【ネタバレ解説・考察】『ラスアス2』神ゲーの証明!

ゲーム、ラストオブアス2の画像

三周プレーして分かった名作『The Last of Us Part II』に隠された物語の意味を精神分析を駆使して徹底解説!
アビーとエリーに隠された近親相姦願望を軸にストーリーの諸要素の意味が分かる!

さらにラスアス2の嫌われ者、アビーがなぜ嫌われるのかも脚本構造の分析を通じて解明。

ところでラスアス2は典型的なエディプスコンプレックス(父性)の物語になっており脚本家が精神分析を参照した可能性があります。

そのため精神分析で読み解くことで、作中に登場する蛾やファイヤーフライ、光、水などのモチーフを体系的に読解可能となります。

巧むにせよ巧まざるせよラスアス2の物語体系は非常に精神分析的に緻密な作品であることは間違いありません。

結論を言えば、本作はエリーがジョエルを許す物語だといえます。この記事ではそのことが何を意味するのかを含めラスアス2を網羅的に分析。

最後にポリコレ要素などに関する批評をし、さらに蛾や光、水や子ども、病院など本作に欠かせないモチーフも徹底的に分析・解説します。

※ぼくは、ラスアスシリーズは全てプレイ済み、ラスアス2は難易度ノーマルで3周プレイしています。なのでゲーム性に関するレビューもします。この記事を書くために3周目をプレイしました。

ラストオブアス2とは

作品名The Last of Us Part II
ジャンルポストアポカリプス
ゾンビアクションRPG
実存的ドラマ
対応機種PS4・PS5
開発ノーティドッグ
発売日2020年6月19日

「デイズゴーン」や「バイオハザード」などゾンビ系終末世界を描くゲームは昨今、一つの人気ジャンルだが、本作はそんな数多のゾンビ終末系作品群の中でも頭一つ抜けた大傑作といえるだろう。

また本作は思春期、青年期の父と娘との微妙な関係性を巧みに描写し、若者が抱く理想とその断念を巡る精神分析的実存描写が光る。したがって極めて文学性の高い作品と言える。

余談だがラスアス1に最も近い作品を上げるなら「スイートトゥース」というNetflixのドラマがある。またU-NEXTではラスアス1がドラマ化している。

またネット上の噂ではラスアス3の制作も検討されているらしい。

ラスアス2のゲーム性レビュー

ラスアス2のアビー編プレー画像
アビー編序盤のフィールド

ラスアス2はAAAタイトルであり、前作の倍以上のボリュームがある。また難易度は前作よりも高めで、特にアビー編はエリーより高難易度となっている。

そんな本作の特徴の一つはグラフィックの美しさ。最近のAAAタイトルの洋ゲーはどれも美しいが、本作の植物の描写の美しさ、水の表現の多彩さはずば抜けている。

プレイするさいは、ぜひ美しい多彩な植物にも注目していただきたい。

また前作から定評のあるゲーム性はさらに洗練され、より没入感を高めてくれる。
メタルギア的なステレス戦闘や奇襲、各種アクションの選択肢の多さが多彩な戦略を可能としプレイの幅を広げている。

ところで本作の作り込みを語る上で欠かせない要素に音響がある。屋内と屋外では足音や銃の発砲音の響きが変わる。また屋内でも建物によって響きが異なる。

とくにエリー編の序盤にある筒状の塔の中で発砲すると独特の残響が激しく響き渡り楽しい。

そんな音響へのこだわりがすさまじい本作をプレーするさいはゲーミングヘッドホンの装着が望ましいだろう。

本作はグラフィック、音響、ゲーム性、この三つの要素が高い水準で調和することで高い没入感を実現する。

またエリー編ではステレス戦闘に特化した装備、スキルが付与され、対するアビー編では筋肉にものをいわせたパワープレイ特化の装備やスキルが用意される。

これによって二人の主人公で異なるゲーム性を実現しており飽きの来ないゲームプレイを実現している。

しかしながら、本作の最大の特徴と言えば、もちろんストーリー性である。ゾンビ世界で繰り広げられる人間ドラマ、主人公エリーの実存的葛藤の描写といった文学性にこそ本作の表現の全てが捧げられているといって過言ではない。

そもそも本作ではポストアポカリプスという舞台そのものが人間の実存を描き出すための舞台に過ぎず、ゆえにゾンビ菌を作った黒幕が誰か、というような話は全く出てこない。

そのため濁流、プール、海、雨、池、川、泥水など、さまざまな水の表現が凝らされ、物語の進行にともなって世界が水に沈んでゆくフィールド設定は明らかに、主人公の心的なイメージ世界を象徴しており、フィールドは主人公の内面とリンクしている。

本作の高いグラフィックもまたエリーやアビーの心的世界、実存的葛藤を描きだすために捧げられているのだ。

ゆえに本作では象徴的なシーンとして水への落下が執拗に反復される。

エリーのジョエルとの誕生日の短い回想場面だけでも3回以上も水への落下が描写され、いちいち数え切れないほどエリーとアビーは終始、水に落下する。

というわけでゲーム性を求める人にも、ストーリー性を求める人にもオススメのゲームである。
AAAタイトルとして申し分ないボリュームとグラフィックであり、大作ゲーム好きであれば本作のプレーは欠かせないだろう。

ラスアス2の主要キャラ

ジャクソン所属キャラ

ジョエルとトミーの画像
ジョエルとトミー

ジョエルは前作の主人公。前作では運び屋でエリーをファイヤーフライに届けるが、エリーが殺されることを知ってファイヤーフライを壊滅させる。そのさいアビーの父ジェリーを殺害。
本作では冒頭でアビーに惨殺される。

トミーはジョエルの弟。ジョエルの仇討ちのためジョエル襲撃実行犯を殺してゆくがアビーに不意打ちをくらい障害を負う。

エリー、ジェシー、ディーナの画像
左:エリー、真ん中:ジェシー、右:ディーナ

エリーは本作の主人公の一人で19歳、5年前の前作では13→14歳。ラスアス2冒頭でディーナと恋仲になる。ジョエルをアビーに惨殺され復讐の旅へ。

ジェシーはディーナの元カレでアジア系のナイスガイ、本作で一番好感がもてる男。エリー編ラストでアビーに射殺される。

ディーナはユダヤ人ながらバイセクシャル、ジェシーの子JJを懐妊し、後にエリーとJJの3人で同棲するもエリーの復讐心に耐えきれずエリーの元を去る。

WLF所属キャラ

アビー、オーウェン、メルの画像
アビー、オーウェン、メル

アビーは旧ファイヤーフライメンバーでファイヤーフライ消滅後、ワシントン解放戦線WLFに所属する。アイザックのお気に入り。物語冒頭、父ジェリーの仇であるジョエルを惨殺する。
圧倒的バルクを誇る本作のもう1人の主人公でもあり、オーウェンの元カノ。
作中ではメルと交際するオーウェンと不倫してしまう。衝動的でまるで一貫性のない性格。

オーウェンは一見して良識的だが不倫は文化的なノリがあり優柔不断。アビーの父ジェリーから医術を学んでいた。ジャクソンにいた旧ファイヤーフライのユージーンからのたれこみでジョエルがジャクソンにいることを知り、アビーにその情報を流した。

メルはオーウェンの交際相手でオーウェンの子どもを妊娠。過去にアビー父から医術を学んだため治療が得意。アビーとは親友だったがオーウェンの不倫をきっかけに関係は完全に破綻する。

3人はジョエル惨殺の実行犯メンバーでもある。この他にマニーやノラなどの旧ファイヤーフライでWLFのジョエル惨殺実行犯がいるが、全く重要なキャラではないので割愛。

アイザックの画像
アイザック

アイザックはWLFの現リーダー。セラファイトと戦争状態にありセラファイトをスカーと呼び、スカーの全滅作戦を実行に移す。冷酷な合理主義でスカーを拷問したりスカーの子どもを殺すことにもためらいがない。

一方で身内に甘く、お気に入りのアビーに甘い。アビーとっての父親的ポジション。ヤーラに射殺される。

その他キャラ

ジェリーの画像
ジェリー

アビーの父親ジェリー。5年前にセントマリー病院でエリーの脳を取り出してワクチンをつくろうとしていたファイヤーフライ幹部の医者。ラストオブアスのラストでジョエルに射殺される。

レブとヤーラの画像
レブとヤーラ

2人は宗教共同体セラファイトの子どもで姉妹。
レブはトランスジェンダーで生物学的には女性、性自認男性。男性化前の名前はリリー。
2人ともスカーなので顔に傷がある。WLFが休戦協定を破ったことでWLFとは犬猿の仲。

レブが宗教の戒律を破り女性なのに坊主頭にしたため処刑されかけるも、2人は偶然にアビーに救われたため、アビーの命を助ける。ヤーラは本編の途中、アイザックを殺したことで蜂の巣にされる。

