【人類終了シナリオ】を心理学で解説【未来予測】

デューラーの『メランコリアⅠ』の画像

うたまるです。
※この記事の内容はあくまでも最新の臨床心理学理論に基づく1つの解釈・考察です、また本記事は当ブログの他記事より難解なため脳トレになります

じつは最新の臨床心理学の理論では現代文明による人間主体(心)の解体が指摘されます。

じじつ臨床心理の最新の疫学統計でも、精神病や神経症などあらゆる精神の症状は年々大きく変動していることが判明。

そのため最新の学説では、このままゆくと人類が近代に獲得した自由や主体性、人権といった概念が悉皆に消滅する可能性も示唆されます。

というわけで、今回はその手の論文をよく読む僕が、最新の深層心理学理論を駆使し来るべき人類消滅のシナリオを予測。

ここに世界の歴史を規定する人間主体に刻まれた運命の書のハックを試みます。そのためいつもよりどうしてもハードな内容となります。

(※一般の方だけでなく臨床心理学の研究者や文化人類学や社会学などの学者の方にも興味深い内容にしているつもりです、この記事では、どの学派を参照しても、はっきりしない発達障害の基礎障害も独自に特定しています)

発達障害急増とは

じつは現代ラカン派も現代ユング派も発達障害傾向の増加と文明社会のあり方との密接な関連を指摘する論文は多い。

(※ここでは発達障害を破滅因子として悪認定するのでなく、現象としての発達障害の増加と人類の主体の自壊との連関構造が問題となる)

そこでまずは、発達障害とは何かを共通感覚との関連から解説し、次に統合失調症との比較によってその基礎障害を明確にする。

じつは発達障害と統合失調症が何かが分かれば、現代文明の何が原因でどのようなメカニズムで発達障害が増えているのか、それが人類になにをもたらすのかを理解できるのだ。

激増する発達障害とは

発達障害とは現代では自閉症スペクトラムとか非定型発達スペクトラムと呼ばれる主体を示す。

ここでは発達障害の診断定義DSMや教科書的な中身のない定義は無意味なので割愛し、人類終焉シナリオに直結する発達障害の本質を手っ取り早く解説する。

まず発達障害の特徴は、主体性の弱さ、共感力の希薄さ、空気の読めなさ、文脈の読めなさ、が上げられる。

じつはこれら発達障害にしばしばあるとされる特徴は、全て1つの問題によって生じている。

その問題こそが、共通感覚の欠如である、これは存在の一方向通行化と言っても良い。

(※諸学派(現代ユング派、現代ラカン派、木村派)の理論を僕なりに、無理なく分かりやすさ優先でまとめると共通感覚の一方通行化を現代の発達障害傾向の基礎に措定するのが無難と考えます、共通感覚の変質に発達障害の基礎障害を措定する考えは僕のオリジナルですが、けっして突飛な考えでなく存在論的な基本に忠実に考えた結果です、最後に参考論文は全て提示します)

共通感覚とは

共通感覚(コイネーアイステイシス)とはアリストテレスによる概念であり、五感に対する人類に共通の行為的な意味感覚のことをいう。

たとえば僕たちは、白紙の紙を見たときにも、嘘のない純朴な子どもを見たときにも、無罪の人間を見たときにも、そこに潔白や純白といった白色の視覚に喩えられる意味を感じる。

もし、潔白さとして表現されるもの、潔白という比喩を可能とするところの共通感覚がなければ、ぼくたちの世界観は、五感によって5つに引き裂かれるだろう。

つまり視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚はそれぞれ位相が完全に異なる、これらバラバラの種類の感覚(部分対象)を統合し1つのまとまりを持った世界認識を可能とするのが共通感覚。

それゆえ共通感覚のおかげで「彼の性格は甘い」とか、「バイオリンの甘い音色がする」ということができる。
これは本来味覚に属する甘さで聴覚が表現されたり、性格という主体が表現されうることを示す。甘い音色という比喩は味覚と聴覚が甘さという意味の地平において1つの意味世界に統一されていることを示す。

また精神分析にちなみ、もっとも分かりやすい共通感覚を上げるなら快感原則における「快ー不快」の意味感覚が上げれるだろう。

五感(部分対象)の全ての感覚は、快と不快という主体にとって統一的かつ行為的意味が付与される。
(※竹田青嗣はこの快ー不快を軸に美醜、善悪などを階層化する)

このことから共通感覚は五感を意味の地平において統合し、まとまりをもった1つの意味世界(自己観)を僕たちに可能にしてくれるものだと分かる。もし共通感覚が完全に消滅したら、世界は離人症のごとくバラバラに解体するだろう。

ちなみに脳科学や哲学では共通感覚をクオリアといい、ハイデガー存在論では共通感覚を存在とか存在それ自体と呼ぶ。
(※木村敏においてはメタノエシス、クローンフェルトではメタコイノンと呼ぶ)

また、共通感覚とは主体のことでもある。
たとえば、目の前にある寿司を食べて「この寿司は美味しい」と思ったとする。美味しいは寿司の味覚感覚に対する意味感覚なので共通感覚と分かるだろう。

しかし重要なのは、美味しいということはそれ自体が主体だということ。

「この寿司は美味しい」というと一見して、寿司の属性として「美味しい」という意味があるように錯覚するが、それは単に言語の客体化(三人称性)の機能による見せかけにすぎない。

じじつ、魚が嫌いな人が寿司を食べれば、その寿司は美味しくないわけで、「美味しい」は寿司に独立して内在する性質ではない。

では主観(食べた人の感想)なのかというとこれも、語弊がある。つまり寿司なしに「美味しい」とはいえないわけだから主観として食べた人に独立して内在する性質と見なすのも間違えといえる。

以上から共通感覚の「美味しい」は、寿司(対象)と寿司を食した人との「あいだ」に属する両者の関係だとわかる。
(※寿司の美味しいという属性も主観としての美味しいという感想も同じ「あいだ」に属する)

さらに、ここで重要なのは、アプリオリに美味しい寿司があったのではなく、美味しいという関係性が先行して、美味しいという意味関係の自覚を介して、そのおいしさの体験の内から、美味しい寿司と美味しいと思う自己とが析出していること。

また、美味しいとはそれ自体が行為的(能動的)であることも見逃せない。
自己主体とは行為の主体、行為すること、能動性にあるわけだから、美味しいという共通感覚は主体性そのものだといえる。

つまり、お腹が空いているときに、ウサギらしき視覚感覚を捉えれば、食料としての獲物として、その感覚は「美味しそうなウサギ」という客体を結像し、ウサギを狩りに追いかけるという行為を生じる

このことから「ウサギ」という知覚は、そのつどの主体と世界との関係性に応じた行為的意味によって規定され、知覚のもつ意味には能動的性格があると分かる。

注意点としては、まず認識する私(コギト)が先にあって、その私が客観対象(客体)にであい、その対象に何か共通感覚を感じているのでないこと。

少なくとも認識のレベルでは、「私」は共通感覚の後に生じているのが重要で、共通感覚の振り返り(自覚)として、「美味しいと思う私」、という仕方で「私」という自己対象認識(自意識)が生じている。
このとき「私」という自己対象は、その関係項である「美味しそうなウサギ」という認識対象と同時に生成される。
(※西田幾多郎の物きって我照らすとはこのことを意味し、ラカンの対象が私を見つめるもこのことに対応する)

私という自意識はぼーっとしているときには存在しないのだ。

要点をまとめよう。共通感覚とは平たく言えば知覚の行為的な対象化作用のことである。つまり、もし共通感覚がなければ、無味乾燥な感覚刺激だけが脳内で垂れ流されることになり何も視覚対象を構成しない。

よって共通感覚における対象化作用としての行為的意味(欲望・関心)が知覚対象を結像するわけだ。

感覚に対する主体的アクションとしての意味である共通感覚がなければ、認識においては何一つ対象化されないことは簡単に想像できるだろう。共通感覚とはこの意味で対象化を生じる行為的な意味ともいえる。
(※共通感覚こそが時間のことであり存在でもある、ベルクソンの純粋持続や西田の純粋経験は共通感覚に対応する)

ちなみに人は自己の認識の外部には出れない、ゆえに客体・客観の概念は自己の認識という主観それ自体の内側での主客の分離において仮構される幻想に過ぎない。

客観という概念自体が、ゼノンの矢のパラドックスなどの理論矛盾を引き起こすこともこの事実に由来する。
客観や論理学は心理学によって、それが可能となる関係構造を取り出し、メタ論理学としてその構造を規定することもできる。

共通感覚の欠如とは

発達障害の基礎を共通感覚の欠如としたが、ここでいう欠如とは共通感覚の共通性の欠如、ないしは変質のことである。

というのも本当に共通感覚そのものがなくなると発達障害でなく離人症になってしまうため。

発達障害における共通感覚の共通性の欠如を示す特徴として、空気が読めないというのがある。
じつは、ここにいう空気もまた共通感覚のことを指す。

どういうことだろうか?

