うたまるです。
今回は簡単な思考実験をつかって自然科学の限界をかなり明確に明らかにします。
もともと科学の限界についてはシミュレーション仮説のおかしさを指摘した記事に書いているのですが、コメントを見ると読者の多くがまともに記事を読んでいないらしいので、あらためてこの記事では自然科学の限界を簡潔に取り上げることにしました。
心脳問題と科学
科学の限界を解き明かすにあたり、最初に、いま話題の脳科学における心脳問題を解説しよう。
まず現代の一部の自然科学では、脳という物質の運動方程式によって完全に心は規定されており、脳という論理回路を解析することで心を完全に解き明かすことが可能だ、という幻想が信仰されている。
この信仰を精神分析では想像的誤認という。
ところがこれは信仰に過ぎず脳という物質には心は還元できない可能性が高いと考えられる。
いずれにせよクオリア(主体性、アクチュアリティ)という現実感をともなう知覚感覚(感覚に対する感覚)は科学的手法によっては解明されていない。これはいまのところ現代の科学ではできていないということではない、自然科学によっては永遠にできないということ。
なぜならクオリアは自然科学のパラダイムでは決して解くことができない。というのもクオリアは客体ではないので科学の対象となりえないからだ。
意志決定などの判断のメカニズムであれば最新の研究で脳を論理回路とみなして、これをある程度解き明かしている研究もあるが、それでも意識そのもの、主体そのものは自然科学では解明できない。
意識そのものは空間的にある物質ではないからだ。
たしかに意識であり心であり主体・主観は脳という物質の運動に依拠しており、脳という器官なしに、個々人の意識があるということは考えられない。
しかし、事実として意識そのものは空間的にある物質ではない。空間的にある物理的な物やエネルギーをいくら観測し尽くしても意識そのものには到達しえない。
このことは意識を持っている人なら誰もが現象学的に確認できる自明の話である。
このような意識と物、心と脳、クオリアと知覚の感覚与件との差異を存在論的差異と呼ぶ。
補足しておくと、自然科学は空間的にある客体を対象とし、主観を排除することで客体対象の客観的なあり方や性質、原理を解明する手法のことをいう。客観的法則、客体的事実を扱うのが自然科学といえる。ゆえに意識=主体は扱いようがない。
※構造主義生物学や今西、福田伸一らの京都学派的生物学や統合学、一部量子力学の仮説などに例外はあるが、一般に自然科学、とくに古典自然科学=現代脳科学のパラダイムは主体を排除して客観的真理を確定するものである
したがって、それ自体が主観・主体である意識は客体ではないので、現行の脳科学のパラダイムでは存在論的差異を超えることができず解明できない。
そもそも心は客観的に実在しているわけでないので一義的な測定可能性を持っていない。
したがって自然科学というパラダイムが心、主体の構造を客観的に解き明かすことはない。つまり原理的にできないということ。
そもそもが自然科学は心理学的には西洋言語的な主語的論理(チョムスキー文法的錯誤)における幻想に過ぎない。
物質もまた解明できないという思考実験
ところで、脳科学で心が解明できると思っている人の多くは、脳という物質の運動方程式が一方的に意識を規定(原因)しており、意識は脳物質に一方的に従属していると考えていることが多い。
この記事の読者も、脳の電気信号などの量子の物理運動によって意識が一方的に規定されていると考えている人が大半ではないだろうか。
そもそも脳の物理的運動が一方的に意識の原因になっていると思うからこそ心を物質の運動に還元する脳科学が意識を完全に解明しうると考えるのであろう。
ここでは、この脳科学イデオロギーの前提、脳という客体的な物の運動方程式が意識を一方的に規定するという仮説が極めて怪しいことを示す当ブログ完全オリジナルの思考実験を取り上げる。
シミュレーションの思考実験
①完全に客体の運動やエネルギーの法則を数学的に解き明かした運動方程式が発見されたと仮定する。
②さらに圧倒的な計算能力を誇るコンピュータ(シミュレータ)が完成したとする。
③完璧な運動方程式をつかってプログラムをくみ完璧なシミュレータによって、素粒子一粒一粒から一人の人間をシミュレーションする。
思考実験の結果
