りゅうちぇるの死去に関する精神分析的一考察【ジジェク的解説】

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どうも!うたまるです。

こんかいは、息子の誕生日の翌日に自殺したことで話題を呼んだりゅうちぇるについて。

世間では誹謗中傷で死んだとか、育児問題で死んだとか、ホルモン注射の影響があったと言われていますが、精神分析ではどのように解釈するかを解説します。

念のため、書いておくと、この記事はゴシップ記事ではありません。

この記事はポストモダンと言われる今日を象徴する問題としてりゅうちぇる事件を扱い、学問的な見地から現代社会批評を行うことで読者に社会について考えるための一つの学問的視座を提供することを目的とします。

そのためなんで死んだのか、ゴシップ的推論をするようなナンセンスなことはしません。

またこの記事はジジェクが主著で展開するポストモダン批判の論理である禁止の禁止を比較的に分かりやすく解説しているため、はじめてのラカン入門・ジジェク入門としても読めます。

りゅうちぇると誹謗中傷

生前、りゅうちぇると親交のあった芸能人いわく、りゅうちぇるは誹謗中傷を気にしていなかったという。

もっとも女性化のためのホルモン注射による影響や子育てのストレスでナーバスになり誹謗中傷が効いたという可能性は否定できない。

しかしよりマクロ的な、あるいはより深層心理的な視点で件の問題を解釈するのであれば、誹謗中傷はきっかけのレベルにとどまるだろう。

しかしながら誹謗中傷問題は昨今の大衆の関心事と思うので、その原理についてりゅうちぇるの問題と絡めて簡単に精神分析的な解釈を述べ、そのうえで自殺の本質的な背景を解釈してゆく。

禁止と理想自我と自己疎外

精神分析では昨今、SNSで巻き起こる誹謗中傷や正義マンの台頭は、神の不在(無意識化)や「禁止の禁止」として捉えることができる。

禁止の禁止とはラカン専門の哲学者、ジジェクによる指摘である。詳しくはジジェク著『ラカンはこう読め』を参照していただきたいが、簡単にその論旨を解説する。

ここでラカンやジジェクがいう禁止というのは、一般の方向けに分かりやすくいえば理想への到達の禁止を意味する。

理想とは欠如のない完全な対象、完全な自己像といってもいい。

これを生前のりゅうちぇるの言葉に置き換えるなら本当の自分というのがここでの理想である。

この理想を鏡像とか理想自我(知覚の統合としての自我イメージ・想像的)という。

言語を話す主体としての人間は本来、理想を禁止されている。
この禁止のプロセスを疎外という。
※疎外について詳しくはぼくの記事『ハンコックを精神分析で解説』参照して欲しい

ひらたくいえば、自分とは何者であるか?という問いの答えが、自己の理想像に直結する。そのため理想の禁止が生じると自分が何者かの答え=本当の自分というものは欠如し到達不能となる。

この本当の自分の不在をラカンは欠如という

たとえば、あるとき、無意識に人を助けたとする。このような無意識の行為全般を精神分析では錯誤行為というのだが、これは自分の意識的な意図を超えているという意味で、無意識的であり他者性を帯びている

(※厳密には精神分析における錯誤・失策は言い間違やど忘れを示すが、本質的には意図意識に反する無意識的行為全てを指すものと理解すると良い。また錯誤はヴァイツゼッカーでいうクリーゼに対応し、ラカン的に言えば大文字の他者からの享楽=情動の闖入にも等しい。)

そのため無意識的な行為の主体とは他者的であるといえよう。
このような自己とは異なる主体性をもった他者や他者性のことをラカンは大文字の他者という。一般に大文字の他者は山カッコをつけて〈他者〉と記述することが多い。

人は意識的な予期や意図を断絶(クリーゼ、死)する〈他者性〉としての無意識的行為を振り返り、その言語的行為の他なる意図を言語によって意味づけ新たに自己の存在了解(自分とは何者かの答え)をえる。

つまり、無意識的な人助けであれば、それを振り返り言葉で解釈して意味づけることで、ぼくは人助けをするために生きている!本当のぼくは人助けをする使命をもった存在なのだ!という自己理解に到達する。

ところで忘我状態=無意識下にある思わずの人助けの瞬間においては、意識と無意識は同化し、確かに人は理想へと到達し、即自的な自己実現が生じているといえるかもしれない。

