うたまるです。
今回は精神分析の欲望の弁証法とヘーゲル弁証法の違いについて考察、解説します。
よくラカンの欲望の弁証法はヘーゲル弁証法と違う!と言いますが具体的に何がどう違うのかまともに説明している本を僕は読んだことがありません。
むしろ両者はよく似ています。そんなわけでこの記事では似ているけど異なる二つの弁証法の細かな違いを解説!
※こんなマニアックな記事は上級者しか読まなそうなので、説明少なめでいきます
再帰的伝統主義におけるフロイトモデル
再帰的伝統主義とは
かつて某社会学者が伝統について、たとえば神社参拝を例にとり、参拝という伝統儀式の意味を自らの頭で考え、その伝統行為の意味を言語化し、日常生活においてその意味を実現し行為せよ、ただし神社参拝という伝統の原版には変更を加えてはならない!という論旨のことを主張していた。
ここではこの構造がヘーゲル弁証法と酷似しつつフロイトモデルにあり、否定神学構造を内在することを示しヘーゲルと精神分析、二つの弁証法の違いを明らかとする。
まず社会学においては自ら伝統主義を選択し伝統と距離をとって伝統の意味を言語化する伝統主義を再帰的伝統主義と呼ぶ。
再帰的とは、自己回帰的の意味であり、伝統の型や行為の意味を自ら考え、それを伝統の本質として伝統の何であるかに回帰させるようなあり方を示す。
このような再帰的意識は神の死とか脱呪術化と呼ばれる近代以降に固有の意識となる。
というのも中世の時代に伝統儀式を行為する人々は伝統儀式と距離をとってその意味を考えたりしないからだ。彼らは素朴に伝統と一体化しており、即自的に伝統の世界に住まう。
そこでは伝統は選択の対象ではなく人の選択に先立って人間を規定する宗教的世界観(幻想)として実現・実体化しており、人々はいわばその神話的な儀式をそれそのものとして感じるだけ。
だから近代になって伝統が大事だとか伝統主義に戻ろうということ自体が、伝統の現代における意味を考える再帰的営みといえる。
このことは私が私について考えるという近代的自己言及性と全く同質である。
伝統はそれ自体が一つの幻想であり主体性をもち人生における判断行為を内在するわけだが、このような主体性としての伝統儀式が近代にいたって対象化し、伝統自身として伝統を実行する個人が自己解釈するあり方、このようなあり方を再帰的という。
ここでは個人と伝統との距離であり自己差異が伝統の意味を考えるという再帰性を生成する。
再帰的伝統主義とヘーゲル
このような自己関係における差異と同一の運動をヘーゲル弁証法と呼ぶ。
ここではヘーゲルの行動する良心と批評する良心の議論から、ヘーゲル弁証法を確認しよう。
まず行動する良心とは自らの内なる確信から正義をなす主体といえる。より分かりやすく言えば、映画監督を行動する良心といってもいい。
これに対して、行動する良心の具体的な正義の行為について、距離をとって反省し、その正義の理論的な欠陥を指摘するのが批評する良心だ。これは映画評論家に相当する。
人間の近代における再帰的な自己意識とは、一人の人の心が行動する良心と批評する良心とに分離しつつ、それが同じ自己として同一することで成り立つ。
このことはつど信念によって行為し、その行為を振り返り反省する意識といえよう。
こうして反省し自らの具体的行為の意味を振り返ることで、行為は新たに変化する。ここにある行為と反省の反復によって、良心のあり方はよりよくを目指して運動してゆくことになる。
このような自己の良心の分離による結合の運動の反復をヘーゲル弁証法と呼ぶ。
とりあえずここでは、ヘーゲル弁証法においては、正義を示す具体的行為が常に変化するということを記憶にとどめておいて欲しい。
※自己差異における差異=欠如をとどめる父の名がヘーゲルでは問われない
再帰的伝統主義とヘーゲルの違い
さきほど確認した再帰的伝統主義とヘーゲル弁証法が似ているのが分かるだろう。しかし両者には決定的な違いがある。
再帰的伝統主義においては、原版たる伝統行為が想定されていて、その伝統行為の意味は個々人はそのときどきの内省の内容によって変化するが、伝統行事の型それ自体は決して変えてはならないという。
ヘーゲル弁証法であれば、このような不変の原版は想定されない。
フロイトの神経症モデル
さて、じつは不変の原版を想定する弁証法モデルは50年代ラカンの欲望の弁証法と呼ばれる。このことを理解するにあたり最初にフロイトの神経症の治療モデルを簡単に確認しよう。
このモデルは神経症の症状を考えると分かりやすい。
ここで伝統行事を抑圧された幼児期の去勢の脅威であり、心的外傷の原版とする。この原版が日常の他の表象に置き換えられることで症状となる。症状は心的外傷の原版(表象)が他の日常的表象に置き換えられたものである。
このとき、置き換えらた表象は、それが何を意味しているか理解されないために症状として固定し反復されることとなる。
この症状を分析によって解釈し、抑圧された去勢の脅威を言語化することで症状は消える。これが精神分析となる。
この解釈というのは症状をさらに日常の言語(意味)に置き換えて症状を自己として言語化することに他ならない。
つまり再帰的伝統主義でたとえれば、神社の参拝は一つの強迫症状のようなもので、この症状を解釈して意味をとりだし、それを日常の行為(意味、他のシニフィアン)に置き換えろというわけだ。
また神経症というのは社会学でいう再帰的な主体のことなので近代主体といってよい。
かなり分かりにくいと思うので少しだけ補足しよう。
