どうも!うたまるです。
こんかいは人類の夢、不老不死について。
最近は意識を機械にうつすマインドアップローディングなどの技術研究も盛んで、歴史学者ハラリなど、多くの有識者が不老不死時代の到来を予言しています。
というわけでここでは、最新の不老不死研究を参照しそのメカニズムを簡単に示しつつその実現性を検討。
(※この記事の内容はぼく個人の独自の考察による部分も多く含みます。あくまでも一つの解釈として楽しんでいただければ幸いです。)
- 最新の不老不死研究での不老不死の仕組み
- 意識について
- 脳科学とクオリアについて
- 不老不死の実現性について
- より可能性の高そうな不老不死の方法
最新の不老不死研究について
東大の脳科学者であり不老不死研究者の渡辺正峰准教授は20年後の不老不死の実現を目指し脳(意識)をコンピュータと並列化する技術を開発中です。
この記事では渡辺氏が現在研究中の不老不死の仕組みをわかりやすく説明し徹底的に検証します。
不老不死の具体的な手順
渡辺氏によると
最初に自分が生きているあいだに自分の脳を機械と繋げるといいます。これにより機械と脳が一緒になって、自分の意識を生成する状態を実現。つまり機械と自分の脳を合体させ、その合体した一つのモノが自分という意識を生み出す状態を作るわけです。
次に寿命が来て、自分の肉体が死に機械と合体していた脳も死にます。
すると機械だけがもとの自分の意識を継続させている状態に。このことで身体は滅びても永遠に自我を保つことが可能、と渡辺氏は言います。
ポイントは生前から死後にかけて意識の連続性は喪われずに保たれている点。そのため私という意識は物理的身体から解放されて機械のなかで永遠の命を手に入れるわけです。
なぜオリジナルの脳が死んでも不老不死といえるのか
自分の脳が死ぬのにこれのどこが不老不死なんだ!と思われるかもしれないので、その点を解説。
ところで人間の脳は、たしかに新陳代謝しません。ですから脳という物質が私の意識の正体で、脳という物体の死こそが私の死、脳と意識は不可分であるというのが一般的な認識です。
しかし、確かに脳細胞はほぼ新陳代謝しませんが、脳細胞を構成する分子は日夜入れ替わります。
分子生物学者の福岡伸一によると、脳を構成する分子も食事によって摂取された食べ物を構成する分子と入れ替わっているのだそうです。
つまり何年かしたら僕たちの脳は、完全に米、野菜、肉の分子に入れ替わります。なので僕たちの身体は、テセウスの船という有名な話と同じことに。
意識と不老不死におけるテセウスの船
脳が日々べつの分子に入れ替わるなら、自分は昔の自分と同じ自分なのか?が問題になります。
すくなくとも物質的には自分は全くの別物、自己の模造品でしかありません。
この問題を扱ったお話に、「テセウスの船」という寓話があります。
テセウスの船はパーツが傷んでくるたびに修理してパーツを取り替えられました。
何年かすると船の全てのパーツが入れ替えら、物質的には最初のテセウスの船とは別物になってしまいます。
このときテセウスの船は同じテセウスの船といえるのか?というのがこの物語が提示する問題です。
まさにテセウスの船と同じことが、自意識(脳)についても生じます。
意識と不老不死の問題への解答
なぜ脳はことなる物質に入れ替わっても、過去の自分(脳)と今の自分が同じといえるのか、この謎を明らかにするには時間という概念が重要。
話をわかりやすくするため、人間の脳の分子を1年で全て入れ替わると仮定。
すると一年前の時点の自分と今この瞬間の自分を直接に比較した場合、両者は物質的にはまったくの別人に。
しかし、実際にはつねに時間は流れていて変化は連続的です。
ここで今の瞬間の自分と1秒前の自分の脳を比較。一年で全部入れ替わるので1秒の差であればほぼ物質的には同一人物といえそうです。
一秒ではほとんど変化がなく、一秒前と今の自分は同じ自分。
次に一秒単位での比較をドミノ倒しのように連鎖的に続けて一年後の自分と今を比較。
すると今の自分と一年後の自分は物質的にはまったく別人なのに、同じ自分であるという結論が引き出せます。
つまり変化(時間)は連続的であるため、ある時点(今)の自分と別の時点(1年前)の自分を同一の自分として媒介する中間期間の自分が存在するわけです。
したがって、テセウスの船や私という意識の同一性の問題は、時間がなめらかに連続していることを考慮することで同一であるという解答をだすことが可能。
逆に、ある時点と別のある時点だけを切り取って比較し、そのあいだにある中間項を無視すると同一性がなくなり両者は別物になってしまう。
現実の時間はほぼ連続しているので、中間項をすっ飛ばした比較は妥当ではありません。
ここが分かると渡辺氏のいう不老不死のメカニズムも理解できます。
なぜオリジナルの脳が死んでも不老不死なのか
これまでの説明から自分の脳を機械とリンクし、その後で自分が死に機械だけになっても死ぬ前と同じ自分であるという理屈が分かります。
