※この記事は永遠の0のネタバレを含みます
うたまるです。
最近、百田尚樹の永遠の0を読んだ。映画の方は山崎監督を僕が個人的に一切信用していないうえに、退屈で観れなかったので小説を読んでみた。
おもったより長い小説だった。
※電子書籍で読んだが、論文ベースで400頁超えくらいの文量
僕はこの小説はいまの日本の政治言説諸々のあり方を考察するうえで避けられない作品の一つと考えている。だからノンフィクション風の真面目な作品などは幻想研究を楽しみにする僕の趣味ではないのだが読んでみた。
この記事では本作の構造的な問題点と現実の日本社会の問題点とをつなぐ同じものの分析をベースに作品の意味をつまびらかにしたい。
永遠の0の三つのコンセプト
①現代から敗戦の反省をなす(外在性)
おそらく本作はこのために過去の回想という形式をとっているし、主人公の宮部は極めて近現代人的な欧米的家族主義、個人主義の価値観をもっている。
そのためまるで現代人がタイムスリップして当時のファシズム的軍部と摩擦を起こしているような描写が目立つ。
宮部の人格を戦後の現代人にすることで、戦争当時の回想描写にあっても当時を現代の意識から反省するという小説のミッションに即した描写を可能としているように思う。また分かりやすさという観点からいっても主人公の価値観を現代人に引き寄せるのは必須であったことだろう。
※百田尚樹は分かりやすさにこだわり読者の読解力を低く評価する人物のようである
この観点からは一つの文学的問題が指摘できるので後の項で分析してみたい。
②精神分析的作品である
本作は司法試験に落ちて、やる気を失う青年、佐伯健太郎がもう一人の主人公となる。彼は宮部の孫なわけだが、その彼が自らを社会人として人間化するにあたり、自らの存在の根拠であり意味、自己とは何者なのか?という問いに直面して、自己の起源にあたる祖父の戦争の歴史を探ることになる。
深層心理学の心得がある人にはいうまでもないが、本作は青年のイニシエーション作品であり精神分析的作品といえる。つまり健太郎は司法試験に落ちたことで自己の存在を否定され世界に対して不適応(心的違和感)を生じるが、この不適応はもちろん神経症の症状と等価。この自らの症状を分析する分析治療として症状の背後にある隠された祖父の過去が分析調査によって意味づけられてゆく、という構成になっている。
また主人公の姉についても結婚を申し込まれており、人生の岐路にあるから、弟とほとんど同じ状態といえる。
じつはこの観点からは一つの文学上の問題が提出されるので、それについては後の項で確認したい。
③大衆迎合的権力描写をベースとする
僕がこの作品の批評をブログで展開しないといけなくなった最大の問題がここにある。
本作では昭和の軍国ファシズムの責任は、キャリア官僚、軍上層部、朝日新聞に転嫁され、現場の兵士や庶民はその被害者として描写される傾向が強い。
とりわけこの点を象徴するのが、本作で提示される日露戦争後の暴動を新聞社に責任転嫁し、これを昭和ファシズムの原因とする歴史認識にある。
また本作は権力を上からの抑圧として想像的に捉える傾向があまりに強い。実際には権力とはフーコーの指摘にもあるように、下から要請される。少なくともそのように考えないなら、もう民主主義は無理だから民主制はとっとと辞めよう、としか言いようがない。
とりわけ中空構造論、甘えの構造、タテ社会の人間関係、菊と刀、人と人とのあいだ、、、など文化人類学などの日本文化論を読んだことのある人にはこの小説は納得しかねるものだとおもう。
①外在的な戦争反省の欠陥
本作は徹底的に戦後現代人の視点から当時の日本軍の頭の悪さが反省され、その意味が問われる。
したがって外在的な視点からの戦争の総決算という趣がある。
このような洞察は価値があるが、しかし、戦争の愚かさを日本の伝統や歴史の文脈から切断して、それを切り出し、客体として分析的に論じる仕方は歴史の反省として限界がある。
どのような文化的バックボーンからそれは生じたのか、どのような伝統精神が愚行に通底し、当時の戦争精神の最中にあって、戦争活動はどのように正当化され、どのように見えていたのか、という内在的視点が本作には欠けている。
現代人の視点から当時を俯瞰するのみで当時の最中にあって当時がどう見えるかが一切描かれない。
つまり本作は何が人々にそれを継続させ、全体主義的な隷属を生じたかという内省を持たない。
そのため歴史の汚穢として、昭和ファシズムが切り取られ、その罪と現代との繋がりが切断されてしまう。いわば分析主体と分析対象の分離が生じている。これは戦争の罪を他人事としてお上に責任転嫁する仕方にもよく現れている。
たとえば、せんだって起きた宝塚歌劇団の自殺問題などは戦前・戦中の日本軍の再来でしかないことは周知の事実であろう。
