【死後の世界はない】という定説を論破!最新科学で分かる死後世界の仕組み

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どうも!うたまるです。

こんかいは人間が死んだらどうなるかについて解説します。

結論から言うと、人間は死んでも死なないといえます。
そんな不思議な死の仕組みについて、死後の世界の正体についてをここでは解き明かします。

じつは宗教のいう死後の世界は論理的に解釈可能なので、そのことについても解説。

脳と死の関係

人間の意識は脳であり脳が死ねばそれが個人の死である、というのが今の死生観の大多数の意見。

たしかに脳は新陳代謝をしない、だから一見するとこの考えは正しく思える

しかし、脳細胞を構成する分子は日々、お米やパンなどの食事によって摂取した食べ物の分子と入れ替わっているのだ。

したがって分子レベルで見れば脳は何年かすると物質的には完全に別物にすり替わっていることになる。

すると、脳の物質的同一性が自己の生の継続であるとする考えは完全に破綻してしまう

このことについて詳しく知りたい方は『最新の不老不死研究の仕組みについて』を読んでいただくとして次に簡単に個人の死と生の条件を解説する。


脳分子が代わっても同じである理由

脳の分子が入れ替わっても同じ自分だといえる。

なぜなら変化が連続的だからである。逆に言えばもしある瞬間に一気に全ての脳を構成する分子が別の分子に入れ替わってしまったら、それは自己の死に他ならない。

一気に入れ替わると、かりに記憶を引き継いでいたとしても、入れ替わった分子の自分は、入れ替わり以前の自分から見ると、たんに自分と同一人物であると思い込んでいる他人に過ぎない

ところが、脳の分子は実際には日々少しづつしか入れ替わらない。
だから今日の自分(脳)と昨日の自分(脳)ではほとんど差がないといえる。

よって今日の自分と明日の自分も少し違っているが同じ自分と言えるだろう。すると明後日の自分と今日の自分を同じというためには両者を直接比較するのは間違いで、明日の自分と明後日の自分を比較するのが正しいと分かる。

なぜなら、実際には明日をスキップしていきなり明後日になることはありえないからだ。今日と明後日の自分を媒介し同一する中間項として明日の自分があるのである。

よって変化が日々ちょっとづつ進む連続的なものであれば、遠い未来の完全に脳の分子が入れ替わった自分も今の自分も同じ自分なのである。

今の自分と、物質的には今の自分と全く異なる遠い未来の自分、その両者を同一するための時間的中間項の存在が両者を同一してくれるといえよう。
勝手にある時点と別のある時点を直接比較して中間項をスキップすることは理論的に無効といえる。

ちなみにこれは有名なテセウスの船のトリックにも同じ事がいえる。

脳の無線接続

みなさんは情動の直接伝染をご存じだろうか。

情動というのは身体的反応を伴った感情のことを言うのだが、情動は伝染することが知られている。

たとえばもらい泣きはその最たるものだろう。

人は場合によっては、泣いている人を見るだけで、悲しくなって一緒に泣いてしまうことがある。
これに似たことで、あくびしている人を見るとあくびが感染して、つられてあくびが出やすいことが実験で証明されている。

あくびも平穏で怠けた気分の時にしか出ないので一つの情動といってもいいかもしれない。

というわけで、涙の悲しみ、血圧のあがる怒り、感動の鳥肌、怠けたあくび、といった情動は直接に伝播するのだ。

すると人間の脳は情動を介して他者の脳と直接接続していることが分かる。
情動は言語コミュニケーションのような媒介されたやりとりではなく、直接に気分や感情が並列化され他者と自分の脳が繋がり一つの気分を醸成するのだ

たとえば泣いている人につられて泣くと、相手はそのことに気づく、すると両者(の脳)は完全に双方向的に接続され一体となり、悲しみの感情を相互に共有、一つの悲しみ(意識)を形成する。