しかし言語的に振り返り解釈すると、とたんに本当の自分は意識的な自分から離れてしまう。

たとえば、ぼくは人助けが生きがいだと自覚したことで、それまで人を助けるために行為していたはずが、人を助けるために助けるという事態に陥ることは多い。

つまり純粋に人助けしていたはずが、使命を自覚することで、自分の自己実現をなしアイデンティティを守るために人を助けるようになってしまうというわけだ。

こうなると、もはや純粋な人助けに生きた充足した自己は消え去り、自己認識=言語的に意味づけられた自己理想自我=本当の自分とにズレが生じてしまう。

このことは言語的な自己認識をすることで、つど本当の自己が言語的に意味づけられた自己より疎外されるといってもいいだろう。このとき言語的に獲得された自己認識を象徴的な自己(シニフィアン、鏡像、意味)といいズレてしまう理想の自己を本当の自分(存在)というわけだ。

というわけで禁止とは、理想の自分(本当の自分)へと言語的に到達すること不可能を作り出す。

つまり言語的に解釈することで本当の自分は欠如してしまう、その欠如を作り出すことを禁止=(言語への自己の)疎外といい、さらに欠如を引き受けることを二度目の禁止(分離)という。
(※疎外と分離について詳しくは僕のハンコックについての記事に書いてあります。)

禁止の禁止とは

そしてポストモダン的な現代社会は禁止の禁止を特徴とし、ジジェクは禁止の禁止を倒錯者の幻想として扱う。

これを平たくいうと、ジジェクは欠如していて到達できない言語的に獲得される本当の自分(人助けが生きがいのヒーロー)が持つ、欠如性(到達不可能)を完全に抹消しようという時代精神(ポストモダン)を禁止の禁止といっている。

ようするに欠如を作り出し欠如を受け入れるための禁止がデリートされ欠如が無くなることを禁止の禁止というのだ。

いわば、これは言語的に反省された自己認識(象徴的自己)と本当の自己(言語以前の無意識一体の自己)との落差を抹消しようという時代精神に他ならない。

このような幻想を抱く主体をラカン派精神分析では倒錯といい、これを否認という。
(※厳密には倒錯は〈他者〉の現実的な対象となることで本当の自分に到達しようとするので少し違うかもしれない)

ところで人間の自己認識が変容できるのは、それが本当の自分ではなく欠如しているから。

つまり本当の自分への到達不能としての欠如は人間の自己変容の根拠でもある。

よって本当の自分が欠如していて分からないからこそ、本当の自分とは何だろうかと問いそれについて主体的に考え、そのつど自由に自己実現することができるのだ。

この欠如した本当の自分を巡り自己を問う主体性(個性)をラカンは欲望という

禁止の禁止と正義マンと言語

禁止(欠如)が禁止(否認)されると、なぜ誹謗中傷マンや正義マンが増えるのか。
(※誹謗中傷をする人が必ず悪いかというと違うし、状況によって誹謗中傷の意味も良い悪いも変わるがここでは仮に誹謗中傷は問題であるとして扱う)

その理由を理解するためには言語へと本当の自己が疎外され欠如する、禁止のプロセスを知る必要がある。

大事なのは、人はなぜ、言語によって自己言及し、言語によって自分が何者であるか、その答えを獲得しようとするのか。

その答えは幼少期の親子関係にあるとラカンはいう。
(※もともと精神分析というのは心因的・状況因的に問う特徴がある一派なので基本的に幼少期の親子関係にフォーカスする癖がある。)

母子一体を望む乳児は父によって母親との一体を禁止され乳離れさせられたりする、これが有名なフロイトの近親相姦願望の禁止の一例。

すると肉体的、直接的、無媒介的、感覚的に母親へと到達することが断念される。むしろ父によって禁止されてこそ乳児は母から自律した主体性を獲得できるといえよう。

そのことで子どもは今度は言語的、社会的な存在として言語を介して母からの承認を得ようとする。

父の言語による禁止によって生じた母親の欠如(不在)を埋めるため子どもは言語を習得して〈母=他者〉の欲望を探るのだ。

また母親も社会的な存在であり社会的・言語的な事柄への関心(欲望)からしばしば子どもの元を去り、子どもに母の不在(欠如)を幾度も生じる。

そこで子どもは母の不在を生じる母の欲望(欠如)を言語的・社会的に探り、その対象となることで母の唯一の関心(欲望)の対象となり、〈母=他者〉の欠如を埋めようとする。

つまり成績で主席になる、コンクールで優勝するなど言語的に規定される社会的な象徴となることで母と間接的につながろうとするわけだ。

よって母親の社会的・言語的な欲望を探り、その欲望を欲望して社会的・言語的な象徴的自己へと至るプロセスを(言語への自己の)疎外という。

もちろん言語的に解釈される自己像というのは先ほど説明した通り欠如しているので、言語象徴的な対象になっても母の欠如を完全に埋めることはできない。

(※厳密には積極的に言語的・社会的な象徴として自己実現を目指すあり方は疎外ではなく欠如が名付けられて受理される段階である分離だが、この記事は一般読者向けに短さとわかりやすさ優先)