実のところ現代社会においても昭和ファシズムは顕在であるが、本作はこうした今日の社会問題と戦争の反省とを繋ぐ視点をなんら提供しない。
たんに新聞社が悪いんだ!軍部のエリートどもが悪いんだ!というだけで終っている。これでは文学として意味が無いだろう。宝塚歌劇団には日本軍も新聞社も関係がない。
確かにお上を庶民から切断して、責任転嫁する解釈は大衆受けするし本にすれば売れるのだろう。しかし、それでは文学としての価値がない。
アメリカの戦争の価値観が本作で肯定的に描かれているのも、日本の昭和ファシズムに対して戦後の欧米型の価値観にもとづく批評がなされているためだ。しかし本来求められるのは、日本の歴史精神がいかに昭和ファシズムを招聘し、また同時にその非合理の精神はいかにして欧米的な合理主義を適宜実現しうるかという内在的洞察にある。
なぜかくも外在的な総括を問題とするかといえば、歴史に外などないからである。
歴史・社会について反省するとき、その反省の仕方ははそのまま反省の対象へと回帰する構造を持つ。つまり反省する主体と反省される客体・対象とは一体にある。
しかし、外在的な歴史総括はこの回帰構造を隠蔽し、あたかも歴史の外から反省して歴史・社会をコントロールできるという妄想を構成する。素朴にいえば、あいつは悪人だ!という認識をするとあいつにその認識が回帰してあいつのあり方が変ってしまうということ。レッテルを貼り付けることでレッテルを実現したりする関係があるということ。
物理学の対象であれば観測記述と観測対象は切断されているからこのような問題はないが、歴史や社会の解釈では解釈それ自体が解釈対象に回帰するため、そのことを考慮せねばならない。したがって、歴史は必ず内在的に洞察される必要がある。
あるいは内部と外部の相即が描写されねばならない。
たとえば外部的に設定される戦後の核家族的で欧米的な宮部の家族観・人間観への傾倒の根底に、昭和ファシズムと同じものを洞察しえねば、戦争はいつまでも関係ない過去の出来事に過ぎず、現代日本人に自分事として引き受けられることがないということ。
過去の敗戦を慰みものにするのでなく、今に生きる歴史としてそれを見据えて引き受ける場合、絶対に内在的洞察を必要とする。
そしてその内在性は同じものの洞察なしにはありえない。ここにいう同じものとはいうまでもなく、戦争行為の愚行であり欠落と現代における充足とを繋ぐ両者に共通するもののこと。
※この観点は後に示す精神分析観点からの構造的欠点と密接に関わるので記憶の片隅に置いといてもらいたい
したがって本作の最大の文学的欠陥は、かかる同じものの洞察を持たぬ外在性にある。これはそのまま過去の戦争の愚かさを無関係な客体として拒絶し、あまつさえそこから何か感動気なものだけをつごうよく引き受けようという大衆迎合精神に通じる。
とりわけファシズムや全体主義は、自己回帰の構造が自壊することで生じるので、昭和ファシズムの総括にあって内在的洞察は避けられないということ。むしろ厳しいことをいえばこのような本作の外在的反省の形式そのものが昭和ファシズムのディスクールと本作(宮部、米軍的合理性と人道主義)とをつなぐ同じものなのである。
②精神分析的にみた問題構造
僕は本作の精神分析構造についてかなりうがった見方をもっているので最初にその説を紹介したい。
本作の主人公、佐伯はいわゆるネット右翼の人たちのメタファー。たとえば中高生の頃に小林よしのりの戦争論を読んで右翼化・保守化した世代など。
次に本作に登場する朝日新聞記者の高山は、日教組系の左翼教師なども象徴しており、永遠の0が出版された当時、ネット右翼をしていた人たちが受けてきた反日教育や洗脳を象徴する。
※僕は実際に高校と大学で理論破綻した壊滅的な反日教育を受けたことがあるので、極左教師のヤバさも十分しっている
そして祖父宮部の過去(敗戦の真実)を語る元軍人・戦争経験者は、朝日新聞の洗脳をとくネット右翼言論人のメタファー。
このようにうがった見方をすると本作で、朝日新聞社員の高山と元日本兵が激しく口論するシーンも分かりやすい。
周知のとおりネット右翼論壇は朝日新聞にヘイトを集めて、支持者から思考力を奪い、過去の戦争の罪を左翼どもによる冤罪だといって金を絞りとるというビジネスモデルで何十億も稼いできた連中だ。
※僕は朝日新聞を擁護するつもりは一切ない、そもそも新聞は知的にレベルが低く普段、論文しか読まない僕にとっては価値がない
人生の行き詰まりやどことない不満足を抱える大衆に対して、そのはけ口として反日組織をつるしあげ、ヘイトを煽って私腹を肥やすネット右翼言論人を、隠された真理(心的外傷・敗戦・宮部の過去)を知る精神分析医(元特攻隊)のポジションにおいたのが本作の基本フレームではないだろうか。
