※この記事は葬送のフリーレンのネタバレと解釈を含みます
うたまるです。
最近、記事の内容が個人的趣味に走りすぎて難化し、子どもが読めない記事ばかりになった気がするので、初心に帰り比較的平易な記事にしたい。
今回は、いつもほどの詳細な作品解説はしない。
ところで葬送のフリーレンの考察を終えて、漫画家の山田のフリーレン評が炎上してるのを目撃した。
※僕は作品考察は自力でやりたいので自分の考察が終るまで他人の考察は見ない
彼はYouTubeで紋切り型のテレビ批判を擦りまくるという典型的なアレ(百田尚樹スキーム)をやって露骨に数字稼ぎする古いタイプの大衆漫画家のようなので、そういう人柄がよく出ているなと思った。
イマドキの言論人はこういうのがいいのだろう。僕には真似が出来ない。なんというか芸人でないと言論人にはなれないようだ。岡田斗司夫とかもどこが賢いのかさっぱり。
倍速視聴文化とゲームとタイパ
この項では作品に触れる前に、葬送のフリーレンの今日的意義と流行の理由を解釈するにおいて欠かせない現代社会の背景を倍速視聴文化の分析から確認したい。
さて、先だって、ぽこ堂に訪れ、なぜ現代人は動画を倍速主張するのかについてを話した。
その結果、どうやら映画やアニメなどの娯楽は倍速では視聴しない場合が多く、解説などの動画は倍速視聴が定番らしいと分かった。
つまり、合理的な視聴目的を持って視聴するコンテンツ(プラクシス)では、その目的達成を効率化するためにしばしば倍速(手段の効率化)が利用されるが、娯楽などの視聴そのものに明確な合理的理由・目的が存在しない行為(プラチック)では効率化が意味をなさない(効率化余地がない)ので倍速視聴されなくなるようだ。
たしかに映画などの娯楽に効率やタイパを言い出したら、そもそも観ない方がよかろう。
映画を観たりゲームをするのに、合理的な目的などありはしないわけだから非合理を切り捨てるのであればそもそも見ないという判断になる。
さらに論じていると面白い意見がでた。
ぽこ堂にいた人によると任天堂の社長が「スリープモードを実装したのは、ゲームは目的的なコンテンツ(プラクシス)でなく、無目的な日々の行為(プラチック)の一部であり、心を少し豊かにするものだ(僕による意訳)」的なことを言っていたらしい。おそらく目的意識でもってゲームを立ち上げるプロセスは、無目的でプラチックな遊びの本質からズレるという論旨だろう。
このとき、その場の一人はこの社長の言説を目的的経営実践(プラクシス)の視点から読解・誤読し、限られた消費者の娯楽への時間をネトフリやYouTubeらと競いあうゼロサムゲームにあって、ゲームを日常生活に組み込み依存症的な快楽を実現して、市場競争のパイの奪い合いを制する戦略を示すものとした。
しかし、任天堂の社長が言わんとするのはそうでなく、ゲーム・娯楽・遊び、というものが本質的に無目的(合理性の外側)であり、その無目的性、無意味性、実際行為性(プラチック)において、人々の心を豊かにしうることにあると思う。
娯楽が日常の経済合理性・合理的意味の縛りの範囲外の価値を持つこと、それゆえに娯楽たりえて心を豊かにしえることを示唆する言明ではなかろうか。
このとき、重要なのは、プラチックな遊びの本質論としての言明さえもが、プラクシス・目的的な経済合理性によって解釈されてしまう事実。
この事実こそ、現代における目的至上主義、経済合理性至上主義を象徴しているのではないだろうか。
つまり目的主義の氾濫を内省する言説(倍速視聴文化への疑義提出)それ自体が目的主義の論理の内にあること、この構造のために問題の本質が隠されてしまう点をここでは指摘している。
※社会的な問題対象とその問題を論じる主体とは非分離にある
さて、さっこんは娯楽も目的的コミュニケーションのための道具へと貶められ、結果、友人グループとの会話・承認についてゆくため倍速でドラマやアニメを視聴し、内容を効率的に把捉することがあるようだ。
日々の人々との交友や娯楽と言ったなにげない日常の無目的な実際行為(プラチック)さえもが、経済合理性たる目的性に還元され経済プラクシス化してゆく。ここに目的性の暴力を見て取ることもできよう。
※読んだことはないが國分功一郎の目的への抵抗というパンチラインもこうした現代社会に対する問題提起ではなかろうか、もっとも僕には彼は凄く目的的な人間にしか見えないのだが
※僕にとっては学問の本質も遊びプラチックにある、ゲームの面白さと学問の面白さは似ている
さて、ここまでの感想は、誰でも抱くものだろう。以上の感想を踏まえ、もう少し、記事にする価値のある考察をしてみよう。
※ぽこ堂の議論では映画の芝居の間や抑揚といった活字でいう行間の読み取りの問題も出たが、そこではあまりにお馴染みの演出家の意図は正確に伝わるのかといったことが問われていた。この問題は現象学によって答えが出ているので割愛する
僕が興味深く思ったのはゲーム・遊びの本質をプラクシスから分離してプラチックに見てとる任天堂社長の洞察・欲望。
ゲームは確かに経済合理性を超えた娯楽であるが、しかし、ゲームというのは何らかのミッション・目的・物語的使命が提示され、そのミッションをクリアするために知恵を絞り技を磨くものが多い。
もっとも寄り道したり散策したりといったプラチックをゲーム内でするところにも楽しさがあるのだが、しかしプレーでは合理的な目的の達成が使命として与えられ、それを実現するプロセスが演じられる傾向にある。
ロールプレイングゲームはしばしばこのようになっている。
つまり遊びという無目的なプラチックの中に実存目的的プラクシスが入り込んでいる。
この構造が興味深いのだ。プラクシスならぬプラチックに遊びの本分があるとすると、いったいこれはどういうことだろうか。
この記事ではこの理由を探りたい。
さて、映画やゲームで主人公が与えられる目的は、実存的なものが多い。実存とは内発的に獲得される自らの生きる固有の意味という程度のニュアンスで、経済合理性を超えた自己目的や生きる意味、崇高な使命感などを示す。
議論の根幹に関わるので、ハイデガーの観点でさらに実存について解説しておく。
自分が何者であるか(実存)とは、世界の諸事物をどのように見なすか、世界・社会をどのように捉えるかにかかっている。
このことは自己紹介を考えると分かりやすい。自己紹介とは自己の紹介とは言っても畢竟、自分の好きな物であったり、自分の熱中する物事についての語りであって、それゆえ自分と世界・対象との固有の関係性の紹介に過ぎない。自己=関係。