しかるに、言語世界(象徴界)への疎外とは母子一体を禁止すること、父の禁止によって実現する。

かくして言語活動への同一化は母の言語的・社会的欲望へと導く父の禁止を介する子どもの断念と親の欲望を探りその欲望を欲望するプロセスによって生じる

また、ここでの父の禁止は自他の峻別、自己の限界を構成することに対応する。

つまり禁止とは母と一体ではないという事実を受け止めること。ゆえに母の欲望が言語的に探られ、言語的であるために母の本当の欲望には決して到達できないということ。

言葉は直接の感覚を記号によって置き換えている側面がある。そのため言葉は感覚それ自体には到達できない。そして言葉の意味は文脈によって変化する。

個々の言葉の意味を規定する文脈などのことをメタメッセージというのだが、メタメッセージとは言語的に参照することはできない。

文脈、すなわち言葉の背後にあって個々の言葉の意味を規定するところの意図は、言語を超えており、推論するよりほかない〈他者〉の欲望(欠如)の本体なのだ。

言語において原理的に言表不可であるメタメッセージとは言語のレベルでは欠如しているということ。

したがって言語的に宣言された欲望とは、どこまでもその真意(文脈意図)が欠如している。

母子一体のころは母の真意は自己の感覚と一体となっており、感覚的に直接到達できていたのに言語の世界へとひとたび疎外されると母の真意は参照不可能になるわけだ。

こうして自他の内面が隔てられて、自分とは異なる絶対的に到達不可能な〈他者〉が構成される。

また文脈意図の参照不可能、到達不能性は、母の欲望の欠如した本体を示す

されに踏み込めば、欲望とは、言語のレベルでは、その本体(文脈意図)がつねに言語的には確定できず曖昧で欠如していることで可能となる。

そのためラカンは欲望とは欠如であり欠如とは欲望の原因であるという。このような到達不可として求められる欠如の対象を対象aという。

もし欠如していなければ、つまり欲望するものを持っていれば、既に持っているものを人は欲望できない。だから欲望とは欠如がつくりだす。その欠如を示すのが対象aといえる。

そのため他者の文脈や意図というべき欲望の欠如を示す禁止が、否認(禁止)されると自分の意図(内面)と他者の意図(内面)の区別がなくなってしまう。

つまり自分勝手に相手の言葉を解釈するヤバいやつになる。

じつはこのことが禁止の禁止における正義マンや誹謗中傷の正体である。

というのも、父の秩序であり法である禁止(正義)は言語体系が持つ法でもあるからだ。

たとえば正義や秩序という体系的概念に関連する諸概念の言語的意味連関には、その意図やコンセプト、文脈としての参照不可能なメタメッセージ(正義の主体)が存在するのは言うまでもないだろう。

だから人は正義とは何か、その本質について考えることができる。

もし正義が、到達不能なメタメッセージの領域をもたなければ正義はスタティックなものであり硬直した既知のものであって、それについて議論したり変更を加えることはできない。

したがって父の法という言語の主体としての〈他者〉の欲望(秩序の主体・意図)の欠如性こそが正義について考え議論し個々に解釈する余地を与えているといえよう。

しかし、欠如をなきものとする禁止の禁止が起こると、正義のもつ意図から〈他者性〉が消え個人の主観が正義の欠如=正義の主体と一致してしまう。

すると自分の身勝手な主観的正義解釈や感覚が正義の絶対的本体として同定され、かくして独善的な正義マンが誕生することになる。

一部の誹謗中傷も同じで自分こそが絶対の正義だという確信、正義(理想)への到達が独善を生じる。

象徴的な社会秩序へと過剰に同一化することで、秩序の欠如である意図が自己の主観として実体化し正義棒を振りかざして他者に禁止をかすモンスターをつくりだすのだ。

この象徴的な秩序(法律や社会の言語的ルール)をラカンは自我理想といい、象徴的秩序の欠如であり秩序の根拠でもある文脈意図=正義の主体を超自我という。

よって自我理想の核であり根拠(欠如)が超自我なのだ。

この本来欠如しているはずの超自我へ到達・同一化することで正義マン(超自我)となり他者を抑圧するモンスターとなる。
禁止の禁止が皮肉にも禁止をまきちらすモンスターをつくってしまう構造がここにあるのだ。