先ほど、共通感覚は自己と対象に先立ってある自己と対象との「あいだ」に属することを示した。
したがって、この「あいだ」としての共通感覚は人と人と、自己と他者との「あいだ」である。しかも自他の分離・析出にさきだってある「あいだ」なのだ。

すると空気が共通感覚であることは明らかだろう。空気とは(それ自身が)言葉によって明文化される以前の自他の間、人々の間に醸される意味の源泉(雰囲気、気分、イド)に他ならないからだ。

また雰囲気や気分が共通感覚に属することは、腹が減ったという気分があることを思えば、前項で解説した「美味しそうなウサギ」の例からも明らかとなろう。いわば気分や雰囲気は感覚に対する行為的意味の源泉なのだ。

そして同調圧力などの場の空気は、主に五感の感覚に対する意味感覚=共通感覚によって直観的に捉えられる。

以上より、共通感覚の共通性が欠如し、共通感覚そのものが何らかの変質を被ることで、「空気が読めない」という症状が発生すると考えられる。

空気の読めなさと視線触発φ

ここまで木村敏の「あいだ論」を一般向けに簡略化した論理を元に発達障害の空気の読めなさの本質を取り出してみたが、ここで空気の読めなさや共通感覚と発達障害との関係を最新の現代ラカン派の学説によって確認してみよう。

現代ラカン派の最新理論によると発達障害とは視線触発φの欠如にあるという。
(※ラカン派はドゥルーズを参照し、視線触発φの外傷性の欠如によって時空間の構成条件をなす〈他者〉が構成できなくなるという)

まず簡単にラカン派の視線触発φの欠如による発達障害論を確認しよう。

ラカン派によると動物としての赤ちゃんが人間として言語の世界に誕生するには、言語の主体である親の欲望の視線(視線触発φ)を受け取る必要があるという。

このような親が、子どもを言語の主体として欲する母のまなざしを視線触発φという。

ラカン派おなじみの疎外の論理から説明すると長くなるので、ここでは細い議論は割愛し要点だけを述べる。

(※こまい議論を知りたい人は、このブログの作品考察記事やおすすめラカン入門の記事を参照ください)

つまるところ子どもが自他の分離した独立した内面を持つ自己として誕生するには、自分とは異なる他者の主体・主観を(欠如として)知らねばならない。

このとき自分と異なる〈他〉なる主体・主観を教えてくれるのが視線触発φなのだ。当然だが生まれたての赤ちゃんには自他の区別などなく世界と自分は融合している。

補足すると赤ちゃんがハイハイするようになり身体的には対象と分離してきても、その段階では世界を認識する主体としての内面は未分化であり、この内面の分離に必要となるのが視線触発φということ。

たとえば、子どもが山を登っていてヘトヘトに疲れた気分だとしよう。このとき自他未分の子どもにとっては自己が疲れているのではなく、世界そのものがヘトヘトだと認識される。

そこで、もし母親が余裕の表情で涼しげなまなざし(視線触発φ)を子どもに送ったらどうなるだろうか

まず子どもは、母の表情、まなざしを視覚として感覚する。
次に、その感覚を共通感覚によって母のまとう余裕さという気分として直接に感じ取るだろう。


しかし、いくら直接的に余裕さという共通感覚を感覚し母の気分(内面)と一体化しても、自己身体の疲労に根ざすヘトヘトさの気分(共通感覚)は消すことができない。

そのため、子どもは自分のヘトヘトと、母の余裕さとの絶対的分離を自覚することになる。
これによって子どもの内面(主観・主体)は母の内面から分離され自律した主体として子どもが誕生する、というのが視線触発φの概要である。

(※視線触発φのこの機能はラカンの疎外の段階に相当する)

さらにここで重要なのは、このようなヘトヘトから余裕へという視線触発による分離は、子どもにとって外傷的であり1つの断絶を構成すること。

いままで自己の連続的で単一な気分だけが支配的だったところに、自分と異なる内面をもつ母が迫る自分の気分とまったく逆の他なる気分の闖入はそれ自体、外傷的であり、今までの気分との断絶(クリーゼ)を示す。

(※この気分が父の名で言語象徴的に名付けられ、意味において気分が欠如するのが疎外の後にある分離の契機とも解釈できる)

以上から視線触発が共通感覚によって機能することが分かるだろう。

眼は口ほどにモノをいう、まさに眼孔は共通感覚のもっとも敏感な場所に違いない。

ここで発達障害の話に戻ろう。

重要なのは発達障害の人は、視線触発を受け取れないこと、これは言い換えれば、母の余裕さが伝わらず、自分のヘトヘト気分が母に一方的になすりつけられると言い換えてもいい。

その意味で、他者の内面が自己によって所有されている。つまり共通感覚がもつ双方向性としての「あいだ」の性質が消え去り、一方通行となっているのが発達障害だと考えられる。

すると空気の読めなさも、相手の感情を自分の側で一方通行で措定してしまうこととして理解できるだろう。このことは精神分析のいう現実吟味の議論にも直結する。

以上から発達障害の基礎障害をここでは「共通感覚における〈他性〉の消失、ないしは一方通行化」と規定しておこう。

統合失調症と発達障害の違い

かつてのラカン派は統合失調症と発達障害(自閉症)を明確には区別せず、排除という機制によって2つを同一に特徴付けいていた。

しかし現代ラカン派は統合失調症と発達障害を積極的に区別する。また現代ユング派も両者を区別する。一方で両者の近さも、しばしば指摘される。

ここでは両者の違いをラカン派の論理を借りつつ、これまでに解説してきた木村敏の共通感覚論をベースに独自に示す。

発達障害の基礎障害

これまでに確認した通り、発達障害では共通感覚が一方通行になっている。

また共通感覚は、知覚の能動性であり主体の行為をなす主体性としての一面も持つ。
そのため一方通行化という共通感覚の変質は、発達障害の行為性、主体性の独特さに直結する。

まず発達障害では共通感覚が「あいだ」としての〈他性〉を持たないゆえ、行為に断絶的(外傷的)な側面が生じにくい。

そのつど共通感覚より産出される行為性が、他者(対象・モノ)の影響を受けいないので、つどの行為は反復的で本質的な変化を生じにくい傾向がある。

したがって自己の予期せぬ行為・知覚という外傷的な行為(断絶)が産出されない。つまりヘトヘトという行為的気分をぶち壊し、攪乱する他者の余裕さという行為的気分が闖入しない。

そのため、つねに自分にとって馴染みのある行為性(意味知覚)、あるいは予定された行為的意味しか産出されない。

また、発達障害では自分と異なる他者の内面(視線触発φ)を受け取らないため、他者が自己化(自分しかいない)している側面がしばしば論文で指摘される。

統合失調症とは、発達障害との共通性

対する統合失調症とは、自己が他者化してしまう精神病を指す。
(※専門的な解説は割愛しここでは議論に関係する統合失調症の本質部分のみ提示、正確さよりわかりやすさ優先の解説です)

わかりやすさ優先でまとめると、発達障害を他者の内面不在による他者の自己化とすれば、統合失調症は自己の他者化である。

したがって両者とも自他の内面が未分化傾向にあるといえ、その点で両者は同一の主体構造を持っている。それゆえに両者の同一性がしばしば指摘されるのだ。

いわば統合失調症とは共通感覚によってつど生じる意味知覚(行為の振りかえり)が、既存の言語概念から外れてしまうために、私は私ではない他者である!となってしまう事態を示す。

発達障害と統合失調症の差

ここで統合失調症の臨床の専門家、木村敏が指摘する統合失調症の特徴を軸に発達障害と統合失調症との差異を分かりやすくしめす

木村によると統合失調症患者の親は神父や教師など、お堅い職業で杓子定規な父親をもつことが多く、一見してよき家族に見えるが世間体が全てで、皮相的な家族ゲームに陥っていることが多いという。
(※たしか、かの有名なシュレーバー症例の父もこんな感じだったはず)

また統合失調症患者はそんな表面的な家族にあって唯一、感受性が高く他者の内面に対する敏感さを持つという。

ここでいわれる統合失調症の感受性の高さは共通感覚における他者の内面(気分)への敏感さを示す。

したがって統合失調症では共通感覚の双方向性、〈他性〉は顕在だといえる。
(※これによりラカン派が手こずっている両者の違いを明確に規定できる)

これが分かると話が早い。

まず統合失調症患者の杓子定規な父による言葉を考えよう。すると父が子どもを教育するときの言葉は子どもの主体性(共通感覚)を否定することが分かる。

つまり共通感覚によって「あいだ」より産出される、そのつどの子どもの固有の主体的行為を父親は否定する。そして父は世間体を重視し、杓子定規な優等生となることを強要する。

杓子定規な優等生という型からはみ出る子どもの主体性は全て否定され承認されない。父は画一的な命令の要請を子どもに浴びせる。

すると子どもはどうなるだろうか。

まずそのつどの主体性は言語の主体である父の承認を得られないので、言語的には言表されないことになる。
したがってつどの主体性として生起する行為や能動的意味知覚は言語的に認められず言表不能となる。

これにより、自己主体としてのつどの行為性(子の主体)は、父の言語により承認され言語により対象化される「私」という主語から逸脱して私ならざる他性を帯びることになる。

かくして、つどの行為・知覚は「私」ではない他者である!となってしまい父的(社会的)承認の世界である言語の世界に位置する主語の「私」に自己を基礎づけることができなくなると考えられる。

また、ナチスのような杓子定規な父が子どもに語る要請の言葉は命令系であり、言表内容と言表行為(意図)との間に差異を持たない。

対する発達障害は、そもそもそのつどの〈他性〉を帯びた行為が産出されないしたがって同じくナチス的な杓子定規の父の言葉にさらされても、その言葉からはみ出るような主体性を生じにくいと考えられる。

つまり発達障害は基本的に〈他性〉を持つ主体的行為をあまり持っていない。

よって発達障害の場合は、命令系の行間も奥行きもない父の言葉と完全に一体化できるともいえる。したがって社会的言葉によって与えられる私(鏡像)という主語にそのつどの行為・知覚は問題なく収まる。

それゆえ発達障害では他者が自己化することになるのだろう。

(※ラカン派では発達障害は固有の行為性(S1)が〈他者〉に引き渡されず自体性愛的と解釈され、合成〈他者〉を独自に構成し言語を習得すると考えるため、ここでの解釈とやや異なる)


