どうも!うたまるです。
こんかい紹介するのは歴代コメディ映画でも圧倒的人気と興業収入を誇る映画『ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える』。
この記事では徹底的にハングオーバー2の魅力を丸裸にし、なぜ人はこの映画に引きつけられるのかを考察、分析します。
本作は前作のハングオーバーとほとんど同じプロットであり、精神分析的に見てもほぼ完全に前作に対応しています。そのためこの記事では前作との各シーンの対応も紹介しています。
ハングオーバー!!とは
2011年公開の映画で興業収入は12月26日時点で5億8000万ドルを誇り歴代一位を獲得し、2023年現在でも3位を記録しています。
監督はハングオーバー1と同じトッド・フィリップスであり、まさに名作となることが約束された体制で制作されました。
キャスト
- ステュ … エド・ヘルムズ (永井 誠)
- フィル … ブラッドリー・クーパー (桐本 琢也)
- アラン … ザック・ガリフィアナキス (奈良 徹)
- テディ … メイソン・リー (成家 善哉)
- ミスター・チャウ … ケン・チョン (岡野 浩介)
- ダグ … ジャスティン・バーサ (川中子 雅人)
- キングズリー … ポール・ジアマッティ (辻 親八)
- ローレン … ジェイミー・チャン (原島 梢)
- マイク・タイソン … マイク・タイソン (山野井 仁)
あらすじ
物語は前作のラスベガス騒動の二年後、ステュはローレンと結婚式をあげるためタイへと訪れる。
しかしステュはローレンの父(フォーン)にまったく認めらずそのことを悩むことになる。
そんな結婚前夜、ステュ、フィル、アラン、テディ(ローレンの弟)、ダグはマシュマロとビールで乾杯するが、、、
翌朝目覚めると記憶がないままバンコクの見知らぬホテルで目覚め、行方不明になってしまったローレンの弟テディを探す。
前作に続き本作も主人公はステュです。
物語が象徴すること
最初にここでは、この物語が何を意味しているかを概観し、作品の主題を明らかにしたいと思います。
そして次にかくシーンの意味を本作の主題に照応させるかたちで明示し、そのことで作品の滋味きくすべき魅力を解き明かす感じです。
本作の主題は結婚式をひかえる主人公のステュの成長譚。前作とまったく同じで本作もステュの精神分析治療が物語として象徴的に語られます。
ステュは新婦の父(フォーン)からまったく認められておらず、貧弱な半人前として馬鹿にされます。そのため冒頭ではステュは父からチョーク(老人などの食べる味のない流動食)と言われるシーンもあります。
父(フォーン)が冒頭でステュをけなすシーンは、前作でパートナーのメリッサが冒頭にステュを馬鹿にする構図と同じ。
一人前になれないステュが父との葛藤のなかで再び神経症に陥り、バンコクの闇(ステュの無意識)をステュ自身が精神分析して神経症を克服するというのが本作の大筋です。
精神分析と言うと映画の脚本理論などに明るくない方は、こじつけと思われるかもしれませんが、精神分析を脚本のベースとすることはハリウッドの脚本家にとって一般的。
したがって前作に引き続き本作も精神分析なくして、その魅力の本質をつかむことはできません。
本作は前作の構造がトレースされ、前作とシンメトリーです。
ハングオーバー2の特徴
前作との違いをここでは紹介します。
本作は結婚という儀式を通じて半人前のステュが、一人の男として父の仲間入りを果たすという構成。これは映画の類型でいえば、典型的なイニシエーションものです。
このような物語はギリシャ神話や日本神話にもあるため、本作は現代にいたるまで人類に愛され続ける王道を攻めています。
いにしえの時代からあらゆる物語に繰り返された主題(結婚式、イニシエーション)をこの完成度でしあげる監督の技量は相当です。
結婚という普遍的イニシエーション(人が社会的ステータスを変えるときになされる新しいステータスの心理的基礎付け)が扱われている点が前作との違い。
またこのことにともない精神分析理論のみならずユング心理学的なエッセンスの流入がみられるのも前作との違いです。
