※この記事はカイジのネタバレを含みます!
うたまるです。
カイジといえば国民的漫画、多くの人がアニメや映画、漫画を見たことがあるでしょう。
今回はミシェルフーコーの権力論の観点からカイジについて簡単なレビューをしようと思います。
フーコー権力論の入門記事にもなっています。
※僕は漫画は17歩の麻雀までしかよんでいないので地下シンチロ編までを考察対象として論じます。
カイジとパストラール権力
カイジについて
カイジは福本伸行の作品で1996年から2024年現在まで連載を続ける人気漫画。
平成不況にあえぐ時代にあって資本主義において企業に搾取される末端労働者の若者、伊藤カイジを主人公とした作品だ。
かつての人気はすさまじく2009年には映画化もし、大ヒットを記録した。2009年といえばサブプライムローン崩壊によるリーマンショックで恐慌にあえぎ、新入社員がブラック企業の社則、死ぬまで働け!によって過労死する事件がしばしば生じだした悪夢の時代だ。
まさに就職氷河期で企業は労働者を奴隷として酷使するのが当たり前、サービス残業、低賃金で過労死させる経営者が世間で尊敬を集め、そういうクズが国家議員となるようなバカ時代だった。
だからカイジのヒットには平成不況やリーマンショックによる労働環境の劣悪化・低賃金化が背景にあるだろう。また小泉構造改革の影響もあったかもしれない。
そんなカイジでは消費者金融、ヤミ金の帝愛とカイジとの戦いが描かれる。もちろん帝愛は資本主義社会のメタファーでありカイジは当時の搾取される若者の象徴と考えられる。
本作が興味深いのは、帝愛側でカイジに立ちはだかる敵が、フーコーのいうパストラール権力そのものだということ。この記事ではこの観点から分析を組み立てたい。
パストラール権力とは
フーコーは近代社会の権力を生命を巡る権力(ビオプヴォワール)と呼ぶ。この生権力は、生命の政治(ビオポリティック)と解剖の政治(アナトモポリティック)の二つの側面があるという。
生政治とは人口や生活などに関する権力をいい、個々人の全体化に関わる。つまり統計数値化によって公衆衛生や事故の発生を抑え、医療制度を充実して人を生かす権力のこと。統計により個人を集団化処理し、人口問題やGDPの問題として論じるため全体化に属する。
対するアナトモポリティックはディシプリン(規律訓練)に関わり、個々人の個人化を促す。個人の主体性に関わり個人を個人として扱う側面がある。たとえば学校や刑務所はディシプリンとされる。
そんなフーコーの権力論では、個人化を促す権力にディシプリンの他にパストラール権力が上げられる。
パストラールとはユダヤ・キリスト教の羊飼いのこと。キリスト教では民は羊の群れに喩えられ、指導者は羊飼いに喩えられる。
神もまた羊飼いで、その神が生み出した羊飼いである司牧者や王もまた羊飼いとされる。
そんなパストラールは献身的に群れの世話をやき、群れの個人(羊)に対して接してゆき、世話をみて、話を聞き、羊個人のあらゆる内面の秘密を聞き出し、導く義務を負う。
※羊の比喩は古代ギリシャや3世紀以前(キリスト教化以前)のローマにはない
またこれに伴い羊も羊飼いに徹底的に従って自己を救済する義務を負う。
本作で言えばカイジ(羊)は負債を負いそれを兵藤という王(羊飼い)に返済する自己救済の義務を負うこと、および負債によってカイジが羊飼いにある大槻や利根川に世話をしてもらうことに対応する。借金の返済はそのまま自己の救済に連動していて、王は借金づけにすることで債務者の世話をやくわけだ。後の項で後述するが、利根川や班長の大槻は典型的なパストラール権力のメタファーであり羊飼いである。
とりわけ大事なのは権力とは個人を上から抑圧したり弾圧するものではないということ。そのような見せかけは権力のターミナルな形態に過ぎない。
本質的には権力は下から要請され個々人を支え行為を促す。
たとえば、ある社会問題が起きたとしよう。最近だと某作家が、これは比喩でありSFだが女性の子宮は30歳で摘出せよ!と語りこれが大炎上となった。
この発言は概ね、女性の自由意志が少子化の原因だ、という罪の認識を構成する。この危ない言説に対して多くのネット言論人どもが怒りを表明し、反論を展開した。こうした反論のディスクール(語らい)は権力による暴言の抑圧を促しつつ、本当のところ、各人のあるべき理想の促しに力点が置かれている。
間違いを指弾するときには、かならず、かくあるべきという各人の理想が促されているといってもいい。たとえば女性の自由意志を阻害し、女性蔑視をする発言だ!と批判すれば、女性の解放と自由を社会的に支援するという行為の促しが権力による抑圧の要請を介して実現されうる。
このように各個人の戦術的語らいの力学的な網の目にあって、権力に対する諸個人の抵抗としての戦術的ディスクールの錯綜と総合から戦略としての権力が定まってゆくというわけだ。したがって権力に主語はない。各人の語る戦術の網の目から、そのディスクールの力学的総合として戦略としての権力が立ち上がっているに過ぎない。
だから行為を促し、下から要請されるもの、それが権力である。
フーコー以前の権力論ではマルクスが典型だが、プラクシス理論しかなかった。プラクシス(実践的、目的的)な権力描写は自由を規制し抑圧し搾取するものとしか権力を描写しない。この場合、生活者は極限まで抽象化されてしまい、生活者がそのような暴力的権力に隷属する現実をまったく説明できない。
したがってパストラール権力とは生活者の生活でのリアルな実際行為=プラチックから権力諸関係を描写することで可能となった全く新しい肯定的な権力論であり、ここにカイジとフーコーの権力描写の革新性がある。
このフーコー的観点からカイジにおける権力描写を確認してゆこう。