ほかにもスポーツのダブルスでは、相手の感覚が互いに直接分かることがある。

脳と脳が並列化して一つの意識である悲しみなどを形成するとき、他者の脳と自分の脳は無線でつながり一つの脳と化している。

この繋がりを脳間ネットワークとぼくは呼ぶ。

脳間ネットワークと死後の正体

情動の直接伝播に典型的な脳間ネットワークによってぼくたちは、しばしば自他未分に至る

問題は脳がこの情動のネットワークでつながって他者と一体一つの気分、意識を形成しているときに、接続者の一人が死んだらどうなるかだ。

この場合、理論上は個人の死は回避されていると結論づけられる。

さきほど説明した脳の分子の連続的変化の議論からすれば、死は回避されたと結論せざるえない。

あるいは事実として、交通事故で右脳が完全に死んでしまって左脳だけになっても事故前と同じ自分だといえるのだから、脳幹ネットで他者と自他一体のときに、ネットにコネクトしたまま自分だけが死んでも、その場合は他者が自己だということができてしまうのだ。

個人の死と言語の関係

たしかに脳幹ネットワーク理論から、人は死んでも死なないことがあるといえるが、それでも個人は紛れもなく死ぬ。

というのも自他未分によって開ける脳幹ネットワークでは原理的にコネクトできない領域が存在するからだ。

そもそも、他者と直接共有できない領域の存在こそが自他を切り分け個という概念を可能にしている。

そのけっして他者と直接つながることができない領域は言語である。
人間は相手の生々しい情動を直接感じることはできても、相手の言語的思考を直接にとらえることはできない。

そんなことができるとか言ったら、テレパシーになってしまいとたんに、議論が霊感商法などの詐欺の世界に陥ってしまうだろう。

よって逆に言えば言語の獲得によって、内面の思考が他者と切り離され、自他が分化し個の概念が生じたともいえる。

つまり人は言語の獲得によって個の死を獲得したと考えられるのだ。

このことから脳幹ネットにアップロード不可能な言語領域こそが個人領域であり可死領域だと分かる。よって人には死ぬ部分(言語領域)死なない部分(情動領域)が存在しているのだ。

言語領域は個別の肉体が滅びると同時に消え去ってしまうということ。


また言語を持たない動物には少なくとも人間レベルの個人の死は存在しないと考えられる。
動物のコミュニケーションは直接的な感覚にたより、いわば情動の直接通信のみでなりたっているのかもしれない。

つまり動物は、物理的身体のレベルである対象の次元としては個を認識するが、主体・主観レベルではほぼ未分化な可能性があるのだ。

少し心理学や構造主義言語学に詳しい人むけに補説しておくと、脳間ネットワークを可能にする情動は言語学的には隠喩・表意文字・絵文字に相当し、自他を分離する個(言語)の次元は表音文字に相当する。

ようするに絵文字(表意文字)を見ると人は直接的にその文字の絵面から、感情を喚起させられるので絵文字は情動(共通感覚)に近いのだ。

靖国神社など宗教における死後の世界

ところで古い宗教的な考えでは人は死ぬと魂になり魂は天に昇り超越的な世界と一体となるという考えがある。

これはあながち科学的にも間違っていないことが分かる。

つまり自他未分の脳間ネットワークこそが死後の世界(靖国神社、無意識)で、そこから個別の身体(言語領域)に帰還できなくなることが個人の死なのだ。

人は死して個別の魂は天に昇る。
日本ならば戦没者はみな靖国神社へと昇天、魂はA級戦犯などの罪を含め生前の個別性を漂白され、自他未分のかたちで合祀される

この魂の個別性を喪失した靖国神社という聖域こそが、情動的な脳間ネットワークを象徴していることは明らかだろう。

魂の個別性とは具体的な記憶表象、言語といった個の領域であるため死後の世界である靖国神社には入ることができないのだ。だから人は死後、合祀され個別性が消去されるのである。

詳しい人のための存在論的総括

もっとここでの議論を本格的に理解したいという人のために少し難しい話をする。

じつは脳間ネットワークの次元を現象学(ハイデガー存在論)では、存在という。
存在とは【ある】ということ。

これに対して死ぬ部分である言語や具体的な記憶表象といった個の領域を現象学では存在者という。
存在者とは具体的な対象(机、りんご)など物のことである。
ちなみに言語学でいうシニフィアンは存在者に対応する。

