どうも!うたまるです。
こんかいとりあげるのはゲーム『LITTLE NIGHTMARES-リトルナイトメア-』です。
リトルナイトメアは意味深でゲーマーの考察意欲を刺激してくれます。
というわけで、ここではユング心理学を駆使して皆さんも納得のすっきり解説を実現。リトルナイトメアは非常に象徴的な描写が多いのでユング心理学でみてゆくのが一番です。
※ぼくは以前、はてなブログにリトルナイトメアの記事を投稿しており、この記事はそちらの記事と内容が重複するところがあります
\はてなブログのぼくの記事/
リトルナイトメアとは
作品名 | LITTLE NIGHTMARES -リトルナイトメア- |
ジャンル | サバイバルホラー ステレスアクション |
ハード | Windows スイッチ PS4 Xbox one stadia |
発売日 | 2017年4月28日 |
開発 | Tarsier Studios |
リトルナイトメアシリーズは世界中に熱狂的なファンがおり累計売り上げ1200万本超えを記録するモンスターコンテンツ。
またゲーム実況動画ではもっとも定番のゲームの一つであり、多くのゲーム実況者が配信している。
非常に象徴的で芸術性が高く意味深な独自の世界観を実現しておりプレイヤーの考察意欲をかき立てるのも、本作の特徴であろう。
リトルナイトメアとノイマン
茫洋たる海に漂う巨大で不気味な構造物「モウ」は胃袋の名を冠する船舶。
物語はモウの船底から始まり、主人公の少女シックスがモウを上へと登り脱出することで終わりを迎える。
ところで、こうした夜の海の怪物に飲み込まれた英雄が、その体内を突き破り、そこから陽光として上昇し太陽として世界を照らす形式の物語をユングの高弟ノイマンは自我の誕生のアレゴリーだという。
そのためリトルナイトメアの物語は、多くの神話や昔話に観られる太陽英雄型の物語だと言える。
かつての人類は、太陽が母なる海(水平線)に呑み込まれて夜となり、翌朝には海の水平線を突き破って光をもたらし上昇する太陽に、人間の自我(自意識、意識)の誕生を投影したのである。
この記事では、以後このノイマンの太陽英雄の理論をコンパス代わりに、リトルナイトメアの深淵な世界を航海していく!
モウの正体
ユング派のクラシックな解釈に即せば、海は母であり無意識のメタファー、太陽(主人公シックス)は母から分離した自我であり自意識のメタファー。
人は母子一体の生まれたばかりの頃は、自我を持ちません、母親とべったりであり無意識と意識が分離していない。
したがって母(海、海の怪物モウ)は無意識、母を倒し母の体内を突き破って上昇するシックスは無意識から分離、誕生した自我を示す。
また母なる無意識は子どもの自我を呑み込むもの。
実際に過干渉な母親が子どもの自律に腹をたてることも珍しくない。お菓子の家で誘惑して子どもを食べようとするヘンゼルとグレーテルに登場する魔女や、約束のネバーランドのマザーもこうした母性の呑み込む性質を反映しているのだ。
したがって母なる無意識(海の化身)とは、全てを呑み込み消化する胃袋=モウといえる。モウはそれ自身が海の化身といえよう。まさに神話に登場する太陽英雄を呑み込む夜の海、母なる怪物そのもの。
※海のような超越的な母性のイメージの源泉をグレートマザーの元型と呼ぶ
ところで人間に反抗期があるのも、象徴的な母親殺しを介して自我の誕生を果たすため。
また本作のラスボスにあたるレディは、シックスにとっての母である。
したがって海の中に母なる海を象徴するモウがおり、モウのなかにそのモウを象徴するレディ(母)がいるという入れ子構造(メタ構造)をなすのが本作の特徴。
こうした構造は夢分析ではおなじみで、僕たちの無意識が好む表現形式といえる。まさにナイトメア、夢の世界にふさわしい象徴表現といえよう。
シックスの正体
少女シックスは太陽であり自我であることを紹介したが、ここではなぜシックスが自我といえるのかを確認する。
そもそも無意識とは、意識できない心の領域を示す。そして意識できない無意識とは見ることができないと言える。