補足:フーコー権力論の要諦
※僕はフーコーに関しては、つい最近、入門書を読み出したので、かなりニワカ理解になる。そのためあくまで僕が理解する限りでのかなり大雑把で雑な解説に過ぎない
カイジの分析に入る前に簡単にフーコー権力関係論の要諦を紹介しよう。細かい論理に興味ない人はこの項目は飛ばしてもらってかまわない。ただし告白に関する解説を読んでいた方が記事全体の内容はつかみやすい。
まずフーコーはそれ以前のマルクス的な権力論を批判対象として定める。そのためマルクスがしたようなプラクティス(目的的、主語的、実践的)な権力論を古い権力形態であり、権力のターミナルな形態に過ぎないとして批判する。
※権力は終局的な形態では国家が保有し、暴力装置を行使しうる、たとえば天安門事件など
マルクスの権力論とは権力を権力者(資本家や政治家)が持つものとして実体化し、権力とその行使について、その主語として具体的な権力者を想定、その権力者が下々の一般人を上から権力で抑えつけ抑圧すると考える。
このような性質からマルクスでは権力の抑圧からの解放のための労働階級闘争と革命が準備される。
余談だがユダヤ人の聖書は出エジプトからかなりの時を経て、バビロン捕囚の憂き目にあった後で事後的に書かれたものであり、そのために抑圧され虐げられる者の救済の物語という性質を帯びる。
余談だが、聖書のラジカルな神の記述にたじろぐ日本人も多いだろうが、この歴史的背景を理解するとその点の違和感は解消されるだろう。
そんなマルクス式の権力論は日本では商業主義の百田尚樹がその文学や政治的言説で聞こえよがしに語り、これ見よがしに文学的に描写して見せる権力図式そのもの。
さて、フーコーは近代に入り性の抑圧が語られ、かつて抑圧はなかった、性を解放せよ、との言説が横溢した要因に、プラクティスな権力論的認識が潜むと考えている節がある。
そこでフーコーは性の抑圧があるという認識の妥当性、抑圧の有無にではなく。抑圧があるのだと語ることが何故起こるのか、その抑圧を語る効果にフォーカスして性の抑圧を論じる。しばしば俗流フーコー解釈では性の抑圧などない!といわれるがこれはフーコー論の誤読に過ぎない。フーコーは性の抑圧がないなんて言ってない。
抑圧があると語ることには聞き手にも語り手にも利益がある。その利益の一つが性の抑圧を語る言説は金になる(大衆受けする)ことだとフーコーはいう。日本の商業主義の作家の権力論が上からの抑圧というロジックを中心とすることを考えるとフーコーの洞察の鋭さがよく分かるだろう。
抑圧があると主張すれば、抑圧から解放せよということになるし、よりよい世界の来訪を予期させるわけで、いろんな利益があるわけだ。
また性の抑圧が主題化するのは、権力と性が密接に連動しているからだという。
※百田尚樹の場合、性の抑圧からの解放を語るLGBTについて、逆に抑圧的に接するという捻れが起きている
フーコーは、性をセックスとセクシュアリテの二つに分けて考える。一連の習俗や習慣の部分としてあったセックス(性)をセックスとして引き抜き、それを単体で論じ、社会システムに組み込む装置としてセクシュアリテがあり、セクシュアリテはディスポジティフ(引き抜き装置)だという。
つまりセックスを伝統的な生活態度から引き抜いて、それを対象化して論じ、社会の多様な局面に移転する、という装置としてセクシュアリテ(性象)を提唱したわけだ。
セクシュアリテの装置では内部で権力が動き回り、性を多様な局面に転移してゆく。たとえば生殖行為は装置において人口問題や生産力=GDPといった全体の経済合理性に接続されたり、また反対に生殖行為の嗜好性が個々人の本能として個人的なあり方や自己の真理に接続されたりする。他にも子どもの性の問題は子どもの性欲を抑圧する態度をとり、子どもの教育学を構成して性は学校などの社会組織に接続されたりもする。
女性の性のあり方や個人の生き方にしても女性の身体を妊娠の器官とし、労働力の生産と見なすところから規定したりする。
かくしてセクシュアリテの装置において性を中心に性の真理を構成する仕方で、教育や人口、GDPといった次元や個人のライフスタイルに至るまでに権力が媒介され社会規範が構成されることとなる。
※フーコーのいう真理とは、人々のディスクールによって構成されるもの、ある種の虚構のこと
またセックスとはセクシュアリテの装置のなかで全体性のレベルと個人のレベルとを結節して権力を機能させる触媒として構成される観念に過ぎないという。
つまりセックスとは生殖機能と性的本能という二つの局面を持つ。倒錯であればフェティシスト(靴などの無効な対象に欲情する)はこの機能と本能が乖離している。あるいは避妊的な性行為もまた本能と機能がズレている。種的機能(種の保存)という全体と本能(性欲)という個別的嗜好の両面をもっているのがセックスで、このセックスの観念を構成して、ビオポリティックとアナトモポリティック、二つの権力を接続するとフーコーはいう。
※この観点で考えてゆくと人間の異性愛を生物学的な本能の正常な作動として捉えることはおよそ不可能ともいえる。機能と本能が一致した動物的異性愛では近親相姦の禁止すらないと考えられ、まったく別物と分かる。工学系の某学者が異性愛は自然の種の保存本能であり同性愛は生殖機能を果たさないから病気だ!と発狂していたが、あまりの無知にあきれるほかない。ただし僕は、性的倒錯をあらゆる意味で問題が無いと思っているわけではない
まとめよう。
フーコーは性、権力、ディスクール(語り)、知、真理、快楽、主体化の関連を、その権力論によって明らかとする。その図式は極めて明瞭である。
まずフーコーは、セクシュアリテの領域で権力が機能する四つの仕方を考える。
