「マイ・エレメント」が歴史的傑作である理由をネタバレ解説・考察!【精神分析映画評論】

ディズニー公式アカウントがXに投稿するマイエレメントの画像

どうも!うたまるです。上映中の映画ですがこの記事は詳細なネタバレがてんこ盛りです。

今回は映画マイ・エレメントについて。ディズニー&ピクサーの最新作を心理学的に完全解明。

ストーリーの意味などを細かく解明し、本作のテーマ性、批評性を紐解き、その素晴らしさを紹介
じつは本作は意図的に脚本家が深層心理学的な神経症をテーマにしているので本作の解説に深層心理学理論は欠かせない。

前半はラカンの理論をつかって解説し後半はユング心理学をつかって解説。

マイエレメントは純粋に楽しみたい子どもも、高い批評性や哲学などのメッセージ性を重視する大人も、あたらしい映像表現の可能性を感じたい人にもおすすめ!

マイエレメントとは

作品名マイ・エレメント
監督ピーター・ソーン
制作ディズニー&ピクサー
公開日8月4日
Filmarks
レビュー
4.1/5.0

3Dアニメーションではマリオやミニオンで有名なイルミネーションと双璧をなすピクサーが制作とその親会社ディズニーが手がける最新作。制作費2億ドルを投じた大作アニメ映画。

火や水の表現は秀逸でこれまでにない独自の映像美を実現しているのも本作の魅力。

またヒットしたマリオと異なり現代社会への批評性が高いのが本作の特徴である。

あらすじ

物語の舞台は4つのエレメントたちが共に暮らすエレメント・シティ。

そこに火のエレメントの移民夫婦が移住するも火のエレメントは差別されている。また火のエレメントは他のエレメントとは関わらず、ましてや結婚などもっての他。

なんとか移民夫婦は住居を見つけ雑貨屋を起こし火のエレメント街で生活の基盤を築く。

夫婦は本作の主人公、エンバーという女の子を産む。

エンバーは店を引き継ぐことを夢見て成長し大人になるが癇癪もちでしばしば爆発してしまう。

そんなあるとき、水の青年ウェイドはアクシデントをきっかけに出会い恋に落ちる。

本作のテーマ

本作の舞台は伝統(共同体)と近代的な生き方(自由な個人)との葛藤。
邦画アニメでいえば、2022年のクレしん映画「もののけニンジャ珍風伝」と極めて近い。

もののけニンジャではまったくその主題を消化しきれず、めちゃくちゃ子どもに見せられないモラルハザードなポストモダン的決着をしていたが本作では完璧な回答が提示される。

マイエレメントでは完璧に主題を扱いポストモダンの弁証法的克服が描写される。さすがは世界のディズニー、過剰なポリコレで落とした信用を回復するだけの力が本作にはある。

もののけニンジャと違って、子どもに見せたくなる教育的な映画である点も本作の魅力

そんな本作は火の一族として伝統を重んじ家業を継ぐことを夢見るエンバーの葛藤と恋愛を描く。


本作の基本設定

本作の舞台となるエレメントシティはニューヨークに近い。
エレメントシティは4つのエレメント達が暮らす大都会。

主人公が恋をするウェイドは水のエレメント、水は第一エレメントとされ金持ちが多いようである。

現実世界で言えばワスプ、アメリカ白人が水に相当するだろう。

その水と相性が良いのが土のエレメント、土といっても実際には木っぽい見た目で水と仲がいい。

第三のエレメントは風、風と言っても雲のような見てくれのエレメントで風も水とはなじんでいる。

最後のエレメントが火、火は水を蒸発させ水は火を消す、そのため水と火は水と油の関係にあり仲が悪い。そのため火は徹底的に差別されている

現実世界でいえば、火はアメリカ社会におけるアジア系移民。ゆえに火の街はチャイナタウンとかコリアンタウン的なポジション。


神経症とエンバー

主人公エンバーは癇癪もち。嫌みな客が来ると爆発してしまう
ちなみに爆発する炎キャラなので、FFのボムにもすごく似ている。

そんなエンバーは父がいちから築いたお店を継ぐことが夢
そんな店には火の一族の伝統の魂であるブルーファイヤがともっている

ある日、お店の大セールの日、店を任されたエンバーは、客に癇癪を起こし大爆発。
爆風で配管に穴が開き浸水。漏れた水と一緒に水のエレメント、ウェイドが出現。ウェイドは市の検査官であり店の条例違反を記録し、市に報告してしまう。

