『クレヨンしんちゃん もののけニンジャ珍風伝』を精神分析で批評・解説・考察!【ネタバレあり】

クレヨンしんちゃんX公式アカウントのツイートの劇場版クレヨンしんちゃんの画像

どうも!うたまるです。

本日クレしんの新作が公開しますね。ということで今回は2022年のクレしん映画を解説。
ぼくはクレしん映画は全て見ていて、原恵一の作品が一番好きです。

じつは『もののけニンジャ』はピクサーの新作『マイエレメント』とまったく同じ主題を扱っているのでマイエレメントの記事と合わせて読むと理解が深まります。

今回はいつもと違って後半ではゴリゴリに酷評もしてゆき、つまらないと感じる人が多い理由も分析

ちなみに本作は、かなり複雑な脚本になっていますから、そのあたりも、がっつり解説。

もののけニンジャ珍風伝とは

公式予告編
作品名クレヨンしんちゃん
もののけニンジャ珍風伝
公開日2022年4月22日
監督橋本昌和
Filmarks
レビュー
3.7点

橋本昌和のクレしん映画といえば、『オラの引越し物語 〜サボテン大襲撃〜』が非常に人気があり有名です。

サボテンはモンスターパニック映画の教科書的構成をしており、非常にうまくできた作品ですが、他にも同監督の『襲来!!宇宙人シリリ』はロードムービーとしてよくできています。

しかし本作の評価は絶賛する人と酷評する人で割れていて歴代クレしん映画としては評価が低いです。

ネットレビューでは親を泣かせにきていて子どもは退屈するという意見もちらほらありました。

あらすじ

野原家に妊婦の屁祖隠ちよめと5才児の珍蔵が訪れる。

ちよめによると、病院のミスでしんのすけと珍蔵が取り違えられたという。さらに、ちよめは一緒に家族として暮らすことを提案する。

とりあえず、困惑する野原一家はとりあえず、ちよめと珍蔵を一泊とめることにする。

その晩、ちよめ達を連れ戻しに来た忍者達が野原家を襲撃。

忍者は珍蔵としんのすけを取り違え、ちよめとしんのすけを忍びの里に拉致する。

忍者の里は地球のエネルギー、ニントルが噴き出す「地球のへそ」と呼ばれる大穴を塞ぎ地球を守るため、屁祖隠家だけが使える「もののけの術」でへその栓を抑え地球を守る役目を担っていることが発覚。

そこで屁祖隠珍蔵と勘違いされているしんのすけは里の長老の命令でもののけの術を会得するため忍者幼稚園に通う。

野原一家はしんのすけのスマホから、失踪したしんのすけの位置を特定し、しんのすけを探し忍びの里へと向かう。

野原一家が里で合流すると、長老たちと一悶着あり、そのどさくさでへその栓が外れて地球崩壊の危機が訪れる。

いろいろあって長老を島流しにして、もののけの術をつかい栓をして一件落着。

栓が深くめり込みもう栓を抑えて守る必要がなくなり忍び達は栓を守る使命から解放され近代化。


本作の最初の主題:人間の誕生

野原一家の家族愛がこれ見よがしに強調されるのが本作の特徴である。

くどいほどにしんのすけの誕生場面が回想され親の子どもへの愛が強調される。そのため子持ちの親の涙腺にはクリーンヒットするらしい。

そんな本作では普遍的な家族愛を描くにあたり、子どもの誕生、人間(しんのすけ)の起源が描かれている。

この手の愛の表現の仕方は物語では定番で、橋本監督らしいといえるかもしれない。

とくに重要なのは、野原一家が失踪したしんのすけを求め里にたどり着いたところで、ひろしとみさえが、しんのすけのパジャマを着たゴリラの子どもに出会うシーンだろう。

ひろしとみさえは、来るのが遅かったために息子が子ゴリラになってしまったと勘違いしゴリラに抱きつき、息子への愛を告げる。

すると、ひょっこり、人間のしんのすけが登場するのである。

このシーンは人は親に欲望されることで、人間として生まれてくるということを示している。
いわば人間の誕生を象徴的に描写しているといえよう。

人は生物学的に誕生した瞬間は人間ではない、動物に育てられた人間が言葉を話さずにまったく人間にならないように、ただ生物として生まれただけでは人は動物と変わらないのだ。

