※この記事はブルーロックのネタバレを少しだけ含みます
※この記事は解釈に過ぎません
うたまるです。
今回は累計3000万部突破、現在連載中の漫画原作アニメ『ブルーロック』を分析することで現代日本人の時代精神の趨勢を解き明かしたいと思います。
ブルーロックを最新のディストピア文学として分析し人気の理由を解き明かします。
またブルーロックの本質をサッカーコートという場所の解体と近代空間化によって体系的に明らかにします。
この作品ほど現代人の、とりわけジュブナイルの心の構造を丸裸にするものはないでしょう。
なのでまだ連載中の作品ではありますが、取り急ぎこの記事で学問的考察を加え、世に発信することにしました。
※この記事の内容は、そのうち投稿する予定の全体主義の構造論の一部になる予定です
※この記事は山本哲士『哲学する日本 非分離・述語制・場所・非自己』の影響を強く受けてます
※かなり厳しい批評を展開しますがこの作品がよくないということではありません。この作品に現代社会の危険性がよく表れているということ。僕はブルーロックを楽しんで視聴しています
ブルーロックとは
題名 | ブルーロック |
原作 | 金城宗幸 |
原画 | ノ村優介 |
連載 | 週刊少年マガジン |
連載 | 2018年8月1日~ |
アニメ一期監督 | 渡邉徹明 |
二期監督 | 生原雄次 |
一期放送 | 2022年10月9日 – 2023年3月26日 |
二期放送 | 2024年10月6日~ |
イントロダクション:野球からサッカーへ
日本では大谷効果で野球の人気は根強いが本場アメリカでは野球の人気は年々激減傾向。
米国ではMBAやアメフトが圧倒的で、もはやベースボールは国技ではないという意見が多い。
なぜアメリカではアメフトやバスケ、世界ではサッカーに人気がシフトしているのか、そして日本の漫画でもサッカーやバスケが流行るのかを簡単に確認しよう。
野球はターン制であり、これはメールや手紙の時代のコミュニケーションの感覚に近い。対するサッカーはリアルタイムにインタラクティブなやりとりが生じる。するとサッカーがラインなどのチャットやグループチャットに近いと分かる。
SNSの発展でコミュニケーションがインタラクティブでリアルタイムなものに変化しつつあることをサッカー化は示しているのだろう。
またサッカーでは観客も選手もフィールド全体を鳥瞰する意識にある。これはGoogleマップや村上春樹の文学にもいえるが、現代人とははるか上空の視点から自己を眺める意識を持つとされる。
風景構成法という描画療法の例を出せば小学三年生頃に出現する立つ川の描画構図がちょうどサッカーの視点に近い。
※サッカーゲームのウイイレは常に高高度の俯瞰視点が基本だが、野球ゲームのパワプロではバッティングは主観に近い画面構図をとる、ここから野球を視点の移行と折り返しに対応させ小六の斜めの川に対応させられるが長くなるから割愛する
上空の神の視点から自己を俯瞰すること、これが現代人の意識だ。この意識はSNSのフォロワー数や再生数によって自己の存在価値が一様序列的に数値化されることに通じる。
つまり天にいる単一の神の単一の基準で全ての価値が一律に数値化されるのが現代社会なのだ。このような一神教的な神の視点が人間化する意識がサッカーと親和するということ。
いうまでもなく現代人にとっての価値は全て金であり、フォロワー数も現金等価物、金融資産に過ぎない。
そんなわけで神=他者の視点を軸にブルーロックを分析してゆくと多くのことが分かる。
ブルーロック批評
さっそく作品の具体的な分析に入ろう。
ブルーロックと学校
本作ではブルーロックと呼ばれる監獄型のサッカー訓練所で高校生たちが成長してゆく。
いうまでもなくブルーロックは学校=社会のメタファーでもある。そんなブルーロックではランキング制がとられ選手一人一人が常にランキングで序列化される。
そこではランキングだけが選手の価値であり順位を上げて価値を証明できなければパージ。
僕の考えではこの原型の一つは、AKBの総選挙にある。AKBも思春期の子どもがランキングでしのぎを削り仲間と戦うエンタメだ。承認欲求だけしか動機を与えようとしない自己愛化した社会の歪みがあるように思う。
そんな本作の最大の特徴はブルーロックのディストピア的な全体主義に対峙する選手の心的葛藤のベクトルにあるだろう。この点については後述する。
絵心とエゴ
ブルーロックのボスは絵心(エゴ=自我=人間)と呼ばれる人物で、彼はいわばビッグブラザーポジションにある。そんな彼は徹底した合理主義でいまどきだ。
さて、本作ではエゴイストになることが要請される。ブルーロックの選手は全員フォワードであり点を取る力の強化のために徹底した個人プレー・絵心イズムが要請されるわけだ。
面白いのは、現実の日本サッカーがしばしば協調性が売りでシュート力に欠けると評価されることへの強力なアンチテーゼをなす点。いわば日本の村社会制に対するバックラッシュ的な反動個人主義(エゴイズム・アメリカン)としての追米式日本サッカー論を展開する。
協調性サッカーは日本人のステレオタイプな国民性を示すわけだから、この漫画はサッカーという題材をつかって日本社会そのものへ痛烈な批評を展開してもいる。
というわけで日本人の協調主義へのアンチとしての個人至上主義(絵心イズム)が提唱される。
まずこの点が非常に重要なので頭の片隅に置いて欲しい。
絵心イズムサッカーのサッカー観
本作は個人・個体を全てに先行させる典型的なダーウィニズム的サッカー観を構成する。
ダーウィニズムとは種に対して個体を先行させ、まず個体があって、それが競争しながら集まって種を構成するという量子論的な認識パラダイムをいう。