結果、店は営業停止命令を下される。

癇癪もちの気の強い主人公の変容が描かれるのだが、物語後半で、癇癪が神経症の症状だと発覚する。

つまり、エンバーは意識の上では店を継ぐのが夢で、幼い頃からそのために生きてきたが、無意識ではお店なんか継ぎたくないと思っており、そのために癇癪で爆発していたことが発覚する。

神経症というのは、意識がある願望を無意識に抑圧することで、その抑圧した内容が症状として回帰することで生じる心因性の心身のトラブル(症状)のことをいう。

そのため、意識では店を継ぐことを良しとし、店を継がず自由に生きたいという願望を無意識に抑圧することで、店番で癇癪爆発をきたすことは神経症の典型

また神経症(ヒステリー、アンナO)の典型的な治療は無意識に抑圧された内容を情動とともに想起し意識へともたらすことである。

ゆえにウェイドにたいしてエンバーが抑圧していた本音、店を継ぎたくないという思いを打ち明けるシーンは典型的な神経症の治療になっている。


本作の流れ
エンバーの神経症発症(癇癪)

無意識の探求(水中ビビステリア探索)

症状の意味の言語化(意識化、トーキングキュア)

治癒

神経症
症状
無意識の外傷
症状の元
欲望の対象
抑圧する父
癇癪
爆発
ビビステリアの花

お店を継がない
父の理想の娘
バーニー(エンバー父)

神経症概念を神経症的に紹介してしまうと問題があるので補足すると癇癪には本当はなんの意味もないかもしれない。

しかしその無意味な癇癪にエンバーが本当は店を継ぎたくなくて、その思いが癇癪という症状を形成していたんだ!と意味付けすることで神経症は治癒するのである。

その意味では人間の心的外傷も幻想に過ぎないのだ。

後に説明するが神経症とは近代主体の別名である。中世に神経症は存在しない。そのため自由意志とは神経症のこと。またポストモダンの現代人にも神経症は存在しない。現代人は全て発達障害的といえる。

このことが本作の理解では欠かせないが、それについては後々の項目で言及する。

物語の意味:見取り図

店を継ぎ父の期待に応えるという自我意識が店を継ぎたくないという願望を抑圧して癇癪という症状を形成する水漏れは無意識に抑圧したリビドーが意識に侵入し意識を脅かしている。

水漏れで検査官ウェイド出現。ウェイドは店の違法性を記述し営業停止にすべく市に報告へ。これを阻止すべくエンバーは追いかけるウェイドは無意識の願望で市への報告は抑圧された願望の意識化を示す。ウェイド(抑圧された願望)の意識化を阻止するのが自我(エンバー)。この構造を神経症という。

無意識を探索する、これは水中に沈むビビステリアの花を探すことに対応

無意識に抑圧した店を継ぎたくないという願望(ビビステリアの花)を発見し意識化。ウェイドに本当は店を継ぎたくないことを打ち明けるシーンもこれに対応する。

自分の願望を意識した上で、それでも店を継ぐ決断をし、再び、今度は意識的に店を継ぎたくないという願望を抑圧する
このことは火の街(自我意識)と外界の海(無意識)を隔てる壁に生じた亀裂(癇癪)にガラスを溶かして蓋をすることに相当する。

これにより抑圧が強まり、無意識の圧力が上昇、必死に抑圧するも圧力が高まり、壁が決壊。
いままで押さえつけられていた水が癇癪をおこしたように火の街に流れ込み大洪水。

洪水でお店は破壊され無意識(水)に呑まれかける。これにより無意識の願望を受け入れ、自我はいままでの自分のあり方を殺し刷新これは洪水によって破壊された後、お店が再建され火の街が新たに復活したこと、エンバーが店を継がない決断をしたことに対応