①子どものセックス化による子どもの監視、これを侵入線と呼ぶ。子どもは放っておくといろんな性的なものに触れてダメになると考える。だから成人コーナーに子どもは入れないわけだ。つまり子どもは性的な抑圧にさらされる。抑圧とは子どもの性欲などの、あるものを無いと繰り返す不在の現前である。
カイジでいえば抑圧されるのは借金、借金とは不在のお金を現前すること、とくにカイジの借金は元は他人の借金であって抑圧的。
抑圧では子どもに性的なものを触れさせないように、見せないように、語らせないようにする。
そのために子どもを監視し観察する。親の子どもへの監視は教育者や医者といった専門職・権力による親への介入に転移されたりもする。こうして多様な権力の監視が子どもに侵入してくるというわけだ。これが子どもはしっかりしつけないと不良になる、ダメになるという一般的観念の源泉となる。
②倒錯の身体化、性的嗜好や倒錯の医学化。正常な性の設定は異常な性欲(性倒錯)を罪として語りつくし、それを医学・科学のコードに変換することでなりたつ。近代の人々は身体のなかに様々な性的罪として性倒錯的な欲望を刻印・抑圧してゆくことになる。したがって権威者(羊飼い)への性的罪の告白という権力関係が主体化のプロセスでは重要となる。
カイジでいえば債務者は借金という罪を負い身体に罪を刻印された(指を切断するカイジなど)性倒錯者といえる。
※LGBTなどの倒錯、肉欲は近代においてかくして罪として身体に刻まれたと考えられる。この罪をなくすこと、罪なしの主体を幻想することからLGBTの解放を考えることもできるだろう。また抑圧される罪とは借金であり背徳的な性欲であり資本家がかすめ取る剰余価値=剰余享楽である
③人間関係を支える螺旋。これは告白に関わるが、生徒(羊)が先生(羊飼い)に悩みを打ち明け先生がそれを解釈して教育や人間の真理を生産するような親子や師弟の相互の言葉のやりとりを示す。性の知と真理を生産してゆくやりとりといえる。内なる性的な欲望を語り尽くす罪の告白ともいえる。倒錯者が精神科医にうちあけるのはその典型。
後述するがEカードのカイジと利根川の関係が完璧な告白に相当する。
④空間化。性をベースに現代建築は規定される。つまり子どもの寝室と夫婦の寝室が分けられたり、相談室が設けられたりと建築空間そのものが性を軸に権力の機能となる。
カイジでいえば、地下労働施設や裏カジノの沼はこの典型だろう。
この四つの機能が性を中心に権力を生活の隅々に浸食させ、機能させるというわけだ。
また近代の真理とは、自己のセックス(性)に自己のアイデンティティを見出すことにあり、これは告白の科学のディスクール化によって達成される。この告白は③の螺旋的対人関係でやりとりされるディスクールのあり方をいう。
また近代では自己は自己の語った言葉(エノンセ)の主語に同一させられるという。そのためそれ以前の小説では他者としての英雄が語られたりしたが近代小説になると私小説のような書き手が小説で語られる人物と同一になるようなモデルが生じてくる。
これは私が私の真理を再認するというメタ認知の成立を意味する。
告白は自己の真理を自己がつかむために、内面の秘密を語り他者の承認を迫るわけだ。素朴にいえば近現代人とは自己が何者かを言語によって再認し語り尽くさないといけないのである。個人の真理の探究が社会的他者(羊飼い)を媒介とする告白のプロセスによってなされ、諸権力やその権力を基礎付ける知を生産してゆくということ。
このような自己の真理は言語や科学によって解釈し意味づけることなしにはなりたたない。自己による自己承認は言語という他者(羊飼い)の審級を迂回するより他ないのだ。たとえば神秘的な経験をしたときには誰もがその体験を言語によって意味付け人に話して承認をえたくなる。あるいは体験の凄さを伝えて、その意味を他者に解釈して欲しがる。
このような衝動こそが告白。言語による自己の意味化とは自己存在を一般化すること、他者からの承認と理解の可能性に自己を疎外することに他ならない。
どのような重大な体験も言語的に意味付けられねば、それこそ無意味ということになりかねない。そういう自己関係に近現代人は陥っているわけだ。
したがって自己が自己の欠落した真理=意味を獲得するためには他者(羊飼い)を必要とする。
またアイデンティティはかくして社会的象徴であり肩書き、あるいは社会的承認のコードとしてのLGBTに依存してゆくことになる。
つまり告白は他者(羊飼い)によって奪われているのである。
逆に言えば他者は自己(羊)の主体に関する知・真理を有すると羊に想定されている。だから先生や精神科医、あるいは占い師や物知り屋さんなどの自己の意味・知を持っていると想定される他者(羊飼い)に対する告白が生じる。
※会社の人事評価なんかも典型的な羊飼いによる自己主体の意味付け・価値付け
よって他者は羊の告白を奪い、くみ上げて、解釈によって意味づけ真理を構成し知を更新してゆくことになる。この羊と羊飼いとのあいだでなされる螺旋状の告白の往還運動が知と真理をつど生産してゆき、羊個人の主体化を全体化に結ぶわけだ。
かくして権力と知は告白によって結びつけられる。
また告白では真理に因果関係が措定される。自らの根源的原因がでっち上げられるといってもいい。たとえば幼少期の心的外傷が今の自分の行動を規定する究極の原因だというような信仰、あるいは行動遺伝子が自己の運命を決定するという科学の神話がでっちあげられたりするということ。
そのためフーコーは真理とは見聞きすることを拒絶するという。ようするに数値化できないような現象学レベルや意味レベルの認識対象を破棄して行動主義的、論理実証主義的に観測できるものだけを絶対化して危ない妄想=真理をこさえるというわけだ。
※心はない、という混乱した言説の蔓延も見聞きすることの拒絶といえる