ようするに主人公佐伯のように人生に行き詰まるネット右翼に戦争の真実として庶民派型の愛国神話を騙り、朝日をいもしない悪の反日組織に祭り上げて聖戦をしかけるというあり方が、本作の基本フレームだということ。
たとえば、現実に極左教師は過去の戦争について、存在しない日本人の罪をでっちあげ、それを関係のない生徒になすりつけて、気持ちよくなっているが、これは本作で祖父の宮部が卑怯者呼ばわりされたことで孫の佐伯が罪悪感を抱いたり、高山に特攻隊が旧日本軍に洗脳された罪人だと吹き込まれたりすることに対応するだろう。
本作では元特攻隊などの戦争の真実を知る人たちが隠された真理を語り、戦争(宮部)への罪悪感を解消して逆に朝日新聞(左翼教師)こそが悪だと暴いてゆく。
ここもまるでネット右翼言論人が日本の戦争行為を正当化してゆく言論をはって朝日新聞を槍玉にあげる様に似ている。
とすれば、この作品のヒットとネット右翼ビジネスの隆盛の時期的なシンクロも分かりやすいように思う。
いずれにせよ本作では朝日新聞によって貶められた特攻作戦や兵士の汚名がそそがれるとともに祖父の汚名もそそがれる構造になっている。
神経症者 | 真理を 語る者 | 父の罪 | 嘘つき |
佐伯 | 元軍人 | 宮部の 卑怯者疑惑 | 朝日新聞 高山 |
ネット右翼 | ネット保守系 ビジネス論壇 | 敗戦 | 朝日新聞 左翼教師 |
くだらないうがった仮説を紹介し終えたので本題に入ろう。
まず本作の基本フレームの理解にはエディプスコンプレックスにおける父の罪の伝達を知ってもらう必要があるのでそれを無理矢理に圧縮して紹介。
人間に神経症あり、神経症とは自らの意に反して困った行為や想念を症状として生じるもので、この症状を反復する快楽と苦悩のアンビバレントを神経症という。
この症状は一つの隠喩であり、抑圧した意味を隠している。
症状を構成する抑圧された記憶であり意味を分析によって解釈し意味づけることで意識に統合する、これによって症状が治癒する、というのが神経症治療のメカニズムだ。
このとき、症状によって隠された意味は必ず家系の言葉の中核をなす父の罪に通じている。
父の罪はいわば家系に伝達される言葉のうち語られないことによって浮き彫りになる欠如した言葉である。
父の罪は、なにか言いよどみ言えないだとか、そういうためらいや心的外傷性をまとうような欠如した言葉といえる。この言葉はたとえば天皇家でいえば家系に伝達され続ける神武天皇という初代の父の名にも相当する。この名前の元に天皇の意味や正統性、あるべき態度が基礎づけられるわけだが、神武天皇はその根源的意味を欠如しているということ。神武天皇は実在性すら曖昧な不在の名。
その欠如が神武天皇の心的外傷(不在)に相当するということ。
むりやり圧縮するために相当無理のある説明になっているがご容赦願いたい。
※分かりやすく説明すると長くなる
さて、この父の罪(父の心的外傷、トラウマ)の伝達の理論にギリシャ神話のエディプス王の話があるから圧縮して紹介する。
まずライオス王がいた。ライオスは隣国の王子を強姦する。
※男色ということ、古代ギリシャで男色は普通
隣国の王はこれに激怒しライオスに呪いをかける。
その結果、神託により将来生まれるライオスの子はライオスを殺してライオスの妻と結婚すると告げられる。
ライオスは生まれてくる子を始末するようにいう。
しかし生まれた子、エディプスは川に流される。そして別の国の王家に拾われ王子になる。
エディプス王子は神託で実の父を殺して母と結婚すると告げられる。
そのため自分が拾われた子と知らないエディプスは国を去り放浪する。その道すがら、男ともめて殺す。その男がじつはライオスであった。
王を喪ったライオスの国は、人を襲うスフィンクスを倒した者を新王にするという。
エディプスはスフィンクスのナゾナゾに人間と答えてスフィンクスを退治。新王となり母と結婚する。
エディプスは盲目の賢者から真実をきくとショックで自らの目を潰す。
さらに娘のアンチゴネーは兄弟の葬儀で国家の法と家族の法でもめ、国家の法を無視して兄を埋葬。結果、処罰され死ぬ。
この物語では父ライオスの罪が家系の全ての運命を支配している。ライオスの罪は呪いとなりその息子のエディプスまでを呪い、さらにその娘のアンチゴネーをも呪う話になっている。
このとき家系を伝達してゆきその運命を決定づけるライオスの罪のような言葉であり真理を父の罪とか父の名とかファルス、と精神分析では呼ぶ。