レブはラスアス1のエリーポジションのキャラ

マーリーンの画像
マーリーン

マーリーンはファイヤーフライの指導者。5年前にジョエルに殺害された。


ラスアスシリーズあらすじ

ここではラスアス2のストーリーを理解するにあたりおさえておく必要のあるラスアスシリーズの物語の梗概を紹介する。

ラスアス1のあらすじ

プロローグ

ジョエルは愛娘サラと暮らす。

そんなある日、人に感染し人をゾンビにするキノコ菌のパンデミックが発生し、街は大混乱となる。

ジョエルは弟トミーとともにサラを連れて車で避難するも他の車と衝突し、街から徒歩での脱出を試みる。

ジョエルとサラはゾンビだらけの街をかけ、ハイウェイへと向かうも道中で軍人に見つかり発砲される。このことでジョエルは娘サラを喪い絶望する。

本編

パンデミックから20年後。文明は崩壊し食料配給も減少、政府に変わり軍がアメリカを支配。
ジョエルはブラックマーケットの運び屋として暮らす。

そんなある日、軍に対抗し政府の復興を掲げるファイヤーフライから14歳の少女エリーを運ぶことを依頼される。
エリーはゾンビ菌に免疫があり、かまれても感染しない特別な少女。

そのため設備の整ったファイヤーフライ本部(ソルトレイクシティ、セントマリー病院)へエリーを輸送し、エリーからゾンビ菌の抗体を抽出、培養する計画だった。

ジョエルとエリーは幾多の困難を乗り越え、アメリカを東海岸から西へと横断しセントマリー病院へとたどり着く。

ところが、ジョエルはたどり着いた病院で、エリーの脳を取り出してワクチンをつくることをマーリーンから聞かされる。

かつて守り切れなかった娘サラの分身であるエリーを守り過去へとリベンジすべく、ジョエルはマーリーンや病院のファイヤーフライの戦闘員と戦い射殺してゆく。

激戦を切り抜けセキュリティを突破し、手術室に入ると医師ジェリーを殺して、麻酔で眠るエリーを奪い逃走。

ジョエルは目を覚ましたエリーに、「ファイヤーフライはワクチンをつくるのを諦めた、免疫は役に立たなかった、他にも免疫のある人がいたが結局ワクチンは作れなかった」という趣旨の嘘をいう。

かくして、ジョエルはかつて守れなかった娘を、今度は守ることに成功するも、その代償に嘘と殺戮という大きな十字架を背負う。

ラスアス2のあらすじ

プロローグ

前作から5年後、ジョエルとエリーはワイオミング州ジャクソンの生存者コミュニティで安定した生活を送る。

前作でワクチン作りに狂奔した医師ジェリーの娘アビーと、その仲間たちであるファイヤーフライの残党は、ジョエルへの報復に奔命する。

そんなアビーらファイヤーフライの残党は私兵集団であるワシントン解放戦線WLFという勢力に所属しつつジョエルの探索を続けジョエルがジャクソンにいることを突き止める。

アビーはジャクソン周辺まで到着するも、ゾンビの群れに襲われ死にかけるが偶然に近くを哨戒していたジョエルとトミーに助けられる。

トミーはアビーに自分たちの自己紹介をする。このことでアビーは自分を助けた男がジョエルだと知り、近くに陣取った仲間がいるコテージにジョエルらを案内する。

アビーはそこでジョエルをゴルフクラブでたっぷりと拷問して殺す。

エリー編

エリーは連絡のないジョエルとトミーを捜索し、ジョエルの拷問現場を発見、目の前でアビーにジョエルを撲殺される。

トミーはジョエルの意趣返しのため単独、アビーらを探しにジャクソンをたつ。

エリーも一晩遅れてディーナとともに復讐の旅に出る。さらにエリーらを助けるべくジェシーも後を追う。

トミーとエリーは紆余曲折を経て、ジョエル襲撃の犯行グループを殺してゆく。

かくしてアビー以外のジョエル襲撃犯を全員殺すも、今度はレブをつれたアビーに命を狙われ襲撃される。
この襲撃で合流していたトミーは障害を負わされジェシーは殺される。

アビーに見逃されたエリーとディーナは辛うじて一命を取り留めジャクソンに帰還。

アビー編

ジェリーの仇討ちに成功したアビーはWLFに心酔し、WLFリーダーアイザックのお気に入りとなる。

WLFは宗教集団セラファイトと敵対しており、アビーはセラファイトをスカーと呼び殺害対象として憎悪。

ところが偶然セラファイトの子どもで、戒律を破り男装したため命を狙われるレブとヤーラに出会い、レブらを守るためWLFと敵対。

アビーはレブのためにWLFを裏切りスカー含め多くの人を殺してゆく。

ファイヤーフライの仲間をエリーとトミーに皆殺しにされる。そこでエリーの場所をつきとめ不意打ちでトミーを戦闘不能にし、ジェシーを射殺、圧倒的バルクにものをいわせ丸腰でエリーをしとめ、トドメをさそうとするもレブに止められ、その場を去る。

アビーはレブとサンタバーバラにあるという新生ファイヤーフライを目指す途中でラトラーズというならず者勢力に捕まり磔にされる。

エピローグ

エリーとディーナはジャクソンに帰還し人里離れた一軒家でアーミッシュ的生活を満喫するも、エリーはジョエル惨殺のフラッシュバックに悩まされる日々を送っていた。

そのためディーナの制止を振り切りエリーは一人ふたたび復讐のたびにでる。

そしてカリフォルニア州サンタバーバラで磔にされたアビーとレブを発見する。

エリーはアビーの拘束を解きアビーと戦う。

しかしレブという少女(トランスで少年化)をつれて旅をしてきたアビーを観て、そこにかつての自分とジョエルの姿を重ね、アビー殺害を諦める。

アビーらは船で彼岸へと去って行く。

エリーはアビーとの戦闘で指を喪い、ジョエルから授かったギターを弾けなくなる。家に帰ると恋人のディーナもエリーのもとを去ってしまっていた。

ラスアス2の基本構造

本作の物語の最大の特徴は、その脚本がある構造を中心につくられていることである。

ここでその構造を明らかにしよう。

エリー=アビーの三角関係

本作の基本構造はエリー=アビーにある。

まず、エリーは父親代わりのジョエルを殺されて報復の旅に出る。対するアビーも父ジェリーを殺され復讐のたびに出る

ともに父を殺され復讐する娘といえる。

次に注目すべきは両者の三角関係アナロジー。
ジェシーとディーナは最近まで交際関係にあったが、作中ではエリーとディーナが交際関係に発展し同居にいたる。
レズビアンのエリーにとってジェシーは恋人の元カレ。

対するアビーはオーウェンの元カノであり、オーウェンは作中ではメルと付き合っている。

エリーの三角関係は女性2(うち妊婦1)男1、アビーの三角関係も女性2(うち妊婦1)男性1である。

このことからエリーもアビーもともに父を殺され、その仇討ちに奔走し同じような恋愛の三角関係にあるキャラクターとなっている。

またアビーにジョエルを殺されたエリーは、完全に過去のアビーに重なっている。

さらにアビーはフル武装のエリーと映画館にてタイマンをはりステゴロで勝利するも見逃しているが、エリーもまた海岸で干からびたアビーとタイマンをはって勝利するも見逃している

これらのことはアビーがエリーの分身であることを示す。

妊婦ディーナメル
妊婦の
子の父
ジェシーオーウェン
もう一人の
交際相手
エリーアビー
三角関係の対応

アビー=ジョエルその1

じつはアビーは単にエリーの分身であるだけではなくジョエルの分身にもなっている。
そこに本作の脚本構造の妙がある。

ジョエルを始末したあと、アビーがレブに出会いレブをつれるのは、ラスアス1でジョエルがエリーをつれて旅をしたことに対応。

またアビーが作中で、レブのために死闘を繰り広げ、古巣のWLFやセラファイトの人たちを殺戮するのは、ラスアス1でジョエルがエリーのためにファイヤーフライを皆殺しにしたことに対応している。

かつてのファイヤーフライがエリーという希望の光(理想)を求めて活動したように宗教団体セラファイトもまた宗教的救済の希望を信仰し活動する組織であり、旧ファイヤーフライ=セラファイト、旧エリー=レヴの対応が成り立つ。

最終的にアビーはレブをつれてサンタバーバラにある新ファイヤーフライを目指すため、この点もファイヤーフライを目指してエリーと旅をしたジョエルと通じる。

物語ラストでエリーがアビーを見逃すのも、かつての自分とジョエルの姿をアビーとレブに投影したからであり、旧ジョエル=アビー、レブ=旧エリーの対応は明白と言える。

作中品ラスアス2ラスアス1
運ぶ父アビージョエル
運ばれる子エリー
運び先新ファイヤーフライファイヤーフライ
アビーとジョエルの対応表

前作の主人公の物語を新主人公で反復するシナリオはMGS2のパクリであり、本作はステレス戦闘や2人の主人公などふくめMGS2の影響を強く受けている。

アビーが嫌われる理由

本題に入る前に、アビーが嫌われる理由を解説。本題ではないので興味ない人はこの項目は読み飛ばしてください。

構造優位の脚本構成

じつは本作の脚本がエリー=アビーとアビー=ジョエルという構造を骨子に肉付けされたものであると分かると、なぜアビーが多くのプレイヤーにウザいと思われたのかがはっきりする。

まず、エリーはレズビアンでディーナはバイセクシャル、ジェシーはヘテロセクシャルで、この三人が三角関係となる。それゆえにこの三角関係はギトギトの関係にはならない。

ところが、この三角関係をトレースしたアビー、メル、オーウェンの三角関係は女性2と男性1のヘテロセクシャルになるため昼メロ的な不愉快でドロドロした関係になっている。

