【読書術】比較文化論で分かる!古典の読み方の裏技を解説

こんにちは!うたまるです。

ここでは年間1200時間以上を古典を中心とした論文の読書についやす古典好きの僕が、その実践を通して得た他では聞けない絶対に知っておくべき古典の読書術を公開してゆきます。

ところで、みなさんは古典を読むときには著者の世界観(主観)にそくして、その文章を読む必要があるということはご存知でしょうか?

\そんなことは知らんという人はこちら/

今回は、具体的に著者の世界観をひもとき、古典の文脈をつかむうえで欠かせない必須テクニックをご紹介します。

じつは古典における著者の世界観は大きく分けて西と東の二つのタイプに分類可能

そのため西洋の古典であれば一神教的な世界観を、東洋の古典であれば多神教的な世界観を意識しながら読むと著者の文意をつかみやすくなるのです。

ゆえに東西の比較文化論を参照することは、あらゆる古典を読み解くうえでの裏技といってもよい、知る人ぞ知る必須テクニックになります。

というわけで今回は古典を読むにあたって絶対に知っておくべき、一神教的世界観多神教的世界観について解説し、東西の古典の特徴をつまびらかにしてゆきたいと思います。

この記事がオススメの人
  • 人文学の論文や古典を漠然と読んでしまっている人
  • 古典を読んでいるが難しくて理解が浅いと感じている人
  • 読書無関係に東西の文化に興味がある人
  • これから古典などいろんな読書に挑戦したい人
  • 古典を読んで得た知識をうまくつかいこなせていない人

この記事を読めば、著者の文脈(世界観)にそくして適切に古典を読むこつが分かります。また古典の論理を自在につかいこなせるようになることが期待できます。

なぜ古典を読むには比較文化論なのか?

ここでは古典の読解において重要な著者の世界観と東西の比較文化論との関連を示し、なぜ比較文化論をおさえることが重要なのかを解説します。

まず著者個人の世界観というのは母国語や生まれ育った国の歴史、文化の影響を受けています。
たとえば、人は何かを考えるとき、母国語にたよることになります。

人は言語によってしか思考できず、そのため他国の言葉を習得していない限り、個人の思考は完全に母国語に依存し、国語から絶対的な制約をうけるわけです。

そして国語とは、その国の文化や世界観を色濃く反映していることが知られています。その意味では人は言語をあやつって思考しているのでなく、言語によって思考させられていると言ってもいいかもしれません。

このような国語が個人の思考に対して発揮する強力な作用は、ジョージオーウェルの小説『1984年』においてもニュースピークという形で表現されているのは周知のことでしょう。
また小島秀夫によるゲーム『MGS 5 ファントムペイン』でも国語と民族の結びつきの強さが強調されています。

したがって国語を支配するものが、その国語をもちいる人々を支配しうるといっても過言ではないのです。

このように個々の人々は、言語などの個人を超えた文化的な基盤の影響を免れないことがわかります。

ゆえに言語の形成と表裏一体にある文化の特性をおさえることは、その文化圏に属する個人の世界観を把握するにあたって羅針盤のような役割を果たしてくれるのです。

逆に東西の比較文化論という羅針盤を持たずに、文化的背景に無知なまま古典という名の大海を読み進めれば、たちまち遭難してしまうこともあるでしょう。

だからこそ、古典を読むにあたって比較文化論の理解は重要なのです。

東西の世界観の違い

まず大前提としてヨーロッパに代表される西側諸国の世界観は一神教によって構築されてきた歴史があります。

したがって西の文化を知るうえでキリスト一神教の理解は欠かせません。また西洋の古典の多くはキリスト教の影響を露骨に受けています。
たとえば、「我思うゆえに我あり」で有名な哲学者のデカルトやカントなどはキリスト教を全面に押し出した著書を残しています。

たいする日本をはじめとした東洋では多神教やアニミズムの影響がつよく、その哲学も言語も多神教的な色彩が色濃く反映されていることで有名です。有名どころでいえば柳田國男や西田幾多郎などはその典型です。

