どうも!うたまるです。
今回しょうかいする映画は『ハンコック』です。
この映画、少しばっかりエキセントリックなストーリーが持ち味であり、深層心理学をつかって解説するにはもってこいの映画。
この記事ではハンコックの物語のあらすじから、その心理学的な意味まで詳細に解説、考察してゆきます。
じつはハンコックはラストの病院での格闘シーンが出産のメタファーになっていたりと解説が非常に奥深い作品なので、そんな作品の魅力を紹介。
- ハンコックのネタバレあらすじ
- ハンコックの隠された物語の意味
- ハンコックのメッセージ
- ハンコックが精神分析を意識した作品であること
- 各シーンのメタファーの意味
ハンコックの基礎情報
ハンコックは2008年公開のアメリカのスーパーヒーロー映画。
ウィルスミス演じるアル中ヒーローのジョン・ハンコックがトラブルを起こしまくるという異色のヒーロー映画であり、制作陣の挑戦的な姿勢が持ち味です。
2023年現在では考えられませんが、この映画、スーパーヒーローものなのに原作はありません、映画オリジナルです。そのため非常に挑戦的な攻めた映画になっています。
映画好きとしては原作なしの攻めた映画はそれだけで高評価をしたくなるところです。
映画.comでの評価は星3.2
スタッフ
- 監督:ピーター・バーグ
- 脚本:ヴィンセント・ノー、ヴィンス・ギリガン
- 製作:アキヴァ・ゴールズマン、マイケル・マン
キャスト
- ハンコック:ウィル・スミス
- メアリー・エンブリー:シャーリーズ・セロン
- レイ・エンブリー:ジェイソン・ベイトマン
あらすじ
ハンコックの更生
空を飛べて不老不死で無敵のジョンハンコックは事件を解決するたびに甚大な被害をだすため世間から嫌われていた。
ある日、オールハートという慈善活動のプレゼンに失敗したレイエンブリーは渋滞につかまりそのまま踏切で身動きがとれなくなり電車にひかれそうになる。
そこにジョンハンコックが登場しレイの車を放り投げて救助するが、電車にめり込んで脱線させ、甚大な被害を出してしまう。
いつものように大衆から顰蹙をかうがレイはハンコックをかばう。
さらにレイはハンコックを助け彼を更生させ、世間の悪評をくつがえす戦略を思いつき、ハンコックを刑務所へ収監させる。
レイのおもわく通りハンコックが消えたことで、ロサンゼルスの犯罪率は上昇し、ハンコックをもとめる声は日増しに大きくなる。そこでハンコックはレイが用意したコスチュームをまとい警察を援助し銀行強盗犯を捕まえ人質を救出する。
このことでハンコックは世間からヒーローとして認められることになる。
ハンコックの過去
ハンコックは大衆から認めれると、レイとその妻メアリーに80年前に怪我をした以前の記憶がないことをうちあける。
その後、メアリーに恋するハンコックは彼女にキスをするもメアリーの怪力によって突き飛ばされる。
こうしてメアリーに自分と同じ力があると分かり、ハンコックは彼女につきまとう。
ハンコックはメアリーにしつこく真相を尋ねると、自分たちは3000年前から生きていて、自分とハンコックがかつて夫婦であったこと、二人が一緒になると不老不死の力がなくなり普通の人間になって死んでしまうことが明らかにされる。
ハンコックは真相をしったあと立ち寄った店で強盗をつかまえるが、メアリーに近づきすぎたために力が弱くなり腹に銃弾を食らい病院に搬送される。
さらにハンコックにうらみをもつ脱獄囚が病院に現れ、メアリーを射撃しハンコックを襲撃する。そこにレイが助太刀し、なんとか一命をとりとめたハンコックはメアリーを救うため、病院を去り遠くへ向かう。
メアリーから離れたことでお互いに不老不死の力が戻り完全復活を遂げる。
一ヶ月後、ハンコックは月にオールハートのマークを描きレイに電話でそれをしらせてハッピーエンド。
ハンコックの更生の意味
この映画の脚本構成は大まかにいうと荒くれ者のハンコックがレイと出会い更生するまでのハンコック更生パート(前半)とハンコックが自らの記憶喪失以前を解き明かす過去解明パート(後半)の二つパートから成り立っています。
