『謎メキ!花の天カス学園』がクレしん映画最高傑作の理由を解説・考察!ネタバレあり

映画『天カス学園』の画像

どうも、クレしん映画は原恵一派でおなじみ、うたまるです。

※ネタバレあり


映画クレヨンしんちゃん『天カス』を精神分析(後期ラカン)で解説、考察。

ぼくはクレヨンしんちゃんの映画は最新作以外は全て見ているクレしんウォッチャーです。クレしんといえば『大人帝国』が定番ですが、『天カス』はうたまる的には、大人帝国に匹敵する最高傑作

また『天カス』は現代社会を語る上で絶対に避けれない非常に重要な作品。じつは天カスの物語構造は極めて特殊であり、ポスト近代というべき昨今の時代精神の移ろいが見事に表象されています。

そのため非常に社会批評性の高い作品であり、この記事のような作品解説を必要とする作品だと言えます。

(※この記事を読むと最新のラカン派の現代社会論や、後期ラカンのサントーム、性的関係はない、ヒステリー、強迫神経症の理論の理解の助けになります)

というわけで『天カス』の魅力を完全解説!

天カス学園とは

公式予告篇
作品名クレヨンしんちゃん
謎メキ!
花の天カス学園
監督髙橋渉
脚本うえのきみこ
髙橋渉
公開日2021年7月30日
基本情報

劇場版29作目となるクレしん映画。

『逆襲のロボ父ちゃん』以降、橋本昌和監督と交互にクレしん映画の監督をつとめてきたことでおなじみ、髙橋監督による作品。

そんな本作は子ども達が親元を離れ非日常の世界へと冒険をして成長するという古来から定番の物語でありながら、学園ミステリーというこれまでにない要素を組み込んだ型破りな意欲作。

物語研究の側面からも、映画史を考える上でも非常に重要な作品であり、考察記事を公表する価値の高い作品である。

『天カス学園』ネタバレ・あらすじ

風間君は、小中一貫の全寮制エリート校「私立天下統一カスカベ学園」の一週間体験入学に、しんのすけら、かすかべ防衛隊メンバーを誘う。

しんのすけらは家族のもとを離れ、自動運転の送迎車で山奥にある天カス学園へとむかう。
天カス学園では生徒のチシオがしんのすけ達を出迎える。

学園はオツムンというAIが採点・判定するエリートポイントなる中国の信用スコアのようなものを採用しており、体験入学でエリートポイントをたくさん獲得すると特待生として入学できる

そのため風間君は躍起になってエリートポイントを稼ぐが他のかすかべ防衛隊のメンバーは天カス学園にもエリートになることにも興味が無い。このことで風間くんと他メンバーとで軋轢がうまれてゆく。

そんなとき、しんのすけはトラブルを起こしてはポイントを減点され、しんのすけに巻き込まれる形で風間君のポイントも大幅に減点されてしまう。

この事件を発端に二人は喧嘩し絶縁状態となる。

ポイントを失って気を落とす風間君は、オツムンにエリートへの裏道があるとそそのかされる。

風間君は迷った末、裏道を案内するようにオツムンに頼むと、どこかへ連れて行かれてしまう。

こうして風間君は行方不明となる。

風間君の失踪に気づいた、かすかべ防衛隊メンバーは心配して学園を探し回る。すると学園の敷地にある時計塔でお尻を噛まれた状態で倒れた風間君を発見する。

救助した風間君は目を覚ますと、完全なおバカに豹変。

学園では時計塔にいるという、お尻を噛む吸ケツ鬼の噂が広がっていたため、しんのすけ達は学園長に風間君は吸ケツ鬼に襲われておバカになった、と訴えるが学園長はとりあわない。

風間君以外にもお尻を噛まれた生徒が複数おり、噛まれた生徒はみな、おバカに変貌してた。

ゆえに学園長はこの不祥事を隠蔽するため、風間君はエリートの重圧に耐えきれず精神的にダメになったに過ぎないと言い張る。

そのとき学園長はすかしっぺをして、それを風間君になすりつけるも、しんのすけの推理によって暴かれる。その推理力をチシオに買われ吸ケツ鬼事件を調査する「かすかべ探偵クラブ」の設立が認められる。

かくして、かすかべ防衛隊とチシオは探偵クラブの活動で、風間くんをおバカにした吸ケツ鬼事件を調査。

風間君が襲撃されて意識を失う直前に床に残した「33」のメッセージを頼りに、超エリートのクラスであるテン組の生徒や、劣等生のカス組の不良、学園の森に住む生物学部のろろなど容疑者を調べてゆく。

そんななか学園のエリートポイント主席のサスガ君までもが襲撃され、おバカ(通称がきんちょ)になってしまう。

しんのすけはオツムンにクラス担任のスミコ先生が待っていると図書館に呼び出され、図書館で眠ってしまう。

しんのすけが目覚めると、そこは時計塔に偽装された図書室で、自分のお尻に装置を取り付けられていた。そこに風間君が登場し、装置をしんのすけから外して自分のお尻に装着する。

犯人の覆面の男は装置のスイッチを入れる。これにより風間君はスーパーエリート風間さんとなる。

犯人は「ついに誰でもスーパーエリートにする装置が完成した!」と興奮し、しんのすけ達をスーパーエリートに変えようとする。

しんのすけは、犯人や風間さんと戦いつつ、からくもその場を逃げ切る。

翌日、探偵クラブは、サスガ君のわずかなミスを頼りにサスガ君がおバカを演じていることを見抜き、彼が真犯人だと暴く。

風間君の残した「33」のメッセージはサスガ君が眼鏡を外したときの眼を描いたものだったと判明する。

追い詰められたサスガ君は、チシオのことが好きであり、それが事件の動機だと自白をはじめる。

 サスガくんのいきさつ
チシオは元々マラソンの世界大会で優勝するトップアスリートであり、その功績からテン組にいたのだが怪我でランナー引退を余儀なくされカス組へ転落。

そこでサスガ君はなんとかチシオをテン組に戻せないかとオツムンに相談する。

オツムンは自分の設計する誰でもスーパーエリートになる装置を完成させて、それでチシオをスーパーエリート化すれば良いとアドバイス。オツムンの提案に賛同し、サスガは装置の組み立てと実験を開始する。

お尻を噛まれてバカになった生徒達はその装置の実験台であった。

 オツムンの自白
さらにオツムンのサスガ君へのアドバイスは学園長が何気なく放った、「ちゃっちゃとエリートをつくれ」という要望が原因だったことが明らかとなる。

学園長自身も自分の何気なく放った言葉が一連の事件の原因であったことに驚愕する。


 物語のクライマックス
ことの顛末が発覚するとオツムンと風間さんは全生徒をスーパーエリート化しようとする。

それにしんのすけが難色を示し、風間さんが勝てば全生徒エリート化、しんのすけら探偵クラブが勝てば風間君が、かすかべ防衛隊に戻るという条件で、「焼きそばパン買ってこいよ競争」をすることになる。

熾烈な争いの果て、オツムンは壊れ、スーパーエリート風間さんは、風間君に戻り、ギリギリで、しんのすけに勝利して、しんのすけとの友情を確かめあう。 

天カスの特異性と逸脱

『天カス』は子ども達が日常世界の親元を離れて非日常の天カス学園へと行き、非日常の世界で多くの体験をして成長するという古来から愛される物語の王道のプロットを備える。