※自己にとっての対象の固有の実存的意味を道具と呼ぶ、つまり目の前の客観的意味対象の椅子は、火災で部屋から脱出するときには窓ガラスをぶち破るハンマーという道具として対象化されるがこの場合、ハンマーという道具的意味こそが実存に対応する。このとき窓ガラスを割るという自己目的が実存性を帯びる
たとえばアニメオタクの自己紹介なら自分にとって、あるアニメがいかに自己において感動的で特別なものかを、そのアニメの魅力として語るだろう。
ここではあるアニメをどのように見なすか、意味づけるかが、その人間に固有の意味=実存を形成するというわけだ。
したがって物(存在者)をいかに意味づけるかで実存が決まる。世界の諸事物と自己との固有の関係性における世界の主体的価値・意味付けを実存と呼ぶといってもよい。
※主体性・実存とは自己が率先してという次元と物より到来するという次元の止揚にある、対象と主体の非分離がある
次に、経済合理性が提供する経済的価値・意味について考えよう。
経済的意味とは、値札であり金額であって、市場価値といえる。このような価値はお金によって一義的に定量可能で、誰にとっても等しい数値化された客観的な価値・価格・意味を提示する。
すなわち、経済合理性のみにおいて諸事物を価値・意味づける行為は、固有の自己の実存的意味(主体的に見出された公的意味付け)の否定にも直結する。
ここでは私と物との関係が切断され、主体と客体が分離して、物の意味が客観化されてしまう。
※プラチックとプラクシスの分離が起きる、フーコーのいう欲望の主体化や自己放棄の自己技術はこれと関わるだろう
私にとっての意味ではなく、私という主観ぬきに対象が持つ客観的意味が生じるということ。ゆえに経済合理性における意味付けとは、客観的意味付けなのだ。
対象との間柄や関係性としての自己に固有の実存的意味が、経済合理性において客体的で一般的な意味へと変質する。
※言語もまた一般的・客体的意味の記号であるが、この一般的意味の記号を自身に固有の意を伝える道具として用いて、固有の文意(実存・関係)を伝達する行為が会話。このとき一般的意味(客観的意味)と固有の意味(実存的意味・道具的意味)とが言語の使用において同一するわけだが、この誤認を孕む両者の差異の同一を存在論的差異・欲望・フリュストラシオンと呼ぶ。言語的意味の存在論的差異の議論は竹田青嗣の著作が最も分かりやすく優れている。ここに紹介する言語の存在論的差異は非常に重要
現代社会が諸個人に与える意味は経済的意味であり、しかもその経済合理性は全てを覆い尽くすものであって、その外部・欠如がない。
つまり、昔なら経済的合理性に属する仕事の外部にはまったく合理性を伴わない釣りバカ日誌の釣りみたいな実存的ないしはプラチックな遊びがあったが、現代社会ではそうしたプライベートでプラチックな釣りすらYouTubeにアップして広告収入やサブスクでの収益を得る手段として経済目的化し、プラクシスな経済合理性の尺度のみによって価値付け・意味付けされるようになったのだ。
ゆえに最初は実存的意味・趣味であっても金に動機付け・餌付けされることで、いよいよ、再生数稼ぎのためのただの一般的意味へと頽落することとなり、人間の主体生は死滅した。
このようなあらゆる意味の客体化・貨幣価値化による実存・主体の消滅を迫る消費社会にあって、人々は経済合理性の尺度が迫る目的性・貨幣価値・一般意味に支配され、その結果、倍速文化やタイパ文化が隆盛したのだろう。つまり現代社会で消費の水準に呑み込まれつつある遊びプラチックにおける実存的意味(実存的プラクシス)は、経済合理性と消費の暴力・分離プラクシスによって危機に瀕している。
自己の趣味、仕事、友人関係といったあらゆる自己活動の実存的価値・意味ないしはプラチックな経済的無意味・経済的無価値としての非言語的意味・価値(S1)は貨幣化・定量化・客体化される消費社会の暴力性(S2)に晒されてその行き場を喪いつつある。
※S1とは山本哲士の優れた指摘によると意味するものでありS2は意味されたもの。僕なりにかみ砕けばS1とは言語化・言語的意味化を僕たちにせまる言語外・言語的意味外のモノ・衝動・症状、S2とは言語化によって既に記述され意味づけられた言語的意味・文章
かかる社会では個人の内発的意志・実存がまったく基礎づけられず、合理的意味化の暴力によって主体が圧殺されて実存の不安が立ちこめる。事実、現代人を覆う新型鬱の増加もこのような実存的意味と経済的意味化・価値化をめぐる社会のあり方に起因するという説が根強い。
※松本卓也は資本主義のディスクールをベースとした欲動の処理不全としての現実神経症の理論で要領よく新型鬱を分析している
このような昨今のSNS文化に起因する経済合理主義がもたらした実存の終わりと主体の死が、ドラマやアニメ、ゲームの世界(幻想・夢・物語)において、喪われたかつての実存的意味を幻想するのかもしれない。とすれば、もはや実存的意味・個別的意味の喪失を病む現代人の娯楽に実存的プラクシスな物語は必要不可欠であろう。
しかし、これら喪失したものの物語の消費さえも友人関係=経済関係のための手段として倍速視聴化してしまうところに現代の病巣の深さがある。
※近代以前、人は実存的意味と客観的意味の断絶に苦しむことなく、その一致を生きていた。つまり公的意味がそのまま実存的意味を満たし、公・客観と実存・主観とが過不足なく一致していた。しかし、近代においてこれが分離するにいたり、現代では客観の側に一方的に主観が呑み込まれつつある
書いてたら少し複雑になったので、いったんまとめよう。
つまり、かつて経済合理性と個人の実存とは分離しつつ共存しており、貨幣意味と実存意味の領域とは仕事(公)、趣味(プライベート、プラチック)という具合に相補的に通底・並列していたが、近年のSNSによる趣味の経済価値化は、この両者の差異を消失して、全てを貨幣的意味によって呑み込み実存を抹殺する事態を招いた。
このことにより、諸個人の実存的な主体性・実存プラクシスはその活路を社会的な意味・承認において実現する道を断たれ、その意味の喪失感から人々は娯楽・ゲーム・プラチックのなかにかつての実存・主体としての目的・意味を郷愁・幻想するのであろう。
※かつては仕事においても、金には還元されない公益を目指し社会貢献をなす実存プラクシス(物語の勇者が国を守るために戦うかのような実存)があり、このことは趣味・プライベート・プラチックと仕事・パブリックとの相補的分離に起因するがその原理はこの記事では割愛する