なのでまずは更生パートから解説。
レイエンブリーと父親
勝手気ままにヒーロー活動をし飲んだくれて後先を考えず街に被害を出すハンコックはレイとの出会いを通じて更生してゆきます。
このことから精神分析ではレイをハンコックの象徴的父であり社会の代表と考えます。
父であるレイは、社会の規則(禁止)を無視していたハンコックに禁止をかし社会的な存在として、大衆から承認されるヒーローになるよう促します。
精神分析ではこのような禁止をかす父を象徴的な〈大文字の他者〉とよびます。
人が動物から社会的な人間になるにあたり必要なのは父による禁止であり、父の禁止は人が社会的な存在へと成長するための条件です。
(※父と言っても、この父は象徴的な父なので母子家庭でも成立するような父です)
また人が主体性をもって生まれてくるには、他者(両親)に欲望されなければなりません。社会的な存在として承認されるということは、社会的な他者(親)から社会的な存在として欲望されなければならないということです。
人は誰からも欲望されないのであれば、何者にもなることができません。
レイ(父)はハンコック(息子)に社会的に認められたヒーローになることを欲望し、そのレイの欲望をハンコックが自らの欲望とすることではじめて更生は可能になります。
またレイがハンコックに渡したヒーローのコスチュームはまさに社会的な存在としてのメタファーでありレイの欲望の象徴です。
服は社会的な立場を示しヒーローとしての適切な服装を持たない最初の状態はヒーローとしての居場所を社会から与えられていないことを示します。
重要なのは、レイとの出会いによってハンコックが、自らのアルコール依存や衝動的な行為による満足を禁止し、社会のルール(禁止)に従うことで社会(他者)の評価を迂回して代理満足(承認)をえる経路を切り開くことに成功している点。
精神分析では、このような社会化のプロセスを近代化した人類にとっての普遍的な心理発達モデルとして理論化しています。
したがってレイとハンコックの関係はぼくたちが幼少期に社会化される過程を象徴化した普遍的な描写とみなせます。
またレイは社会から疎外されていたハンコックを、社会へと疎外し返すことでハンコックを社会的な存在として認め、そのことでハンコックは社会的な居場所を獲得します。
このような父による禁止と欲望による社会化を精神分析では「疎外」と呼びます。生後しばらくした子どもが親の承認のもとに鏡の像を自己として認識する段階がこの疎外に対応。
レイが禁止にするもの
更生パートではレイはハンコックのさまざまな刹那的ではた迷惑な行為を禁止しますが、ここではレイが禁止にするもっとも本質的なものについてを解明します。
ハンコックのアル中の設定はレイの禁止を捉えるうえで重要。
飲酒は反復的であり、酒は飲み物であり口唇に関わります。そのため精神分析においてアル中は口唇期(生後間もない授乳期)の満足の反復です。
つまりアル中は乳房のメタファーとして原初的な母子一体の満足を反復する欲動によるものだと解釈されます。
したがってアル中を脱却し節度を守ったアルコールの摂取が可能になることは、母子一体の満足を禁止し社会的承認を迂回した代理満足をえることに相当。
したがってアル中からの脱却は母からの自立と、それによる社会化を象徴します。
ハンコックと記憶喪失
ここでは作品の後半、過去解明パートを精神分析によって分析。
レイの助言に従い銀行強盗を捕まえ、人質救出に成功し一躍人気者となったハンコックはレイ夫妻とパーティーで会食します。そのシーンで、ハンコックは80年前に襲われ怪我をし救急病院で目覚めた以前の記憶がないことをうちあけます。
ここから物語はハンコックの喪われた記憶とレイの妻メアリーとの関係を軸に展開します。
メアリーと母
メアリーはハンコックにとっての母のメタファーです。
レイが父であることを考えれば、その妻のメアリーが母になっているというのは自然な設定でしょう。
