自己肯定感とは何かを精神分析で解説!

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うたまるです。

今回は自己肯定感とは何かを解説。精神分析を駆使して自己肯定感の本質を取り出し明らかにします。

かつて自己肯定感が低いことをネガティブシンキングと言っていました。それが2019年頃から自己肯定感が低いと言うように変化していった歴史があります。

なのでここでは自己肯定感の起源であるネガティブという言葉の背景を分析し、自己肯定感の本当の意味を推理・解説してゆきます。

というわけで、巷に流布する皮相的な説明ではなく、なぜ自己肯定感が流行りだしたのかを突き止め、自己肯定感の核心を取り出します。

一般的な自己肯定感の意味

世間で解釈される自己肯定感は以下の記事参照


簡単にまとめると、ありのままの自分を受け入れ、自己を自然に肯定し認めることを自己肯定感と呼ぶ傾向が強い。

自己肯定感は理想の自己像と現実の自己像のギャップが大きくそのギャップが受け入れられないときに低下する傾向がある。

一般には幼少期に親からの承認が得られなかったために下がるという、初期フロイトの精神分析における外傷理論とそっくりの解釈が普及・大量消費されている。

ただし論者によって自己肯定感の定義は異なる。

心とは物理的な実体がないので客観的な測定ができない、ゆえに自己肯定感という感情に関する理論は厳密には全て解釈である。もちろん脳科学でも心は原理的に解明できない。

事実、最新の脳科学でもクオリアは全く解明されていないし解明される気配すらない。したがって厳密には自己肯定感に関する理論は全て解釈である。

自己肯定感の起源

一般に自己肯定感ブームが生じたのは2019年頃とされている。

ではそれ以前には自己肯定感とされるものは注目されてこなかったのだろうか。そんなことはない。

それ以前はネガティブシンキングという言葉が広く世間に浸透し、自己肯定感という単語の代わりを務めていた。

「ぼくは自己肯定感が低い!」という日常、しばしば耳にするフレーズがある。
このフレーズは、かつて「ぼくはネガティブ(シンキング)だ!」という言い方をされていた。

したがって自己肯定感が低いという流行語は以前はネガティブシンキング、略してネガティブと呼ばれていたのだ。

以上から、自己肯定感が低いと自己認識することの意味を論じるにあたり、ネガティブから自己肯定感への語彙の変遷が何を示すのかを解き明かす必要がある。

ネガティブから自己肯定へ

僕はネガティブだというとき、ネガティブだという自己認識をすることで、悲観的な自己認識そのものを打ち消し、消極的に自己肯定を画策する意図がしばしばある。

つまり自分は無能だと感じても、ネガティブだからそう感じるだけだと思うことで自分への無能の評価を否定し、無能ではない本当の自分を自己認識の外部に作り出すための言説としてネガティブの標榜が行われることがしばしばあったのだ。

このような意図は、僕は自己肯定感が低い、という自己認識をする場合にもいえるかもしれない。

しかしネガティブという言葉が自己肯定感なる流行語の前身として流行っていた頃は、ポジティブ(自己肯定的)になる方法はあまり積極的に求められていなかった。

対する自己肯定感が低いという自己認識では、自己肯定感の上げ方が探られ、自己肯定感という流行語自体が自己肯定感を上げる方法とセットで流行しているふしがある。

したがってネガティブでは悲観的に歪んだ自己認識ではない本当の自分を知ることは断念されていたが、自己肯定感では本当の自分への一致と到達への要望が潜んでいる傾向があると考えられる。

よってネガティブ時代では到達不可能の彼岸として設定された自己認識が、自己肯定感時代では到達すべきゴールとして設定され彼我を分かつ境界(進入禁止)が消去されているのが分かる。

自己の到達不能とは

ところで、メタ認知だとか自己を客観視する力だとかが世間では空騒ぎされているが、客観的な自己認識など可能だろうか。

もちろん、厳密には原理的に不可能である。自分が何者かなどということは一義的に規定することはできない。主観的にしか規定できず自己や他者の恣意的な価値観に依存することでしか自己評価は成立しない。

