うたまるです。
この頃は、全体主義の文法についてとか書きたいけど書くと凄く長くなるか説明に手こずりそうなことを思いついていて筆が重い今日この頃。
さておき、あまりにもこの国の保守派言論人、大学人の言論のレベルが酷いとしか僕には思えないので、この記事では心理学の基礎的な議論を介して読者に学問的な思考の実践的展開をできるようになってもらうため、伝統に関する心理学的にベーシックなロジックを提示します。
伝統主義のあり方について考える伝統主義としてこれから記事を書くつもりなので、この記事はメタ伝統主義になるでしょう。ここでメタ伝統主義を論じる狙いは自己回帰(メタ)によって乖離する近代の意識の運動を賦活するため。
この記事の見所は近現代において形骸化した宗教伝統が生命を現わすのは伝統それ自身の危機においてのみであり、伝統は症状として革命・伝統主義などの治療・対処を人間に迫る最中にだけ、胎動することを示す所。つまり伝統は厄介な症状となったときだけ産声を上げるというロジック。
せっかく伝統について論じるわけですからこの記事では知の伝統たる古典の王道、ユング、フロイトの考えをベースに伝統主義を再構築してゆきます。
伝統と伝統主義との差異
本格的な議論のまえに最低限の学問的な伝統論の基礎を確認しよう。
伝統主義とは、合理性のもと伝統が唾棄される傾向にある近現代にあって、伝統を崇め過去に回帰するもの、という印象を抱く人がいるかもしれない。
しかし、たんに過去に戻り伝統が開く前近代的な宗教的コスモロジーに素朴に逗留することと伝統主義とは決定的に異なる。
というのも、伝統を俯瞰し、その意義や価値といった意味を内省する意識は前近代には存在しないからだ。
かつて伝統の意味は伝統それ自身として即自的に身体(ヌミノース)でもって確信されており、いわば人々は伝統が開く神話世界を現実の客観的な歴史世界のありようとして体感し、伝統に包まれて生きていた。伝統の外に世界などなかったのである。
だから伝統が忘れ去られ、迷妄だとか無意味として唾棄されつつある近現代の意識にあって、その伝統を改めて俯瞰し、現代においてその価値を再考するという対自的な伝統との自己関係を前提する伝統主義の伝統は、伝統にありのまま生きていた時代の伝統のあり方とはまったく異なる。
したがって、素朴に伝統に帰るということはやろうとしたところでやりようもない。強力な思考停止のもと、日常を支配する近代合理主義的な価値感覚を乖離させ、多重人格者のように振る舞うでも無い限り、素朴な伝統への回帰は不可能なのだ。また前近代的なスピ系やオカルト、宗教につかった人間が詐欺占い師に搾取され身ぐるみ剥がされる事例には事欠かない。
まず、ここに伝統と伝統主義との決定的違いがあり、このような差異や自己分裂を生きる時代を近代と呼ぶ。
つまり伝統の中に包まれていた自他未分離の個々人が伝統の外に飛び出して伝統コンプレックス(伝統が開くコスモロジー)全体を俯瞰することで、伝統を行為する自己と伝統を行為する自己を俯瞰する自己とに自己が乖離・分裂しつつ、二つの自己をその乖離を保持したまま統合するのが伝統主義(近代主体)の基礎構造(自己関係)なのだ。
近代にいたって人類を襲撃した神経症や統合失調症と呼ばれる心のトラブルも、この近代に固有の自己乖離をベースとする自己関係の弁証法的な同一構造に起因する。
※近代の自己関係の構造については当ブログの色んな記事で、色んな仕方で詳細に解説している
さて、実は、このような伝統と一体となり伝統を行為する自己と、そのような行為する自己を対象化し内省する自己との解離は近代市民社会の理念と密接に関連する。
近代とは民主化する時代のことで、近代民主とは国民が国民自身を自己統治するモデルだ。
自己統治とはいわば、私が私自身について内省する意識を要請するもので、それは私という存在が、私を内省する私と、その私に内省される私とに乖離することでなりたつ。この乖離こそが自己が自己を統治するという文に生じる自己統治を可能とするために二つの自己への分裂を実現するのだ。
※自己統治とは統治する自己と統治される自己とに自己が分裂しつつ同じ自己として同一されること
したがって伝統主義における伝統と昔の素朴な伝統との差異は、近代主体における民主化、自己統治の根拠にもなっている。
補足すると王政では国民は王という他者に統治されていて自己決定の権利がほとんどない。政治はお上がやるものという意識では民主化しないわけだが、だから近代民主とは王という他者が死に、不在の玉座に自己自身が君臨するような自他関係であり自己関係を示す。
このような事態をフーコーはパノプティコン(不在の監視者(王、神)の視線の内面化)による規律訓練と呼び、フロイトは超自我と呼んだ。民主化とは何でも自由なのではなく、私が私を王の視点で激しく律する自己束縛的な状態(自己抑圧=神経症)という見方もできるのだ。そして自由意志とはこのような自己束縛(抑圧)によって生じる葛藤によって生成されているのだが、それについては当ブログの他記事でメカニズムを論じているので割愛する。
神経症と伝統
近代以後、人類に登場した神経症という心のトラブルも、この自己乖離による産物。
自己を内省する私にとって望ましくない私の行為が無意識に抑圧され、そのことで無意識に抑圧(拒絶)された私ならざる私の行為(他者の行為)が症状として意識に回帰する現象を神経症と呼ぶ。このことからも分かるとおり神経症とは私が私を抑圧する私と抑圧される私とに解離している必要があるのだ。
ここで大事なのは、私により拒絶され抑圧されたことで私という主語を剥奪された主語不在の行為こそが神経症の症状の正体であり、したがって、症状は他者の行為=他者の主体だということ
ところで、伝統とはなんだろうか?