ハンコックはメアリーに惹かれキスをするも拒絶されメアリーに突き飛ばされてしまいます。
このことで、メアリーが自分と同族の不老不死だと発覚し、自らの喪われた記憶を求めてメアリーにつきまといます。
大事なのはメアリーが自己の起源をしる者として期待されていること。
このことは自らを産んだ母が自らの誕生の秘密を知っていると考える子どものありようとまったく同型です。
したがって精神分析的にはメアリーはハンコックの母。
記憶喪失と幼児健忘
なぜハンコックは記憶喪失なのか、これは精神分析によって明確に説明が可能です。
ハンコックのような記憶喪失を精神分析では幼児健忘といいます。
人の記憶は誰しもが途中で途切れてしまい、人は生まれた時の記憶を持っていません。
その意味で人は自己の起源の記憶を喪失してます。
また自己の起源の喪失は人間主体のあり方に対応します。
人は自らが何者であるか、何者になるかという両親(他者)が自分に向ける欲望を、自らの欲望とすることで主体的に欲望する存在になるのですが、、、
「私はヒーローになる」と自己決定すると、ではヒーローになると決意する以前の私、あるいはヒーローになると決意した私とは何者なのかという問いが生じます。
つまり、「ヒーローになる」と宣言した私は、ヒーローになると宣言する以前は何者だったのかが問題になるのです。自己が自己をヒーローであると決定(欲望)すると、かならずその決定(宣言)に先立って、その決定(宣言)をする何者でもない透明な自己が生じます。
このことから自己決定という優れて近代主体的な自由(主体性、自己決定)は原理的に、その起源を消去してしまうことが分かります。
自分で自分が何者かを決定する限り、そもそも決定する自分は何なのかという問題が生じ起源が消え去ってしまう。この自己決定における起源の消え去りが幼児健忘(記憶喪失)に対応しています。
したがって社会的な存在として主体性を獲得したハンコックが自己の起源であるヒーローになる前の自分が何者であったか?という失われた記憶の謎に直面するのは必然的なシナリオ展開です。
重要なのはレイによってハンコックが社会的主体(ヒーロー)として誕生したことで記憶喪失が問題になったこと。
その意味で記憶喪失はレイの禁止によって作り出された問題です。
記憶喪失とトラウマ
記憶喪失にはもう一つの重要な意味があります。
結論からいうと、記憶喪失はレイにかせられた禁止によって抑圧されたハンコックの願望です。
つまり記憶喪失とは、レイ(父)の禁止によってアル中(乳房)による母子一体の満足が断念されたことで、母と一体(結婚)になりたいという願望が無意識に抑圧されたことを意味します。
このような抑圧された母子一体の願望を精神分析では近親相姦願望といいます。
以前は奔放に求めていたアル中(母子一体)の欲望は断念され、そのことでアル中を望んでいることが意識できなくなったのです。
こうした禁止され、無意識に抑圧され意識的に欲望できなくなった対象が喪失した記憶の内容となり、記憶喪失を構成します。
またこの抑圧された願望はトラウマを形成します。禁止されている行為を自分が欲望しているとすれば、それを認めるのは苦痛に他ならないからです。
わかりやすい例をだせば、殺人は禁止されていますが、自分が殺人欲求をもっていることが分かったら誰しもがショックを受けるでしょう。社会的な存在としてある自己が、社会的に禁止されたことを願望している事実はトラウマに他ならず抑圧されます。
またそもそも人は父の禁止によって社会的な存在として生まれることができるわけで、その禁止を無に帰すような母子一体の願望を目指すことは、社会的存在としての自己主体の死を意味します。
したがって抑圧を被った原初的な欲求(アル中、母子一体、ルール無視)は、抑圧(禁止)されることによって自己の死を暗示する強烈なトラウマになります。
つぎの項目ではメアリーとの関係から、そのことを確認します。
メアリーと記憶喪失
メアリーにせまり、ハンコックは失われた過去の記憶内容について聞き出すことに成功。
そこでハンコックはかつてメアリーと夫婦関係にあったことが発覚。
