どうも、うたまるです。
近代になり科学が発展するにしたがい現在にいたるまで、幽霊いる派といない派の対立は激しくなり両者の溝はなかなか埋まりません。
そんな人類の謎をこんかいは解決したいと思います。じつはこの問題はいい感じに解決できます。
- 幽霊とはそもそもなんなのか
- 科学的に幽霊がいるのかについて
- なぜ幽霊は近代になって否定されだしたのか
- デバンカーとキリスト教との密接な関わり
- 霊が否定されだした歴史
- 深層心理学と幽霊や魂の関係について
幽霊とは
幽霊とはそもそもなんなのか、このことが分からないと、いるのかいないのかについて判断することができません。
なのでここでは幽霊の正体を明らかにしてゆきます。
じつは幽霊とはぼくたちの主観から独立してそれ自体として存在しているような客観的な物ではありません。
少なくとも現象学的にはそのように考えることができます。
結論をいうと、幽霊というのはいわば印象や雰囲気のことだと考えられます。
たとえば、目の前に空き瓶があったとします。このときその瓶に対して、「なんだか美しい形をしているな」と感じた場合、その美しいということが、幽霊と同じ次元の概念になります。
また神木をみたときに感じる威圧感、荘厳さ、こうした印象も霊といわれる概念と同じカテゴリーになります。
より厳密にいうなら霊というのは主観的な印象や雰囲気がイメージ化したもののことだと考えられます。
対してオーラというのは、雰囲気が具体的なイメージとして結晶せずに、雰囲気そのものとして感じられる場合に言われるものです。少なくとも現象学的にはそのように考えます。
ここで幽霊を考えるに当たって霊が憑依するという現象について考えてみます。
かりに目の前で天才ピアニストが演奏していたとします。そしてある見物人がその天才に対して「彼こそはショパンそのものだ!」と言ったとします。それに多くの人が同意したとしましょう。
このとき現代人であれば、ショパンというのは比喩として理解するでしょう。
しかし、前近代の人であれば、ショパンの霊が取り憑いたとか、ショパンの生まれ変わりだ、と理解するはずです。
このことから魂だとか霊というのは、その人の印象や雰囲気のことだと分かります。天才ピアニストがショパンの演奏を想起させるような雰囲気のある演奏をしたからこそ、まるでショパンだと言われるわけです。
したがって誰かに個人の面影をみたりするのも本質的には心霊現象とそう変わりはありません。
とすれば霊が見えるという現象についても、その場に死者の雰囲気を感じたことで、その雰囲気が視覚像を錯覚させていると考えることが可能です。
ところで人間の物理的な身体というのは、個々の主観からは独立して存在しています。しかし、ある人の人柄や間柄は、個人の主観から独立してそれ自体で存在しているわけではありません。
人柄も間柄も人間関係において生じ、自分と相手との関係性(主観性)を示す概念です。
そのため、人柄や間柄は雰囲気や印象と同じカテゴリーの概念になります。そして、この人柄だとか間柄という生前にあった死者との関係性の象徴のことを僕たちは魂とか霊と呼んでいるのだと考えられます。
もう少し踏み込んだ説明をすると、客観的な物にたいして持つ関係(印象)のことをぼくたちは主観や霊と呼んでいます。
たとえば、おにぎりが目の前にあってそれを食べて「おいしい」と感じたとします。「おいしい」というのはおにぎりの性質でもありますが、個人の主観的な感想でもあります。おにぎりが苦手な人もいるわけなので、「おいしい」というのはおにぎりに独立して内在するおにぎりの客観的性質とはいえないわけです。
つまり「おいしい」という主観は食べておいしいと感じた人とおにぎりとの間の関係性をしめしています。そしてこの両者の間の関係性こそがおにぎりの魂だともいえるのです。
したがって幽霊や魂は生き物を超えて万物に宿ります。
科学で幽霊を論じることはできない
ここでは科学で幽霊を論じることの限界を解説してゆきます。
そもそも自然科学というのは客観的な対象を扱う学問であり、主観性を排除することでなりたっています。
たとえば、物理実験でリンゴを落下させて重力加速度を測定するときに「このリンゴはおいしそうだ」というような感想、主観はまったく無意味なものとして排除されるということです。
したがって間柄や雰囲気という関係性=「主観」のイメージである幽霊は科学的な対象ではありません。
そのため科学的に霊はいないといっても、それはカテゴリーエラーとしかいえません。
霊は客体ではないので科学の対象ではないわけです。なんというか、霊は科学的にいないというのは、あなたの感想は科学的に存在しない!とかいうくらい意味をなしていません。
なぜオカルトや幽霊は激しく批判されるのか
現代社会ではオカルトや幽霊をとりあげると、デバンカー(科学的懐疑主義)などに激しく非難されることがあります。
なぜ彼らは過激に幽霊を批判するのでしょうか。
その理由には、霊感商法などの悪質な情弱ビジネスなどへの批判もあるでしょう。しかしながらその心理の本質には日常的な世界の体系に対する不安があるようです。
そこには日常秩序の破壊に対するアンビバレントな感情があると木村敏は指摘します。
(※参考『異常の構造』木村敏。)
もともと、近代以前では霊というのはぼくたちの祖先にとって身近なもので、神様や魂は世界にあふれいたことがさまざまな文化人類学の研究から明らかになっています。
ではなにがきっかけで霊は否定されだしたのでしょうか。
じつはその一因は一神教の台頭にあると心理学では考えられています。