また、この型の物語の典型は父殺しの主題をもつ名作、MGSシリーズによく現れる。オタコンは父のメタルギア開発(核兵器開発)の罪に苛まれつつその罪を避けることができなかった。そしてその罪が彼の運命を決した、さらに妹のエマもまたこの父の罪からは逃れられず、アーセナルギアという軍事兵器の開発に利用されて亡くなってしまう。アンチゴネーと兄に拘ったエマは似ているし、義理の母と関係をもったオタコンとエディプスも酷似している。小島監督はエディプスの神話をベースにオタコンとエマの設定を構想したのかもしれない。
オタコンの物語は典型的な父の罪の伝達といえる。
この説明でピンとくる人はかなり勘がよい人だろうか。多くの人は父の罪なんて現実にあるのか?と思われるだろう。ちゃんと説明すると心的外傷が何かから説明せねばならず長くなるのでこれで納得して欲しい。とりあえず父の罪は多くの人にある。父の罪は実体的なものというより、そのような布置をうむ言語化の構造を示している。
ここまで分かると話が早い。
祖父が卑怯者とされることは父の罪。そしてこの罪は日本人にとっての父の罪である敗戦の罪の歴史。敗戦と原爆の投下はまさに僕らに共通の心的外傷であり祖父の世代が起こした一つの根源的罪・父の罪である。敗戦の罪は義務教育として教育の語らいを通じて、あるいは家系の言葉を通じて現代の世代にも伝達されている。
とくに被爆体験の話など誰も積極的に語りたくはないだろう。だから語らいのうちにある欠如を構成する。
よって宮部の罪である卑怯者・臆病者というのは、本質的には僕らの父の罪(敗戦の記憶)を直接に代表している。
というわけで、僕たちが人生にゆきづまり、自己とは何者か?という一つの意味の根源的欠如に立ち向かうとき、その意味の喪失点(欠如)には父の罪(父の欠如・敗戦)が布置される。
ここまでが分かると神経症者がその症状を精神分析によって分析解釈し意味づけて、治療していく構造と本作とに強力なアナロジーにあることがよく分かるだろう。分析治療とは父の罪を構成して、その罪によって症状や人生における偶発的な事柄を運命づけるのだ。
ところで本来、分析の語り部は症状を持つ側にあるが、本作では分析家(戦争体験者、他者)の側が語り部になっている。ということは本作の分析主体はじつは戦争体験者の側にあるとも解釈できる。フーコー流にいえば告白するのは戦争体験者で、真理を意味付けする聞き手は現代人の佐伯姉弟の側ともとれる。
この場合、本作の視点は反転して、過去の英霊の慰霊と鎮魂が本当の狙いだ!と読解することも可能ではある。
ともあれ癒やされるのは語り部の側であるが聞き手もまた癒やされるともいえる。ここからは語りの内在性を取り出すこともできよう。反省の形式としては外在的であったが語りの形式は内在的なのである。ここに本作の可能性があるといってもよいかもしれない。ヤクザの語り部が佐伯に抱きつくあたりの描写は語りの語ることと聞くことの相即的なあり方をよく現わす。この点は内在的な内省にむかおうとする作品の意の可能性を担保するものかもしれない。
※この指摘は本作の無意識についての言及となっている
ともあれ、問題もある。
つまり父の罪はどこにいったのか?が問題なのだ。
話を聞いてみれば宮部は完全無欠の英雄というオチだった。敗戦の記憶、罪の記憶、根源的欠如の記憶を掘り起こして見えたのが罪はないという帰結。
卑怯者の烙印は冤罪だったのだ。というより祖父のなかで罪が特攻によって清算されている。そのため義理の祖父の賢一郎(祖父宮部の代わり)の罪の告白に宮部の罪がシフトしている。
しかし、それは罪という趣をもっていない。やはりひたすらに美しい美談に終始する。
したがって本作の特徴は父の罪であり戦争の外傷性が引き受けられない点にある。罪がなにか他の誰かに転嫁されたり、じつは無かったという形になってしまう。
この父の罪の消失が本作の最大の欠陥に思う。罪を消し去るということは自己の存在の意味に欠如がなく無謬なる自己があるのだ!という誤認を生じる。この場合、権威を絶対化する全体主義的な人間になってしまう。
話の核心に迫ろう。
前項で同じもののなさを論じたが、戦争の罪・父の罪がなかったことになる本作のシナリオは、戦争の愚行が新聞社や軍上層部にすべて責任転嫁されるような戦争の反省における外在性にリンクしている。
戦争行為の日本人の罪、僕たちの罪を転嫁してしまう無責任な反省のあり方は、そのまま精神分析の水準では、主人公に伝達された父の罪(祖父が卑怯者、臆病者)が実は冤罪でしたというオチで消え去るあり方に通じている。
そしてこの欠如のなさ、罪の消失、反省の外在性による同じものの欠落といった問題はそのまま、本作の歴史と権力描写の歪さに通底する。
つまりこの記事が提出する問題構造は同じものの欠落と父の罪の消失と権力描写の顚倒の三つの問題が全て等根源的であり相同的だという構造だ。