伝統とは形式的な決まりごとに基づく客観的な事象や古い制度形式のことだろうか。もちろんそうではない。
伝統には何らかの意が込められており、その意を代理・表象しているのが伝統行事や伝統制度である。たとえば神の意をなんら代理しない宗教・聖書があったなら無価値であることを考えるとよい。
まだ分かりにくいかもしれないから解説しよう。たとえば僕たちは本を読む。あるいはこのブログの記事をいま読者は読んでいる。
このとき文を読むという営みの内では、書かれた文章の行間に書き手の意を想定し、その意をコンテキストから感じ取ったり類推したりする。これは絵画などの芸術作品でもかわらない。作品を見るとき人はその作品に作者(他者)が込めた意を感じたり推理したりするはずだ。
伝統もこれと同じで、先祖代々の人々の意を、伝統行事という形式の背後に感じるのである。でなければ伝統は伝統にならないし、精神的な基礎付けにもなりえない無機質な冷たい記号(形骸)になってしまう。
※作家の意を読者が感じるのは読者の思い込みで作家の意などどこにもないというデリダ的な詭弁があるがこれは間違いで他者の意とは現象学的には信憑の構成であり、そもそも客体ではない
ここで重要なのは、伝統の意にせよ文章の行間にやどる書き手の意にせよ、それは他者の意であり主体だということ。
伝統とは古来より受け継ぎ、そこに宿る大いなる意を引き受けるものだから、当然、到来するものであり、到来するものとは他者のことである。つまり私の意図を超えた他者の主体(意)であるからこそ伝統たりうるのである。
もし、伝統が自己性のもとにあり私が好き勝手に際限なく選択したり操作できるものだとしたら、それは伝統として、つまり自己の国家共同体的アイデンティティとして成立するだろうか?
そんなものは成立しない。
なぜなら私が私の起源であるアイデンティティを選択するならば、私の起源に先行して何者でもない選択する私が生じ、そのことで根無し草となるからだ。
そのため人中心主義としての近代を深層心理学では学派を超えて、世界の意味喪失=アイデンティティ喪失の時代と呼ぶ。私が私を統治・選択する主体となることで、私の根源的意味が消去され私の起源が消失する構造があるわけだ。
フロイトがいう幼児健忘はこの意味では自己の起源の近代的な消失に対応させることができる。
※ラカニアン新宮一茂はこのように捉える
自己解離がもたらす意味喪失、これが神経症が乖離の病として抱えるもう一つの基礎構造である。
ではこのような自己統治的な解離によって要請される意味喪失に近代人はどうやって立ち向かったのだろうか、あるいはどのようにその病(他者)は自己展開をなしただろうか。
その答えは簡単で、精神分析によって他者の行為=症状を引き受けたのである。ここでは選択ではなく、引き受けが重要となる。他者の行為を自己の行為として解釈・意味付けして自らの意志として引き受け抑圧を緩めること、それが精神分析であり分析心理学の神経症治療の基礎理論なのだ。
このことを伝統論に敷衍するば、伝統という他者の意を解釈し自己の意志として引き受けることで、伝統は国家共同体的な自己のアイデンティティとして機能しうる、ということである。
もちろん引き受けるといっても、簡単ではない、抑圧されたものの回帰である症状は抑圧によって他者の意を症状に置き換えてしまっているので、分析=解釈による意味付けを介して意を言語化することで、抑圧された意を自己認識へと還元せねばならないわけだ。
※意味論については70年代ラカンのサントーム論や症状の一般理論の議論を持ち出すと、話がややこしくなるので今回は割愛する、これについては当ブログのゴジラ映画考察記事で要領よく解説済み、また症状(夢)が何かを隠すと考えるのはフロイト的でユングの場合は隠さないという含みもあり、ここに両者の決定的差異(欠如VS充溢)がある
話をまとめよう。
まず近代の乖離の意識において、伝統とは他者の意を代表しつつその意を背後に隠す症状のようなものである。
近代以後に生じるバークに典型される伝統主義も、意味喪失の時代に伝統の意を他者=先祖の意として引き受ける作業を意味する。
解離した意識において伝統をひきうける場合、
神経症の症状が分析を介して意味付けされて引き受けられるように、伝統の意もその内省によって意味付けされることで引き受けるより他ない。
たとえばバークは伝統は長い時代のなかで共同体の無意識によって要請されて残っているものだから社会の安定に欠かせないという具合に社会や共同体の安定装置として伝統を意味付け、そのことで一見無価値に思える伝統を引き受けることを可能とする。