そのため本作は前作と異なり精神分析のみに頼っては脚本家がしこんだ作品のメタファーの意味を捉え損ねます。
前作を母の息子であるステュの母親からの自立の物語とすれば、今作は母離れしたステュが父に認められ父の仲間入りを果たすという構成。母から父へという移行は本作がたんなる前作の反復ではなくさらなるステュの成長の物語であることをしめします。
記憶喪失の意味
ステュ、フィル、アラン、テディは結婚式前夜、アランの仕込んだドラッグでラリって夜のバンコクで派手に暴れ法律(禁止)を破り快楽の限りをつくします。
しかし肝心のラリって暴れているシーンはなく、翌朝バンコクの見知らぬホテルで目覚めると前夜の記憶を失っておりテディが失踪。
この流れは、前作とまったくおなじです。前作ではダグが喪失しましたが、今回はテディ(新婦の弟)が失踪。
前作同様にこの記憶喪失はトラウマと享楽をしめします。
つまり快楽のために法律をやぶりたいという願望は、法律にしたがい社会を生きる人にとって抑圧されねばなりません。
そのような法律をやぶることで得られる気持ちよさへの願望は罪悪感によってトラウマ化、無意識に抑圧され意識不可になります。
ぼくたちは社会的に生きるため、気持ちよさを禁止されます。たとえばお腹がへったからといってスーパーの商品をレジを通さずに食べたりしてはいけません。このように満足が禁止されることで社会は成立しています。
勝手に商品を食べるなんてことをしたらトラウマでしょう。ぞっとすることです。お腹がへっていればその場で商品を食べたいはずなのに、そういう願望は抑圧されていて意識できないわけです。
このようなトラウマとして無意識に抑圧された願望がもとめる禁止された気持ちよさのことを精神分析では享楽といいます。ちなみに享楽をもとめることを欲動といいます。
したがってバンコクで法律を無視して大暴れして楽しんだ夜の記憶は無意識の願望であるとともに、トラウマでもあるのです。
チャウと猿と症状
ホテルで目覚めると猿が突然現れるシーンがあり、さらにホテルにはなぜかチャウがいます。
猿とチャウは前作同様、ステュの神経症の症状のメタファー。
猿は前作でいう虎、チャウはそのまま前作のチャウと同じポジションです。
大事なのは神経症の症状は、無意識に抑圧された記憶や願望が意識へと回帰してきたものであること。
そもそも神経症とは葛藤によって、願望や記憶が抑圧され、その抑圧されたものが回帰して症状を形成することをいいます。
したがって症状を通じて無意識に抑圧された記憶を掘り起こし、それを言葉によって解釈するというのが精神分析治療のプロセス。
ゆえに症状との対話は欠かせません。
本作では抑圧は父親(フォーン)との関係から生じているので無意識に抑圧されたトラウマは父親コンプレックスが関係しているといえます。
父親に対する葛藤が神経症の症状になっているわけです。
記憶のあるチャウとの会話から、主人公らは今いるホテルがバンコクであることをつきとめますが、これは症状(チャウ)が無意識の内容に通じていることのあらわれです。
テディはステュの分身であること
ここではテディについて説明することで本作の主題を確認します。
本作の理解でもっとも大事なのは、テディがステュの分身なこと。そのため本作のもう一人のかくれた主人公はテディだと断言できます。
なぜテディがステュの分身といえるのか、その根拠を以下に示します。
まず、第一にステュは歯医者であり、テディは16歳でありながら飛び級で大学の医学部の学生です。
つまり二人とも医者に属しており、このことは二人の密かな同一性を暗じします。
つぎにステュもテディも父(フォーン)の息子になっていること。これは戸籍上でもそうですし心理的にもです。
テディは父の自慢の息子であり、父親の期待に応えるべく父のいうことに忠実に従ってきた人物として描写されています。父がテディにチェロを演奏させるシーンやローレンに勉強ばかりする優等生だと指摘されるシーンはこのことをよく表します。