しかし、そのプロットの後半部分は異様であり旧来の物語の常識を破壊する。

最初に本作の物語構造の特異性を理解するため、ここで旧来の物語のプロットの心理学的構造を確認してみよう。

旧来のイニシエーション型の物語

子どもが日常から非日常へと向かい経験をつんで成長するタイプの物語は文化人類学者エリアーデがいうイニシエーション構造をもつことが知られる。

ちなみにイニシエーションというのは子どもから成人とか、一般人からシャーマンなど社会的なステータスの変化に伴う心的変容の基礎付けのためになされる、非連続的な心的成長を実現する儀式のこと。

エリアーデによるとイニシエーション構造とは「分離過渡統合」の3つのプロセスでなりたつ。
分離とは、日常(家庭)から隔絶された非日常空間(天カス学園)の設定過渡は日常から分離された非日常へと渡ること統合とは非日常から日常への帰還を意味する。

(※余談だがイニシエーションについて知りたい人は鬼滅の刃を読むとよい、民族学的研究で知られるイニシエーションの型が大量に詰め込まれている)

このようなイニシエーションのプロセスが必要なのは、たとえば人が子どもから大人になるとき、今までの子どもな自分を1度殺して、大人としての新しい自分に再生しなければならないため。

つまり、まず日常から分離された非日常へと渡り、そこに滞在することで、今までの自分を示す日常から決別し、まったく新しい非日常の世界で、新しい自分を構成する。

しかしこれでは変容した私は過去の私ではない別人となってしまい、自己の同一性が破綻してしまう。そのためイニシエーションでは日常への帰還という統合のプロセスが欠かせない。

帰還を意味する統合は根本的に変容した自己を今までの自己(日常)に同一することで、今までの自己との同一性を持って新しい日常の自己を生きることを示す。

このプロセスは日常という意識の領域に非日常という無意識の領域に属するものを統合することだと理解してもいいだろう。

無意識世界の経験を持ち帰り、日常意識のなかに、その出来事を解釈(統合)する営みはユング派の心理療法のあり方にも通じる。また初期ラカンの象徴的無意識をベースとした精神分析にも通じるところがあるだろう。

というわけで、日常から非日常へと向かい子どもたちが成長して日常へ帰還する物語はイニシエーション型の物語として古来から重視されている。

例を示すなら「ナルニア国物語」や「ネバーエンディングストーリー」なんかは分離ー過渡ー統合のイニシエーション構造が分かりやすいだろう。この近代型(非日常の否定を含むタイプ)には「不思議の国のアリス」などもある。

また自らが異界へ渡る方式と別に、異界のもの(霊など)を日常世界に呼び込んで統合するタイプのイニシエーションもある。たとえば「若女将は小学生」というアニメはその近代型バージョン(異界の否定を含む型)の典型だ。

ちなみにユング派が好む夢分析もこの構造を持っている。つまり夢は非日常であり、その内容を覚醒時に語り解釈することは、そのまま非日常(夢)での経験を日常の意識へと統合する作業ともいえるのだ。

またユング派の臨床では、現代人は夢の構造が壊れていることが知られており、そのことと「天カス」の特異なプロットは通底していると考えられる。

抽象的思考力を欠いた論理実証主義者には理解できないだろうが、物語と夢の世界は繋がっていると解釈できる。

天カス学園のイニシエーションの逸脱

物語のイニシエーション構造を確認したので、さっそく「天カス」における構造を確かめよう。

まず本作の途中までは、母ミサエが、体験入学でいなくなった、しんのすけのことを想い家で悲しむシーンが数多く挿入されている。また物語冒頭でも、しんのすけの送り出しが丁寧に描かれたシーンが挿入される。

このことから本作では、非日常(学園)と日常(家庭)との境界が明確に存在し、その隔たりが強く示されているのが分かる。

つまり本作では極めて丁寧に分離が描かれているのだ。

ところが本作が佳境にいたると事態は一変する。なんと保護者(日常性)が総出で学園にやってきてしまうのだ。
さらにそのおかげで帰還は一切描かれることなく終わる。

いったいこれはどういうことだろうか?
このことについてはポストモダンと言われる現代社会の特徴を分析すると理解できるのだが、そのまえに本作のもう一つの逸脱を確認しよう。

ミステリーの歴史

天カスがクレしん映画として特質すべき点に学園ミステリー要素がある。
じつは本作のミステリー要素はミステリーというジャンルにおいて特異であり、イニシエーション構造の逸脱と通底する。

まずはミステリー・推理小説と精神分析の関連を確認し、その特異性(逸脱)の本質に迫ろう。

じつは『天カス』のような、表に現れる些細な痕跡から、その背後に隠された事件の犯人や犯行の意図を推理して暴くという推理小説のモデルは近代になって登場した歴史がある。

じじつコナンドイルの推理小説「シャーロックホームズ」が出版された時代(19世紀末~20世紀初頭)とフロイトの精神分析が台頭した時代はほぼ完全に重なる。精神分析も推理小説もともに近代主体の誕生によってはじめて可能となるのだ。

そのため推理小説の誕生を、深層心理学の世界では、しばしばシニフィアン(犯人の嘘発言)とシニフィエ(犯人の本音)の分離に対応させる。
余談だが、これは表意文字から表音文字へ、詩(隠喩)から散文(換喩)へ、話し言葉(パロール)から書かれた文章(エクリチュール)への変遷にも対応する。

ともかく、推理小説とは人間の外面(発言)と内面(隠された意図)がズレることで可能となるのだ。
そして、このことは嘘や恥、罪の意識の誕生にも関わる。

次に推理小説・ミステリーにおける外面と内面のズレを確認してゆこう。

推理小説の外面と内面のズレ

推理小説なら、嘘は分かりやすいだろう。そもそも犯人の嘘を暴くことでミステリー・推理小説は可能となる。

そして嘘とは、発言と発言意図とのズレを生じる。たとえば政治家の嘘の謝罪を考えよう、彼らは内心ではまったく悪いと思っていないのに謝罪の言葉を騙り、反省を演出する。

つまり発言内容(外面・メッセージ)と、その言葉の裏にある意図(内面・メタメッセージ)とがズレるのが嘘だといえる。

逆に言えば、もし外面がそのまま内面と一致したら、もはや推理小説は成立しない。なにも隠されていない世界では隠されたものを暴く推理は成り立たないのだ。

そして、推理を可能とする外面と内面のズレこそが近代主体の最大の特徴だと言える。ゆえに近代は嘘と罪の時代の到来でもある。

もちろん近代以前から嘘はあるのだが、近代以前の嘘は刹那的であり曖昧で一貫性がない。
対する近代の嘘は明確な自覚があり一貫した意図を持って計画的につかれる。

つまり近代以前では外面と内面のズレ(嘘)は曖昧で未分化性が強いが、近代になるとシャーロックホームズに登場する犯人の嘘に明らかなように外面と内面が明確に分離しているわけだ。

もう少しだけ論理的補足をすると近代の嘘は、自己言及性に依拠する。これは流行の言葉でいうメタ認知といってもいい。

すなわち自分が自分について言及し認識する自意識の成立が近代的嘘の起源であり、このことは近代に至り自分の顔を映す鏡が部屋に置かれるようになったり、肖像画が置かれるようになることと密接に関わる。