※このためダーウィニズムでは環境と個体の二元論が提示される。この西洋近代二元論に抵抗するのがハイデガーの認識パラダイム
本作のバックラッシュ的サッカー論はしたがって、ダーウィニズム(ネオリベ)をベースとした個人先行主義だ。
このようなサッカー観のため、個々人のパフォーマンスも個々の才能やスキルとして実体的に認識される。つまり選手同士の非分離な状況一体的関係性において、そのつどの場に応じて個人のパフォーマンスが生じ、その関係源泉的なパフォーマンスとして才能やスキルが捉えられるのではなく、パフォーマンスも才能もスキルも客体的なもので個人に独立して内在する実体と見なされる。
これは種・チームに対して個々の分離された個体が先にあり、その個体同士が作用しあうことで関係=生存競争が生じて種が進化=進歩するというダーウィン的な認識を意味する。
ところで近年は個人の知性を偏差値や知能指数といった客観的な指標に客体化する認識が一般化し、それにともないギフテッドという全体主義的なイデオロギーが瀰漫している。
いうまでもないが才能も賢さも厳密には客体としては規定できない。サッカーでいえば一人でサッカーはできない。だからパフォーマンスは種(選手)全体の関係性の側から生起している。
この点を指摘したのがサイバネティックスやダブルバインド論考で有名なグレゴリベイトソンだった。
※ベイトソンの論から解説すると長いから割愛
読者に一発で分かるように言えば、テニスや卓球、バトミントンなどでノッてるとき、その意識は自他非分離にあることが分かるだろう。明らかに主語がないままにプレイが起こり、後からそのプレイを自己のプレイとして自覚する中動態的なプロセスにある。対戦相手の心と自分の心が同期する非分離域で自他非分離と化しプレーが自生的に湧出する感覚である。これは人馬一体、人車一体にもいえるだろう。
しかしダーウィニズムはこのような行為の現象学的先後関係を顚倒してしまうわけだ。繰り返すが、ダーウィニズムではあらゆるパフォーマンスも才能も自他の分離した個人に実体化される。このために知能は客観的な知能指数だけに還元され、才能もギフテッドと呼ばれ、才能がまるで物・客体かのように与えられるギフトとして表象されて、行為の関係の位相が消去されてしまう。
※ギフテッドイデオロギーは極めて危険でありHSP幻想とも通底する
つまり本作のダーウィニズム的サッカー観は現代人のギフテッド的な才能実体化的人間観=絵心イズムに直結している。
※当ブログお馴染みに表現でいえば、関係の実体化は存在論的差異の抹消を意味する、西田でいう一般と特殊の逆対応としての絶対矛盾的自己同一が排除されてしまう
日本語とスポーツ
絵心イズムがダーウィニズムサッカーにあることが分かった。さて、ダーウィンはキリスト一神教圏の人で、ダーウィニズム=近代合理主義は一神教と切り離せない。
なので日本社会のサッカー化・ブルーロック現象を論じるにあたり、ここでは多神教やアニミズム心性の根強い日本人の伝統的人間観を確認しよう。
日本人にとって人間とは人の間である。語源は中国語の人間の意味の誤読から来ているのだが、木村敏の説によると人間とは人と人との間にあるという。
※中国語では人間とは世間の意
間を人間というと間とは物と物が先にあってその間というニュアンスがあるため、あたかも間それ自体に先立って個体としての人があるかのような誤解を生むが木村の間論はそうではない。木村のいう日本人にとっての人間の間とは人と人とに先だったある前間的な間のこと。
間=関係が先にあって、関係から関係項として個々人が析出すると考えるわけだ。
まだ難しいと思うから話を簡単にしよう。
ここで問題とされる人間とは主体=関係である。もとより対象=個物(存在者)は人間の欲望や意志に相関して認識対象とし結像・生起する。
※欲望相関的な世界認識パラダイムを相関主義と呼ぶが欲望相関では西田が捉えた未分離の位相を捉えることができない
このようにいうと、では客観的な物理対象はないのかと思われるかもしれないがそうではない。客観的世界は認識像を持っておらず、認識の対象ではないということ。
※単一の神の視点が信仰されることで科学的認識が客観的認識像として錯覚されているに過ぎない
ここで日本語について考えよう。たとえば「山が見える」というとき、この文には主語がない。
見える、には主語が存在せず述語の見えるが述語それ自体として主体化している。
したがって山が見える事態において見る主体(主語)は存在しない。間の次元から対象を分節する述語作用として見えるという述語が自生してくるのである。
つまり山とそれを山と認識する個人とは未分離にあり、その未分離の関係性において、見える、というコトが生起し、それによって山は山として対象化するとともに、それを認識する自己と山とが分化。
見える、というような形態を中動態と呼ぶがこれは現代の欧米の言語では存在しない。
見えるは主客や自他が非分離の次元にある。対する私が山を見るでは見えるという述語表出は私の個人的な意志として私に所有され見るに変形する。つまり関係(述語)は個人の主観として個体に独在させられる。見ることに先立って私が主語におかれ、主語の私によって見る、という述語が制御・所有されているということ。
※日本語と英語の差異については当ブログのメタ論理学の記事で詳しく解説しているので割愛する
無主語、無コプラ(Be動詞がない)、無人称をベースとする述語制言語にある日本語世界では、英語的なダーウィニズムとは異なり、あいだ、をベースとした人間観が支配的となる。
すると本作の人間観(サッカー観)の初発の問題点が見えてくる。日本のサッカーの問題点を日本人の国民性としての協調制主義に求めること、そしてこの欠点に対してダーウィニズムで対処すること、ここに本作の限界がある。