精神分析で観る心的外傷

上の解釈はユングでもラカンでも概ね共通する基礎理解である。

しかし本作はユングでもラカンでも多くを語れる作品になる、そのため最初にラカン派精神分析理論で物語を解説し、次にユング派で解説する。

心的外傷について

火のエレメントにとって水は心的外傷水のエレメントにとって火は心的外傷である。火のエレメントは水をかけると死んでしまうし、水のエレメントは火の熱で蒸発してしまう。

そのためエンバーとウェイドは互いに相容れない絶対的に他なる〈他者〉になっている。
二人は愛し合いながら終盤まで触れることさえできないのだ。

こうした異性の絶対的な未知性・他性から精神分析では「性的関係はない」という有名なテーゼがある。

性的関係はないという言葉は、相手は互いに自分とはことなる〈他者〉であり、お互いに完全には一致できないという意味である。

(※厳密には性的関係はないとは。女にとって男と関係するのは別の女であり自分はつねに欠如し、男にとって自分と関係する女は、あくまで対象に過ぎない、という性的関係において抱く両者の幻想の非対称性のこと)

よって二人のふれ合えなさ、両者のふれあいと心的外傷の関係は、人間の異性関係の普遍的なあり方をうまく表現している。

恋愛と心的外傷

恋愛とはなんであろうか?
そのこたえは、恋愛対象が絶対的他者であるということにつきる。

愛の告白を考えてみよう。人は愛の告白によって実存の変更を迫られる。
つまり相手が自分をどのように欲望し意味づけるのか、相手の視点によって自分の存在意味が根本的に変容するこのような他者性における相互変容可能性を恋愛という。

この変容は間違っても相手に依存することでない。互いに一心独立した個としてあるからこその他性と変容である。

ゆえに恋愛とは死である。今までの自分を殺すことであり、相手の今までも殺してしまうこと。
いままでの自己の死を超えて新たな生へと変容すること、死の先駆こそが恋愛の意味であろう。

とすれば、火の恋人は火ではなく水であるべきだし、水の恋人は火であるべきなのだ。
水は火を消す(殺す)からこそエンバーは変容できるしその逆もしかり。

繰り返すが今までの自分を殺すおそろしい存在こそが恋人である。だから恋人というのはそもそもが外傷的でトラウマチックなのだ。

事実、エンバーは大洪水の水によって死にかけ、ウェイドはエンバーの火で蒸発して一回死んでしまうシーンがある。

また恋愛とは極めて近代的。逆にいえば予定調和に生き今だけ金だけ自分だけの満足に甘んじる連続性のない現代人に近代的恋愛は不可能。

近代の自由恋愛とは極めて神経症的構造に依拠するといえよう。

その意味で本作はいわば失われた近代主体(個性)への現代的な再生を描いている。

恋愛と心的外傷2

人は両親という最初の〈他者〉に欲望されることで生まれる。そして恋人の欲望によって生まれ変わる。

つまり親に社会的に立派な子どもになって欲しいと欲望され、子どもはその欲望を自分の欲望として目指すことで、社会的な人間になる。もしこの最初の親の欲望がなければ赤ちゃんは動物のままで人間になれない。

恋人に欲望されるとは、原初の親からの欲望の再演である。人は、自らを規定する、あらたな恋人の欲望を受け取り自己の欲望とすることで新しい存在として再びこの世界に生まれるのだ。

その意味で恋人とは両親の投影でもある。

乳児は母と一体になろうとするがそれは父によって禁止にされ乳離れを迎え身体的にも精神的にも母から自律してゆく。

母を直接に求めること近親相姦は禁止となる。そのことで子どもは母からの承認を社会的に満たそうとする。

つまり性的で直接的な満足の対象ではなく社会的存在として、学校の成績で一番になるとかコンテストで優勝するとかによって、社会を迂回して母の欲望を間接的に満たし母からの承認を得ようとする。

