うたまるです。
今回紹介する本は木村敏の『偶発性の精神病理学』。
後期木村の生命論的時間論がコンパクトにまとめられた本書は木村好きにもそうでない人にも必読の書!
この本、間違いなく木村本のなかでも集大成的な位置づけで非常に完成度が高いです。
なのに電子書籍化されていません。
おかげで紙媒体で読むはめになりました。
※出版社さん早めの電子化お願いします
この本は木村による眼からうろこのニーチェ読解にはじまり、お馴染みの「あいだ論」や時間論をヴァイツゼッカーをベースに生命論的な観点から論じているので、けっこう難しいです。
というわけでこの記事では何とか分かりやすくその要諦を解説したいと思います。
ちなみにこの本、当ブログで攻殻機動隊の最後の人間の記事を執筆したさいに参考した本だったりします。
この本を読んだらニーチェが好きになること間違いなし!
偶発性の精神病理とは
タイトル | 偶発性の精神病理 |
著者 | 木村敏 |
出版社 | 岩波現代文庫 |
頁数 | 243 |
発売日 | 2000年2月16日 |
本書は初期あいだ論、中期時間論を経て後期にいたり生命論的転回をなした木村現象学の1つの集大成である。
いかに本書の特徴と構成を簡単に述べよう。
まず、初期~中期の木村では西田幾多郎やハイデガーの影響が強かったが、後期に位置する本書ではヴァイツゼッカーの影響が非常に濃い。
そのためヴァイツゼッカーのゲシュタルトクライス論への言及が多いのが特徴。
また木村本としては珍しくニーチェについて本格的な読解がなされており、本書序盤では木村生命論とニーチェの生命論との対応も示される。さらに本書はニーチェの永遠回帰の理論によってフロイトの死の欲動を再考し精神分析の新地平を開墾。
次に間主観的時間論についての項目ではフッサールのメロディと時間に関する現象学を引用しその欠点を批評、フッサールの欠点をのりこえた木村現象学によって、メロディや音楽の体験を行為的地平において現象学する。
ちなみに音・音楽体験の現象学といえば、竹田青嗣も『新・哲学入門』でやっているので、それと比較しても面白いかもしれない。
また本書では偶然性と必然性、運命との関係を九鬼周造の理論を援用してこれも生命論との関連で論じている。
本書の最後では生物学における個体選択説VS集団選択説の論争をとりあげ、ドーキンスの利己的遺伝子説、RNAとレトロウィルス説などにもふれ、遺伝子やDNAと生命についてをヴァイツゼッカーの界面現象の理論でまとめあげている。
本書のおおまかな構成を示すと序盤でニーチェ、中盤で時間の現象学、終盤で生物学へと議論が展開してゆく。
木村によるニーチェ読解
生成と力への意志
ニーチェは世界の本質を「生成」にみている。
生成はつねに動き変化するカオスのような状態のことで、これを対象として認識することはできない。
生成とはいわば認識以前、対象以前のカオスとしての世界である。また何かを対象として認識するためには、つまり対象があるためにはそれを認識し対象化するところの主体が必要となる。
したがって主体が欲望や関心として、生成より対象を生じることで空間的な対象の認識は可能となる。
このとき対象化を生じる欲望や関心をニーチェは「力への意志」と呼ぶ。
したがって生成に存在の性格を刻印するものが力への意志と呼ばれ、この力への意志が生命とも言われる。存在とは対象の「ある」のことであり、ようするにここでいう存在とは認識へと限定された対象化作用のこと。
分かりやすく説明すると、もしも何の意志も意欲もない完全に無欲望の人がいたとしよう。するとその人は何も意欲しないので何も対象化することがない。したがってその人の主観にはなんらの知覚対象も結実しないだろうと想像できるだろう。
逆に言えば対象とは力への意志が生成に存在を刻印することで生じるわけだ。たとえば腹が減っているとき、食欲という力への意志が発動して目の前のハンバーガーを、美味しそうなハンバーガーとして対象化するということ。
このとき「美味しそうな」ということが存在(アル)に相当する。