※日本人が欧米的な個人主義や民主主義を賛美するとき、欧米精神の根底にある父の罪(原罪)を消去してしまう
③権力描写の異常性
本作で僕が一番、めちゃくちゃだと感じたのは、昭和ファシズムの責任を日露戦争の賠償金の獲得失敗に対する朝日新聞の報道に求める点だ。
まず僕が思う無難な歴史解釈を最初に提示したい。
僕の認識では昭和全体主義の原因は同じく日露戦争にある。日露戦争では弱小の日本が大国ロシアとやりあうにあたり資金調達に苦労した。
このとき日本政府は嗜好品の増税などで、都市部の職人などの底辺層から税金を搾り取り戦費にあてた。しかし勝利してもロシアから賠償金をとれなかった。といのも勝ったとはいえ実際には引き分け、本気の潰し合いになればやはり日本に勝ち目はない。だから賠償金をとれないのは仕方なかった。
しかし底辺層の怒りは収まらない、これも無理はないだろう。
新聞社が一方的に煽ったというのはおかしくてこういう背景があって、大衆が政府に怒ったのだ。
重要なのはこの日露戦争への大衆の不満が大正デモクラシーを盛り上げたということ。
民主主義の到来である。このときデモクラシーの音頭をとったのが吉野兄弟だ。
兄の方は民本主義の提唱者であり大衆迎合の鬼、つまり現代でいう百田尚樹そのもの。そして弟の方も兄の価値観に染まり、民意の反映なくして統治なし!という論旨をほざく革新官僚であった。
つまり大衆迎合、大衆主義、民本主義で民意を政治に反映させることを金科玉条とする勢力が吉野兄弟であった。
吉野が音頭をとった大正デモクラシーは官僚や政治家に民意を反映させ、帝国憲法の解釈を命一杯、大衆に寄り添わせるというものだった。
そして1931年、満州事変が起こる。これにより大衆は排外主義へとなだれ込み、大衆の要望で昭和ファシズムが誕生する。
民意の反映を旨とする吉野弟ひきいる革新官僚どもは民意を反映して、総動員法という狂気のファシズム法を施行。
さらに民意の煽りを受ける形で、天皇機関説が否定され、狂った天皇主権説(天皇=神)が台頭するにいたる。
こうして民衆の側、下からの要請で軍事独裁政権が誕生し、狂気の国民大量虐殺政府が誕生、第二次世界大戦では狂ったバカどもが国民を遊びで大量虐殺して自慰行為に耽る異常事態となった。
これが僕の歴史解釈である。
どうだろう。百田尚樹の新聞社のせいだー!庶民は尊い!という責任転嫁の歴史解釈とは真逆だと分かるだろう。だいたい新聞社が狂ったくらいで壊れる国なら、そもそもその国の国民は生きている価値がないので滅びたほうがいいだろう。新聞社に責任をなすりつけて片付くと考えている時点で異常。
全部、僕たち国民のせいだ。それを認めろ。
お上に従え、権威におもねろ、空気に逆らうやつは集団リンチでやっちまえ、これら日本の伝統精神は庶民の生きる指針であり、現代日本にあってもなんら変らないであろう。
どうして官僚が悪いとか軍のエリートが悪いという話になるのか、それは真実の一面ではあるだろうが、そのような悪人を創り出すのは大衆の側であって特攻隊の側でもある。
そもそも国民がまともであったなら、いくら軍の幹部がくさっていてもあのような軍事作戦は継続できるものではない。下級兵のが数が多いわけだから、末端の兵士がもっとまともであれば軍の上層部などひとたまりもない。また国民の側が団結すれば国民が軍部に逆らうこともできたろう。
戦争の愚行は、お上に従え!というくさった大衆であり末端の兵士どもの大和メンタルが招いた必然であろう。権力は下から要請されるのであって悪い抑圧者が上から抑圧するのではない。
もし、僕のように戦争を内省していたのであれば、せんだっての宝塚のいじめ殺人事件など起きなかったと思う。
また誰も天皇陛下万歳で特攻したわけでないというがこれにも疑問しかない。ならどうして昭和は天皇機関説を否定したのか、この小説はそのことを何にも説明できない。
天皇を神にしろ!と喚いたのは誰かをまったく理解してない。それは国民の側だ。けっしてお上がそうしたのではないし新聞社が大衆心理と無関係にゼロから言い出したことでもない。
戦争時にやらかした官僚も革新官僚(民本派官僚)だ。まさに大衆迎合であり大衆主義が腐ったお上を招いたわけだ。学歴権威主義を本作は否定しているがそういう権威主義を要請するのも学歴の低い庶民でしかない。
事実、いまの日本人を観ても低学歴ほど東大王やクイズ脳を神のように崇めている。
あの戦争は大正デモクラシー(一般庶民、現場的日本兵)が招いた必然だ。今のネット右翼の言説をみても天皇を神のように崇めるもので溢れている。天皇が男系or女系にさえなれば他は野となれ山となれ、といってはばからない白痴保守まで沸いている。
この現代の現実をして、なお天皇陛下万歳は特攻隊の本心ではないというだけで済ませる気か?