また、告白におけるセクシュアリテの装置には四つの領域があるという。
女性、子ども、夫婦、倒錯者の四つの領域を中心にして性が論じられるということ。
つまり家族が中心になるわけだ。
この領域の二つ、女性の身体のヒステリー化、子どもの教育学化は全体の問題から個人のあり方に介入する。たとえば女性の身体領域なら、子どもや家の基板、人口の要、生産力の生産といったビオポリティックな全体性の基準をベースに女性個人のあり方を規定するということ。
これと逆で、夫婦の生殖活動、倒錯者の精神医学化は個人が問題とされながら人口などの全体へ介入する。恋愛や倒錯者の個人的嗜好は極めて個人的だが、それが全体の系に接続されるということ。倒錯の精神医学化はその典型だろう。倒錯者の医学化と科学化を介して逆照射的にあるべき普遍的性規範が捉えられるということ。
※僕のフーコーの理解はまだ浅い、あくまでも僕の入門書の甘い解釈ではこうなる
フーコーの権力論の要諦は、性の四つの領域に生権力のビオポリティック(全体)とアナトモポリティック(個人)の両極が対応し、この二つの政治をセックスという観念や告白が結節するという点にある。またセックスは両者をつなぎ権力を機能させるために構成された観念に過ぎない、ということにつきる。
※異性愛を生物的正常とし同性愛を絶対的病気として社会論を語る某工学系の保守系学者もセックスを生物学化した観念としてたて権力の方向性を定めるための機能と本能を一致させる触媒としてでっちあげていると思う。こうした性への科学的真理の神話が社会政策や教育論として権力を生活全般に媒介するのだ
カイジとは:パストラール権力とカイジ
カイジでは利根川や大槻班長といった権力者が立ちはだかる。
彼らは一見して上から末端労働者を抑圧する抑圧者に思える。この点、カイジは百田尚樹的・マルクス的な抑圧する権力者を想定する権力描写をなす。
しかし、本作の権力に関する洞察はより多層的で深い。
ここでフーコーのパストラール権力を構成する10の要素とカイジの描写を比較して、カイジがパストラール権力を主題化した作品であることを確認したい。
フーコーの10のパストラール権力の要素
①土地ではなく群れに働きかける
②集団ではなく個人に働きかける
③羊飼いは羊を導く
④見守る
⑤救済する
⑥心の内面を知る
⑦献身的
⑧生涯にわたり羊に働きかける
⑨真理を生産する
⑩人々を個人化する
以上から、パストラール権力の典型は学校の先生や上司、先輩に相当するだろう。
教師は生徒全体という群れに対して責任をおい、生徒個々人に対して個人として対応してゆく。
そうやって個々の羊の相談にのり、献身し、見守り、導き、救済するわけだ。
本題に入る前におまけで、①の土地ではなく群れに作用することについて本作との関連で考察したい。
パストラール以前の古代ギリシャ時代では神は土地にあった。そのため土地が主体だった側面がある。それが群れになったわけだが、おそらくこれはユダヤ民族が土地を離れて移動し土地を領有して開拓することに対応する。
つまり土地とともにあった人類が土地から分離して主体が土地ではなく、土地を移り領土を所有して土地をコントロール・開拓する人間に移行したことを示す。このようなあり方は、カイジで帝愛が地下空間というフロンティアを開拓するために債務者に奴隷労働を強いていることに対応するだろう。これはもちろん近代国家が国土を領有すること、高速鉄道などの交通網をもつことなどと関連してゆく。
土地からの人の分離はそのまま個人主体の屹立に対応してゆくがそれについては割愛する。
ではカイジの利根川と大槻を確認しよう。
利根川は債務者にありがたい説教を説き、限定ジャンケンや鉄骨渡り、Eカードなどで債務者(経済的倒錯者)を救済しようとする。
ときに見守り、その行為を観察し、債務者の発言(告白)や態度から彼らを分析して倒錯者を医学化するように心理分析をおこない羊(債務者、経済的倒錯者)に関する知と真理を生産してゆく。
とりわけEカードが重要で、これはフーコーで言う告白に相当する。より一般的にいえば精神分析の場面そのもの。あるいはユング派の心理療法とそっくりである。
Eカードでは特殊な空間で、利根川とカイジが対面してカードという第三の物をテーブルにおいて、内面を告白し探り合い、人間心理を生産して自己と他者をしってゆく。
告白や精神分析では羊飼いのカウンセラーは知を想定された主体とされる。それは自己の真理を知っていると羊に想定された他者のこと。
とりわけ精神分析では分析家がクライエントの主体の意味を知ると幻想される、つまり羊飼いが神経症の症状(無意識の欲望)の意味を知るものとして患者に想定されることで転移が生じ、その転移によって分析治療が可能となる。
※症状が転移によってシニフィアン化する、これを転移のシニフィアンと呼ぶ
すると利根川がいかさまでカイジの生体データをモニタリングし、カイジのカードを当てる(内面を当てる)ことでカイジの内面をすべて見透かせると思わせたことの意味がわかりやすい。このことで転移がおきている。つまり告白が機能するようになる。
カイジは自己存在の意味(告白)を利根川に奪われるわけだ。こうして利根川がカイジに告白を迫り、告白を解釈し、カイジはカードの選択と賭けの大きさ、生体データを告白させられ、利根川により自己の内面の真理が意味付けられてゆく。
ところが精神分析の終わりが、分析家がじつは何も知らないことが発覚することであるように、カイジはいかさまに気づき、利根川は何も知らないと気づく。
※告白について詳しくは補足の項を参照
かくして終わりなき告白の搾取に終止符が打たれる。それは自己に関する意味(他者・利根川の知)の欠如を構成することともいえる。