また生成と対象ないしは対象の存在との差異を存在論的差異という。つまり対象以前の非対象・非空間と対象との差異が存在論的差異。
そして存在論的差異はそれ自身が力への意志である。
真理
ニーチェといえば、「真理とは生き物がそれなしには生きていけないような誤謬である」という文言は有名だろう。
本書を読むまでニーチェについてほぼ何も知らなかった僕ですら、この言葉は聞いたことがあったほど。
ここでは真理について解説する。
真理とは対象の次元のことで、たとえば対象における自同律などを示す。自同律とはA=Aという論理学の基礎のこと。
つまり私が私であるという自己同一もまた、それなしには生きていけない誤謬ということになる。
生成の動きを止めてこれを対象として認識しようという営みによって誤謬としての真理が生じる。重要なのは認識・対象とはつねに完了形に過ぎないということ。
この真理の誤謬性については、後の項目で解説する運命愛などが理解できると自然と理解可能と思われる。
偶然と必然
本書ではニーチェの「運命愛」を紐解くのに九鬼の偶然と必然に関する理論が援用される。
しかしここでは九鬼の理論の紹介は割愛し、代わりに僕のオリジナルの偶然と必然の理論を紹介する。というのも、九鬼の理論は情報量が多く少し複雑だからだ。
僕の理論は九鬼より遙かにシンプルでいてその本質は九鬼と変わるところがない。しかも本書の議論をより簡単に理解するうえでは明らかに僕の理論のが都合がいい。
本書をこれから読もうという人、あるいは既に読んでいるという人は、この項だけでも読むのをすすめる。というのもぼくの理論を知っているだけでかなり本書の話が簡単に理解できると思うからだ。
まず僕の理論では、偶然とは対象や空間、そして時間の非連続性を意味する。
この理屈は簡単で、独立事象としての確率現象(偶然)には時間的な連続性がないからだ。つまり偶然というのは、過去の出来事や空間と今の出来事や空間とのあいだに時間的な因果関係がなく互いが独立しているということ。
対する必然というのは、時間的、対象的な連続性をしめす。これはある対象が未来にも同じ対象であることを意味する。
必然というのは今ある空間・事象と、その直前の時点の空間・事象とが因果的に規定されることで、各時点の空間の変化=時間が連続されることを意味する。
過去の状態を原因として今の状態があるなら、今の状態と過去の状態は連続性をもっていて、過去のある時点の空間と今この瞬間の空間は同一空間の連続的変化として同一されているということ。
そしてここからが本題なのだが、ある種の必然というのは偶然が必然と化すこと、偶然即必然にある。
このことは一目惚れについて考えると分かりやすい。
AさんがBさんに街で偶然出会い、一目惚れしたとする。このとき二人の出会いは偶然でしかないのだがAさんはそれを運命であり必然の出来事だと考えるだろう。
もっといえば、必然を意味する運命とは、偶然のことでしかない。そもそも必然の出来事というのは予測可能性を持っているため、支配可能性ないしは選択可能性をもっていると分かる。
じじつ自然科学がこれほどまでに力を持ち役に立っているのは、因果関係(必然)を取り出して原因を操作することで好みの結果を得ることが可能だからだ。
したがって因果関係にある必然とは、人間による結果のコントロール、すなわち選択可能性をもっている。
対する運命というのは人間の意志を超えてあるもので、人間の選択可能性を超えている。
そのため偶然だけが運命という必然をなすと分かる。なぜなら偶然というのは一対一の因果関係にはないので、人が結果を支配することができないからだ。
したがって偶然とは、あらかじめそれを予期して避けるということが困難なのだ。
それゆえ、偶然は人間の外部(大他者)の意志として運命をなす核となる。
厳密には偶然が自分にとっての絶対的な意味として引き受けられるとき、その偶然は運命(意味=必然)となるのである。
一目惚れという偶然が運命になるのもそのため。もし偶然が無意味なこととして切り捨てられるならそれは偶然のままであり必然を形成しない。