したがってテディはまだ父のいいなりであり、父から独立して一人の男として認められていないことが分かります。一見して父の自慢の息子ではありますが本当の意味では父からは認められてません。
たいするステュは、父(フォーン)から激しく嫌われ未熟者として扱われます。それにステュは全く反論もできず。つまり父に認められたいと思いつつ一人の男として父と対等に会話をすることさえできないわけです。
するとステュもまた父から自立することのできていない子どもに過ぎないことがわかります。
ステュもテディも父の言いなりで、ひとかどの人間としての自立した主体を形成できていません。
したがってテディはステュの分身。少なくとも脚本家が父フォーンを軸に両者を分身として対応させているのは明らかです。
テディの失踪の意味
テディがステュの分身であり父から自立できない少年だと分かればテディの失踪の意味もおのずと理解できます。
ステュは父から認められたいと願いテディは父の自慢の息子として認められてます。そのため、テディはステュにとっての自己の理想像を象徴しているのです。
厳密にはテディとステュは互いに共有する父親コンプレックスを通じて、自己を投影しあう関係。つまりステュは自己の理想をテディに投影して見ています。
そんなテディ(理想)が喪われることが意味するのは、ステュが幼児的な理想(テディ)を断念して大人になるということです。
(※精神分析マニア専用の補説:理想に固執する限り父とステュの関係は想像的であり象徴的な父〈大文字の他者〉を形成できません)
父のお気に入りであるテディはある意味では、父の欲望を完全に満たし父親の欠如を埋めるための対象に過ぎません。そんなテディを理想としてもとめ続ければ自己を主張することのできない優等生ロボットとして一生を台無しにしてしまいます。
ステュの神経症とは
ステュが目指すテディという理想が父の優等生ロボットにすぎないことが分かれば、今回のステュの神経症の正体もはっきりします。
本作でのステュの神経症とは、結婚に反対する父に自分を認めて欲しいという思いに起因するものです。
つまり本来であれば、娘の新郎として自分を認めてもらうのに父の理想を完全に満たすパーフェクトな息子(テディ)を目指してはいけないわけです。
しかしステュは自己の欠如を受け入れることをためらいテディのような完璧な息子となることを欲望してしまった。このことで、テディの完璧さの背後にある父に飲み込まれて主体性を喪う恐怖が無意識に生じます。
またこの完璧な理想に対する恐怖はそれが本質的にトラウマであることを意味します。
こうしてステュは完璧を諦めることの苦痛と完璧を欲望することで父に飲み込まれる苦痛とのあいだの板挟みに。この葛藤こそが本作でのステュの神経症の正体です。
前作でステュの理想(トラウマ)だったのはダグであり、前作ではダグが失踪していることを考えると本作が前作とシンメトリーな構成だと分かります。
作品 | 失踪する理想 (トラウマ) |
ハング1 | ダグ |
ハング2 | テディ |
テディの切断された指の意味
ところで本作ではテディはドラッグでラリっている最中に大暴れをして、みずから指を切断。
テディの喪われた指は、ステュがテディという理想を断念することに対応します。
つまりテディがみずから指を切断したのは、父にとっての完璧な息子になることの断念を意味しています。
このような指の切断を深層心理学では去勢といいます。
去勢とは自己の欠如(理想の断念)を受け入れることです。去勢で自己の欠如を引き受けることで父から自立した主体を獲得できるようになります。
ここ分かると指を喪ったにもかかわらずテディがとても満足そうにしている理由が分かります。
テディにとって指の喪失は、父の欠如をうめ父の欲望を満たすだけの対象に過ぎなかったロボット優等生から解放され、自分の欲望にしたがって父から自立して生きれるようになったことを意味します。
テディにとって夜のバンコクでの大暴れは、父を代表する社会のルールに背き、法律(父の言いつけ)をやぶって自己の欲動にしたがって行動したことを示すのです。
したがって、テディにとってバンコクでの大暴れそのものがなによりもかけがえのない体験であったといえます。