つまり自意識とは私が私を認識し私に言及することであり、これは自分を見る私(内面)見られる私(外面)との分離を生じる。

以上が近代における言及される自己(外面)と言及する自己(内面)のズレと推理小説との関係の基礎となる。

また、このような自己と自己との分裂が近代にいたりフロイトの時代に神経症という事態を生じ、そのことで精神分析やシャーロックホームズが可能となる。

フロイト時代の精神分析家とはホームズのように推理して無意識に隠されたものを暴く人なのだ。

そして精神分析やユング心理学もまた自己が自己を見つめ、分析する自己言及を基礎とする体系である。

話を推理小説に戻そう。
推理小説といえば、犯人の残す複数のわずかな痕跡をたどり、個々の痕跡の点と点を結び線でつなぐことで犯人にたどり着くことを特徴とする。

じじつ、『天カス』では犯人のサスガ君を暴くのにカニの殻や粘土細工の文字など複数の痕跡を線で結ぶことで、しんのすけがサスガの嘘を暴くことになる。

実は、このような点と点を結び隠された因果関係を暴くことは隠された内面と外面のズレや、それを可能とする自己決定に深く関わる。

というのも自己決定(自己言及)とは、私が私の職業や何者かを決めるということ、これは目標設定をして、その目標に向かいそのつどの今を計画的に生きることで可能となるからだ。

つまりダイエットに喩えれば、つどの運動や小食の行為はダイエットという意図のもとに一貫性と連続性を与えられるということ。

ここで、点と点を結ぶとは、そのつどの相手の発言(点)の裏に隠された一貫した意図(線)を取り出すことに相当する。
そして意図(原因、線)とは、そのつどのバラバラの発言(結果)に一貫性・連続性(線)を与えるものに他ならない。

また近代初期にニュートンがニュートン力学を発見したことと、そのつどの発言(外面)を結び、隠された一貫した意図(内面)を想定することは相同性がある。

つまりニュートン力学は、そのつどの物体の座標を連続性のもとに同一する関数(意図)の発見といえる。これはつどの相手の発言を連続し同一する意図を推理するシャーロックホームズ(フロイト)の推理とアナロジーをなすのだ。

以上から、『天カス』のミステリー要素が極めて近代的な内と外とのズレの描写に直結すると分かる。

また内面と外面のズレは、イニシエーションにおける日常(意識)と非日常(無意識)との分離とも関係する。

というわけで具体的に『天カス』における内外のズレの構造を確認していこう。

天カスにおける外面と内面のズレ

しんのすけは、学園長のわずかな痕跡から学園長がすかしっぺの犯人と推理し学園長の嘘を暴く、さらに被害者を装う犯人のサスガの嘘も暴く。

ネネもまたわずかな痕跡から、犯行現場が偽装されていることを推理したり、学園の次席を容疑者として疑う。

マサオもまた推理を展開し、33代目番長にあたりをつけて裏の顔を暴こうと内定をする。

ボーは、容疑者の一人ろろに恋をし、ろろの疑わしい行為を仲間に隠し、嘘をつく。

風間くんは近い将来、かすかべ防衛隊の仲間と離ればなれとなり友情が終わることを心配し(一貫した意図を持ち)、内心に仲間たちへの友情と信頼を隠し持っていたことが、終盤の隠された手紙によって発覚する。

さらに主要キャラのチシオは、走るときに変顔化するため顔芸で走ると馬鹿にされることに耐えきれず、怪我をしたと嘘をつき、マラソンを引退したあとも夜中にこっそり走っていたことが発覚する。

チシオは外面(変顔)と内面がズレて悩んでおり、近代的な内外のズレをよく示す。

ろろは、学園に内緒でこっそりある動物を飼育しており、それを時計塔に隠して嘘をつく。

サスガは、ずっとチシオが好きでそのために一連の事件を計画し、被害者の演技(内と外のズレの王道)までしていた。

さらに彼は常に周囲からナンバーワンとして見られることへの葛藤を抱えていたことが打ち明けられる。
彼はナンバーワンという外面と本当の彼自身(内面)とのズレを悩んでいたのだ。

33代目番長はつねに歴代番長から受け継がれる鉄仮面で素顔を隠し番長を演じる。ごつい鉄仮面を外すと鉄仮面とは対極の美青年の顔があらわとなり、そのギャップが強調される。
これもまた外見と内面のズレ、社会的肩書きと本当の自分とのズレを象徴するよく練られた描写といえる。

以上から主要キャラ全員が内外のズレをもっていることが本作では執拗に誇張される。

もっともミステリーである以上これは当然と思われるかもしれないが、本作ではこのズレとの対決が最大のテーマになっており、たんにミステリーという理由超えて、一連の内外のズレは物語的に重要な機能を果たす。

さらに詳しく本作の内外のズレ描写の徹底ぶりを確認しよう。

は自分が隠していた内面が外部に漏れることで生じる、内外のズレを基本とする感情である。隠された内部が漏れると恥ずかしいのは愛の告白が恥ずかしいことを考えると分かりやすい。

じつは本作は青春をテーマに扱っているので恋愛要素があり、ボーちゃんは生物部のろろに告白をして赤面するシーンがある。これもまた内外のズレとしての恥の描写ととれる。

また、マサオは終盤のスーパーエリート風間さんとのマラソン対決で33代目番長から番長の鉄仮面を譲り受け、鉄仮面をかぶり、34代目番長を必死に演じるシーンがある。

とくにマサオの鉄仮面のシーンは重要で、マサオが社会へと疎外され鉄仮面をかぶり番長を演じるシーンは、マサオの内面と外面のズレが基礎づけられることを示す。

以上が本作の主要な内外のズレを象徴するポイントとなる。

つぎにいよいよ本作のミステリーからの逸脱の構造を確認しよう。

天カスの近代ミステリーからの逸脱

天カスはミステリーでありながら近代ミステリーの構造を外れた極めてカオスな物語構造を持つ。

本作のミステリーからの逸脱は、冒頭で指摘したイニシエーション構造からの逸脱とも対応し、2つの逸脱は相同性をもつ。

なんと本作ではミステリーであるにも関わらず事件の真の黒幕は存在しない。

具体的に示すとサスガが犯人なのだが、サスガをたき付けた真の黒幕はAIのオツムン、ところがオツムンがそのような壮大な計画を企てるに至る隠された意図は存在しない。

なんと学園長がたまたま、オツムンに対して「もっと効率よくエリートを増やせないのか?なんでもいいからチャッチャと学力を上げてくれ」と何気ない愚痴のようなテンションで話し、オツムンはそれに対して、どのように学力を上げるか指示を要求すると、「その方法は、AIが考えろ」と雑に返すのだが。

この一連の何気ない愚痴のような学園長の雑なクレームをオツムンが杓子定規に実行したというのがことの顛末。

つまり、生徒を人体実験しまくり、スーパーエリート製造のために、おバカに変えるという狂気の実験が行われた理由にはなんの意図も動機も目的もないのだ。犯人はAIで杓子定規に指令を実行しただけ。

言うまでもないが従来のクレしん映画なら黒幕は学園長、学園長の思惑でオツムンが暴走、というプロットになっただろう。

よってミステリーに限らずこのような黒幕の不在は、既存のクレしん映画の物語構造からも大きく外れる。こうした物語構造の変化(黒幕不在)を現代思想では大きな物語の解体という。

『天カス』では、まさにシステムが人間を管理し、全てを支配するディストピアが描写されているといえよう。

(※個人的に天カスは信用スコアで管理された中国人に見せたい)