つまりカイジは資本主義がかす告白の連鎖をいったん断ち切ったと観ることができる。
※Eカードに後期ラカンの終わりある分析のあり方が確認できる。分析の終わりはユング派とうって変わりラカン派ではEカードの結末のように殺伐としている、どうも現代社会では全面的な社会的順応を拒絶する後期ラカン的やり方でないと主体化が成立しないようである
以上から利根川はどこまでも羊飼いといえる。またスピンオフ作品の中管理録利根川では、献身的に部下の世話をやき羊の群れを管理するとともに部下個々人に個人的に接して世話をみるよきパストラール権力の表れを確認できる。
班長の大槻などはもっとわかりやすい。
地下労働施設で班全体の世話をし、カイジ個人に個人として接し、世話をやき面倒をみる。誰がどうみても学校の先生や面倒見のよい上司であり羊飼いだ。
カイジはまったんの労働者であり死なれると困るのは資本家や羊飼い。したがって帝愛や大槻班長が生涯に渡り羊に負債(罪)を負わせることに拘るのは、個々人に生涯に渡り世話をやくことを意味する。
つまり負債という罪が構成されて、その抑圧された罪を巡って労働と搾取へと向かうわけだ。
さて、本作では利根川をやっつけるも利根川もじつは資本主義の奴隷であり帝愛の会長が黒幕だとカイジは悟る。これまで抑圧者として認識されていたものが実はそうではないことが発覚。
またカイジの兵藤会長のセリフに
‘’王は一人で王になるのではない、金などいらぬと貧しきものどもが結束して反抗すれば、王もまた消えるのだ。しかし貧乏人が王になろうと金を求め、逆にいまいる王の存在をより盤石にする。そういう不毛なパラドックスから出られない。金を欲している以上、王は倒せぬ、縛られ続ける。王も暴動が起きぬよう、みなそこそこ豊かな気分でいられるよう注意しておる。実際はどんなにこき使っていようともな‘’
とある。
これは王がうまく大衆を欺してコントロールしているとも読めるが、逆に王は羊を見守り世話をやいており、羊もまた王を求め要請しているのだ、とも読めるだろう。
猪瀬元都知事などはカイジにはイカゲームほどの政治性がないというがそれは間違いで、カイジは極めて批評性が高く、イカゲームに劣るものではない。表面的な政治性の差は漫画と実写との差に過ぎない。
カイジはマルクス的権力構造をプリントしつつ、その背後にプラチックなフーコー的権力論を透かし印刷しているとえよう。
兵藤という抑圧者がいてそいつが権力を握り搾取している、それは権力のターミナルな形態としては正しい。とりわけ終局的な形態を強くとった平成ブラック時代ではマルクス的権力論の見方も重要で否定しがたい。
しかし、実際には権力は下からの要請にある。
また本作は権力者に奴隷の矛先が向かぬように権力者がうまくコントロールしている層を強調的に描き出す。
限定ジャンケンはその典型で、負債者同士がだまし合い競い合い奪い合って争い、権力者に媚びるように仕組まれている。こうして国民同士の分断を煽って統治コストを下げる手口は現代の政治シーンでも枚挙に暇が無いだろう。
だから本作の権力描写はとても多層的になっていて、コントロールされて仲間同士で不毛な競争を強いられ誰が黒幕かすら隠されている層と、黒幕を抑圧者として認識し対決してゆく層と、そのような黒幕が下からの要請に応じて構成されており、権力には一方的に上から抑圧する黒幕のような主語主体が存在しない層、この三つの権力層の連動を絶妙なバランスで描写したのが本作だといえる。
本作ではカイジの認識はこの権力の三層構造にそって次第に深まってゆく。
最初、カイジは兵藤会長という黒幕に気づかず、いいように踊らされて、仲間同士(債務者同士)で争う場にたたき落とされる。
仲間に裏切られ、はめられ、そのような仲間にうんざりしてゆく。ここまでが権力の表層。
次に鉄骨を渡りきると兵藤という黒幕がいることを初めて知る。そして上記に引用した兵藤の演説をきかされる。兵藤が敵として意識される。これがマルクス的な第二層。
三層目は黒幕と思っていた利根川が全くそうではなかったことの発覚において予感される。終わりなき分析であり告白(Eカード)の搾取から逃れ、社会化(自己の真理の意味化、経済価値化)に抵抗する。しかし本作の三層目の認識は明瞭にカイジに自覚されるのではない。兵藤を諸悪の根源と捉える視線が混在する。だから予感されるにとどまり、この三層目の認識は、兵藤の引用したセリフを含む作品描写そのものにこそあり、パストラール権力の緻密な描写などによってよく示される。
なにか解釈が牽強付会になった気がしてきたので、より作品描写に根ざしてまとめよう。
本作では羊飼い(王・兵藤)のために債務者・羊同士が争いあい、過剰な競争と嫉妬関係にたたき落とされる。
限定ジャンケンや鉄骨渡りはその典型だった。そうやって兵藤という真の敵は隠されるわけだが、ではなぜこのようなことになるのか。
本作はその理由にパストラール権力のあり方を観ている。羊飼いは羊を殺すのでなく生かし適応させ幸福に向かうよう世話をやき、面倒をみてチャンスを与える。近代国家における個人化を実現するパストラール権力のこういった羊の生の肯定と促しという側面が、羊飼いの問題を見えにくくしてしまう。
そもそもの近代国家、資本主義におけるこのような権力関係の特殊な暴力性を、どこまでも社会科学的に深く観取して、現代消費社会での権力と金、告白・自己実現を巡る密接な連動を的確に戯画化したのがカイジという作品なのであろう。
さて、フーコーは私は何者なのかという哲学的問いについて何者かであることを拒むことを説く。
近代権力構造における全体化と個人化のダブルバインドを避け、国家やその制度からの解放ではなく、国家と国家に統合した個人化の双方から僕たちを解放しようというわけだ。