※バークの意味付けは外在的で人間の道具として伝統を意味づけているのでかなり問題がある
伝統の生命、症状、フランス革命
バークはフランス革命に熱心なようだから、それにならってフランス革命をモデルに伝統について考えよう。
まずフランス革命では伝統的な王政が人中心主義によって排除され、理性に基づく国民主権が誕生した。このときバークは伝統が破壊されるという危機にあって感情的違和感を生じる人により伝統主義が提起されるといい、だから伝統主義は後手に回るというニュアンスのことを述べる。
※YouTubeのバークについての動画でそういっていた、僕はバークに興味ないので読んでないからバークについては不正確なところがあるかもしれない
この考えは妥当だろうか。
僕には大きな見逃しがあるように思う。そもそもなぜ革命ということになったか、ということの解釈が恣意的に思えてならない。違和感というなら、伝統的宗教という近代人にとって集団妄想にも思える権威にたよった宗教的位階制度への違和感がまずあったから革命を考える人が生まれたのだろう。意味喪失の近代にあってはこうした宗教制度への違和感は必然的であり、否定しきることはできない。
つまるところアンシャンレジームにおける伝統身分制度は、明確に神経症の症状である。
もしフロイトやユングがフランス革命を省察したならば、アンシャンレジームを強迫的に反復される症状とみて、保守と革新との対立を神経症的な自己解離として洞察すると思う。
古い宗教的位階制度や王は伝統であり、社会においていつでも再生産されて反復される症状である。症状とは、強迫的に反復して意識に表れ人間を困らせる厄介なもののことだから、社会において反復される伝統シニフィアンに対する違和感や不快感は、それが生じた段階で伝統シニフィアンを症状化していると見なせる。
※伝統シニフィアンとは伝統の形式的で具体的な表象、症状のこと
では症状であり他者の行為とはそもそもなんであろうか。
ここまでの説明からその答えは明白である。症状とは伝統の主体(意)を代表するもの。つまり伝統の主体性であり生命は症状それ自身の側にある。
伝統の危機をバークは単純に人々にとって解決すべき社会問題として論じてはいないだろうか?
とすれば極めてバークは人中心主義的と言わねばならない。伝統の危機にあって、それを近現代に生きる人間社会の危機と見なす発想はまるで啓蒙主義者のそれである。
もしも伝統を少しでも重んじるのであれば、たとえば日本でいう女系男系継承問題といったのっぴきならない症状は、それ自体、生きた伝統の生命であり伝統の側からの呼びかけである。
伝統は死んだ形骸ではないのだ。たんに死骸であり客体としてしか伝統を見ようとせず伝統の側の主体の呼び声を抑圧するバークの発想は、伝統の生命を蹂躙し貶めること以外のなにものでもない。
症状は人間がもららすのではない。症状の主体(原因)を改革派の理性的選択などの人間の側に求めるのは完全な妄想であり、主体構造への無知からなる誤謬である。症状(男系継承など問題化する伝統)はそれ自体が伝統であり伝統の生命である。
まずジジェクの議論(文化における信じていると想定された主体論)を参照するまでもなく、近代において伝統はよくも悪くも形骸化しており、死んでいる。文字や制度によって昆虫標本のように固定された文化遺産でしかなく新たに生まれることもない伝統は、平穏な日常においてはなんの機能も果たさないだろう。また伝統の死(形骸化)とはもちろん、前項で確認した近代における意味喪失に対応する。
ユングの事例を持ち出せばプロテスタントだったユングは幼少期、聖餐式の儀式は凄いものだと胸を膨らませたが、実際に参加すると、どこのパン屋のパンかもわかったしワインも普通のワインであって興ざめ・絶望したという。
かくして近代に生きるとは、宗教が、子どもにすらフィクションとして見抜かれてもはや生きる意味を人々に与えない時代を生きること。
だから伝統は近現代ではどんなにそれを望んでも死んでいるのだ。ユング心理学とはそもそもが神話や宗教が意味を喪失した時代に、その意味をなんとか復活させようとしたユングの生涯をかけた啓蒙主義への抵抗の軌跡でもある。
だから近代において宗教・伝統がその価値と生命とを回復する機会があるとすれば、それは唯一、伝統自身の危機において、つまり症状のうちにおいてのみである。
だから伝統の症状化とは伝統自身の自己産出を促す伝統の生命なのだ。
バークが伝統主義は後手に回るといったのであれば、それは伝統主義が症状の呼び声によって要請されるからだと理解すべきである。断じて革新派が先手をうってかき乱すことで後手に回るのではない。
