どうも!うたまるです。
今回はコメディ映画史上最高の売り上げを記録したことのある『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』を精神分析的に解説・考察してゆきます。
この記事は、映画の物語の魅力を分析し、物語の奥深さを解説することで、みなさんの映画ライフの質を向上する目的で書かれています。
ハングオーバーとは
2010年時点、全米コメディ映画史上 歴代興業収入ナンバーワンを記録した名作です。
またゴールデングローブ賞作品賞にも輝いています。
一般的なストーリーと異なり、なにが起きたか分からない、というところから物語が動き出し、徐々に全貌が明らかになるという構成をしているのが特徴です。
監督は、意外にも批評性の高いシリアスな作品として知られるジョーカーを手がけたトッド・フィリップスです。
- ステュ … エド・ヘルムズ (永井誠)
- フィル … ブラッドリー・クーパー (桐本琢也)
- アラン … ザック・ガリフィアナキス (奈良徹)
- ダグ … ジャスティン・バーサ (川中子雅人)
- ジェイド … ヘザー・グラハム (小林さやか)
あらすじ
フィル、ステュ、アランが結婚を控えた友人のダグとバチェラーパーティーをしにラスベガスに向かうも、パーティーで羽目を外してしまう。
パーティー翌日、三人は目覚めると記憶を失い行方不明のダグを探す。
けっこう理解している方が少ないですが物語論的には主人公はステュです。
ハングオーバーの作品の意味
最初に本作がそもそもどういう構造の作品なのかという結論を示し、そこから各シーンの意味を詳しく解説しようと思います。
じつはこの作品はステュが自分を精神分析してゆく構造になっています。
つまり神経症患者が分析家のところに訪れ自己分析をし、成長するという心理療法の構造をそのままトレースして脚本に起こした作品です。
メリッサとステュの母子関係とは
物語冒頭、歯医者であるステュは長年交際しているパートナーのメリッサの尻にしかれ、自分の意見すらまるで主張できない人物として、そのふぬけぶりが強調されます。
そのため仲間のフィルからもファゴット呼ばわりされる始末。
最初のポイントとして、メリッサはステュの母親のメタファになっています。
そのためこの物語は母に依存するステュが成長して母離れするという構成です。ラストシーンでメリッサに反抗して別れるのはそのため。
母(メリッサ)との関係に葛藤を抱え、抑圧された自立への意志とメリッサへの依存心とのはざまでの苦悩があるのです。
そのためバチェラーパーティーの翌日になると二日酔いという形で神経症を形成しています。このような母から自立したい思いと母への依存心の葛藤による神経症を母親コンプレックスといいます。
基本的にステュは母親コンプレックスを抱えた神経症として描かれています。そのためメリッサに母親との関係を投影しているのが分かります。
こじつけの解釈と思われるかもしれませんが、最後まで読むとこじつけでないと分かります。
(※この記事はわかりやすさ優先でユング派の概念である母親コンプレックスの名称を使用。精神分析の場合正しくはエディプスコンプレックスです。)
記憶を失っている理由
肝心のバチェラーパーティーのシーンはなく、翌日に二日酔いで記憶が飛んでいるところから物語は動きだします。
じつはこの記憶喪失というのが本作を魅力的にする効果を持っており非常に重要なポイントになります。
精神分析では本作で言うバチェラーパーティーのような禁止や規則を破り、快楽のままに宴に興じる体験を享楽と呼びます。
そしてこのような禁止のない享楽のことをトラウマと言います。
享楽がトラウマなのに疑問を感じるかもしれないので以下に理由を解説。
社会的な禁を犯して快楽にふけるのはとても気持ちのよいこと、しかし社会的なルールを破ることは禁止されており、そのために罪悪感を生じます。
そして罪悪感から、人はルール違反(バチェラーパーティー)という気持ちの良いことへの願望を無意識に抑圧します。
ルールを守る一人の社会人としての自己を保つ上で、たとえば人を殺したいというような欲望は無意識に抑圧される必要があるわけです。また抑圧されることで殺人の快楽などの願望は罪悪感を伴うトラウマに変化します。
こうしてトラウマは無意識に抑圧され思い出せなくなる、というのが精神分析の考え方です。
そのためバチェラーパーティーは心的外傷、トラウマとして抑圧されたために思い出すことができないと考えられます。