キリスト教がひろまりだすと、ヨーロッパでは多神教やアニミズムは禁止にされてゆきました。つまり聖霊信仰や山や木に宿る神を信仰することが禁じられた歴史があるのです。
こうして、キリスト教によって木や泉などの土地や物に宿る魂は、「妄想であり、個人の主観に過ぎない」と批判されてゆくことになります。
このことで共同体で共有された共同的な主観性はバラバラになり、共同的な主観は個人の主観へと分散します。また個の主観が獲得されたことで、世界は主観と客観に分裂しました。
かくしてキリスト教のアニミズムの禁止は、自然科学の基礎となる客観という概念を生じるに至ったのです。
もともと霊や魂にあふれていた古代では主観と客観は融合しており、世界は主観と客観に裂かれていなかったともいえるでしょう。たんに共同的な共有された主観だけがあり、個人の主観も客観もなかったわけです。
ここで簡単に主観と客観について補足しておきます。たとえば目の前に全ての人に同じように見える自転車があったとします。この場合、この自転車は客観的に実在する自転車ということになるでしょう。
ぎゃくに他の人には見えなくて自分にだけ見えている自転車があったとします。この場合、この自転車は自分の幻覚(主観)ということになります。
このことから、ぼくたちは全ての人と共通する主観(認識)のことを客観といい、個人にのみ当てはまる主観(認識)のことを主観と呼んでいることが分かります。
よって、古代の世界というのは、主観的な霊的物語の世界を同じ共同体の人々が共有していたために、霊や魂などが客観的(共同主観的)な物質と同じ次元で認識されていたのだと考えられます。
つまり客観的な物と関係性としての主観(霊、魂)が渾然一体となっていたのが古代の人々の特徴だと推理できるわけです。
繰り返しますがこのような共同体の物語が一神教によって分断、否定されたことで、人々の主観はバラバラになり客観という概念が歴史のなかで醸成されたというのがユング心理学での基礎認識になります。
ここで重要なのは、キリスト教という一神教が激しく多神教的な主観性を批判したことです。
この歴史的事実が示すのは、客観という概念は主観性を烈しい批判にさらすことで、確立され維持されるということです。
したがって現代のデバンカー的な心霊現象を批判するメンタルは歴史的にはかつてのキリスト教のメンタルと一致していると考えられます。
このことから科学という運動の背景には、およそ科学と似つかわしくない心理的、宗教的な背景があるのだと考えてよいでしょう。
また現代のオカルト系の人は、霊や魂をそれ自体として独立して存在する客観的な物(客体)と誤解しているために、デバンカーと激突してしまうと考えられます。
霊や魂が物を生み出す?
最後に、ハイデガーの存在論という現象学のロジックをつかって、魂の方が客観的な物を規定しているということを紹介します。
ちなみにソシュールなどの構造主義言語学などでも、物より先に関係(魂)があると考えらているはずです。
まず前提としてぼくたちは自分の意識、主観から出ることができません。そのために厳密には自分の意識から独立した客観的な物を認識することはできません。
たとえばリンゴは僕たちにとって赤くて丸い物体ですが、他の多くの動物にとっては白黒な物体ですし、猛禽類などにとっては、よりカラフルな物体に見えているわけです。
つまりリンゴの客観的な像というのは存在していないということです。人間にとってのリンゴの像はあっても、リンゴそのものの像は存在しないのです。
またリンゴをその周辺の視覚的な知覚像と区別してリンゴという一つの単位として対象化できるのは、リンゴに対する僕たちの関心、欲望の影響に他なりません。
もしなんの関心も意欲もない人がいたならその人はボーっとするだけで、何も認識することができないわけです。
というわけで、リンゴをみて「おいしそうだ」といった関心(印象)が生じて、リンゴを一つの食べものという単位として対象化しているわけです。このことから「おいしそう」という食欲がリンゴをリンゴとして意識内に対象化していることが分かります。
補足すると、もしリンゴを食料と見なさない知能の高い宇宙人がいたとしたら、リンゴはリンゴの木の一部であって一つの果実として独立した単位を与えられない可能性もあるわけです。
よってリンゴという単位の切り分け方そのものが人間の食欲などの欲望によって規定されていることが分かります。
この物を物たらしめる(対象化する)ための欲望や関心というのが、印象や雰囲気、魂や霊のことになります。
というわけで、印象や雰囲気の次元に属する魂や霊というのは、まさにあらゆる客観的対象を生じるところの根拠となっていることが分かります。
このような印象や関係性としての魂のことをハイデガーは存在(あるということ)とか存在論的差異と呼び、ユング派の心理学者では心理学的差異と呼んだりします。
また精神分析では、印象や関係性(対象化作用)は、抑圧された対象(表象)から剥がされたリビドーが新たな対象へと結びつく動きに対応しています。
基本的に深層心理学が魂の次元を扱うと言われているのもこのためです。
このことから、ぼくたちの意識(こころ)においては客体は幻影のようなもので、霊や魂、印象や雰囲気といったものの方が根本的なものだともいえます。
まとめ
- 幽霊とは印象、雰囲気、間柄、関心などがイメージ化したもの
- 幽霊は客観ではないので科学では論じれない
- デバンカーに幽霊が批判されるのはキリスト教と同じ
- 古代は霊や魂にあふれていた
- 客観的な物よりも霊や魂のが先にある
- 客観は存在していない
今回は以上です
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