ここまでが文明による人類消滅を理解するのに最低限必須のロジックになる

以上の言語の主体である父と子の共通感覚の質を巡る発達障害と統合失調症の違いは、文明と人類崩壊の関わりを理解する上で絶対的に必須。

(※ラカン派のいう縁の上の享楽の回帰を否定するつもりはなく、たしかにS1が〈他者〉に引き渡されない側面があると思う、しかしそのつど断絶的、偶発的な他性の行為をそもそも生じないという存在論的本質をラカン派は見逃していると思う、ここに示した僕の論ではいかに発達障害の私的言語などS1の反復を説明づけるかが今後の課題である)

文明社会と身体性

僕たちは文明の行く末を展望する上で必要となる基礎理論を手にした。つぎに現代文明が発達障害傾向(非定型発達スペクトラム)を不可避的に量産してしまう構造みてゆこう。

ネオリベ資本主義の言葉

今日では、新自由主義(ネオリベラリズム)が蔓延し、資本主義は破滅的な自己肥大化運動を止めることがない。

そこで今日の世界を覆い尽くす、消費社会にあふれるメッセージ(要請)の特徴を確認しよう

たとえば、ケンタッキーのCM、「クリスマスはケンタッキー!」というメッセージがテレビやネットで垂れ流される。

このように消費社会では消費を促す広告の言葉・要請が満ちている。

じつは、このような広告の言葉は、さきほど紹介した杓子定規な父の言葉と同じ構造をもつのだが、それを確認する前にラカンのモデルに従って主体と言語の関係を概観しておこう。

ここでラカンの欲求と要請と欲望のモデルを軸に、言表内容と言表行為(共通感覚)の関係を明らかにする。

まず子どもの主体性とは、双方向的な共通感覚(行為的知覚)を持った子どもが親の要請の言葉を受けることで生じる。

乳児が空腹などの緊張の高まりから、共通感覚より生じる泣く行為を欲求と呼ぶ。この欲求とは何の意味も持っておらず、単に緊張の高まりに対する生理学的な行為反応ともいえる。

そこに母親が登場して母乳を与える。このとき母親が母乳を与える行為を要請というこうして欲求を示す泣き喚きの行為に、母乳を求める要請という意味が与えられる。

子どもの泣き声に空腹の合図を感じて母乳を与える行為はあくまで、母親による泣き声の解釈にもとづく。また、この解釈は母の子どもに対する欲望によって生じている。

ここで子どもは泣き喚くという純粋に主体的・反応的行為に母親の授乳の欲望を受け取り、泣き声を食事(母乳)の要請として社会化するわけだ。

こうして子どもは自己のつどの行為の社会的意味を確定し、自己とは何であるか?の答えを要請の社会的意味=言語にみいだしてゆく。

以上のプロセスで子どもは母から要請の言葉を受け取り、母親の欲望を欲望する言語の主体となると精神分析では考える。

ところで、親の要請の言葉が命令系であればどうなるであろうか?

もし子どものつどの欲求に対して問答無用で母乳を与え「お前は母乳を飲め」というだけであれば、子どもはその主体性を発揮することができなくなる。

逆に言えば、これでは欲求の行為のうち母乳の要請という社会的意味から逸脱したものは全て排除されることになる。

そもそも本来の親は、子どもの欲求に対しては、「どうしたのかな?お腹減ったのかな?それとも高い高いして欲しいのかな?」という欲望の問いを持つ。

すると子どもは自己の欲求の社会的意味の曖昧さに直面し、親の欲望の問い・曖昧さの答えを探ることで、自己の隠された社会的意味を探ろうとする。

このことは業務における命令を考えるとわかりやすい。たとえば、仕事で何一つ曖昧さのないマニュアル(命令)を上司から渡されると人はロボットのようにそれに従う。すると必然、自分の頭で考える必要がなくなり従業員は主体性を失う。

ところがマニュアルが曖昧な場合、さまざまな局面で従業員は、上司の命令の言葉(マニュアル)の背後にあるマニュアル=上司の意図を自分で考え(欲望し)、主体的に行動しなければならない。
(※この主体的行動、考えたり好奇心を持って欠如した上司(親)の意図を探ることラカンは欲望という)

以上から分かるように、子どもは親の要請の言葉がどこか欠如し曖昧であることで自らの主体性を言語的承認の世界に位置づけることができるのだ。

あるいは、母親は子どもにだけかまってられないので、社会的な欲望にしたがい子どもの前から欠如する。このとき母の不在によって子どもの欲求は不満足となる。

すると子どもは、親が自分以外に社会的な何かを欲望していなくなることに不満を覚え、親の社会的欲望の対象(親の欠如の原因)を探ろうとする。

こうして母の欠如を埋めるなにかを言語的・社会的象徴に求め、その象徴になろうとすることで子どもは主体的に社会化(言語化)される。

欲求はかくして親からの要請の言葉により付与される社会的意味解釈を超えて、要請の社会的意味の欠如に主体性を作り出す欲望を形成するのだ。

このことからラカン派では欲求と要請のズレ(欲求不満足)が子どもの主体性=欲望を作り出す、と考える。

繰り返すが欲求と要請が完全に一致させられズレを許されなくなると子どものつどの自由な主体性は殺され親の要請に従うロボットとなる。

そして欲求と要請とのズレは、先ほどの従業員の例から分かるように、親(上司)の要請の言葉の曖昧さや、あるいは親の不在(欠如・欲求不満)によって生じるとラカン派は考える。

また、この要請の言葉が曖昧さを帯びることは、言表内容(子どもに与えられる具体的な言葉、マニュアル)と言表行為(具体的な言葉やマニュアルの裏にある親の意図)のズレ=階型のズレを意味する

ちなみに、このとき言表行為である親の隠された意図(内面)は言語によっては到達できない。それは純粋に行為的知覚に関わる直接的なもの(享楽)で、言葉に完全に置換することはできないのだ。

冷たいとかの直接の感覚を言語で表現しつくすことが不可能なことを思えば、言表行為を完全に言語に置換できないことは分かりやすいだろう。だからこそラカンは象徴界(言語体系の場)は存在欠如を根拠とするという。言表すること、行為は常に言表を超えているのだ。

以上が分かると資本主義の要請の言葉の問題がよくわかる。今一度、資本主義の言葉を確認しよう。
マクドナルドのコマーシャルのマックを食べろというメッセージの背後には何の意図も隠されていない。

いかなる言葉もただひたすらに、消費しろ、という命令で完結してしまう。その背後には何の意図もなく全てはシステムに従い資本を拡大する自動機械に過ぎない。

このような命令系で言表行為(意図)を隠さない要請の言葉に支配された現代社会では、消費せよという命令から外れた固有性・他性をもつ欲求(共通感覚)の行為は、全て否定されてしまう。

フォロワー数やPV、金だけがこの社会に承認される唯一の価値であり、それから外れた行為には何の社会的意味を価値も与えられず、社会性を否定されて言語の世界から駆逐されてしまう。

(※言語とは彼・彼女という自分と直接関係のない第三者への伝達可能性をもつ、ゆえに言語は三人称性=公共性をもつ社会に属する、社会性=言語性)

よって、消費社会の言葉(ディスクール)は先ほど示した、杓子定規なヒトラー的父の命令の言葉と同じなのだ。

簡単な紹介にとどめるが、ラカンは資本主義のディスクールにおいて、要請の言葉、社会的象徴=商品が欲求の不満を完全に埋めることで、人間の欲望(主体性)が葬られると考えていたようである。

つまり、子どもが不満足から欲求の鳴き声を上げる前に矢継ぎ早に母乳(新しい商品)を与え続け、消費を加速させ、母親(ネオリベ資本主義)が常に背後にはりつき、満足によって消費者の欲望を埋め殺してしまうとラカンはいう。

以上から消費社会の言葉が人間を発達障害か統合失調症のどちらかに変えてしまう構造を持つと分かる。

しかし、この説明では共通感覚の変質が説明できない。普通精神病(発病しない統合失調症)の増加は確かに確認されているが、これでは発達障害傾向のが遙かに増えている現状を説明できない。

そこで次になぜ共通感覚の変質(非定型発達)が生じるのか、その原理を見てゆこう発達障害の基礎障害として僕たちが取り出した「共通感覚の一方通行化」の契機を現代科学文明から取り出せれば、統合失調症より発達障害が優位となる原理を特定できよう。

この解明によってこそ人類終了のシナリオ予測は可能となる。

科学の時間

ここで自然科学のパラダイムの心理学的条件を解析し、科学が強迫神経症的主体性によって可能となることを確認する。

現代の自然科学を確認する上で分かりやすいものにニュートン力学がある。

ニュートンはリンゴが木から落ちる運動を説明するために重力の存在を発見、概念化し、さらに物体の運動や重力に関する運動方程式を取り出した。

このようなニュートン的な科学的世界観はいかなる主体構造によって可能となるのか?

