トロッコ問題を倫理的に解決してみた!【功利主義問題も解決】

路面電車の画像

うたまるです。

今回は人類にとっての永遠の難問、トロッコ問題について。

ところでここ最近、トロッコ問題は自動運転技術の発展とともに注目を集めていますね。

そんなトロッコ問題、じつは現象学によって解明できます。
また人権の概念を現象学的に分析することで、トロッコ問題がどのような構造によって生じているのかも明らかになります。

さらに、この記事では功利主義とその問題点についても解明します。

というわけで人類の長年の問題を解いてゆきましょう。

トロッコ問題とは

あるトロッコが走っていて、そのまま放置すると3人の人がトロッコに轢殺されるが、レールを切り替えるとトロッコの進行方向が切り替わり、1人の人が死ぬことになる。

このときレールを切り替えるのが正解か、なにもしないのが正解か、という道徳の問題である。

この問題には正しい解答がないと言われているが、一般的に功利主義・合理主義的傾向の人は切り替えることを正義だと主張する傾向があるとされる。

トロッコ問題と映画

またトロッコ問題の主題は映画など創作の世界では、ヒーローが第三者の多数の命(三人称)と恋人などの個人的な関係のある人物(二人称)との選択を迫られるパターンとして問われることが非常に多い。

たとえば、ラストオブアスやマトリックスシリーズなどはトロッコ問題を扱っている。

ゆえにトロッコ問題を知ることは映画などの理解を深める上でも欠かせないだろう。

トロッコ問題とAI、自動運転問題

近年はAIが発展し、人に代わってAIが意志決定をすることが増えてきている。Amazonのオススメ機能もある意味では人間に代わってAIが意志決定を行っているともいえるかもしれない。

そんな趨勢にあってトロッコ問題の解決が喫緊の課題となっている分野がある。それが自動車の自動運転分野だ。

自動運転では事故を回避する際に、トロッコ問題と同じシチュエーションになることも想定される。そのためトロッコ問題の正解を見つけて、プログラムせねばならないのだ。

トロッコ問題と現象学

トロッコ問題のような答えのない問題を考えるとき現象学は役に立つ。現象学とは日常の自明な事柄について、その自明な事柄がいかなる条件によって成立しているのかを、自己の主観を振り返りつきつめることで、明らかにする方法論である。

一般に自然科学は個人の主観性を排除することで客観的な法則を取り出し、普遍性を実現している。
それに対して、現象学は正義や愛など客観化のしようがない主観的な対象にいつて、個々の主観に立ち返り主観性を深めることで普遍的な答えを形成する方法論であり合意形成の運動と言える。

そのためトロッコ問題(道徳)のような客観的答えのない問題に関して普遍的解答を探るうえで現象学は欠かせない。

トロッコ問題の二つの本質

ではさっそくトロッコ問題を現象学的に考えてみよう。

功利主義の条件

まずトロッコ問題で1人の命と3人の命が数学的に比較され、3人の命を救うために1人を犠牲にすべきという功利主義(合理主義)の論法が、いかなる条件によって可能になっているのかを現象学する。

すると、功利主義の論法は、個々の人物の個別性を捨象し、個々人を同じ「人間」として同一することで可能になっていることが分かる。

なぜなら、もし仮に一方のレールにいる1人と他方のレールにいる3人がそれぞれ全く違う存在であれば、数学的な命の価値の比較はなりたたないからだ。よって誰であれ同じ一人として数えら数学的に計算されるには個別性が捨象されている必要がある。

したがって命の価値の平等は、個々人を同じ人間として同定し、その個別性を削いで各人を交換可能とすることでなりたっていると分かる。

反功利主義の条件

つぎにレールを切り替えるべきではないとする功利主義的解答と対立する意見について考えてみよう。

するとこの意見の前提には個々の交換不可能な絶対性があると分かる。
というのももし仮に個々人の価値が完全に交換可能であると前提されたなら、功利主義的解答にならざるえないからだ。