以上がプラチックの遊び・物語のなかに回帰してきた今はなき実存プラクシスなものの内実であろう。
※遊び幻想のなかのプラクシスはプラチックをプラクシスするという中動態的契機をなし、これが実存的プラクシスを支える本質構造をなす
さて、人は、喪われたり禁止されたものを幻想する。
死者の霊を見るように、あるいは喪われた始原に理想や夢の世界を思い描くように。
※古典主義者のノスタルジーはその典型であろう
また、未だ訪れぬという意味で現実には欠如した未来に理想社会(幻想)を期待するように。
しかし、物語(幻想)はどこまでも現実を生きる意志を支えるものでもあろう。もし物語が現実に消え去って既にない幻想を与えるだけのものであるなら、それは現実を生き抜く力を何もあたえはしない。そのような物語は現実逃避のための郷愁の牢獄に過ぎない。
物語・ゲームが経済プラクシスに支配された現代の現実にあって、プラチックな癒やしを生じ、現実の経済プラクシスを生き抜き、さらにはそれを変革しうる力を与えるとすれば、それはこののっぴきならない現実を象徴的に示し、主体の行方と可能性とを提示することにおいてだろう。
優れた歴史的名作がその時代精神を表象し、率先して一つの時代の主体の行く末と可能性とを基礎付けるのもこのためだ。
この観点から現代の娯楽を見ると、そこに気づきを得ることができる。
というわけで以上を踏まえてアニメ、葬送のフリーレンについて考えてみたい。
葬送のフリーレンと二つの喪失
葬送のフリーレンは、実存的目的(魔王討伐という仕事)を持った勇者のパーティーにいたフリーレンがその目的を達成して数十年後、実存的プラクシス・目的なき無意味・無目的の時代、すなわち経済的意味だけが支配する時代にそれでも主体的に生きる道を模索する物語ではなかろうか。
※ここでの無目的の時代とはいかなるプラチックもが経済的に無意味と唾棄され、その価値・意味を承認されないあり方をさす、本作でいえば花畑をつくる魔法は馬鹿げている!など
したがって本作は、現代を生きる僕たちが既に生きるための実存的意味・定型的目的(魔王討伐)を喪失し、経済的合理性の支配する無意味(合理的意味だけ)の時代にあって、その主体がいかに立ち上がるかを問う(S1が欲望する)のだ。
その意味で本作の葬送の主題は見逃せない。勇者ヒンメルは実存的主体として大きな物語とともに、その生を終えた。これは実存的意味を謳歌した近代人の終わりを示し、近代的物語(実存)の喪失にも対応する。
この喪失をして、喪われたヒンメルの意を欲望することで、つまりヒンメルならどう考えたかとヒンメルの欲望を欲望することでフリーレンは自己の主体を問い、欲望するようになる。
ここではヒンメルの喪失がヒンメルならどうしたか?という仕方でフリーレンに主体的に考え行為することを促す役割を果たしているのが分かる。
もしヒンメルがいたら、その答えがヒンメルによって与えられ、フリーレンはその答えを主体的に考えることをしなくなるだろう。
するとここでは社会的役割の見本であるヒンメルの不在とは自己の理想的な社会像の欠如であり、経済合理性によっては確定しえぬ、合理性の欠如を構成すると分かる。
もし経済合理性=社会合理性が完全なものであれば、答えは数学的に導かれ、そこに主体的思考の余地はない。
※フロイトの原父の死による超自我の内在化がヒンメルの死に対応する
したがって本作において喪われた実存的意味・近代的主体を郷愁・追憶・葬送することのうちに、この経済合理性の暴力にある現実において主体的・実存的に生きるための経済合理性の外部(プラチック)を基礎づけようという幻想のあり方を洞察できよう。ここには近代の埋葬において近代のごとき主体を欲望し、弁証法的にそれを獲得する構造を見て取れる。喪われて初めて獲得されうる近代ならざる近代があるということ。
喪失とは高次における喪われたものの獲得なのだ。ここに幻想の意義がある。
またラストにゼーリエからフリーレンが一級魔道士の試験を不合格にされるのも興味深い。
寿命を持たない永遠に近い時を生きるフリーレンは、目的も死もない乖離した現代人のメタファー。
つまり現実に何者かとして生きるとは一つの断念であり象徴的死を示す。何者かになるとは、他の何者かである可能性の拒絶なしに成立しないからだ。
※この断念が線形時間と主語を構成し、現実原則を機能させ夢と現実との識別を実現する
フリーレンは彼岸の存在であり社会・常世・此岸の者ではない。したがって彼女が社会的肩書き(社会的居場所)を得るための試験に落とされることは、彼岸と此岸、幻想と現実との境界を立てることに相当する。
※日本神話における千引石に近い
よって作中に、その訪れを示唆される来るべき人間(フェルン)の時代とは有限たる目的を持つ実存的意味を実現した時代の到来を象徴するだろう。
このとき有限の人間(フェルン)が象徴するのは終わりある目的・終わりあるプラクシス・実存的意味といってよい。
※終わりなき目的=経済意味プラクシス・分離プラクシス、終わりある目的=実存意味プラクシス・非分離プラクシス、ハイデガーの死の先駆=有限たる実存
もとより経済的合理性の暴力は、そこに内発的で自発的な主体の自由な意味付けを一切認めぬ、有無をいわさぬ合理的判断、コスパ的判断の苛烈にあったが、このような苛烈さは、その目的の終わりなさに対応する。
というのも現代の消費社会において、大衆は、金で金を欲望することを強要され、いくら儲けても決して満足することなく終らない金儲けの欲望に支配されるからだ。
事実、何千億稼いで独り占めしてもまだ儲けたりないといってはばからないインフルエンサーも珍しくない。
また消費社会の消費の欲望にも終わりはない。たとえばYouTubeは終わりなき今だけの物語・動画を永遠に生産し、視聴することを人々に促し、ひたすら依存症的にそれを消費し続ける欲望を惹起する。
終わりも限界もない規範はその外部を持たず、消費の無限の反復にあっては人は決して、そのような経済合理性そのものを疑いえないのだ。
かくしてフェルン(有限の人間)の成長は、生に終りある目的を見出す実存の始まりを予感させる。
さて、ここでフェルンの終わりある実存は何を核とするかが肝要だ。
アニメの最終話で彼女はゼーリエから一級魔道士という社会的肩書きを手にし、その褒美に服を綺麗に洗濯する魔法(無意味な魔法)を伝授してもらう。