また自己認識における自己言及の構造からも分かることだが、人間は時間的な存在であって「ぼくは~だ!」と自己言及することでフィードバックを生じ、言及内容(言及される対象としての自己)と自己自身(言及する自己)とが乖離してしまう。

ようするに、自己の主観的なバイアスのない本当の自分(厳密に客観的な自分)を知るのは不可能なのだ。

このことから自己は自己にとって欠如しているといえる。少なくともラカン派精神分析はそう考える。


むしろ本当の自己がなんなのか欠如し分からないからこそ、本当の自分とは何かを自分の頭で考え欲望することができる。もし自己がなんであるかが客観的にしれたなら、もはや人間に主体性はない。

なぜなら客観的な自己定義を忠実にこなすロボットになってしまうからだ。そんなことになったら人は変わることも主体的に自己について考え自己創造することもできなくなる。
つまり人間主体の自由がなくなる。

自己が何者なのかという自己の意味が欠如しているからこそ、本当の自分について考え自由に自己を創造できるのだ。

このように本当の自分、本来の自分が社会(言語)的な人間存在からは喪失しており、その喪失(欠如)を自覚することをハイデガーは本来的と呼ぶ。またラカンはこの欠如を主体性の根拠である欲望の原因だと規定する。

以上より厳密に客観的な自己認識が不可能であり、本当の自分が自己にとって欠如していること、このことが人間の主体性と自由な自己実現の根拠だと分かるだろう。

ネガティブの到達不能性

さきほどネガティブは本当の自分を到達不可能の彼岸に措定することだと示した。
よってネガティブなる言葉は、たんに自己悲観的という意味の他に、本当の自己をネガティブ(不在)として措定することを示す。

このような自己の欠如を名付けるワードを父の名とラカンはいう。

というわけでネガティブというかつての流行語は複雑で、自己肯定を画策するためにかえって自己を禁止にしていることが分かる。

ある種の自己評価に対する現実逃避の言い訳としての側面を持つネガティブはそれ自体が理想(本当の自分)を、到達不可能な厳密客観(現実)へと葬り去っている

かくして、ネガティブにおいてはまだ辛うじて、自己の欠如は保たれ人間主体の自由は存続するのだ。

しかし、自己がネガティブであるという自己認識そのものには疑問が付されることなく、素朴な客観的事実として自覚されている。
そのため欠如への自覚の不徹底と不十分が観られる。

この意味においてネガティブなるかつての流行語も所詮は現実逃避の言い訳に過ぎないのだ。

自己肯定感と欠如の消失

これまでに自己肯定感が本当の自分への到達を含意しうることを確認した。

もっとも自己肯定感を上げるメソッドを具体的に観ると、絶対的な客観的自己認識の類いは目指されていないようである。

しかし、自己肯定感を上げようという需要には、少なからず本当の自分への到達が含意されていると考えるのは決して無理からぬことではない。

なぜならポストネガティブとして自己肯定感を捉えるならば、ネガティブという用語使用に含意された構造が引き継がれていると考えるのが妥当だからだ。

いずれにせよ自己肯定感ブームでは、多くの場合、自己否定を打ち消す具体的な自己認識への到達が目指されているとみていいだろう。

ネガティブ時代では断念されていた具体的な自己肯定的認識、すわわち本当の自己の認識ないしはその等価物が志向されているのだ。

したがってネガティブから自己肯定感へという変遷を全体的文脈とし、その文脈に照応させる仕方でもって自己肯定感ブームの正鵠をいてみれば、自己肯定感の本質が自己の欠如を抹消し、本当の自分への到達を意味することが分かる。

かくして、自己肯定感ブームが人間主体の解体への自滅的な歩みという側面を秘めている可能性が危惧される。

絶対的な客観的自己認識へと自己主観が到達することは、必然、主観と客観の境界をも融解する。
また現代とは国境、性別、生死、あらゆる境界の消失を特徴とし、その本質は客観と主観との癒合にある。