日本語が示す本来のサッカー観=人間観は決定力をかく仲良しサッカーに至るものではない。
サッカーと空間とエゴ
ダーウィニズムサッカーではサッカーコートは場所ではなくフィールド=場であり空間として認識される。
ダーウィニズムの誕生も実のところ、場所の消失と近代空間の誕生に連なる。
日本の国技たる相撲の場合、土俵は聖域たる場所であり、取組での時間は時計によっては計ることのできない場所固有の場所意志としてある。
サッカーにおける空間は時計によって管理された客体時間であり、コートという場所は場所ではなく均質な距離をもつ近代空間に過ぎない。ゆえにサッカーは極めて近代欧米的なものでダーウィニズム的だが相撲は極めて日本的な非分離技術にある。
近代的な空間概念とエゴの二つの誕生にデカルトあり。
デカルトが近代エゴの産みの親としての側面を持つのはあまりに有名だろう。エゴコギト、我思う故に我あり、とデカルトはいった。彼は人間のエゴによって世界の基礎付けを構想し、そこから空間というこれまでにはない概念を創造したのだった。
エゴ(絵心)という主語を絶対化する道筋を整えたのがデカルトなのだ。
そんなデカルトは数学者でもあったので数学的に空間を考えた。デカルトにとって空間は物の延長でしかなく、彼は真空のようななにも物質のない無は存在しないと考えた。つまり物質客体がまずあって物質の延長、たとえば空気が満ちて広がることが空間だと考えた。土俵や神社などの聖域としての個別特殊な場所を否定し、世界を均質な数学的空間に変換した最初の一人がデカルトだったわけだ。
さらにニュートンにいたり、絶対空間としての虚無が提唱された。物と空間が分離したのである。絶対空間とは、平たくいえば一様序列化された社会空間の物理学バージョンのこと。絶対空間には場所の固有性などない、均質均一な時間と空間と距離が支配する宇宙観である。つまりどの場所でも1mは同じ1mで1時間は同じ1時間。
※ライプニッツに至るとモナドが提唱され一点透視図法の点のようなものが空間に想定される、近代個人主義のエゴとはモナドがベースとなる
※実存時間では試験一分前の一分とカップ麺一分前の一分では長さも質も違うように時間は実存的な長い短いとか色んな情感によって意味的に構成されるが近代空間は時間を時計によって物質空間化してしまう、その結果ゼノン型のパラドックスを生じこのパラドクスが精神病と神経症とをつくりだすにいたる、このためゼノンの数学的問いはメタ数学たる心理学をつかってしか解けない
つまりグローバリゼーションで単一の金(ドル)に価値が一様序列化したり、太陽暦の支配化(標準時間化)によってどの場所でも同一の時間法則が支配するようになったこと、このような近代化と物理学の絶対空間による空間の単一性・均質性の成立は通底する。
というわけで近代空間の誕生はエゴイズムの誕生でもあったのだ。
さて、主人公の潔の能力は、サッカーコートの近代空間化において実現する。
というのも潔の固有スキルは、フィールド全体を神の視点(絵心の視点)から俯瞰したうえでインプットした個々人の選手の能力データ(絵心のランキング選手認識)から、選手個々の動きをシミュレーションしてフィールドの未来座標を予測するというもの。
ニュートンが絶対空間によって実現したのも物体の運動量をインプットすることで、未来の物体の位置座標を予測することだった。均一な時間と空間を前提に個々のデータを入れて思考計算して未来を産出する、まるでニュートンがサッカー選手になったかのようであろう。
ここでは対象を俯瞰して見ること、客体として分析することが徹底される。そしてこのような意識は近代社会空間が実現した人間価値の一様序列化(ランキング制)に対応する。
潔はブルーロックのビッグブラザーであり父=神=絵心=エゴ=人間の視点にアクセスする絵心の息子となっており、近代合理主義の化身なのだ。
※いうまでもないが昔の日本語に空間という概念はない、近代的な空間概念はデカルト時代に西洋で本格的に構成され普及していった、たとえばユング派でおなじみのラテン語概念ゲニウスロキも空間ではなく場所のこと
日本語の場所とサッカー
日本語が述語ベースだったことに触れたが、このことに連動して日本語では場所が重視される。
たとえば大きいー小さい、とは別に広いー狭いがある。
大小は物について言われるが、広いー狭いは場所に対して言われる。
庭が大きいといえば、庭の外からそれを物として語る視点があり、庭が広いといえば、庭の内側から場所の広がりとして語るに至る。
さて、空間ではない場所とは何か、それは述語の行為性それ自体であり、空間(主)と時間(述)との非分離にある。
ここでは簡易的解説をしよう。
場所とは例えば、サッカーマニアの人が歩いていて、サッカーコートが見えるとする。
するとサッカーマニアならたまらずサッカーをしたくなりうずうずする。このときサッカーをしたいという主体性はどこからやってくるか。
ダーウィニズムならサッカーをしたい、という述語性の発露はサッカーマニア個人の主観として個体内的に処理される。
しかし、日本語世界観ではそうはいかない。サッカーをすることを喚起したのは、それが自ずと見えてきたサッカーコートの側にある。サッカーコートの呼び声、したいというコートの意志が見えるという仕方でサッカーマニアにおいて生じたと捉える。あるいはコートとサッカーマニアの間でそれは生じた。
しかし、これでは場所は物に過ぎない。コートを物(対象)として外部からそれが見えたなら場所=物になっていしまう。しかし場所と物は違う。
人はサッカーコートの中に入ることができる。だから場所とは外から見てそれを対象化することではない。場所とはその内部において一体となること。コートは大小の対象ではなく広い狭いの場所ということ。