本作に記述のあるバンザイクリフの話も都合の悪い話を隠蔽している。バンザイクリフでは天皇陛下バンザイ!日本国バンザイ!と狂った軍人が集団発狂して自殺したのだ。
すべてを責任転嫁するなんて無理だ!
まず軍のエリートが自己中なカスになったのも、盲目的にお上の意向を推し量って、そこから空気を醸成し、お上に逆らう奴を徹底的にリンチする普通の日本人が最大の原因だ。このような土人に囲われたエリートがどうなるか、そんなの誰の目にも明らかだ。
どんな権力者も一人で権力者にはなれない。たとえば将軍というのは、その下につく部下がいて部下と将軍との役割関係があって将軍となる。子どもなしで親になれないように部下なしの将軍などは存在しえない。
つまり腐った上層部というのは、それにへつらう腐った土人国民とセットであって、土人と切り離して上層部だけが外道だとかいうのはまったくナンセンスだということ。
軍の上層部を外在化して批評するのはまったくの誤りで、必ず内在的に批評せねばならない。永遠の0の内省構造は既に観てきたが明らかに歪んでいて、その歪みの臨界点に権力描写の異常性がある。
庶民や下級兵から上層部権力が独立化・客体化され、そいつに全ての責任を転嫁して大衆のうさを晴らす。これがこの作品が孕む大衆迎合の核心要素だろう。
※役割関係が表象化させられ実体化してしまう、このような問題認識こそが昭和全体主義の認識構造と同じであり、許容できないと言っている
無責任で責任を引き受けず、外在的に反省する、そういう大正デモクラシーまんまの愚民根性がこの小説には凝集されている節があると思う。
唯一、評価できるとすれば、特攻で殉職した兵士の母親や家を日本国民が軍神と崇めていたのに戦後には、非国民扱いして集団で石を投げる大衆の浅ましさを描いた点。そういう日本人大衆の腐った様をしっかり描写している点であろう。しかし、ここでもはっきりと、日本人の一般大衆の風見鶏な権威主義メンタルへの反省は一切述べられず、事実の記述にとどまる。
もしこうして大衆迎合することでしか本を売れないんだとしたら二流だ。
民主主義が成立するためには心理学的条件がある。僕はその条件をしつこくこのブログで理論的に解説しているが、この条件が破綻したときには国は崩壊するより他ない。
大衆迎合して責任転嫁してもファシズムを繰り返すだけだとなぜ理解しないのか、百田ズム的な大衆迎合が昭和ファシズムをつくったことをなぜ理解しないのか、僕には意味が分からない。
また本作では家族のために特攻したという描写があるのだが、そもそも公私の分離を許さない全体主義の構造では国家のためは家族のために同致させられてしまうので、それをいってもあまり意味が無いだろう。家族や国は幻想(価値や意味の審級)であって、物理的対象ではないのだが、そこも本作ではごっちゃになっている。
また、もし上層部が悪いというなら昭和のバカ天皇のわがままで特攻作戦が煽られたこと、近衛から講和を進言されても却下した天皇が一撃講和をかたくなに主張したことで戦争が無意味に長引き、沖縄の無駄死にが起きたことも記述すべきだったろう。沖縄のガマで賢いはずの日本国民が賢いはずの末端の元兵士の誇大妄想に集団感染しそれをこじらせて、子どもを何十人もあつめて皆殺しにした史実だってきっちり記述すべきだ。
天皇だけは論理を超えて歴史を隠蔽してでも正当化するのか卑怯者。こういう思考停止が昭和ファシズムを招いたのは明らかだ。いい加減にしろと言いたい。
父の罪や欠如を消し去るディスクールが現代社会にはあって、そのディスクールの構造が本作にはよく示されており、その欠如を塞ぐ騙りの構造こそが昭和ファシズムの淵源でもある、このため本作には同じものという対立項を止揚する第三項が欠落する、というのがこの記事の論旨。
宮部は卑怯者ではなかった、罪はなかった冤罪だった。自分たちの二人の祖父はともに凄い偉大な人だった!
敗戦の愚行もじつは軍上層部や新聞社のせいで自分たちは無実だった、罪はなかった!