するとさきほど解説した存在論的差異のため、シミュレーション世界では意識は再現されない。
つまりシミュレーションでは人間の物質面(数理的空間の物理的運動)しか再現されないことになる。
するとシミュレーションされた人間は意識不明の生物でありゾンビということになる。
問題はここで、このゾンビは人のように歌ったり論文や小説を書いたり話したりするのか?という点につきる。
物質に意識が隷属していることのおかしさ
もしここで、脳細胞という客体の物理的運動であり運動方程式に一方的に意識が従属していると仮定すると、シミュレーションされた人間は意識不明のまま人のように話、歌い、小説や論文を書くということになる。
意識が一方的に物質の運動に隷属しているならば、意識の側からは物質(シナプスの電気信号含む)に干渉できないということになるので、意識がシミュレーションされなくても、シミュレートされた人間は、意識があるのとまったく同じように振る舞うことになるわけだ。
しかし、この仮説は現実的にかなり不自然ではなかろうか。
たとえば、つぎの瞬間の体の動きをイメージして、そのイメージに照応させて身体を動かすダンスの体験に、この事実を適応すると、イメージに合わせて体を動かしているわけではないということになる。
したがってこの場合、ダンスなどの日常の経験で生じるイメージ(意識表象)の身体運動に対する先行性は錯覚に過ぎない。
他にも、小説家が小説を執筆するとき、その執筆内容は頭で考えたりイメージした物語とは無関係ということになる。
これは人間の意志の自由は存在しないということでもある。
このようなことは、いくらなんでも、あまりに不自然ではないだろうか。
これだと人間の意識内容は全て身体や量子の運動に辻褄があうように生じているだけだということになる。じつは意識はあってもなくても同じということになる。
この思考実験は、意識が物質の運動に一方的に従属するならば、意識不明人間が人間のように創作したり話したりするという事実をつきつけるものである。
このようなことはおよそ考えにくいだろう。
絶対にそれがありえないとは言わないが、少なくとも極めて不自然であまり現実的ではないとはいえるだろう。
つまり僕がこの記事を書くにあたり頭で思案して考えた論理的な思考内容やそのイメージもこの記事の内容とはまったく関係なく、僕の手がゼンマイ仕掛けの人形のようにキーボードをタイピングしていて、そのタイピングの内容に辻褄があうように意識が生じているに過ぎないということになる。
このようなことは、完全に否定することはできないが、およそ考えられないだろう。
科学の絶対限界と生命の神秘
以上から科学の絶対限界を仮説的に導くことができる。
もし、先ほどの思考実験から意識が必ずしも一方的に客体の運動方程式に従属していないと考えるならば、自然科学は客体(生命体)の運動についても完全には解き明かせないことになる。
というのも、一方的に心が物質の運動に隷属しないとは、いいかえれば心は、脳という物質の運動に依存しつつ、その逆に脳の運動に原因し規定するという相互規定的(相互因果関係的)な関係があるからだ。
つまり生命物質の空間的な物理運動を完全に記述・シミュレートするには意識の客体的記述が不可欠となるが、存在論的差異があるために自然科学のパラダイムでは原理的に意識を客体的に記述することができないということ。
この事実は物理学が生命の次元に踏み込むことの不可能性を示すものである。
生命の意志と客体との絶対的な差異を介した相互干渉、この客体(空間)と主体(時間)との相互干渉をなす差異の原理的な特定不可能性こそが自然科学の絶対限界であり特異点なのだ。
※このような記述することが欲望される主体そのものの記述不可能性としての特異点を精神分析では対象aと呼ぶ
すると生命科学や生物学が自然科学を逸脱して統合学や哲学を参照することが多い理由もよく分かるだろう。
分子生物学者でアメリカで最先端の自然科学研究をしてきた福岡伸一が自然科学のパラダイムではそもそも生命について分からないという結論に達して西田幾多郎を参照するようなった理由もこのことと無関係ではあるまい。
生命とは絶対的神秘である。少なくとも意識の側からの物質への干渉を認めるのであれば、これはまさにオカルト的とでもいうべき神秘である。
非物質的・非空間的な主体性が、どうして物理的・空間的な物質に干渉するというのか?