バンコクの夜は反抗期のなかっただろうテディがはじめて父の禁止を破り主体を獲得した瞬間で、そのことを象徴するのが消えた指です。法をおかすこと(前科がつくこと)で父にとっての完璧な息子ではなくなり、その完璧な自己の喪失感が指の喪失に象徴されてます。
また物語前半、タトゥショップのシーンで夜のバンコクでステュが「警察なんて糞食らえ!」と叫んであらぶっている映像が見つかりますが、、、
これはラストで父(フォーン)にもの申すシーンに対応します。ステュにとってもテディ同様に夜のバンコクでの蛮行が大切だったのです。
前作との対応を示すと、ステュが自分で抜歯した歯とテディが自分で切断した指は全く同じものを象徴。
作品 | ステュの理想 (トラウマ) | 理想の断念 (去勢) |
1 | ダグ | 抜歯 |
2 | テディ | 指切断 |
チャウの発見と消失
バンコクのホテルで目覚めるシーンで主人公らは小さなキノコらしきものを発見します。非常に小さなキノコは実はチャウの股間であり、猿に股間を攻撃されチャウは飛び起きます。
このシーンが意味するのはチャウはファルス(欲望としての男性器)を持っていないということ。
最初に結論からいうとチャウはステュにとっての根源的な不安そのもの。
じつはハングオーバーシリーズではチャウとアランは倒錯者です。倒錯というのは母子の分離を拒絶して、母と一体になろうとする幻想にふける人のことを示す精神分析用語。
つまりチャウとアランには、父による禁止(法律)を守るという観念がありません。
そのためトラウマだろうとなんだろうと見境なく満足を欲する存在です。禁止がないので、法律を無視して本能のままどこまでも享楽にふけります。
本作でいえば、チャウは父や母の完璧な理想と一致してロボットになってしまうことも恐れません。欠如を受け入れたり、母子一体の満足を断念するという観念がないのです。
それゆえにチャウは理想の達成とそのトラウマを喚起し主人公らに不安を想起させます。
そして、その不安がファルスを喪うこと(極小のキノコ)として表現されています。
またチャウとアランは無意識(エス)に封じ込まれたトラウマ(禁止行為)を果てしなく欲するデーモンであり、無意識の欲動です。
その証拠に作中ではステュが夜のバンコク(無意識の欲動の世界)をアランタウンだ!と歌うシーンがあったり、アランのことを「ひげ面のハゲ悪魔!」と罵倒するシーンがあります。
したがってチャウやアランは全ての人間のうちなるデーモンを象徴しています。
アランがドラッグを混ぜてステュをトラウマにつきおとす役割を担うのもそのため。
人間が主体的に生きるにあたって内なるデーモンは必須の存在です。彼らは非社会的かもしれませんがそれでも彼らの存在が社会に可能性と生命力を与えていることは確かです。
また、チャウから喪われた無意識の記憶(夜のバンコク)での出来事を聞こうとすると、チャウはコーク(コカイン)をキメて心停止しました。これが知れればタイで重罪にとわれるためチャウをホテルの製氷機に隠します。
こうしてチャウというやっかいな症状(記憶)は、ふたたび無意識に抑圧されることになります。
服の意味
パーカーとユング
本作では一部の登場人物の着ている服が非常に重要な役割を果たします。
テディの手がかりがなく狼狽する主人公らにダグから連絡が入り、テディが逮捕され微罪で捕まっていることが発覚。
テディを引き取りに警察署に向かうとやってきたのはテディではなくテディのパーカーをきた老人でした。
しかも老人は僧侶であり沈黙の誓いのため何を聞いても一言も話しません。
このシーンではテディが老人に置き換わっていることが示されます。これを解釈するにはユング心理学の物語論が必要になります。
ユング的には本作でのパーカーはフードがついており少年のメタファー(永遠の少年元型)と解釈されます。
つぎになぜ少年のテディが老人と同一されているかというと、ユング派のヒルマンによると心理学的には少年は、対となる老人と同一だからです。
少年性の象徴は同時に老人の象徴でもあると考えます。このことはテディが大人になりきれていない少年であったことに対応します。