物は『そいういう事態』、場所は『そういうコト』に対応する。事態という場合、俯瞰しているが、コトという場合、その内側にいるニュアンスがでるのが分かるだろう。
あるいは部屋でリラックスしてみよう、そのときあなたの内面というべき感覚のうちの幾分かが、あなたの内部を超えて部屋の全体に気分や雰囲気として充満しているのが分かるはずだ。あるいはお風呂場で湯船につかってまったり恍惚となっているとき風呂場とあなたは一つに広がり風呂場の外部との仕切りが風呂場を聖域として構成し、そのまったり感を実現していると分かる。これが場所である。
場所に敷居という仕切りがありそれをまたぐ作業を要するのも、非均質な場所を実現するため。
場所を抜きにまったり感だけを取り出すことがもはやできない感じ。
たとえばオブジェを部屋において部屋の雰囲気とあうとか合わないという仕方で部屋一体でオブジェの雰囲気が認識されるが、これも部屋という居場所から切り取ったオブジェのみからはその雰囲気(意味)を確定できないということ。よって部屋という居場所がオブジェをかく在らしめている。ここに場所の意志がある。
※ハイデガーではオブジェの雰囲気もまったり感も適所連関性として主語的存在のもとに記述してしまいそうだが、それは無効である、ハイデガーでは気分が自己主体化させられるために場所がない
場所とは、その場その場で述語意志を生起しサッカーのプレイの真の主体性となる恒常的に仕切られた所だ。サッカーコートの内側でその全体の関係表出として個々のプレイが生起するわけだから、サッカーコートという場所が意志それ自体として選手非分離にプレーを表出する。
※ハイデガーの世界内存在の限界がここにある、世界内とは社会内であって空間性が強いが、場所はそれ以前の中動態的な存在連関と連関解体を生じる無である
場所とはそこにある個物の関わりを生じ、物と場所の非分離において述語性・場所意志をなす。
意志とか述語性はハイデガー的には時間に属する。この時間性=目的意識によって対象化された対象に対して、目的意識に応じる近い遠いとしての空間を開くのがハイデガーなのだが、場所とはそうではない。場所は時間と空間との非分離にある。
つまり場所は場所自身をあらしめる時間の時間以前(絶対無)の場所であり、かつ時間(述語表出)において場所は自らを現わす。
つまり場所があるとも場所はあるともいえない。場所は主語=名詞ではない。場所とは主語なしの場所であるという述語性それ自体なのだ。
※山本や西田の場所論は僕のにわか理解だとこうなる
まとめると、近代空間では場所は時間と客体空間とに分離され、そのことで場所は時間を抜き取られ均質にされる。これは場所・大地から分離した一神教の天の神の意(目的意志、歴史、時間)において均質なニュートン時間とニュートン空間を制定し場所を解体することに等しい。
※近代空間も近代時間も一神教の否定神学構造でなりたっているが世の中の科学万能論者はこういうことを何も知らない
だから場所の近代空間化こそがダーウィニズムサッカー(絵心イズム)の正体であり、日本語の場所世界観は近代が消去してしまったということ。
補足:場所の言語論
この項では小難しい補足をする、普通の人は次の項目まで飛ばしても問題ない。
近代空間は近代主体=主語を生成する。ところでこの花は赤いという場合、this flower is redとはまったく異なる。
場所語である日本語には主語がない。空間語にある英語には主語がある。
主語とはisとかamとかのコプラをもつ。つまり英語には人称制があって一人称Iならコプラはam、二人称youならareと主語につらなる動詞が主語の人称によって所有(抑圧、統覚)される。またコプラ文法(主語文法)は主語と述語を比較してその一致の真偽を判断する命題論理を生じる。
逆にコプラなき日本語に人称はない。だから私も小生も貴方も彼も全て名詞でしかない。日本語の名詞は相手との関係でかわる。たとえば上司相手に俺とはいえないだろう。
つまり日本語は対象の意味に対して常にコンテキスト=関係であり述語が優位だということ。
※山本哲士によると日本語に人称はないのだが、僕の考えだと弱い人称性はある気がする。というのも人称性がないと共同幻想・対幻想・個人幻想への分離がなりたたない気がするから
※言語学では英語は神の目線のクリスマスツリー型、日本語は虫の目線の盆栽型という理論がある、僕もこれと似たことを独自に考えていたが要するに、日本語は語順が比較的に自由でありコプラもないから、主語と錯覚されているものも述語に対する補語の一つに過ぎず、必ず述語が中心となる
※SVCの構文は真偽命題化しているが日本語にSはないので日本語は命題化しない、つまり日本語文『この文は嘘である』は自己回帰のパラドックスを生じず、文そのものが嘘というコト、で終る。強迫神経症の自己言及構造と日本語とは無縁だということ、ラカン的にいえば日本語はヒステリー=女性のあり方に対応する
サッカーコートをフィールドでなくプレイスと見なす場所語の日本語に真偽命題の構造はない。この花は赤いとはこの花がそれ自体としてあって、その述語表出この花であるの象徴的特徴として赤いが言われる。花とはそれ自体で、花があることなんであって、そのあることの現れであり述語性の象徴的特性が赤いとして言われている。
つまり赤くある花とか赤いということな花、というニュアンスとなるはず。
※日本語の助詞『は』は、が、を、に、などの助詞とは別次元にあり文の外部に位置し作用し提題を立てる。『我が輩は猫である。名前はまだ無い。』という場合、我が輩はのははピリオドを超越して次の文やパラグラフ全体に作動する、ここに日本語のはの特殊性がある、なお提題を主題と訳すのは厳密には不適切であり主という概念は日本語には合わない