したがって偶然とは時空間の持続と継続の非因果的な断絶を意味する。後に説明するヴァイツゼッカーのいう転機(クリーゼ)とはこの意味で偶然のことに他ならない。
重要な点をまとめると偶然は時間の非連続性(非同一性)であり対象や空間の非同一性を示す断絶、必然は時間の連続性(同一性)、対象や空間の同一性をなす。
運命という必然は偶然が意味として引き受けられる事で生じる。無意味の偶然に力への意志によって意味が見出されるとき、それは運命という必然となる。
したがって偶然は必然に先立つ。
永遠回帰
永遠回帰とはこの宇宙が無限に歴史を反復しており、まったく同じことが永遠と繰り返されているという思想である。以下、この永遠回帰の意味するところを解説する。
ニーチェは神の死を宣言したことを思い出そう。ここでニーチェのいう神の死とは時間の始点と終点の喪失を意味すると考えられる。
キリスト教では神が時間・歴史を創ったとされる。そのため時間には始点があり目的としてのゴール、すなわち終点がある。
ところが始点と終点を創ったとされる神が死んだことで時間の始点と終点はなくなり、歴史・時間から神の目的という必然性は消失することとなる。
このような神なき時代の時間の無目的な永続性が永遠回帰の1つの意味だと考えられるだろう。
また本書ではニーチェはデジャブの経験を永遠回帰の思想として捉えたことが指摘される。
デジャブとは、力への意志において対象化され反省される今が、その自己性を失って、宙づりとなる、いわば存在のミスプリントのこと。
自己性を喪失した対象としての今は、自己の歴史・時間性=連続性から疎外されることになる。しかし感覚はつねに機能しており、ミスプリントの次の瞬間にも今を生産する。
するとミスプリントされた瞬間は、感覚がとらえるこの瞬間の今と同一となる。このときミスプリントの記憶表象としての今は特定不能の過去に位置づけられて、感覚がとらえる客体的に同一の今と比較されることとなる。
このことで、特定不能の過去にまったく同じことがあったという錯覚が生じるのがデジャブだという。
したがってデジャブではそのつどの存在=アルの本質的な偶然性が露呈していると考えられるのだ。
そもそも対象・空間とは偶然でしかなく本質的には非連続といえる。
当ブログでは定番のゼノンの矢のパラドックスを考えるとこのことはよく分かる。
簡単に説明すると飛ぶ矢はどの瞬間の今においても静止していて動いていない、だから飛ぶ矢はつねに静止していて飛ぶという動きを説明できないとされる。
つまり動きを客観的な対象として捉えようとするとパラパラ漫画になってしまい、パラパラ漫画の各コマ(空間)が他のコマと独立しているように、時間の連続性=空間対象の同一性がなくなってしまうのだ。
すると世界から因果関係がなくなり、全てが偶然=非連続でしかないことが分かるだろう。
動き=時間とは、客観対象=空間の次元では各認識時点の「今=空間・対象」を連続・同一するところの必然=因果律なしにはバラバラとなるというわけだ。
このような空間・対象のもつ本質的な偶然性=非連続性が露見することでデジャブが生じるともいえる。そしてデジャブは前述の通り、まったく同じ事が過去にもあったという感覚であるため永遠回帰に直結する。
いずれにせよ永遠回帰とは非連続な今という生成の無目的な本質が対象認識の次元で露見することに他ならない。
この存在者(対象)の存在のデジャブ的な本質的偶然性をこそ永遠回帰は示しているのだ。
運命愛と力への意志の再帰性
同じ事の永遠回帰とセットで語られるのが「運命愛」である。
運命愛とは永遠回帰としての時間を自己の運命として引き受けそれを愛することといえる。
これはどういうことだろうか。
この理解には本書が援用するハイデガーによる力への意志の解釈が参考になる。ただし本書ではハイデガーのニーチェ解釈を引用しつつハイデガーのその解釈を鋭く批判してもいる。
※ここでは木村のハイデガー批判までは紹介しない
