うたまるです。
最近、YouTubeを見ていたら、人中心主義は人類を堕落させた、だから神への信仰には価値がある、というタイプの言説が有名な言論人らによってなされているのを見かけた。
というわけでこの記事では神の信仰が現代社会で必要なのかを論じたい。
なぜ神は必要なのか
神肯定派の代表的な言論人に伊藤貫がいるので彼の論考を頼りに神肯定派の意見を確認しよう。
伊藤氏は日本よりもアメリカに住んでいる期間のが長い人で、アメリカの政治や哲学に精通する日本の保守派言論人の一人。
そんな伊藤氏の言説を僕の理解で以下に要約する。
伊藤氏は哲学の健全性は二つのMに答えられることだという。
このMはMEANとMissionの頭文字。
つまり人生の意味と使命、この二つに明確に答えられない哲学は価値がないというのが伊藤氏の主張だ。
いうまでもなく宗教や宗教に根ざす哲学はこの二つのMに明確な答えを与えてくれる。たとえばキリスト教では最後の審判のために禁欲生活を継続することが人生の意味と目的を構成するなど。
したがって伊藤氏は宗教と17世紀以前(250年より以前)の哲学に高い価値を与え、神への信仰が消失してゆく近代以降の哲学を否定する。
とりわけフランス現代思想のポストモダン(帰謬論的相対主義)には辛辣な評価を与える。そのため古代ギリシャ哲学にあってもゴルギアス(人類最古のポストモダニスト)などは批判の対象となる。
というわけでソクラテス、プラトン、アリストテレスらを一流の哲学者としデカルト、カントにも高い価値を認める。
一般にデカルトもカントも人中心主義(啓蒙主義)を準備した哲学者とされるが、伊藤氏はカントが一番好きな哲学者だという。
さて、このことから伊藤氏がなぜ神を必要とするかを推理してみたい。
まずカントが一番好きということ、徳のある生活に神が必要だということ、相対主義への忌避、これら三つの主張を線で結ぶと伊藤氏の考えが明確になると思う。
カントが好きな理由の一つは、おそらくカントが徳福の一致のために神を要請したことにある。
カントは善人が必ずしも現実の物質世界で報われるとは限らないといい、しかし精神の徳と物理的現実の幸福とが一致しなければ徳をなす動機がなくなるから、両者を一致させる神が要請されるという。
カント好きであることと徳のある生活に神が要請されるという伊藤氏の理論が重なるのが分かるだろう。
したがって相対主義への批判も、相対主義が真善美にはなんの根拠もなく全ては相対的だということで、人を殴ってはいけない理由すら説明できないことに関連すると考えられる。
神とは、法や道徳、万物の絶対的な根拠としての超越項であるから、これをパージすれば世界はその秩序の根源的根拠を喪い利己主義だけが蔓延するという考えだろう。
よって相対主義的な反基礎づけ主義に対抗するための戦略として独断論的に神を要請する宗教的独断論(基礎づけ主義)を提唱していると考えられる。
伊藤氏の他に、藤井聡、宮台真司らも神の必要を説いているのだが、おそらくは伊藤氏のこの戦略とそう変らない気がする。
宗教的独断論の限界
このような相対主義と独断論の対決は哲学の歴史では幾度となく繰り返されてきた。
スピノザVSヒューム、マルクスVSポストモダンなど。
さて、竹田青嗣は、この問題の根は認識論にありゴルギアステーゼと呼ばれる存在≠認識≠言語の不一致問題に帰結し、このゴルギアステーゼの詭弁はニーチェとフッサールの現象学によって解かれているということを論証している。
ここで竹田の論証を反復しても凄く長くなってしまうし竹田の本に既に分かりやすく書いてあるから意味が無いのでそれについては割愛する。
ただ少しだけ述べると宗教的独断論は他宗教との調停の原理をもっていない。そもそも独断論なのだから異なる主義とはぶつかるより他ない。
たとえばプロテスタントとカトリックは過去に戦争を繰り返してきた。だから宗教的独断論によっては解決しないように思う。
そもそも生き方が多様化したこの時代に過去の素朴な時代に帰れ、といってもできないわけで現実性が見えてこない。また人生経験によって何が徳となるかは異なってしまい、かつてのようには統一できないだろう。