喪失した記憶内容は抑圧された願望としてのトラウマです。
よって覚えてない過去のメアリーとの夫婦関係は禁止によって抑圧されたアル中(母子一体、近親相姦)願望の原本だと分かります。
したがってハンコックがメアリーと夫婦関係にあったことを思い出せないのは、それがトラウマでありレイの禁止によってアル中欲求が抑圧されたことに対応します。
またメアリーは一方的にハンコックを遠ざけようとし、真実を隠していましたが、ハンコックはそんな母(メアリー)の要求に逆らって真実を探ります。
このことは、レイの禁止を内面化したことで母離れしたハンコックが母から自立し、母に逆らえるようになったことを示します。
しかし同時に母と再び一つになろうとすることを象徴しており、非常にアンビバレントで葛藤的なシーンでもあります。
そのため本作のアクション的な見せ場のひとつであるメアリーとの格闘シーンはさしずめ、近親相姦願望の葛藤とトラウマ性を表象していると考えることもできるでしょう。
母と一つになればトラウマに陥ることになり苦悩が待っています。といって母を断念するのもつらいわけです。ここに人間存在の根源的な葛藤があります。
このことからも本作が非常に普遍的な葛藤を象徴的に描写していることが分かります。
運命とメアリー
メアリーによって、ハンコックとメアリーは少なくとも3000年以上も昔に二人一組で創られた存在であり、二人が結ばれる運命(自然の摂理)であることが明かされます。
しかしメアリーは「運命は全てではなく人は選択できる」といいます。
このことは人間が禁止によって創造主(神、自然の摂理、運命、母)から分離した存在であり、自らが何者であるかを自己決定できる主体であることを示します。
また人が動物ではなく社会的な存在になるとは、禁止によって自己選択(自ら欲望を宣言すること)を実現し、そのことは母(神)から自立することに対応しています。
したがって、ハンコックが陥る人間存在の母からの分離の欲求と一体化の欲求というトラウマをめぐる葛藤こそが、人間の運命をこえた自己選択の条件になっていることがわかります。
つぎの項目は、人間の自由における母からの分離と一体化のトラウマ的な葛藤をいかにしてハンコック(人)が克服するかについて。
病院での襲撃について
ここでは本作のラストシーン、病院での襲撃からラストまでを精神分析によって分析。
いよいよ月に描かれた「オールハート」のマークの意味やハンコックの葛藤がいかに解消されるかが明らかになります。
病院での襲撃シーンの意味
ハンコックとメアリーは互いに近づき過ぎたために力を失い不老不死ではなくなってしまいます。
力を失いつつあるハンコックは強盗から銃弾をあびて致命傷をおい病院に運ばれると、恨みを持つ脱獄囚に襲撃されます。
このラストシーンの映像演出は非常に凝っています。
病院まで襲撃しにきた脱獄囚の凶弾にメアリーも倒れるのですが、このあとメアリー夫妻を守るためハンコックは重症のまま敵と戦闘を繰り広げます。
注目すべきは敵から刺されたり攻撃を受けるたびに瀕死のメアリーの様態が悪化するシーン。
このシーンではハンコックがダメージをうけるたび、フラッシュバック的にメアリーの悶絶するカットが差し込まれ、二人の痛覚やダメージが完全にシンクロしていることが映像的に強調されます。
もちろんこれはハンコックとメアリーの母子一体の表現。
そのため二人が一緒になると死ぬという設定が、禁止を逸脱したトラウマ的な母子一体が社会的な主体の死を意味することを象徴していると分かります。
レイによる援護と分離
ハンコックが敵に殺されるという瞬間、レイが立ち上がり、敵の腕を刃物で切断しハンコックの命を助けます。
ハンコックはレイのおかげでなんとか敵を殲滅し、メアリーのもとから立ち去ると、互いが離れたため不老不死の力を取り戻して二人とも回復。
最初に結論を示すと、一連のメアリーとハンコックの母子一体の映像演出からレイの切断に至るシーンは、露骨な出産場面のメタファーになっています。