this flower is redの場合は、主語の花がまずあって、その性質として赤いということが主語と一致させられている。英語では主語・花がコプラでもって赤くあることを所有するといってもいい。このような主語=名詞が存在(述語)を所有し存在の主として存在に先行すること、ここに空間主義における客体の絶対先行性があり、ゆえに絵心イズム言語では時間(目的意志=意味)の空間化(一般的意味化)や時間(関係レベル)の消失をなす。
※日本語の赤いは隠喩的、英語のレッドは換喩的ということ。ただしthis is a penの場合はpenが名詞だから隠喩となる
補足しておくと、面長の逆は面短ではなく丸顔や四角い顔となる。ここに日本語の特性がある。
つまり長いとか丸いとかは全て対象の存在全体と非分離なのだ。だから丸い物を伸ばせば長い、つぶせば平たい、このため平たさにも長さにも立体的厚みがある。
ここから日本語では平たい物は枚、長い物は本と数えるに至る。
対象をかくあらしめる述語がそのまま長い平たいという隠喩を形成して述語表現が分節してゆくということ。換喩的な英語では長いことで数え方が変る原理を持ちえない。
※隠喩とは全体を全体に喩えることで、ライオンをキングと呼ぶのは隠喩。換喩は全体を部分に置き換えることで、のび太を眼鏡と呼ぶこと、ようするに日本語には本質的な意味での換喩があまりないと僕は考える
英語では客体があり、その客体の部分的性質として太さを持たない抽象的な長さがある。これは主述構文の作用による。
ともあれ場所はあるものではない。だから場所があるとはいえない。場所は存在命題には属さず、場所であることそれ自体。日本語が無主語文であることが空間でなく場所語を要するのもこれゆえ。
場所はない、ゆえに絶対無の場所である。場所成ることがあるとされて、場所がある(場所であるがある)と存在命題次元に移行してゆく。
※言語論に分かりにくいところがあるとすれば、主述の分化と分離とは別だということ、ここは深層心理学の最初の躓きポイントにもなりうるが、主述非分離と主述完全一体は別だということ、命題論理では同一or非同一しかないので、非分離は一体と同一視されてしまうがこれではメタ論理水準を把捉することができない、この分化構造、分離構造を理論的に精緻化することは心理学の発展に直結する
※僕自身の言語研究がまだ始まったばかりなので解説は解像度に甘さがあるだろう、当ブログの言語論の多くは現象学をつかって独自に論理抽出しているとはいえ、概ね大御所の意見と一致しているっぽいからそんなに間違ってないはず
次に場所からサッカーを捉えるとどうなるかを確認しよう。
場所サッカー論
ここでは、空間と時間、主体と環境とを分離するダーウィニズムサッカーの限界を暴露し、場所サッカー論を展開したい。
ブルーロックのアニメ27話『感じる世界』では、主人公の能力の欠点が克服されパワーアップする。主人公の能力は見ることと思考能力に頼ったシミュレーションによる未来予測にあるため、サッカープレイと思考とにラグが生じるという欠点を持つ。考えてから動くでは遅いということ。
この思考と行為のラグを抹消することで、27話では、いままで不可能だったプレイを実現するに至る。
この行為と思考との一致、これを絵心はフローと呼ぶが、条件反射的なフローのプレーは空間ではなく、場所の領域に属する。
行動と思考の一致=フローは、ダーウィニズム的な見ること考えることをベースとする能力の対極にある。そのため本作ではフローのメカニズムがごまかされてしまう。そもそもダーウィニズム的サッカー観からは体験的なフロー記述は原理的に不可能と思われる。
ここに本作の限界があるだろう。
フィールドではなくコートを聖なる場所として捉える場所サッカー論では場所一体として最初からフローが目指されることになる。
有名なオイゲン・ヘリゲル『弓と禅』に場所弓道のあり方がよく示されるので確認しよう。ヘリゲルは日本人の師から的を狙うな見るな、と言われる。的を狙ってもあたらず、ただ射ることが生起・自生するとき勝手に矢が放たれて勝手に当たるという。
ここでは思考とか空間俯瞰、的の対象化が完全否定されている。
個我なき場所意志に即してこそ行為一体のフローが生じるというわけだ。それなのに、本作では技術を習得した個人が個人としての集中力を極限に高めることで生じる個人的な能力として論じられてしまう。
しかしこのような個を中心化した意識からフローが生じることは考えられない。少なくともスポーツの経験がある人なら僕のいうことはある程度、分かると思う。
感覚を研ぎ澄まそうとしたり、集中しようとするとかでは絶対に完全なフローにはならない。
フローがダーウィニズムサッカーの否定としてしかないことが本作では見逃されているといってもいい。そもそも思考と行為との分離によって場所は空間と時間へ分離・解体するわけだから合理主義が経験的にフローを語ることはできないというわけだ。できるのは生理学的説明がせいぜいだろう。そのような外在的な説明はスポーツの実践とはなんの関係もないのはいうまでもない。
※思考と行為の分離とは思考判断という主語主体意志が場所的述語行為を所有化・抑圧することを示す、このとき述語の所有は述語作用と思考との分離によってしかありえない
さらにいえば本作では自然科学的なゴールの再現性がもとめられるが、このような再現性の考えもフローとは合わない。フローというのは一回性の意識にしかないからだ。つど一回性が個別に反復するのであり、科学的な再現性とはまったく質が異なる。
パノプティコンの構造とブルーロック
本作の基本構造の理解にパノプティコンは欠かせない。
フーコーは近代社会空間の誕生を学校や病院などの施設にみた。これらの施設をフーコーはパノプティコン型の監獄だという。パノプティコンとはようするに近代社会そのものの構造を示す。