※試験の幻想は新宮一茂によるとラカン派では、主体化、社会化、人間化のメタファーと解釈され、そのモデルをスフィンクスのナゾナゾ試験に人間と答えるオイディプスにみる
フェルンのまったく経済的に価値のない無意味な要求に困惑するゼーリエ(彼岸の父、母なる大他者、プエルエテルヌス化した経済審級の主体)であったが、この無意味こそがプラチック・実際行為に相当し、娯楽や遊び、物語の核をなすものである。明確な合理的目的性、主語的な目的意識の外部にある日常の実際行為、ナンセンスとして唾棄されるようなものが、フェルンの実存の核・S1なのである。
※ゼーリエはユング派では母なる女性と少年とが融合した母子一体の永遠の少年元型と見なす。ゼーリエに関してはユング派の永遠の少年元型の議論を絡めるとここでのラカン的議論と整合性がとれるのだが、尺の都合で割愛する。この観点で考えると進撃の巨人やデスノート、コードギアスの流行からゼーリエをミレニアル世代の表象としZ世代をフリーレン、来るべき人間の世代をフェルンと見ることもできる
それはもっとも固有なる主体の無意味(S1)といってよく、そのような実際行為・プラチック・S1を引き受け、社会的に意味づけること(S2)でこそ実存プラクシスを立ち上げることができるのだ。
それゆえこのシーンには、もう一つの喪失の主題がある。
ゼーリエは社会的肩書きであり意味を諸個人に付与する大文字の他者であり社会的意味の根拠にある。この点でヒンメルにも近い存在だが、しかし彼女は非合理性を嫌い認めようとしない。
※ラカン派的にいえばゼーリエはヒンメルという父性なき現代の母なる大他者の欲望の暴走を示す
つまりフリーレンの花畑をつくる魔法をナンセンスとして受け付けない経済合理主義・プラクシス主義の一面をもつ。
つまりラストで無意味な魔法・プラチックをフェルンがゼーリエに承認させたことの意味は、
社会の価値規範・経済合理性の他者としてあるゼーリエに、諸個人が実存的主体化を実現しうるためのプラチックな無意味(服を綺麗に洗濯する魔法)を、社会的価値・意味の欠如として承認させること。
経済合理性に主体の自由を実現するための欠如を構成することを意味する。
このことはゼーリエに欠如をつくりだすことに対応するから、ゼーリエから弟子になって欲しい言われて、それを断るフェルンのあり方と完全対応する。
フェルンが断ったことで、ゼーリエ(経済合理性)にとってフェルンは手に入らない欠如となる。
繰り返すが、このゼーリエにとってのフェルンの欠如は、ゼーリエが無意味な魔法を承認することに対応する。要するにフェルンという主体・意味を欠如することが肝要なのだ。
弟子入りを断ること=無意味な魔法を承認させること。
プラチックが実存プラクシスを構成するとはこの意味においてである。
以上が本作の幻想としての要諦であろう。
本作の面白いのは、タイパ社会において、そのタイパ主義が人々にもたらす抑うつや疑問を物語化していることであり、つまりタイパ社会に疑問をもつ内省意識それ自体を幻想化している点にあろう。喪失した近代を郷愁するあり方をヒンメルの葬送として表象する点にもいえるが、内省が本作を一貫する基礎構造とも読める。
よって喪われた過去を幻想する生き方そのものを、さらに幻想するという弁証法的幻想構造、メタ幻想構造になっている。
※幻想の幻想という構造はリファンタジオにも見られ、幻想において人間の内省が要請されているように思う、幻想は作品批評の再生を願っているのだろうか
また、言うまでもなく心理学的には、フェルンとフリーレンは同一人物の分身の主題、つまり主体=人間の誕生の主題と見なせる。フロイト的に父から去勢されたフリーレンが同時にラカン的に父から承認されたフェルンだということ。
※フロイトはユダヤ人のため去勢する父によって主体の分離を描き、ラカンはカトリックのため承認する父から主体の分離を描くが、この同じ分離を司る去勢と承認との二重性が本作のフリーレンとフェルンとの自己関係に完全対応する、ここが一つの本作の肝となる
ユング心理学好きという山田のフリーレン分析にはユングの基礎が何一つなくユングからもっとも遠い。プラクシスの水準で幻想をあつかっているために、言説自身によって言説から自己関係や布置の水準が隠されている。
ネットに蔓延るユングはユングと関係が無い。ユング派の用語でいえば、山田は幻想の内容を客体水準でしか見ていない。ユングの幻想分析の基礎は表象を主体水準や自己関係の水準で見抜くことにある。
余談だが、山田は魔力を肥大する万能感的な自意識の表象だと語る。しかし、それは違うだろう。
魔族は言葉(S2)で欺く、フリーレンは魔力で欺くと対比されるわけだから、魔力で欺くとは沈黙で欺くの意と解するのが自然だ。普通の読解力があれば概ねこのような解釈がまず浮かぶだろう。
とすれば魔力とは日本語の気持ち、気分の気のことであって、それは欲望、沈黙、コンテキスト、間、言葉と言葉の間、行間、言語の欠如を表象するとみるべきだろう。
よって魔族は個別のコンテキスト(欠如)を持たないが、フリーレンはコンテキストと言葉とを分離して経済の言葉に欠如・コンテキストをつくりだすということだろう。経済審級・一般的意味だけが絶対化した魔族にあって魔力(コンテキスト)は隠せなくなるということ。
魔族にとって魔力は確かに山田の指摘するように自己顕示欲でしかないが、フリーレンにとって魔力(欲望)は無価値なプラチック(花畑を創る魔法S1)に備給されていることを無視するべきではない。山田は全体を見ようとしないので読み違えている。
したがって魔族は子を育てないとは、魔族は内省しない、即自的、母子一体という意に等しかろう。
子を育てないことと魔力を隠せないということは自己関係の構造の次元では同じことを示す。
なので魔族の嘘は内面と外面の差異を象徴するのでなく、その逆で現実吟味の不全、空想(嘘)と現実との混淆、母子未分と読解すべきだろう。公式暗記的に嘘だから差異を表象している、なんてアホな読みをしてはいけない。
※現代人はコンテキスト(欠如)が消去されているので、エスバレに対してS2(公式)を公式暗記的に適応してくる、この公式暗記的適応をする知の形式、プラチックなき合理主義が山本が強調するラカンの大学のディスクールの正体と思う
※僕の経験によると、S1をつかまない奴は、必ず分かったと言いたがるし分かるところだけを拾ってテキストを読む癖がある、しかし読みとは分からない欠如した言葉を欲望することで可能となる