病院で重症で悶絶するメアリーのカットとハンコックのダメージのシンクロ演出からして監督が出産映像を意識しているのは明らかです。メアリーの悶絶は陣痛の様子と似てます。
ここで重要なのは、レイがハンコックを助けるため敵の腕を切断するシーンです。
このシーンを精神分析では去勢とか父性隠喩と言います。
つまり、ハンコックとメアリーは母子一体の願望におちいったため、その主体の死がせまっていたわけです。その危機を救ったのがレイの一太刀で、レイの切断によってハンコックとメアリーは分離され、両者は自立した個(主体)として生還できたのです。
つまりレイが敵の腕を切り落とすシーンは、出産における乳児と母をつなぐへその緒の切断を露骨に象徴してます。
したがって腕の切り落としシーンはスプラッター映画のような無意味な暴力表現とは一線を画する高度な映画的メタファーを形成。
そしてこのレイの切断こそが、母子一体と自立との葛藤に終止符をうったといえます。
精神分析では、このような母子分離の切断(去勢)のことを、父の名、といい、父の名をへて母から分離された段階の主体を「分離」といいます。
この分離を経て近代人(近代主体)は本格的な一人の社会的人間として誕生すると精神分析では考えます。
そのため分離へ至る描写を出産シーンにクロスオーバーさせた本作のアクションシーンは秀逸といわねばなりません。
つまり前半の更生パートでレイによって最初の禁止(アル中治療)がかせられ、母子がいったんは切り離されます(疎外の段階)。しかしそれではまだ母子の分離は不十分であり、トラウマをめぐる一体化の欲求と分離の欲求とのあいだで板挟みになってしまします。
したがって、この葛藤を乗り越えるには、さらなる父による禁止、レイによる切断が必要になります。
その二度目の禁止の切断(父の名、去勢)によって葛藤を乗り越えて母から完全に分離した主体を「分離」というわけです。
作中の描写には、レイによる敵の腕の切断(去勢)が、ハンコックに対する二度目の去勢(禁止)であることを示す証拠があります。
実はレイに腕を切断された敵は既にもう片方の腕がないので、レイの切断によって両腕を失ってしまいます。よってレイによる腕の切断=去勢(禁止)が二度目であると分かります。
腕の切断シーンとその設定は精神分析的に計算されたものです。ラストの隻腕の敵はいわば、ハンコック自身の抑圧(禁止)された願望だといえるでしょう。
よって本作は子どもが生まれ、父とであい疎外を経て分離へと至るまでの二度の去勢のプロセスが完全な形で描写されているのです。
次の項目では具体的に分離がどのようなものかを作中の描写を頼りに解説してゆきます。
オールハートと父の名
本作のラスト、月にオールハートマークが描かれたシーンはハンコックが母(メアリー)から分離された主体であることを象徴しています。
なぜなら母からの分離とは、母の欲望を名付けることでなされるから。
このことを理解するにはレイとオールハート活動の関係をひもとく必要があるので、そこから説明します。
オールハートというのは本作ではレイが手がける慈善活動の名前で、人々を救済し理不尽のない世界を目指すレイの理想のシンボル。
重要なのは理想というのは現実には存在しない現実には欠如したものであること。したがってレイが理想を欲望し活動するのも、その理想が現実には欠如し失われているため。
理想といった人間の欲望の対象は、つねに欠如しているのです。
つまり、すでに持っていたり実現してることを理想にしたり、欲望することはできません。
したがって欲望の対象とはつねに、欲望する当人にとって欠如しているものです。
ハンコックのメアリー(母)からの分離を理解する上で、この理解は欠かせません。
というのもメアリーがレイと結婚しているのはレイの人格にひかれたからであり、メアリーもまたレイの理想の象徴であるオールハートを欲望しているから。
つまりメアリーにはオールハートという欠如(欲望)があります。
そもそも子どもにとって最初、母は完全な存在でつねに完全な満足をもたらしてくれます。