また非常に重要なポイントは、ダグを失いダグを欲望して(探して)、無意識に抑圧されたバチェラーパーティーで何があったかを探る物語のプロセスが精神分析の治療プロセスとまったく同じなことです。
精神分析では夢などの記憶を頼りに無意識を探求し、抑圧され喪われた記憶を掘り起こしその意味を解釈して意識にもたらすことで治療を行います。
最初に病院にむかう意味
記憶がとんでいる一同はホテルの部屋にいた赤ちゃんをつれ病院へ向かいます。そこで前日にルフィリンという麻薬を盛られハイになって記憶が飛んでしまったことが発覚します。
このシーンは神経症患者が最初にカウンセラーのもとを訪れることのメタファーです。
また医師の診断は、ステュの神経症がルフィリンに関係しているということを示すもの。ルフィリンは麻薬=享楽でありトラウマ(バチェラーパーティー)と密接に関連してます。
娼婦と結婚していた理由とメリッサの関係
ダグを探し、バチェラーパーティーで何があったのかを探るうちステュがパーティーで娼婦と結婚していたことが分かります。
じつはこの娼婦もまたステュの母でありメリッサのメタファ。そしてステュは焦って娼婦との結婚を解約します。つまり無意識に抑圧された母親(娼婦)と一つになりたい、結婚したいという社会的に禁止された近親相姦願望が、抑圧され無意識のトラウマになっていたわけです。
そのため禁止を無視したバチェラーパーティー(トラウマ)として娼婦と一つになり結婚した記憶は抑圧のために思い出せません。
またステュがメリッサに婚約指輪として渡す予定の祖母の指輪を娼婦がつけていたのもそのためです。祖母の指輪(母の象徴)をはめているのは母親が娼婦に投影されていることを示します。
というわけでストリッパーの娼婦を見つけ出すシーンは、分析治療が進んでステュが無意識に隠していた自分の欲望を垣間見たと言ってもいいでしょう。
ところでステュが娼婦と性行為をしていたとなると、メリッサとはヤらせてもらえていなかったことが重要になります。
なぜメリッサはステュとの性行為を拒絶していたのか、その理由はメリッサがステュの母親になっているからです。
つまり無意識の次元でメリッサとステュは互いに相手に自分の母親と息子を投影しあっていたのです。
こうなってしまうと性行為が拒まれるのもやむを得ません。ちなみにこうした無意識的な相互の投影は現実にもよくあること。
重要なのは、母親コンプレックスに陥り、母からの自立と依存のはざまで苦悩するステュが、自身の無意識と対峙して、自己理解を深めメリッサから巣立っていくというのが本作の大筋だということです。
メリッサをふるシーンとフィルの関係
したがってメリッサがバーテンと不倫していたことが本作で複数回にわたり強調される理由は、バーテンがステュの父だからです。
これは母親(メリッサ)は父親(バーテン)のものであり、息子(ステュ)である自分は母ではない別の女性を見つけねばならないことを示します。
その証拠にラストシーンでバーテンの話をもちだしてメリッサを拒絶し母離れを成し遂げています。
この母子の間に入り母子分離を促すバーテン(父)のことを精神分析では父の名といい、父の名によって母からステュが分離したというのが本作のラストシーンの意味。
また、ここで重要なのはバーテンはフィルと同一の存在なことです。主人公グループの一人であるフィルは、物語冒頭からバーテンの話を持ち出しメリッサと別れろ!としつこくステュに迫っています。
つまりフィルは母子を分離する父親の役になっておりバーテンと同じ物語的役割をおっていることが分かります。
フィルが学校の先生であるということからして、子ども達に禁止をかす父を象徴していることは明らかでしょう。ハングオーバーシリーズではフィルは一貫して父親の役をしています。
トイレに虎の意味
ホテルで一同が二日酔いから目覚めるとアランがトイレに恐ろしい虎がいることを発見。
じつは、この虎はステュの母親コンプレックスという症状のメタファー。というのもトラウマや葛藤など無意識に抑圧された心的内容は症状として回帰すると精神分析では考えるからです。
症状というのは言語化されていない、つまりまだ解釈されていない抑圧された思考(願望)を象徴します。
そのため症状は抑圧されたトラウマに通じており、トラウマであるため取り除きたい恐ろしいものとして認識されます。
ちなみにトラウマが享楽という快感を背後に帯びるため、症状がくせになるということも非常によくあります。
というわけで虎というのはまさに神経症の症状としてふさわしい姿だといえます。