アビー編冒頭の5年前の回想場面のプレーで見れる資料を読むとアビーとメルが元は親友のような関係だったと分かる。そのため本編でメルに浮気がバレて仲違いするシーンにはあきれる。

爽やかなエリー組の三角関係とドロドロ不愉快なアビー組の三角関係のコントラストはなんとも言えない。

とくにメルはオーウェンと不倫していたアビーなど勝手に殺してくれと言わんばかりにエリーにアビーの居場所を漏らしてかたをつけようとするため、なんとも不愉快な連中になっている。

また、あまりにも形式的にジョエルとエリーの関係をアビーとレブにトレースしたため、アビーというキャラが支離滅裂で一貫性のない感情だけで動くゴリラのようになってしまったきらいがある。

つまりジョエルがエリーたった一人を守るために、大量殺戮をなすことの説得力は、ラスアス1のプロローグで娘サラを守れなかったシーンによって保証されている。

かつて守れなかった娘を守る過去の取り返しであるために、エリーを守る判断に絶対的な説得力が生まれていたのだ。

ところがアビー=ジョエルという対応構造をつくるために、強引に形式をトレースした結果、アビーがレブを守るため、WLFを殺しまくることに説得力を持たせる要素が欠けている。

ジョエルにおけるサラ喪失の物語に相当するものがアビーの物語には全く抜け落ちているのだ。


その結果、スカーのガキは殺してよしという態度がとつぜん翻意してレブを守りだしたり、いきなり浮気したり、場当たり的な感情にのまれて自己中心的にふるまうゴリラにしか見えない。

アビーは回想シーンにおけるオーウェンとの会話で、セラファイトはクズで始末すべきという旨の発言をし、マニーとの会話でも捕虜のセラファイトを見て仕返し(拷問)をこいつらにしたい、というサディスティック発言を楽しむシーンがある。

そればかりかメルが過去にマニーがセラファイトの子どもを殺したことを攻める一場面ではアビーは因果応報だといってセラファイトの子どもの殺害を擁護している。

作中アビーは、レブとであって豹変、心酔していたWLFとアイザックを裏切ってアイザックを死においやったり、やってることと言ってることが支離滅裂で一貫性が全くない。

以上からアビー=ジョエル、アビー=エリーの対応構造ありきで、その構造にあわせて具体的なエピソードを後から雑に肉付けしたことが、アビーというキャラクターから一貫性を奪い、それが嫌われる要因となっていると思われる。

いわば構造優位の脚本制作における内容面の犠牲という、しわ寄せがアビーという一人のキャラに集約されてしまったことが嫌われた最大の原因ではなかろうか。

コードギアスでは扇というキャラが嫌われているが、その理由はアビーが嫌われる理由と同じだと考えられる。どちらも場当たり的な感情に弱く、今この瞬間の自分の感情に流されてコロコロと変節する点が共通している。

構造上の欠点とアビー

ラスアス2はアビー=ジョエルの構造のために過去のジョエルがファイヤーフライを惨殺したことと同じことをアビーがWLF相手にやることになる。

そのため冒頭で、仇のジョエルを拷問することに好意的なプレイヤーですら、WLFを殺し出すところでアビーに感情移入することが困難になってしまう。功利主義に傾倒するワクチン信者でもないと道理的にはアビーに共感しにくい。

しかもレブのためジョエルと同じことをすることで、ジョエルを許し理解する構造になっており、その許しがエリーがジョエルを許すことに連鎖、対応している。

よってエリー=アビー、アビー=ジョエルの強力で複雑な関係構造が不可避的にアビーへの同情や感情移入を困難にしているのだ。

WLFの不愉快さ

アビーアンチの多さの要因を探るに当たりWLFの不愉快さは無視できない。WLFはセラファイトと戦争状態にあり休戦協定を破ったのはWLF。

WLFのボス、アイザックは拷問狂でWLFは子どもでも殺す。またエリー編ではWLFが誰これかまわずに侵入者を殺害する野蛮な連中であることが示される。

ワクチンの数学的無意味さ

WLFやセラファイトがゾンビよりも圧倒的に強く、もはやゾンビがたいした脅威に見えないこともエリーを犠牲とすることの正当性を喪わせている。

単純計算で生存者一人あたり一体以上のゾンビを殺すことができれば、かりに生涯ゾンビ化率100%であってもゾンビの絶対数は減り続ける計算になる。実際には戦死する人、感染初期に自殺する人が大量にいるので生涯ゾンビ化率はぐっと下がる。

またジャンクソンの様子からおそらく、食料など物資の生産力に合わせて出生数がコントロールされていると思われ、主要な生存者勢力は、非常に安定したコミュニティを形成し彫刻や楽器演奏を楽しむ余裕もある。

そのためジャクソンやWLFなど安定したコミュニティにおいてゾンビが原因で持続的に出生数を死亡数が大きく上回る事態はまず考えられない。

さらにディーナとエリーの会話から1度の戦闘で一人あたり十体を超えるゾンビを全滅することもあると判明する。

少なく見積もって戦闘員一人あたり一生涯で平均1000体はゾンビを殺しているのではなかろうか。ディーナはたった1度の戦闘で20体のゾンビを殺したことを自慢している。

かりに戦士一人、一日平均1体でも3年で累計ゾンビ撃退数は1000体を超える。

すると、ゾンビの絶対数は急速に減り続ける計算になる。かりに北米大陸の総人口約6億人のうち1%の600万を生存者とし、残り99%の5億400万をゾンビとする。

さらに生存者のうち10%の60万人を戦闘員として数え、20年で戦士一人あたり平均1000体のゾンビを駆逐するとしよう。

すると20年後にはゾンビの累計駆逐数は1000×60万=6億となる。99%ゾンビという絶望下でも20年たらずでゾンビを殲滅できる計算だ。

はっきりいってワクチンなど数学的にはまったく必要ないし、たいした意味を持っていない。

ワクチンをうてばゾンビに襲われなくなるならいざ知らず、実際には免疫があっても関係なくゾンビに襲われ殺されるため、ワクチンのメリットは限られる。

ゾンビの群れに襲われたりシャンブラーの酸を食らえばワクチンで免疫を手にしても即死は免れない。

ワクチンがあれば、たしかに前線で戦う戦闘員には頼もしいだろうが、それで人類が救済されるという話ではない。ワクチンがあったからといってゾンビを全滅する期間はほぼ変わらない。

ゾンビの脅威を感じない設定崩壊

WLFは大量の軍事車両を保有し、軍用ジープで各地に派兵する余裕がある。

怠けるWLF兵士の画像
任務中にPS Vitaに耽るWLF

任務中に兵士が携帯ゲーム機PS Vitaにしっぽり耽る様はゾンビがもはや脅威ではないことを印象づける。

またWLFは大規模なジムを完備。アビーの肉体は、日々の任務をこなしながら筋トレして到達できるレベルのバルクを逸脱している。

ラストのディーナとエリーが人里離れた広大な土地で営む同棲生活は既に人類がゾンビから土地を取り返しつつあることを印象づける。
というより作品描写が矛盾していて世界観がさっぱり分からない。

このガバガバな世界観ではアビー親子のワクチン正義論にますます感情移入しにくい。

ワクチンの怪しさ

ファイヤーフライは政府の復興を掲げる組織。

よって奇跡のワクチンによって大衆の支持を一挙に高め、統制を失った新時代に統治権力たる新政府として君臨するシナリオだったとしか思えない。

もちろん脚本家はワクチンに関する数学的なおかしさなど考えていないだろうが、ファイヤーフライは復興のシンボルであり導きの光としてワクチン(エリー)を扱っていたふしがある。

ワクチンが政治的な神輿であれば、ファイヤーフライ(アビー達)への同情ができなくなってしまう。

ラスアス2の物語と基礎

本作の物語を理解する上では上述したアビー=エリー、アビー=ジョエル、レブ=過去のエリー、という構造の把握を軸に物語を分析する必要がある。

以下ではこの基本構造を軸に物語の意味を読解する。

エリーの理想

本作の理解に欠かせないのがエリーの理想である。

エリーは自らの免疫に意味を求めており、自己犠牲によってワクチン開発に寄与し人類の救世主となることを理想(光)としていたふしがある。

この理想はもちろんイエスキリストが自己犠牲によって人類を救世することに対応する。後の項で解説するが、アビーが磔にされているのもイエスキリスト(理想)のメタファーである。

そしてそんなエリーを欲望し、理想のため殺そうとしたのがアビーの父ジェリー
したがってジェリーが手術室でエリーにオペするシーンは精神分析的には父娘の近親相姦のメタファーになっている。

エリーにその理想(近親相姦・救世主)を断念させ禁止にしたのがジョエルである。この禁止は父娘の近親相姦の禁止を意味する。

エリーの救世主願望(理想)は父にオペされることに結びつき、エリーの理想が近親相姦願望として描かれていると分かる。

ちなみに本作で禁止をかしたジョエルの罪を許せず恨み言をいうエリーの態度を精神分析では去勢の岩盤という。

理想とは

ここでは理想について簡単に補足する。

精神分析の理想と近親相姦についての詳しい解説は以下の記事参照

まず理想とはそれが現実には実現していないものであり、その意味で欠如している。
たとえば男女平等が理想として掲げられるためには男女平等が現実には実現していない必要がある。