また子と親は自己関係を構成するため、子育ては自己技術でもあり統治技術、権力関係とも関連する。
※自己技術とは自己関係を構成し整え実現するための技法のこと、プラトン時代の自己への配慮、キリスト時代のパストラールや告白などが自己技術の典型として有名。フーコーの用語、本作ではパストラール的な師弟関係・母子関係がどのような自己技術や権力関係を提示しえているかが重要なポイントとなりうる
※自己関係のあるところには原理的にも実際的にも必ず権力関係がある
タイパ社会を問うこと
さてフリーレンという作品がタイパ社会を内省し、その意味を問うことに端を発する幻想だと分かった。ここではその意義をあらためて簡単に確認したい。
かかる現代社会において交わされる倍速視聴への問い、娯楽における倍速視聴の拒絶といった議論が、この時代に提出されたり、語られたりすることの意味は僕には明白と思われる。
人が何かを問うとき、そこには一つの不満であり欠如がある。
完全に満足していることについて、それを問う者はない。問われるからには、そこには問われなければならないだけの理由(不満)があるのだ。あるいは問われることにおいて、そのような理由が期待・構成されるといってもよい。
問題はそのような実存の不安からやってくる問いの言説が、問いを強迫的に埋め立ててしまう消費の言説に支配されていることにある。
※この動態構造が現代社会で問題を解決不能としてしまう根幹をなす
本来、問いの答えを探し論じるときには、それが何のために問われているのかをこそ問わねばならない。かかる問いの答えは、かくして、問いそれ自体の内に、問い自身を問うことにおいて与えられる一つの問いなのである。
さて、元来私には言語的に明瞭な意味などない。そのつどのプラチック(日常行為)を引き受け、プラクシスとして意味づけることができるのみ。
そんなわけで、葬送のフリーレンはプラチックな無意味とプラクシスな意味との根源的差異を開き、そのことで喪われた近代の実存的プラクシスを弁証法的に実現せんとする、生への意志をもった幻想であろう。
追記:魔法少女としてのフリーレンとフェミニズム
不覚にもこの記事を投稿した後で致命的な見逃しがあったことに気づき、やむを得ず追記項目を今書いてます。
さて、実存の核となるプラチック(日常行為、習慣)として本作では服を洗濯したように綺麗にしてくれる魔法が登場し、これが物語の中で重要な位置を占めるのだった。
さらにフリーレンと魔族との対比では魔族は子育てをしないとされ、フリーレンは子育て(弟子育て)をなす。
もうお分かりだろう。本作では、プラチックの問題を女性性におけるシャドーワーク(家事、育児)の問題と連関させている。
この視点で見ると本作は女性のイニシエーションを基礎づける魔法少女ものの系譜として読み解くことができる。
まどマギ→フリーレンという系譜で読解してみても面白いだろうが、本格的に考察すると大変そうなのいで、ここでは最低限の解説にとどめる。
経済合理主義のメタファにある魔族が子育てをしないとは、おそらく子どもを塾に入れること、あるいは学校に通わせることに対応するだろう。
フーコーは、資本主義の経済合理的労働体制に労働者を組み込む第一のものとして人材の強制保管と隔離の装置を指摘したが、その代表が学校や工場、刑務所である。この家庭からの隔離装置において諸個人の生の時間は労働時間的なものに再編成されることになる。
学校が就職予備校のように変質してしまう、そういう技術が学校そのものにあるというわけだ。
※一概に学校は否定できないが、そのような負の側面も確かにあるということ
そんなわけで洗濯をする女性も、本作では経済合理性プラクシスに対立するプラチックとして扱われていると分かる。
これは、ネオリベ的な労働体制が家電を開発したり女性の賃労働者化を要請して、家事や育児といったプラチックを消去してきた歴史に対応するだろう。
こうなると育児も受験サイボーグやクイズ王をつくる経済プラクシスに呑み込まれるし、家事も代行サービスに任せるもの、となってゆく。
このような家事育児プラチックの排除・商品化・プラクシス化は、抑圧された女性性の解放をアリバイに女性を男性化(賃労働者化)し、女性性の価値を下げてゆく。そしてこの一連の女性の解放を建前とした女性性の排除は経済合理性によってけしかけられている。
賃労働者として女性を組み込むために、家事や育児といった女性性プラチックの領域が経済プラクシス化されてしまうということ。
したがって本作は、経済体制における女性性の排除と女性の賃労働者化の連動の問題と女性のイニシエーションの関連を巧みにとりだし、さらにはそれを現代人に普遍のプラチックとプラクシスを巡る実存の問題として捉えている。
このようにいうと女性はひたすら家事をしていればいいのかと思われるかもしれないがそういうことではない。
おそらく家事をするのは男性でも女性でもかまわないだろう。問題は家事や育児といったプラチックの排除・商品化が、遊びや趣味といったプラチックの排除・商品化と相同的だということなのだ。
つまり今日における女性性をめぐる抑圧と解放の主題、あるいは性別からの解放の主題といったものは、経済合理性によって、ないしはそのような合理性を構成する自己技術・自己関係によって惹起させられたものに過ぎず、これにより人間の自由の核となるプラチックが排除されてしまう、こういう水準を本作は洞察しえているのだ。
フェミニストの人には本作を参照して、現実的なフェミニズムについて考えてもらいたい。いずれにせよ、本作が提示するのはプラクシスな社会理論の不毛さであろう。それは、権力を国家などの主語主体が所有すると見なす権力所有論・権力実体論に他ならず、このようなディスクールこそが権力を抑圧するものと誤認させ、その結果、人間の自由と実存の核となるプラチックを排除・捨象してしまう。
本作はまさにプラチックな社会洞察なしには結実しえない名作。それゆえプラクシスに取り憑かれた山田のディスクールが本作の本分を把捉することは永遠にないだろう。
※国家を問題とするとき、国家が抑圧しているとか国家が敵だなどと喚くのは非常にナンセンス
終わりに
書きたいと感じるネタがないので、ぽこ堂にいったら、タイパの議論とカニバリズムの議論が成されていて、どっちも僕の記事のネタになりそうだった。