この意味において生命現象とはポルターガイストのごときものというより他ないだろう。
これはこれで、物質の絶対優位、すなわちゾンビ人間を認めるのに匹敵するくらいに訳の分からない事態だといえるだろう。
生命の神秘というより他ない。
とはいえ、意識内容が人間の行為にまったく無関係という仮説よりは遙かに現実味があると思う。そもそも意識が身体の動きと無関係なら生命が意識を持つ意味もあるまい。
おまけ:現代の諸問題と脳還元主義
※この項だけおまけなので難解です
そもそもなぜ現代人は脳という物質に精神が完全に従属すると考えるのか。
じつはこのような一方向的な因果律(脳物質⇒精神)は客観科学の成立そのものと密接に関わる。そして客観とは主観的に構成された主体の自己関係構造の産物に過ぎない。
客観科学(脳科学)のパラダイムが前提とするのは時間の過去から未来への一方通行の流れと、精神が身体を完全に所有するのだという誤認によってである。
これについて詳しくは当ブログの未来予測をした記事に誰にでも理解できるように詳述しているので興味のある人はそちらを参照して欲しい。
ところで現代人は脳科学という局面では意志を身体(脳)に隷属させたがるわけだが、他方では精神が身体を完全にコントロールできるとも考えている。
たとえば整形手術やインスタの画像加工、筋トレの流行などは精神によって身体を思い通りに規定・支配する一方的な隷属関係=身体所有に他ならない。
一見するとこうした日常における意志が身体を思うまま所有しているという前提は、脳科学信仰が前提とする身体器官に対する精神の隷属という前提とアンビバレントに思われるだろう。
しかし能動性と受動性、支配と隷属とはその極限おいて一致することになる。
したがってむしろ、現代の身体との日常的自己関係における一方的な身体所有というあり方によってこそ、逆説的に脳科学万能論(物身体優位論)が生じている。
なのでそのことをここである程度、述べておきたい。
まず一方的な支配が限りなく隷属的であることを考えると隷属と支配の同一性は分かりやすいだろう。
たとえばナチスのような全体主義では国民はヒトラーの法に徹底して従属している。しかしその従属の過激さのあまり自己自身とヒトラーの法との「差異」が末梢し、ヒトラーの精神と自己とが融合してしまう。
※厳密にはヒトラーの法の文章とその文章の根拠となる行間(ヒトラーの主体)とが一致しているために法文章に隷属する国民の主体が消滅しヒトラー化する
このヒトラー(大他者、エス)と個人との差異(分離)の抹消を自己関係にうつせば、それは身体と精神との差異が抹消し融合することに対応する。身体を法(言葉)の奴隷とすることは、言語を操る主体たる自己精神がヒトラーの法へ帰依し、身体がヒトラーの法精神の奴隷と化すことに等しい。
※この身体の法の奴隷化をフーコーは訓練と呼ぶ
したがって完全なるヒトラー法への従属は同時に自己自身をヒトラーとみなすことで能動者(ヒトラー)との一体化を生じることとなる。これはヒトラーとして自己身体を完全に支配する者となるといってもいい。
このような一方的な精神と身体との主従関係は個別的主体性としての主体・主観の抹殺に通じる。
つまり主観が個的身体に限定されていないとすれば、もはや主観は客観と区別されないということ。世界に一つしか主観がなければそれは神の主観(ヒトラーの主観)、すなわち客観に他ならない。この主観の無限定化によって、世界から主観は消え去り客観物・客体だけが認識対象となる。
※イメージ(霊魂)は外的なモノの死であり否定においてあり、イメージの自己限定たる主観化はイメージの否定においてある
※精神分析では主観の個別性(自己限定)を決定づけることを分離といい、分離の契機となる結合における他者主観との断絶を疎外と呼ぶ
大事なので繰り返すが、ヒトラーとの一体化は普遍的法の文章(記述)が、その法の意図であり文脈であるところの行間との存在論的差異を失うことで生じ、これが全体主義となる。