このような黒幕になんの意図もなく、背後に何も隠されていないという事態は、近代のミステリー・推理小説ではまず考えられない。これは推理そのものの否定に他ならない。

このようなミステリーからの逸脱は、非常に今日的な問題を扱った結果であり、ポストモダン(現代)のミステリーとして実に適切な構造と言わねばならない。

次に本作の逸脱のもつ今日的意義を確認するため、ポストモダンという観点から本作の特徴を確認してゆこう。

天カスと現代社会

本作は多分に現代社会批評的側面を持ち、クレしん映画の中でも批評性の高いアレゴリカルな作品といえる。かなりインテリ社会派向けの作品といってもいい。

まず天カス学園のエリートポイントのあり方と現代社会との関連を紐解こう。

エリートポイントとは

エリートポイントは共産党独裁社会の中国の信用スコアのメタファーともとれるが、これはSNSのフォロワー数として考えると日本人には分かりやすいだろう。

天カス学園はエリートポイントという単一の価値基準によって全ての生徒が序列化され、ポイントによって待遇が変化する超格差化した学園である。

ポイント上位はテン組に属し、リッチな教室、給食も高級フレンチ、さらに主席にはカニしゃぶという特別メニューの給食が与えられる。

逆に劣等生のカス組は荒れた教室で、食事も、数量不足の焼きそばパンを争わなければならない。
学園からもゴミ扱いされ、ポイントをもっている人からは見下され徹底して差別される。

また最大の特徴は、エリートポイントの基準にある。エリートポイントは学校の勉強だけでなく個人の特技にも与えられる。

たとえば、チシオはマラソン選手の頃は、マラソンの実績がオツムンに査定されてテン組に所属していた。

フェンシングや将棋など、勉強とは関係ない特技でもエリートポイントを稼ぐことができるのだ。

またエリートポイントは校則違反、素行不良、喧嘩などの反社会的行為を行うと下がる、そのため喧嘩もなく、うわべだけ(外面だけ)の人間関係が生じている様も描写される。

以上より、エリートポイントにより天カス学園は、ラジカルなスクールカーストが支配する内面のない皮相的な世界といえよう。

エリートポイントと一様序列

現代社会ではSNSのフォロワー数と金だけが唯一の価値となっている。またフォロワー数は資産であり現金等価物のようなものなので、フォロワー数(エリートポイント)とお金は事実上同じといえる。

したがって現代においては他者からの承認だけが唯一の価値であり、これ以外の価値が存在しない。

たとえば一昔前であれば、趣味は基本的に個人的なもので承認欲求や金とは切り離された固有の個人的動機に支えられた、そのため固有の価値を持っていた。

そのため昔のオタクは、誰に認められるわけでもなくマニアックだったらしい。しかし現代社会では仕事も趣味もお金やフォロワー数(承認欲求)が目的となる。

現代では、お金やフォロワー数にならない趣味はまったく価値を認められないのだ。

このような個人的な価値基準の存在が抹消され金=承認数という単一の価値基準だけが唯一の世界観と化すことを一様序列という。

一様序列の世界では、1つの価値基準(エリートポイント)しかないため全てが一様に序列化されカースト・ヒエラルキー化する。
したがって一様序列社会では、人々は競合・嫉妬関係に陥りマウントをとることしか頭になくなってしまう傾向があるとされる。

昨今、巷をにぎわせる自己肯定感不足も、この一様序列的なマウント関係によるところが大きいだろう。

このような一様序列化による競合関係をラカン派精神分析では想像的関係という。

ここで一様序列による固有の価値観の消失を確認しよう。

たとえば昔はプロ野球選手になることと画家になることでは動機も価値も異なり性質が異なるため、互いに競合関係にはならず、野球には野球の画家には画家の固有の動機と価値があった。

しかし現代では全てがフォロワー数に還元されるため、野球選手になるのも画家になるのも本質的には差が無いといえる。
問題はフォロワー数であって何をするかではない。

かくしてあらゆる象徴(野球選手などの外面)はその固有性を失い、個別の意味(内面)を喪失している。そして、このことは何になっても同じだということを意味する。つまり野球選手になろうがサラリーマンになろうがフォロワー数さえ同じ数なら、両者に違いはない

結局のところ、動機(価値)がフォロワー数(エリートポイント)以外に存在しないなら、そのポイント数だけが問題なのであり、何になるかはあくまで数字を稼ぐ手段でしかないのだ。

このような現代社会のあり方は、天カス学園で、フェンシングで優勝しても将棋で優勝しても、等しくエリートポイントが与えられ、両者に価値の違いが全くなくなってしまっていることと見事に対応する。
(※構造主義でいえば、あらゆるシニフィアンのシニフィエが同化したということ、シニフィアンの境界性がなくなったともいえる)

いわば『天カス』は管理社会のディストピアと、現代の単一の承認欲求に支配されたネット社会のあり方とが同根であることを見抜き巧みに風刺しているのだ。少なくとも現代ネット社会を『天カス』が管理社会にみているのは間違いないだろう。

ところで、あらゆる象徴(野球選手とか画家とかオタクとか)に差異がなく交換可能と化す、単一の価値基準だけが支配する社会は人間の主体を発達障害的に変更してしまうことが複数の臨床論文に示唆されている。

現代人は総じて発達障害的傾向が強いとされるのも、このことが大きな要因と考えられるのだ。

いよいよ、一様序列による単一の世界観によってミステリーの構造が逸脱してしまう原理を確認しよう。

天カスのミステリー構造の逸脱理由

ミステリーの消失と一様序列

一様序列によって単一の価値観だけが支配する世界では、自分と異なる価値観(価値基準)を持った他者は存在しない。

そのため、基本的に発言は字義通りに解釈されたり、一義的に意味(意図)が捉えられてゆくことになる。

たとえば、もし甘党の人辛党(甘いの嫌い)の人がいて、その二人が同じ映画を見て二人とも「この映画は僕にとって、まるで甘いケーキのようだった」と評価したとする。

この場合、甘党にとっての映画の評価は、高評価といえるだろう、しかし辛党の人の評価は低評価だと考えられる。

したがって甘さを価値基準とする世界観の人と、辛さを価値基準とする世界観の人とでは、同じ甘いケーキという発言(外面)の意味するところ(内面)が真逆だといえる。

すると価値観の異なる絶対的他者(大文字の他者)の言説の意味を把握するには、しっかりと文脈や相手の主観に照らして読解せねばならないことがわかる。

それでいて相手の主観と自分の主観は異なるため、完全に相手の主観を把握することはできない。
したがって言説の背後に隠される意図(相手の主観)はつねに推論によって不確かな形で求められることになる。

つまり相手の価値観(主観)は、様々な表の痕跡をつないで線を結び推理せねばならず、その発言の裏にある意図(内面)は点と点をつなぐ線として見いださねばならない。

ところが、世界に甘党の人しかいなければ、もはや言葉は何も隠さない。この場合、発言の背後にある意図(メタメッセージ)を読む必要も無ければ、そもそも背後など存在しない。表(メッセージ)だけしかない世界となる。あるいは表と裏のズレがないといってもいい。

したがって一様序列化したエリートポイント(フォロワー数)の支配する世界では推理やミステリー要素といった隠された裏を暴く構造は、少なくとも近代のようには成立しないのだ。

このことが分かると本作でなぜ黒幕のオツムンが、なんの意図も思惑も理由もなく学園長の言葉を表面的に認識して機械的に犯行に及ぶという展開になったのか、その理由は自ずと明らかとなる。