そんなわけで、この記事は、ぽこ堂に訪れた翌日に一息で書きあげたが、プラチックや実存について自分の記述に不満があり保留にしていたら、胃が体調不良になり長らく投稿できずにいたもの。
※最近、病院で薬をもたったら復活した
※プラチックS1には依存症の反復の議論があり、消費社会における依存症の水準の処理がまだできていない
※プラチックの意味付けを実存に直結するのはいささか社会空間制に毒されている気もしなくもない
殴り書きしたゆえ、あまりうまく説明できなかったが、フリーレンという作品の意義と意味はかなり明白だと思う。他にも多様な解釈はあろうが、自然に解釈したら概ね僕の解釈に近くなるだろう。
本作は精神分析好きにとっては分析が簡単で分かりやすすぎる作品ともいえる。あるいは精神分析のロジックが物語りの意味をわかりやすし過ぎてしまうという毒をもつのかもしれないが。
これまで他人の書評などはほとんど読むことなく我流で作品評論をしてきたが、ワンパターンになってきてるので、他の人の評論本を読むかもしれない。
さておき、哲学対話風のものを、ぽこ堂でやってみて分かったが、哲学対話も合理的プラクシス・合理的目的意識にとらわれやすいようだ。
カニバリズムとタブーの哲学対話でも、最初に異常プリオンによるクロイツフェルトヤコブ病を避けるための種族保存本能のため、という極めてダーウィニズムな結論が提示され、一瞬にして心が折れたほど。
しかし、しどろもどろに説明したり意見してみんなで話していたら、いつのまにかダーウィニズムが転覆していた。
よく分からないが話せばどうにかなるのかもしれなくもない。さて、ディスクールの動態構造というと語りに注目しがちだが聞き方にこそもっとも顕著にそれは表れる。
最後に付録としてフリーレンに関連することでもあるが、哲学対話の今日における根本問題についてをまとめておいた。
付録を読めば、哲学対話の問題こそがフリーレンの幻想と通底することが分かるだろう。
付録:哲学対話の根本問題
哲学対話とやらをやってみて分かったことが沢山あった。
だからここではぽこ堂で定番の哲学対話の主題とされるなぜ科学万能論者が出てきて、独断論が生じて哲学対話が成立しなくなるのか?について答えたい。
僕はぽこ堂で倍速文化の過剰さ、タイパ主義、なぜ人は倍速するのか、倍速視聴とはなんなのかについての対話に参加したわけだが、
繰り返しになるが、そこで任天堂のスリープモードの話が出た。この話は遊び(倍速しえぬもの)の本質をよく示す。
遊びはその行為がそれ自体で目的をなす(手段と目的が非分離)、コスパの外部の無主語的なプラチックにあるというわけだ。
といっても娯楽で物語を楽しむのでさえ1.25倍速する人まで議論にやってきたのだが、
これについては享楽論で説明できるが、今回は割愛する。
※その人物は結末まで見ないで作品を判断するのはよくないという意見についても、最後だけ見れば事足りると語ったのが印象的だった。そのような欲望が消費社会によって醸成されたものだということにさえ無頓着に思えた
重要なのは、その場を仕切っていた人物が、スリープモードにおける遊びのプラチックを、経済合理性のプラクシスとして誤認し、その誤認をスリープモードの話をした本人さえもが肯定したことにあると思う。
※僕が一人でかってに全てを誤解してるだけという解釈も成り立つ
場を仕切っていた人は、既に紹介したように、任天堂のスリープモードについて、それを娯楽に人々が費やす限られた時間を、NetflixやYouTubeといったライバルたちと奪いあい、勝利する上での経済合理的な目的意識に基づく戦略だと主張。
受験勉強などの合理的でコスパ的(勉強の単位時間あたりのテストの点数の増加数の最大化)な目的的・ロボット的な自己同一性を親や社会に押しつけられるさなかにあって、子ども達に、自由で内発的な実存やプラチックを提供するのがスリープモード(遊びプラチック)の狙いだろう、という僕の読解とは真逆。
さて、そもそもなぜ人は倍速主張するのか?という最初の問いは何を問うのか。
おそらくこのような顚倒が起きることの、つまり客観合理主義の絶対化が起きることの最も本質的理由は、本当に問われているものと、問われていると思っているものとの差異・誤認に還元できる。
合理主義者、自然科学万能論者、問いを深めず信念補強的な反復を求めるとされる者達は、問われている対象を客体と誤認する。
この場合であれば、行動主義心理学的な客観観測可能な倍速視聴行動であり、その行動の客観的原因が問われていると勘違いしている。
しかし、いうまでもないが、この問いでそんなことを問う人はほとんどいない。哲学対話の問いは、与えられた問いではなく主体的に問われる問いなわけで。
なぜ、コスパ主義やタイパ主義が氾濫して倍速視聴が起きるのか?これが問われる条件は、そのようなコスパ主義社会への直観的疑義であり自己違和に他ならない。
じじつ、この議論では倍速できぬ物(プラチック)の特定が欲望されていた雰囲気があった気がする。それが倍速できぬものを欲望するディスクールであったことは、コスパには還元できぬ生の価値が求められたことの傍証となろう。とすれば主体の自由を圧殺する行き過ぎた経済合理性への抵抗として、主体の生をいかに確保するかがこの問いで本当に問われているものだとすぐに分かる。
とすれば、問いの答えは実のところ最初に与えられていると気づく。
それは直観的に自己違和として感じられているもの。つまり問いを構成するもの(違和感・不満足)。
何か社会のあり方が間違っているという直観的答えが最初にあって、その答えの言語化が哲学対話において欲望されている。
※ようするに最初の直観と議論の末の言表とに一致の信憑が起きたときは、そこそこの対話となる
この問いにはそのような欲望の弁証法が隠れていると解釈できよう。自己と自己との乖離であり自己関係が最初から問題だということ。
だから、問いの言説について経済合理主義的な誤認が起きたときには、なぜ誤認が起きたのかを問うことが求められる。
相手の解釈に齟齬や顚倒を感じれば、それに対して論理的に自己の主張の正当性や優位性を主張することもできよう。しかし、これではただの日常会話であって、哲学対話の体をなさない。
哲学対話というからには、もしその解釈が誤読であったなら、そのような誤読がどうして起きたのか、ということに、最初の答えを求めねばならないだろう。どちらが正しいかではない、なぜそのような認識が起きたかが重要なのだ。
なぜなら、真に問われているものは、問う主体自身だから。