すでに完全に実現しているものは当たり前だが理想(欲望)の対象にはならない。
したがって求められる理想とは、欠如していなければならない。

逆にいえば、理想とは全き完全性であり、欠如なき完璧な存在だといえる。

現実が完璧であれば理想を求めることはできない、そのため救世主のような超越的で究極の理想は、現実では断念されねばならない。

もし究極の理想が達成されれば、もはや人は何も望むことができなくなり主体は末梢し死ぬことになる。つまり理想が完全に達成されてしまうと人は燃え尽き症候群になってしまう。飛んで火に入る夏の虫のように。

理想とはそれが実現しないことによってこそ理想であり、人間に生きる目的と主体性をもたらすといえる。

ではそんな主体性の根拠となる理想の起源とはなんだろうか。

理想の起源と近親相姦とトラウマ

やや長くなるが、ここの説明の理解はラスアスの理解の中核となる。逆にここの理屈さえ分かれば本作の諸要素を一挙に理解可能。

(※精神分析における父娘相姦は込み入っており、女性と男性における疎外とよばれるプロセスの違いや乳児期の享楽の多寡の差によって理論化される)

詳しくは上記参考記事リンクないしは以下の記事参照

精神分析では理想の起源を母子一体の状態と父によるその禁止にみる。

つまり最初、子どもは母子一体の満足感にあるが、父による母子一体の禁止による乳離れや、母の不在を通じて母子が切り離される。

この父がかす言葉による母子一体の禁止を疎外という。

父の禁止により子どもは、禁じられた母子一体の満足を求め、禁止により生じた母の不在(欠如)をうめるため、母親の欲望の対象を探り、母の欠如を埋める欲望の対象になろうとする。

かくして子どもは母の欲望とは何だろうかと主体的に考え、他者の欲望を欲望することで主体性を手に入れる。

母親が子どもの前から消えるとき、それは母が子ども以外の社会的な何かを欲望してのこと。

ゆえに子どもは母の唯一の関心・欲望の対象に戻ろうと母親の社会的関心・欲望を探り(欲望し)言葉を覚える。

この母の欲望(欠如、理想)を探る主体性こそが子どもの主体の誕生となる。

このとき子は母の欲望の秘密を握るのは父だと察し、さらに父の欲望を探るようにもなる。

ここで娘の場合、同性の母を恨み、父の欲望の対象になろうとする。父の子を産むことで自身の欠如(母の欠如・ファルス)を埋めようということ。

これが精神分析が仮定する父娘の近親相姦願望。

大事なのは、父の欲望(欠如)を埋める完全な対象となることは、救世主などの完全無欠の理想像に一致することと同じだということ。

また近親相姦のような肉体による直接無媒介的な欠如なき一体化への願望は、社会的・言語的なレベルでは救世主などの超越的存在となることに通じる。

ここで父の欲望を完全に満たす完璧な対象(子ども)を想定しようするとその子は父の理想像と常に一致していることになる。

こうなると父の理想とは何か、と主体的に考える契機が消されてしまう。
つまりある種、父の言いなりに等しくなりロボットと化し主体性が死んでしまう。

かくして父の理想に完全に一致する欠如なき欲望の対象(理想)となることは、主体としての自己の死を意味するゆえトラウマとなる。

エリーでいえばジェリー(父)のワクチン開発という理想に完全に一体化することはオペされて殺されることを意味するのもそのため。

死=近親相姦=究極の理想(光)=トラウマ

この意味においてトラウマとは、理想の実現であり、理想(光)とはトラウマなのだ。

近親相姦願望が人類にとってタブーであり、トラウマと化しているのも、それがこの意味での一体化の禁止における主体の誕生のため。

つまり独立した個としての子どもの誕生は親との一体化の禁止よって、親から分離することで可能となる。
それゆえに直接的・生物学的に一体化する行為である近親相姦は禁止される必要があるのだ。


というわけで、エリーがラスアス1で、救世主的な理想へと一致するためアビーの父にオペ(近親相姦)されることを願望したが

これは救世主的な欠如なき理想に固執することが父との近親相姦願望にリンクしていることを示すと考えられる。

また父ジェリーはファイヤーフライの幹部であり、ファイヤーフライが欲望した光(理想)がエリーだったことを思えば、ファイヤーフライそのものがエリーにとっての母であり父ともいえる。

アビーとは

以上の理想と父の禁止をめぐる近親相姦、父娘一体のタブーという基本構図が分かると、一気に本作の物語を紐解くことができる。

そこでまず注目したいのがアビー。

鏡像としてのアビー

エリーとJJの鏡像の画像
エリーとJJ:鏡像段階を示す

アビーがエリーの分身であることは既に示したが、正確にいえばアビーはエリーにとっての鏡像であり兄弟(姉妹)である。

鏡像とは他人を介して捉えられる自己の理想像のこと。
上の画像でいえばJJがエリーの承認を介してえる自己の鏡の像。あるいは他者(兄弟)の姿に投影された自己自身。ちなみにJJは鏡像段階(生後6ヶ月~)にあたる。

鏡像とは言うなれば、自己の理想像であり、エリーにとってのアビーに相当する。
たとえば同性のアイドルに憧れる人にとっては、そのアイドルが鏡像になる。また鏡像は初期においては兄弟に観られるような嫉妬競合的な関係となる。

この競合関係を想像的関係と呼ぶ。この想像的な嫉妬ライバル関係があってその先でライバルが鏡像として憧れの対象へと変化。

またラスアス1時点では逆にアビーにとってエリーが鏡像(理想自我)風になっている。
というのも父ジェリーの欲望の対象はエリーであり、父の近親相姦願望の対象として選ばれたのがエリーだから。

エリーとアビーはお互いに父をめぐる鏡像的ライバル関係にあるため、仲が悪い。

アビー=ジョエルその2

ここではアビーがジョエルを殺していることに注目する。
するとジョエルの殺害は父との近親相姦のメタファーだと分かる。かくして父との近親相姦(殺害)という理想を実現したアビーは、エリーにとっての歪んだ鏡像(理想像)となる

(※厳密には本来の鏡像とは社長とかアスリートといった社会的なイメージのこと)

長時間の拷問の激しさと享楽は、まさに性行為のメタファーとしてふさわしい。アビーは明確に禁止を犯し一線を超えて近親相姦的な理想(オーガズム・享楽)へと到達したのだ。

また以上から、アビーの復讐はライバルのエリーを選んだ亡き父ジェリーへの復讐という色彩を強く帯びている。

いずれにせよアビーはジョエルを殺すことで、ジョエルと一体化し、父そのものに同一化したといえる。

エリーのトラウマと罪悪感

ジョエルによる父ジェリーの殺害は近親相姦の禁止に相当し、エリーからジョエルを奪い禁止にしたアビーもまたエリーにとって父の禁止という意味をもつ。

さらにジョエル殺害が近親相姦のメタファーとすれば、それは父の禁止(ジョエルによるオペの中断)によって抑圧された願望(理想・近親相姦)であり、その意味でアビーによる惨殺現場の目撃は自己の抑圧されたトラウマ(近親相姦の願望)を覗くことに等しい。

したがってエリーにとってアビーとは抑圧された願望(理想像)であり、それゆえトラウマの核でもあるのだ。
つまりジョエル殺しを楽しむアビーはエリー自身の抑圧・禁止された願望である。

エリーがPTSDっぽくなり戦争神経症のように外傷体験を悪夢的に反復するのもジョエルの殺害が近親相姦願望にからむ根源的な願望(トラウマ)だから。

精神分析が教えてくれるのは人にとってもっともキツいトラウマはそれを密かに望んでいることによる。

ここで物語終盤にエリーがJJと羊小屋に羊を誘導する場面でのエリーのトラウマのフラッシュバックを思い出して欲しい。

このフラッシュバックではジョエルはエリーに助けを求めていて、エリーがそれを助けられない様子が描写される。よってエリーが罪悪感に支配されていることが分かる。

罪悪感というのは、禁止され抑圧されたトラウマを望んでいるからこそ生じる感情だと精神分析では考える。
たとえば、見苦しい恥知らずな願望が自分にあって、それを自覚すると恥ずかしくなったり、罪悪感を感じることを考えるとこのことは誰にでもすぐに納得できるだろう。

よってアビーを介して自身の抑圧された願望があらわになったことが、この外傷が罪悪感としてフラッシュバックすることの理由だといえる。

このような禁止(抑圧)を巡る罪悪感をもつことを神経症という。神経症というと病気のような誤解をする人がいるが、神経症とは深層心理学(ユングや精神分析)ではノーマル(近代主体)を示す。

よってエリーは神経症の症状に悩まされているのだ。

ジョエルとエリーのギター

ジョエルは精神分析的に観て、エリーの父親として申し分ない存在といえる。

ジョエルはエリーに近親相姦的な父娘一体を禁止にし、その代わりに自分の夢(欲望)を伝えている。
ジョエルはミュージシャンを目指していたことがありギターの演奏が得意であり、エリーにもギターを教えた。