そのため無意識は闇として示されるのが定番。だからこそ光のない夜、自我を呑み込む怪物(モウ)の体内の暗がりは無意識の世界にふさわしい。
対する意識、自我とは目で見える世界といえよう。したがって自我意識とは世界を照らす光そのものであり、光によって対象を意識できる領域なのである。
そのために自我は太陽や光として象徴される。
シックスはモウの体内をライターの明かりでともし、その内容を意識化することでモウを上へと登ってゆく。
まさにシックスの灯火は自我意識の光なのだ。明かりを片手にモウを登る姿はまるで小さな太陽のようである。
空腹とシックス
シックスは空腹の少女であり、物語の進行に伴って、仲間を食べてしまう暴食性を発現。
この点が一般的な太陽英雄譚と異なる本作の最大の特徴になる。
このシックスの空腹と過食の描写は典型的な摂食障害のメタファーで、摂食障害は思春期の少女に多く、思春期拒食症などと言われたりする。
また拒食症は過食症へと移行することが多く拒食と過食は一対の等根源的なコンプレックスの表出と見なせるのだ。
摂食障害をシックスにあてはめれば、シックスの空腹の状態が拒食症、ネズミや子どもを食べてしまうシーンは過食症のアレゴリーだと分かる。
重要なのはシックスに表象される摂食障害とは、世界中の女性に普遍的な女性心理のメタファーであるということ。つぎの項目ではそのことを確認する。
シックスの摂食障害の意味
思春期拒食症に典型される摂食障害ははぼ女性に固有のもの。
女性は思春期に身体が急速に変化するのだが、それは女性が妊娠、出産を能力を獲得する都合で思春期に身体が作り変わるため。
ゆえに女性の心理的成長は激変する身体と向き合いそれを自己が受け入れる過程にかかっている。
ここでは身体が食事に関わっていることが重要になる。人間の体は食事によってつくられるため食と身体、食と女性心理には密接な関わりがあるのだ。
また母とは、これまで確認してきたように、子供の自我を飲み込む夜の海の怪物(モウ)であり、その意味でも暴食や胃袋の化身なのである。
したがって思春期の摂食障害とは、母へと向かう身体的変化への心理的抵抗と葛藤によって生じてくる。
つまり拒食と空腹は身体変化の拒絶であり、過食はその反動として抑圧された内なる母性の暴走のようなものと考えられる。
というわけでシックスの空腹と暴食は、少女が大人になる過程で生じる普遍的な葛藤を描いているとえいる。
リトルナイトメアの様々な象徴たち
この項目では双子のシェフ、二つのトイレ、鏡、ゲスト、ダクトの意味を解説。
双子のシェフ
双子は意識と無意識の開闢、無意識からの自我分離を表象する。
原初の母子一体の母なる無意識に呑み込まれた世界では無意識しかないがそれが二つに分かれることで、意識が開かれるのだ。
たとえば何かを認識するとき、認識対象はかならず対象とそれ以外とに分けられねば認識できない。また、快ー不快、美ー醜、善ー悪、内-外、自ー他などあらゆる概念は対概念に分裂することで可能となっている。
(※竹田青嗣の欲望論でも快ー不快の分裂があって欲望による対象化が生じると考え、快不快の二項対立が世界を欲望的なパースペクティブのもとに開くと捉える)
たとえば悪という概念なしに善という概念を形成することができないということだ。
したがって渾然一体のカオスの世界から自我意識が認識し対象化できる分化した世界へと至る概念の二項対立を象徴するのが双子なのである。
美醜も善悪ももとは一体の概念であって、これらの概念化に伴う二項分裂はまさに一卵性の双子として表象されるのがぴったりだと分かる。
ゆえに本作の主題であるシックスという自我の誕生と、双子のイメージは密接に関わっている。
この双子がそれぞれに別のイメージへと分化することで、世界は本格的な多様性を獲得し、より明確な自我が屹立することとなるのだ。
よって双子のモチーフ、二のモチーフは世界の多様性へと向けた最初の天地開闢の段階に相当している。
二つのトイレ
トイレはユング派の夢分析では内面の表象として解釈するのが一般的。