あくまで伝統自身が初発の主体であり、伝統に対して人間は常に後手に回るしかないということ。
伝統という大いなる他者をないがしろに革命主義者という人間を初発の主体(原因)だと僭称するバークの啓蒙主義的傲慢はさながらミイラとりがミイラの典型であろう。
また革命論者が伝統を破壊しようとするとき、革命論者は自らの革命の意志に先立って伝統シニフィアンに対する違和感を抱えている。でなければ革命をなす動機がない。革命への意志もその抵抗たる伝統主義への意志も、ともに伝統自身の呼び声としての症状によって生じるのだ。
保守と革新の乖離にある伝統
天皇の男系論争を例にとって伝統の意を取り出してみよう。
天皇の継承問題は非常に神経症のモデルが分かりやすい。まず歴史に於いて126回反復してきた設定の男系継承がある。これが後継者不足の問題をきっかけに、多くの人に違和的に意識され、現在、男系は過去126回にわたり強迫反復される神経症の症状として国民の関心の的となる。
(※追記:もともと症状ではなかった男系継承が近年になって症状化するとは、前近代においては男系であることの意は直接的、即自的、体感的、神話的に感じ取られており男系それ自体が直接にその意の現れであったが、近代化やジェンダー意識の変化などもあって、近年に男系の意が男系自体から意味喪失することで、男系の解釈・意味付けが人間に要請される事態を示す。なおこのような近代化における男系と男系の意との乖離はシニフィアンとシニフィエの乖離に相当する)
余談だが症状とはそれ自体に享楽があり、人は症状についてアンビバレントな態度をとる。そのため、男系論争は多くの銭ゲバ言論人の手によって金儲けのネタにつかわれ情報商材化してもいる。
そんなわけであらゆる意味で男系問題は神経症の症状であり、乖離のこの時代に生じたことには重要な布置(意味、必然性)がある。
さてバーク派保守であれば男系一択だろうか?
いずれにせよ、保守は伝統を声高に叫び、伝統批判の声を伝統自身(症状)から分離して人中心主義の暴走だと糾弾するだろう。反対に革新左派ならば、女系容認による男女同権の象徴化を叫ぶか、前近代的なオカルト思想の淵源として天皇の伝統そのものを否定し、伝統なき合理的社会の創造を主張するのだろう。
保守は伝統の症状(生命)を抹殺して、時間を巻き戻すように伝統を固定することを望み、リベラルはその逆の仕方で伝統(他者、症状)を完全に排除することを望むわけだ。
このような症状をめぐる保守とリベラルの二項対立そのものが乖離と言わねばならない。内なる他者(伝統)を巡る乖離の構造こそが近代主体の構造であることは既に論じた通りである。
ユングは神経症の症状について、自我が症状の呼び声に従い、その硬直した態度を改めたとき症状は治療される、というニュアンスのことを述べる。またユングは人が症状(神経症、伝統)を治すのではない、症状(伝統)が人を治すのだ、ともいう。だから伝統の問題(症状)を治療するのは問題それ自体としての伝統であり、人がこれに対処するなどというバーク的僭称は啓蒙主義でしかない。
ようするに保守もリベラルもともに、症状という裂け目を起点とする自己分裂にあって、その乖離を否認し相手を排除しようとするのである。かくして症状の呼び声に耳を閉ざし、互いに相手を抑圧する。
リベラルの声がかくも保守の心をかき乱し、保守の声がかくもリベラルの心をかき乱すのは、それが互いに内なる心の抑圧された声だからだ。
自己自身の声であるからこそ、つまり己の抑圧した己の本性であるからこそ、両者はかくも激しく情熱的に対立しあう。
バーク的な人間中心の伝統解釈で、症状たる伝統の自己実現がなされることは決してない。そればかりかリベラルの神経を逆なでし、自らの硬直的な態度=抑圧を強めるばかりであろう。
伝統の側が症状として人間たる保守とリベラルの双方に態度変更を迫っているのであるからそれに従わない限り何も解決しない。だからフランス革命で王を殺すことそのものが間違いかどうかなど誰にも決定する権利はない。問いうるのは、誰のどのような意によって王を殺したかであり、その意の正統性だけである。
より分かりやすく要点をまとめれば、革命派リベラルとは反伝統主義であり保守は伝統主義であるわけだが、このとき反伝統主義とは結局のところ伝統主義のことでしかない。
というのも反伝統主義とは伝統について否定的な解釈=内省を行う主体だからである。要するに伝統主義も反伝統主義もともに伝統する自己とその自己を内省する自己との自己乖離の産物であり、自己解釈における価値付けが異なるだけ。