ところで言語に典型される個別の領域(存在者)とはそもそもどこに起源をもっているのか?
その答えは、脳間ネットワーク(存在、共通感覚)
である。

ぼくたちは普通は、存在者=物が最初にあって、それを認識することで特定の存在者=物が存在する、という仕方で対象を認知すると考えている。

しかしこれは間違っている。少なくとも認識プロセスにおいては物の、ある、ということが先行して、あるという仕方で存在者=物が規定される。

つまり、お腹が減ったという気分があり食欲があって目の前のリンゴは、背景世界から切り離されて、空腹を満たすおいしそうなリンゴとして現前するのだ。

よって認識の上では具体的な存在者より存在が先である。

このことは具体的な言葉(個別領域)より先に、その具体的な言葉を想起させるもととなる、気分、感情(共通領域)が存在することを意味する。

この存在(気分、情動)から存在者(具体的な言葉、個別対象)へと向かう衝動や動きをユング派では魂と呼び、ラカン派では欲望という。

したがって存在と存在者の差異を意味する存在論的差異こそが魂であり、欲望でもあるのだ。

ここで重要なのは、客観的な物に人は到達できないということ。人間は主観からでることはできない、そのため、そもそも客観とは人の仮定の産物にすぎない。

その意味でつねに存在者に存在が先行している。世界の本質であり根源はこの意味で存在、脳間ネットワークにある。

宗教とはじつはこの存在の領域を存在者のレベルに喩え、アレゴリーとして世界の記述を行っている節がある。

したがって、現代人が宗教を解読するには宗教の比喩を比喩として見抜き存在論的差異を識別する現象学的還元(素朴宗教の否定)を行う必要がある。

宗教がいう魂を存在者の次元で素朴に理解してしまうと霊感商法になってしまうのは言うまでもないだろう。現代の宗教と科学との不毛な対決も詐欺も全ては存在論的顛倒、存在を存在者と読み違えることで生じている。

ようするに宗教のアレゴリーをアレゴリーと見抜けず表層的な理解にとどまることで、科学と宗教の不毛な対立、霊感商法詐欺は生じる。

よって、この問題は現象学的読解、存在論的差異の自覚において完全に解決可能である。

ところで西洋の深層心理学や哲学では個人を考えるとき言語の地平、存在者の次元を投錨点に理論化する傾向が強いこうした存在者優位のパースペクティブを特徴とするのが構造主義である。

これを存在の次元から捉えようというニュアンスがあるのが現象学だと言えるかもしれない。かもしれないという言い方なのは現象学と一口に言っても色んなタイプがあるからだ。

ここに西洋的陥穽を脱し、存在の地平(根源的今)より出立する心理学を純化する試みがある。

そんなぼくの試みにおいて存在の王道である情動を現象学的に考察してみれば、悲しみ、怒り、笑いといった情動がそれ自体で自他を分化しシニフィアン(外面)とシニフィエ(内面)を分離する契機を含むことが分かるのだ。

ラカンのような西洋の心理学が見逃している、存在から見た個(存在者)への経路を現象学的に取り出す。その道筋としても今回の記事は読解可能になっている。

ここまでの説明から分かるように、現象学は決して古くなることはない、現象学の可能性は無限大であり、いくらでも新しい論理を創出することが可能なのだ。

ところで存在が先行するとさんざん言ってきたが、存在と存在者の関係はウロボロス的で弁証法的関係にあり自己同一性とも密接に関わる。

こうしたことに興味のある人は木村敏の著作を読むことをすすめる。木村の『分裂病と他者』は今回の議論を深く理解する上でとくにおすすめである。
木村敏の理論や本の詳細については以下のリンクを参照。

また竹田青嗣の『新・哲学入門』は存在(時間)と存在者(空間)の違いを理解する上でも最良の書だと思う。

この記事を読んで気になった人はぜひ木村や竹田の本を読んで欲しい。

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