パノプティコンとは中央に監視塔があり、その周囲に監視塔を囲うように牢屋が設置されたデザインの刑務所で、監視塔の中を囚人は見ることができないが、監視塔からは牢屋の中がよく見えるというもの。
監視塔はサーチライトがついていて常に牢屋を照らす。
これにより囚人は自分がいつ見られているかが分からないままに監視されているという恐怖を植え付けられ、悪さができず自ら進んで刑務所のルールに身体を従属させるという。
このような、いるかいないか分からない不在の他者=監視者=神=絵心の視線を常に意識し、そうやって内面化された他者の視線によって自己を束縛するのが近代社会であるというのがフーコーの主張だ。
さて、これは僕の理解ではフランス革命に代表される神の死に対応する。監視者の視線が見えず監視塔の中がシークレットというのは、世界を統べる神の不在に等しい。神の死・フランス革命が社会・自己意識をパノプティコン的に構造化したということ。
ブルーロックは絵心が不在の神として囚人を監視カメラで一方的に監視し、囚人は絵心の視線を常に内面化して絵心の望むパフォーマンスを監視カメラの向こう側にいるかもしれない絵心に向けてアピールすることに命がけ。
このような構造そのものが近代社会空間なのだ。
重要なのは不在の神の欲望を囚人が欲望して自ら考える点にある。絵心が監視カメラの向こう側にいてその場に不在であることの意味の一つは、この不在によってこそ囚人は自らの頭で主体的に考えるようになる点にある。
つまりもし絵心がコートに現前し常に細かく何をすべきか詳細な指示を出していたら選手は何も考える必要が無いので絵心の手足として無脳の無主体と化す。じつのところ神のいた時代の人間はこれに近かった。
聖書に従って無思考に天動説とか喚いて生きていればことたりたわけだ。
しかし、近代とは聖書が迷信と馬鹿にされ、神がいなくなることで可能となる。個々人の人間に代わりなすべきを判断する主体たる神は退き、不在の神に代わって人間自らが自らの生きる意味や行為を考え判断する主体となる。自己主体=エゴ・イズムの誕生である。
ここに近代の自由恋愛や民主主義、職業選択の自由といった啓蒙主義的社会空間が開ける。
よってパノプティコンで不在の監視者の視線を内面化するとは、神の視線を自己が持つこと、不在の神の座に人間がつくことを意味する。しかしこのとき自己が自己を所有・支配する自己統治的な近代のエゴイズムは、その構造ゆえ自己を消去してしまう。
つまり自己の存在の仕方を気遣い、自らのあり方をアイデンティティとして自己設定するエゴの意識は自己が何者であるかという決定を自己自身がするゆえ、自己のアイデンティティに先立って自らのアイデンティティを決定する何者でもない透明の選択者としての自己をその根源にもつ。
たとえば、哲学者を選ぶ人は、自ら哲学者になると選択したわけだから哲学者である私に先立って何者でもない私を根源に含むということ。いかなる自己選択もそれが自己によって選択される限り、根無し草とかす。
この起源の自己消失が根源たる神(自己と世界の根源根拠)の不在に対応しており、人間が神になるとは、人間の意味の起源が欠如することを示す。
※ラカンの欲望の欠如はこの構造に対応し、フロイトの幼児健忘=起源の消失もこれに対応する
そしてこの意味の欠如が近代空間における人間の自由意志を構成する。もし自己の運命であり意味が決定していたら、自らのあり方を自らが考える必要が無いわけだ。
私とは何者なのかとは、自己意味の欠如によって可能となる。この欠如こそが何者をも自己選択しうるという自由を構成するということ。
これが近代社会空間の民主主体の構造化の一番簡単な説明である。このような自己関係の自意識構造が社会空間としてはパノプティコンとして実現しているということ。
よって不在の神の位置に人間のエゴがつけること、それが絵心が不在の監視者であることの意味といえる。
近代の構造をさらに観てゆこう。
近代では法は不条理を含み、その不条理ゆえに法との間に内的葛藤を抱き、その葛藤ゆえ人々は自ら進んで社会のあるべきについて考え、理想を胸によりよい法・社会を思案する。
ここに民主制の正統性の根拠がある。これはルソーでいえば法と一般意志とは常にズレがあるということ。全体意志=多数決意見から法をつくる場合、意志と法はズレないが、一般意志から法を作る場合は、必ず法と意志はズレこむ。
一般意志とは全ての法の根拠であり、それゆえ絶対的な社会理想であり民衆の夢のこと、より分かりやすく言えば、相互の自由の承認、公平と公正の実現をなす意志を一般意志と呼ぶ。
※多数決は民主主義ではない、ルソーの一般意志すら理解できないから多数決と民主主義をごっちゃにしたり、一般意志はエリート支配だとトンマなことを言い出す、近代市民社会の基礎構造を学者でさえまるで理解してないのが日本の知識人、意志と法は存在論的な位相が異なり、この差異が時間と空間の分離を構成する
明文化された法は、その意志とはズレている。このズレが先ほど紹介した実存(アイデンティティ)における根源的な自己意味の欠如だといってよい。
※厳密には意志と法とはズレつつ一致している、この差異の同一が近代自我の自己関係意識として主体を構成している、分かりにくいかもしれないがいったんメカニズムを理解すると簡単
近代において人間とは社会人のことであり社会について主体的に考える理性主体を意味する。それゆえ私が何者であるかと社会がどうあるべきかは繋がっている。
本来、近代においては法はその欠如のゆえに、不平や不満を生じ、多様な法解釈=意志読解をうみ、そこから、より一般意志にかなう法改正が要請されるに至る。時代に合わせて一般意志を代表する法はその意志に即すべくズレを一致させる絶えざる訂正を繰り返し、訂正の運動において一般意志を動的に実現するわけだ。竹田青嗣はこれを一般意志の最善表現と呼ぶ。ラカンはこれを欲望の弁証法と呼ぶ。