また、エリーは宇宙飛行士を欲望し、それをジョエルに告げている。

このことはジョエルからの承認(父娘結合)を近親相姦にかわり社会的な象徴(ミュージシャン、宇宙飛行士)として求め、間接的にジョエルとつながることを示す。

このような直接性を断念し、率先して間接的な社会的象徴に欠如した理想を求めることを分離という。この分離を経ることで人は言語を話す主体として社会的な存在となるのだ。

既に持っている物は欲せないため、父ジョエルが欲望を社会的象徴として語ることは、ジョエルの欠如を示すことになる。この欠如は近親相姦の禁止にも相当する。


蛾、光、眼、子、水のシンボリズム

エリーの回想、アポロとエリーの画像
エリーの誕生日の回想、アポロ

本作では蛾、目、光(ファイヤーフライ)、子ども、水中への落下がシンボリックに扱われる。ここではこれらシンボルの意味を精神分析的に紐解き本作の理解の助けとする。

火やゾンビ(ラットキング)、病院についてのシンボリズムは別の項目で解説。

ファイヤーフライと光(理想)

まずは以下の撮影した参照画像をごらん頂きたい。

参考画像①:博物館の落書きの画像
参考画像①
参考画像②:博物館のファイヤーフライの落書きの画像
参考画像②
参考画像③:エリーの日記、ファイヤーフライのマークが蛾に変わる画像
参考画像③:日記

どちらの画像もエリーの誕生日祝いの回想シーンでの博物館の落書き。

恐竜(原初無意識)と上階にある宇宙飛行士(自我意識)の展示をジョエルと楽しんだ後、高所から水に飛び込み、エリーは単身、薄暗く不気味で不穏当な動物の博物館(無意識)へと忍び込む。

もちろん、この暗闇に包まれた不気味な博物館は、エリーの無意識のメタファーである。水(無意識)へと落下するエリーは、まるで夢分析をするように自我が無意識へともぐりその水準を深める様を表象している。

エリーは無意識(イド)の闇を自我の明かり(懐中電灯)でともし、抑圧された自己の願望を探ってゆく。
無意識を表象する博物館のいたるところに陰惨な殺戮と恨みの言葉が綴られる。

そのラスト二つの落書きが参考画像①「there is no light 光などない」からの②「LiARS (ファイヤーフライは)嘘つき」である。

ファイヤーフライに自己の理想を求めたかつてのエリーは、ファイヤーフライがワクチンを諦めたという嘘をジョエルから聞かされている。

したがって、光がないと知ったのはエリー自身ととれる。この言葉から自分が完全無欠の光(理想)ではないことに対する複雑な感情が見て取れる。

また「嘘つき」というのは光(理想)があると思わせたファイヤーフライへのエリーの恨みであると同時に、抑圧してきたジョエルへの疑念を示すと解釈可能。
嘘つきは光の欠如を示す言葉である。

光(理想)への執念とその断念への恨みが込められた落書きは、エリーの禁止された理想への隠れた願望をしめし、それは直接の一体化を禁止するジョエルへの恨みとリンクしている。

また最後の「嘘つき」の落書きはジョエルも目撃している。ここにはジョエルがついたエリーへの嘘の罪悪感が込められているのは言うまでもない。

このカットは精神分析的な深度のある重要な場面と言える。

いずれにせよ精神分析的には理想の光とは欠如しており、それは残照に過ぎない。
光それ自身は光を求めることができない、理想は欠如していなければならない。

参照画像③ではファイヤーフライのマークが蛾へと変化しているのが分かる。ファイヤーフライは光そのものとしての蛍ではなく、光を求める蛾であること、したがって光を欠如した存在であることが示される。

またマークの蛾への変化は、ファイヤーフライがエリーを欠如したこと、つまりエリーの主体がファイヤーフライ(母や父)から分離したことを示す。もちろんこの分離はジョエルがオペ(近親相姦)を禁止にしたことで生じた。

よって参考画像①や②にあるファイヤーフライに対する光などない、嘘つきという恨み節はジョエルに近親相姦を禁止されたことへの恨みなのである。しかしこの禁止のおかげで欲望する主体は誕生できる。

参考画像①でもファイヤーフライのことを示す落書きの横に蛾が展示されており、ファイヤーフライが蛾に過ぎないことが分かる。

光と子ども

ファイヤーフライ以外にも本作では光がキーワードとなる。

たとえば、これまでスカーに容赦なかったアビーが変わりスカーの子ども(レブとヤーラ)を守ったことに対して、オーウェンが容赦なかったアビーについて「光を探さなくなったのかもな」というシーンがある。

欠如(解散)したファイヤーフライという光を求め、サンタバーバラを目指すオーウェンに対して、アビー編冒頭のアビーは、ファイヤーフライなんて関わりたくないといっているシーンがある。

そのためこのセリフでの光はファイヤーフライを示すともとれるが、直接的には、レブとヤーラ、2人の子どもを示しているととれる。

子どもとはユング心理学では自己の新たな可能性の象徴として、その投影を受けるとされる。
そのためアビーが死にかけていたレブやヤーラを守ることはアビー自身の可能性を守り、アビーがあらたな可能性、すなわち自己変容(死と再生)を実現することを示す。

またレブがセラファイトの戒律を破り頭を丸めて男装したことでセラファイトから命を狙われセラファイト(母)から分離したように、アビーもスカーの子どもとつるみ、WLFのルールに違反してWLF(父アイザック)から分離する。

(※レブは母親を殺している)

そのためレブはアビーの光を求める主体の誕生を象徴しているととれる。ここにアビー=レブの対応あり。

いずれにせよ本作が強調するのは光それ自体ではなく光を探し求めるという欲望の動きである。

またエリーにとっても子どもは光、可能性の象徴になっている。JJは新たな可能性を示している。

蛾と欲望

ラスアス2に登場する様々な蛾の画像
蛾:博物館、日記、タトゥ、ギター、ロード画面

蛾はエリーにとって重要で、ギター、日記、ロード画面、博物館の展示、タトゥとして出てくる。

蛾は夜行性で、月の光を羅針盤代わりに飛行するとされる。そのため街頭などの明かりがあると月の光と勘違いしてその周りをグルグルと周回する。

また蛾は火を焚くと飛んで火にいる夏の虫となり、焼け死ぬこともある。
じつはこのような意味での蛾はラカンのいう欲望の主体と対象a(残照)の関係そのものである。光(火)そのものに到達すれば欲望は満足によって死んでしまう。

ようするに蛾とは欠如した理想を求める人間の欲望、その意味での人間主体のメタファーなのだ。

また蛾には、毛虫→サナギ→蛾への変化が示すように思春期のエリーが子どもから大人へ至る死と再生の変容のメタファーの意味もあるだろう。

いずれにせよエリーにとってファイヤーフライは光を持たずそれを求める蛾に過ぎなかった。だからこそエリーは生きていて飛んで火に入る夏の蛾にならずにすんだのだ。

エリーは自分を光(理想)としてファイヤーフライ(世界・父)の光の欠如を埋めたかったわけだが、それをジョエルに禁止された、それがエリーにとってのラスアス1の意味である。

大事なので繰り返すが理想の光へと到達し満足してしまえば人は何も欲望できなくなり、主体性を奪われる。このことを精神分析では満足は欲望(主体)を殺すという。

つまりエリーがジェリーにオペされて死ぬことは主体が満足して死ぬことを示す。

理想とは月のように到達不可能の彼岸にあるからこそ、蛾(主体)は正しく飛ぶことができるといえよう。

この理想到達の満足による主体の死のために理想(近親相姦)はトラウマ(死)の核となっている。
(※フロイトの有名な死の欲動もトラウマ(死・理想)を求めて反復するために生じる)

じつは日記には乳児JJのイラストと蛾が融合したような絵もある。このことはJJの誕生にエリーの欲望する主体の誕生が投影されていることを示す。
(※日記にあるJJのイラストは部分対象や口唇期を思わせるものも多い)

以上より蛾とは欲望であり、根源的理想の欠如を示す象徴だといえる。このような欠如を示す欲望の印を父の名という。

というわけで蛾のギターはジョエルの欲望を示す。蛾は欲望なので欲望が刻印されたギターはジョエルの夢なのだ。

眼、まなざしとトラウマ

つぎに眼と蛾の関係を明らかにしよう。

参考画像④:エリーの日記、ジョエルの目が描けず、蛾が描かれた画像
参考画像④
参考画像⑤:エリーの日記、アビーの眼が描けない画像
参考画像⑤

エリーの日記の参考画像④と⑤を見て欲しい。
ジョエルやアビーの眼が描けなくなっている。

眼は何を意味するのか。
ラカン派精神分析では、まなざし(眼)は対象aと呼ばれる。
(※一般に対象aとは理想と現実(象徴)との差異・欠如や感覚そのものと象徴概念との無限小の差異などに典型される欲望を生み出す欠如のこと)