じつはニュートン力学の発見は世界の時間に過去から未来への明確な一方通行の流れを与え、時間の流れにおかれる個別の対象を同一律のもとに連続化することを示す。

つまり世界はつど動き変化していて、ぼくたちはその変化を時間と呼ぶが、時間を客観的にとらえると、バラバラの静止空間の束に還元されることが知られる。

これをゼノンの矢のパラドックスという。このパラドックスは飛んでいる矢はどの時点においても静止しているため、飛ぶ矢は飛ばないというパラドックスである。

つまり時間を客観化してしまうと、今という時は長さを持たない点になってしまう。

過去は既に過ぎ去って存在せず、未来はまだ来ていないので存在しない、そのため今だけしか実在しないといえる。

しかし、今は長さを持たない静止空間であり、長さを持たないということはやはり存在しない。
(※時間に関する最小単位などの議論は割愛するが時間に最小単位を設定したところで矛盾は解消されない)

そのためアインシュタインは時間の今が分からないといい、現代の物理学者も時間の今を理解できず、時間の今は未解決問題として知られている。
(※この問題はハイデガーの存在論によって解かれている、科学(客観系)によってこの問題を解くことは原理的にできない)

ところで人間はそのつどの意識の反省作用によって、そのつど今を認識する。
このとき、つどの今が同一されるには、そのつど認識される対象・世界が今までに認識されてきた対象・世界と同一である必要がある。

ここでつどの認識を支えるのは、これまでの説明から共通感覚における行為的意味による知覚だとわかる。

問題なのは、目の前の「それ(コップ)」を共通感覚における対象化によって昨日と同じ自分のコップへと収斂することがどうして可能かという点である。
(※これはハイデガーでいう世界ー内存在の内存在=親しみ、に関わる)

統合失調症ではつどの主体性(知覚、対象化作用)が今までの言語的対象から外れることは既に解説したが、ゆえに統合失調症では、「それ」は昨日と同じコップとして知覚されない。そのため時間の連続性(自己同一性)も乱れている。

ようするに今日という時(今日の世界)が、昨日という時(昨日の世界)と同一であり、今日が昨日からの一方的な連続(同一)と見なされて、はじめてニュートン力学的な時間、過去から未来へと一方通行に流れる時間は可能となっている。
(※ニュートン的時間の連続性=同一律ということ)

今日の世界と昨日の世界を連続させ同一するには、そのつどの知覚対象が過去の知覚対象と同一される必要があるのだ。

ここでニュートン力学の仕事をこの観点から確認する。

まずニュートンは加速して落下するリンゴの各時点における空間座標を記録する。
このとき記録された各時点の座標はそれぞれが、今という静止空間におけるリンゴの座標を示す。

つぎにこれらつどの認識として記録された、つどの今時点の個別のバラバラの座標点の記録を連続する力・作用として、重力を考える。

つまり各(今)時点で、おのおのの座標にリンゴが位置するのは、全ての各今という時に遍在する重力の統一的な力の作用によると考えられている。

つぎに、リンゴの今時点における座標を統一的に決定する重力を運動方程式としてニュートンは取り出す。
この方程式よって各(今)時点のリンゴは過去のリンゴとの連続性をもった過去のリンゴと同じリンゴとして措定可能となる。

つまり運動方程式により、今のリンゴの速度と座標から、未来のリンゴの座標や速度を割り出せるわけで、これは過去と今・未来を因果的に繋ぐ時間(世界)の連続性を確定する方程式でもあるとわかる。

運動方程式では原因という過去によって今、未来という結果が確定すること、したがって因果関係による時間の一方通行的な統一がなされているのだ。

このような、かく視覚対象のあり方(座標)を統一的に規定する隠された力として重力とその方程式を想定する世界観は、さきほど示した言表内容(外面)の裏に隠された意図である言表行為(内面・力)を想定することに相当する。

以上から運動方程式によって一貫性と連続性をもった重力・内面は一貫した自己同一性をもった科学的自意識の誕生を可能とすると分かる。

(※本格的に論じると自由意志と身体所有における自己のズレやラカンの疎外、快感原則の迂回路である現実吟味の議論となるのでここでは割愛)

もちろん、このことはニュートン力学以前の人が統合失調症のように自己同一性が破綻し私は他者である、となっていたことを意味しない。昔の人はつどの今によって過去が変更されてしまうような神話的世界にいたと考えられるが、それについては割愛する。

1つだけ言えるのは、太古の神話的世界では世界の歴史(時間)は、そのつどの今の行為的知覚作用によってつど刷新されていたようである。だから神話(物語)ではあとから過去の歴史がつくられ変更されたりもする。このような今から過去へ過去から今へという双方向的な多神教神話の時間意識を共時的とか円環の時間という。

古代の言語は現代的な三人称性をもたぬ共時的(述語的)言語であり、このような言語(主語・鏡像)における自己同一性は現代人のような一方通行のニュートン的時間性とは相容れない。
(※この言語構造の時代による違いは木村敏やユング派がよく考慮しているがラカン派にはごっそり欠けている)

太古的時間はさておき、現代の過去から未来へと連続性をもって流れる一方通行の時間の成立はニュートンに代表される近代主体において可能となったのである。
(※厳密にはニュートン+神の死が近代主体の条件)

この項目で大事なのは、自然科学のパラダイムが運動方程式による時間の過去から未来へという一方通行性によって獲得され、この時間の一方通行性により今ある知覚対象・世界が今までの知覚対象・世界と因果的に同一(連続)されて、知覚対象の同一性(同一律的自己同一性)が生じていること

また科学が想定する一方通行の時間は過去を原因、未来をその結果とする因果関係をしめす

科学と自由意志

一般の方はそろそろ情報量が多くキツくなってくるかもしれないが、人類終焉シナリオの解析、神の運命の書のハックには、まだもう少しだけ小難しい解析が欠かせないので、なんとかお付き合い願いたい。

というわけで次に科学のパラダイムである因果律的時間と人間の自由意志との関連を暴く。

ここで自由とは何かを現象学しよう。
まず自由とは私が私を思い通りにすることだと分かる。するとこれは私が私の原因となり結果の私をコントロールすることと言えるだろう。

ゆえに自由意志や自己決定の自由というような意味での近代的自由とは、私と私の分裂によって可能となると分かる。
(※僕が現象学した結果、自由には2つの契機がある、それは自己を所有、支配する生と、支配する自己の死=解放による新たな支配する自己の誕生である、これは受動と能動のヘーゲル弁証法関係を示す)

そして主体の分裂とは自意識によって起こる。つまり私が、自己を認識し対象化する私と認識される対象としての私へと分裂することで自己認識が可能となる。

また、認識される知覚対象としての「私」は、鏡にうつる自己の身体像によって与えられる。

つまり他者や自己の身体(知覚対象)を介して自己は対象化されるわけだ。つまり精神的私は対象化する共通感覚の行為性としての私対象化される知覚対象の私は身体像としての私となる。

(※厳密には行為的知覚作用としての自己(ノエシス的自己)と、それが対象化された内面的自己(ノエマ的自己、シニフィエ)と身体的自己(ノエマ的身体、シニフィアン)の3つがあるのだが、一般読者には複雑になるのでここでは簡易化し精神自己と身体自己の2つとする)

よって身体を支配する精神的私が原因となり、身体的な私を操作する自己支配・自己所有に近代の自由意志の条件を取り出せる。

ここで主体の分裂と自由を理解するために1つの例を見てみよう。

もし二股の分かれ道があって右に行けば拷問、殺害され左に行けば、無事に目的地につけるとしたら、誰もが左に行くことになるだろう。

このとき私は自由意志で左を選んだとは言えない。したがって選択の自由とは迷いえること、葛藤をその条件とすることが分かる。

以上から、自己決定とかいう場合の近代的な自由については、迷い選ぶこと、なにかを一方を断念することで自由の感覚が生じると分かる。

すると精神的私が自由に支配する身体的な私を生じるには、身体的な私との葛藤が必要だと分かる。
したがって、そのつどの身体的衝動(近親相姦)を抑圧し、精神自己の定めたとおりに体(ファルス)を制御することで身体と精神が分離し自由が獲得されるとわかる。

このような自由獲得に至る、身体的衝動の禁止のしつけのプロセスをラカン派は疎外という。

言語を司る社会的な人間になるには、人はつどの衝動を抑えて社会の法に則さねばならない、そして、禁止の法によってつどの衝動を抑圧することで主体は自由意志(欲望)を手にし主体化されるとラカン派は考える。

以上をまとめると禁止という葛藤による、身体自己と精神自己との分裂と精神自己による身体自己の所有(禁止)によって自由が可能といえる。

そして、精神自己が身体自己を所有・支配する自己所有関係によって因果律的な時間がなりたつと分かる。

というのも私が私を所有するとは精神自己が身体自己の原因となり因果関係を取り結ぶことだからだ。

つまり私が身体を所有するとは、精神自己が法にしたがい未来の自己を計画し、自己の未来像(身体像)を未来へと思い描き(企投し)、その未来像にむかって、そのつどの身体自己像を行為的に知覚対象化することを意味する。

これは過去から未来へという因果律によって連続・同一された科学する自己主体の成立に他ならない。

また身体自己の支配という精神の自由がもつ所有の理念は、所有物を一方的(一方通行的)に支配するという概念を生じる。

このことは、自然や世界を科学的に分析し因果関係を取り出して、その原因をコントロールすることで自然・世界を自由に支配する科学テクノロジーのあり方を惹起する

じじつ科学テクノロジーの契機とされる農耕定住社会の出現が土地(自然)の所有という概念を創りだし、農耕という自然を支配する意識を生じたとする論文はよくある。

また、あらゆる所有に先立って人類が最初に所有するものが自己身体および身体的自己像であるならば、自己関係における身体所有の構造が、所有という概念を規定すると考えるのは自然だろう。

さらにここまでの説明からこの自己所有が科学的な因果律的時間を構成することが分かるので、所有概念と時間意識には密接な相同性があるといえる。

以上から、身体の自己所有関係における所有の形式が時間の構造化を規定すると分かる。

要するに、ニュートン時間的な一方通行の一貫性をもった自己同一性は、精神自己が身体自己を一方的に所有するという自己所有関係で成り立つということ。

そして、自己同一性は、そのつどの世界や身の回りの認識対象の同一性を規定するため、世界の同一性、連続性のあり方も自己所有関係の形式に依存するということ。

(※共通感覚において対象(寿司)の意味(美味しい)が自己の主観でもあったことを思い出そう、つどの対象化は自己のつどの対象化の相関者であり両者の時間性は一体である)