全部これだよ、まるでネット右翼の妄想じゃないか。
この作品。僕は他の人の感想も読み込んだが、なかにはまんまと小説のレトリックに踊らされ、軍上層部や新聞社に対するヘイトをつのらせ国民の愚かさを一切反省しない人もわいていた。この小説の責任転嫁の精神がそのまま読者に感染しているように思えた。
どうしてこれでこの作品を手放しに評価できようか、なぜ誰もこの点について批評しないのか意味が分からない。
終わりに:二項対立
この作品、全否定するほど酷くはない。良い点も多くある。たとえば当時の日本軍の白痴ぶりを知るには最高の本と思う。また零戦のトリビアとかちょっとした知識も身につくだろう。
ラストの展開も感動できると思う。
※感動とは自らの意志に反して心が動くこと
あと序盤で宮部が零戦のエンジンとかの音から計器の不調が分かるという設定がラストの伏線になっているところも良かった。
また永遠の0を戦争賛美とか特攻賛美という輩がいるらしいがそういう人はそもそも読んでいない極左系エアレビュアーだろうから、その評価は聞くに値しない。
明らかに苛烈な反戦小説だと思う。また特攻も賛美してない。みんなで特攻を断るべきだったというニュアンスがかなり強い。
以下にまた酷評することになるが、最初にことわっておくと本作はそんなに悪い作品ではない。というより及第点のレベルは超えているかもしれない。ただ文学としては評価できない。だからその限りでの酷評ということになる。
そういうわけで、よくも悪くも本作は外在的、主客分離的、近代民主主義的な価値観に支配されており、その死生観は死と生の分離・対立構造にあって生(オイコス)の肯定を描くもので、両者の相即する根源的今(ゾーエー)という時間性をほとんどもっていない。
もし全体主義の狂気を内在的に描くのなら、あの狂気と天皇への陶酔、公私未分の猟奇性を存分に主観的に描写することになっただろう。むしろそれこそが戦争のリアル。狂気と妄想(日常)が敗戦を目前にした軍部の発狂とともに崩れさる恐怖、そのことでむき出しになる存在不安、死と暴力、そうした当時の空気感の内的な描写がこの作品にはない。ひたすら正常なるものの正常なる妄想の補強として異常なるものが外在化され、正常なるものの視点のみから、戦争の異常性がたんたんと二項対立的な批評を加えられ、狂気は正常なるものによってその生命力を吸い尽くされてしまう。
そうやって、おきまりの生は美しい!とでも言わんばかりの常識的なアメリカ的戦後民主主義の価値観に帰結する。
ようするに全部が二項対立で、とんまな軍上層部vs現場の賢く勇敢な兵士、白痴の新聞社&官僚vs賢い庶民、バカな日本軍vs賢い米軍、横暴な主vs勇敢な丁稚、死・特攻vs生・家族、異常vs正常という構図が出てきて、その基本形は抑圧者のお上vs抑圧される庶民にあり、前者が悪で後者が善というアンパンマンモデルの大衆迎合的な二項対立の倫理観がしつこく反復される。
対立する両項に共通する同じものの洞察が決定的に欠落してしまう。この同じものこそが父の罪であり欠如だということが見逃されている。
同じものを取り出すには、対立する二項の同一性と差異の根拠を見抜き両項の連続性と相即を見抜かねばならず、その場合、権力表象も関係レベルに還元されることになる。
※百田作品はもう一作読んだことがあるがそこでも二項対立が出てきた、作家の世界の認識構造がこうなっているのだと思う、なんだか境界例(妄想分裂態勢)っぽい
じつのところ、このような同じものの不在が昭和ファシズムや全体主義の原因なので、この作品はよくないと僕は批評している。つまり作品それ自体であり作品がよきこととする宮部的価値観と作中で悪とされる昭和ファシズムとに共通する負の同じものをこの記事では取り出している。
※この同じものが差異を構成するのだがそれについては割愛する
だから僕のような読者からすると、まるで消化不良。
現象学的精神病理学的な分析を加えれば、こういうところに作家の鬱病性格がよく表れている。ポストフェストゥム的な価値体系が非常に優位な作品であり、百田尚樹の世俗的側面をよく反映しているように思う。
処女作だからこれでいいという考えもできる。しかし、後の作品においてもなんら問いは深められず完結したのだと思う、そしてその事実(後の作品)こそが本作の文学的価値のなさを遡行的に裏付けるだろう。
だからそもそも保守思想的な作品でもない。問題はそういったことすら分からないくらい日本人の知性が劣化している点につきる。
僕の素朴な感想をいえばあまりに視点が外在的なので、特攻の精神についてはまったく理解が深まるということはない。おそらく作家自身が特攻の心理をつかめていないのだと思う。また戦争の当時の空気感というかその内在的な記述のアクチュアリティがない。だから当時の異常な精神性がなんなのかもこの小説からはみじんもつかむことができない。異常性はすべて悪の朝日新聞による洗脳とか悪の軍上層部の自己満に還元されてしまい、正常にして異常な日本民族なるものの正体が暴かれない。