眼は口ほどに物を言う、といわれる。そのくらい眼は語るのだ。生物学では生存競争で不利なのに人間に白目があるのは、コミュニケーションのためだとも言われている。

ところで眼が物を言うといえど、これは比喩であり、眼が伝えるのは直接的な感情だといえる。

子どもにとって親の怒りなどは親の眼に現れ、そのまなざしに子どもは戦慄したりもする。
つまり眼とは他者の内面を直接に伝達する器官なのだ。


子どもを欲望する親のまなざしにより、親の欲望はダイレクトに子どもに伝わる。そもそも母子一体の始原においては、親と子どもの内面は未分化。

したがって他者の内面が直接伝染するまなざしには原初の母子一体の享楽がともなう。

また直接に感じられる欲望は言語的な意味を欠く。

つまり眼から直接感情を感じ取ることはできても相手の具体的な言語思考を直接知ることはできない。したがって具体的に何を欲望しているのか言語的に欲望の対象(意味)を確定することは不可能であり、この不可能性が欲望の曖昧さ(欠如)として人間の自由な主体性を可能とする。

また、まなざしは外傷的だとされる。たとえば子どもが山を登ってヘトヘトになったとする。すると子どもはまだ自他未分なので、自分がヘトヘトではなく世界がヘトヘトに感じられる。

ところがここで元気一杯の親が余裕のまなざしをむけたとする。すると親の余裕が直接に感じられ、自分のヘトヘト感と矛盾対立することになる。

かくして子どもは親の内面へと直接一致したことで、逆説的に親の内面(余裕感)と自分の内面(疲労感)のズレを自覚し、親(他者)と自分の内面が分離する。

この他者の内面への一致における分離によって世界がヘトヘトではなく自分がヘトヘトだと自覚する。

したがって母子一体の満足感は、母の内面と一致することで逆接的に禁止される。ゆえにまなざしは外傷性を帯びたトラウマとなる。それは禁じられた他者への到達における禁止という外傷性を持つ。

ちなみに、まなざしのこのような外傷性から、最新のラカニアンは、まなざしを視線触発φと呼び、視線触発φの欠如が発達障害だと考える。

すると日記でジョエルの眼が描けないのはジョエルの内面(魂)が絵にやどってしまうからであり、眼がトラウマ的だからだと分かる。

死に際のジョエルのまなざしの記憶もあいまって、まなざしに元来潜在する外傷性が一挙に前景化したことでエリーは眼が描けなくなったのだ。

どの人物の絵を描くときもエリーが眼を描くのに苦戦しているのも、まなざしの外傷性のため。
描かれる蛾の模様が眼のようになっているのも主体性としての欲望(蛾)と眼の外傷性の関係に対応している。

欲望とは他者の外傷的なまなざしによって与えられ、それ(まなざしの意味)を失っていることで、それの意味を求めそれに象徴的に擬態する。まなざしによって欲望(蛾)は生み出される、だから描かれる蛾は眼の模様を持つのだ。

セラファイトとマーリーン

セラファイトが旧ファイヤーフライに対応することは既に説明したがここではそれを補足する。

アビーの二回目の回想場面のプレイ、水族館でのオーウェンとの会話。

アビーがスカー(セラファイト)を毛嫌いし、スカーを殲滅すべき絶対悪である旨の発言をすると、オーウェンはアビーに対して、セラファイトはファイヤーフライと同じだ、という趣旨の返答をしてアビーを怒らせる場面がある。

よってファイヤーフライ=セラファイトであることがここからも分かる。

さらにセラファイトが崇め、イコン化する死んだ女性予言者の姿は死んだファイヤーフライのリーダー、マーリーンに重なる。

マーリーンと予言者の画像
左:マーリーン、右:予言者

上の画像を見て欲しい、マーリーンと予言者で顔が似てる気がする。エリー編からアビー編を通して物語が進むにつれ予言者の肖像画の顔がどんどんマーリーン化しているようにも見える。

レブがセラファイトに戻り母親を殺すのは、ラスアス1でジョエルがマーリーンを殺すことにも対応させられる。

このような母親殺しをユング派は象徴的母殺しと呼ぶ。

またセラファイトは洗礼で顔に傷をつけるためスカー(傷)とも呼ばれるが、この傷はキリストのスティグマ(聖痕・傷)に関連している可能性がある。

いずれにせよ傷とは心理学的には欠如、罪を示す印といえる。本作では傷だらけになり縫合するシーンも特徴的なので傷には深い意味が込められているかもしれない。

水中落下とイニシエーション

アビーとエリーの水への落下の画像
左:観覧車アビー落水、右:エリー落水

ここでは水中への落下の意味を示す。

これまでの説明からも明らかに水とは無意識を示す。とくにユング心理学の夢や物語分析においては水位の上昇や水没は退行をしめし自我の無意識への沈潜を象徴する。

また高所からの水中への落下は、部族の成人のイニシエーションやキリスト教の洗礼のイニシエーションからも分かるように実存変容のイニシエーションを示す。

本作ではリアルに数え切れないほどエリーとアビーが高所から水に落下するムービーシーンやプレーが多く、エリー編では物語の進行に伴ってステージの水位が上昇し街が水没し、終盤では嵐の海に呑み込まれる。

ユング派の夢分析では夢で段階的に水位が上昇し浸水してゆくのは無意識への退行の深まりと解釈される。

エリー編の推移の変化を示す画像
エリー編の水位の変化

クリエイターが水と落下に象徴的な意味を与えているのは明白。

ここで注目したいのが、本作の垂直軸の移動の多さである。落下や上昇などの垂直軸の移動は超越性を示し非日常性に通じる。

神は天空に、地獄は地底に、人は地上を水平移動するというイメージにあるように、垂直軸の移動とは人間社会の水平面を突き破り、神の領域や地底の異界の領域(無意識)へと踏み込むことをしめす。

そのため神聖なイニシエーションにおいては高所からの落下など垂直軸が重視されることが多い。

またキリストの洗礼にあるように水中に沈みそこから起き上がることは死と再生のメタファーとされる。

つまり人間が子どもから大人、一般人から神官などへの根本的な変容をなすときは、新たなステータスへと変化するため、一回今までの自分を殺して、新たに生まれる必要がある。

そのための心理的な生まれ変わりを象徴し心的な基礎付けを実現するのがイニシエーションにおける死と再生の儀式といえる。

したがって本作はジュブナイルのエリーとアビーが、新たな人間へと生まれ変わるための心的イニシエーションの物語だと言える。

またエリーなどの神経症治療はイニシエーション的な変容なくしてはなりたたない。

エレンベルガーという学者は心理療法の起源を古代のシャーマニズムに見いだしているほど。

水中落下の反復の意味

なぜ本作ではイニシエーション的な落下が執拗に繰り返されるのか。

ここにこそ本作の実存描写の妙がある。人間にとっての時間の本質を鋭く描写しているといえよう。

ユング派では神話や昔話は同じ事の反復が基本であるという。

ユング的な視点で見れば、この落下の反復が意味するのは、今この瞬間での過去の反復における過去と未来の刷新なのだ。

ぼくたちは過去→現在→未来という一方通行の時間を生きている。
そして時間はつねに流れ変化をもたらす。なのに人は今の自分と子どもの頃の自分を同じ自分として同一することができる。


なぜ変化しているのに同じだといえるのか、静止した世界ならいざ知らず常に変化する世界でA=A、私=私といえる根拠はどこにあるのか。
この答えが反復なのだ。


ジョエルが過去にサラを守れなかった後悔を、エリーを守ることでやり直したりできたのもそのため。

つまり僕たちは今この瞬間に過去の一場面を投影し同一して生きている。だからこそ過去のトラウマをやり直したり、過去の弱い自分を克服することができるのだ。

時間とはかくして過去の反復において取り戻され、過去はつど反復を介して今において刷新されている。いわゆる記憶の事後性というのもこの時間の反復・投影の機制によって生じる。

精神分析治療では、患者にとって重要な過去を今ここにある治療場面に投影させることで、患者を束縛する過去を患者の今によって刷新することでなされる。

ユングではこれを共時(シンクロニシティ)といいラカンはこれを欠如による歴史(意味)の事後性として治療理論の組み込んでいる。

一般に過去→今→未来の日常的時間性においては過去が絶対的な原因として固定され、自由な変容可能性が去勢されてしまう。

これに対して、ユング心理学は今を根源とすることで、今において過去をあらしめ、今の側から過去と未来を変容することで主体の自由を実現するのだ。

事実、投影され反復されることで同一される時間意識においては、現象学的には今この瞬間は過去の記憶による限定を蒙りつつ、そのつど今この瞬間の出会いという新たな可能性に開かれている。
(※詳しくは知りたい人はユング、ハイデガーや木村敏、西田を参照。時間を物理学のように客観的・空間的に措定すると今が消失し矛盾するため、時間とは存在であり、コンプレックス的性質を持っている)