強迫神経症の幻想

ここまで来ればもう少しで人類終焉シナリオ、運命の書へのハッキングが完了し、世界の真相、世界の歴史を規定する論理コードの解析にこぎつける。

日本人が苦手とする抽象的論理の連続で苦しいと思いますが、もう少しです。

これまで解説してきた因果律的な時間を構成する自由意志をもつ主体とは、じつはラカン派解釈における強迫神経症者(男の式)のことである。
(※以下、この記事での強迫神経症は全てラカン派のそれ)

私が私を一方的に所有し支配する。このような意識をラカン派は強迫神経症の幻想と呼ぶ。
これをS◇aと表記するのだが、この妙ちくりんな記号式の意味は、私が私の唯一の主であり私は〈他性〉を持たないという空想に支配されているということ。

話は単純で、そもそもニュートンが措定する過去から未来へと一方通行に流れる時間というのは矛盾を生じてしまう。

このような準客観的時間性(ニュートン時間)、同一律的な時間性においては時間の始点(歴史の絶対原因)を措定できない。
(※ニュートン時間を準客観としたのは完全な客観時間がゼノンの矢のパラドックスの時間になるため)

まず科学的なニュートン時間では時間には始点が必要となる。もし過去から未来へという時間の流れがあるのに時間に始点がないとしたらどうなるか考えよう。

すると過去が無限に存在することになるしかしニュートン時間では、時間は必ず過去から未来へむかうので、今が実現するためには無限の過去をさきに経過している必要がある。

今によって後から過去がつくられることは過去から未来へという一方通行の原則に違反するので過去を経過しきっていないと今に到達しない。

したがって、もし無限に時間を遡れるとすれば、現代の西暦2023年が存在するためには、無限の時をすでに経過していなければならなくなるが、それは不可能である。

というわけでニュートン時間モデルでは無限を経過することは原理的にできない。永遠に遡れる以上、それを経過しおえて今に至ることはできないわけだ。つまり始点のない時間世界では西暦2023年には永遠に到達しない。

したがって、ニュートン時間の場合、論理的には、時間には起源となる始点が存在すると分かる。
しかし時間に始点を想定するとまた矛盾が起こる。

時間とは変化を示す概念であるため、時間のない状態からは時間という変化を開始できない。
ある時点に時間の始点を想定すると、かならずその想定時点の後ろに始点の根拠となる始点(出来事)を措定せねばならくなる。

ところが始点(過去)から未来へという向きが固定されたニュートン時間では、時間の始点が始点として機能するためには始点はある時点に固定されねばならない。あとから始点が後ろにズレてゆくというのは過去が事後に作り出されることに相当し、これは過去から未来へという法則に反してしまうわけだ。

以上からニュートン時間=知覚対象の同一律によって構成される時間とは、絶対的な矛盾を生じることとなる。

ちなみに、この時間の矛盾は自然科学のパラダイムがはらむ原因の無限後退(原因の原因の原因、、、)に対応する。

この矛盾はニュートン時間を構成する近代自由の主体、強迫神経症的主体の致命的なエラーを構成している。
そしてこの時間を構成する主体のエラーバグこそが人類終焉を招き発達障害傾向の人間の大量発生を生じているのだ。

このタイムパラドックスにおける主体のエラーを人類の破滅因子と呼ぼう。

というわけで、さっそくこのエラー構造の内実を見てみよう。

自由な強迫神経症主体で問題となるのは、私が私の原因となるとき、原因となる私にも原因が必要となることだ。これはニュートン時間に始点(絶対原因)を設定するとその後ろに始点の原因となる新しい始点が生じることに対応する。

このことを簡単な実験で論証しよう。
まず読者の皆さんには、ランダムで適当な数字を思い浮かべてもらいたい。ここで読者の皆さんの思い浮かべた数字を借りに37としましょう。

このとき私が私の絶対原因で絶対的な私の支配者だとすると37という数字を決定したのは私でないといけないところが実際に思い浮かべる数字を自分が決定することは原理的にできない。

というのも、「よーし、思い浮かべる数字を37に決定しよう」と思った時には37は既に思い浮かべられ、決定されてしまってるからだ。

したがって37の数字はそれ自体、自生的に意識に生じたということになる。このことはウィトゲンシュタインのいう「命題は命題自己自身に言及できない」に対応する。

ようするにこの思考実験は私は私を決定できない、私を一方的に所有することは不可能という事実を示している。ニュートン時間によって構成された科学文明の言葉の主体は、自己自身の自由を本当はもっていないのだ。

またニュートン時間は三人称、客観概念を構成するため、客観の構造にもこのことは関連する。

(※自由とは引き受けることで生じるが強迫神経症はその引き受けを見逃す)

補足すると、私の絶対的能動性と自由の錯覚は、自己の連続性によって生じている。つまり連立方程式の問題を解こうとして、いざ解くとき、人は逐次的に計算を処理するが、この連続性こそが自由意志を錯覚させている。

ところが実際には、方程式を解いている途中で突然に、アイスクリームのことが頭に浮かんで計算をほっぽり出してアイスを食べてにいく可能性を誰も否定できない。

ここで私の計算という作業を断絶する突然の闖入者であるアイスを食べる私の行為は、計算する私の連続性=同一性を破壊する意味で〈他性〉を帯びる。

以上から、人は自己の意志の連続性と一貫性に対して、自己自身においてなんの根拠も持っていない。
このつどの自己の連続性の根拠の不在こそが統合失調症をして私は私ではなく他者だと感じさせる根拠でもある。

というわけでニュートン時間における絶対的原因(始点)の欠如としての自己主体(自己の絶対原因)の消え去り、これこそが強迫神経症を神経症におとしいれている。

また、自然科学が前提する決定論チックな時間意識は、原理的に不可能な時間の始点としての自己主体(絶対的自己所有者)を幻想することで成り立つ。

ニュートン自身が神による時間の絶対的始点を想定していたことは周知のことだろう。このような科学の時間を可能とする始点の想定と神の死こそが強迫神経症の幻想の正体なのだ。

この時間構造のミソは実際には原因の無限退行が生じるゆえに、定点として絶対的な始点を措定することはできないのに、その不可能な始点を幻想し、その幻想を生きてしまうことにある。
(※このような幻想を生きることは同時に主体の死を意味しトラウマ的でもある)

いずれにせよこの項で大事なのは、この幻想には、自己が自己自身の絶対的支配者であり、一方的に身体自己を所有できるという傲慢があること。

ちなみに、この幻想は、歴史の絶対原因としての運命をつくりだすことにもなる。ゆえに昨今の陰謀論や絶対的正義としてのスタティックなポリコレ、ファクト主義などもこの幻想構造から説明する手がある。

現代建築と自然と身体性と時間

ここでは科学テクノロジーによって建造される建築物の特徴が、強迫神経症の幻想の実体化であることを確認する。

まずは舗装された道路と荒野や山を比較するため、荒野などの自然と人との関係を考えよう。

大自然の山を歩けばゴツゴツとしていて、そのつど大地との予測困難な起伏や砂利の滑りによって身体は無意識的に反応し、行為することになる。

そして精神自己は、その身体の思わぬ反応に震撼され冷や汗をかきながらなんとかバランスをとって目的地へと身体自己を操作する。

このような一連の自然の大地を闊歩する人間の精神自己と身体自己との関係は、さきほど解説した科学する自由意志をもった強迫神経症の幻想とは全く異なると分かるだろう。

ここでは精神が身体自己を所有しコントロールするが、精神もまた大地との反応で生じるとっさの予期せぬ反射行為(共通感覚)によって震撼させられ、従わされていると分かる。

したがって自然と人との世界では、精神自己と身体自己とは相互所有関係にあり、互いに互いの原因であり結果となる。さきほど身体の所有形式は時間の構造化を規定することを示したが、このような相互所有の自己関係における時間構造をまず確認しよう。

相互所有の時間ではニュートン的な決定論的一方通行にはならない。そこには結果たる身体によって原因たる精神が揺るがされるため、結果から原因、今から過去へむかう時の流れが構成される。

このような神話的時間意識は強迫神経症の幻想に取り憑かれた現代人には理解しがたいと思うので簡単に示すと、たとえば今まで自分は冷淡だと思っていた人が、溺れている人を見たら、体が勝手に反応して救助していたとする。

その人の意識にとって救助は思わぬ行為であり、自分のそのつどのあり方(行為)を冷酷なものとして定める自己存在の原因(冷酷)がこれにより揺らぐ。ここで偶発的なアクシデントとして生じた救助行為を自己の運命として引き受ければ、その人の過去である原因=冷酷な自己は刷新され、自分は人を助けるために存在すると規定される。

これで始点たる冷酷になるため生まれてきたという自己の原因(運命)は、人助けへの覚醒のため生まれたという意味を遡行的に付与されることとなる。

このように、そのつどの自己を規定する自己の起源(過去)は今において書き換えられるわけだ。
ここでもし人助けの行為を引き受けず自己と認めない場合、この行為は偶然にすぎない単なるハプニングとしてかたづけられるだろう。

(※諸説あるが量子力学の量子消しゴムにおける、過去の今による改変という有力な仮説は、相互所有の時間性に対応させることができる)

以上から大地と身体との「あいだ」にある共通感覚から生じる身体の思わぬ行為は、精神自己の予期や意図を超えているという意味で〈他性〉を帯びた行為だと分かる。

このような予期せぬ偶発性の行為を引き受けて自己とする自己同一性(双方向的時間)は、自己の内に他者性(偶然性)をもつ。

ここで他者性としての偶然性を、時間という観点で捉えるため、改めてニュートン時間を考えよう。
まずニュートンの運動方程式が決定論として時間を確定することは周知だろう。