倍速主張への自身の違和感が問われているのであって、そこで問われているのは客体ではなく主体であり客体と主体との関係にある。
※倍速最高という人もいるだろうし、人によるのだが、少なくとも切実にこの問題を問おうという人は、違和感が問題になっているだろうということ、だから問われているものを自分と無関係として外在化してしまうと対話が破綻してゆく可能性がある
当たり前だが、問われているのが客体だと誤認される限り、客観合理主義的原因論に対話が帰結することを避けるのは困難。
だから問いと答えの非分離を洞察して、問いを問い返し問いにおいて内在的に答えるより他に対話を深めるのは期待できない。
さて、場を仕切る立場にある人が率先してプラチックをプラクシスに顚倒したように僕には思えたわけだが、とすれば、ここで場を仕切るというプラクシスが問題化されうる。
場を仕切る人の意識を汲めば、対話を円滑にし議論を生産的に場を盛り上げ、一定のサービスクオリティを提供・実現することだろうか。
このような合理的・主語的・目的的な意識が当の議論の問いを塞ぐと考えられる。
このような意識は日常性の意識にあるからだ。
それはつまり哲学プラチックのアプリオリの問い詰めとは根本的にズレてくる。
哲学では日常の常識的な認識、経験的認識について、そのプラクシスな認識が成り立つ前経験的条件を掘り起こし論じて、主題を深めるわけだから、哲学態度と日常性のプラクシスの意識とは必然、折り合いがつかない。
あるいは哲学対話で問う主体は誰なのかという問題と見ても良かろう。すでに示したが、真に問われているものの正体(主体・関係)を特定するために行使した思考の作法は、語られた言葉から語る主語(意識的目的)を排除した言説のプラチックを取り出すことにある。
つまり、意識的には客体を主体的に問い、客観的原因を特定すると誤認しているが、実際には主体が問われている、あるいは主体が主体自身を違和感S1によって問わされているわけで、問う欲望には無意識の水準があるということ。
したがって問いを促すものは言説のプラチック=無意識の主体(意味外の無意識)S1にあるといえる。
日常のプラクシスな自己同一性(自我・主語)ではなく、S1・症状・違和感が問うものなのだ。
よって真に問われる対象とは自己(関係)であり、真に問う主体(哲学対話する主体)とは無意識だと帰結できる。つまり問題は本当は誰が哲学対話をする主体で、何がそこで問われているか、ということに関しての誤認をとくことにある。
ともあれ経済的意味の外部にあるプラチックを生かすこと、意味の重圧からの解放が要請する問い、それが倍速視聴問題が今日の社会で問われる理由であろう。
※ラカンにおける意味するものS1こそが、哲学対話する主体、あるいは哲学対話の問いを私に迫るモノであり、これはディスクールの外部をその内部にもたらす欲望をなす。僕のディスクール分析・動態構造論の記事では構造の側の主体を示したが、問いの言説プラチックは、ディスクールに外部をもたらす現実界の無意識といっていいかもしれない。なおディスクールの外部へと向かう問いプラチックの方がフーコーのディスクール論では重要そうと思う
とすれば、あるべき哲学対話の仕方も見えてくる。
対話の場とは解放であるだけではダメで彼岸であること。つまり非日常性を持たねばならない。
日常の延長では日常性の自己同一性=経済合理主義=主語同一性の言説構造の作動を免れないからだ。
つまり移動主体のプラクシスが優位となるネット空間ではダメで場所化が必須となる。
ゆえに対話において要請されるのは境界を越えること、次に、問いへの回答を問いに投げ返すこと。
というより、問われているものと問う主体をはっきりさせた方がよいだろう。ここを間違えるとまったく議論が深まらないだろう。
余談だが深層心理学のモデルを適用すると哲学対話の問いは、神経症の症状、ということになる。
症状は無意識の主体なわけで、ここまで書いて気づいたが、ほとんど症状論と同じになってしまったようだ。S1とは症状の核でもある。
問う主体は無意識とか問われているのは自己とか、いかにもギーゲリッヒあたりが言ってそうな気がする。
もう少し補足をしたい。
つまるところ問われる対象が問う主体自身であれば、どのテーゼからも同一のものを取り出しうる。たとえば倍速視聴の対話と哲学対話が自然主義者のエゴでうまくいかないことの対話にまったく同じプラチックとプラクシスの主題を取り出したわけで。
すると議論の一回性が損なわれるかもしれない。
なので、同一のものと同時にその都度の問いにおける固有のもの・差異を同時に観取することが肝要だろう。
また哲学対話を導くものは、本質的には黙っていたほうがよいだろう。
問い自身の自律的な動きに鋭敏であり、ソレに傾聴する態度が要される。問うのは私ではなくソレなのだ。私はソレ(エス)の声を聴くことに専念すべきだろう。
というと哲学対話のハードルが上がり過ぎるだろうか。
現実的なところでいえば、その場にいて自然に感じて発言する、自然と聴くことに集中している、そういうプラチックな状態が創られればそれでいい気がする。
さて、聴くことに集中とか問いの自律性に賭けよと言っても、それはきれい事で現実には問いを持たぬ強固な自然主義者が自らの無欠性と無謬とを確証する目的で訪れ、哲学対話に独断論をもたらすのではないか、との疑問もあろう。
これではたしかに、一般の心理療法モデル・非分離技術では対応のしようが無い。
この場合は、自らの信念を賭けてぶつかることが要請されよう。信念や実存を持つものが必要だと思う。他者なき自然主義者に対しては、自らがその他者としてはだかり、ぶつかって行かねば、問いを形成することはできまい。
つまり、自然主義者には、自身の知らぬ外部の価値審級があること、他なる世界があることを触発せねばなるまい。
ユング派の非定型発達に対する心理療法モデルを当てはめるとこのように考えられる。
ファシリテーターとパストラールの教育論
さらにここでは、以上の哲学対話の分析から、現代の学校教育の問題点と哲学対話のファシリテーターのあるべき姿を対応させて考えてみよう。
哲学対話といえばファシリテーターというか仕切る人がいる場合があるわけだが、このときファシリテーターが一方的に答えを与えるのはよくないかもしれない。
少なくとも問いを塞ぐディスクールを成すべきではない。そもそも問い・欠如が消費社会において塞がってしまうことが倍速視聴の議題を始めとした今日の哲学対話の問いを構成する場合が多いと想定されるからだ。