またテディから老人への置き換わりは、チャウという症状から逃避したことで、チャウという症状が老人という別の症状に置き換わったことともパラレルです。神経症の症状は置き換わってゆくものです。
重要なのはテディが少年性を意味するパーカーを脱いで内なる老人にそれを委ねたこと。これはテディが父から自立し少年から大人へと成長したことを示します。
したがって本作でのパーカーはテディが自ら去勢した完璧な理想のメタファーです。
指とパーカーはその意味で同一。この辺もテディが隠れた主役であることをよく示しています。
また老人に関して言えば、パーカーをテディから授かり身につけるとは、内なる理想をゆずりうけることと解釈できます。
少年の妥協を許さない純粋な理想が老人に活力を与えたということです。
ユングは、人生前半は理想を断念して現実に適応することが大事であり、後半では切り捨ててしまった理想と向き合うことが大事だといいます。
したがってテディと老人は、人生における理想の断念と若い理想を思い出すことを示しています。
この老人とテディの関係性は精神分析の理論では説明困難であり非常にユング的な思想が前面に出ているといえます。
精神分析を西洋の論理とすれば、仏教であるタイという国はユング心理学につうじる世界でありそのため、脚本にもユング的なアジアテイストが絡められたようです。
じつはパーカーを着ている人物がもう一人登場します。製氷機から救出された後のチャウです。
テディのパーカーではないですが、テディのパーカーとそっくりのほぼ同じデザインのパーカーを着てます。
このことはチャウがトラウマである理想そのもの(パーカー)を果てしなく欲望する存在だと示しています。
パーカーをさんざん強調しておいて、意味もなくそっくりのパーカーをチャウに着せるというのはありえないのでこのように考えるのが映画分析として妥当です。
アランのTシャツ
アランは頭の毛をそられ、飼い慣らされたような犬のTシャツを着ています。
パーカーにこれだけの意味を仕込んでくることを考えると、あらんのTシャツにも意味があると考えてもいいでしょう。
おそらく、犬のTシャツはアランという動物的な欲動の権化が飼い慣らされつつあるということです。また髪が剃られてるのは、ユング派では根本的な内面の変化と捉えがち。
断髪もある種の去勢であり、ステュがこれまでひたすら抑圧してきた、暴走して手のつけられない内なる欲動(アラン)と適切に関係できるようになったことを示していると考えられます。
ステュとニューハーフの結合
本作では自己の抑圧された願望と向き合い解釈してゆくステュの精神分析の過程で、ニューハーフと性行為をしていたことが発覚します。
このことは精神分析では近親相姦願望のメタファと考えます。
なぜニューハーフなのかというとニューハーフとは欠如なき母の象徴だから。
精神分析によると女性にファルス(男性器)がないことは少年を不安に陥れるそうです。つまり母には男性器の欠如があるという認識が母からの分離の恐怖を生じるわけです。
赤ちゃんが母乳をのみ母と一体になっているとき、赤ん坊にとって母には欠如などありません。父によって赤ん坊が母から引き離され乳ばなれするときなどに赤ん坊は母の欠如を感じます。
そのため母に欠如があることを認めるということは母から分離することに相当します。
つまり父による、母と一体になることの禁止が欠如を生み出し、その禁止のために近親相姦願望は抑圧されてトラウマになります。
しかし、すると父にかんするコンプレックスから神経症にいたったステュがなぜ前作で解消したはずの母との関係に立ち戻らなければならないのか、という疑問が生じます。
その理由を以下に示します。
まずステュは結婚相手のローレンの父(フォーン)に嫌われており、結婚もまったく歓迎されていません。
そのためステュにとって父に結婚を反対された女性というのは、母と重なってしまうことになります。
このことでローレンとの結婚に近親相姦的なトラウマが生じます。
かくして無意識の願望の世界(夜のバンコク)では近親相姦的なニューハーフとの行為がなされることになりました。