ミステリー逸脱の理由

近代の、まだ人間が人間を自己支配・自己統治していたと言えた時代では、世界には黒幕が想定されていた。
(※この黒幕こそフロイトが固執したエディプスコンプレックスの父である)

ゆえに近代ミステリー小説では、世界には黒幕の隠された意図(陰謀)が存在し、それを推理によって暴くことが求められた。

しかし一様序列化した現代では、資本主義のシステムやSNSのシステム(オツムン)によって人間が支配される。とくにオツムンのような統計とビッグデータを駆使したAIが人間を管理、コントロールする。

たとえばAmazonでは過去の購入履歴を分析し、AIが商品をオススメしてくる。さらに多くのYouTuberはyoutubeのアルゴリズムに最適化した動画を上げつづけるマシーンと化している。

じじつyoutubeで高収入を得るには、中毒性の高い知的水準の低いキッズ向け動画を高頻度で投稿した方が有利と言われている。

かくして人々はオツムン(SNSなどのアルゴリズム)に最適化し、ひたすらエリートポイント(PV、フォロワー)を増やすことだけに熱狂してゆく。

繰り返しになるが、ポイントを判定し人々を管理、評価するオツムン(AI)は数値を効率的に上昇させるという合理性のみを金科玉条とする計算機に過ぎず、そこには何の意図も思惑も介在しない。

このような、なんの意図ももたないオツムン(SNSのAI)が管理し価値観を決定する社会では、社会的コミュニケーションツールである言葉がなんの隠された意図ももたないことは想像に難くないだろう。

社会の価値と法を決定するオツムンが、合理性(数式)のみで判断する空っぽで何の意図ももたない存在なら、そのオツムンの意図なき表面だけの合理主義の言葉に従って生きる人々もまた、空っぽになってゆく。

このことはオツムン的社会の逆をイメージするとよく分かるだろう。たとえばある共同体があってその共同体のリーダーが法だったとしよう。そのリーダーは思慮深く人間的判断や意図に基づいたルールを定めたとする。この場合、共同体の構成員はルールの裏にあるリーダーの隠された意図を自分の頭で考えあれこれと思案、推理することになろう。

また、かりにオツムンのポイントの計算式が秘匿されていたとしても、それが無意味な回帰分析の数式でしかないことだけは周知の事実であるため、そのような数式の秘匿は、内と外のズレを形成する因子とはなりえない。

ゆえにオツムンの言葉(ポイント付与行為含む)は何の行間も、隠された意図も持たない。このような隠された意図をもたない皮相的言語に支配され、一様序列化した社会では、個々人は主体性を失ってしまう。これではナチスのような全体主義となにも変わらないのだ。

それゆえ、『天カス』は学園ミステリーというジャンルにもかかわらずミステリーから逸脱して黒幕がなんの嘘もつかない機械というオチになったと考えられる。

したがって、本作のミステリーからの逸脱はギャグアニメとしてのシュールネタではなく、高度な現代社会批評を成している。

ここで本題に入る前にいったんもう一つの逸脱であるイニシエーションの逸脱を整理し2つの逸脱の相同性を確認する。

イニシエーションの逸脱の理由

イニシエーションが分離ー過渡ー統合の三契機でなりたつことは紹介したが、現代社会ではそもそも分離が成立しない。というより分離していた領域が融合してしまう。

まず現代社会ではこれまで確認したように一様序列により、近代に成立した内面と外面の分離は排除され融合。

このことに対応して、あらゆる境界はその境界性を失う。たとえば一様序列化により、野球選手と画家は交換可能であり、もはや固有性がないことを紹介したが、これは野球選手と画家との意味を隔てる境界が消失したことを意味する。

野球選手でも画家でも同じなら、両者の境界は存在していないのと同じ。

つまり全てがエリートポイント(グローバリゼーション)によって融合したといってもいいだろう。すべての象徴は交換可能であり限界(禁止・境界)を持たなくなっている。

性別も国籍も性的属性さえも全てが交換可能(選択可能)と化した現代の世界では、あらゆる境界は融解し、イニシエーションの分離を実行することができない。

そのためイニシエーションの分離(日常と非日常の境界設定)ー過渡(非日常へ渡る)ー統合(日常への帰還)という日常と非日常の分離を前提としたプロセスは破綻せざるえないのだ。

2つの逸脱の相同性

本作は、近代を象徴する学園ミステリーで始まり、さまざまな近代的推理で裏を暴く。

しかし、その推理の最後に、AIのオツムンが自分でことの顛末を解説し、事件になんの意図も裏もなかったことが明らかとなったこと。
この推理の破綻(逸脱)によってミステリー要素がフィニッシュしたことを思い出そう。

すると本作のイニシエーション構造も、物語中盤までは日常と非日常との峻別がしつこく描写されていたのに、物語の佳境、ちょうどミステリー構造が逸脱した直後のシーンで、非日常の世界に親という日常要素がなだれ込み境界が消失、日常への帰還も描かれずイニシエーション構造から逸脱したことに気づく。

さらにラストでは風間くんとしんのすけとのマラソン勝敗の結果すら無意味となり、勝ち負けの境界さえロストする。

中盤までは、わざわざ家庭のカットを入れて母ミサエが息子の不在を悲しみ心配するシーンを挟んでまで強調された境界と分離を終盤で一気に溶かす終わりは非常に意図を感じる。

これら逸脱がまとう奇妙な痕跡を線で結べば自ずとその理由は明らかとなる。

本作の構成は近代を入り口として、現代社会におけるその終焉を描いているのだ。
ミステリー要素もイニシエーション要素も途中までは近代の形式に即しつつ、佳境ではそれが崩れ、どちらもが境界の融解を示す逸脱を来す理由はここにある。

しかし本作の卓越は、たんに近代から現代への変遷や現代の病理を克明に戯画化してみせる程度にはとどまらない。

本作には、境界のなくなった世界でそれでも境界(内外の差異)を立ち上げて、一様序列のシステムから個人の自由を取り戻すポストモダン(SNS資本主義)の弁証法的超克が描写されているのである。

先んじて言えば、本作は分離ー過渡ー融合即差異という全く新しい弁証法的イニシエーションの構造を持っている。

というわけで以後はやっと本題である、後期ラカンの理論をベースに本作の現代社会への解答を推理してゆこう。

しんのすけとサントーム

風間くんと近代主体

本作の主人公は、しんのすけというより風間くんだと考えることもできる。

風間くんは、他のかすかべ防衛隊メンバーとの進路の違いから、小学校入学で、かすかべ防衛隊と離ればなれとなり、友情がなくなることを恐れている。

そして、そのことが風間くんがメンバーを誘って天カス学園への体験入学を申し込んだ理由だったと発覚。

そのため風間くんは、物語冒頭から葛藤を抱えたキャラクターであり、一貫性をもった人として描かれている。

また風間くんはエリート教育をうけエリートとなることを期待されるため、その目的へ向かい勉強を怠らない。

ところが、しんのすけをはじめとする、かすかべ防衛隊のメンバーは、年相応に今この瞬間だけを考え、刹那的に生きている側面がある。とくにしんのすけは将来への不安というものがなく今を楽しむことに全力なキャラクター。

じつは風間君のような将来に不安を抱き、合理的に考え、人生を計画して自己支配のもとに一貫した人生を送ろうとする主体を強迫神経症という。強迫神経症は神経症のひとつで、神経症とは外面と内面、無意識と意識に分裂した近代的主体のこと。