時間は過去に一方的に束縛された過去→今の一方通行ではなく、今の側が過去を刷新する逆向きの動きも持っている。

本作の水中への落下の反復が示すのはまさに、この時の双方向性(共時性、今性)に自己存在の新たな可能性を見いだすエリーの生への葛藤である。

水中に飛び込み広がる波紋のように、今という時は幾重にもつらなる歴史の層をなす。この今においてつど現前する時間の層構造をユングはコンプレックスと呼ぶ。

時とは声楽におけるカノンのように響き重なりあいながら、あらたな旋律を奏でてゆく。水中への落下の反復はまさにそのような時間の実相を象徴する。

アビーを見逃す=ジョエルを許す

ここではラスアス2の物語の核心を解説。

なぜエリーはラストでアビーを見逃すのか、それはアビーとレブに過去のジョエルと自分を重ねたからだと説明した。

ここで大事なのはアビーを見逃すことがジョエルを許すことを意味すること。

前述の通りアビーはエリーにとって、禁じられた願望としての理想像(鏡像)である。彼女を殺すことを断念するのは、アビーという理想を諦めることを意味する。

ここでアビーが磔にされていたことを思い出そう。

磔にされたアビーの画像
磔にされるアビー


この磔はイエスキリストのメタファーであり、エリーが欲望したワクチンによる救済のための自己犠牲としてのイエスの姿と解釈できる。

その父ジョエルと一体化し理想化したアビーを許し、船に乗せて彼岸(無意識)へと送る(禁止抑圧する)こと。これは近親相姦を禁止する嘘をついたジョエルを許すことに帰結する。

さらに本作ではラストに、エリーがジョエルの嘘を知ったあと、ジョエルを許したいと思っていることを語る回想シーンがある。

つまり、一連のエリーの復讐劇そのものがジョエルを許す旅だったことが脚本上も強調されている。

トラウマである理想はかくして禁止の彼方である彼岸(無意識)へと送られ、ジョエルへの憎悪からエリーは解放される。

指の欠如の意味

エリーはアビーとの激しい戦闘により指を喪う。この指の切断は去勢のメタファー。

つまり、完全無欠のトラウマ的な理想(アビー・救世主)を断念し、禁止にしたことで生じる、自分は完璧な理想ではなく欠如ある存在だということの自覚が指の欠如として描写されているのだ。

ちなみにこれと同じ意味での指の欠落は映画ハングオーバー2のテディにも観られる、映画や物語では典型的な表現。

また以上から本作の真の主人公はアビーというよりエリーだと考えられる。

アビーとラットキングと火と病院

セラファイトの本拠地を駆け抜けるアビーとレブの画像
アビーとレブ

アビーと残りのシンボルについて触れる。

これまでは徹底してエリーの視点からアビーを論じてきたので、ここではアビーの視点からアビーを分析。

アビーにとってとりわけ重要となるのはアイザックの死であろう。

もともとアビーの父ジェリーは人権を無視した功利主義的な判断から、エリーを殺害し、ワクチン開発という人類救済の立役者に躍り出ようとしていたふしがある。

ゆえにジェリーは父としては近親相姦的な人物といえる。

その父の娘であるアビーは父からの禁止が弱く、ジョエル(禁止)を殺して近親相姦的な拷問の享楽にふけりオーガズムを堪能する。

この性的絶頂をエリーが目撃したことでエリーの抑圧された願望(トラウマ)が賦活しエリーは重症神経症にいたったのだが。

まず拷問の時点でアビーが父的なアイザックのお気に入りだったことを思い出そう。
するとアイザックのお気に入りで、WLFの理念に無批判に隷属、癒合し、スカーの殲滅に疑問を抱かないアビーのあり方が問題になる。

ジョエルを拷問するアビー=スカーを拷問するアイザック、アビーは父アイザックと近親相姦的に癒合していた。

ようするに、この時点でのアビーにはまったく主体性がなく父の理想に従順な犬だといえる。父の理想に完全に一致し父の命令をきくだけのロボットと化している。

ゆえにアビーは父への近親相姦に支配されているふしがあると解釈できる。

そんなアビーが父アイザックの理想を疑問にふし、父の命に背いて、レブを守ることは、父からの分離を示す重要なシーンといえる。これで父の理想の娘でなくなったわけで、この父からの分離がアイザックの死として描写されることになる。

アイザックの死は象徴的な父殺しといえよう。

次にアイザックとヤーラが死んだあと、レブと一緒にアビーがWLFとの戦場と化したセラファイトの本拠地を抜けるシーンを考えたい。

セラファイト本拠地で水と火に包まれるアビーの画像
セラファイト本拠地

まずここで眼をひくのは上の画像にあるように火と水につかるアビーである。じつは水と火の組み合わせは、文化人類学やユング心理学において、イニシエーションの典型とされる。

多くの部族では火と水を女性の成人の儀式などの死と再生のイニシエーションに用いるのだ。そのためこのシーンはアビーにとってのイニシエーションといえる。

またこの場所ではレブを殺そうとするセラファイトの大男とアビーが殺し合いをするが、大男もアイザックも黒人で2人ともレブを殺そうとする共通点をもつ。よって父アイザック(WLF)との真の決別として象徴的な父殺しがなされているとも解釈できる。

セラファイト本拠地での大男とアビーの格闘の画像
セラファイトの大男

つぎにアビーを語る上で欠かせないのがヤーラの薬を探しに病院へと向かうパート。

病院へと向かうため高所の端を渡るアビーの画像
右にある病院へむかうショートカットコース

上の画像にあるようにアビーは高所へと登り橋を渡る。この後橋からプールの水中へと落下する。高所恐怖症のアビーが試練を乗り越えて垂直軸の動きを展開するのはイニシエーションの王道である。

アビーの心理的変容が象徴的に描写されていることが分かる。
さらに目的地の病院は最初の感染者が生じた場所(グラウンドゼロ)であり、その最深部(無意識の深淵)には初代感染者の巨大ゾンビ、ラットキング(人類のトラウマ)がいる。

アビーは、自らを呑み込もうとするラットキングと戦う、ラットキングに一定のダメージを与えると普通サイズのゾンビがラットキングから分離する。

病院の最奥に出てくるラットキングとその切れ端のゾンビの画像
左:ラットキング、右:分離したゾンビ

精神分析的には、近親相姦的な直接的結合のトラウマがラットキングであり、その否定によってラットキングから主体(ゾンビ)が分離したと考えられる。したがって分離したゾンビはアビーの分身ともとれる。

また病院といえばアビーにとってのトラウマであるジェリーが殺されたセントマリー病院と重なる。そのためラットキングはアビーを呑み込んで殺してしまうトラウマの核であり近親相姦のメタファーと解釈できる。
(※ラットキングはラカンでいう現実的なものの表象、またゾンビ自体が欲動であり現実的なものでもある、ゆえにゾンビは外傷性を帯びる。病院にあったヤーラを治療する薬は対象a)

癒合していて父との距離がとれないアビーにとって、父から独立しようとするとき父は主体を殺すラットキングの姿をとる。

ラットキングや大男など数多の父殺しをなし、分離してアビーは光そのものではなく、光を求める主体として生まれることができたのだ。

また病院という場所も人が死に生まれる場所であり、自己の起源のメタファーといえる。つまり病院は死と再生のイニシエーションやトラウマの場所として適切。

かくして病院でのイニシエーションを通じて、ヤーラという可能性を守ったアビーは悪夢から解放される。
アビー編二日目の最後にアビーが見る手術室で微笑む平和な父の夢は、アビーが禁止を受け入れ父と距離を保つことができるようになり父に呑み込まれる心配がなくなったことを示す。

アビーはヤーラ救出以前は父が死んだ手術室でレブとヤーラが首をつって死んでる悪夢を見ている。この悪夢は父との近親相姦的な癒合がアビーの主体性(レブ姉妹)を殺してしまうことを示す。

よってアビーにとって父は現実的(近親相姦的)なラットキングから象徴的(間接的)な医者へと変化したといえよう。

またアビーはレブを助けた理由について罪悪感のためだという。罪悪感はそもそも光を欲望する主体の誕生に関わっている。

かくしてアビーはジョエルからの禁止を受け入れて欠如した光(ファイヤーフライ)を求め、レブとサンタバーバラへと旅をするに至るのだ。アビーはサンタバーバラを目指した時点でジョエルを許している。

以上より、アビーの物語はなるほど民族学的、ユング心理学的に丁寧な死と再生の描写が徹底されているといえる。

しかし具体的にアビーのやってることにフォーカスすると、どうしても一貫性がない。骨組みの形式だけはしっかりしていて具体的なアビーというキャラの肉付けが雑に感じる。

ところでアビーのような一貫性のない傾向は、ここ15年くらいの現代人の標準的なあり方であると多くの臨床論文で指摘されている。

そのためアビーは現代人のメタファーとして観ることもでき、アビーの存在によってエリー的近代主体に対して、ポストモダン文学的な彩りが本作に添えられているともとれる。

ラスアス2の不自然さ

ラスアス2はLGBTQ要素の過密さやストーリーの救いのなさから大炎上となり、アビー役のモデルがSNS上で罵倒される事態にまで発展した。

ポリコレに踏み込むと正義マンがうるさいから迷ったが、本作の物語を語る上でこの問題を避けることはできない。

まずここまで読まれた方なら説明は不要だが、本作はあまりにキャラクターのコンプレックス相関やシンボルの意味連関が複雑に過ぎる。

ラスアス2の脚本は不自然に複雑でシナリオに何らか不自然な力がかかったような歪さがある。

まずラスアス2の脚本の致命的におかしいところを紹介する。

おかしいのは、エンディングでエリーが指を喪いギター弾けなくなりジョエルのギターを置き去りにすること。
このシーンを脚本家の意図に即して解釈するなら、ジョエルへの到達を諦め、それゆえにジョエルを許したことを暗示したシーンとなるだろう。