ちなみに、自己の禁止を禁止すること、正義マン化して他者に過度の禁止をかすこの現象をアンナフロイトは攻撃者への同一化とか受動と能動の反転として幼児的な防衛機制に位置づけいている。

(※禁止の禁止が大文字の他者を解体してしまうことを考慮するとアンナフロイトの攻撃者への同一化は想像的な禁止の禁止に対応している)

ジジェクは禁止の禁止について面白い説明をしているので、それを紹介する。
なんでも自由で禁止を否定するポストモダンの親は子どもに、お前の自由だがもしお前が行きたいなら明日、学校帰りに祖母の家に行きなさい、という。

すると子どもは自分で行きたいと思って祖母の家に行かねばならなくなり内面の自由すら禁止される、とジジェクはいう。

対して、保守的な親なら、お前がどう思おうが勝手だがとりあえず明日、祖母の家に行け!という。このとき子どもは行動を強制されるが、それでも内心の自由は確保されるという。

つまり保守的な親の放課後に遊びたいという願望の禁止の命令は、子どもの内面に自由までは奪わないが、ポストモダンでは何も禁止しないことで、かえって内面の自由すら禁止してしまうということ。

簡潔な正義マンのまとめ

じつは本当は母の欲望の鍵を父が握っていて云々という説明をした方が親切なのだが、長くなるし入門書に書いてある紋切り型の説明のパクリしか思いつかなかったので、その説明をすっとばしてしまった。

というわけで代わりにコンパクトに話をまとめる。

つまり、禁止をかす象徴的父による自己の禁止がないということは、自己の主観(価値観)が自己の個人的な主観・価値観として限定されないということ。

内面が他者である母や父(象徴的秩序の主体)に到達し同化しているため、到達不可能な自分と異なる〈他なる〉文脈意図・主体が存在しない。

このことは自己の限界のなさを示す。自己の価値観は禁止よって生み出される到達不能な〈他者〉の価値観の成立によって自他の境界がつくられて唯一の絶対的に正しい価値観から自分の個人的な価値観へと去勢される。

ゆえに境界とは欲望のことであり限界(欠如・禁止)なのである。

したがって禁止なき世界、国境や性別の制限なき世界とは、言語秩序の文脈・意図へと融合してしまい未分化となる世界なのだ。

すると自分の価値観=絶対的に正しい唯一の価値観みたいなことになる。こうして正義マンや誹謗中傷が生じるのだ。

仮に当人が自分の価値観を俯瞰してみても、今度はその俯瞰した視点が絶対的に正しい客観的な視点みたいになってしまって、どこまでいっても自分が唯一の世界の中心になってしまう。

ここまでくると倒錯というより、非定型発達や発達障害における排除の機制に近いのだが細かい専門的なポストモダンの議論はここではしない。

りゅうちぇる自殺の理由

りゅうちぇるのインスタの発言を以下に抜粋する。

「メディアで自分のこれまでの生き方や、”夫”としての生き方についてお話しさせていただく機会が増えていく中で、”本当の自分”と、”本当の自分を隠すryuchell”との間に、少しずつ溝ができてしまいました。」

「これまで皆さまに多様な生き方を呼びかけてきた僕なのに、実は僕自身は、”夫”らしく生きていかないといけないと自分に対して強く思ってしまっていました。
“夫”であることは正真正銘の”男”でないといけないと。
父親であることは心の底から誇りに思えるのに、自分で自分を縛りつけてしまっていたせいで、”夫”であることには、つらさを感じてしまうようになりました。」

りゅうちぇるのインスタより抜粋

この発言から本当の自分と象徴的な自己像である夫としての自分との解離を悩んでいたことが分かる。

これまでの説明で分かるようにこの本当と象徴の差(欠如)こそが言語的な主体(欲望)の根拠だと言える。

つまり、もし言語によって解釈された自分が本当の自分と一致したりすれば、言語的に規定された自分にひたすら隷属することになり主体性がなくなる。あるいは完全に満足しきって何も欲望できなるなる。

たとえば一日4時間勉強するガリ勉マシンという言語による自己解釈が本当の自分と完全に一致してしまうと、ひたすら毎日4時間勉強するだけのロボットになってしまう。

本当の自分は言語のレベルでは曖昧で欠如しているからこそ、自分のあるべき姿をつど問い自分の頭で考えることができるといえよう。このような欠如を根拠に問うことが人間の主体性(個性)の正体なのだ。

もしも欠如がなければずっと無意識的なままかロボットかの二択である。

よって理想への一致を夢に見つつ欠如を引き受け、理想(本当の自分)という欠如の中心点(ブラックホール)の周りをグルグルと巡る公転運動のことを欲望=主体(個性)という。

