし核廃絶という理想はこの場合どのような意味をもち作用するのだろうか。
人は核廃絶という理想を消去することはできない。共同体幻想の核心に核兵器が入り込んでいる以上、不可能な核廃絶という理想は止揚された形でいつでも目指される必要があろう。
現状ではこれ以上の考察はできそうにない、そして僕はこの考察にはまったく納得がいかないので、気が向いたらまた考えたいと思う。
終わりに
僕が核について考えたのは小島秀夫監督のゲームの影響による。監督のファンであれば、誰もが一度は核兵器について考えたことがあるだろう。
核の難しいのは核廃絶の理想を捨てるわけにはいかない、にも関わらず核廃絶は現実的にも心理学的にも実現してはならないところにある。
もし核兵器の廃絶を実現するなら核がもつ幻想的布置関係そのものを解消するしかないわけだが、その場合は核廃絶という理想は理想としては機能せず、なんの心理的意味も持たないことになる。
現実の国際情勢からの要請と対応としての核保有を否定はしないが、といって核をもつことの幻想への効果やそこに生じる葛藤を無視することはできない。
ところで、前にゴジラの考察記事を書いたが、ほとんど読まれない。すずめの戸締まりの考察記事も世の中にその考察記事が多すぎて検索圏外になってしまい僕の書いた記事はまったく読まれない。
一定のクオリティにしているのに読まれない。それで考察記事を書く気力が失せてブログの更新がとまっていた。
この記事はそんなわけで記事を書くリハビリを兼ねている。ブラックラグーンとかいくつか書きたい考察があったのだが、作品を見て書きたいと思ったときに書かないと書く気力がわかず書く気にならないことが分かった。
作品考察記事のネタはまだまだあるのだが、やはりその作品を見て書きたいと思っている最中に書かないと書く気にならない。困ったものである。
最近、自分の作品考察が紋切り型のラカン派精神分析に依存し過ぎるきらいがあって自分の考察に自分自身がかなり退屈しつつある。
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