それでは具体的に東西の世界観を見てゆきましょう。

西洋におけるキリスト一神教の世界観とは

キリスト一神教の世界観を特徴づけるのは、父なる絶対者としての神という存在です。

一神教における時間

一神教の神とは、この世界の外の客観的な場所にいます。そして世界の外側から、この世界そのものを創造した存在とされています。

そのため一神教の世界では、全ての存在は神の目的意志によって創造された被造物とみなされます。また一神教においては時間も神が創ったとされるため、一神教では時間には始点と終点が設定されています。

つまり神が世界を創った創世の時が時間の始であり、聖書に書かれている最後の審判が時間の終点となっているわけです。このために一神教の時間(歴史)は神の目的意識により最後の審判という目的をゴールに進展するものだと考えられています。

この最後の審判というのは、原罪という罪にまみれた人類がその罪をあがない楽園へとゴールするというような物語になります。

このような聖書にある一神教的な時間意識は、たとえば共産主義を説いたマルクスにも反映されていると言われてます。

一神教の時間とマルクスの思想の対応

マルクスの考えでは、古代には農業や牧畜をいとなむ原始共産制という階級のない理想的な共産制社会が成立していたと言います。

ところがこれが生産性の向上などにより、資本主義が台頭し格差が生じることで理想的な古代の原始共産制(楽園)は失われたといいます。

まず、この原始共産制の考えはそのままキリスト教における失楽園の話にそっくりだと分かります。

失楽園の話とは聖書に書かれているものです。

簡単に概要を示すと、まず原初の人類であるアダムとイブが楽園で暮らしていました。
ところがあるとき、イブが蛇に騙されて、神により禁じられていた果実を食べたことで、神の怒りにふれて楽園を追放されたというのが失楽園の物語です。

このことからマルクスの原始共産制という歴史認識は聖書にある失楽園の話と似ていることが分かるでしょう。

さらにマルクスの考えでは、資本家が労働者から搾取する資本主義は労働階級闘争をひきおこし、世界中の労働者が革命を起こして共産主義を取り戻すといいます。

つまりマルクスの歴史観では、労働階級闘争という革命によって楽園を取り戻すという究極目的が歴史に設定されているのです。共産主義という失われた楽園を取り戻すことを目的とするマルクスの発想はまさに最後の審判とそっくりです。

ここで重要なのはマルクス自身は宗教をアヘンだと批判していることです。つまり彼は無神論者であったにも関わらず、キリスト教の世界観からは逃れらなかったということです。

もちろんマルクスの例は一例に過ぎずこのような例は枚挙にいとまがありません。

このことからも一神教についての背景を知らずに西洋のテキストを読むのと、知っていて読むのとでは、いかに読解の質が変わるのか分かるでしょう。

一神教には、このほかにもいくつかの重要な特徴がありますが、とても全ては紹介しきれないので、最後にもう一つだけ紹介します。

一神教と二元論

一神教といえばやはり心身二元論は欠かせません。心身二元論というのは心(精神)と体が分離しているという考えであり、一神教では基本的に二項対立が重視されます。

その典型が有と無の対立です。
キリスト教圏の言語である英語では、有はthing、無はNothingと書きます。
NothingというのはNo-thingであり、有るということ、物(thing)の否定(No)を意味しています。

このような有と無の背反と対立に典型される二元論の西洋では、善悪や美醜など多くの概念が対立させられています。このように西洋社会は、二項対立を構築し双方を対立させる世界観をもつため、欧米などでは激しい政治的対立が起きやすいのかもしれません。

ここではこれ以上深入りしませんが、二元論は東西の古典を読み解くうえで非常に重要なポイントになります。

ここで紹介した時間と二元論の二点を意識するだけでも、東西の古典に対する読解力は大きく向上することが期待できます。

東洋における多神教の世界観とは

では多神教的世界観はどうなっているのでしょうか?
さっそく具体的に見てゆきましょう。

多神教の一元論と時間

まず多神教の特徴は一元論にあります。
一元論的世界観においては内と外という二項対立がないので、この世界に外というのは存在しません。したがって一神教と異なり、神さまも世界の内側にいます。