こうして人は原初の母子一体を禁止にされ動物から社会的な人間へと疎外されるのだ。

したがって自己を欲望する〈他者=母〉へと直接完全に一致することは返ってトラウマ、心的外傷となる

つまりもし、父による乳離れの禁止がなく、母親の不在もなく永遠に母子一体の満足が続いたら赤ちゃんは、いつまでも主体性を持つことができない。

それは主体が生まれてくることの拒絶であり、死である。そのため父による母親の不在と禁止こそが赤ちゃんに言葉を習得させ主体性を生み出す。

逆に言語のレベルで、つまり社会的な次元で、自己を欲望する〈親・恋人=他者〉の欲望に完全に一致したらどうなるであろうか。

その場合、人はロボットのように親の命令を聞くだけになる。

つねに親の欲望や子どもへの要請には欠如があり、完全には一致できないことが大事で、その欲望の到達できなさ曖昧さのために、親は具体的には自分になにを欲しているのか?と子どもは自分の頭で考え主体的に行動するようになる

曖昧な命令は曖昧ゆえに人に考えさせるといってもいい。曖昧な命令は忠実に実行することが不可能で、自分の頭でその意図を考え主体的に行動するしかないこの欲望や要請の曖昧さという欠如不一致こそが人間主体を作り出すのだ。

したがって人は恋人にも親にも完全に一致することはない。火と水がふれ合うことで互いが死の危険に陥るように、〈他者〉の欲望(理想)への完全な一致は主体の死を意味する根源的な心的外傷なのである。

ウェイドとバーニーと心的外傷

以上のことから本作の対応が分かる。

まず父バーニーの欲望である店を継ぐことは、〈他者〉の欲望であり、エンバーの理想(欲望の原因)である。
理想というのはトラウマのことで、母子一体や〈他者〉の欲望へ完全に一致すること

次に水の恋人ウェイドと一緒になることは、ある理想の断念を意味する。それはつまり父の欲望の対象として父の欲望に完全に一致するという理想の禁止なのだ。

つまり恋人ウェイドの欲望はエンバーが店を継がず自由に自己実現して生きること、父バーニーの欲望は店を継ぐ完璧な娘にエンバーがなることである。

またエンバーの神経症をつくりだす葛藤は父の欲望へと完全に一致した完全無欠の理想の自己像(店を継ぐ娘)を断念することへの恐れと、理想を断念して可能となる主体性を生きることとの葛藤なのだ。

もちろんウェイドの欲望にも完全に一致することはできない。ウェイドの欲望もまた一つの理想であり、これらはエンバーの中にあるウェイドと父、二つの理想を巡る葛藤とも言える。

エンバーは自分が店を継ぎたくないことに気づいてからも、店を継ごうとする。こうした葛藤はほいそれと簡単に克服できるものではない。

心的外傷と道徳の成立

父の理想となることの断念は、父の欲望を欲望するエンバーにとって自己の理想を断念することにつうじる。

このことは人間の道徳心の核となる罪悪感を可能にする。罪悪感というのは動物には存在せず極めて近代主体的・神経症な概念と言える。

父の理想はいわば一つの秩序であり善悪を開く。
理想とは悪のない対象、完全な善だけの対象をいう、したがって理想の成立は善悪の成立にも関連する。

だから父の理想を断念して主体性を獲得することは罪を背負うことであるそれは本作では父の期待を裏切ることの後ろめたさとして克明に表現されている。

本作の素晴らしいのは、このように道徳の起源と成立に重きが置かれしっかりと描かれていること。
罪悪感とは理想を断念することによる自己の欠如よって、自らが罪を負うことで生まれる。

つまり道徳とは単純な善悪の分離によって生じるのではなく、悪を犯すこと、罪を負うことで生じるのだ。それは店番で癇癪を起こし店を破壊したことを父に知られ、理想から転落することとして描かれる。

クレしん映画のもののけニンジャが、神経症的葛藤がなく利己主義的なため、まったく道徳の問題がおざなりなことを思うと本作の優秀さが際立つ。

ちなみにキリスト教のいう原罪とは、人が〈神=他者〉から自律し主体性を獲得するさいに生じる理想の断念によって生じると心理学では解釈される。失楽園(お店)からの追放は罪を犯したからではなく、罪とは神(父バーニー)からの自律(お店追放)それ自体なのである。