つまり、人を事実交換可能性しか持たない量産された饅頭に置き換えたなら、何もせず放置すれば饅頭を三つ失い、レールを切り替えれば一つ失うというトロッコ問題の解答において、これを切り替えるべきではない、などと考えることはできないということである。

「レールを切り替えてしまえば、本来死ぬことのない人を殺すこととなり殺人に等しくなるではないか!」というありがちな悩みも、畢竟、個人(命)の交換不能性に起因することはいうまでもないだろう。

したがって人間個人には交換可能性と同時に交換不可能な絶対性(命)が措定されていると分かる。この事実はそのまま人間に措定されたこの二面性がトロッコ問題の一義的な解答を不可能とすることを示す。

また饅頭の喩えから、交換不能な絶対性(命)は、考え認識するところの自分という主観(意識)であると分かる。

つまり他ならぬこの私の主観、世界で唯一の絶対交換不能な、この私という主観こそが人間の絶対性の核(命の重さ)になっているのだ。そのため意識(主観)を持たない饅頭は交換不可能な絶対性(固有性)が存在せず数によって比較されるだけで話が終わってしまう。

もし私の主観が唯一の私という個別性として捉えられていなかったなら、人々は私の死、個人の死ということを問題にすることさえできないだろう。

トロッコ問題と人権の構造の二面性

以上からトロッコ問題の本質が人間を巡る交換可能性と交換不可能性の葛藤にあると分かった。

するとここで気づくのはトロッコ問題の交換不能と交換可能の葛藤が人権概念と全く同じ構造をしていることである。

そのためここでは人権概念の成立要件を人類史から取り出して、現象学的ないしは深層心理学的に人権の本質を取り出す。

人権と職業選択(交換可能)

人権とは、全ての個人は同じ人として対等の権利を持つと捉え、自分のことも友人のことも、第三者のことも等し並みに扱うという人間観において生じる概念だ。

そのため人権は自分と他人が交換可能でなければ生じない。

じじつ人権概念のない中世では、職業選択の自由も自由恋愛もなく、農民の子は農民、鍛冶職人の子どもは鍛冶職人、王様の子は王様であり、職業が固定されていたため、農民も職人も王様も交換不可能だった。

言い換えれば、中世では社会的身分(シニフィアン)と自己存在とが完全に一致していたともいえる。自分で職業を選ぶのではなく自分そのものが家業と一体化していたのだ。
(※この一致はラカンのいう想像的に対応し、ユング派のいうウロボロス的主体に対応し、木村敏のいう妄想的現実面に対応)

これが人権概念の登場する近代になると、職業を自己決定する時代となる。
近代に至りフランス革命的な自由意志が生じて、あらゆる職業が人々に選択可能(交換可能)となることで、個々人(職業)は交換可能な存在となり、人々は民主主義をになう同じ国民として同一されることとなる。

この歴史的経緯から明白なように人権概念のもつ平等の理念は個々人が交換可能となること、自己決定できるようになることに付帯する概念なのだ。

人権と命の尊さ(交換不能)

以上から職業選択の自由などに典型される自己決定の自由によって、個々人が交換可能となったことで人権概念の基礎となる万人の平等という概念が可能になったと分かった。

しかし、交換可能なだけでは、上述の通り、人間は量産された饅頭の集合に過ぎず、個々の命の尊厳は踏みにじられ、トロッコ問題は功利主義によって完全解決を迎えてしまう。これでは人権概念が包摂する命の尊さが生じることができない。

じじつトロッコ問題は功利主義的選択と反功利主義的選択とで激しい葛藤を生じ、いまだに答えが出されていないし、人権も命の尊さ(交換不能)をその理念とする。

ゆえに、交換可能な個人は同時に交換不能な絶対性を持っていると分かる。そしてこの交換不能な個別性が先ほど説明した自分の主観(意識)というわけだ。

中世には無かった個性が近代以降主張されるようになったのも、自己存在の絶対的な個別性として主観という概念が誕生したことによる。

ここで中世をふりかえってみよう。
すると人権概念の希薄な中世では個々の命の尊厳(個性)も現代に比して軽かったことに気づく。

以上から人々が交換可能になったことで、翻って個々人の主観が交換不能になった可能性が見えてくる。

交換可能と交換不能の同時性

ここでは交換可能(職業選択の自由)がいかに交換不能(個性と命の尊厳)を生じるかを解説する。
(※詳しく知りたい人はラカンの疎外について調べるとよく分かる)