したがって、パノプティコンのモデルでは社会のあり方や法への抵抗、不満が生じる。これはもちろん思春期の子どもが社会化するにあたって経過する反抗期に対応する。
すると思春期にあるブルーロックの選手には反抗期という契機がまったくないことが気になるだろう。彼らは絵心に惚れ込み心酔するかのように、ブルーロックの合理主義精神に同化している。とくに主人公はその典型だ。
そして選手にはブルーロックの外部に社会も世界も存在しない。
じつは疫学的にも現代人には反抗期がなくなっていることが知られている。
ここに本作が提示する現代日本社会の闇がある。次の項でくわしくみてゆこう。
ブルーロックとポスト全体主義
本作ではブルーロックの選手は狂ったように、過激なランキング競争へと駆り立てられ、ダーウィン的な生存競争を介してチームという種の淘汰的な進化=進歩を目指す。
そして、この支配的な監獄の体制に誰も葛藤を抱かない。
選手は俺だ俺だという自己顕示欲に起因し、現実にランキングが上がらないことだけが葛藤となる。またランキングを上げることだけが生きる目的と化しランキングバトルサイボーグとして調教されてゆく。
主人公の葛藤はつねに現実のプレーの側にあって内面にはない。つまりブルーロックの全体主義(内なる視線)について、不満を持たない。ナチス時代のドイツ国民とそっくりだろう。少なくとも構造のレベルではそんなに差がない。
絵心(合理主義、選手の理想像)と選手の分離は弱く、それゆえ潔は絵心の視点にたってフィールド全体を見る。そのため内なる他者の視線との葛藤はなく、葛藤は全て外在化されている。だから内面をもたない。まるで昭和世代のお上に従えの田吾作日本人のあり方に酷似している。昭和日本へのバックラッシュ理論であるはずの絵心イズムは実のところ昭和的でもある。
※現実にブルーロックでサッカー選手をこさえてもアメリカンなプレイヤーができるだけだと僕は思う
しかしナチスや昭和日本と本作の構造には違いもある。ナチスでは具体的な規範(抑圧的ルール)があったが本作には具体的な規範はほぼない。つまりプレーの内容は自由。ただしランキングを上げないと追放となる。これは相対主義的に全てが認められ結果(金)だけが絶対化した日本社会をよく示すだろう。つまり犯罪をしても目立ってインフルエンサーとなり、金と承認を得られれば英雄で、手段としての犯罪も事後的に正当化されうるということ。ここがナチス式全体主義とポスト全体主義の最大の違いとなる。
※これは社会を構造化する国家規範と経済合理規範、二つの異なる審級の差異が消失し経済合理のみが社会を空間的に構造化するようになったということ、ここに近代空間の暴力性がある
さて、臨床心理学の論文に、Z世代の思春期の自己実現は筋トレが多いというのがある。この理由は人類から近代的な内面(内的葛藤)が消失して外面だけとなり自己の成長が外面身体でしか実現しえなくなったからだという。
内的葛藤のなさ、つまり不在の監視者、内なる他者の視線との間で内的葛藤を形成せず、常に外界の現実との具体的葛藤だけが意識されるのがブルーロック型の新人類だったが、このことは内的他者が何も規範(抑圧)を持たず、自己化してしまったことを示す。
※この葛藤の移行は神経症から現実神経症への移行として記述できる
本作でいえば主人公が絵心の合理主義に完全に帰依してしまい、本来あるべき絵心への本質的な反抗を構成しないことが、内面化した他者の自己化に相当する。つまり内的葛藤とは絵心に本質的なレベルで反抗する反抗期の描写を必要とする。それは内的他者を自己でなく他者として分離構成することでもある。
だから絵心に反抗しないとはブルーロック=社会という体制のあり方への不満を抱かないということ。社会を全肯定し絶対化することは、全体主義といってよい。
さて、ブルーロックではランキングを上げるためなら何でもやってよく、ランキングさえ上がれば価値がある人間でその他の価値尺度は存在しない、まさに今のネット社会そのものだろう。あらゆる個性が認められるが個性そのものは評価の対象ですらないということ。
※サッカー競技の評価としては問題ないがそれが社会の縮図として象徴化されてしまうところに問題がある、本作はサッカーを介した日本社会批評の作品だった
個性の商品価値だけが問題であって個性が持つ固有の内在的価値は全否定。また合理主義が絶対化され、合理主義への疑問は存在しない。合理性とは計算可能であって人間は統計の計算に従うだけでよく、ブルーロックには主体性などどこにもないということ。
たとえば個性的なYouTubeチャンネルを立ち上げたとしよう、それが評価されるのは登録者数によってのみであろう、そして個性の存在理由も登録者を増やせるからに過ぎないだろう。ここには個人の自由だとか個性なんてものは本質的に存在しない。個性は単に商品に過ぎず中身は空だ。場所の特殊性が消えて近代空間的な均質性によって個性が商品に去勢されたということ。
ブルーロックでは非合理なことは価値が認められない。もはや囚人であることに苦悩すら感じない数字バトルサイボーグとしての現代人を描いている。それゆえ合理性の外部が存在せず選手の生活描写はブルーロックの中で完結している。つまり近代社会空間しかなく、人工物の外部がないということ。サッカーというスポーツが現代人においては、場所否定的な空間型のスポーツのメタファーとして人気になってきているということ。
したがって本作が描きだすのは、近代空間が持つ暴力性としてのサッカーであり、合理主義をモデルとした新しい全体主義社会の誕生としてのディストピアであろう。