ビビステリア

本作を理解するための最低限の理路を説明し終えたので、ここから一気に具体的な物語の解説に移る。

水中のビビステリア探訪

まず本作ではエンバーが観たいと言って譲らないエンバーの欲望の対象としてビビステリアという火にも耐性のある花が登場する。

幼少期、エンバーは父と一緒にビビステリアの花が展示された博物館へと向かう。ところが火のエレメント差別が激しく、入館が許可されない。

こうしてビビステリアは禁止され直接観ることができなくなる

ラカンの理論に人間の欲望とは禁止が作り出すというのがある。これは禁止されることで禁止された物が欲しくなるということ。人間には禁止を破りたくなる癖があるというわけだ。

だからこそ禁止され、忌避されるトラウマは、同時に欲望されてもいる。

そもそも母子一体の承認が欲しいが禁止されているからこそ、社会的な承認を迂回して間接的に母から認めてもらう迂回路こそが主体性だという先ほどの説明からもこのことは明らかだろう。

よって禁止されたものは禁止によってトラウマとなり、禁止によって欲望の対象ともなる。このアンビバレントこそがあらゆる神経症と文化・芸術を生み出す原動力なのだ。

また自我が他者からの禁止を受け入れ内面化することで、禁止されたものは無意識へと抑圧される。
よって欲望してやまないビビステリアの花が水没して水中深くに沈んでいるのは、それが抑圧された願望であることを意味する。

本作では、水を恐れつつも、勇気を出してウェイドとともに風のエレメントの力を借りて、水中深くビビステリアの花を探索し見つけ、命からがら水中からの脱出に成功する。

このシーンの意味は、神経症(癇癪)の意味である、店を継ぎたくないという抑圧された願望を意識化すべく自己の無意識を探索するという精神分析治療のプロセスそのものである。

ビビステリアの花が美しく、水越しにしか観ることができず、花を見たことで危うく死にかけるのも、禁止された対象、抑圧された願望が外傷であると同時に欲望(主体性)の核であることを示している。

よってビビステリアを見つける経験は、エンバーの神経症治療の終わりが近いことを示す。

繰り返すが自身の抑圧された願望を意識化することで神経症は治癒するのだ。

ビビステリアのガラス細工

エンバーは得意のガラス細工スキルでガラスを溶かして加工し、ガラス玉のなかに立体的にビビステリアを描く。

このビビステリアのガラス玉が本作ではキーアイテムになっている。

ビビステリアの玉はもちろんエンバーの欲望の対象ビビステリアの象徴であるそれは、ビビステリア(理想)の欠如を示すものでもある。

エンバーは自分の無意識の願望をしってなお、父への義理から父の店を継ぐ決断をする。そしてウェイドに自分の魂(欲望)であるビビステリアの玉を渡す。

ビビステリアが象徴するのはガラスアーティストという願望、したがってガラス細工のビビステリア玉をウェイドに渡すことの意味は、ウェイドから受け取った欲望(店を継がず自由に生きる)をウェイドに返却することを意味する。

別れとして巧みなこれ以上ない表現である。どんな言葉よりもこの行為の意味は重い。

エンバーにとってウェイド自体が水であり、禁止された対象であることも大きい。
エンバーは自我意識の彼岸にあるウェイドという無意識へ、意識化したガラスアーティストとなる願望を返却すること、これはまさに禁断の恋を諦めることなのだ。

父バーニーによって禁止される水との結婚、父によってお店を出禁にされるウェイド。

エンバーにとってウェイドは父がかつて禁止した母子一体のトラウマ=理想と重なってもいる。

禁止が作り出す外傷と欲望、理想を巡る葛藤にこそ人間主体の起源があり、本作はそのことを巧みに表現している。

ラカン的総括

本作が示すのは、個性とは何か、自由な自己実現とは何かということである。

エンバーが自分のしたいことを見つけ個性的な人間として自己決定できるようになったのはどうしてだろうか。

その答えは父の欲望であり父バーニーの禁止である。
父は火の家系を守りその伝統であるブルーファイアとお店を継承するため娘のエンバーに店をついでもらうことを欲望する。