いずれにせよ、この問題は哲学のレベルでは既に現象学によって解決しているのだ。だから哲学のレベルでは神は素朴な意味では要請されない。
余談だが伊藤氏が過去の哲学にしか価値がないというのはむちゃな論理だと思う。
つまるところ究極の真理はカントやプラトンが全て掘り起こしたので現代人は過去の哲学を聖書のように崇めろ、といっているようにも聞こえる。
哲学するのに神を前提しなければ価値がないというのはラジカルに思う。
哲学のテキストは生きている。だから運動もする。もし若いカントが現代に生き返って自分のテクストを読んでもカントはそれには決して満足せず、自らの哲学の続きを書くことになるだろう。そこでは過去の自分のテキストがある程度は否定されることになる可能性が極めて高い。
哲学の本体は主体の弁証法的運動にあるから、聖書のようにテキストを固定することはできない。真善美とやらも時代とともに変化する。
※ただし伊藤氏は7割は民主主義や人中心(ヒューマニズム)が正しいといい、3割は宗教が正しいともいう
ちなみに僕は神がいようがいまいが道徳心に変化はない。神がいるから善いことをするという感覚がそもそも自己中な人間性の哀れな発露としか僕には思えない。金がもらえるから善いこと悪いことをするというのと何が違うのだろうか?
近年は精神的な善行(徳)が物理的現実のメリット(幸福、金)になるという論法で道徳を説く言論人が多いが、そのような論理は悪がメリットになる状況では人を悪へと走らせるものであって意味が無いように思う。
なによりも、こうした空想的論理は精神分析においては幻想の効果(対象aの抽出)として定式化できるが、このような幻想の現実化をうたう言説は、それが翻ってポストモダンおよびプレデタータイプのマネーマシンを生じるという洞察を欠いている。
※徳福の一致を目指すことを否定しているのではない、むしろ目指すためにはそれは喪失していなければならないといっている、このことは客観を構成するにあたり客観の欠如が要請される構造と全く同じ
理想と現実の差異の消失、内界と外界との差異の消失、理想の現前、欠如の否定は人間の主体(欲望)を自滅に追い込むのだ。
ヘーゲルのカント批判の理由もここにある。
心理学における神の不在
哲学によって解決した問題を深層心理学の観点から確認したい。
真善美や徳が基礎づけとして成り立つのは、これらが普遍的であることによってだ。
すると普遍的な徳を基礎づける根拠(主体)は単一であることが望まれる。
そのような神が一神教の唯一神であった。この欠如した究極的な単一の根拠を示すシニフィアンのことを精神分析では〈父の名〉と呼ぶ。父の名とは唯一神の欠如した名前であり、単一の名を示す。
ところがフランス革命によって神が殺されたことで、父の名は単一性を喪い複数系となってゆく。
このことで相対主義(ポストモダン)が起こり、現代では非定型発達が増えるにいたる。
社会における公共を語る言語が多様化したといってもいい。グローバリゼーションによって既存の普遍性が相対化されたともいえるかもしれない。
相対化された父の名においてはもはや、普遍の法(真善美)は不在となり、ローカルな法(信仰)の根拠を基礎づけるにすぎない。
話を強引に単純化して示すと、このとき法のローカライズが個人のレベルにまで分解することで法は法としての禁止の機能を喪失し、翻って独断論的普遍主義を生じてしまう。
かくして神の死は神の回帰を促すのである。
※ジジェクはこの現象を禁止の禁止による神の回帰と呼ぶ
これが深層心理学的な現代社会における神の死の問題の本体といえる。
まとめよう。つまり信仰の自由があり生活スタイルの多様化する現代においては個々人で信仰する神が違う。無神論者もいれば仏教徒、キリシタン、イスラム教、ヒンドゥー教もいる。
こうした世界では信仰は相対化されるより他ない。さもなければ争いとなり信仰の自由そのものが成り立たない。
このような信仰の自由による神(信仰)の分裂(多様性)が複数系の父の名(神の名)に相当するだろう。
この場合、もはや宗教は社会の基礎づけとしては機能せず、徳の普遍性すら保証しない。
つまり宗教にとって代わる単一の父の名の制定が必要となる。