つまり、機械とつながる前の自分の脳(意識)と脳死後の機械だけの意識は、この両者を直接に比較してしまうと別人に。
しかし実際は両者のあいだに脳と機械が合体して一つの意識だった中間期間があり、この機械と合体した中間時期を仲介することで、機械とつながる前の自分と肉体が死んで機械だけになった自分は同じ自分として同一されます。
また、渡辺氏によると交通事故で右脳が全部死んでしまって左脳だけになった人も、その意識は事故前の自分と同じ自分で、意識の連続性と同一性は保たれているそうです。
交通事故の話に照らし合わせて理解すれば、事故前というのが機械と脳がリンクして合体している時期に相当し、事故後は脳が死んで機械だけになった時期に対応します。
交通事故で右脳が全部死んで左脳だけになっても事故前と同じ人なので、その意味では脳が機械だけになっても同じ人(自分)ということになるでしょう。
これが渡辺氏の不老不死の方法論の仕組みです。
脳の分子が入れ替わっていることを考えると、たしかに渡辺理論なら不老不死の条件を満たすと考えることができそうです。
そもそも意識を機械につなげるのか
ここまでの説明で方法論としては渡辺氏の理論は不老不死の条件を満たしていそうなことが分かりました。
となると次に気になるのがその実現性。
意識を機械につなげて一緒に処理をしたり、意識を機械にアップロードすることが本当に可能なのか、という技術的な課題が問題になります。
この点を考えるためにはクオリアの問題が避けられません。
じつは現代の脳科学のパラダイムは、クオリアを解明することはできません。よって不老不死の実現性を検討するうえでクオリアを理解する必要があります。
クオリアと共通感覚
脳科学でクオリアといえば茂木健一郎ですが、クオリアは心理学でこそ定番のネタです。
クオリアというのは、存在(あるということ)のこと。これではわかりにくいので、短く別の説明をします。
クオリアとは、アリストテレスという人が提唱した共通感覚のこと。
共通感覚というのは、五感などの感覚に対する感覚のことです。感覚の感覚なんていうと難しく感じるかもしれませんがとっても簡単。
たとえば僕たちは真っ白な紙など白色という視覚感覚を眼球から網膜の光受容体によって感じ取ると、白色という視覚感覚に対して、純真とかイノセンスを感じることができます。白いという視覚感覚を示す言葉を使って「彼は白だ!」という感じに容疑者の潔白さを主張できるのもこのため。
つまり僕たちは、白いという無味乾燥な物理的な視覚感覚、視覚情報にたいして、純真とか無垢という意味を感覚しているわけです。これは白という感覚に対して純真、潔白という意味を感覚するという意味で、感覚の感覚といえます。
このような無味乾燥な物理的感覚に対する意味の感覚のことを共通感覚といいます。
そしてこの共通感覚のことをクオリアといいます。
この共通感覚が大事なのは、この感覚が人間の意識を成立させてること。
もし共通感覚がなければ、意識世界はバラバラに解体し自意識も崩壊してしまうことが精神医学ではわかっています。重症な離人症なんかはクオリアがなくなってしまう精神疾患であり、離人症では世界がバラバラになります。
次に、なぜ共通感覚がなくなると世界がバラバラになるかを説明します。
不老不死の実現性を知るための共通感覚の機能論
共通感覚で大事なのは、意味の感覚であること。
ぼくたちはこの世界に対する感覚や知覚を共通感覚が生み出す意味によって統一し、そのことで一つの秩序だった世界観と世界の知覚を可能にします。
これを具体的に「甘い」という共通感覚で説明。
甘いは特定の味覚の感覚に対する共通感覚ですが、この甘いという意味は味覚を越えて聴覚にも適応されます。
たとえばバイオリンの甘い音色がする、とか。さらには彼の性格は甘いということもあります。
つまり五感というのは本来は、それぞれが異なる次元の感覚ですから、それらを意味によって秩序づけて、統一しなければ五感によって世界は五つの階層に引き裂かれてしまいます。
ところが甘いという意味が、味覚と聴覚を意味の次元で統一するように、共通感覚は、おのおのの感覚を越えてそれらを統一し五感を一つの意味世界に束ねるための意味を産出します。
意味なしに世界はまとまりません、意味を喪えば純粋なニヒリズムに陥り人は生きていくことすらできません。その意味で意味をつくりだすクオリアは生の源泉であり生への意志といえるでしょう。
意識受動仮説とは
クオリア=共通感覚ということは分かってもらえたかと思いますが、じつはまだこれだけでは意識について考えるのには不足があります。
※ここまでの内容は概ね現象学的な基本に基づいていますが、ここからの内容は多分にぼく個人の推測を含みます。
意識がアップロードできたり、意識を機械が担えると考えらている前提に、僕たちの自意識は受動的なスクリーンのようなものだという考えがあるとぼくは思っています。
じじつ最新の科学では意識は受動的とされます。
この考えは、おそらく意識に生じるあらゆる想念を僕たちの意識は受動しているだけだという考えがベースになっているはず。