ハイデガーによると力への意志とは意志自身が意志することであるという。
これは人間の意志の再帰性を示す。つまり生成に存在を刻印するところの力への意志はそれ自体を意志するのである。
これによって、意志は主体自己自身となるといえる。
というのも、まず力への意志が対象(存在者)の存在を生じるわけだが、この対象を存在させ意志する主体もまた対象の相関者である自己(私)として対象化することになる。
つまり力への意志が意志自身を意志するとは、意志を自己自身として欲し、限定・対象化することに他ならない。意志はそれ自身を意志することによって自身を「私の意志」と自己限定するのである。
このことは逆を考えると分かりやすい、つまり意志が意志自身を意志しなければどうなるか考えるとよく分かる。
その場合は、意志が私の意志へと引き受けられないわけだ。もっといえば生成に存在を刻印する力への意志が自身に拒絶されたなら、その瞬間の対象・空間の存在(アル)は、本来、力への意志自身である私という主体の主体性から弾かれることになろう。
よって、つどの意志の自己同一は意志が意志を意志することで生じるともいえる。
ようするに意志が意志されないと、偶然にたまたまそのように思ったとか、私でない他者がそのように捉えたとか、その対象を偶然そうあらしめただけ、みたいなことになるわけだ。
(※余談だが、これを精神分析では「無意識の主体」と呼ぶ、無意識の主体はしたがって偶然の主体といってよい)
これでは、そのつどの今は必然性(意味)をもたず、それゆえ自己性も連続性も生じない。
以上から意志が意志を意志する再帰性において、自己としての意志があるといえる。こうして意志そのものが望まれて自己性を帯びること、このことで存在の偶然は必然へと、すなわち運命へと変ずるのだ。
したがって、この意志が意志を意志するという力への意志の再帰性・自己言及性こそが運命愛と考えられる。
ちなみに本書ではヴァイツゼッカーのいう「クリーゼ=転機」が存在の偶然性に対応する。またおそらくは西田のいう行為的直観は転機において主体が自らを自覚することではなかろうか。さらにラカンでいう疎外とは明らかにこの転機の段階を示している。
このことは生命(力への意志)が自己を限定することにおいて時間が生成するともいえるだろう。
割愛するが、本書では日本語のイルとアルの違いから、このような運命と偶然の止揚関係を巧みに解説している。
本書のそのあたりの議論はこの項目の説明が理解できれば問題なく理解できると思うので割愛する。
ちなみにこの存在の本質的な偶然性は生成の言語的な無意味性に直結する。ゆえに力への意志が自己としてあることとしての意味=必然性=同一律はその意味で虚構に過ぎないのだ。
また、この空間の非連続性=偶然性としての存在の偶然性は本書ではレヴィナスの光の暴力のことでもあるという。
死の欲動と永遠回帰
本書では死の欲動と永遠回帰が本質的に同じだと示される。死の欲動というのは、周知の通りフロイトの孫が母の不在という不快を糸巻き遊びで反復することや、戦争神経症における心的外傷の反復夢などをいう。
ようするに、快感原則に反して不快を渇望しそれを反復するあり方をフロイトは死の欲動といっている。
ちなみにラカンでいう一者の反復、依存症、サントーム、享楽などは死や死の欲動に対応する。
ここで死の欲動においても同じ事の無限反復が起きるので、非常に永遠回帰に似ていると分かる。
そもそも永遠回帰は存在の偶然性、すなわち非連続性であった。すると永遠回帰が個別的な生をなす自己の同一性をおびやかし断絶する原理と分かるだろう。
非連続としての偶然は死の原理に他ならずそれでいてこの死(偶然)を引き受けることなしに個別的生(必然=意味)がありえないことを示す。
つまり存在の偶然は死、必然(運命)は生なのだ。
また特に存在の偶然を際立たせるのは思わぬ行為、無意識の行為に他ならない。私の意図を超えた行為を私の意志として私に同一することが今までの私にある種の死を迫ることはいうまでもないだろう。