太古の死と共同体

ところで深層心理学や哲学では、人間の個別化原理として死という概念に着目する。じっさい個人の死が際立って問題となるのは近代以降であり、近代になってハイデガーの死の不安などに代表されるように死の哲学が増えだした歴史がある。

そこで死というアプローチから交換可能と不能の不思議な同時性の構造を見ていく。

まず太古の人類における死を想像して欲しい。太古では個人の死はほとんど問題にならず大いなる自然に返るという意識が支配的であった。そのためイニシエーションにおいて生け贄の儀式などで人が死ぬこともしばしばあったほど。

人間の身体は太古の時代といえど空間的に他者の身体と独立し、別個の存在として動いていた。にもかかわらず太古の人々には個別の意識は弱く意識が自他未分化にあったといえる。

そのため個別の肉体の死は個人の主観の死には直結しない。

また太古の時代では共同体の人々には主観と客観の区別もなく、そのため人々は主観を共有していた。むしろ共同体全体で一つの主体を形成していたふしがある。

たとえば部族の神話は、主観的な物語であると同時に共同体に共有された普遍的な物語でもあった。神話とは現代的な意識においては、世界を主観的な印象のもとに比喩的に描写した物語であって、印象という主観性から切り離された客観的な事実とは区別される。

しかし古代人には主観と客観の区別は曖昧であり両者は未分化である。そのため神話はそのまま現実でもあった。いわば比喩が比喩としてではなく現実として実体化した世界ともいえる。

このような主観的な意識が共有された世界では、個人の主観は共同体と共有されており、個として分化してこない。ゆえに個人の死は問題とならないのだ。

隣人から切り離された個としての主観を持たない以上、自分の身体が滅びても自分が死ぬという意識は生じないともいえる。

またこのような太古的な意識においては、自己が何者かということを自己決定するという概念もない。
つまり職業選択の自由などは考えられない。


というのも私が何者かということの根源的な意味は神話によって保証されているからだ。
神話が自己存在の意味を確定しているため、神話的なコスモロジーによって結びついている限り、自分で自分が何者かを決定するという観念すらないのだ。

したがって太古的な人々の主体・主観は神話=神にあるといってもいい。

\主観と客観について/

神の死と交換可能と交換不能の同時性

近代にいたりニーチェは人間による神殺しを告げる。神とは万物の創造主であり、個々人と全ての物の存在根拠でもある。

その神を殺すことは人間が自らの存在根拠を失うことを示す。あの有名なラカンがいう欠如というのも一つには、この意味での人間の存在起源の喪失にある。

ところで社会学者ヴェーバーのおかげで、神が道具として人間をつくったというプロテスタントの信仰は有名だが。

職業は神の召命であるためドイツ語で職業を示す単語(BERUF)は召命を示す単語(BERUF)と同じであり、欧米人の名前にスミスが多いもスミスが職業である職人を意味するからだったりする。

以上から、人間に対しあらゆる決定をくだしてきた人間主体としての神を殺し、人間自己自身が自己を決定する主体となったことで職業選択の自由、自己決定が生じたともいえるのだ。

つまり共同の主観性としてあった神話的なコスモロジーを比喩に過ぎないとして客観から区別し、神話と神を殺したことで個別の主観(交換不能)を形成すると同時に、職業選択の自由によって個々は交換可能となったといえよう。

また自己が自己を決めることで、自己決定する自己と自己決定される自己へと人間主体は分裂することとなる。
(※この主体の分裂をラカンはSubjectのSに/を引いて表す)

そして自己決定する自己はいかなる決定根拠も持っていないというのも自己の存在のルーツ、根源を自己決定するとき、その決定(自己のルーツ)に先だって決定する自己(何者でもない自己)が生じるからだ