ニューハーフは男性器があるため欠如がない母の表象。そのニューハーフとつながることは母子一体になりたいというトラウマの享楽を示します。
ステュは症状を介して無意識に隠された願望を自覚しニューハーフと会話して言語的にそれを解釈することで自らの問題に向き合い自己理解を深めてゆきます。精神分析治療が進展していることがよくわかります。
ニューハーフとの性行為は前作の娼婦との結婚に対応します。
前作との対応
作品 | 母 (近親相姦) | 禁止する父 |
1 | 娼婦 メリッサ | フィル バーテンなど |
2 | ニューハーフ ローレン | フォーン |
キングスリーと分析家
ニューハーフの一件に片がつき猿を奪われフィルが撃たれた後のシーンでチャウの取引相手キングスリーに出会います。
そしてキングスリーにテディを返して欲しければチャウのもっている口座番号をもってこいと命令されるシーンがあります。
そのあと困難を乗り越えチャウを引き渡すと、キングスリーの正体はインターポールの捜査官ピーターで彼はチャウを逮捕。これで全てがおとり捜査だったことが発覚し、キングスリーはテディの居場所など知らないことが明かされます。
キングスリーは精神分析家のカウンセラーのメタファ。つまりここではチャウという症状から逃げずに向き合って無意識を理解しろ、と分析家は言っているのです。
精神分析療法では最初に患者は、症状から逃避しようとして分析家に全てを任せて解決してもらおうとするのが一般的です。それに対して分析家は分析する主体は自分ではなく患者自身であることを示し、患者に自分の症状や無意識と向き合うように促します。
したがって、チャウという症状から逃げチャウを製氷機に抑圧していた態度がキングスリー(カウンセラー)により、変更されたといえます。
またチャウと向き合いチャウという症状を自力で解決しチャウを引き渡すとキングスリーはテディについて何も知らないことが発覚しますが、、、
これは精神分析治療の終わりを再現した描写。
ラカン派精神分析では、最初は分析家は患者から、自分の無意識(症状の意味など)の謎の答えを知る者として期待されます。
そして分析治療が終結するときは患者が、分析家は無意識の秘密についてなにも知らないと悟るときです。
チャウや猿など一連の症状の分析を終えて、分析家は無意識の秘密であるテディについてなにも知らないと理解し分析家のもとをさる本作の流れは、まさに分析治療の再現。
してがってこのシーンはいよいよステュが神経症を克服し父から自立し父に認められるときが近いことをしめします。
本作のキングスリーは前作のマイクタイソンに相当。前作でタイソンが虎という症状と向き合い虎を家まで自力で連れてこいと命令したことと全く同じ構造になってます。
タイソンも失踪してしまったダグの居場所を知ると期待されながら知らないことが発覚するので、前作のタイソンと本作のキングスリーは完全に同じ役回りです。
作品 | 分析家が 要求する症状 | 分析家 への期待 | 分析家 |
1 | 虎 | ダグの場所 | タイソン |
2 | チャウ | テディの場所 | 捜査官 |
タトゥーの意味
ステュのタトゥーについて解説します。
ステュはホテルで目覚めると顔にマイクタイソンと同じタトゥが彫られています。タイソンは前作では本作のキングスリーの役回りにあり分析家を象徴するキャラクターです。
また分析家というのは父(フォーン)とも重なる立ち位置にあり、その意味でタイソンは父であり、顔のタトゥは父からの承認、父になることを示します。
またタトゥは傷としてそれ自体が外傷(トラウマ)であり、自分が完全ではないことを示します。
したがってタトゥは一つの去勢であり、父から与えられた承認のメタファーだと考えられます。精神分析ではタトゥのような父からの象徴的な承認を父の名といいます。
その意味でステュのタトゥはエディの喪われた指に対応します。
テディの発見
キングスリーにチャウを渡し、チャウや猿などの症状を介して無意識(夜のバンコクの記憶)を解釈したステュは、テディの居場所を推理し、最初のホテルのエレベーターにいることを突き止めます。