また無意識に抑圧した母への不安が虎として具体化し、不安が虎という具体的な対象(症状)をえて恐怖心へとかわったという見方もできます。
このような神経症(母親コンプレックス)を恐怖症といいます。
(※マニア専用補説、恐怖症は倒錯に近い神経症です。)
一般に神経症者は症状の意味が分からずに困り果てるのでその意味でも、なんでいるのか分からない虎というのは神経症の症状のメタファーになっています。
マイクタイソンと虎の関係
となると気になるのが、マイクタイソン。マイクタイソンは虎の飼い主であり、なんでステュの症状である虎がマイクタイソンと関係するんだ?と疑問の方も多いでしょう。
もちろんこれには明確な脚本意図があります。
重要なのはマイクタイソンは虎の飼い主であり、虎がなんなのか、そして消え去った仲間のダグがどこにいるのか、その秘密を握っていると期待された存在として登場していること。
じじつタイソンがダグのジャケットを持っていたために、ステュがこれで全ての謎(ダグの場所)が解けるという期待をよせるシーンがあります。
このシーンが意味するのは、タイソンが精神分析家のカウンセラーであること。
神経症患者というのは、自分を困らせる謎の症状(虎)の意味と真相(ダグの居場所)をカウンセラーは知っていて、自分の無意識の秘密もお見通しだと期待することが多いのです。
このような意味で精神分析家は治療初期においては「知ってると想定された主体」として患者に扱われることになります。
よってタイソンに無意識の秘密の知を期待する主人公グループはまさに、神経症患者のメタファーだといえます。
さらに注目すべきは、タイソンは、お前らのことなど知らんしダグも見ていないと宣言するシーン。さらに、お前達が虎を盗んだのだから、お前達が自力で虎を俺の家まで持ってこい!と要求することです。
じつはこのやりとり、精神分析では基本中の基本。分析治療では、分析家であるカウンセラーは自分が具体的な答えは何も知らないということを患者に分からせる必要があります。
厳密にいうと患者に、分析家は何を考えているのか分からないと思わせ続け、そのことで最終的に、分析家は何も知らないと悟らせるのが分析治療の終結の仕方です。
また患者というのは最初は症状(虎)と向き合うのを嫌がり、虫歯の歯を抜くような感覚で症状をインスタントに抜き取って欲しいと分析家に要求しがち。
このとき分析家は患者が症状(虎)から目を背け分析家任せにして逃げるのを禁止します。症状(虎)に接近し症状を深く探り症状と向き合うことを促すわけです。これが精神分析治療の基本です。
ちなみにユングの分析心理学でも、この態度は変わりません。
精神分析を実践する主体はあくまでも患者自身です。
というわけで、これでタイソンが主人公らに自力で虎を運び家まで持ってこいといった理由は明白でしょう。
タイソンは精神分析家として患者(ステュ達)に虎(症状)から逃げずにきっちり向き合って、虎の意味を自分で見つけろといってるわけです。
すると、苦労して虎を運び終え、タイソンと一緒に監視カメラの映像を見て、バチェラーパーティーで自分たちが何をやらかしたのかを確認するシーンの意味もおのずと明らかになります。
この監視カメラのシーンは症状が無意識のどこからやってきたのか、それを患者と分析家ががともにカウンセリングの場で明らかにすることのメタファー。
そこでは抑圧された無意識の記憶内容の一部が明らかになります。このシーンはまさに精神分析そのものです。
監視カメラの映像をみて感想を語り合うタイソンと主人公たちの関係は、患者の夢の内容を解釈しあうカウンセリングの場面そのもの。
虎(症状)がタイソンに返却されたことは物語が終わりに近づいていることをしめします。
つまり神経症を克服してステュが母離れする時が近づいているのです。
チャウとは
主人公たちは、虎と向き合う前のシークエンスで車のトランクのなかに人が閉じ込められていることにきづきます。
車のトランクのなかの人は抑圧された記憶のメタファーです。
なかにダグがいると期待してトランクを開けるとでてきたのは、レスリー・チャウという狂った人物で、チャウは素っ裸で大暴れをして嵐のように去ってゆきます。
そしてチャウが去った直後、アランは自分がみんなに麻薬をもったことを自白。この自白はもちろん、トランクに抑圧されいたチャウが解放されたことと連動しています。抑圧されていた記憶(チャウ)はアランが薬をもったという記憶だったわけです。