このような家族共同体、民族共同体の包摂としがらみ(禁止)なしにエンバーの個性はありえない。
最初からお前は自由だと言われると人は何も本質的には欲望できないのだ。

断念や禁止、葛藤こそが神経症であり近代主体、個性の正体である。

だから禁止や葛藤そのものを社会から完全に消し去るポストモダン的な昨今の急進的リベラルのイデオロギーは人間の個性と自由を逆説的に食い潰してしまうのである。

本作で伝統的な世界が個を否定する悪とされず、ブルーファイヤの火も消されずに残りつづけ、店をつがない選択をしたエンバーが命がけで、伝統の象徴であるブルーファイヤとお店を守り切ったのもそのためである。

もし民族共同体や伝統を素朴な個の障害であり取り除くべき悪とするなら、このような脚本にならないことは明らかだろう。

お店も伝統も、大切な理想の核なのである。そのうえで理想(お店を継ぐ)が断念されてこそ人は罪と引き換えに自由を手にするのだ。

これこそが本作のメッセージだと推論できる。

その証拠に、まだ父の理想の娘となることに奔走していた序盤でのエンバーは自分の癇癪で配管を壊してしまったことを父に隠す。

これは癇癪で店を破壊したという罪を受け入れようとせず、父にとっての理想の娘であろうとする心性を示している。

理想を断念し、あるいは理想が不可能なのだと受け入れたとき、つまりかつての伝統的な世界(母子一体)はもうないと認めたとき人は真に自由になるのである。

これは個と普遍、個人と集団の関係にもいえる。

最初からバラバラの個だけ、なんの制限も限界も境界も禁止もない現代社会では人は個人には決してなることができない。

またブルーファイヤは一つの精神であって具体的なお店を娘に継承すること自体ではない。お店の娘への継承はあくまでブルーファイヤという精神の一つの解釈なのだ。

だからこそブルーファイヤは、ガラスアーティストとして生きるエンバーの心の中で燃え続け、けっして消えることはない。伝統はそのあり方を否定されることで肯定されたのだ。

その証拠に娘はガラスアーティストになるべく旅だつとき、火の一族の儀式的で伝統的なお辞儀をする。このラストシーンも本作の名シーンの一つである。

ユングで読み解くマイエレメント

ラカンでの解釈はわかりにくく少々消化不良に感じたかたがいるかもしれない。というわけでユングでみてゆこう。

ブッシュマンの求愛と花

ビビステリアのガラス玉について、ラカン的な解釈を紹介したが、じつはユングを使うと別の解釈ができる。

ここで注目したいのは、序盤からエンバーに猛烈に愛の告白をする土のエレメントである。
その土のエレメントは自分から花を生えさせそれを自分で摘んでエンバーにプレゼントする、ところがエンバーは毎回その花を燃やしてしまう。

花を燃やすことで求愛を断っているのが分かる。

この花を巡る求愛のやりとりはもちろん、ビビステリアのガラス玉のやりとりと対応している。

ビビステリアのガラス玉はエンバーがつくるものだけど、それはウェイドの欲望を起源とするのは説明した通りである。

したがって花はウェイドからの贈り物なのだ。

別れを決心してエンバーがウェイドに玉を贈るのは、それをウェイドに返すこと。ここまでの解釈ラカンと同じ。

しかしユングではこれは恋愛の成就と見なす。
エンバーの視点でみた場合は確かに別れなのだがユング派ではこれをウェイドの視点でも解釈する。

すると恋愛の成就として読み解くことができる。

つまりウェイドに視点をとると別れのためエンバーがガラス玉を渡すことは、ウェイドと結ばれることをエンバーが了承しているシーンとも読めるのだ。

たとえばアフリカのカラハリ砂漠にすむ狩猟採集民族であるブッシュマンは、男性が女性にプロポーズするとき小さな矢で女性をうつ、つまりキューピッドの矢を放つ。

そして女性が男性の告白を了承する場合、矢をとって男性のもとに歩みより、その矢を返す。逆にことわる場合は矢を折って踏みつけスルーする。

このブッシュマンの伝統は本作の花のやりとりに完全対応しているのが分かる。
気のない土エレメントからの誘いを断るときはもやしてスルー、ウェイドからの誘いには花を返しているのだ。

この場合の花を渡す行為は、男性の内的な理想の異性像であり魂であるアニマを現実の女性に投影することを示す。

そして女性がその花を返すのは投影を解除すること、心的な理想と外的現実を隔てることに対応する。

理想というのはラカンの項目で説明したように現実化してはならないし現実化できない。
よって二人が現実的にお付き合いするにあたって、理想はあるべき無意識へと返却する必要があるのだ。