したがって、子どもにとって完全であり欠如のない母の状態を母子一体といいます。
そのため子が母の欲望(欠如)を認めることは、母が自分にとって欠如した存在であると認めることになります。それは、みずからを母から分離した個として見いだすことに他なりません。
したがって理想(欲望の対象)とはそれが不可能であり欠如していることが大事なのです。
また母との一体化を求めることが意味するのは、自己を母の欲望(欠如)である理想の完全な対象として見いだし、母の欠如を消し去ろうとすることに他なりません。
これは子が母の不在を埋めるために唯一の母の関心の対象になることを画策し母子一体を目指す欲求です。
よって理想(欲望)の不可能性(欠如)を子どもが拒絶すると、母子一体になってしまいます。
だからレイは理想の実現のためオールハートの普及に尽力しますが難航しているのです。こうしたオールハート(理想)の不可能性(困難)こそが、人間が社会的な個として母子分離を実現することの条件です。
そのためオールハートのマークが意味するのは理想の欠如性をシンボル化(オールハートと名付け)することであり、いわば欠如の基礎づけだと言えます。
欠如が名付けられたりマークで象徴されることによって、ハンコックに母の欠如(オールハートマーク)が自覚され、分離へと至り母子一体のトラウマは完全に断念されます。
というのも欠如というのは言語やマークなどで示されないと認識できないのです。
人は無いものを直接に見たり知覚することはできないので、欠如(無い)は言語やマークで象徴化しないと受け入れることができません。
このような欠如(欲望)の父の名付け(象徴化)による母子分離を「分離」といいます。
したがって月にオールハートマークを描くハンコックの行為はハンコックが母子から分離したこと、父の名付けとしてのシンボル(母の欠如)を受け入れたことの象徴です。
レイが敵の腕を切断するシーンと月に描かれたオールハートマークは、密接に関連していることが分かります。
おまけ:ユング派で見るハンコック
これまでの解説は徹底してラカン派精神分析の理論に依拠するものです。
最後にせっかくなのでユング派であればハンコックについて、どのような分析をするかを駆け足で概観してゆきます。
まず河合俊雄などの現代を代表するユング派であればギーゲリッヒ的なアプローチにより後期ユングの錬金術研究における主題「結合と分離の結合」というヘーゲル弁証法の論理を主軸として内在的な物語分析を展開することになります。
その要諦を以下にうたまる流で示します。
まずハンコックは運命の女性、理想の女性であるメアリーと出会いメアリーを求めます。
この求愛による女性との合一のうちにこそ分離の契機は内在しています。たとえば物語の終盤、これまで嘘をつきつづけてきたメアリーは病院で本心を打ち明けるシーンがあります。
このシーンはハンコックが彼女の本心へと到達し理想と一致したことを示します。そしてこの彼岸の女性(メアリー)との一致においてレイによる去勢の断絶が生じ分離が実現すると考えるわけです。
物語的な経時的展開としてはメアリーと結合(彼女の本心を共有)し、その後にレイによる分離が生じますが、ユング派ではこのような経時的展開の本質を最初の結合自身のうちに理論的に内在する構造として捉えます。
次にこうした理想の女性との結合と分離の同時性の構造を具体的に解説してゆきます。
おまけ2:結合と分離の結合とは
ラカンでは結合の絶対的な欠如を中心として構造主義的なパースペクティブによって分析するのに対し、ユングでは結合と分離(欠如)の同時性が中心になることがこれまでの説明で分かったかと思います。
では結合と分離の同時性とはなのなのか、これは簡単で難しい話ではないです。
たとえば僕たちは母や父が怒ると、言葉や理性的判断を超えてとそれを直接的に感じます。つまり両親の内面である怒りと直接的につながり、両親の怒りと一体になるわけです。
しかし、子どもは親の怒りの原因が自分にあり、これからコッテリと絞られ怒られると悟り、その怒りを直接感じつつ恐怖するわけです。