あるいは意識(脳の特定部位)と無意識(身体を含む本能などの源泉)を分離し、意識の側を独立して私という意識として措定している問題があるかもしれません。
つまり今の科学では、何らかの刺激が脳内で出力されたとき、私という意識はその出力されたものを映すスクリーンとしてとらえられていると思われます。
もっといえば、自分であるところの意識は行為などを振り返るだけのもので、行為とは無関係にただ受動するだけのスクリーンと捉えられているようです。
つまりお腹がすいて飯を食うという行為なら、それは胃袋などの身体や意識ではない脳の部位(無意識)が信号を発信しているだけで、衝動や行為は無意識が担当しているという考え。
したがって今の科学では人間の行為や本能、衝動を産出する能動性を担っているのは意識とは別の映写機(無意識)とされているのではと思います。
意識受動仮説の限界
ここで先ほど示した共通感覚が重要で、共通感覚は意味であり、意味は積極的な世界との関わりを示します。
つまり飴をなめて甘いと感じたときにはもっと飴をなめたくなるので、意味(甘い)はつねに主体的な行為への衝動(飴をなめる)という能動性を秘めているわけです。
つまり甘いという意味感覚そのものが能動性を帯びます。
しかも共通感覚は感覚なのであり、そのかぎりで受動(感覚)されるものでもあります。つまり受動される能動性というのが共通感覚の本質。
いうなれば、これは意識のスクリーンそのものが意味を映し、衝動や本能といった能動性を産出している可能性を示唆します。
いわば映写機の無意識はむき出しの本能や感覚をスクリーンに投射しスクリーンがそれを意味に変換して映し出しているという感じ。
つまり受動するスクリーンの側、意識にも能動性があたえられているのです。よってスクリーンに映される像そのものが意味(能動性)を持っているということ。
意識を単純に行為の結果を振り返るとか、受動と能動が無根拠に分けられた自然科学的な次元で捉えてしまうと、クオリアの持つ能動性が見逃されると考えられます。
クオリアを説明できない脳科学のひとつの限界は受動と能動を分離して捉えてしまう点にあるのかもしれません。
なぜ意識は機械では担えないのか
もし自然科学の二元論的なパラダイムによって受動と能動をわけて考えるなら、意識そのものは電気信号を受信するただのスクリーンになりかねません。
しかし意識がクオリアに関わり能動性をも同時にもっているとなると話は変わります。
脳科学では感覚は計測できてあるていど分かっていても、その感覚に対する意味の感覚であるクオリアは分かっていないからです。
もしぼくが考察したようにクオリアが意識の側が産出する能動性であるなら、クオリアが解明できないかぎり意識を機械に移植することは不可能といえます。
そうなると渡辺氏の研究は難しそうです。現代の不老不死の方法論はクオリアの謎が解けないことには手詰まり、ということになりかねません。
意識とはクオリアによって行為を生じ、またその行為が意識によって振り返られるという、ある種の自己再帰的な循環構造になっているのではないでしょうか。
少なくとも意識をただの感覚を受動するスクリーンとみなし映写機(無意識)に能動性を丸投げする古典自然科学的な二元論モデルではなかなか難しいかもしれません。
より現実性の高い不老不死の方法論
脳を機械と並列化して機械が人間の意識を担うというのが、困難な可能性があることはクオリアの解説で分かってもらえたかと思います。
次に気になるのはより確実性の高い不老不死の方法。
機械で無理なら機械ではなく脳という臓器をクローニングで培養すればいいのです。
脳と脳を接続して並列化するというやり方なら遙かに技術的ハードルは低くすむでしょう。
これならクオリアという現状まったく解明の糸口すらつかめない、無理ゲーを攻略する必要もありません。
脳がなんなのか意識がなんなのかを解明せずとも、脳を複製できてその脳と脳を繋げられればそれで不老不死になることが可能です。
人間のクローンはまだ成功していません、IPS細胞などの万能細胞でも脳をまるまる一個こさえることはまだできていません、よってこの方法にも技術的困難があります。
しかし、意識を機械が実現するよりは遙かに実現性があるのではないでしょうか。
まとめ
- 20年後の実現を目処に東大の研究者が不老不死を研究中
- 脳と機械をつなぎ意識を機械と共有することで不老不死となる
- 脳(肉体)が死に機械だけになっても時間的中間項があるため同じ自分といえる
- クオリアは今の脳科学のパラダイムでは解明不可能
- 意識はクオリアを生産している可能性があり機械に意識は移せない可能性がある
- 意識受動仮説は現象学的には怪しいところがある
- クオリアは意味により知覚世界を統合している
- 機械と脳をつなぐより脳と脳をつなぐ方が不老不死のハードルが低そう
今回は以上です。
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