本作が予示する明日の日本は金だけが人間の目的・価値と化した世界で、誰もがそれに不満をもたず、その全体主義的な世界に従順にしたがい、プレデターのように生存競争とやらを崇める世界である。
ハクスリーの素晴らしき世界、オーウェルの1984、伊藤計画のハーモニーに並ぶディストピア文学の金字塔、それがブルーロックだと思う。
ブルーロックは時代によって要請された時代自身の自己表現であり、優れた作品に思う。
まとめ
ここまでの議論をきゅっとまとめよう。
話は単純で、まずサッカーとは自己鳥瞰的な意識をベースとするスポーツであり、その意味で現代人の自意識の構造に親和する。
このような自己俯瞰意識はサッカーコートという場所の場所性を解体し、フィールド化することで近代空間を開く。場所⇒空間。
コートの空間化はニュートンの絶対空間、絶対時間に対応しており、さらにこれが近代社会空間に対応する。
ブルーロックのランキング制やパノプティコン構造はこのような場所解体的な近代空間化の構造そのものである。
近代空間は主体と客体、場所と環境、空間と時間、行為と思考を分離することで、ダーウィニズム的な世界観を構成する、それゆえ本作のサッカー理論はダーウィニズムそのもの。
ダーウィニズムにあるため個々の選手の個体=エゴが重視され、生存競争による淘汰のロジックでチー=種の進化・進歩が目指される。
さらに主人公の潔の特殊能力はサッカーコートの近代空間化をベースとする、そのため潔は本作のダーウィニズムのシンボルといえる。コートを近代空間=フィールド化して個々の動きをニュートンのように計算して未来座標を予測するのはニュートンが絶対時間と絶対空間によって物体の座標を予測するのに対応。
本作のダーウィニズムは、ステレオタイプな日本社会(日本サッカー)の協調主義と個性否定性に対するバックラッシュ理論として提唱されたもので、反動ダーウィニズムと見なせる。
ダーウィニズムサッカーには欠点があり、フローを生成するメカニズムをつかめない。そのため潔の行為と思考のラグを埋める進化はたんに個人の集中力の高まりとしてしか言及されない。行為と思考を分離させることこそが近代空間の時間と空間の分離の意味であり、潔の能力はそもそも行為と思考の分離によってコートを空間化して構成されるためフローを否定するものである。しかしそのことを洞察する視点を本作は持ち得ない。
また本作の日本文化観は明治以後の近代空間化した日本をベースとする偏ったものに過ぎず、本来の日本文化は明治以前の場所性にあり、場所とは行為と思考の非分離にある。それゆえフローは絵心のダーウィニズムサッカー理論からは到達できず、場所サッカー論を要する。
サッカーコートを空間から場所へと転移することが真の日本サッカーの再生となるだろう。
ブルーロックはサッカーコートの場所性を解体し空間化するために、パノプティコンの構造をとる。
ブルーロックでは内面の葛藤がなく外在化されたコンフリクトしかない。そのため主人公はブルーロックの全体主義そのものには抵抗せず、選手は好んで過剰な全体主義の競争に奔走する。
ゆえに、本作はオーウェルの1984と同じタイプのディストピア文学漫画である。
しかし、本作では選手が自己の欠点に自覚的となることもとかれ、他者(絵心)の意志を探る主体性の描写も存在する。これは近代合理主義が場所を解体する空間の暴力のもとに、主体性を生じさせつつ最終的にはそれを自己消去してしまう歴史構造を示す。
したがって近代の暴力性が極に達して、近代の意識がポスト全体主義によって解体してゆく最終段階にある作品と観れる。
本作の世界は明日の日本を先取りしている節がある。
要点をまとめるとこんな観じ。
要するに場所⇒空間としてのサッカー化から、本作の多くの象徴的な特徴を体系的に説明可能ということ。たとえばエゴイズム、潔の特殊スキル、ブルーロック(パノプティコン)、反動ダーウィニズム、フローの説明破綻、一様序列ランキング制、内面葛藤の消失、などの本作に顕著な点は全てサッカーの特性となる場所の空間化から説明できる。
終わりに
この記事は、全体主義の文法を記述する理論の一部として構想されたもの。
全体主義に関する理論では、ブルーロックの他、ひぐらしのなく頃に、ハーモニーの三つの作品を分析することで全体主義がどのような構造的条件をもち、歴史のうちにどうして生じるのかを明らかにする予定。さらにブルーロックから来るべきポスト全体主義のあり方を示す。
ところで、この記事、内容のロジックを細かく説明しようとすると何万字になるか想像がつかないくらい長くなるので、かなり手こずった。
本当は細かく深く分からないとあまり面白くないのだが、一般の人は深く考えるのを嫌うようなので、本格的解説がしにくいのが現状。
さて、この記事は山本哲士『哲学する日本』の影響をうけてる。とくに場所論は哲学する日本を参照。その場所論は西田幾多郎がベースとなっていて、木村敏の時間論とも相性がよかったり。
西田幾多郎の場所論は場所を近代空間やハイデガー存在論と対比させることでその意味をグッと立体的につかめる気がする。
日本語の非分離を取り上げたが、僕の考えでは英語のような分離は、分離構造を自壊するバグを抱えている。そのバグについては未来予測した記事で詳しく解説してるが、日本語の非分離が重要なのは、分離構造が破綻しないようにさらなる分離を実現しうるということ。
さらなる分離はラカンの概念だが、僕の理解だと分離がもつ想像的誤認と呼ばれる自壊構造を克服するのがさらなる分離であり、これは非分離によってこそ逆説的に実現する構造にある。
分離と非分離を素朴に対立させる視点は分離から非分離を見ているから生じるもので、非分離から分離を見た場合、分離と非分離は素朴な対立関係にはない。
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