神経症というと心の病気のように思われるかもしれないがそうではなく、単にノーマルの人(葛藤を抱える人、内外のズレた人)を示す。

したがって風間くんは自らの行為に合理的な意味を求め効率的に生きようとする強迫神経症の主体(近代主体)といえる。

しんのすけと症状、サントーム

そんな風間君に対して、しんのすけは意味外の存在といえる。意味の外側とは非合理性、無意味、ナンセンスにある。しんのすけが常にナンセンスの塊なのは言うまでもないだろう。

(※ちなみに物語論におけるしんのすけはヤマトタケル、スサノヲなどと同じく日本的トリックスター(自然)の典型でありデュオニュソス的祝祭性を帯びる、HUNTER×HUNTERのヒソカなどと同じ)

常に、ふざけて無意味な行為におよび、周囲を巻き込みトラブルを生じるしんのすけは、本作では風間くんのエリートポイントを下げてしまう。

そのため風間君の強迫神経症の症状として、しんのすけを考えることもできる

神経症の症状とは無意識に抑圧されたものが症状として回帰し本人を困らさせるものとされる。したがって不意に生じて風間くんを困らせるしんのすけは風間君の症状に近い。

また症状には享楽があり、神経症の人は症状に悩まされるも、症状を手放したがらないことが多いことが知られる。

つまり強いていえば、しんのすけとは、風間くんが抑圧する勉強やエリートポイントのことを忘れてみんなと遊びたいという無意識の願望が、症状として回帰してきたものと考えることもできる。

ここで重要なのは、しんのすけが風間くんの耳に息を吹きかけて風間くんを身体的に享楽させることにある。

このような身体の享楽は意味に還元できない症状の核を意味する。そしてこのような意味に還元不能なナンセンスな身体の享楽をサントーム(症状)という。

もともと神経症の症状とは自分の意識のコントロールを超えて生じる1つの謎であり、この症状の謎に言葉による解釈(意味)を付与することで、抑圧されたものが意識に統合されて症状は静まる。

(※厳密には、自己言及によってフィードバックし続けるため神経症の症状は移せるだけで決して消せない)

たとえば溺れている子どもを見て思わず無意識に助けてしまって、その無意識の行為(症状)に人助けという意味を与えたならば、新しい自己認識が形成され自己存在が刷新されることになろう。

つまりこの場合、今まで自覚していなかったが本当の自分は人助けに生きがいを感じる人らしい、と解釈される。

したがって意識を超えて生じる症状とは、解釈によって自己存在を新たに規定する神託のようなものと考えられる。言い換えれば本当の自分の正体は症状(無意識からのメッセージ)にあるとも考えられるのだ。

ところで本当の自分なんてものは本来、言語的な意味解釈には還元しつくせない。そのつどの自己了解があるだけで絶対的な自己定義など存在しない。ゆえに人は変化することができるともいえる。

自分が何者かを一義的に決めることができないことを考えれば、これは当たり前のことである。

ところが強迫神経症(風間くん)とは、本当の自分を言語的(社会的・オツムン的)な意味に還元し尽くすことが可能と考えるたがる神経症(合理主義)のことをいう。

そのため風間くんは自己のナンセンスな症状の核(サントーム)であるしんのすけに意味を求めてしまう。

このことは風間くんが必死にしんのすけのエリートポイントの低下を恐れ、しんのすけのポイントが下がらないように気を配っている点によく表れている。

AIのオツムンは非合理や無意味な行為は理解できないと自称する徹底した合理主義マシンとして描かれるため、オツムンにとって、しんのすけのポイントを下げる行為は無意味でありポイント(意味)の否定でしかないのだ。

よって風間くんは、しんのすけの無意味(サントーム)にオツムンの法に則した意味を与えようとやっきになっているともいえる。

これは症状の全てを是が非でも社会的な言葉で解釈しようという強迫神経症にありがちな態度ととれる。

サントームの重要な機能は、それが意味外にあることつまり、オツムンの一様序列の法(意味)の外部に自己存在のあり方(実存)を取り出し、現代の一様序列社会の呪縛から、自己の主体性を解放する可能性を秘めていることだといえる。

したがって、本作では、しんのすけ(サントーム)は、風間さんをオツムンから解放し、固有の主体性をもつ風間くんの再生を実現することになる。

超自我と同一化する風間さん

ここまでの説明で風間くんが内と外、無意識と意識のズレによる葛藤を抱える強迫神経症だと分かった。

しかし風間くんは物語中盤、オツムンとサスガの実験の餌食となり、がきんちょと呼ばれる超お馬鹿になってしまう。

さらに終盤では実験が成功。風間くんはスーパーエリート風間さんへ変貌を遂げる風間さんは理想のスーパーエリートであり完璧な存在のため悩まないし葛藤もない。
じじつ作中でオツムンはスーパーエリートになれば悩みもコンプレックスもなくなるという旨の主張をしている。

したがってスーパーエリート(風間さん)には、内と外との差異がない。

さらに物語の佳境、ミステリー構造の逸脱が生じると同時に風間さんはオツムンと合体し、オツムン制御の機械の体をまとった完全体にいたる。

ミステリー逸脱の理由の項目で説明した通り、合理主義と一様序列のオツムンの法に迎合し、エリートを目指すと人は内外の差異を喪失してしまう。

したがって天カス学園の中でオツムンに評価されることを目指した風間くんは、スーパーエリート風間さんに到達して近代的な主体性を喪失したといえる。

その結果、彼はオツムンの隠された意図を持たない合理主義的な法そのものと一体化し、オツムンと融合した最終形態風間さんになってしまう。

またオツムンは採点によって生徒の優劣を決定し、校則違反の人にペナルティを与える学園の法。

このような法の根拠、オツムンと一体化した風間さんは超自我と同一化した存在だといえる。超自我とは法の主体(法の背後に隠された法の意図)のことで、唯一、法の拘束を受けない例外者(神、原父、正義マン)のこと。

また現代のエビデンスを連呼しファクトだ!と人を批判したり、ポリコレで発狂する正義マンの正体とは、法であるオツムンと融合した風間さんのことに他ならない。

ちなみに本作で登場するサスガの実験の被害者でがきんちょと化した生徒達は現代のオツムン的消費社会で思考停止させられた資本の奴隷の姿ととれる。
そのためスーパーエリートとがきんちょは本質的には同じ存在の二側面といえる。

オツムンが全校生徒をスーパーエリート化しようとすることの意味もここにある。

まとめるとネオリベ資本主義のシステム(一様序列)であるオツムンに従って消費社会に適応することは、風間くんのような近代主体を超自我(オツムン)と一体化した正義マンに変えてしまうということ

青春とサントームの意義

本作は、風間くんのサントーム(症状の核)である、しんのすけのナンセンスを青春と形容し、しんのすけ的な無意味さへの情熱と享楽を青春という普遍的な体験に見いだす。

これにより、焼きそばパン争奪マラソン勝負を観戦する観客の生徒、さらに観客の生徒達に同調する僕たち映画視聴者(観客)、その一人一人に、内なるサントームのほとばしりを想起させる。

つまり本作では、サントーム(しんのすけ)という無意味の熱情を青春という普遍的体験に転移させることで、風間くんの主体性の回復と解放を視聴者一般へと普遍化しているのだ。

ここで本作における青春(サントーム)の機能を映画の終盤のシーンを振り返って確認しよう。

しんのすけの提案によって開始された、風間さんとかすかべ探偵クラブとの焼きそばパン買ってこいよ競争、このマラソン勝負の最初、観客の生徒達は風間さんを応援する。というのも風間さんが勝てば自分たちもスーパーエリートにしてもらえるからだ。

