プレゼントにお金を渡すのに抵抗がある理由を精神分析で解説・考察!

※この記事の見解は精神分析理論に基づく1つの解釈に過ぎません、お金のプレゼントを一概に否定する意図はありません

どうも!うたまるです。

友達や恋人にプレゼントをわたすことってありますよね。
ところでプレゼントでは相手が喜ぶものを渡したいものですが、なぜかお金は一般的にはプレゼントにならない傾向があるようです。

お金ほど確実に役に立つものはないのでこれは不思議なことですが、お金はプレゼントするのもされるのも本能のレベルで受け付けいない人が多いのではないでしょうか?

というわけで、こんかいはお金をプレゼントするとよくない場合がある理由をラカン派精神分析の理論で解説します。

プレゼントとは

プレゼントの特殊性

そもそもプレゼントとはなんなのでしょうか。このことから明らかにしてゆきたいと思います。

じつはプレゼントとは単なる物ではありません。プレゼントというのはプレゼントするという行為がプレゼント自身に象徴されることで特別な物になります。

だからこそ誰からもらったかやどのように受け取ったかでプレゼントされた物の意味は変わるのです。
そのため、どんなにありふれた物でもプレゼントする行為が象徴されることで特別なものになります。
もし行為が象徴されなければプレゼントした物はただの物でしかなくプレゼントとしての価値を形成できません。

プレゼントと欲望

人はプレゼントをするとき相手の欲望を考えます。つまり相手は何を欲望し、何を渡せば喜ぶのかを考えるということです。

たとえばAさんがBさんに学問書をプレゼントしたとしましょう。この場合、Aさんは自分にはない知性をBさんに見いだし、読書家のBさんに学問書を渡したと考えることもできます。

とすると、Aさんは自らにはないゆえに自らの欲望である知性を象徴する学問書をBさんに渡したことになります。この意味でAさんはBさんを知的という理想的存在として欲望(尊敬)していると言えるでしょう。

自分がもっていないものを持っている人に憧れたり惹かれたりする現象を考えるとこのことはよく分かると思います。

また、BさんはAさんのプレゼントである学問書を受け取ることで、Aさんが自分に何を欲望しているのかを学問書(プレゼント)から探り(欲望し)、知性(学問書)を欲することになります。

こうして人はプレゼントを仲介して、欲望を交換することができるのです。これこそがプレゼントの本質的な意味と考えることができます。

人間は主体として生まれてくるためには誰かに欲望される必要があります。そしてその欲望を受け取ることで主体として誕生することができるのです。

つまり自分が何者であるか、という自己のアイデンティティ(実存)は自己をどのような存在として欲望するかに関わっていますまたこのことは母親が自分をなぜ生み出したのかという問いに通じるものです。ラカンによると母親は自分に何を欲望しているのか、母の欲望の謎に直面し母の欲望を探ることで人間は主体を獲得します。

したがってプレゼント行為というのは人間にとってのアイデンティティ(実存)の確認や刷新を意味し、非常に重要な儀式になっていると分かります。

というわけで人はプレゼントを介して相手の欲望を受け取り、それを自らの存在規定として欲望することを通して自己存在を確認し刷新することができるのです。

この意味でプレゼントのやりとりとは互いに自己存在の規定に関わる絶対的な他者との関係を取り結ぶことだと言えます。
このような欲望を交換する絶対的な他者のことをラカンは〈大文字の他者〉といいます。

プレゼントと欠如

プレゼントが欲望を仲介して人間の実存(アイデンティティ)を形成し主体性を発揮させるためには、プレゼントは欠如していなければなりません。

欠如というのは、お互いに相手の欲望がなんなのか具体的には分からないということです。このわからなさ(欠如)こそが人間の主体性を可能にする根拠になっています。

このことは欠如のないプレゼントを考えると簡単に理解できます。
たとえば先ほどの例で出したプレゼントの学問書に託された欲望が、一日4時間勉強しノーベル物理学賞をとり云々と、曖昧さまったくなく完全に判明していたらどうなるでしょうか?

この場合、学問書(プレゼント)を受け取ったBさんは、プレゼントに記述された曖昧さのない命令のような欲望に従うだけのロボットになってしまうでしょう。
するとBさんから主体性が消滅してBさんの主体は死んでしまうことになります。

つまり、相手の欲望は、はっきりとは分からない、欠如していて完全には分からないということが重要であり、この欠如性のおかげで人間の主体は可能になるのです。受け取った欲望の曖昧さという謎から、あるべき自分のあり方を自分の頭で考えることで主体性は生じます。

プレゼントをするとき、人は相手の欲望を問い考えて、自らの欲望を託すための物を決定します。したがってお互いに相手の欲望の謎(曖昧さ、欠如)をとおして自分の頭で考えることになるのです。また、その謎について考え探求することが人間の主体性の根拠となっています。

したがって相手がどんな物をあげれば喜ぶか考えるということも重要な主体の成立契機と言えます。

お金とプレゼント

お金とは何なのか

お金は商品や物とは根本的に違います。お金というのは欲望の対象(商品)を手に入れるための媒介です。

その意味でお金というのは具体的な物ではありません。厳密にいうと紙幣などの形をとっているときのお金は具体的な物質ですが、お金そのものは対象とか物体とはことなる次元の存在だといえます。
なので、お金の物質的価値は紙切れに過ぎずお金の価値は物質性とことなる概念の次元に属しています。
(※金本位制は別として現代貨幣とは貸し借りの記録であり物ではありません。)