にも関わらず満足をもたらす回答を与えれば、たちどころに問いは塞がれ、享楽の処理不全を招き、現代鬱病を助長することになろう。
だから問いを開くこと、問い自身が(を)問うことを促し無意識を聴くことが求められるのだった。
さて、ファシリテーターと参加者の関係が、学校教育における教師と生徒の関係とアナロジーだと分かる。
※本来の哲学対話の自己技術はフーコーでいうプラトンの対話にあるような自己への配慮に近そう
教師とは導く者でありファシリテーターにも近い。すると学校では教師が一方的に生徒の問いに答え、生徒は聴くだけ(問うだけ)、教師は話すだけ(答えるだけ)という他者と自己、問いと答え分離による一方通行のコミュニケーションで授業が進んでいることにきづく。
※この権力モデルはキリスト教のパストラールを経て近代に完成した近代身体医学モデルに相当する
これは受動態と能動態の分離に相当するだろう。
真理と告白(知を想定された先生に自己について告白し、自己の真理を他者・先生に奪われること)を巡る自他関係における近代教育的な分離技術が現代の権力関係を規定しており、この一方通行の分離系の真理の創出が現代人の自己関係・権力関係を形成していることが分かる。
※学校の誕生は律令制に属する天皇灌漑農耕と社会空間化に連動する。中動態関連の説明は何回も他記事で触れたので割愛する
以上から、フーコーを参照してみれば、このような問う主体と回答者、問いと答えとの素朴分離の構成が哲学対話における自然主義の浸食を許す根源的構造となっていると解釈できる。
つまりこれは主体と客体、主観と客観との分離において、客観・経済が絶対化してゆき、内面の真理が余すことなく経済的に意味づけられ、主体がスポイルされてしまう権力関係の生成に対応するわけだ。
するとフリーレンにおけるパストラールや告白の描写の意味もわかりやすい。
フリーレンにおける師弟関係は対話を基本とする。そこではプラクシスでなくプラチックが伝達されている。師弟関係とはそれ自体が権力関係でありかつ自己関係をなす。
もはや、問題は明白であろう。
哲学対話の作法は自他の関係の非分離・弁証法の水準を要請するわけだから、学校教育では一方通行の旧来型の関係を維持しつつ、それと平行して、非分離技術の対話学習を部分的に入れ込むべきだろう。
というわけで、天皇国史教科書を喧伝し日本をアメリカの州に編入せよ!とわめきちらして億単位を荒稼ぎするホルホル系保守言論人が大人気のこの国はもう長く持たないだろう。天皇全体主義への懐古と相対主義との分断が致命的な事態を招く可能性もあると思う。
終わりに
以前、動態構造論の記事では言語のように構造化された無意識の主体をあつかったが問いのディスクールは、その動態構造の内にあってその外部へと志向する欲望といってよいだろう。
現象学的にも社会への問いが、そのディスクールの構造に外部を要請し主体を形成する欠如・不満足・自己違和の効果だと分かる。
したがって自己同一性の解体における構築がそこでは要請されており非連続における連続が目指されている。
言うまでもないが、ネット時代にあってはヤフー知恵袋やクオーラを筆頭に多くの質問アンサーサイトが乱立しており、また検索エンジンは、検索ワードを入れるだけで、ユーザーの問いを刹那に埋め立ててしまう。
どんな疑問もインスタントに答え、満足を与え、決して自身で問うことをさせない。
あらゆる問いが先回りしてアーカイブ化され、それら全てに対して問いを埋める答えが外在的に与えられている。
このような社会では人は問いプラチックを構成することができずますます鬱病となろう。先回りして主体を殺害する暴力がネットの本性だと思う。
回答者と質問者とは分離しており、そこには断絶がある。このことで翻って、両者は未分となり他者が構成されない事態が疫学的に確認されている。
このような問いを埋め立てる倒錯的欲望は、哲学対話の本来のあり方を歪め、それを不可能にすることだろう。
ところで人文学問で問われるのも客体ではない。主体が問われている。
だから思想哲学のテキストは生きている。なのにテキストの論理的生命が捕まれていない。
そんなわけで、しっかり理論を理解するものなら、これから人文学がたどる死の運命がいかに避けがたく絶対的かよく分かるだろう。
すでに世間で人気の思想哲学はほぼ全滅していると思う。どんどん大衆の好む哲学のレベルが下がっている。
最後の闘争はすでに始まっている。一刻の猶予もない。
ネットでは死んだ哲学が消費社会を回遊し、哲学風の何かが蔓延しているようだが、あれは学問でも哲学でも思想でもない。
学校学問の歪み、教育プラクシスの分離技術、自己関係の崩壊、権力関係の全体主義化、自然主義の蔓延、これらは全て連動している。そして全ては存在論的差異の混淆、差異の埋め立てを示す。
たとえば昨今の賢い人の定義はクイズ王にあり、その本質は学問の対象を主体でなく客体と誤認することにある。
つまり知を対象についての客観的知識とし、その知識客体を大量に所有することで万能感に浸る幼児性に取り憑かれている。
あらゆる分野の知識を収集することが賢さの指標とされ、金や物を独占するように、あるいは土地を領土として領有するように知識を物体のようにプラクシスに所有し自我肥大に至る。
なにか子どもが私は空手、システマ、太極拳、サンボ、ボクシング、ムエタイ、カポエラ、サバット、シラット、柔術、剣術、弓術、、、と全てをマスターした武神であるとか言いたがるのに近い。
馬鹿馬鹿しくてついていけない。プラクシスな主体が便利グッズを収集するかのような軽薄さがある。
このような学問的態度からは、まともな論理生産はなされない。ここでは学問知と学問する主体とが分離されてしまう。
ゆえにアポステリオリな水準を絶対化し、超越論的視座をもちえない。
その典型が論理実証主義であろう。
じつのところこのような学問知の客体化とその所有という現代の学問の価値規範は、身体医療やネットのあり方と密接に連動している。だから身体を客体化する西洋医学の治療関係が自己技術として支配化すると非常にやばいことになる。
フーコーの議論はこのことをよく示すと思う。
そのうちハーモニーの記事を書くことがあれば、この点についてそのメカニズムを明らかとしよう。
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