そのため多神教は母なる自然と一体であるとよく言われています。

また世界の内側に神さまがいるということは、この世界に創造主はいないということでもあります。
なので、日本神話などでは日本列島を創り、国や火を産む物語はあっても、キリスト教の創世記のような世界を創造する神は登場しません。

こうなると世界には始まりがないため、時間(歴史)にも始点がありません。また最後の審判のような究極目的もないので、時間は終点もないのです。

このような世界観ではあるがまま自然であることが重視される傾向にあります。

具体的に東洋の論理をみてゆくと、たとえば日本を代表する哲学者である西田幾多郎は、日本的精神に立ち返り、有と無の同質性に注目しそこから独自の哲学を構築しています。

さきほど一神教の特徴である二元論では無Nothingは有thingの否定型No-thingであり、有と無は対立していると述べましたが、日本では有は無においてある、と考えます。

そのことを示す仏教の用語に色即是空というものがあります。色即是空とは形有る物の本質は空であるという意味です。つまり物の本質を無(空)にみているわけです。

ゆえに東洋においては無と有は対立関係にはありません。無が有を支えていると捉えるわけです。また無と有を対立させないということは、両者の一体性を示します。

つまり二項対立という何事も切り分けてしまう一神教とは違い、無と有の一体性に本質を見いだすのが多神教の論理だということです。またこのような一体性の理を中国では道(タオ)と呼びます。

こうした多神教的世界観にある日本人の論考がマルクスのような一神教圏の学者の論考とはまったく異なるものになるのは当然のことです。

ところで日本のドラマで『半沢直樹』が高視聴率をたたき出しましたが、半沢直樹の物語は敵対していた人物を退治したあと、その敵が仲間になり後に活躍するという展開を反復するのが特徴です。
このように敵が後に味方となり活躍するという物語構造は日本神話の特徴であり、敵と味方のひそかな一体性を示しています。

敵味方を二元論的に切り分け対立させる西洋社会のドラマでは、半沢直樹のような展開はあまり見られません。

多神教の存在と時間

ここでは軽く触れる程度にとどめますが、基本的に多神教的な論理は世界の本質を、常にうつろいゆく動きとして捉える傾向にあります。

そして、この動き(変化)のことを、関係といいます。

一神教との比較でこのことを説明すると、まず一神教では世界を、個別の物の集合と捉えます。そして一神教では最初に個別の物がまずあって、その物と物が互いに作用することで双方のあいだに関係(変化)が生じると考えます。

このため世界を粒子という個別の物質(粒)の集合と考える物理学の量子論は西洋的だと言われています。

ところが多神教では物は個別に切り分けられておらず世界と一体で常に変化していると捉えられます。よって、物より先にまず変化(関係)があり、その変化(関係)から、個別の物が生じてくると捉えるのです。

このため動きである波を中心に考える物理学の波動の論理などは東洋的だと言われています。

また仏教における諸行無常とは、世界はつねにうつろい形ある物は滅びるという世界観のことですが、このような考え方も、物より変化(関係)を優位に考える多神教的一元論から生じています。

この物と関係(変化)のどちらを優先するかの違いが西と東の文化の根底にあるもっとも重要な違いになります。
※西洋人のハイデガーの存在論が東洋的だと言われるのは彼の存在論では関係(変化)が物より先にあると主張しているからです。

これらのことを念頭に古典を読むことで、深い読解が可能になることが期待できます。

一神教と多神教の特徴の比較

以上のことを表にしてまとめておきます。

一神教多神教

始点と終点あり
歴史に目的あり
始点も終点なし
歴史に目的なし


二元論
有と無の対立
物を個物に分離
一元論
有即無
物は世界一体



関係より物が先物より関係が先

以下の動画は、ぼくが趣味でつくったもので東西の文化差を『鬼滅の刃』の物語をつうじて理解できる内容になっています。長く小難しい動画ですが暇で学問や比較文化論好き人は是非。