しかし、しんのすけらの必死のランニング、数多くのオツムンによる妨害をものともしない賢明さに観客は心を打たれ、そこに青春を見いだし、しんのすけらを応援しだす。

青春とはファイアーと叫ぶシーンや、青春はハイハイ(ひまわりの声)と述べられるシーンに現れるように、本作の青春は悉く合理性や言語的な意味には還元できないものとして、オツムンの理解の外側として描かれる。

その青春に燃えるかすかべ探偵クラブのマサオは、前述の通り仮面をかぶり34代目を演じる。

このマサオの見せ場は、ミステリーとイニシエーション構造の双方が逸脱し、境界が消失した世界で、サントーム(青春)により再び主体の内外の分離が作り出され、個性的な主体が生み出されたことを意味する。

またマラソン勝負の序盤、勝てるわけないと笑われるしんのすけを応援するしんのすけの両親に対し、チシオが笑われてもいいのか尋ねると、みさえは「一生懸命、友達のために頑張ってて誇らしい」と語る。

これは世間的(オツムン的)な評価とは関係ない、しんのすけの個性、固有の価値観を親が承認していることを示す。

さらにオツムンのセリフをここで確認しよう。

オツムンなぜですか?なぜ応援など無駄なことをするのですか?私たちが勝利すれば皆さんはスーパーエリートになれるのですよ。なぜ自分の利益を捨てて他人を応援するのですか?

しんのすけ風間君、かすかべ探偵クラブ青春ファイアー!

オツムン青春とは何なんですか、青春は、青春は、青春は、、、青春はミステリー!!!

ミステリーと問う雄叫びとともに、しんのすけの汗が電子回路をショートさせ、オツムンは壊れる。そしてロボットの肉体が解除され元に戻った風間くん姿を現す。
この一連のシーンからも分かるように青春(サントーム)とはオツムンの合理性や意味の外の無意味な情熱にあるのだ。

さらにオツムンの青春とは?の問い、これこそが、内外の分離に他ならない。つまり表面の言葉の裏に隠された意図を問うことで内と外が分離してくるわけで、近代主体の主体(推理)とは問うこと(欲望、答えの欠如)にある。

それゆえ、オツムンのミステリー!!!という雄叫びは、世界を支配する一様序列の法を穿ち、多様な価値観を可能とする、法の意図の欠如(分離)を示す標識ともいえる。

また、オツムン(超自我)との同一化を解除し、風間くんの内と外を分離し、その主体性を回復するのはしんのすけ。

そして物語のラスト、オツムンを導入し合理主義を標榜していた学園長もまた青春の力に当てられ「私が間違っていた無駄なことこそが必要だ!」と語るシーン。

このセリフは青春(サントーム)=無駄(無意味)=必要ということをセリフで述べているに等しいだろう。

以上より本作は、合理性に支配された世界で、合理性から自己存在の核(サントーム)を引き離し、それを青春として普遍的に取り出すことで、一様序列化した合理主義を超えて僕たちが固有の主体を獲得し自由に生きることのできる、新しい生き方を提示しているのだ。

ちなみにオツムンの青春は?の問いにチシオはコンプレックス!と答えている。コンプレックスとは葛藤=内外のズレを意味する深層心理学用語である。

オツムンが必死に排除しよとしたものがコンプレックスなのは、うなずけるだろう。

ところでサントームの無意味はそれが無意味であるために偶発的だといえる。つまり自分はそれだ!青春なんだ!としか言いようのないサントームとは、自分がそれである理由(必然性)を提示できない。

そのため、それは全くの偶発的な出会いであり、絶対的に固有のものである。それとしか言いようのないものは絶対的な固有性をもっているのは言うまでもないだろう。

したがってサントームを無意味として受け入れることは、絶対的に固有な自己を生きることを、したがって個性的生を生きることを意味する。

これをラカン派は固有の享楽するモードと呼ぶ。
本作はまさに後期ラカンのサントームにおける固有の享楽によって、一様序列化したネオリベ合理主義の無個性の時代に、絶対的に個性化された主体の再生を描いているのである。

承認欲求や金に還元されない社会的意味を超えた、自己に固有の価値(無意味)を生きること。言語(オツムン)という意味の底に、意味を超えた価値を見いだす経路がサントームにあるといえよう。

チシオと変顔のサントーム

ここでは本作の三人目の主人公といえるチシオのサントームを確認しよう。

チシオはマラソンの世界大会で優勝するほどのトップランナーだったが走ると変顔になり、顔芸で走って笑わせるのは反則だと周囲から馬鹿にされ、観客から笑われたため、それがコンプレックスを形成し、引退してしまう。

しかしチシオは、本人が必死なら息子が笑われてもかまわないという、みさえの言葉に感銘をうけ、変顔で笑われてもいい、それが自分なんだと受け入れ再びマラソンランナーとして復帰する。

チシオは現役時代、マラソンによってエリートポイントを得てテン組に所属していた。したがってマラソンという彼女の生きがいはエリートポイントという社会的な意味へ変換されていたといえる。

しかしマラソン=本当のチシオには、決して意味に還元できない無意味の情熱(享楽)という核が存在している。それこそがサントームであり変顔なのだ。

なのにチシオは世間体(オツムン的価値観)を気にし、世間的な意味だけが全てだと考えていた。だから笑われること、意味を否定する変顔を受けれることができず、走れなくなってしまった。

マラソン(症状、自己)の全てを意味に変換することに拘泥していたといってもいい。

そのために変顔=サントームが否定され走れなくなっていたのだ。そんな変顔を受け入れ、それとうまく付き合ってゆくところにサントームを軸とし、絶対的固有性を生きることを可能とする精神分析の終着がある。

したがって本作は精神分析の終結を描いてもいる。


しんのすけのヒステリーと焼きそばパン

オツムン的な一様序列、ネオリベ合理主義を克服して、スーパーエリートとしてオツムンと融合した風間さんに欠如をつくりだし分離を促すしんのすけのあり方をこれまで症状(サントーム)として論じてきた。

しかし、しんのすけの本質は、サントームと同時にヒステリーと見なすことができる。

先ほど、風間くんは強迫神経症だと紹介した、強迫神経症とはラカン派では普遍的な男を意味する。
それに対して、ラカンはヒステリーを特定の女と規定する


ヒステリーとは相手の男(強迫神経症)に対して欠如を作り出す存在、自らが相手の欠如となって欲望される神経症のことをいう。

したがってオツムンと融合しスーパーエリートとなって何の欠如もなくなった完全無欠の風間さんに欠如をもたらしたのはヒステリーとしてのしんのすけである。

いわば本作のヒーローは風間くん、ヒロインはしんのすけなのだ。

ミステリーということでシャーロックホームズの話を冒頭で紹介したが、それにちなみルパン三世に喩えれば、ルパン三世が風間くん峰不二子がしんのすけに対応する。

ルパンを誘惑しては、常にお預けにしてルパンの欠如(欲望の対象)としてあり続ける峰不二子と、本作のしんのすけは同型といえる。

その最たるところ確認しよう。

まず風間くんが順調に積み重ねたエリートポイントを欠如させるのはしんのすけ

さらに風間くんが失いたくない一番の友達こそ、しんのすけなのは言うまでもないだろう。体験入学でしんのすけのエリートポイントも上げて、一緒に天カス学園に特待性として入学しようというのが風間くんのそもそもの計画であったことを思い出そう。

自らポイントを下げるしんのすけは、その意味でまさに、峰不二子のように風間くんに欠如をもたらす。風間くんが欲するほど絶妙な距離感を保ち、手に入りそうで入らないところに移動するのがしんのすけ。

ここでまず注目して欲しいのが、全てを手にし、一番になったというスーパーエリート風間さんに対して、しんのすけがいう言葉。

しんのすけ風間くんはまだ一番じゃないぞ、一番は焼きそばパンを手に入れた人だぞ!