この何者かであることを拒むフーコー的態度は、何を隠そう、本作でフリーターに留まり、Eカードの告白と真理化のインチキを見破って、自己の告白を奪われる状態を破綻させたカイジの生き方に見事に対応している。
カイジとは2:権力と真理
以上から、本作は近代国家に特徴的なパストラール権力によって個人が世話をされ保護され、また借金(罪)を負わされて救済(借金返済)を義務づけられるようになることを主題とすると分かった。
なので本作はパストラール権力との葛藤(羊飼いと羊の激突)として日本人の個人化と全体化が阻害されている問題を的確に描いている。
※カイジはこの意味では学校批判、教師批判になっている
本作は消費社会からの本格的な搾取、とりわけ自己存在の意味(告白)の搾取を厭いフリーターをつづける青年のカイジが、ブラック企業最盛の世にあって過剰なネオリベ的資本主義に対峙してゆく話ととれる。
また、博打という心理の読みあいは近代社会いおける羊飼いと羊との告白であり精神分析のメタファーとして描写される。この博打における告白のやりとりの中で自己存在の意味(カイジにとっての社会の意味)についてカイジは問いすすめてゆくわけだ。
またカイジが大槻や利根川の裏をかいて心理を見透かし退治するのはいわば、社会=他者の矛盾を暴露して過剰な全体化(搾取)を抑制する戦術とも解釈できる。それは金だけで価値付けしてくる日本人的社会に対して、カイジがお金に換算できない価値や動機があることを示すため損得を超えて石田を助けたことにもよく示されるだろう。
そんなカイジには決定的なコンフリクトがある。それが個人化と全体化の同致の要請。不況下の消費社会は個人を限りなく抹消する仕方で全体化を要請し、個人と全体との差異を消去しようとする。ブラック企業がサビ残で過労死を出すのはその典型だ。
カイジの鉄骨わたりも当時の過労自殺する労働者のメタファーだろう。鉄骨渡りで金のために死ぬとは、金=言語によって自己主体の全ての価値=意味を他者に渡す(奪われる)ことに等しい。
そんなわけで班長の大槻は、自身の奴隷となること、そのことによって個人の自己実現をなせとカイジに迫った。
このようなブラック企業的社会を人文学問では全体主義と呼ぶ。
全体主義とは近代国家における個人化する権力(アナトモポリティック)と全体化する権力(ビオポリティック)を一致させる運動において、両者の差異が抹消されてしまうことで起こる。この差異を同一する権力構造が個人における自己認識について決定的な仕方で影響するのが問題になっている。
つまり現代人は個人主体である自分の存在を社会的な言語で言表し、自己を社会的に意味づけること、他者(言語)による告白の搾取を強制される。
それゆえ私は帝愛カンパニーの課長だ!というような社会的な肩書きがアイデンティティであり、自己の真理となるわけだ。社会言語的な意味であり価値はお金に還元されるので、金が意味化の問題には密接に関連する。
カイジがフリーターであるとは、つまるところ、私は~だ!というときの私⇒~における⇒の拒絶を意味する。つまり消費社会やブラック企業へのノーなのだ。
※私⇒言語的意味、をラカンは疎外と呼ぶ
人間を経済合理性(金)の尺度だけで測るとき、経済合理性は無欠の絶対的価値基準となり一切の内省も批評も反省も否定も認めなくなる。
このことは言語化からこぼれ落ちる主体の真理を抹消することを招く。つまり肩書きであり象徴と自己主体との差異がなくなる。これは語られた言葉の主語と語り手との差異が抹消され完全に一致することに対応する。
こうなると自己存在の意味が特定の言語によって確定し動かなくなる。つまり訂正可能性がなくなる。より精神分析的にいえばノエマの可疑性がなくなるとか科学から反証可能性が消去されるといってもよい。真理が絶対化して動かなくなるということ。
だから社会の権力構造においてビオポリティックとアナトモポリティック、この二つの分離の同一において両者の差異がなくなるとき全体主義が作動することになる。この状態で主体を言語へと疎外し社会化してしまうと、ナチスに熱狂する白痴と同じ状態になってしまう。
死を中心とし全体と個人とが未分化だった権力が古代の権力だとすれば、近代の生権力とは、全体化の権力と個人化の権力とに権力が分離しつつ、その二つが差異を抱えたまま同一させられる構造をもつ。このとき両者の差異によって生成される両者を一致しようという欲望が、当の差異自身(欲望自身)を抹消することで、全体主義が発動するというわけだ。
カイジの世界の権力では個人化を促すパストラール権力が羊の個人化を全体化(経済価値化)に一方的に呑み込ませて達成しようとすることが最大の問題となっている。そのためにカイジは現代日本におけるパストラール権力の歪みを96年段階で鋭く察知した作者による一つの資本主義の寓話として読むことができるのだ。
作者は社会のどこに問題があって権力関係がどうなっていて、それと若者の主体化・個人化がどう連動しているかを深く洞察しえている。だから非常にメタ認知レベルの高い作品。
なぜカイジに女はいないのか
さて、本作の読者や視聴者の多くが、カイジに女性がほとんど出てこないことに気づくだろう。
これには画風の問題だとか色んなことが考えられるが、カイジに女性がいないことは深読みすることもできる。
結婚は一般的に社会化なしには困難である。結婚すると一人前と呼ばれた時代があったように、結婚は自己主体を社会的に意味づけ疎外する行為に相当するからだ。
※吉本では対幻想を仲介して個人は共同幻想に同致する
カイジのようなフリーターであり社会に抵抗して自己の真理を譲らないものにとって結婚は極めて困難ということ。
カイジは全体主義化した資本主義社会への個人主体の抵抗の物語であり、その抵抗主体のコンフリクトとダブルバインドを描いた作品。とすればカイジが結婚や恋愛から遠いのも頷ける。