文化的差異を無視して古典を読むと生じる弊害

これまでに紹介した東西の文化的差異を無視して古典や論文を読むと、誤読によりさまざまな弊害が生じます。

ここでは具体的にフロイトの精神分析にしぼって具体的にその弊害を見てゆきましょう。

(※フロイトはキリスト教ではなくユダヤ人です。しかしイエスもユダヤ人でありユダヤ教は一神教なので、キリスト一神教と近い性質を持っています。)

具体例:フロイトの精神分析における誤読の弊害

フロイトの精神分析にはエディプスコンプレックスと言われる鍵概念があり、このエディプスコンプレックスを中心に精神分析は体系化されているふしがあります。

エディプスコンプレックスとは、まず子ども(男の子)が、母親に対して抱く恋愛的な感情から父を倒して母と結ばれたいという願望を持っていると仮定します。そのとき子どものこの願望は自分よりも強い父からの脅しによってくじかれるとします。

このことで子供は母と結ばれたいという願望や父への敵対心を無意識に抑圧し、父のようになるべく父親を自己の理想として取り入れてゆきます。

このような幼少期に仮説される一連の心的な過程をエディプスコンプレックスと言います

ちなみにエディプスというのは、古代ギリシャの神話に出てくるオイディプス王のことで、アマゾンプライムのドラマである『ザ・ボーイズ』のホームランダーの話は、オイディプス王の話を精神分析的に逆転した物語になっていたりします。脚本家がフロイトを参照しているのがよく分かります。
※本格的なエディプスコンプレックスの説明は非常に込み入っており、ここでは簡略的な説明になっています。

ポイントはエディプスコンプレックスが一神教的な絶対的な父を中心に、その父との関係によって人間精神の発達を理論化している点です。

このような論理は父なる神を中心にした一神教文化圏の人々や物語に適応する分にはうまく機能することが多いのですが、これをそのまま日本人に適用すると問題が起きてきます。

実際にハリウッド映画や西洋のゲームの脚本などはエディプスコンプレックスを念頭にしたものも多いです。
しかしこれを日本のアニメや日本人に当てはめると牽強付会な分析という印象をまぬがれません。

事実、日本のフロイト派の人々は、精神分析を日本で実践するために、エディプスコンプレックスとは別に、アジャセコンプレックスという新しい概念を提唱せねばならなかったほどです。

アジャセコンプレックスとは仏教の物語に出てくる阿闍世(アジャセ)王のことで、このコンプレックスは、父よりも母親を重視し、多神教的母との関係を中心に人間の精神の発達をとらえています。

ちなみに『鬼滅の刃』に登場する蜘蛛の鬼の累の話は、日本の精神分析におけるアジャセコンプレックスを忠実に再現した内容になっています。

このことから、背景にある宗教文化を無視して古典を読むことは誤読だけでなく、その論理の扱い方がこじつけになってしまうと分かります。

またテキストの文化的背景を考慮して古典を読むことは、その古典の内容を適切につかいこなすことを可能にします。

まとめ

まとめ
  • 著者個人の理論はその背後の宗教文化に規定される
  • 著者の背景の文化は西の一神教と東の多神教に二分
  • 一神教は始点と終点のある目的をもつ歴史観
  • 一神教は有と無、内と外を対立させる二元論
  • 一神教は関係より個別の物が優位
  • 多神教は歴史(時間)には始点も終点も目的もない
  • 多神教は有と無は対立せず一体性をもつ一元論
  • 多神教では個別の物より関係が優位
  • 同じフロイト派ですら日本と西洋では論理が異なる
  • 古典のロジックは背景の文化差を無視して適用は不可

最後におまけですが、一神教の文化圏でも細かく見ると多様な違いがあります。たとえばフランスとドイツでは国民性や国語の語彙の特性にかなりの違いがあることが知られています。

また同じ、キリスト教圏のフランスとアメリカでは心理学に対する考え方が真逆というくらい異なっています。アメリカでは心理学は自然科学であるべきとされ精神分析は馬鹿にされていますが、フランスでは精神分析が非常に信頼されています。

こんかいは以上です。

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