このことからユング派では別れることは、恋人との結合であり、結合とは別れであると考える。
これを結合と分離の結合という。

したがって、ウェイドがエンバーに投影した理想(ガラス玉)が返却され投影が引き戻されることで、ウェイドはエンバーと付き合うことができるのだ。

その証拠に、ウェイドはエンバーの店を継ぐ決断に幻滅して、もっとすごい人だと思っていたというようなニュアンスの言葉をエンバーに浴びせるシーンがある。

こうしてお互いに相手に投影した理想を返還しあうからこそ、現実にふれ合いつきあうことが可能になるのだ。

恋占いのシーンの意味

エンバーとウェイドが線香に着火するスタイルの恋占いを受けるシーンがある。

エンバーが線香に火をともし、ウェイドにもともすように要求する。しかし水のウェイドには火がつけられない。

そこでウェイドはエンバーを自分の後ろに立たせ、自分の透明な水の体をレンズ代わりに線香に光の焦点を合わて線香に火をつけることに成功する。

このシーンでウェイドの透明な体の背後のエンバーが映り、ウェイドの中にエンバーがいるように見える。

このシーンは二人が距離をおき、分離していることで二人が重なり結合しているとも、理想(アニマ)と投影される現実の異性との関係を巧みに描写したシーンともとれる。

ウェイドの内的理想として体内にいるように見えるエンバーのイメージと、現実には距離をあけて背後に離れているエンバーの立ち位置は、恋愛における理想と投影の関係として観ると面白い。

ユング的物語解釈

近年のユング派物語解釈は結合と分離の結合の同時性を中心に読み解き、物語を継時的に観る見方に疑問を投げる。

つまり物語を起承転結の流れにそって時系列的・因果関係的に解釈することを良しとしない。

時系列的、因果的な見方は神経症的だという。

たとえば映画で「怖い犬が出てきて、主人公が犬に追われて逃げた」シーンがあるとしよう、これを経時的に観ると怖い犬が追ってきたからそれが原因で、その結果、次のシーンでは犬から逃げる、と解釈される。

これは物語の読み方、映画や夢の見方としては適切ではない物語というのは神話が山に感じる雄大さを神として表象するように、その本質は比喩である。

だから、怖い犬も主人公にとって恐ろしい犬のように感じられるものであって、客観的な怖い犬存在しているわけではないそれは人々や個人の印象の象徴なのだ。

こうして映画の物語を比喩として見抜いてゆくと、怖い犬に追いかけられて逃げるという映画のシーンは経時性を解体される。

つまり、主人公が犬を怖がって逃げようとするからこそ犬は怖い犬としてイメージされ追ってくる、恐怖心というフィクションが追ってくる犬を生み出す、と解釈されるのだ。

この解釈だと最初に怖い犬がいて追ってきたから逃げるという時系列が否定されているのが分かるだろう。

いわば恐れて逃げる(分離)という心理のうちに追われることであり近づくこと(結合)が内在しているのである。逃避と邂逅の弁証法(同時性の運動)が物語という比喩表現においては因果的に時系列化して展開してるに過ぎない。

したがってユング派では物語を時系列的に観るよりも弁証法的に同時的に解釈するきらいがある。

そしてユング的な弁証法の見方の基本が本作における恋愛の理想と現実をめぐる結合と分離の結合である。

つまり理想の投影が引き戻されたから、それが原因で二人はふれあえるようになったとは考えず、理想が投影されたからこそ現実に結ばれることが目指され、現実での結合が目指されたことで理想と現実が分離した、と考えるのである。

すると、内的理想を現実の人物へ投影するという理想と現実の結合のうちに、その分離への運動が内在しており、その構造が現実に展開する場合に時系列化しているに過ぎないことが分かる。