かくして自己決定は自己回帰(自己言及)をひきおこすことで、自己の起源を欠如し続けるのである。むしろこの自己の起源の欠如が人間の自由と欲望を可能とする。

つまり自分が何者か?の答えがないからこそ、そのつど自由にそれを決めることができるし、後からその決定を変更することも可能になるわけだ。

かの有名なハイデガーの本来的という実存のあり方も、非本来的なあり方に自己の存在理由の欠如を自覚することにある。また、ラカンの欲望は欠如を原因とするという有名なテーゼもこのことを示している。

要点まとめ

神を殺し、神(神話)世界から人々が切り離されたことで自己の主観が他者の主観と分離して、個の主観という絶対的な交換不能が生じ、それが命の尊厳を形成した。

またこのプロセスは神の殺害において、神が定めた自己存在の根源である自分とは何者か?という問いの答えも消滅させるにいたる。

そしてこの答えの消滅が職業(自己存在)の選択=個々人の交換可能性という自由をもたらしたといういこと。

トロッコ問題の正解

以上が分かるとトロッコ問題の答えは自ずと見えてくる。

つまりトロッコ問題における功利主義(交換可能)と反功利主義(交換不能)の対立は双方が双方の根拠となっており、同根のものであるとわかる。

したがってどっちかに解答を固定してしまうと、双方とも自壊し人間の自由が消失する可能性もあるのだ。

つまり自己決定する自由な主体はその本質として、交換可能と交換不能、普遍化と個別化、という葛藤構造を内包しているといえる。

これをどっちかを絶対化して固定すれば、人間の自由は不可能になる。たとえば、功利主義を絶対正義とすれば、人間は絶対的な交換可能存在として規定され、その個別性は去勢されることになる。

ぎゃくに交換不能を絶対化すれば、平等など成り立たない。

よってトロッコ問題とは一方に解答が絶対化されてはならないというのが答えなのだ。
この問題は葛藤を抱え、そのつど人々が議論して暫定的に結論を出し続けねばならない。

最終回答:葛藤を抱え、そのつど議論。

といっても自動運転のプログラムはどうするんだ!と思われるかもしれない。

自動車のAIの判断に関しては、新世紀エヴァンゲリオンに登場するAIのように異なる審級の自律した判断プログラムをつくり、プログラム同士で多数決をとるみたいにするのが良いかも知れない。

読書紹介:参考文献

トロッコ問題のような道徳の問題について卓越した解答を示すものに『ヘーゲルの精神現象学』がある。またユング心理学もこれに近い解答となる。

興味のある人は竹田青嗣と西研の共著『超解説!はじめての「ヘーゲル精神現象学」』や竹田青嗣の『新・哲学入門』、あるいはユング心理学の入門書などを読むことをすすめたい。

またより本格的に、交換可能と交換不能の同時性の理論を知りたい方はラカンの精神分析の入門書を薦める。ラカンの疎外の議論をある程度理解できれば自力でより専門的に分析できるだろう。

ラカンの入門書については以下の記事が参考になる

また歴史的変遷として主客の分離を理解したい人は木村敏や河合俊雄の著作がおすすめ。

余談だが、現代人はラカン風にいうと自由の根拠である自己の起源の喪失を喪失しつつある。これをユング風に言えば、今この瞬間の生命力が去勢されているとなるだろうか。

昨今のポストモダンに毒されたLGBTQやポリコレ、HSPのあり方は特にそのことをよく示す。

このまま行くと日本人は人権概念を完全に喪失する可能性が高いと考えられる。
人権とはこれまでみてきたことから分かるように権威的なルールでもなければ、絶対の法でもない。人権が法的に整備されていてもその本質は、人間の交換可能と交換不能の同時性という構造によって生じる人間観にある。

規範としての人権はこの人間観の所産であり、その意味で人権の本質は具体的なルールや法に先行する。

そのため自由な人間主体の基礎構造である交換可能(三人称)と交換不能(二人称)との葛藤の今日的な消失は、人権の法や規範の根拠であり、それを産出せしめるところの基礎的人間観(自由な人間主体)の消失を意味するだろう。

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