(※フロイトはこのことを、それ(無意識の行為・イド)のあったところに私をあらしめねばならない、といったに違いない)
また思わず車にひかれそうな人を助けてしまうなど、とっさに生じる私の意図を超えた行為の最中、その瞬間にあっては私という意識はなく行為だけがある。この行為の最中に刹那的に垣間見るものこそが根源的生命の残照であろう。とっさに行為するとき、人は根源的な自他未分の生命を覗き見る。
木村によると死の欲動とは、生成の次元、すなわち対象のレベルでの個別の生命ではなく、その根拠であり淵源となるメタ生命的な生命一般としての生命への回帰だという。
にも関わらず、フロイトは生命一般(非対象)と個別的生命(対象)との存在論的差異を混淆し、死の欲動を個別的生命の次元で捉える過ちを犯した。
そのことで欲動二元論という混乱を生じたとされる。
またフロイトは、内的理由によって生命が生命以前の無機物(死)へと回帰しようとする欲動を死の欲動としている。これは個別的生に先立つ「根源的生=死」への回帰と解釈することができるだろう。
※根源的生は個別的生の側から見れば死に他ならない
したがってフロイトの直観はたしかに普遍的生命としての死を捉えていたと考えられる、しかしフロイトは科学主義的な誤謬に陥り、これを個別的死(対象)へと矮小化してしまった。
その結果、フロイトは自我欲動を死の欲動、性欲動を生の欲動として、不毛な欲動二元論の隘路にはまったのだ。
少し補足すると、そのつどの生成より生じる力への意志が刻印する存在の偶然性は個別的生を脅かす。根源的生は私の意識を融解し個別的な生のホメオスタシスを生きる私に死をせまるということ。
強迫神経症がつねに数字をカウントアップするような生に拘泥することからも、このことはよく分かると思う。永遠の現在というべき対象化以前の意識では数えるなどという行為は成立しない。
重要なのは普遍的生命と個別的生命、つまり普遍と個別との関係は、普遍が個の根拠となっていながら、両者が相克的・相互否定的であるという弁証法的な構造にあること。
普遍と個、両者の自己内差異という関係=力への意志、その躍動が私という対象の正体である。だから両者は独立しているのではない。
とりわけ当ブログではこの点を強調しておきたい。というのも現代の福祉主義VS新反動主義、平等VS自由、独断論VS相対主義、といった不毛な分断は、すべてこの普遍と個の弁証法関係を見逃し、存在論的差異を混淆することで生じているからである。
生命論や時間、存在論を理解することは、現代を支配する政治や経済、イデオロギーの理解に直結する。その意味でも本書の内容は、けっして日常性を離れた酔狂な思弁などではなく、もっとも日常実践的で根幹的なものである。
後期ラカンとニーチェ
ここでは本書の記述を超えて、本書およびニーチェの立ち位置を紹介する。
ニーチェというとニヒリズムであり、ポストモダン的な価値相対主義を連想する人がいるかもしれないが本書を読むとそれは完全な間違いだと分かる。
ポストモダンの連中は普遍的なものをないといい初期中期ラカンでいう欠如を好むきらいがある。
しかしニーチェの思想、ことに運命愛というのは時間の非連続の連続を、すなわち偶然と必然の止揚としての運命を見抜いている。またニーチェは個別的生命の底に生成や力への意志といった普遍的生命を捉えている。
運命愛が偶然(永遠回帰)の必然化のことである以上、これはつどの今における運命の現前を示すだろう。世界を今の偶然の反復としての永遠回帰にみて、この今より力への意志によって運命を成そうという運命愛はラカンでいえば後期ラカンの思想に対応する、ゆえにその本質は欠如ではない。
誤謬=真理としての時間の始点、すなわち過去の欠如としてのニヒリズムは、今において過去(運命)があることを示しているのだ。
また今の偶然性に運命を見据えるニーチェの思想は、その当然の帰結として、やはり普遍性へと通じている。
生成に個別の限定された生命を超えた超越論的な生命を見て取るニーチェの思想は、ニーチェの時間意識と不可分にあるともいえるだろう。