ポストカイジ
さて、サビ残当たり前で死ぬまで働けを社則としたバカ企業は今日では労働者不足のおかげで解消された。
そんなわけでカイジの熱狂的人気も終息し現在では以前ほどの人気は無い。
またZ世代になると転職があたりまえとなり、一見して権力の全体主義的な作動はなくなったように見える。
しかし、カイジと違う仕方で全体主義化は進行している。
現代社会というのは、個人化の完全な全体化(ビオポリティック化)。すなわち自己主体の存在価値の完全な経済価値化=フォロワー数や年収への自己意味の完全変換にある。もはやカイジ的な葛藤や抵抗すらなくなった世界なのだ。
ビオポリティック的な全体化は個人を統計的に扱い数値として一般化し、顔や名前といった個別性を抹消することで成り立つが、パストラールやディシプリンによる個人化が抵抗なく経済的価値としての数値に変換されつくして、両者の差異が消失している。
※ディシプリンによって個人身体に刻印される言語が経済医学化・統計化しつつあり医療幻想・健康幻想と全体主義化は密接に関わる、この点を見抜いたのが伊藤計画のハーモニー
これがポストカイジとしての現代社会。
もはや具体的な社会的肩書きさえ重要ではない。肩書きからこぼれ落ちるものがない。
つまりこれまでは、利根川が会長にこきつかわれて不満を鬱積したように、ある肩書き(言語的意味、一般言語表象)に自己を疎外すれば、なんらかの会長(他者)への不満が自己の主体性として肩書きからはみ出してゆき、それが抑圧を形成したのだが、ポストカイジでは肩書きに規範がない。
たとえば昨今はお堅い職種の人でも髪型が自由となってきていたりして、肩書きの外部に自己の主体性がはみ出すようなことがなくなった。
※ラカン的にいえばフリュストラシオンにおける二つの言語の差異による欲望としての不満足がない
それは肩書きが定型的な型を持たなくなってきたということ。
これは当然、肩書きの交換可能性を高める。ようするに肩書きの意味も年収とか時給でしかなくなるのだ。
となれば必然、性的規範(性的アイデンティティ)も交換可能として解体することになる。
自分の性別すら自己が好きに選択するわけだ。そしてこの性選択が性転換手術という経済的商品に移行され、自己のセックスというアイデンティティもまた商品化(経済価値化・全体化)してゆく。
猟奇的なアメリカ病的資本主義の暴力が歯止めを喪ったことの意味がここにある。
このような状態は一見して自由な社会で素晴らしく思えるかもしれないが、そう甘くはない。
まず社会が分断する。個人としての自己と社会全体とが過不足なく一致するために、個人の我が儘が社会正義であり絶対的真理として主張されることとなる。
かくして日本人によくあるインフルエンサーによるポジショントーク合戦が生じる。
他者へと自己主体が疎外されない状態(疎外先が自他未分)は自体性愛化を生じ、結果、自己の社会化は結婚や異性愛の形をとる必要もない。結婚は終らないがその意味は既にまったく異なるということ。
※疎外されずに言語(他者)を語れるのはおかしいと思う人もいるだろうが、他者性の消去された言語(ネオリベ言語)になったということ、このような言語をラカン派は合成他者と呼ぶ
この場合、羊はインフルエンサー(羊飼い)への自己愛感情を媒介して、自己の社会化=自己実現が実行される。結婚していても、それはもはや商品(性欲処理家電・孤独癒やし家電・肩書き家電)であってインフルエンサーを崇めることが過去の結婚の等価行為だといえる。
※当ブログでも記事にしたフェミ映画の名作、バービーのケンの顛末を観るとこの意味がよく分かる
こうして社会はホモセックス化した自己愛ムンムンでメタ認知機能が壊れた危ないインフルエンサーまみれとなる。
※同性愛を否定しているのではない、同性愛の意味すら変っているのが問題で、本来の同性愛は愛他的譲渡といって他者へと疎外されるのが前提だが、昨今のインフルエンサー化は自他が癒着しきって未分化となっている、自体性愛でしかない、鏡像の変質が起きているということ
また数値だけに価値と意味が還元されるため、いかなる普遍的規範をも寄せ付けぬ相対主義が蔓延するが、これは必然、数値が高ければ嘘も真実になるという妄想世界を生じる。
このように言うと、なにかカビ臭い古きよき時代とやらの規範(定型)を押しつければ良いという発想がありがちだが、もちろんそんな脳筋マッチョイズムで解決するなら、このブログは存在していない。
ことは単純ではない。そもそもの問題構造が分かっていれば時計の針をもどしても意味が無いのは最初から明らかだ。非定型な現代は定型構造の動態であって定型と非定型は分かれていない。
もともと真理が暴力的に作動するような構造が近代国家の領土構造、権力構造、経済構造、身体構造にあって今の状態になっているわけだから、昔に戻すという発想は成り立たない。
余談だが、昨今は奴が社会問題の原因だとかいって原因や責任を他人に転嫁して断罪を狙う人が大量発生している。問題や悪に主語主体、原因主体を想定し糾弾、あるいはその個人主体について幼少期の環境や行動遺伝子をさらなる原因として意味付ける言説が増えている。
社会問題において自らの罪を他人に転嫁する仕方で客体的な原因があると妄想して原因特定ゲームをやりだし悪人さがしに熱狂すること、このような司法的言説構造の支配化こそが、権力関係論におけるビオポリティックとアナトモポリティックの同一におけるセックスと告白のあり方に対応している。
※ジジェクはこの現象を現実界の超自我の問題として論じている
つまり、客体的な原因がある=自己の意味の客観的真理があるという幻想が個人化と全体化との差異を消去してしまうわけだ。それは客観的肩書きが不満をうまず余すことなく自己を代表しうるということ。