しかも互いに伝統を内省する動機は表面的には相手にある。たとえば革命論者が反伝統主義になるのは、伝統を肯定する社会や伝統主義者のためだし、伝統主義者が伝統を振り返る理由は反伝統主義の台頭のため。バークは一方的に伝統主義者を反伝統主義(革命主義者)の後手にしてるようだが実際には、伝統主義者の論理にムカついて反伝統主義者になる人もいるし、どのような反伝統主義者も伝統主義者からの反論を受ければそれに反論して反伝統主義の意味(自己の正当性、自己認識)を再解釈することを迫られるだろう。
要するに両者は相手の存在によって自己の立場(主義)を構成してるわけで相手なしに伝統主義者(自己内省者)であることも反伝統主義者(自己内省者)であることもできず、両者は自己が何者かという内省を迫るもう一人の自己でしかありえない。つまり対立できるのは同じものだけだという理論的に当たり前のことを言っている。
また近代化すればどのような人も伝統への疑問や違和感を避けることなどできないのであるから、伝統への違和感(内なる反伝統主義者の声)の全てを完全抑圧するのは不可能だ。
だから伝統主義者と反伝統主義者は一人の人間の内にある伝統(症状)という内なる他者に対する自己解離を示すというより他ない。このような乖離と対立にこそ近代そのものの価値と根拠があるといってもいい。
また乖離はもとは一つの即自的な意識が乖離するのであり一なるものが二になるのだ。
この乖離をなす私と私との裂け目こそが症状(絶対的他者)としての伝統それ自身。ユング派ではこのような裂け目の動きを心理学的差異と呼ぶ。
裂け目とは別の言い方をすれば対立する二項の間のアクチュアルな根源関係のこと。
※裂け目としての根源的他者をユングはセルフ=自己と考える節がある、同じものを他者と呼ぶか自己と呼ぶかはパースペクティブによる。東洋では根源的なものは自己、西洋では他者と呼ぶ
※ここまで完全に理解できた人向けの補足:私とは他者であり裂け目としての関係それ自体が自己主体なのである。しかしそれが私として表象化することで、実体化し主体と客体、コトとモノ、対象化することと対象との存在論的差異の混同が生じ主体の弁証法が静止することがあり、この静止を神経症と呼ぶ。このとき表象化した私を論理によって概念=関係=運動へと還元するのがヘーゲル弁証法と思う
あるべき伝統への態度
すでに論じたように、症状こそが伝統の核であり、症状は私と私との裂け目それ自体でもある。
精神分析やユング心理学が教えるのは、このとき人は、伝統の呼び声たる症状それ自身に耳を傾けるべきだということ。
伝統が変るのか置き換わって消えるのか形式レベルではそのまま保存されるのか、その一切を決定する主体は伝統それ自身(他者)であり人間ではない。人間が決めると考えるのは人間が神を僭称するに等しいだろう。
近代の民主化とは、私が乖離するということ。この乖離のために伝統主義という仕方で伝統に対して自己関係を形成したり、症状としての伝統が保守とリベラルへと人間主体を乖離してゆくのである。
保守が伝統の破壊に違和感を覚えるとき、そこには必ず伝統そのものに対し同じく違和感を感じる自己自身が対峙しているのだ。
伝統の症状は、症状そのものの変更や意味付けを人間に要請しているのであり、それに応えるのが人間の側の責務である。
相手を抑圧し伝統に先立って人間を症状の主体と見なすバークの啓蒙主義的妄想は、乖離を拒絶することでかえって乖離を深め社会と伝統に混乱をもたらすことになるだろう。
少なくともバークを崇める保守の言説は同じくらいに知的に盲目な人の心にしか響いていないようにしか見えない。
症状そのものを深めることだけが症状の癒やしであり、症状を癒やすのは症状自身であり人間ではない。このことを保守もリベラルも学ぶべきであろう。
だから例えば天皇の男系問題についていえば、これには正しい一つの答えなど初めから存在していない。答えは問題自身の中にあって伝統自身がくだす。だから症状を深め症状から内在的にその解釈を引き出し、それを引き受ける態度なしには伝統は生きてこない。
つまり今のままだと男系でも女系でもどのみち天皇という伝統は完全に死に至り、人中心主義的な全体主義に支配されるだろうということ。
保守向けの文章によりすぎているからリベラルむけに補足すると、たとえば天皇制は単なる形骸かもしれないが、そうでない部分もある。そもそも形骸であれば症状は産出されない。つまりそれが僕たちの無意識であり心のうちに生きているからこそ症状が生じる。
天皇は幻想の水準では強力に生きている。そのくらいには強力なのだ。リベラル系の人は個がまずあってそれが、宗教的な物語・妄想を信じるかどうか、と捉えるのだろうが、それは間違い。宗教幻想は共同主体の産物なんであって、ここから個が析出、分離してきたのであり、物語の構造は個人の意識に反映していたり社会制度と相関したりとかなり複雑な関連にある。