したがって因果関係、絶対的原因によって決定されるニュートン時間は決定論であり偶然性を認めない時間だと分かる。

ゆえにニュートン時間とはそのつどの共通感覚おける行為的知覚の〈他性〉、すなわち予期せぬ偶然性である思わぬ行為を認めず排除・抑圧する。

このつどの行為における〈他性・偶発性〉の認めなさは、身体の思わぬ行為の否定として身体の一方的支配を生じると考えられる。
ちなみに双方向の東洋的時間意識をラカン派はヒステリー者、女の式にみる。ユング派は非常に時間の双方向性と今を重視するためラカン派的には女の式に属する。


それでは現代建築を見てみよう。

科学で舗装されたコンクリの道路は、均質に平らで、精神自己により予測可能、予定通りに歩行し思わぬ転倒もなく順当に目的地へと到達できる。

現代の建物も同じで人間工学がいきとどき、僅かな〈他性〉の出現も許さない。さらに冷暖房で温度や湿度まで管理され、汗などの身体からの精神自己の嫌がる反応をシャットアウト。

このような科学テクノロジーがいかに強迫神経症の幻想の実体化であるかは明白だ。

ゆえに僕たちは幻想が現実を覆い尽くした、夢の中に生きているもはやポストモダンにおいて夢(幻想)は覚めることのない現実へと実体化しているのだ。

あるいは、ポストモダンの夢とは夢それ自体が終わらないこと、覚めないことをひたすら夢見る無限の牢獄といってもいいだろう。
(※現代の幻想が幻想自身の終わらないこと、覚めない夢であることはシミュレーション仮説の隆盛と密接に関わる、またこの議論は竹田青嗣がいうポストモダン思想が存在論的差異を混同し全てを存在者へ還元したがる問題を抱えることとも通じる) 

科学社会による共通感覚の崩壊

さて、いよいよ発達障害の基礎障害として取り出した共通感覚の一方通行化、共通感覚の〈他性〉の排除と現代の科学文明社会との関係にせまろう。

といっても既にこれまでの説明から、この理屈は明らかだろう。

まずニュートン時間を構成する科学する自由な近代主体(強迫神経症)は自己こそが絶対的な自己の支配者であり自己意識には〈他性〉などないという幻想にふける。

この幻想は身体の所有を一方通行化する。そしてこの幻想を科学テクノロジーによって現実へと実体化。

その結果現代建築にあるように身体は共通感覚による〈他性〉を持つ行為的知覚やとっさの行為を産出しなくなり、一方通行の行為・知覚だけを産出する。

つねに計画通りであり科学的に管理された社会的な意図に即してのみ身体が反応し、共通感覚が作動するように、人と世界とのあいだが管理されている。

これによって、共通感覚から〈他性〉が消去され一方通行となる。このことは同時に発達障害の基礎障害である共通感覚の〈他性〉の排除、一方通行化と重なる。

ゆえに現代社会とは誰もが発達障害的な生に浸る幻想装置といえよう。さらにこのような発達障害へとむけた幻想の具現化は近代主体(強迫神経症)という構造それ自体のうちに内在するエラーバグ(破滅因子)でもあった。

もし幻想が具現すれば、逆説的にニュートン時間は解体し、強迫神経症は自壊、発達障害的な時間によって世界は覆われることとなる。
この時間の構造の変質は必然、科学の変質(エセ科学)へと直結するだろう。現代社会に跋扈するエセ科学的言説もこのためと考えられる。

ここでなぜ強迫神経症の幻想が実現すると強迫神経症が自滅するかを、今度はより具体的に確認しよう。

たとえば近代の自由を代表するものに、自由恋愛がある。
自由恋愛とは個人が自由に自分の結婚相手を決める自己決定の自由を意味し、結婚相手を家によって勝手に決められてしまう封建時代からの決別を意味する。

このような私が私を支配し自己決定する自由恋愛はいかに可能かを現象学で確認する。
すると恋に落ちるという言葉が示すように恋とは登るという主体的行為でなく落ちるという受動的な体験だと分かる。

つまり共通感覚による身体からの思わぬ行為的知覚を自己自身として引き受けることで恋愛が可能だと分かる。

この恋に落ちるという共通感覚の〈他性〉の引き受け、すなわち身体の側から精神自己が規定されてしまう体験なしに自由恋愛もへったくれもない。

ところがこの自由恋愛の底にあったはずの〈他性〉を、幻想はかき消してしまう。これによって私が自分の意志で恋人を選択した、これが自由恋愛だと錯覚される。
ユング派風に言えば、ここには受動と能動の実体化の問題がある。

つまり強迫神経症(近代主体)では、体験としては共通感覚の〈他性〉をしっかりと引き受けている。なのにその体験を振り返る「後の意識」においては私が選んだ、〈他性〉など最初から存在しないとなってしまう。

この体験事実と後の認識とのズレが問題であり、このような間違った後の認識こそが強迫神経症の幻想なのだ。

ここでもし幻想が実体化し現実の体験においても〈他性〉が消去されると、発達障害傾向となる。
体験の次元でも〈他性〉が失せれば、自由恋愛すらできなってしまう。これでは主体性は生じることができないのだ。
(※これは1つのわかりやすさ優先の例で当たり前だが発達障害が恋愛できないという意味ではない)

また共通感覚による行為的知覚の〈他性〉の消失は、引き受けなさを生じ、この引き受けなさは過去の意志決定の引き受けなさを生み出す。何も引き受けない選ぶだけの主体は過去の自己の決定を引き受けることも放棄してしまう。
(※ゆえにつど引き受けることはニュートン時間をその否定において肯定しうる)

そのためニュートン時間にあった連続性と一貫性は解体し、消費社会お得意の今だけの刹那主義が横行する。

ちなみに強迫神経症の幻想は、西洋文法、たとえば英語では主語(I)が省略不能でかならず文頭にくることに対応する。

つまり主語(I)に先行していたはずの〈他性〉が英文法では消去され、(I)は遡行的に全てに先行し絶対原因(神)の位置である文頭に固定される。この意味で英語は非常に外傷的言語である。

したがって科学の幻想は近代英文法の言語体系にも具現される。この意味において僕は西洋言語を強迫神経症の幻想(男の式)と呼ぶ。

ここで重要なのは強迫神経症という科学的主体の持つ、時間構造はそれ自体にエラーバグ(破滅因子)を内在し、そのエラーによって発達障害傾向が必然的に激増しているということ。

そのため一般に対極的な印象のある強迫神経症と発達障害とは、ひとつながりの存在でもある言い換えれば、近代の自由はその構造自体のうちに自由自身を自壊させてしまうバグがあったということ。

このバグが人類史を規定し人類滅亡を生じる可能性があるということだ。

最後に現代建築と英文法における幻想の違いをまとめると、英文法は幻想により共通感覚の〈他性〉を抑圧するが、現代建築(テクノロジー)は幻想そのものを外界に具現するため、共通感覚における〈他性〉を根本的に排除してしまう。

破滅シナリオ

①近代国家の解体、民主主義の終わり

まずもって懸念される問題が近代民主主義の崩壊である。このことは民主主義国家の崩壊にも直結する。

そもそも民主主義とは国民が国民を自己統治するモデルであり、これは自己が自己自身の職業などを決定する近代主体において可能となった歴史がある。

つまり、王様が国民を統治していた封建主義からの脱却は、王様(権威)に自分のあり方の決定を委ねるのでなく、自己決定できる主体への移行を生じる。

しかし自己決定が成立するには、自由恋愛の例でも示したように、自己の内なる〈他性〉を引き受けねばならない。

たとえば、ダイエットを考えよう。一ヶ月で5キロ痩せるためには最初に決めた5キロ痩せるという目標を一ヶ月先の自分が引き受けていないとならない。

でなければ、途中で面倒になって目標を達成できないだろう。
繰り返しになるが、現代社会とはひとえに引き受けなさを含んでいる。自己の始点となる〈他性〉を引き受けず排除すれば、人は自らのルーツを喪失し今その瞬間の快楽にふける。

こうしてニュートン的な一貫性を持った時間と自己同一性は解体し、刹那主義的な今の連続にまで寸断される。

ここで現代の引き受けなさを今一度、具体的に確認しよう。今日ではあらゆることが自己決定され自己の起源(時間の始点)から〈他性〉が喪失している。
たとえば性的属性も自己決定がなされるし、グローバリゼーションでは国籍も変更が安易となる、またHSP何とか型などというように選択肢を無限に増やすこともできる。

もちろん国籍変更のハードル低下や性的属性の多様化それ自体は素晴らしい側面も多くこれ自体は何も悪いとは言い切れない。ぼくも願わくば日本人を辞めたいとさえ思っているくらいだ。

しかし、あらゆる自己存在を代理する社会的象徴(LGBTや職業など)が無限に選択可能となり、本当の自分との差異を含まないかのような幻想を生じていることは問題となる。

強迫神経症の幻想の項で説明した通り、自己の起源から〈他性〉を排除し、自己自身が自己のルーツ(時間の始点)を決定すると、そのルーツはルーツとして機能しなくなる。

つまり、「私は日本人だ!」という自己のルーツ、アイデンティティを自己自身で決定してしまうと、自己のルーツを決定した自己自身は、そのルーツに先行して存在することになる。

するとルーツ(絶対原因)に先立つ、透明の何者でもない自分がルーツの原因として生じてしまいルーツは根無し草に帰すこととなる。

この理論的帰結は、自己の一貫性(自己同一性)の核となる起源の消滅を生じ、時間がバラバラの今の束へと還元されることを示す。このような寸断された時間意識のモデルとしては漫画「チェンソーマン」の主人公デンジがあげれるだろう。
(※ラカン派の寸断された身体を時間の寸断への不安と考えても面白いかもしれない)