客観的とは一般的なんであって全体に属する。個人の究極の意味である原因が客観的にあるとは自己主体が全て全体化・言語化可能だという幻想に支えられている。この外傷的幻想が現実化することでポストカイジ化するといってよい。
どうして権力構造がそのような告白の幻想を作動させるのかの問題は身体論と国家との関連からある程度説明できるが今回は割愛する。
ともあれ、現代人の言説構造は、原則的に司法幻想によって支配されている。むしろ消費社会が司法幻想と非常に親和性が高い。ネオリベのアメリカが訴訟天国なことの理由はここにある。
※司法幻想は個人主体を立てたり、自身の首尾一貫性を成立させる上で欠かせないが、これが支配化すると責任転嫁的な悪人さがしゲームが加速して問題を生じる、ようするに自己否定なき司法幻想が問題
たとえば資本主義的政治を徹底する立花孝志を確認しよう。彼は裁判ベースで善悪や責任を語ることにプライドを持っているのが分かる。
また弁護士系YouTuberはマネタイズが容易で多くの弁護士YouTuberが跋扈する。
さらに暇空茜は訴訟をショーとして雇用をつくったりフォロワー数を増やしている。
百田尚樹もご多分にもれず、責任押しつけゲーム的に熱中し、責任転嫁系のお仲間と内ゲバを何ヶ月も継続中。
えらてんなども言説は断罪ベースで立花とディスクールの本質構造は変らない。
ようするに無謬気取りの正義マン、自己の内省であり否定を他者に向きかえる危ないジャスティス系インフルエンサーは、彼らの語る言説の構造によって生成されており、その言説構造が権力関係や告白のプロセス、現代建築空間、資本主義、女性の身体のヒステリー化などと密接に連動しているというわけだ。
自己主体とは自身の語る言葉の論理構造につど投げ入れられ、その構造によって主体・欲望のベクトルが規定されている。
プラチックな戦術的ディスクールの錯綜が権力=戦略を条件付けているのだった、だからディスクールの構造分析は極めて重要である。
現代ではディスクールの構造そのものが司法幻想だけに支配されており、言語の二重性が消失する傾向にあるのが根源的問題と考えられる。
さてフーコーやカイジの意義はここにある。実のところカイジが到達する権力描写やそれに対応するフーコーの権力論は司法幻想(プラクシス化)を超えた次元にある。
非常に深層心理学的だといってよい。
事実フーコーは認識の対象としての性の抑圧の真偽ではなく、そのように認識することに着眼する。だからフーコー権力論は、内省構造(メタ認知)をもった言説となっている。それゆえマルクス的な司法幻想の次元を超えた権力論を構成しえたのだ。
カイジのディスクールもまた同じ、Eカードでカイジは利根川に対して他者を観るときそこに自己を映すというニュアンスのことを語る。この発言はラカンの鏡像論そのもので、他者を迂回し、他者に自己を映すことで自己を再認する人間のメタ認知(告白)の内省構造を暴いている。告白であり分析の場(Eカード)で、当のパストラール権力がもつ告白の真理を巡るもっとも核心的な自己関係構造を内省しえている、それがカイジなのだ。
このような内省構造をして、パストラール権力への洞察を実現しえているのがカイジということ。
伊藤カイジは社会という他者の審級に内省(欠如)を迫る主体。
ようするに司法幻想的な言語についての自己内省としてフーコー権力論やカイジを読むことも可能。
終わりに
まだフーコーについては入門書を読み出したばかりで、身体に馴染んでいない。そのため説明がかなり分かりにくくなったり構成にまとまりがかけたように思う。
フーコーをベースに一般の人向けの楽しめる記事を書くにはかなりの知的コストがかかる。
今回はカイジとは、パストラール権力のあり方に現代人の個人化の歪みがもろに生じているという洞察を中心に現代社会を寓話化したものなのではなかろうか、という気づきから、アドリブで記事を書いた。
書き出したときにはこれ以上、この作品についての考えも展望もないという状態。
そのため無駄に長文になってしまった。
たいしてスペクタクルな考察もないのにひたすら長くなってしまって投稿するか迷った。
通常はこのように考察されるだろうが、じつは云々とか、こういうレトリックを使った方がいいのかもしれない。時間や深層心理学理論に権力関係や国家論を組み込むという僕の個人的な興味に引っ張られてまったく大衆受けしない記事になってしまった。
自分の研究が進行して一般の人向けにそれを記事にすることのハードルが上がっている。自分の理論の体系の拡大に世間の言説の変化速度がまったくついてこないと感じる。他方、ゲームクリエイターや漫画などの作家のレベルや感性は異常に高く、僕のほうがそうした高度な作品に食らいつくので精一杯という状態でもある。作品の意味と価値は無限でありくみ尽くすことのできない泉である。
ところでEカードと精神分析の対応を書いてるときとか、こういう分析はハングオーバーの記事で散々やってるよな、ワンパターンだなぁ、これまともな記事になるのかよ、とか思いながら書いていた。
しかし、記事のできはともかく、本作の分析は非常に実りが大きい。この記事を書くことで僕自身カイジという作品の滋味を味わい、また権力論と主体の真理や告白との現代的な連動の仕組みについても理解が深まった。
これだけの知的・文化的財宝が手つかずにある現状を疑問に思う。どうやら人文学者は漫画やアニメやゲームを舐めているようだ。作品評論という営みが枯れつつある。龍が如くシリーズとかだと、凄い熱量の評論・レビュー記事がネット上に沢山あって面白いのだが、そういう作品も限られるようだ。
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