この時間意識と普遍性について詳しく知りたい人は以下の記事を参照して欲しい。
フッサール現象学の欠点
フッサールのメロディの現象学では、時間を認識の次元で捉えようとする傾向が強いという。
フッサールは音の聴き始めである原印象、現在の音の感じを規定する過去の音の感じを過去把持、さらに未来の予測される音を未来予持と呼ぶ。
(※フッサールの音の現象学について詳しくは割愛する、というのもあまりに込み入っていて、しかも思弁的に過ぎ、現実性がないからである)
しかし、これらは認識論的であり行為面が見逃されていたため後期に至ると原印象ー過去把持ー未来予持の三契機を統一する「生き生きした現在」が考え出される。
また、生き生きした現在は「超越論的自我」の「私は作動する」の「生動性」として規定される。
時間意識の根源的源泉をなす生き生きした現在によりフッサール現象学はただの認識論から生命的、行為的なアプローチへと移行。生き生きした現在はいわば原時間としての根源的今のことと考えられる。
(※根源的今の絶対的先行性については、当ブログのユング心理学を後期ラカンで解説した記事で説明してある)
ただしフッサールのいう、私は作動する、は認識的な見るはたらき、表象するはたらきという認識的レベルにとどまる。
かくしてフッサールにおける認識の立場と行為の立場の両価性は「生き生きした現在」を「永続的に留まりつつ流れる」と規定した両義性に表れる。
ここで生き生きした現在の永遠の留まりは行為面としての根源的な今に、つねに変化し流れるという規定は経験的・完了形で認識される意識的な認識・対象に属する。
またヘルトによると、フッサールの永続と流動との矛盾は、超越論的自我の直接に生きながら、その生きる自己を見ることで認識・対象化しようという自家撞着が孕む、行為と認識との相克によるという。
フッサールはその相克、自家撞着を免れるため本来行為面に属する、とどまる今、を非時間的・遍時間に妥当する理念と見なし、これを認識の側に組み込んでしまったのだ。
そして、その認識主義のためにフッサールはアポリアにはまり、神を要請せねばならなくなった、とヘルトはいう。
そこで本書では、木村現象学によって、ヘルトがいう超越論的自我の自己自身に対する原距離を認識ではなく行為的に捉え、その実相をつかんでゆく。
自覚的現象学によるメロディと時間
フッサールの過去把持、未来予持にたいして、時間の行為性に着眼する木村は、過去参照、未来参照を考える。
さらに音楽を聴くとき、人はそれを行為的に、つまり疑似的に自分が演奏しているように聴くという。
これは音楽を聴く体験が、生き生きした音の産出のただ中に自己を躍動する音それ自体と一体となって参入させ、自己を音そのもののアクチュアルな主体性とかすことだ、という意味であろう。
音の産出的な主体性と一体であることは本質的に演奏性を蔵している。
このような行為性、アクチュアリティを重視する過去参照とは、いま能動的に自己に聴かれている生きた音の印象が、過去の音によって規定されることを示す。この過去の参照にともなって行為的に印象される今の音の知覚があるということ。
また過去参照は積分のように印象を形成し、彗星の尾のように直近の過去ほど濃く参照する。ただし同型のフレーズの音のまとまりがあった場合、直近の過去よりそちらの方が濃く参照される。
さらに現在の音は未来をも規定し未来の音を予期し、その未来参照によっても印象づけられる。演奏でいえば次の音の参照なしに今の音の演奏が成り立たないことからも未来参照は確認できるだろう。
そのため未来参照は過去参照と本質的に変わらない。
ちなみにフッサールのいう遠い過去を想起することである再想起は異なるアクチュアリティをもち、過去把持とは別とされるが、過去参照においては再想起は過去参照と区別されない。
以上をまとめると過去参照や未来参照は現在のアクチュアルな音の行為的経験を開く場としてあり、アクチュアルな場それ自身として現在の音は聴かれるという。