デンジは現代人のメタファーでありこのようなキャラクターの登場する文学を深層心理学の世界では、ポストモダン文学という。

もはや、寸断された時間の主体が近代国家における民主主義の担い手たる国民たりえないことは説明する必要もないだろう。自己統治が全く成り立たなくなるということである。

また近代主体が解体すると近代が誇る人権も変質すると考えられる、人権の構造については以下の記事が参考になる。

②全体主義とレイシズムの蔓延

具体的にいえば、スモールユニットに分裂した全体主義の乱立なども懸念される。

ネオリベ資本主義の言葉の項で解説した従業員と上司の例からも分かるように、現代人は主体性を喪失し、マニュアルなどの命令へと帰依する。

これは親の言いなりとなる子どもそのものであり、この場合、親と子どもの内面は融合ないしは、子どもの内面が親の内面に呑み込まれ一体化しているとえる。

したがって現代では個々人が思い込むマニュアルやルールの主体(神)と一体化し、自らが世界のルールの主体(神)として、自分と異なる価値観の人間をリンチしてゆく可能性もある。

いずれにせよ、言表内容と言表行為のズレがない社会とはナチス的な全体主義に近い。

また、近代的な主体(欲望)が消滅し、共通感覚が一方通行化した世界では近代に確立された諸概念が崩壊を開始することになる。

③空想化するファクト主義

ここでは昨今流行のファクト主義の自壊の構造を確認しファクト主義(客観主義)そのものが逆説的に空想的フェイクを増殖するメカニズムを確認し、人類の終焉の可能性を垣間見よう。

ファクト主義では統計的事実や科学的事実のもとに人種差別や選民思想の流布も止まらない。有名なインフルエンサーが間違ったエビデンスを元にレイシズム思想をまき散らすことも今日では日常の光景であろう。

ファクト主義には真実に到達できるという前提がある。またこれは科学的なデータこそが事実だという信仰において成り立つ。

ここで信仰といったのは統計を短絡的に誤読して間違った内容を事実と叫び世間にまき散らすアレな人があまりに多いからである。

まずアンナフロイトにおける現実吟味の理論を参照する。現実吟味とは内的空想と外的現実を識別する能力のこと。
(※現実吟味の現実とはラカンの現実界ではなく象徴界のリアリティーに属するはず)

アンナフロイトによると子どもはしばしば嘘で自尊心を満たす、そして児童空想によって現実の無力感を打ち消すという。
また、このような防衛の仕方は現実吟味が弱いために生じるという。

つまり現実と空想を区別できる大人は嘘をついて自分を大きく見せてもむなしくなったり恥ずかしくなるだけということ。

ここで面白いのが児童空想では受動と能動が逆転させられること。アンナによれば、鬼ごっこなどの児童空想的防衛では、自分を責める対象である鬼(超自我、父)に同一化することで防衛がなされるという。
(※受動と能動の反転は快感原則の彼岸におけるフロイトの孫の糸巻きのフォルトダー遊びが有名で、ゲーム『スカーレットネクサス』でも母との隠れん坊シーンで登場し『デスストランディング』では論文そのものが登場する)

ところで、ぼくが考えるに現実吟味とは優れて身体的である。というのも、身体とは外界との接面をなすからだ。そもそも五感とは全て外界の事物を感知するセンサーと考えられるだろう。

つまり、現実吟味とは身体からの感覚与件をどのように処理するかにかかっているといえる。

よって対象から身体へと五感を通じて伝えられる視覚や触覚などの身体感覚を引き受けず、空想における知覚を外的対象に押しつける人は児童空想的で現実吟味が弱いといえるだろう。

すると、既に解説した現代建築と身体の議論に接続できる。つまり身体からの予期せぬ反応=〈他性〉を引き受けない現代人は、現実吟味が低下すると考えられるのだ。

つねに精神自己の予想通りに外界があり、その内的空想を裏切らない、となれば、主観と客観、空想と現実の区別は曖昧となるのは道理だろう。むしろ現実を示す感覚与件(身体)は主観に迎合させられよう。

もとより現代建築空間とは幻想(空想)の実体化(現実化)であったことを思い出そう。

このことを先ほど紹介したアンナフロイトの児童空想(超自我への同一化)の議論と照応させると何がいえるだろうか。

その答えは、現実吟味が弱いから超自我(鬼、攻撃者、法の主体)への同一化で防衛するのではなく、超自我へと同一化しているから現実吟味が弱いということ。

ところで言表内容(マニュアル)と言表行為(マニュアル意図、超自我、行間)が一致する世界では、言表内容(マニュアル)にはなんの欠如もない。つまり現代のマニュアル(言葉)には従業員が対応に困るような曖昧さ(欠如、欠陥)が存在しない。

このことは、マニュアルと同化する自己が全知的となることに通じる。マニュアルの完全性はそのまま自己の認識(主観)の客観への到達を示す。
(※ここでの客観とは象徴界であり象徴界の主体の欠如の消失を客観の到達とする)

しかし、デカルトの懐疑主義にもあるように、近代主体にとって客観は到達できない

したがって客観(象徴界)は主体とって欠如したものである。むしろこの客観からの自己主観の欠如によって主客未分の曖昧な認識世界を脱皮し、主客が整然と分離した客観科学の認識が可能となる。

つまり欠如とは主観と客観のズレのことだから、これがないと主観と客観が一致して、空想と現実の区別がつかなくなる。

そしてアンナフロイトがいう超自我(攻撃者)とはラカン的には、世界の法(正義、価値観、客観)の主体(神)と解釈できる。

現代社会(強迫神経症の幻想)を支えるものは、テクノロジーであり科学や統計といったデータに過ぎない。このデータ(ファクト)は欠如を持たぬ故に僕たちは客観へと到達してしまうのだ。

するとデータに基づき、人種差別のレイシズムやポリコレ棒による言葉の暴力が生じることになる。

つまり僕たちの客観認識を支える現代社会とは法(統計含む)や合理主義などの価値観によって支えられる。このとき僕たちを隷属させる法の主体(神の主観)を現実的超自我という。

現代では法の言表内容と言表行為(超自我)はズレがない、そのため言表内容を通して超自我へと個々の主観が到達可能となる。

このことでファクト主義が含意する「現実へと到達せよ」という命令が生じ、この命令こそが僕たちを超自我(攻撃者)へと同一化させる。

客観事実に基づく批判というのは、まさに客観的な主体へと同化し神と化した傲慢な人類の最終形態といえるだろう。

以上から言えるのは、データに基づくことは大事だが、そもそも客観へ到達可能というファクト主義の発想はかえって、現実吟味を破綻させ、空想と現実の混淆を招くこと。

ファクト主義が原理的に内在するこの構造を見逃せば人類はいよいよ終わりであろう。

以上の説明では、読者は、なぜ現実吟味が超自我(攻撃者)と関わるのかこの説明では分かりにくく感じたかもしれない。

なので現実吟味と攻撃性についてラカンの想像的関係のモデルで補足する。

まず主観が絶対的な客観と一致してしまうと、俺様の考え=ファクト、というとんでもないことになる。こうなると、自分の考えと異なる価値観は全てフェイク認定される。

唯一無二の客観的事実と化す主観的な価値観は、それと異なるあらゆる価値観(主観)と競合する
これをラカンは想像的関係とよぶ。
つまり想像的関係とは、自己に向かうべき否定(去勢)が、他者へと向き変えられてしまうことでおきる。

つまり自分の主観は客観的真理ではない、という象徴的な法による自己否定(去勢)が逃避され、その否定が異なる価値観の他者へと向き変えられることで、想像的関係となってしまう。

よってラカンの想像的関係はアンナフロイトがいう児童空想、攻撃者への同一化が含む受動と能動の反転に綺麗に対応する。

ラカンはアンナフロイトを軽視していたが、僕の考えだと、ラカンの想像的関係やいくつかのポイントを理解する上で彼女の攻撃者への同一化(児童空想)と現実吟味との相関理論は重要で意義深い。

想像的な関係による我が国の一億総超自我化(正義マン化)は極めて危険だと思う。
また昨今のインフルエンサーの言葉を聞いているとあまりに想像的で困惑させられる、もはや完全に現代社会はカオスだろう。

空想化するファクト同士が分断を招く日も近いかもしれない。

次はハラリのホモデウス論を心理学的に分析し現代の神話が告げる未来の可能性を確認しよう。

④ホモデウスという神話

ここでは現代を代表する歴史神話(思想)、ハラリのホモデウス論を確認し、その構造とこれまでに取り出した主体のバグとの関連を明らかにすることで人類終焉のディストピアの内実を予想しよう。

ホモデウスとは『ホモサピエンス全史』でおなじみ、歴史学者ハラリによる人類の未来予測である。いわゆる現代版予言の書のようなものと思うと分かりやすいだろう。

ホモデウス論によると人類はテクノロジーに適応したホモデウスとよばれる神化した人間と、奴隷の2つの階級にわかれるという。

そしてハラリによるとホモデウスは不老不死となるらしい。

なんとも荒唐無稽な話なのだが、これをひとつのアレゴリーとして心理学的に読解するととてもリアリティがある。

まずホモデウスがいう不老不死とは心理学的には近代主体の消滅と読解できる。
このことを理解するには、そもそも個人の死という概念がどのように可能となるか現象学で確認しよう。

まず太古の時代では個人の死という観念は希薄だった。というのも共同体と切り離された個という内面がまだ確立されていないため。

つまり他の誰でもない自己の死という観念が生じるためには、自己の主観が他者の主観から分離されねばならない。

ここで空気の読めなさと視線触発φの項の話を思い出してもらいたい。
共通感覚としての視線触発φとは他者の主観との一致による自己主観の他者(親)からの分離のことだった。