また天皇制などの物語は人間の主体の自己関係構造を規定していて、それを信じていなくても作動してしまう。そもそも物語をフィクションに過ぎず関係ないと解釈すること自体も物語化してしまう。意味そのものが幻想であるから、この構造は避けがたい。
※現代人は物語というサイコロジカルインフラを喪失しつつあるという論考もあるが、話がややこしくなるので今回は割愛する
極めて個人的なことをいえば僕は天皇制は緩やかに解体し置き換えてゆくべきだと考えている。このように考える強力な根拠があるが、読者を特定の政治思想へ誘導するつもりはないので割愛する。
ともあれ、この記事が各人が自分の頭で伝統について考え、伝統について自らの立場を構築してゆく一助となれば幸いである。
伝統主義の内省
この記事ではメタ伝統主義としてバーク伝統主義(日本の保守)を内省(批評)する形をとった。
このような形で伝統論を語ることには正統性がある。というのも伝統主義とは伝統自己自身を振り返る自己乖離の意識であったわけだが、
だから伝統主義の論理もまた、権威的・伝統的テキスト(書かれた文章)を思考停止して反復すればよいというものではない。
この記事が試みるように伝統主義もまた伝統と等しく、それが時代であり歴史によって要請される節目において、つど内省=否定されることで自己展開をなす一つのsubject(主体/主観)であり生命である。
つまり伝統主義などの思想は自己展開をなす主体であり生きている。だから文章も生きていて人間の手をかりる仕方で文章自身を自己産出する。
伝統が症状として僕たち人間の変容を促すことで伝統自身に何らかの変容・自己実現が達成されるように、伝統主義もまた自らを自らによって否定・内省することによって自己を実現するのだ。
だからこの記事は、伝統主義論理自身の生命活動(自己否定による肯定)に他ならない。
※なお、この記事の伝統主義論は、主にユング派の田中康裕のユング心理学理論のロジックを下敷きにしており、あまりオリジナリティがあるとはいえない
まとめ
議論が少々散らかった気がするので簡潔にまとめてみる。
近代は自己統治の時代であり行為する私と内省する私との乖離を生じる。
この乖離が抑圧を生じ神経症を生み出す。
前近代の伝統時代と近代の伝統主義は別物で伝統主義では伝統する自己とその自己を内省する自己との自己乖離が前提され、それゆえ伝統の意が内省によって解釈されることになる。
近代において伝統・宗教は文字や制度により形骸化しており平時ではその生命力は眠っている。それゆえ近代とは意味喪失の時代である。
近代以後の時代に伝統がその息吹を吹き返すのは、伝統の危機の瞬間においてのみであり、この危機に応じて伝統は症状という形で人間主体に対して産声を上げる。
※説明し損ねたので補足すると伝統は根源的な今=起源を問うのであり症状とは今の反復である。過去もまた今において現前する。過去の現前とは投影や転移のこと
症状こそが伝統主体それ自身であり伝統の意であるから、症状を深めることによってのみ症状自身において症状は癒やされる。
症状に対して人間を原因と見なし乖離や伝統の生命を否定するバークの保守論は典型的な啓蒙主義の妄想の雛形であり何も解決しない。
保守は革新派の後手に回るのでなく、伝統の後手に回るのである。人間にとって初発の主体は自己でなく他者=伝統である。
症状とはそれ自体が乖離をなす裂け目であり、裂け目こそが真の主体である。
伝統主義と反伝統主義は同じ一つの伝統主義の自己関係に他ならず、その主体はやはり伝統自身としての症状たる両者の裂け目にある。
このような伝統の生命に対峙するにあたって伝統主義の論理は伝統とその運命を等しくし内省=自己否定を介して生命活動を賦活する。
終わりに
最近、日本の保守と呼ばれる人たちの言論動画を見ることがある。
バークを崇める保守派の動画を見て疑問を感じ、バークの思想が今の日本の保守派の論理的に不誠実な態度を補強している気がして、バークを強く批判する内容となった。
バーク派の議論があまりに自己中な印象が強くバークの本を読む気になれなかったので、バークに関してこの記事では理解が甘いところがあるかもしれない。
バークを崇めている人の動画はいくつも見たが、バークマニアの人の論理でまともなものを一つも見たことがない。バークマニアには、人は変らない、歴史は連続だ、社会は複雑で理性には限界がある、だから急激な改革は控え長い歴史によって検証された伝統を重んじろ、という単純なテンプレを繰り返す量産型の工業製品みたいな思考停止マンが多いと思う。