二つのトイレは双子の主題にも通じ、無意識から分離した個としての内面の獲得へ向けた最初の一歩である。
二つのトイレがくっついているのはまだ分化が不十分なことを示す。
トイレの人類史研究を参照すると、個室のトイレは近代以降の産物だと分かる。つまり最近までトイレは個室ではなかったのである。
トイレに限らず家にも個室がなくプライベートなどという概念は近代以前には存在しない。
トイレに個室がないことは他人と自己の内面、主観が分化されず共有されていたことを意味する。
したがって個室のトイレの完成にともなって自他が分化したのが近代なのである。
これにともない恥という感情が重要になる。
というのも恥とは隠していたなにかが露呈することで生じる、いわば外面と内面のズレが露見してしまうことで起こる感情だからだ。
個別の内面(本音)は他者に対して隠されている、つまりトイレの個室の扉に鍵がかけられている。それがうっかり漏れて内面が露見するから恥ずかしくなる。
家族に裸を見られても、そんなに恥ずかしくないが、他人に見られると恥ずかしいのもこのためなのだ。家族は本音を知っているので内面が露呈しても平気なのである。
また近代的な自我は母から切り離されて可能となる。母からの内面の分離と自律は、母に隠し事をすること、母の知らないことを企むことでも起こる。
よって母の内面の秘密(モウの体内)を探り、明かりを照らしてこっそりと嗅ぎ回るシックスの行為は、それじたいが母からの分離の契機だといえる。
したがってシックスの分離へと向けた自我の屹立にともなって二つのトイレなど閉じた内面の分離形成へと向かう夢イメージ(オブジェクト)が生じているのである。
鏡とアニムス
鏡もそのまま自我意識を示す。ラカン派でも鏡は鏡像段階として理論化され鏡の像として対象化される自己像(イメージ)が自我であると考えられている。
これまでかなりクラシックなユング解説に頼りすぎたので、新しいユング派のロジックで解説しよう。
本作での鏡とはユング派でいうアニムスに他ならない。ここでのアニムスはクラシックなユング心理学がいう女性の内なる男性像という意味ではない。
ここでいうアニムスとは、純粋な魂の否定性のことである。
じつは人間の自我意識とは自己の否定によって可能になっている。これをラカンでは禁止といいユング派は否定という。
※じつはラカン派もユング派も自我に対する理論には大差はない
ところで自我とは対象化された自己の内面であり自己自身である。つまり私が私を俯瞰し「私」という対象とすることで私という自我意識は生じている。
このとき私を「私」として対象化する主体としての私と、「私」と対象化された対象としての私に、私が分裂することになる。
だから、この分裂が自我の誕生といってもいい。
つまり私が私を突き放して俯瞰し、あるいは鏡に映して私から距離をとって私を客観的に見るとき、私は私から切り離され分裂してしまうのである。
この自我意識(鏡像)の成立に伴う、私が私から切り離されること、素朴に私と私が距離を置き私に一致しなくなることを「否定」という。
(※厳密には鏡像の欠如(否定)は他者の迂回によって生じます)
私を拒絶して突き放すことで自己を客観的に見ることができ、そうした客観的視点から自己を「私」と対象化することで私という自我が可能になるのだ。よって私を突き放す最初の自己「否定」が自意識の核となる。
そしてこの純粋な自己意識の否定の作用をアニムスというのである。
その意味で、鏡は自己の姿を客観的に映し、さらに光を反射して周囲の対象を照らすことで対象を意識化するアニムス。よって鏡の本質は対象を突き放し客観的に見るという否定において自我を屹立させることにある。
このことはシックスがレディ(母)に鏡を向け、光をあてレディを対象化(意識化)し、レディを殺してしまったことを考える分かりやすい。
自我とは母からの分離、象徴的母殺しにおいて可能となる、その分離のための否定性として鏡が機能したのだ。本作では近づいてくるレディを鏡によって遠ざけて戦う。鏡は母子一体を拒絶する意識の光。
またレディとは現実の母というより、シックスの摂食障害(母親コンプレックス)の中核をなす抑圧された内なる母性。