行間を失えば、法の解釈は一義的(字義通り)となり、異論を差し挟むことができなくなるので解釈を自分の頭で考えなくなるということ。つまり法に隷属して主体が消える。これは自己の主観が普遍者たるヒトラー(他者)の主体へと完全一致することを示す。ここに支配と隷属との同一がおこる。
かくして科学万能論に典型される行間なき客観記述への絶対的隷属はそのまま支配者との融合を介して絶対的支配へと通じるのだ。いわば客観の言葉はそこに欠如たる差異(行間)をもたないのであれば脱主体化を招く。
いずれにせよ、物だけの世界では物しかないから精神もまた物に還元されることになるのはいうまでもない。
ところで主体としての個(自己)とは物質的同一性(主語的同一性)、すなわち【何】によるのではない、つどの主体性たる行為的意志の統一性(述語的同一性)たる【誰】による。
何(物)と誰(主体)の差異はここにある。
また意識を個的主観として、自らの限定された身体を生きる個別的生命(ビオス・主観)において、意識(主体性)と物身体とは差異を保って同一することでなりたつ。
したがって個別的生命の根拠たる身体自己との自己内差異(存在論的差異)の消失は、個別的主体(個)の消滅に他ならない。
つまり意志が完全に思い通りに身体を所有することや、そのことで逆説的に生じる身体物質の運動方程式が精神を一方的に原因したりするモデルは精神を客体に還元しつくすこととして、差異を末梢することを示す。
物質の運動方程式によって意識をシミュレートできるというシミュレーション仮説はまさにその典型で、意識を物(運動方程式)へと回収することでその差異を末梢するイデオロギーに他ならない。
※なんでこのブログでシミュレーション仮説を標的に論破しているのか、その理由はここにある。否定しないと人間主体が死ぬということ、シミュレーション仮説を論破する記事の批判をコメントするならこの程度は理解してもらいたい
ここまでの説明から意志が身体を一方的に奴隷とすると考えだすと、意志は個別的主観でなく普遍意志(客観)として科学的知(ヒトラーの法文章)たる客観と化すことになると分かる。かくして自己のエセ科学化・客観化が生じるのだ。
※身体とは言語によって持たれる、そのため身体をもつ意志とは言語(他者)の主体である。また言語とは禁止の法であり普遍性をもつ
ここで科学的知は行間(主観)なき客体の記述であるから、科学的知の時間記述と一体化した主体は客体すなわち物身体へと還元し尽くされることになる。
※時間の客体化はすなわち主体の客体化に他ならない
繰り返すがこの場合、意志は身体による限定をうけつけないため、個別的主観を形成しない。
つまり身体を一方的に隷従させるわけだから意志は身体の側からの限定を受け付けない。
ちなみにホームレスに対するヘイトスピーチを科学的に正しいというエセ科学の嘘を揚言した人物が主観的なヘイトを科学の知として客観化するのもこのためと解釈できる。
基本的に現代の現象は、差異と全体主義の論考から体系的に説明づけることができるのだ。
ヘイト系のエセ科学インフルエンサーの誕生、破産するまで貢がせるアイドルやホストの跳梁跋扈、モラルの消滅、非定型発達の激増、ポリコレの暴走、性的属性の際限なき増殖、幻想と現実の混淆、反出生主義、ネオリベの台頭、その他もろもろすべてこの差異の論考からそのメカニズムを統一的かつ体系的に導くことができる。
というわけで統計的エビデンス(エセ科学の知)を振りかざして自身を科学的と称する驚くべき無知者の台頭は、主体による身体の奴隷化によって生じた主体の物質化(存在論的差異消去)の典型例と考えられるだろう。
よって現代人は身体の奴隷化において、自己の個別的主観・主体性が抹消されたことで、自己の意志決定を合理的意思決定、科学的合理性という客観的な運命(因果律)へと変質しているのだ。
しかるに心脳問題に典型されるシニフィアン(身体)とシニフィエ(精神)との差異消失が現代社会の根本問題である。
※精神分析的に言えばシニフィエとはシニフィエのシニフィアン(S2)である