こうしてアラン以外の一同はアランのせいでバチェラーパーティーがカオスな享楽の世界になったことを知ります。
このことからアランはステュの抑圧された母と一つになりたいという願望の化身だといえるでしょう。つまりバチェラーパティーでの禁止のない享楽はアランが望んだ(薬を盛った)わけです。
フィルがステュにとっての父ならアランはステュのなかにある禁止を超えて本能のままに享楽をむさぼるデーモンといえるかもしれません。そう考えるとラストでメリッサを口説こうとするアランの行動もよく理解できます。
チャウとカジノ
チャウが裸で去ったあと、一同は手がかりを探しにホテルに戻り、そこでタイソンと会って虎を無事にタイソンの家まで送りとどけます。
こうして虎(症状)から解放されダグの手がかりを得た主人公グループを突然にチャウが襲撃するシーンがあります。
この一連の物語の展開は虎という症状を解消したのに、新しい神経症の症状(チャウ)が出てきたことを示します。
じつはこういうことは神経症では一般的です。そのため症状というのは厳密にはなくならず、他のなにかに置き換わるだけとするのがラカン派精神分析の基礎的な考え方。
分析過程で症状がなくなるのも症状が分析家との関係に置き換わっただけと考えられ、これを転移神経症と言います。
チャウ(新たな症状)の登場は、まだ母親コンプレックスを完全に解消するには無意識への探求、バチェラーパーティー(トラウマ)での出来事を探る作業が不足することを意味します。
(※マニア向け補説、言葉の通じない虎から会話可能な人への症状の置き換わりはユング派なら、治療の進展として評価します。)
チャウに襲撃されるもチャウという症状と主人公らは向き合いダグの居場所やパーティーで何があったかの真相をたずねます。
すると断片的ながら色んなことが発覚。
まずチャウを閉じ込めたのが自分たちであること、これは無意識のトラウマを抑圧していたのが自分であることを示します。
つぎにチャウの金でカジノでもうけて、さらにその金を盗んだことも分かります。
そして怒り狂ったチャウにダグを人質にとられ、金を返さないとダグを殺すと脅されます。
こうして主人公たちはふたたびベガスへと赴き、同じカジノに入店してアランが学習したブラックジャックのいかさまで大儲けします。
そしてパーティーの時にもうけたのと同じ8万ドルを手に入れ、それをチャウに返却。
これは、抑圧されたトラウマのなかに深く入りこみ、無意識の欲望を理解する分析のメタファー。
無意識に抑圧された記憶を追体験するこのシーンは言うなれば夢分析です。夢によって無意識の内容を体験し、それを解釈するという分析過程に相当します。
チャウに金を返すとダグが返還されます。ついにタグを見つけられたと思ったのもつかの間、返還された男は全くの別人、名前がダグなだけの薬の売人でした。
こうして虎からチャウへと置き換わった症状はダグ違いの売人に置き換わります。もちろんこの薬の売人もトラウマ(パーティー)に関係する人物です。
ダグの結婚とステュの別れの意味
ステュは麻薬の売人がエクスタシーとルフィリンを間違えてアランに渡したことを売人に告げます。
すると売人はルフィリンの俗称がルーフィーなのはおかしい、ルフィリンをやってもルーフには登らないといいます。
さらにフロアに落ちるからフローリーのがいい、グランウンディはどうだ!とルフィリンから言語連想を続けます。
売人のダグ違いが韻を踏むようにネーミングを連想する、そのワードに、ステュはひらめきダグの居場所が発覚します。
言語連想
ルフィリン→ルーフィー→フローリー→グラウンディ
じつはこの言語連想による推理、これは精神分析の分析手法をオマージュしたもの。
というのも精神分析は自由連想という手法をつかうからです。
ラップのように韻を踏むか、単語の意味の関連性から言葉を連鎖的に連想するのが自由連想の基本。またルフィリンから始まる言語連想は、ルフィリンが虎に置き換わり、それがチャウへという症状の置き換わりにも対応します。
作品の全体の構成といいこのシーンといい、本作は精神分析をベースに脚本が書かれたのは間違いないと考えます。ちなみに映画脚本で精神分析をつかうのは一般的。
というわけで、ついに症状(虎)は連鎖して置き換わり、ダグへと至ることに成功し、ステュの治療は終結を迎えます。つまり物語はメリッサからの分離、エンディングへと進むわけです。
ところでこうなると気になるのがダグとはそもそもステュの何なのかということ。
結論を言うと、ダグはいうなれば、ステュの歯です。