信仰の自由においていくら宗教の重要性を説いてもプレデタータイプのマネーマシンにはその言葉は届かないということ。むしろ相対主義者の思うつぼである。普遍的規範より個々人の徳目に訴える社会論は相対主義者の思惑と完全合致する。
さて、じつはポスト宗教としての単一の父の名こそがルソーの一般意志となる。
一般意志とは共同体の普遍的法の根拠(主体)のことで、これは自由の相互承認の意志と言い換えることができる。つまり自由の相互承認を実現するにおいて万人を縛るルールが要請されるが、そのときそのルールを根拠づけるのが共同体がもつ相互承認の意志(一般意志)だということ。
ちなみに一般意志は神の信仰を否定するものではない。ルソーが神をどう考えていたかは知らないが、理論的には一般意志は神の信仰の自由を保証するものである。
一般意志こそが単一の父の名であり、宗教的な神の名は信仰の自由や生活習慣の自由がある現代においては複数系の名を超えることができないのだ。
たとえば天皇はたしかに国体として国民のメンバーシップの涵養に寄与しているだろう。しかし天皇の意志も一般意志に優越するものではない。天皇もまた一般意志を目指し、それを象徴することはあるだろうが、一般意志そのものではありえない。
※天皇は日本人にとっての他者関係(公私)の実存構造を象徴するもので死生観を代表してきたが現代においてその機能はほとんど確認できない
一般意志は天皇や宗教を否定しているのではない。そうではなく一般意志が人々に教えるのは、他者の意志を自己として引き受けろということである。
だからルソーは人(自我)中心主義ではない。そうではなく無意識の他者を中心としている。
このような構造は神を中心とする構造と同じくらいに自我中心的ではない。というよりデカルトが悪霊(古き神)をしてコギトといったように、自我とは他者の名であるということをルソーは示している。
※デカルトのコギトはデカルト自身の誤読と後生のデカルトのテキストの誤読とによって悪霊(無意識の主体)から切断されてしまった経緯がある
だからこそ一般意志は翻って伝統や宗教といった他者に対する引き受けを促す効果もあるのだ。
昨今保守論客が問題視する相対主義における規範(定型)に対する強迫的な否定の衝動とは、一般意志がなす普遍への抵抗に他ならない。つまり相対主義が真に敵としてその破壊を目論む対象とは一般意志であろう。
だから伝統を含め規範や神を守るにおいても、一般意志を立てるより他には手段はないのだ。
つまり素朴な神は要請されえないが、神を守るにおいて一般意志は要請される、というべきである。
一般意志と神
神の死や相対主義について思うことがある。
ぼくはユングが好きなのだが、もしユング派にとってユングは死んでユングのテキストにもユングの主体(魂、文脈、行間)は存在しない、ということになったらどうなるだろうか、と考えてみた。
※デリダはこのように考える
するとその時にはデリダみたいな相対主義になって脱構築と散種を無限に繰り返し、詐欺師によって世俗化したエセユング理論までシミュラークルとか呼び出して賛美するようになるだろう。
マルチバース化した狂ったエセユングが無限に増殖するといってもいい。
※ユングがスパイダーマンのスパイダーバースシリーズみたくなる
かならずしもこの態度が全てにおいて間違いとは言わないが、明らかに間違っている。
ここでユング派というのはユングについての信仰で成り立っているところがあるので、ユングを神に置き換えることもできる。
すると神(ユング)は死んでも、神の魂はなんらかの意味で残存せねばならないのが分かる。
さて、ここでユニバースな神を客観認識(普遍法)の主体と考えよう。一般意志とは普遍的法の根拠であり主体であるわけだから、神=一般意志という定式が成り立つことが分かる。
だから死んだ一神教の神を一般意志と呼ぶのである。
これは客観が神の視点から始まって、その後、現象学的なノエマに還元されたことに対応する。
神を客体的に捉える限り、この構造は見えてこない。
つまり神の死というのはその具象性が消去されたに過ぎない。
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