かくして主体の消失はインフルエンサーのサディズム(全体主義)を惹起し、社会を根底から壊乱するに至るだろう。
※全体主義とは想像的関係において、つまり例外者の位置に到達することで生じる
というわけで現代の身体と精神を巡る絶対的な隷属と支配の反転的同一はこのような全体主義モデルに依拠していると考えられるのだ。基本的にこの意味で現代人は全体主義的といえる。何をしでかすか分からないというか本当に危ないと思うので記事にしている。
そこはかとなく晦渋となったのでポイントをまとめる。
身体的自己を精神的自己が一方的に所有する。
身体の所有は言語によって可能となる。
言語は普遍性をもち客観(三人称)に属する。
精神は身体をもつゆえ、言語の主体である。
言語とは身体的衝動への禁止の法である。
言語の根拠たる言語の主体は言語の内には存在せず行間に住まう。
行間と言語との差異が存在論的差異たる個の主体である。
行間と言語との差異の抹消がナチス的全体主義である。
差異の抹消により、主観が個人的な主観としての限定を蒙らなくなることで主観は普遍化し客観たる他者と癒着する。
存在論的差異の末梢は主観の客観化によって、全てを物・客体に還元する。
合理主義の言葉(行間無き言葉)だけになると差異が消える。
というわけで現代人の意識・主体は全体主義的で存在論的差異(欲望)を欠いた危険な状態にある。
脳科学信仰だとかの誤認は笑い事でなく、人間主体の構造的なカテゴリーに依拠するもので、この問題は高度に政治的、哲学的、心理学的な問題でもあるのだ。
すでに現代人には罪悪感が消失しているという臨床研究も多くあり、道徳やモラルといったものが構造のレベルで不可能になりつつある。
また統計合理主義的な言語がもつ壊れた欲望の構造が人間の主体を解体することはラカン派がつとに指摘していることでもある。
いずれにせよ【差異】を取り戻すための自己否定を回復することが今後の人類の課題となるだろう。
というわけで存在論的差異を取り戻し、象徴性を回復し、幻想を構成し、言語を止揚し、そのことで人間の尊厳を取り戻さなければならないと思う。
この記事は主体たる差異の回復のためにある。僕たちは主体と客体との差異を取り戻さねばならない。シミュレーション仮説も科学万能論も現代人の悪夢に過ぎない。それは目覚めることを拒絶する夢だといってもいい。
終わりに
最後の項だけ小難しい内容になってしまった。それでも重要なので迷ったが記事に。
わかりやすい徹底した網羅的説明も可能だがその場合は数万文字を軽く超える記事になってしまうので、尺の都合で分かりやすい説明は諦めた。
最後の項以外は、かなり簡単なので、多くの読者に理解してもらえると思う。
シミュレーション仮説に関する記事がまともに読まれず誤読され、返答のしようのない反論が多数寄せられたので、コンパクトにして論点を変更して書いたのがこの記事である。
本当は時間と身体所有の形式が印欧語において【中動態ー能動態】の軸から、【受動態ー能動態】の軸へと移行したことと対応してたり、西洋の運命が受動と能動の二項性における身体所有にあり、中動態が豊富な日本語の縁が中動と能動の二項性に属する身体所有によってあることなどを示したかったが断念した。
もっというとネオリベが受動と能動を軸とした言語構造に属する経済体制であることも僕の理論で示すことができたりする。
そんなわけで存在論的差異の議論は現代を理解する上で避けることができずそれでいて奥深く、僕も研究中である。
基本的にこの記事のおまけの項は京都学派の木村敏の理論をベースに、ラカンの理論をそれに統合する形で展開している。
ラカンには致命的な欠点があるが一般にはその欠点があまり理解されていないようである。
というわけで詳しく知りたい人は以下の記事を参照したり、ラカンや木村敏、さらにユングなどを参照することをオススメする。以下の記事では明確にラカン理論の限界も明らかになっていたりする。
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