人間の個性とは、かくして象徴的自分(夫)と本当の自分との落差によって作り出される消え去った自分とは何かの答えを求める欲望の運動(主体性)のこと。

したがって、この落差(欠如)を生じる禁止を抹消することは心理学的、現象学的には主体の死を意味するのはいうまでもない。

何もかもが自由であり限界の設定がなく、男女の境界すら抹消する禁止を禁止するポストモダンの世界は、本当の自分と象徴的な言語的自分との差を消し去り逆説的に主体を殺してしまうのだ。

その意味では、りゅうちぇるの女性化〈他の性〉は、欲望の淵源たる〈他者・無意識〉への到達にも等しいのかもしれない。

このことから倒錯的な幻想を称揚する時代精神がりゅうちぇるを結果的に自殺に追い込んだ可能性もあると考えることも可能だろう。

心理学的な主体(個性)の末梢がアクティングアウトを起こし物理的な自殺に至るということは臨床心理の世界ではしばしばあると読んだことがある。

ところで生粋の発達障害であれば、はじめから欠如がないまま安定していることが多いので、自殺の問題はないのかもしれない。

しかし倒錯や神経症水準の素養がある人が、ポストモダン的な禁止なき世界観に暴露し続ければ、主体性が消去され自殺の問題が生じる可能性があるのは否めないだろう。

少なくとも昨今は疎外の崩壊にともない人間の言語活動そのものが崩壊してきているのは確かだと思う。

※りゅうちぇるの女性化や自殺のタイミングから精神分析ではいくつかの憶測を展開することができるが、それについては割愛

終わりに

本当は禁止が抑圧であり抑圧を介して無意識(諸欲動)が言語のように構造化され身体と精神が分離し、身体が所有されることがファルスを持つことに対応していること、根源的幻想について、換喩と隠喩の対応、ボロメオの結び目などなど説明すべき基本が山ほどあるのだが、とても長くなりブログでやれる話ではないので割愛した。

身体のシニフィアンによる所有が分かるとラカンのいう換喩と時間の構造化の関連や欲望の弁証法についてがわかり、さらに空間と時間の構成理論に接続してラカンを理解できるのだが、とてもブログではそこまでの説明はできそうにない。


ところでここまで、象徴的自分と本当の自分との落差、つまり言語的な象徴世界において、本当の自分が失われ、欠如していることが主体の主体性(欲望)を可能としていることを中心に説明してきた。

ここでいう象徴と本当との違いをハイデガーでは存在論的差異という
存在論的差異とは存在者(対象)と存在(対象化作用=ある)の違いを示す用語である。

ここでいう存在者はラカンでいう象徴的自己(シニフィアン)を示し、存在は本当の自分に対応させることができる。

したがって両者の落差を示す存在論的差異こそが欲望(主体)だということができる
もっとも存在とは同時に存在論的差異でもあり少しややこしいのだが。

いずれにせよラカンが欲望とは欠如であるというとき、欲望そのものが存在に属するため欠如しているという意味として理解すると納得しやすかったりする

ラカンの主張は非常に多義的なので多面的かつ体系的な理解を探る姿勢が重要になる。

ところで、この存在と存在者、本当(理想)と象徴との差異(欠如=欲望)が抹消・混淆されることで現代社会がぶっ壊れているといえる。

少々理路は異なるが日本を代表する現象学者の竹田青嗣も存在論的差異の混淆が人類の世界観を独断論と相対主義の分断に陥れ、そのことで共同体が危機に瀕していると考えているようである。

なぜ存在論的差異の混淆が生じ、現代人は存在を存在者へと還元したがるのか、これについては木村敏『異常の構造』や僕のyoutubeチャンネル、あらゆる物語研究所のヘーゲルについての後半の動画が参考になると思う。

ところで近代民主主義が誇る人民による人民統治という自己統治モデルが機能する心理学的な前提となるのが近代主体・近代自我(欲望の主体)の獲得だといえる。

しかしポストモダンにより近代的な主体を意味する欲望の消去=存在論的差異(欠如・禁止)の消去が進行しており、民主主義は機能不全におちいっているといえよう。

個性の尊重を叫び多様性のもとに自認・自己決定を際限なく推進し、あらゆる禁止(境界・限界)を消去する昨今のポストモダン的な潮流は、非常にキケンであり、すくなくとも人間を逆説的に無個性に帰するのは確かである。

この記事でラカンについて詳しく知りたくなった人はこちらの記事『これからラカンを学ぶ人のための』をご覧ください。

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