しかしこれはあまりに不自然。
ぼくが脚本家なら、冒頭のジョエルの死によってエリーにギターを弾けなくして、ラストのエンディングでギターを弾くことができるようになるシナリオにする。

精神分析上は、このようにした方が、ジョエルを諦めて、ジョエルを許すことを示すのにふさわしいからだ。もし同じ許しの意図で自然に脚本を書くなら、誰でも最後にギターを弾けるようにするだろう。

ギターを置く終わりは救いがなさ過ぎる上に、見方によっては翻ってジョエルへの固着に見え、メッセージが非常にわかりにくい。

また本作は、アビー関連を中心に、いちいち話の流れが不自然だし、その不自然さを隠すため無理に意味付けをするせいで、無駄に脚本が複雑になっているようにも見える。

そもそも本作はプレーボリュームがあり、終始陰鬱であるためゲームづくりの基本に即せば、最後に救いやジョエルの遺産の継承を感じさせ、前作(ジョエル)への喪の作業とするのが自然だろう。

冒頭、ジョエル(前作)の拷問(否定)で幕をあけ、長々と前作のファンにプレーさせて、その最後に、またジョエル(ギター)を否定(喪失)することでジョエル(前作)への許しを表現するのは理解に苦しむ

なぜギターを弾けるようにするという当たり前のことができないのか、ギターの扱いを反転させるだけで許しという脚本家が伝えたかっただろうメッセージは誰にでも伝わったはずだ。

ボリュームのない数時間のおまけゲームならこうした展開も理解できるが、前作を愛したプレイヤーにかなり長時間プレーさせた果てにこれは、あまりに不誠実だしキャラクターへの愛がなさ過ぎる。

ジョエルとエリー(前作)への憎悪でもあるのだろうか。

ところでネットの意見ではラスアス1もポリコレ的な作品であり、ラスアス2でポリコレ化したのは間違いというものも多い。しかしこれには疑問もある。

前作のシンボルであるジョエルとエリーを否定し地獄に落とすことで、マッチョな白人男(ジョエル)が活躍する前作の否定と上書きの意図があったとしても違和感がないからだ。

つまり、エリーが最後にギターを弾けるようになるエンドにしてしまうと女性が男性のシンボルであるジョエルに憧れている印象が伴うと感じた可能性もある。

トミーの扱いのずさんさを見ても前作が嫌いなのか?と思わされなくもない。

MGS2をパクって前作のジョエルとエリーの物語をアビーとレブでやり直させたのも、エンディングと合わせて考えると、前作の否定、上書きに見える。

じじつ前作も確かにポリコレに配慮していたが、肝心の主人公の男がマッチョ過ぎた!男性権威主義は許さない、正しい前作はこうあるべき!というイデオロギー的なメッセージがラスアス2をおかしくしたとの印象をもつプレイヤーもネットでは散見される。

まずポリコレについて言えばラスアス2と前作では全く質が変わっている。本作では前作と異なりLGBTQが共同体と摩擦を生じる。そのためストーリーの根本的な原動力としてポリコレ要素が作動している。

たとえばレブのトランス設定はレブがセラファイトから追われてアビーと旅をすることの理由になっている。もっと言えばプレイヤーがアビーとしてセラファイトを殺す原因でもある。

そのため前作と今作ではポリコレ要素のストーリー上の機能や必然性、重要度がまったく違う。

またディーナとエリーのダンスパーティーでのキスも、保守的な親父キャラとの衝突に発展し、やはりLGBTQ要素が共同体との摩擦を起こす。そして保守親父はフルボッコにされその謝罪まで描かれる。

対する前作のポリコレ要素は自然に世界となじみ摩擦を起こさない、そのため不快感を感じたりストーリーのノイズとなることもなかった。

保守的な人(冒頭の親父)を絶対悪として責めて謝罪させたり、前時代的でLGBTQを否定するセラファイトを敵に配置して殺すプレーを強要する本作のポリコレ要素は、僕にとっても少しノイジーだった。

なによりゾンビゲームなのに生々しい性的ムービーを入れるのはやめてくれと感じた。もしアビーが普通体型でエリーとディーナがヘテロ設定だったら、軽いキスシーンくらいはあったとしても、ここまで生々しい性的ムービーなどなかっただろう。

おかげで日本版はアビーのセックスシーンが規制され途中でカットされている。ちなみに海外版をみるとアビーの体系がほぼ男だと分かる。明らかに筋トレで到達できる体ではなく女性の身体を否定した女性蔑視にも見える。

影を映すとかの間接表現じゃなぜだめなのか?

本作についてここでポリコレ要素に否定的なことを述べているのには理由がある。
まず本作の主題はジョエルを許すこと光を求めることなどから、禁止(欠如)や断念の成立にある。

とすればポリコレ描写の仕方が主題と解離している。ポリコレ要素を入れるなら「キャサリン・フルボディ」の方式にすべきだ。

つまりヘテロがゲイになったりトランスがノーマル化したりという相互理解の可能性に開かれたダイナミズムを描くこと、次に保守的考えも受けいれつつ、普遍的絶対正義(理想)への個人的正義感の一致を禁止し、相互コミュニケーションによって合意形成の弁証法的運動を展開すること。

恐ろしく長くなるので理論は割愛するが、この二つのポイントを踏襲してはじめて本作の主題、すなわちエリーが彼岸にアビーを送ることに即したポリコレ配慮となる。

したがって本作のポリコレ表現は本作のストーリーから解離しているといわねばならない。

本作の提示するポリコレ的、ポストモダン的なスタティックかつ独善的倫理観・人間観は本作の物語に対して致命的な矛盾を生じさせている。こうしたポストモダン的なポリコレ表現が問題を解決することはありえず、分断を助長するだけの自己満足に終わるのは炎上騒動からも明らかだろう。

以上で分析は終える。

終わりに

ここまでの解説で、本作が人間にとっての本質的な時間のあり方を捉え、理想を巡る個々の欲望を中心に人間心理の根源を描写した実存的・文学的作品であることが分かった。

ポストアポカリプスものでは、宗教が描かれたり、より原始的なコミュニティの描写が目立つ。すでに存在しない共同体の解体したバラバラの世界でこれは何を意味するのだろうか。

こうした疑問からも本作への考察はつきることがない。この記事が新たな考察の一助となることを期待したい。

ところで多くのプレイヤーの心に刻まれたラスアス2の体験を、精神分析的に解釈しブログで公開することは、大衆に対する夢分析という側面をもつ。

人間の無意識に肉薄し、夢の文法構造を内在するラスアス2の体験はそれ自体、プレイヤーが見て体験する夢の等価物であり、ユング派でいうところの大きな夢に相当する。

その意味で作品とは多くの人が見て体験する共通の個人的体験ともいえる。プレモダンの部族が夢の物語を共有したように、現代人は作品の物語を夢のごとく共有しているのだ。

人は夢に普遍的意味を求め、作品に光(真の魅力・意図)を欲望し考察を試み、ときに論じたりもする。共同体が共同体として機能する上でこうした価値の普遍的認識のコンセンサスへ向けた運動は欠かすことができない。

ゆえに作品批評の一つの機能は、作品考察を介した人類の普遍性へむけた他者理解の弁証法的運動ということにある。

そして、ここに記した考察は、作品に光を求める蛾(欲望)の飛行の一軌跡に他ならない。

決して作品の本質(光)そのものに解釈が到達することはない。しかしぼくたちは考察(共通解釈・公共のテーブル)を介してコミュニケートすることで、その奥に光を感じる(享楽する)ことはできるのだ。

コメント

  1. のらくろ より:

    『アビーを許す=ジュエルを許す』とありますが、エリーとアビーが鏡像ならば、
    『アビーを許す=エリー自身を許す』という見方も出来るのではないでしょうか。
    エンディングのジュエルとエリーの会話が実際にあったものとは自分は考えていません。本当は「ジョエルを許している」けど、今まで言えなかった「私を許して」という見方です。言えなかったからこその復讐劇だったように思えます。

    アビーの一貫性の無さは感じます。ただ、『守る側と守られる側』の関係性を第三者として見ているか当事者なのかで行動は変わると思います。またこれは三角関係の構図にも当てはまると思います。作中、レブとヤーラの後ろから見ているパートとどちらかと共に行動するパートがあり、自分はこの関係性を崩したくないという感情と自分が守らなきゃという感情を持ってゲームしていました。
    この辺りの考察も聞いてみたいです。

    • うたまる うたまる より:

      コメントどうもです。

      『アビーを許す=エリー自身を許す』という見方ができるという指摘、まさにその通りだと思います。
      アビーに関しても、どこに視点をおいて観るかで変わるというのは同意で、そのためアビー擁護派も一定数いるようです。
      興味深い意見と思います。
      ラスアス2に関しては続編の噂もあるので、気が向いたらまた考察してみようと思います。

  2. のらくろ より:

    追記、打ち間違いで
    ジョエルがジョエルになってます。スンマセン

  3. のらくろ より:

    打ち間違いの追記も間違って書いてます。重ね重ねスンマセン。
    続編は楽しみですが、これ以上どうやって感情をえぐって来るくるのかと考えると期待と不安でいっぱいです。
    コメ読んでいただいてありがとうございます。

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