現代人の主客未分への回帰は、人間主体の根拠たる欠如を消し去り、人間の主体性をなきものとするのだ。

さっこんはポストモダンかぶれのグローバリストによる教育改革とやらで、ますます日本人の個性が喪失したという声が現場の教育者からも上げられている。

つまるところ、こうした主体性、個性の喪失を自己肯定感ブームが象徴していることが危惧されるのである。

このように言うと自己肯定感を求めることを悪く言っていると誤解される方もおられるかもしれないので、言及しておくと、自己肯定感は精神分析的にも必要であるといえる。

したがってぼくは、自己肯定感が低いことを良いこととしているわけでもなければ、自己肯定感を上げることを悪いといっているわけでもない。

実際に自己肯定感を上げる教育を説く専門家の動画などを閲覧していても、良い内容だと感心することもある。

もっとも金目当てで書かれた中身のないエセ科学系の自己肯定本の多さに辟易もしているが。

つまりぼくが言いたいのは自己肯定感を求めたり上げたりすることの是非ではない。

ぼくが言わんとするのは、自己肯定感ブームという現象の背景を推理し、その背景にある本質問題を明かし、そのうえでそれを広く社会に問い、自己肯定感問題の取り組みをよりよいものになるようにすることである。

検索意図を超えて

じつは、ぼくがこの記事に書いた内容は、冒頭で参考記事にあげた記事を書いているときには、考え終わっていた考察だったりする。

参考記事で紹介したリンクを貼った記事を書いているときは、SEO対策のために検索意図を満たすことを考えていたので、ここに書いた本音はあえて記事にしなかった。

現行の検索エンジンのアルゴリズムにおいて、ブログ記事は検索意図を満たさねば、まともに読まれないからだ。

ちなみに検索意図を満たす記事とは、特定のキーワードを入力した人がそのキーワードを含めて検索した目的にかなう内容の記事のこと。

したがってブロガーは検索者の目線に立って検索意図を満たす記事を量産することになる。

よって、かりにエセ科学的なヤバい俗流心理学概念が人気となり大流行すると、それがどんなにエセ科学でヤバい概念でも、その概念を肯定する記事が乱造される。

その危険性を指摘する記事を書いても、そんなものは検索者の意図に反するので読まれない。危険性を指摘する記事を読むのは、もともとヤバい俗流心理学概念に否定的な人だけなのだ。

よしんば、熱心なエセ科学信者に読まれても、自分に都合の悪い情報は全否定されておしまいだろう。

この意味でも検索意図至上主義や記事の大量生産を促す現代のネット環境は非常に危険だといえる。

このような検索意図優先の弊害から、Googleでは陰謀論だとか戦争に関することがら、お金や健康に関するトピックへの投稿は非常に厳しく、専門家などの投稿でないと評価されにくい。

しかし、心理学のような専門家そのものに詐欺師が大量にいるトピックでは、肩書きなどなんの保証にもならない。

立派な肩書きの人がとんでも理論をうそぶくことが日常茶飯事で、誤謬だらけのエセ科学論文まで跋扈する心理学のネット情報はもはやめちゃくちゃというよりほかない。

学問の世界そのものが資本主義に呑み込まれ、エセ科学論文を乱造する事例もある。

学問研究は大学などの研究機関の研究評価の基準などによっても大きく左右される。また臨床心理学の研究は社会制度につよく依存するしロビー活動の影響も強く受ける。

こうした社会的背景や研究機関における政治力学、学問の性質や歴史を度外視に東大の研究だから信用できるという類いの判断は聖書に書いてあるから天動説が正しいというのと何も変わらない。

いい加減に、幼稚な権威主義を脱却しないと大変なことになるがその気配もない。ネットは解釈学の領域においては完全に人気投票で事実が決定する側面が強く、まともな言説や理論は広まらない。

検索意図を全否定するこの記事がキーワード検索上位に表示されることはないだろう。

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