さきほどはプレゼントは欲望の対象を象徴する物といいましたが、具体的な商品もまた人々の欲望の対象といえます。

それに対してお金とは、あらゆる商品となることが可能なものであり、いわば個別の商品がもつ満足のの数値化された量だといえます。この意味においてお金は欠如(具体的な対象)をもっていません。またあらゆる商品は中古で売ることでお金に還元可能です。また商品の価値である値段に属するお金は商品のもつ意味でもあります。

精神分析ではここでの商品をシニフィアンとよび、お金を享楽(満足)といいます。またハイデガー存在論では商品は存在者(対象)、お金は存在(対象化作用)に対応しています。お金は流通するかぎりで深層心理学における心的エネルギーそのものです。

少々わかりにくい説明になってしまっているのでここで話を簡単にします。
ぼくたちは宝くじで当選したり万馬券があたると歓喜します。大金持ちでもなければ大金が手に入れば誰もが喜ぶでしょう。

この意味においてお金は純粋な満足であることがわかります。お金そのものは具体性を持たない純粋な満足が対象化したものだということです。

お金をプレゼントしたら主体が消える

お金をプレゼントするとは、相手の欲望を完全に満たすこと、相手の欲望と完全に一致することを示しています。

お金は絶対的な満足であり具体性を持ちません。したがってお金のプレゼントにはなんらの欲望の謎もたちあらわれることがないのです。

これではプレゼントに託された欲望の謎をめがけて生じる主体性は死んでしまします。つまりお金はプレゼントする側とされる側の距離を消し去りお互いが相手に呑み込まれてしまうわけです。

この意味において、お金とは母の乳房のようなものです。赤ちゃんに乳房を与え母子一体となることに近いといえます。

お金のプレゼントが直観的に嫌な理由

ぼくたちはお金をプレゼントすることに本能的な嫌悪感を覚えます。

その理由は、お金が主体を呑み込み相手と自立した関係を形成できなくなるからです。
お金が主従関係を生じがちなのもそのためです。

金を払うお客様が神さまになったり金を貢がせるホストが神さまになったりすることからもこのことはよく分かるでしょう。
お金とはそれが純粋で絶対的な満足である限りにおいて、存在論的にも精神分析的にも主体性を破壊する作用があると言えます。

具体的な商品を介するお金のやり取りであればいいのですが直接にお金をやりとりすることは人間に根源的な不安を想起させます。
それは母に主体を呑み込まれしまうという人類に普遍の幼少期の不安なのです。

お金をプレゼントする本当の理由

(※プレゼントにお金を渡す理由はその文脈により異なり、一概には言えません、そのためこの記事での言及はあくまでも限局的な議論であり、以下の見解1つの解釈に過ぎません)

お金のプレゼントはその純粋な快楽性のためにこそ、相手の主体性を奪う暴力となります。
ではそれでもなぜ人はお金をプレゼントするのでしょうか。

ホストにみつぐ女性、交際相手にみつぐ男性はあとをたちません。こうした人がお金を渡すのは相手と一体の関係になりたい、完全に相手と一致したいという根源的な欲求に基づきます。

しかしその一体化への希求の背後には、どこかで限界を設定して欲しい、相手に断って欲しいという隠された願望が存在していると精神分析では考えます。
このような願望の二面性をラカンは否認(倒錯)と呼びました。


本当は相手と一体になることを相手に禁止して欲しいわけです。もちろん全ての人間がそうというわけではありませんが。

お金をプレゼントされたときの対処法

大切な人からお金をプレゼントされたとき、ぼくたちはどのように対処すればいいのでしょうか。
断ればいいと思う人が多そうですが、それでは芸がありません。

じつはうまいやり方があります。

お金をプレゼントされたらそのお金で、何かを買ってそれをプレゼントしたり共有しましょう。
こうしてお金を具体的な欲望の対象(商品)へと置き換えることで、両者のあいだに欲望の謎が立ち現れ主体性が息を吹き返します。

欲望を塞いでしまうお金という完全な満足に穴をあけ欲望しつづけることを可能にする欠如をもたらすことが大事だということです。


おわりに

プレゼントという行為はゲーム理論的な合理性とはまったく無縁の極めて重要な実存的行為だということがここまでの説明で分かったかと思います。

さっこんのコスパだとかの合理主義精神はプレゼントをお金にかえてしまうようなところがあります。
そもそも相手がちょうど欲しっかったような即物的なものをプレゼントする必要などありません。

プレゼントに大切なのは欲望の交換です。プレゼントはいわばそのための媒介に過ぎません。プレゼントは欲望を象徴することではじめてプレゼントとしての本義をまっとうするものです。

プレゼントとは、親が子を名付けること、子に親が名前をプレゼントすることの反復なのです。それは絶対的な他者と自己との実存をかけた制約といってもいい神秘です。

このような意味でのプレゼント、名付け、のことをラカンは「父の名」と呼びました。人は与えられた名の欠如(謎)を生きるのだ、といえます。

まとめ

プレゼントはプレゼント行為が象徴されて特別になる。

プレゼントとは欲望の交換であり実存に関わる。

プレゼントは欲望の謎に直面することで主体性を生み出す。

欲望はあいまいで欠如している。

お金とは純粋な満足である。

純粋な満足は欲望を塞ぎ主体を消去してしまう。

お金をプレゼントされると主体が呑み込まれる不安が生じる。

お金のプレゼントには限界を設定して欲しいという隠れた願望がある。

お金をプレゼントされてもそのお金で商品をかってプレゼントすると欲望は復活する。

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