まず歴史の連続性や人間の主体の恒常性を無根拠に前提してバークの独断論は成立するものだろう。
というのも歴史が非連続なら伝統が長い歴史を生き延びたことを根拠に伝統の保持を主張することは困難になるし、もし人間そのものが変るのなら、古い伝統は人間に合わせて変らないといけないので、やはり古い伝統を変えずに守ることの根拠が損なわれる。
よってバーク教保守は伝統が感情的に好きで自己中心的な理由から伝統を守りたいと考え、そのために、歴史は連続的、人間は不変、という二つの条件をでっちあげているようにしか見えない。
少なくとも僕には、バーク派保守の話は、このようにしか解釈の余地がない。結論ありきで恣意的な前提を設定しているせいで、いくつもの矛盾が生じ啓蒙主義的な理論が入り込んでいる。
そもそも二つの前提は妥当とは思えない。
まず歴史の連続性の措定は、啓蒙主義的時間性を示すもので、理性批判をしているのか理性肯定しているのか意味が分からない。歴史がそんなに連続的なら因果関係が明瞭なので未来は予測・予定可能で設計主義的に社会を構築できることになる。
つぎに、人間主体の不変性についても臨床心理学や哲学論理の観点でいえば、まったくの嘘でありえない。そもそもさっぱり何を言っているのか意味不明であり、まったく整合性をなしていない。人の何が変らないの?
どうも日本の保守は問題があると思う。
感情で素朴に合意がとれたのは経験や生活が一様だった時代までで、生活体験そのものが多様化する現代社会で共通感覚(センススコムニス)にだけ頼った言説には限界がある。
素朴な表象を内省し、概念へと鍛えることの重要性はヘーゲルの弁証法理論がよく示している通りだ。共通感覚頼みにエモいこと言ってどうにかなるなら僕はこんな風に考えたりしない。
バークを保守のバイブルに、思考停止するのは、もうやめたほうがいいと思う。
現代社会の言説の根本問題についても簡単に触れておこう。
まず乖離を拒絶する態度が保守もリベラルも顕著である。
このような態度は逆説的に乖離を深めるばかりで社会問題を解決しえない。
つまりかえって自己自身を客体化することになり乖離が致命的となる、そのことで、内なる他者との分断が止揚されず、共同体が引き裂かれるわけだ。逆に乖離を引き受けたときには動的結合をなし、自らを自らの内側へと同一・記述することが可能となる。
心の次元では内と外が矛盾的に繋がっているということ。だから自己の内に留まると自己の外に排出されるし、自己の外に出ると外が自己の内に入り込む運動が生じる。心には空間的、客体的論理とは異なる理論法則があるのだ。
ようするに私は~な人間だ!と考えたとき、その自己認識との乖離を拒絶すると、私は~な人間だ!と自認する人間だ!という真理から乖離してしまい、真理が抑圧されてゆくということ。
私は~な人間だ!と認識したときには自己回帰により、と認識する人間だ!が文末に加わり続けるため決して自己の真理にはスタティックには一致しえず乖離を生じる。しかしその乖離を引き受けたときには動的に自己への一致が可能となる。
※厳密には存在論的差異があって静的には一致しないのだが、分かりやすさ優先の説明をしている
よって真理とは動的な乖離と結合の弁証法的運動なのであり、この心理学的差異の運動を生じるのが、近代の自己意識であり私という概念である。
もしこれを否定して素朴なプレモダンの宗教的世界に帰るというなら、近代国家を放棄し文明的生活の全てを捨てるしかない。そのことを日本の保守は理解すべきである。
またバークVSリベラル、保守VS合理主義といった今日の日本の言説の不毛な対立は、客観主義的な科学万能論者とオカルト的な宗教論者の対立、つまりデバンカーVSスピ系の分断とアナロジーにある。
このような乖離の否定としての過剰な二項対立にあっては、どちらもが全体主義の構造を内在する。
このような全体主義化をユング派では心理学的誕生の拒絶と考えるだろう。心理学的誕生(近代主体)とは乖離する自己意識(自己関係)の乖離的自己同一を示す。
※心理学的誕生はラカン派では分離、父の名(父性隠喩)に相当する
心理学的誕生の拒絶は自由意志の消失を生じ、さらには心的誕生の否定を呼び起こす。心的誕生とは私という自己概念の成立、つまり意識の誕生を示す。それは概念の偶有的運び手=絶対的他者を構成する段階。
※心的誕生はラカン派では疎外、大他者の成立に相当する、吉本でいえば共同幻想と対幻想が分離する段階だろう
このような構造は理論的には全体主義を生じるので極めて危険であり、このブログ記事の多くはそのことについて警告を発し続けている。