※もし日本民族をひたすら正常だというなら戦争のあの異常さを自分のこととして説明することができなくなる
ラカンは人はみな妄想する、と言った。ユングは正常者とは補償された狂人であるといった。狂気こそが人間の存在(正常)の根底にあり生の本性である。また生とは死においてある。
本作の底流をなす異常と正常の二項対立など人間心理の深淵においてはまったく成立しない。それは表層的な妄想に過ぎない。文学とはその深層を描写してこそであろう。
僕は大衆小説を読むにはゲームをやりすぎたようだ。ゲームの優れた物語にならされて舌の肥えた僕のようなゲーマーにはこの程度の作品は届かない。
さて、当時の狂った空気感について知りたいなら学生時代、日本軍の士官学校への推薦を断り、熟練工になり銃弾をつくっていた河合隼雄の母性原理としての日本社会論を読んだ方が実感的によく分かるのだが、そういうところまで読み取る読解力さえほとんどの日本人はもっていないようだからあれだが。
※選りすぐりだけが推薦される士官学校の推薦を断るなど当時はありえないとんでもないことである
戦争の狂気はけっして過ぎ去ってはいない、今の日本人を観ていれば分かる人には分かるだろう。
権威を崇めクイズや偏差値で人間の価値を決めつけ、自分の頭で考えずに権威的意見やデタラメな実証主義の論文を鵜呑みにする白痴ぶり。学問をやっていれば常識だが、一般の人の世界認識は荒唐無稽でデタラメだ。
学問をしている人としていない普通の人とでは世界認識について、天動説を盲信する中世の人と地動説を計算によってみちびく現代人くらいの差がある。
深層心理学好きなら、いかに普通の人が心というものをとんでもなく勘違いしているかはいうまでもない。だから僕には本作の正常なるものへの盲信的態度は納得がいかない。
さて、この本は何百万部も売り上げた本だから、僕は他の人の感想や批評を読むのを楽しみにもしていた。
じっさいに読み終えて他の人がどんな感想を抱いたのか気になり、いろんな人の感想を読みまくった。
しかし、どの感想も本当に読んだのか?というくらい中身がなくがっかりした。
この本を読む人がこの作品から受け取ったもの、語りたいことはこの程度なのか?批判者も絶賛者も僕には的外れに思えてならない。
なんでこんなにこの本の読者の感想が退屈なのか考えたのだが、やはり本作が問い(罪)を埋めてしまい、そのことで読者に満足を与えてしまうからだと思う。わだかまりもしこりも残らない、戦争の罪はなかったんだ!俺たちはピュアだ!家族をつくるのは美しい!この素晴らしき世界を生きる!という結論に決着するから、読んだ人はなにも考える必要がなくなってしまうのだろう。
ゲーマーでこの作品を絶賛する人は少ないと思う。まず本作の権力描写はあまりに幼稚だし、百田尚樹にバカにされているような気がしてしまう。なにか計算で読者はバカだから全部、責任転嫁する大衆迎合しておけばよいだろう、みたいな意志を感じてしまう。新聞社が悪いというくだりはとくにそう。大衆は新聞社に欺された被害者みたくなっててそりゃないだろ、となった。大衆は子どもか!?
どこまで大衆をバカにしているのか、一番大衆を見下しているのは百田尚樹だと思う。
※本作では軍の昇進の仕組みなど構造的な言及もあるが紋切り型のもので、独自の考察ではない
世界市場で勝負しているゲームではフーコーの参照も当たり前なので、権力が下から要請されることを徹底的に描写する作品も少なくない。たとえばペルソナ5のシナリオにおける権力描写と本作のそれを比較してもらいたい。
ペルソナ5はそれでいて一般大衆にも人気の大衆エンタメだ。ただ世界で人気があるというところが永遠の0とは違うが。
だから大衆を意識してバカにする作品はいくら売れていても評価に値しないと思う。
永遠の0は悪い作品ではないと思う。しかし、最高の文学とはいえない。文学的評価には値しないと思う。歴史に残るなど考えられない。処女作としては上等だが、後の作品でも構造的問題は変っていないと思うから、すると評価のしようがない。
僕なりにフェアに評価するとこうなる。
累計500万部の超大作。なんで500万部も売れたのかはさっぱり分からない。ただ数が数を再生産する側面はかなり強いと思う。
国内市場ではこの構造は非常に強力なことで有名だ。
たとえば日本はハリウッド映画のフィルムの供給が一番最後と決まっている。その理由は日本で先行上映しようものなら、作品の内容に関わらず大失敗することが知られているからだ。
だから海外で先行上映して実績をつくってから全米興業収入No.1とかの権威で武装して日本にフィルムを送る。
日本人は自分の頭では観る映画一つ判断できない権威主義なので、権威があると狂ったように観劇しだすというわけだ。
だからこの国では数字が多いほど数字の再生産が過剰に作動する。このことが永遠の0のヒットの一つの重要な要素になっていると思う。
かつて北野武は赤信号みんなで渡れば怖くない、といったが、まさにこれが日本人である。
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