これまで触れてきませんでしたが、ステュはパーティーの翌日に目覚めると歯が一本抜けてます。
基本的にユングでもラカンでもこの場合の抜けた歯の解釈は変わりません。深層心理学では、このような抜けた歯のことをファルスとか去勢と考えます。そして、この抜け落ちた歯こそがダグです。
つまりダグというのはステュにとっての理想の自分。そして深層心理学でいう去勢というのは自分の理想を断念すること。
なので、この場合はステュが母(メリッサ)と一つになることを断念したことがダグの喪失と抜けた歯に対応します。
その証拠に、ダグは結婚を控えている身であり、もともとステュは、ダグの結婚式でメリッサ(母)に祖母の指輪を渡してプロポーズすることを考えていました。
よってダグの結婚に自分とメリッサの結婚が投影されていたと考えられます。
だからこそ母親コンプレックス的なトラウマ(母子一体)の理想が投影されたダグは喪われ抑圧されなければならなかったわけです。
したがって最後にダグにたどり着くことの意味は、ステュが自分はダグにはなれないことを自覚したことを示します。ルフィリンという最初の神経症の症状から虎→チャウ→売人と連想を連鎖してダグにたどりついたのもこのため。
ダグこそが抑圧されたトラウマの震源地、断念されねばならなかった禁じられた対象(理想)です。
こうして理想(ダグ)は断念され、断念されたことで理想は象徴的なレベルで獲得されることになります。
つまり、ダグとの再会は、メリッサ(母)ではない女性と結ばれることが可能になったことを示します。
ステュはメリッサに所有される対象(メリッサの理想)ではなく、自分で自分の理想(歯)を所有し意志決定できる主体としてメリッサ(母)から分離したのです。
(※精神分析マニア向け補足、じつは禁止のないアランはラカン派でいう欲動の主体でありステュにとって大切な存在です。アランなしにステュの分離は考えられません。)
ステュと娼婦の関係の変化
物語の終盤、ダグを見つけダグの結婚式へと向かうときにステュは婚約を解消した娼婦と再会。
このシーンで娼婦はステュから受け取ったステュの祖母の指輪を返還。
するとステュは母親コンプレックスのために、さんざん嫌がっていたはずの娼婦をデートに誘います。
このシーンでは明らかに両者の関係が変わっているのが分かります。
重要なのは指輪の返還です。祖母の指輪というのは母のメタファーですから、この指輪をステュに返すというのは、彼女に投影されていた母親像が引き戻されて投影が解消されたということです。つまり母親コンプレックスが解消され神経症が克服されたわけです。
これでステュにとって娼婦は母ではなく一人の交際可能な女性になり、デートに誘うこともできるようになりました。
人物の対応表と連想リスト
症状 | 母 | トラウマ (抑圧の理想) | 父 (禁止) | 分析家 |
ルフィリン | メリッサ | 娼婦 | フィル | 医師 |
虎 | 娼婦 | アラン | バーテン | タイソン |
チャウ | 祖母の指輪 | ダグ | ||
売人 | 抜けた歯 |
分析は以上です。
というわけで売れる作品には理由があるということが、この分析から分かると思います。人が母から自立して一人の社会的人間になるという普遍的なテーマを、精神分析という非常に深い次元から緻密に描写しているということがハングオーバーという作品に隠された魅力の秘密だとぼくは思っています。
この映画から分かるように母からの分離の課題は人生の至る局面で繰り返し生じてくるものです。だからこそこのような映画は万人の母親コンプレックスにつよくうったえ、非常に魅力的な作品となっているに違いありありません。
まとめ
- ハングオーバーはステュが母離れする物語
- ステュは母親コンプレックスの神経症
- バチェラーパーティーはトラウマであり享楽
- メリッサは母親のメタファー
- 娼婦との結婚は近親相姦願望のメタファー
- マイクタイソンは精神分析家のメタファー
- 虎はステュの神経症の症状
- 虎がチャウや売人に置き換わるのは症状の置き換わり
- ダグはステュの断念すべき理想
- ダグが断念されたことでステュは母から自立
- フィルとバーテンは母離れを促す父
- アランは禁止のないステュのなかのデーモン
- ステュの歯が抜けているのは去勢
- ラストの売人の言語連想は精神分析のメタファー
今回は以上です。
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