ここで重要なのは未来参照や過去参照が生き生きした今を規定し、今もまた未来と過去をつど規定しているという円環的な相互因果関係にあること。
また自己内に原距離を生じる認識する自己と認識される自己のうち、認識する自己としての現在は匿名性を帯びていることも重要。
つまり、あくまでも認識する行為の主体性は匿名(他者)で、対象としての自己へとその差異(原距離)を同一されて私であると見なされることで私としての自己同一性を獲得するといえる。
このような自己同一性のあり方は前述した力への意志は意志自身を意志することで自己の運命を形成するというメカニズムに対応するのはいうまでもないだろう。
さらに木村は音楽体験の現象学を合奏にもひろげる。
合奏においては個々の演奏行為は間主観的主体というべき全体の音によって規定されるという。そこでは自他の区別がなくなり間主観的主体が個々の演奏を産出する。
このことは音楽体験とは異なるが、空気や無言の同調圧力を考えてもわかりやすいと思う。あるいはライブで生じるなぞの一体感などを思い出す手もあろう。するととても実体験的に納得できると思う。
また、それでいて個々の演奏者の個別的主体性は、その間主観的な主体と喧嘩して自分の音を出そうとする関係にあるという。この間主観的主体との喧嘩もまた空気を考えると分かりやすい。
木村敏のタイミング論と時間論
本書ではタイミングというカタカナ語が考察される。
本書によるとタイミングに相当する言葉はドイツやフランスにはないという。英語にはあるのだが我が国におけるカタカナ語のタイミングに比して遙かに使用頻度は少ないという。
タイミングとはタイムすることの意味で、これは空間的・客観的な時間とは異なるという。つまり生き生きした現在の行為性であり非客体としての時間をタイミングというのだ。
したがってタイミングが合わないとは、自己になり損ねることともいえる。間主観的な主体のアクチュアリティが対象としての自己を産出する自己限定の動きがタイミングなのだ。
またタイミングがあうとは間主観的主体の動きである力への意志が、自己として限定され偶然を必然となす瞬間である。このタイミングがズレると自己違和的となり自己になり損ねるわけだ。
前項で確認したように間主観的主体性は個別的な自己に先立っている。このことは現存在(行為)は自己自身(限定された自己対象)に先立つというハイデガーの言葉からも分かる。
ちなみに、ここが分かると統合失調症の先取り的な時間意識、アンテフェストゥムについてもよく分かる。
さらに本書では時間(自己)を3つの次元で捉える。
原初の第一次元はメタノエシスとされ、これは生成であり力への意志の源泉に属する。いわば永遠の現在というべき時間。
これは直接には認識できないので、メタ現象学的とされる。その意味では仮説ともいえるがこれを想定しないことには現象学は難しい。
禅で言えば「父母未生已然」が第一の次元になる。
第二次元はノエシス的とされ、これは行為によって自己限定へと収束する動きの次元。
第三次元はノエマとされ、これは認識対象・空間の次元。
時間の過去現在未来の流れは第三の次元においてはじめて言えることである。
しかしこの時間が過去現在未来の流れとして連続されるのは第三の次元に第二、第一の次元が混入することで可能となる。
もし第三次元だけが独立して意識されれば離人症的な非連続の今=空間の反復にいたるわけだ。
第一・第二次元の行為性が空間的な知覚につねに混入することで空間と空間とが因果的に連続されるのだといってもいいだろう。
ヴァイツゼッカー
最後に本書で登場するヴァイツゼッカーのロジックを簡単に解説する。
まずニーチェでいえば生成の位相に属する、個別的な生命の根拠となる普遍的生命のことをヴァイツゼッカーは「生命一般の根拠」という。
そしてこの根拠との関係を「主体」という。
以上からヴァイツゼッカーの理論は、個々の個別対象的な生命がまずあって、それが関係するというダーウィン的・自然科学的な有機体と環境との二元論モデルとは根本的に異なると分かるだろう。