よって抑圧された無意識の母性に光をあて、母を殺し、母を食べることで、内なる母性を受け入れ自我に統合したとみることができる。
本作ではクライマックスで自我意識、鏡像の獲得と母子分離、統合が象徴的に表現されているともとれるが、、、
ゲストとウロボロス的父性
ゲストで重要なのは、その食事の仕方にある。
彼らは、ごちゃ混ぜの料理やテーブルに直に置かれた食べ物を手づかみで食べる。
実は個別に分けられた皿やコース料理も近代以降の産物で中性以前は、ゲストのスタイルが普通だった。
つまりトイレの個室と同じく個としての自我を獲得したことで現代の食事のスタイルは獲得されたのである。
またゲストは大量にいるが容姿が似ていて区別も曖昧、そのためゲストは自我の弱い母に呑み込まれた息子のメタファーと解釈できる。
このような母(モウ)に呑み込まれた息子たち(ゲスト)が、自我(シックス)を呑み込む習性をウロボロス的父性と呼ぶ。
ゲストをわかりやすくいえば、ヘンゼルとグレーテルでお菓子の家の虜になって魔女(母)に籠絡されている段階のヘンゼル達に相当している。
ゆえにゲストがシックスを呑み込もうとするのは母レディに逆らいシックスが自我を獲得しようとしているためなのだ。
ちなみにゲストのようなウロボロス的父性は日本人の特徴としても知られる。
たとえば空気や権威に逆らい自分の意見を言うと、権威に忠実な優等生キャラが一丸となって、その人を罵倒するという日本的な現象が典型。
うがった見方をすれば、レディが和装なのを見るとゲストは日本人と見ることも可能かも知れない。ぼくの個人的な感覚だと、ゲストは、千と千尋の神隠しに出てくる豚になった両親も彷彿させる。
またシックスが女性であることを鑑みれば、ゲストは女性の社会進出(自我獲得)を阻む権威主義的(母子一体)な男性のメタファーととることもできるだろう。
ダクトと産道
本作は通気口などダクトの中を移動するシーンが頻発するが、これは産道の通過と誕生を象徴している。
自我の誕生は、子供が母の腹の中から産道を通過して誕生することに象徴される。
そのためダクトの通過の反復は、象徴的な自我の心的誕生の繰り返しであり、反復することで、シックスの心的成長が基礎づけられているとみれる。
リトルナイトメアの物語は、モウという母の胎内(産道)を抜け出し外へ誕生するという内容を、ダクトを灯火で照らして突破するという物語内の一部のシーンに、入れ込んでいるのだ。
物語の一部が物語の全体を象徴するこうしたメタ構造は夢の構造としてふさわしい。
よって本作は海の中にその象徴であるモウが、モウの中にその象徴であるレディが、そして物語の一部に物語全体の主題である自我の誕生が象徴されているのだ。
ここまでの説明で、一連の物語のイメージや進行は、シックスの母親コンプレックスを中核とした自我の誕生と成長の過程として体系的に理解可能だと分かるだろう。
総論:リトルナイトメアの意味
リトルナイトアの物語は、レディを食らってまがまがしいオーロをまとったシックスがゲストを惨殺してゆくシーンがあり、極めて陰惨な雰囲気をもっている。
そのため、ここで展開した自我の誕生という前向き一辺倒の解釈では、どうしても物足りなさがあるだろう。
ここではその点について考察を加える。
そもそも本作は既存の自我の誕生を示す太陽英雄譚の形式に沿いつつ、既存の太陽英雄(自我)と異なる特徴を持っている。
たとえば本作はこれまで男性によって象徴されてきた自我が、女性に担われ、その結果、女性の摂食障害(母親コンプレックス)を中心とした少女の変容として自我の屹立が描かれている点。
したがって本作は女性の社会進出が叫ばれる現代における新しい自我誕生神話の創出と見なすことができる。
しかし、ラストの不穏当で陰惨な雰囲気は示唆的であり、リトルナイトメアの物語では、まだ現代人の自我のあり方というものが神話的な基礎づけに至らないことを感じさせる。
いわば新しい自我獲得へ向けた神話のプロトタイプといった感があるのだ。