ここでは子どもの内面を支配する恐怖と親の内面を満たす怒りとの差異が子どもに認識され、自分と親が異なる内面をもつ分離した存在であると悟ることになります。
この一連のプロセス、これをラカン派では視線触発φと呼び、疎外(最初の母からの自立)の本質契機の一つとみなします。
ラカン派は気づいていませんが、このプロセスは明らかに両親の怒りへと到達し両親と心理的に結合することによって、親の怒りを直観し、その結合自身のために、恐怖という子どもの親からの分離が生じていることが分かります。
(※後期ラカンはこのことじつはよく理解しており、そのため一体化の満足の断念を生じる父の禁止そのものに一体化の満足はある、といいます)
このような結合自身が本質的にもつ分離への力動を、ユング派は「結合と分離の結合」といっています。
したがってハンコックの物語におけるメアリーとハンコックとの関係、オールハート(理想)とレイの関係もまた、すべて結合と分離(欠如)の同時性における物語的展開としての弁証法的反復として読解されます。
なのでユングでは、メアリーはハンコックにとっての内的理想であり、理想を外的現実ではなく理想のあるべき場所(彼岸)へと帰すこと(メアリーから離れる)によって、逆説的にハンコックは理想へと到達し個を獲得したと解釈します。
レイにしても理想が欠如しているからこそ、自らの理想をオールハート活動として具体的に描くことができるわけで、その意味では欠如によって理想へと到達しているといえるわけです。
したがってユング派の物語論、時間意識は総じて円環的となり物語の冒頭(結合)と結末(分離)の一致を見抜いてゆくことに注力するのが特徴です。
またユング派ではハンコックを自我とか主体の象徴として固定して解釈するような見方もしません。むしろ主体というのを各キャラクラー間の関係性として見抜こうとします。
この意味でユング派は現象学的であり、初期ラカンは構造主義的だといえます。
おまけ3:なぜ結合と分離の同時性なのか
最後になんでユング派はいちいち対極なるものの同時性として物語を捉えたがるかを解説します。
理由は簡単で、たとえば大切な人を事故で亡くしたとします。このとき、もし喪失(欠如)がたんに欠如に過ぎないのであれば喪失の経験には悲しみと苦痛だけしか見いだせないからです。
この喪失の傷を癒やすには、外部から絆創膏でもはっつけるしかありません。
しかし喪失(欠如)がそれ自身のうちに失われたものとの結合(回復)を内在しているとするのであれば、人が悲しみの涙を流し悲しみにくれることによって元気になることが説明できるわけです。
つまりユング派では、死別の涙はその悲しみのうちに悲しみ自身によって、その悲しみを癒やす力があり、その癒やしの力を意識的な決めつけによって妨害しないようにすることを指針としているわけです。
おまけ項目なので、超マニア向けに補説をしておくと、ユングでは根源的な今という時間性が絶対的な準拠点となるのに対して、ラカンでは時間の今は長さのない点として絶対的に欠如しているモノとみなされます。
ただし後期ラカンは今(享楽、欲動)の重大性に気づきユング的な転回をしているところがあります。
まとめ
- ハンコックのシナリオは前半の更生パートと後半の過去探求パートに分かれる
- レイは父親のメタファーでありハンコックに禁止をかす
- ハンコックのアル中は禁止の無い母子一体のメタファー
- レイの欲望と禁止によってハンコックは社会へと疎外される
- ハンコックの記憶喪失は幼児健忘でありトラウマ
- メアリーは母のメタファー
- 病院でのアクションシーンは出産のメタファー
- レイが敵の腕を切るのは母子分離と臍の緒の切断
- ハンコックは母から分離されたのでメアリーから離れる
- オールハートマークは母の欠如の象徴
- 月にオールハートマークを描くのは分離の証
- ユング派では結合と分離の結合として解釈する
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