ヴァイツゼッカーの生物学は、そうではなく生命現象を有機体と環界とのあいだの現象、「界面現象」として捉える。
それゆえ、この環界と有機体との関係は「相即」にあるという。ところが相即は分裂しやすく常にそのつどの世界との出会いにおいて、「転機」すなわち断絶の危機にあるという。
この転機をそのつど乗りこえ自己というゲシュタルトを止揚しつつ継続するのが個別の生命である。このことは力への意志が偶然を必然へと変換することに対応する。
また転機によって主体は主体自身を自覚(対象的自己への限定を)するとされる。
つぎに有機体の具体的な行為の形式の生成を「ゲシュタルトクライス」と呼ぶ。
ゲシュタルトクライスは、有機体が世界との出会いにさいしてとる行為の形式のこと。これは因果関係によっては規定されず、クライス=円環をなすとされる。
つまりゲシュタルトクライスでは有機体と環界との相互的で回帰的な因果関係が考えられる。結果が原因となり原因が結果へと回帰する円環をなすわけだ。
たとえば空中に円を描くとき、円の大きさにかかわらず円を描く時間はだいたい同じだという。
このことは知覚と行為の相互性を示す。円の知覚のうちに円を描く速度という行為が内在し、その行為が円を規定するという相互的な関係があるということ。
また本を読むとき目線ではなく本を動かして読もうとすると目線(行為)が混乱するのは、知覚対象を一定に保とうとする相即が破られる現象だという。このことからも知覚それ自体が先立つ行為の形式を蔵しているのが分かる。
これは知覚そのものは行為性、存在において生じるが知覚対象もまた存在に先立って存在を規定しているのを示すと考えられる。
(※おそらくゲシュタルトクライスはベイトソンのサイバネティックスにも近い、そのため木村敏の話はユング派の川嵜克哲と近いところがある)
以上がヴァイツゼッカーの理論の概要になる。本書ではこのヴァイツゼッカーの理論を軸にドーキンスの利己的遺伝子論やレトロウィルスのRNAによる水平方向への生命情報の拡散について論じられる。
ドーキンスらの理論とヴァイツゼッカーとの対応関係については本書での記述量が少ないこと、およびぼくの理解力では要約・解説も難しいので割愛する。
終わりに
本書はけっこうマニアックで、そもそも少し難しい本なので、そのぶん解説がいつもより雑になったかもしれない。
ところで当ブログでは一部の心理学的考察記事と作品考察記事がほとんどのPVを支えており、本に関する記事はほとんど読まれていない。
さらに今回紹介した本は木村の本のなかでも特に難しく、最近の中身のない本がもてはやされる潮流に反しており、ほとんど読まれない記事になることが分かっているため、記事の仕上がりにも甘さが出たかもしれない。
しかし本書は、納得のニーチェ読解にはじまり、イルとアルの現象学、タイミングの現象学などがフル展開され木村敏の圧倒的な知性と現象学的センスにあふれている。
記事では割愛したがイルより古いアルの偶然性という考察は、非常に参考になり読んでいて面白かった。イルはアルによって限定された主体を示すためアルより新しいのだ。ここに偶然をして必然に転ずる運命愛の本質がある。
また時間論もこれまでの木村理論になれている人にはとても参考になる内容となっている。本書は既に木村理論にどっぷりつかっている人向けの本であり、万全の解説・要約記事を書くのは非常に骨が折れる。
そのため随所に甘い記事になってきらいがあるが、ニーチェ解説での力への意志が意志を意志することで偶然が必然とかす、というロジックについては、分かりやすく説明できたと思う。
本書はこの力への意志の自己回帰性と運命との関係が理解できれば8割型理解できる本でもあるので、この記事は本書を読むうえで参考になるはず。
というわけで偶然性の精神病理は木村本を何冊か読んでいる人に、本当にオススメの本。
逆にいうと本書は木村本を読んだことがない人が最初に読む木村敏の本ではない。
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