前作でも失踪したダグが最初のホテルの屋上にいたことを考えると、ここでも前作とのシンメトリーが見られますが。
なぜテディが最初のホテルにいるのかが重要になります。
その理由は、ホテルで目覚めた時点でステュやテディは既に理想を断念しイニシエートされた大人になっているから。
夜のバンコクという非日常での体験、父の禁止(法律)を破る行為により、既に自己実現は達成されているのです。
いわばホテルで目覚めてからのステュの自己分析というのは、自己の変容と体験をふりかえり、その変容を心的に基礎づけることにあります。
だからこそ物語の冒頭、ホテルで目覚めたときには切断された指が既にあり、ステュの顔には最初からタトゥが彫られているわけです。
つまり最初の段階で既に去勢を達成しているということです。最初に達成されていることをふりかえって解釈することで、達成を心理的に基礎づけているために、最初のホテルでテディが見つかるということです。
このような構造は心理療法の世界ではホロトロピックセラピーと言われています。ホロトロピックセラピーとは昔なら合成麻薬、いまなら過呼吸状態をつくりだす身体的な操作で変成意識を生じ、無意識の世界を身体的に体験する心理療法のことです。
ホロトロピックセラピーの重要なのは、人為的に作り出し体験した神秘体験をそのあと、分析家と話し合い反省して基礎づけるというプロセスが必要なこと。
神秘体験を素朴に神秘だ!と考えているようでは心理的な変容は無効化されてしまいます。とくべつな体験は言葉によって解釈されてこそ意味を持ちます。
また具体的な行為を伴うホロトロピックセラピーというのは、言葉のみに頼る精神分析と異なり、前近代的なイニシエーションに近いといえます。
そのため本作にはアジアテイストなユングやホロトロピックセラピーの味わいがあります。
また伝統的な結婚の儀式を含め、イニシエーションというのは、日常世界から身体的に離れ非日常の世界で試練を達成し、ふたたび日常の世界へと帰還するという一連のプロセスによって特徴されるものです。
式場からバンコクへ渡り、バンコクで試練を達成し、ふたたび式場へと帰還する構成はイニシエーションの典型的モデル。またこの構成は映画では定番のものです。
とにもかくにもイニシエーションを達成し父からの試練を克服したステュは、父フォーンと対等に向かいあえるようになります。
そしてステュは
「僕はチョークじゃない、もし僕をおかゆに喩えるなら激辛ペッパー味だ!僕の中にはデーモンがいる!つまりそのデーモンがぼくを怪しい場所につれだしたんだ!そしてテディを二日間見失った、でも同じデーモンがテディのところへ導いてくれた!バンコクに勝ったんだ!(略)ぼくが言いたいのは、あんたも祝福してくれよなってことだ!」
とフォーンに宣言します。このシーンからは、すっかりステュが成長していることがわかります。
ところでデーモンはアランに投影されたものでもあり、この発言からもアランが重要な役割を果たしていると考えられるでしょう。
ハングオーバーとの対応表
作品 | 症状 | 母 | 理想 (トラウマ) | 父 | 分析家 |
1 | 虎 チャウ 売人 | メリッサ 娼婦 | ダグ 抜歯 娼婦と 結婚 | フィル バーテン タイソン | タイソン |
2 | 猿 老人 チャウ | ローレン ニュー ハーフ | テディ 指 ニュー ハーフ | フォーン キングスリ タイソン | キングスリ |
まとめ
- ステュが主人公
- ステュは婚約者の父からの承認をめぐり葛藤
- テディは父の完璧な欲望の対象でありステュの理想
- テディはステュの分身
- 切断された指は去勢のメタファ
- 猿やチャウ、老人は神経症の症状
- キングスリは精神分析家のメタファ
- アランはステュのうちなるデーモン
- パーカーは少年の理想
- ステュのタトゥは父の名
- ニューハーフは近親相姦願望のメタファ
- 老人とテディ(少年)はパーカーをやりとりする一体関係
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