また同じくエンバーが火の民族共同体や家族を慮る気持ちの内に、自由な個人として生きることが内在し、個人として生きることの内に同時に共同体への重視がある。

最初は投影によって伝統はお店を継ぐ娘、理想はウェイドとして客観現実的で具体的な対象と混同され神経症におちいっていた。しかしエンバーは、お店もウェイドも比喩であり伝統も理想も心理的なものとすることで、二律背反の葛藤である神経症を克服したといえる。

また外的現実と心的現実(物語、比喩)の混淆があってこそ、つまり投影がされたからこそ、葛藤を生じ、神経症的な葛藤があったからこそ、弁証法的な解決が可能になったといえる。

もちろん葛藤の克服といってもいいとこどりではない、アンチノミー的・神経症的な葛藤の克服には、自己否定が内在し、自己の否定による肯定によってこそ克服される。

伝統、異性、理想の共時性

弁証法的に解釈すれば、お店を継ぐという伝統(理想)を否定したことで、娘は伝統のお辞儀を父と交わし伝統を実現したと分かる。

またウェイドに投影された理想を引き戻し、理想と外的現実を分離したからこそ、二人は結ばれたと分かるのだ。

よって否定と肯定の同時性、分離と結合の同時性の構造が本作の底流をなす。

ラカン的に言っても理想は断念されてこそ、追う(欲望する)ことができるといえる。
とすれば、ユング的には禁止や否定は同時に否定されたものへの到達ともいえるのだ。

相補性原理と火と水のカップル

ユングと言えば相補性。というわけで火と水のカップルの意味を解説する。

火のエンバーは父の跡継ぎであり、父の娘として気の強い女性に描かれる。
対するウェイドは過度なマザコンぶりが強調され、母の息子としてひ弱さのある涙もろい人物として描かれる。

エンバーのような父の娘はギリシャ神話のゼウスの娘アテナや古事記のイザナキの娘アマテラスが有名である。

アマテラスは少々複雑だが、父の娘は神話においてはエンバーのような男らしさを持つのが特徴となる。

また現実にも父の娘には気の強い女性が比較的多く、母の息子はプエル的なウェイドっぽい男性が比較的に多いという。

そんな二人は明確に対極の組み合わせと言える。じつは結婚相手に自分と対極の性格の人を選ぶことは現実にも多い。この現象をユングは相補性と呼ぶ。

自分の偏った意識の態度を中和しバランスをたもつべく人は対極の相手をもとめるだ。
ユング的に観ても火と水のカップリングは恋愛の本質のアレゴリーとして最適だと言える。

おわりに

本作はポストモダンの境界なき時代、共同体なき時代、バラバラの時代に個と共同体の弁証法的な関係を教えてくれる。

とくにユング派的に述べれば、個とは共同体からの包摂なしにはその成立は困難である。

これはなぜだろうか。
ところで、私は日本人である、男である、~である、といった場合、これらは全てアメリカ人ではない、女ではない、~ではない、という自己の可能性の否定によってネガ的に規定される。

よって自己の規定、共同体への帰属、アイデンティティの成立とは全て自己の不可能(禁止)の設定によって成り立つ。

そして共同体とは殺人の禁止に典型されるように個人に禁止をかすことで共同体を構築する
禁止のないところに共同体はないのだ。

ここで重要なのはこれまで観てきたように、この共同体(伝統)のかす禁止をめぐって、個人の欲望が生成され、禁止を根拠とした欲望が個性や主体をなすということである。

したがって共同体において個性があり禁止とは個性を殺すものであると同時に個性の根拠となっているのだ。
本作はこのような共同体と個の対立しつつ互いが互いの根拠となり共同する複雑な運動の本質を見事に描いている。

本作で示されたエンバーの自己実現は現代社会に瀰漫するポストモダン的な腐った個人主義、過激なリベラル思想や頑迷な保守主義へのアンチテーゼである。あるいはリベラリストと保守との止揚ともいえるだろう。

その意味で本作が優れた批評性をもった映画であるのは疑いえない。

現代、影響力のあるプロ映画評論家の評価の仕方や評論は、幼児的で劣悪なものが大半を占めている印象がある。

物語を理解し、その普遍的魅力を解釈して評論することは公共のテーブルを開くことである。
価値観の多様性を実現するにあたり、普遍的な価値への弁証法的な合意を目指すうえで、映画批評・評論は重要な役割をおっている。

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