去勢の脅威とは、ここでは自己の直接性(S1)と解釈してもらってもかまわない。僕たちは自己存在を言語に置き換えて自己を認識するわけだけど、直接的な自己自身なんてものは本当は言語によって完全に捉えることはできない。
自己の意味はどこか欠如しているわけだ。そもそも自己存在の直接性は言語とは存在論的なレベルが違うわけだから言語に代理された自己はありのままの直接の自己自身とは一致できない。
それでもありのままの自己存在は言語の世界へと投げ入れられ、これによって人は言語によって自己を言及(置き換え)するようになる。
このとき言語外の直接性の自己存在の表象が、抑圧される去勢の脅威と考えると分かりやすいだろう。言語は法の世界、秩序の審級なわけだから言語外の自己というのは禁止されていて心的外傷性を持つのだ。
※もっと詳しく理屈を知りたい人は当ブログの作品考察記事を適当に読んでください、たとえばペルソナ5だったかの記事ではかなり詳細に説明したはず
50年代ラカンの否定神学と結論
さて、初期ラカンでは言語において意味の欠如として生じる抑圧された直接的自己S1は、父の名によって言語内の穴=意味の欠如として安定化させられる。
※厳密には直接性の自己表象S1は抑圧ではなく排除(原抑圧)されている
父の名により意味の穴は、禁止の彼岸において穴を埋める完全な意味の到達を幻想させるのだ。
そして意味の欠如なき到達が禁足地の彼岸とされることで、実質的に此岸での意味の欠如が受け入れられる。
本題に入るが、50年代ラカンは父の名を単一の名とし、この名を先祖より正統的に正確に伝達される主体の運命であると考えた。
これは単一の欠如を軸に言語の構造を安定化する共時的なエディプスコンプレックスの象徴構造に歴史通時的な構造を内包してしまったといってもよい。
具体的にいえばオイディプス王の物語はこの典型で、オイディプスの父ライオスは王族の子どもを強姦する。これによって呪われたライオスは子どもが自分を殺して妻と結婚するという神託をうける。
そのため生まれてくる子どものオイディプスを始末しようとするがオイディプスは川に流され隣国の王子となる。
そんなオイディプスは隣国で父を殺して母と結婚すると神託を受け、その未来を避けるため国をでる。
しかしそのことで父を殺して予言を実現してしまい失明する。
そのあとオイディプスの娘、アンチゴネーは家族の埋葬について国の法と家族の法とでもめて家族の法を選び死ぬこととなる。
父ライオスの罪(父の名)はかくして、子のオイディプス、孫のアンチゴネーにまで正確に受け継がれ、その運命を規定するにいたる。
単一の父の名(ファルス)とはこのように主体の直接性を言語に置き換えるさいの意味の欠落を安定化させるもので、直接には語られない父の罪が家庭の語らいのなかで、直接には語られなかった語らいとして子どもに正確に伝達する一つの名前(シニフィアン)を示す。主体の人生での偶然も症状もこの単一の名において運命とされるわけだ。
この父の罪であり父の名が正確に伝達されること。このことは伝統儀式の型が変化することなく日本民族に正嫡的に伝達されることと実質的に変らない。
つまり伝統における不変の原版とは、この単一の父の名を示す。
この意味で伝統行事とは幻想上は排除された外傷体験にも近いがその本質は意味を欠いた単一の父の名なのである。
このようにいうとこじつけと思う人が多いかもしれない。しかし、そう思われる人はラカンの精神分析理論を最低限理解した後で、新海誠の『君の名は。』を見て欲しい、するとまったくこじつけでないことを認めざるえないと思う。あるいは吉本隆明の『共同幻想』を参照してもこうした幻想の構造分析の妥当性は理解できよう。吉本的にいえば対幻想が共同幻想たる伝統行事へと組み込まれることで新海誠の物語は始動する。
さて、これでヘーゲル弁証法と初期ラカンの欲望の弁証法との違いは分かったと思う。
ヘーゲルでは単一の父の名(否定神学構造)は前提されておらず不変の原版もない。その意味ではユング的で時間について始点(根本原因)が想定されていない。
またヘーゲルにおいては意味の外部は念頭におかれなず、意味の側が重視される。つまるところヘーゲルでは自己差異=存在論的差異を構成する父の名がそもそも想定されていない。
対する初期ラカンでは単一の父の名が想定され時間には過去の一点として歴史を運命づける始点が想定されることとなる。また言語的な意味の外部が表象不可能なものという仕方で取り出される。
周知の通りドゥルーズやデリダは単一の父の名でありフロイト的な構造をこそ嫌い批判した。
ポストモダンであれば、伝統形式であり父の名は変化するどころか排除されるしかないだろう。
ラカンの60年代における複数形の父の名は、このような唯一の正しい父の名でありファルスを否定して名が複数形であり、その伝達が誤配にさらされていることを認めてゆく。
つまり60年代ラカンは伝統行事の正しい継承などありえないと考えるのである。これによって伝統行為の型は変化することになる。もっともいまに残る伝統行事は全て歴史のなかで年月をかけて変化してきたものであろう。
といってデリダのように強迫的に変化させるべきでもない。ようするにここでは変化する根拠が変化しない根拠とまったく同じだということが問題なのである。
このことを示すのが西田でいう時間の非連続の連続でありヴァイツゼッカーのコヘレンツに他ならない。
複数形の父の名とは単一の父の名と対立などしていないといってもよいだろう。
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