※現代人は主体性(自我)が弱く自我が未分化であることが臨床心理学の研究では知られている
シックスが母レディをむさぼりくって、母性の呑み込む力によってゲストを殺してゆく様は、鏡(アニムス)による否定の作業の不徹底さを思わされる。
まるでシックスは母性(レディ)そのものに取り憑かれてしまったようにも見えるのだ。するとエンディング直前の仲間の子どもたちは、将来のゲストとみることもできるかもしれない。
ゲストを殺してゆくシックスの背に合理主義と科学の光によって、なにもかもを呑み込み世界を自分の思い通りに支配しようとする現代人の傲慢さを感じるといったら言い過ぎだろうか。
ぶら下がる男と父の死
ゲーム序盤、おそらくは父と思われる人物が首つり自殺しているだろうイメージが出現する。
これは現代社会における父性の死を象徴すると考えることもできるだろう。
近代になると哲学者ニーチェは神の死を宣言。キリスト教の父なる神の死の宣言は、そのまま父性の終焉につながり、20世紀中頃になると母親コンプレックスによるプエルノイローゼが増えた歴史がある。
詳しくはMLフランツ著『永遠の少年ー星の王子さまの深層』を読んでもらうと分かるが、現代社会の問題として父の死があげられることは多い。
このことはハラリの思想、ホモデウスにもっともラジカルな形で生じている。
ハラリによると今後、人が神になりかわりホモデウスという、科学力で神化した人類が誕生するという。このことは人類に母との分離、母子一体の禁止をもたらす父の消滅をしめす。
人が神となれば誰が人に母子一体の禁止をかすというのか?もはや人類に母子一体の禁止をもたらす存在はないのだ。
象徴的父というのは母子一体を分離し、子どもの自我の誕生を促す存在であり、この父の不在が、本作における、ぶら下がる男であり、シックスの母性暴走(ゲスト惨殺)の要因となっているのではなかろうか。
したがって序盤の首つり男は、いかに父性を欠いた現代人が自我を獲得するかという問題をあつかっていることを示す。
さらなる分析のヒント
ここでは主にユング派のノイマンの太陽英雄論に即して分析をおこなった。
しかし他の視点から見ても面白いかもしれない。
たとえば、シュメール神話のイナンナの冥界くだりや古事記のイザナギが冥府へ下る話なんかをベースに読み解く手もあるだろう。
ところでギリシャ神話における母デメテルの娘、ペルセポネは冥府の王ハデスに拉致されたとき、冥界の食べ物、ザクロを食べてしまう。
そのことでペルセポネは冥界に束縛され、毎年冬には冥界へ行かねばならず、デメテルが悲しむことで冬の寒さが生じるようになったというのは有名な話である。
また死んだイザナミが現世に帰れなくなったのも冥界の食べ物を口にしたためである。
さらに言うなら、千と千尋の神隠しで、両親が向こう側の生き物(豚)になったのも、異界の食べ物を食べたためである。
するとモウという冥府(無意識)の世界で、パンや肉、ネズミ、レディと食い尽くしたシックスはどこまでも冥府と一体化した存在とするのが妥当だろう。
いずれにせよ古事記もシュメールもギリシャ神話のペルセポネの話も千と千尋の神隠しも多神教的であり父性が弱く、母性が強いのがその特徴である。
ゆえに父性なき現代を生きる新たな神話の創出に、古事記やシュメールなどの神話がなんらかの手がかりを与えてくれるかもしれない。
コメント
なんでこんな出来の低いこじつけを自信満々に言い切ってるんだ?
読んでて痛たた…ってなる
読んでて痛いのはあなたのコメントですよ。記事のタイトル読めない感じかな。考察って書いてあるよね。考察の意味は理解できるかな?心理学的分析は解釈なので、断言調になっていても客観的事実として提示しているわけではないです。
あと考察は一般的な深層心理学の標準解釈に即しています。なのであなたが的外れというかバカなだけだってことを自覚しよう。
批評や作品考察は解釈が前提。それとも逐一、このように解釈してみました、と文末に書けとでもいうんですか?
そんなことしたら読みにくくなるしょ。心理学的作品評論の論旨を理解できずに頭の弱さをコメントで晒すのはやめよう。