よく明治時代はネタだった神話が昭和にはベタになって天皇が神化して戦前戦中の全体主義を生じたとする研究があるが、正確には日本神話というイメージであり比喩が客体化したり客体水準と混同されたことで、心理学的差異が消滅したために全体主義化したというべきである。
心理学的差異の消失は、心理学的誕生の否定であり、主客の未分離を示す。このプリミティブな認識パラダイムにあって近代国家幻想(単線的時間構造の象徴界における支配化)が作動した場合、理論上は極めて高い確率で全体主義化、ナチス化すると論証可能である。
まず深層心理学理論としてはこのように考えられるし、歴史を検証しても、ナチスが科学万能論者でありつつオカルト(イメージ)を客体化したことは有名だし、戦前の天皇全体主義が神というイメージを客体化し神話を実体化したことも有名だ。
だから理論的にも実証的にも、もはや疑いようもなく、乖離の拒絶は非常に危険な事態を共同体に生じると思う。哲学における抽象的な認識論問題は極めて現実的な社会の全体主義化の問題とも緊密に連動しているのだ。認識論問題をいかに論じるかということ自体が人間の主体構造に決定的に影響するということ。だから抽象的理論を軽んじるのは危ないと思う。思想・哲学はそれ自体が主体であり生きて作動し、社会の趨勢に影響を与える。
全体主義の文法構造については、気が向いたら記事にする。
追記:ハーバーマスと伝統
この記事を投稿し終えたあと、不覚にもハーバーマスのモダン論考についてを書き忘れたことに気づいた。おかげて今、こうして追記項目を加筆するはめになっている。
ハーバーマスの議論はYouTubeで國分功一郎が近代的主語について、それを切断に求める見方を重視したり、バークマニア保守が歴史の連続性をやたらと誇張することの原因であり根拠になっていると考えられる。
なのでここではハーバマスの『近代 未完のプロジェクト』におけるモデルネ(近現代)の論理を簡単に示しておきたい。
モデルン(モダン)とはいつの時代にも言われる言葉であったという。つまりモデルンとはその前の時代と今の時代との関係性を示し、過去の歴史との繋がりにおいて歴史の現在地(現在)のその所在を浮き上がらせる言表だったという。
ところが近代に入るとモデルンはラジカルなモデルニテートとして、全ての過去との関係を完全に切断し、己(モダン)自身として独立した時代区分を創出するに至ったという。
このような歴史の全き切断に近代という時代の特異性があるという。
※モデルネ(近代)はしたがって、歴史全般に対する抽象的対立関係に過ぎず、終らない自己否定(内省)の運動である
つまり近代とはこの意味で自己参照によって自己を支える時代にならざるえなかった。それはそのまま近代主体が自己統治、自己決定をベースとする乖離と意味喪失を生じ、そのことで神経症となったことに対応するだろう。
※神経症はノーマル(近代主体)の人のことを示すカテゴリー
つまり歴史や伝統といった過去を切断するラジカルな自他分離にあって近代主体=神経症者=近代という時代そのものは、自己参照を余儀なくされたわけだ。
このハーバーマス的なパースペクティブにおいて、他者の意(伝統主体)の自己における根源性を問うならば、歴史の連続性や主語の切断の機能を強調することにも一つの理があるといえよう。
しかし、このような連続性を称えるだけの時間論や主体論は近代の性質の部分しか捉えられていない。
重要なのは歴史が非連続の連続にあること、そして主体もまた持続・連続における切断をなすことだ。これについては当ブログのいくつかの記事で詳細に論じているので今回は説明は割愛する。
歴史の連続性にはつねに欠如があり、その連なりには空白であり裂け目が存在している。この裂け目が根源的今を構成し、乖離を生じる淵源である。
※欠如とは充溢としての今であり、充溢が欠如と呼ばれるのは今が客体対象ではないことによる
症状としての歴史の呼び声に人間が応えるには、この連続を切断することで連続するところの今(症状)のうちにとどまり根源的今の反復としての症状を深めねばならない。
症状を対象化・客体化し、これに対して原因否定的=外在的な処方箋をくだす解決のパラダイムは最悪である。
※ポストモダンの現代では非モデルネが広まり、近代的な内省を生じないユビキタス(遍在する複数性)な自己意識が主流である、たとえば村上春樹のデタッチメントな文学はこうした非モデルネとしての意識をよく示す
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