しんのすけのセリフは、欠如を持たない風間さんに、お前にはまだ足りないもの(欠如)がある、それは焼きそばパンだ!と言って、まんまと欠如を創りだしているに等しい。

この欠如の誘惑に耐えきれず、たまらず風間さんは、焼きそばパンを手に入れようと勝負に乗り出す。

人間の欲望とは欠如であるというラカンの有名な言葉の真意もここにある。人は既に手に入れているものを欲望することはない。欠如しているからこそ欲しくなるのだ。

したがって欲望するという主体性とは欠如によって創り出される。ゆえに欠如なき風間さん(スーパーエリート)には欲望という主体性がないともいえる。

そんな無欠の風間さんに焼きそばパンという欠如を創りだした時点でしんのすけは既に勝っているといえよう。

さらにしんのすけは、熾烈な競争の最中、その汗でオツムンから風間くんを分離し欠如を生み出すが、ラストでは僅差で風間くんに破れ、焼きそばパンをとられてしまう。

焼きそばパンを、しんのすけ自身のメタファとすれば、ここでしんのすけは風間くんに捕まってしまったと言える。

しかし、ヒステリーのしんのすけは抜かりない。なんと隙をついて風間くんの握る焼きそばパンの焼きそばだけをすすって食べてしまう。

かくしてパンの裂け目を埋めていた焼きそばは欠如し、外面と内面、此岸と彼岸を峻別する境界(パンの裂け目)が生み出される

まさに手に入った瞬間にはいなくなり距離をとるヒステリー者としての、しんのすけならでは仕事だろう。

友情にほっとして、風間くんが、やっとお前が分かったよ、という感じに浸っているところで、すかさず茶々を入れて欠如をつくる、しんのすけのいつものあり方が、一様序列化した境界のない世界に主体の裂け目を作り出したのだ。

ちなみにこのような女性を焼きそばパンというただの対象(対象a)に還元する男性(風間君)と、男性のそばからいなくなり欠如するヒステリーの女性(しんのすけ)、男女の互いに相手に到達しえない関係ゆえに、ラカンは「性的関係はない」という。

本作のラストのしんのすけと風間君は完璧な「性的関係はない」の見本になっている。

長くなるため解説は割愛せざるえないがヒステリー者(女性)の構造こそが、症状をサントームとして規定可能とする。

サントームとヒステリー者の構造はその意味で密接に関わる。

融合と分離のイニシエーション

最後に本作のイニシエーション構造の逸脱を、オツムン(SNS)時代の新しいイニシエーション形態として簡単にまとめる。

旧来のイニシエーションは冒頭で述べた通り、分離ー過渡ー統合にある。
対して、本作のイニシエーションは分離ー過渡ー融合(境界消失)のプロセスであった。

とくに注目すべきは融合の段階、ここでは一様序列化による境界消失によって、日常と非日常が融合した世界で、青春(サントーム)という普遍的体験により観衆も登場人物たちも思いを1つに融合する。

そしてその融合の最中にマサオは鉄仮面を引き継ぎ内外の分離が構成され、オツムンと融合した風間さんはしんのすけによって、欠如を生じオツムンと分離してゆく。

そして最後には、パンの裂け目であり境界を埋める焼きそばが欠如して裂け目(欠如)が復活し分離してゆく。

したがって境界の融合において分離が生じていることが分かる。

本作はラカンのサントームのような直接性を軸として、現代ユング派が重視する結合と分離の結合というべき融合と分離の同時性を新たなイニシエーション構造に見いだすことが可能であることを示す。

本作には新時代の1つのイニシエーションの完成形が提示されているといえよう。これをして最高傑作の評価を与えずにはいくまい。

まとめ

本作は、近代を代表するミステリー・推理要素を入り口に、主体の近代的分裂(内外の分離)が丁寧に描かれ、それがオツムンが統べる天カス学園という現代ネット社会(ネオリベ)のメタファによる一様序列性によって解体させられる。

これは、近代からSNS時代の現代への主体の変遷の巧みな描写である。

またこの変遷は、本作のイニシエーション構造の1つの逸脱として、したがって分離していた日常と非日常の融合の描写としても示される。

よってミステリーとイニシエーション2つの本作における逸脱は、ともに近代の終わりを示す。

さらに本作は、このような時代の変遷の戯画化にとどまらず、境界を喪失した現代社会における主体の回復への筋道を後期ラカンのサントームのロジックを中心に描写。

また、しんのすけを峰不二子(ヒステリー)、風間君をルパン三世(強迫神経症)に位置づけ、根源的な男女関係の構造によって、主体の回復への経路が開かれることを示す。

このような本作で示される現代社会への回答は鮮やかであり、精神分析的に極めて高度いわねばならない。というか、最新の最高レベルの小難しい現代社会論文の内容を総動員してようやっと解説できるレベル。

したがって本作はドストエフスキー文学の作品間弁証法の構造にも引けを取らなぬ歴史的快作と評するに値するだろう。

終わりに

本作を語る上で、本来であればラカンの資本主義のディスクールやヒステリー者のディスクール、分析家のディスクールの参照は必須なのだが、いかんせんモデルが込み入っていて、文字数的な意味で一般の読者向けの解説が困難なので、それを回避した解説を試みた。

本記事の解説ではラカンの享楽を人口に膾炙して情熱と言い換えたりしている。本来、享楽を情熱と訳してしまうことは問題なのだが、一般読者に向けて書いているため、やむを得ぬところがあるのでご容赦願いたい。

またラッセルのパラドクスや自己言及のパラドクスから理論的に神経症の症状が消せないことを解説したり、存在論的ロジックでより論理的にサントームを解説することもできるのだが、一般読者向けに感覚的に分かりやすい解説を徹底している。

したがって当ブログは、あくまでも精神分析にまったくなじみのない方にも楽しんでもらうことを念頭に、しばしば、人口に膾炙した説明、正確さより分かりやすさを優先した解説が基本となる。

また僕は自称ユング派でありラカン派ではなく、ラカンを読み出したのもここ一年くらいのため、いささか理解不足もあると思う。

ラカンの女の式と男の式に対応した、症状からサントームへの変遷などの背景をしっていると、『天カス』作品の価値をより深く堪能できるので興味がある人は後期ラカンの入門書を読むといいかもしれない。

しんのすけのサントームと共通感覚、時間意識やヒステリー(女)構造と本居宣長の「もののあわれ」河合隼雄の原悲との対応などを知っているとさらに本作の特徴が分かるのだが、これも少し小難しくなるので割愛せざるえなかった。

ちなみに文化論に対応させて本作やラカンを理解する場合、一神教を強迫神経症(男、風間君)、多神教をヒステリー(女、しんのすけ)と対応させ、しんのすけを日本的主体として読み解くとよいだろう。

いずれにせよ、この記事で『天カス』の魅力と社会的意義が伝われば幸いである。

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