このような視線触発φの体験によって親から分離した自己主体が誕生するわけだが、ここには個別化原理としての個の死の契機が含まれる。

視線触発φの体験は共通感覚による行為的知覚の〈他性〉であり、この〈他性〉による断絶とその引き受けが主体を生起する。

つまり、〈他性〉の引き受けによる断絶は新たな自己のルーツとなる時間の始点に相当する。この始点は〈他性〉を持つゆえに自己言及による原因の無限後退を回避することができる。
つまり〈他性〉の引き受けによって自己選択によるルーツの底抜けは避けられる。

以上が意味するのは、自己の連続性を断絶しそれまでの自分を否定する死の原理である共通感覚の〈他性〉こそが視線触発φであり、
ゆえに視線触発φは他者から分離した個としての内面を可能とし、そのことで、他の誰でもない自己の死という観念が生じること。

よって個人の死(断絶)こそが個の生をなし、ゆえに個としての主体は死の不安にさいなまれるわけだ。いわば共通感覚が持つ〈他性〉は断絶でありその意味で個としての死を構成する。

つまり個人の身体的な死が永遠の主体の終わりとして、個人の死の観念を生じる条件は、共通感覚が持つ〈他性〉の引き受けが生じる死即生によってなのだ。

このことは身体自己によって精神自己が限定・震撼されることとして理解できるだろう。死とはこの意味で身体的なのだ。

現代人が唯物論でありながら、意識の身体からの解放としてマインドアップローディングを夢想することも、身体所有の一方通行化、精神自己の優位性でうまく説明できる。

(※他者の気分や感情は直接伝播するが、言語的思考は共通感覚によっては伝達されない、したがって真に自他を分けるのは三人称性の言語といえる)

かくして強迫神経症の幻想を生き現代建築に包囲された現代人の〈他性〉なき身体においては主体の死=〈他性〉は永遠に遅延されることになる。

以上からホモデウスが不老不死を説くのは、主体から消失した心理学的死の実体化にあると分かる。心理学的次元においては既に不老不死に近い現代人が不老不死を幻想するのは必然なのだ。

幻想と現実が一致させられる現代社会において、心理学的不死と身体物質的不死の一致は急務。ハラリが見逃しているの現代における心理学的次元に属する幻想(空想)と現実との未分関係である。

太古の世界で心理的現実としての神話が、世界の客観的歴史と混同されていたことを思い出そう。ハラリのホモデウスはそれと何も変わらない。だからホモデウスは神話なのだ。

太古の時代、歴史は神話と同一であったように現代では神話は歴史と同一なのだ。

いずれにせよ、僕たちの社会(幻想)は終わり(死)を望まない。たとえば消費社会では限界も終わりもない消費だけが続く。

また映画のシネマティックユニバースでは、まるで限界がなく他作品の自我(ヒーロー)が入り込み、スパイダーマンの内界とアイアンマンの内界が融合するのも当たり前となっている。

僕たちは夢が覚めないことを夢見ているのだ。夢の外部にある現実を消し去り永遠の夢を生きる。それが現代的主体の最終形態。コスプレやゲームの実写化も幻想の実体化という幻想による。

つぎにホモデウスが予言する人類の奴隷と神の二層化を心理学的に分析しよう。

するとホモデウスにおける奴隷は身体の象徴と解釈できる。身体が精神自己を震撼させることを現代建築が去勢することは前述したが、このことは、身体が精神自己によって一方的に奴隷のように従わせられることを示す。

神(ホモデウス)とは勝ち組の精神自己の表象で、奴隷とはその身体自己の表象とも解釈できよう。

ここで自由意志において、自由とは葛藤、迷うことにおいてあることを思い出そうとすれば奴隷をコントロールし奴隷が苦悩するさまがホモデウスに自由の気持ちよさをもたらすとして不思議はない。

つまり、精神自己が自己身体との葛藤関係を構築できない幻想社会においては、自由意志を内的に完結させることができず、そのため、自由を外的対象の奴隷と自己との間の主従関係によって享楽する、ということ。自分の代わりに奴隷に苦痛と服従という葛藤を与え、そこに自己の自由を享楽するわけだ。

したがってホモデウスの奴隷と神の階層化とは現代人の身体自己と精神自己との自己関係の延長にあるものだと解釈できる。
(※自己関係で完結する自由意志は受動と能動の弁証法で成り立つが、受動と能動を実体化させ分離する幻想は絶対的能動者としての神の実体化=ホモデウスを生み出す)

僕には現代のインフルエンサーを観察していていくつか気になることがある。そのうちの1つは、彼らは自分の豊かさそのものには興味がなく他人より豊かであることが大事らしいということ。

たとえば某作家は、よく分からない条件付けをし、自分が日本一の作家!という論旨のツイートをしたりする。もっとも彼は近代主体なのだが、それでも多く売れることより他の誰よりも自分が一番ということが重要らしい。

また某自称国際何とか学者?などは、勝ち組アピールの投稿をSNSで必死に連投していたことが知られる。贅沢そのものより他の人より贅沢が重要らしい。

だからホモデウスなる古代妄想がなまじに実現したあかつきには、彼ら誇大妄想狂は、奴隷をつくっていたぶる可能性もある、と考えられるかもしれない。

発達障害は救世主か破滅の使者か

これまでの内容をみるといかにも発達障害を良くないものに感じてしまう人がいるかもしれないがそうではない。

発達障害そのものは主体の1つの様態であり、そこに善悪はない。また現代の発達障害傾向とはあくまで近代主体それ自体の時間構造の内に最初から内在していたものでもある。

したがってここに論じてきたのは、近代主体が良いとかポストモダン主体(発達障害)がダメとかいう単純な問題ではない。

ここで問題としているのは、全人類が全て発達障害傾向になってしまうこと。こうなると人類は消滅するリスクが出てくるかもしれないこと。

つまり理想的な多様性社会とは、発達障害もいれば強迫神経症も、ヒステリーも倒錯も精神病もいる多様な世界と考えられる。

当たり前だがバランスが大事、どんな栄養素も取り過ぎれば毒となる。

しかし発達障害傾向(非定型発達スペクトラム含む)の激増が破滅の前触れとすれば、その存在は破滅をつげる使者なのだろうか。

じつは一概にはいえない、確かに破滅の宣告者としての一面はあるかもしれないが、発達障害には救世主としての一面もありうる。

というのも発達障害のあり方としてラカン派が取り出す「縁の上の享楽の回帰」における依存症的な享楽のモードは現代社会を克服する理論となるサントームによる症状への同一化と密接に関わるからだ。

サントームによる現代社会の克服については、以下のリンクの記事に詳しく述べている。

終わりに

消費社会と人間主体の終わりについて興味がある人は以下の記事がかなりオススメ

現代社会論となれば、現象学的なメランコリー論から考察したり、松本卓也の現勢神経症における欲動の処理不全仮説、河合俊雄のポストモダン論にも踏み込むべきという人がいるかもしれないが、あまりに情報量が多くなるので、今回はほぼ完全に僕個人の独自論考が中心となった。

またいつも通り無計画にアドリブで記事を書いたのだが、いつもより本格的な内容のため構成にアラが多く似たような解説が重複し、冗長で小難しくなってしまったきらいがある。

そんなわけで今回は構成や解説のアラは多いものの、ここに展開した理論には一定の自信がある。そのため価値ある公共的な内容になっていると思う。すくなくとも無料で閲覧可能な現代社会論でこれ以上のものはまずこの世にないだろうという自信はある。

今回の記事は全体的に、精神分析の弱点である身体の軽視を克服し、京都学派の木村敏のパースペクティブを軸にラカンのモデルを援用したような内容になっている。一見してラカンのモデルが多用されラカンチックに見えるかもしれないが、視点の置き方は京都学派現象学であり、ラカン式の構造主義とは根本的に異なる。

この記事で示した時間と身体所有との関連は、自分としてはなかなか面白い発見と思う。

またオリジナルの学説をふんだんに盛り込んだこの記事の信憑性に疑問をお持ちの方もいるだろう。
というわけで最後にこの記事の参考文献を紹介する。

ところで、ぼくが趣味で構想する時間心理学理論では、この記事で言うところの共通感覚の一方通行化(メタノエシスの〈他性〉の排除)が、死後世界として措定可能な脳間ネットワーク(メタノエシス)の終焉に結びつく可能性も考えたりしている。

死後の世界についての記事が思いのほか人気なので、気が向いたら、人類の主体の崩壊が死後世界の終わりと関連することを、新たに記事にするかもしれない。

余談だが、最近は、死の構造としてメタ論理学の式0=1=∞を取り出し、この式の0=1、1=∞、∞=0を実存、時間、空間と対応させたモデルなどを創ったりしている。これはもちろんラカンのボロメオの環に対抗して遊びで創ったペダンチックなモデルである。

おそらくだが僕たちが神と呼んできたものの具象性を払い心理学的還元を行うと、神は0=1=∞という心理学的コードに還元できる。こうした内容も気が向いたらいずれ記事にするかもしれない。

参考文献

晃洋書房 上尾・牧瀬 編
『発達障害の時代とラカン派精神分析ー〈開かれ〉としての自閉をめぐってー』

創元社 河合俊雄 編
『発達障害への心理療法的アプローチ』

創元社 河合・田中 編
『大人の発達障害の見立てと心理療法』

創元社 河合・田中 編
『発達の非定型化と心理療法』

ちくま学芸文庫 木村敏
『あいだ』

ちくま学芸文庫 木村敏
『分裂病と他者』

誠信書房 ブルースフィンク
『ラカン派精神分析入門 理論と技法』

誠信書房 A・フロイト
『自我と防衛』

日本評論社 田中康裕
『魂のロジック ユング心理学の神経症とその概念構成をめぐって』

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