人間が人間になるには親の欲望が必要となる。親にお前は立派な子だと欲望されることで、社会的に子どもが誕生する場所がつくられ、人間世界に生まれてくることができるのである。

したがって、ゴリラを愛し、欲望したことで、ゴリラはしんのすけという社会的な名前をもった人間として誕生するのである。

だからこそゴリラを抱擁し、我が子として欲望したことで、人間のしんのすけが登場しているのだ。

ただ総合的に見て監督は、そこまで意識していない可能性が高い。

これまでの作品評論では監督の意図をひもとくスタイルが多かったが今回は、監督の意図を超えた心理学的分析をしてゆき、後半の酷評パートで監督の意図などを推論する。

なぜ珍蔵は突然だだをこねたか

本作では地球の栓が抜けて、てんやわんやの状況下でとつぜん珍蔵がだだをこねるシーンがある。

珍蔵はこれまで忍びの里で厳しい教育をうけており、みずからの使命である、もののけの術を使い、栓を抑えるという責務を果たすために修行を重ねる禁欲的な子どもだった。

それが突然だだをこねるのは、もちろん、栓が外れて地球のエネルギー、チントルが吹き出すこととリンクしている。

つまり、珍蔵が自分の欲望を押さえつけ、無意識に抑圧していた栓(自制心)を象徴するのが、地球のへその栓なのである。

このあたりは橋本監督が意識して脚本にしていると思う。

ところで、本作の主人公は母、女性、珍蔵という感じで、しんのすけが成長したり学んだり、するわけではない。

珍蔵に関しては、これまでの自分の生まれてきた意味であり、使命だったもののけの術により栓を抑える役割がなくなったため、根本的に変容する。

栓をおさえる先祖代々の封建的な使命は自らの願望に栓をして抑圧することとして示されているのである。
このあたりは監督も意識しているのではなかろうか。

前作の続編としてのもののけ

前作のクレしん映画は『謎メキ!花の天カス学園』がある。

じつは天カスでは意識と無意識の境界が消失し、融合するという極めてドラッキーなエンディングを迎えている。

具体的にいうと、天カスでは、かすかべ防衛隊メンバーが親元を離れ、天カス学園という異界へと参入する。こうした物語形式では必ず、異界からの帰還によって物語は幕を閉じるのがお約束

ところが天カスはそんな物語の心理学的セオリーをぶち壊し、ポストモダン的なエンディングをむかえる。なんと日常世界を代表する親たちが天カスの世界にやってきて子ども達の帰還が描かれぬまま、意識(日常)と無意識(天カス)の境界が溶けてなくってしまうのである。


そんな天カスのポストモダン的な物語構造へのアンチテーゼとして見ると本作は面白いかもしれない。

異類婚の物語

民族学の巨人、柳田國男も重視した異類婚と呼ばれる物語の構造を見ることで、その国の文化や心性が分かるというのは有名である。

じつは本作は典型的な異類婚の構造が意図的に組み込まれていると考えられる。

まず西洋の異類婚では、カエルの王様、美女と野獣のように動物だった異性が人間にもどって結婚するのが基本。
これは人間と自然、意識と無意識が強く分離されていることを示す。

つまり西洋では人間は動物とは結婚できないのである。

対するアフリカなどでは、動物とそのまま結婚してしまうのが主流である。これは自然と人、意識と無意識があいまいで未分化なことを示す。

そしてアフリカと西洋の中間とされる日本では、動物と結婚するがやっぱり翻意して殺すパターン人間だと思っていたのに配偶者が動物だと発覚して消えさるパターンに大別される。

日本の昔話の猿婿入りでは、猿と結婚することになるが突然翻意して猿を殺してしまう。あるいは鶴女房のように妻が実は鶴だと発覚することで、鶴が飛び立ってしまうわけである。

これはアフリカほどではないにしろ、意識と無意識、人と自然が未分化であるのを示す。


ゴリラの夫とは

それでは、本作の異類婚構造を見てみよう。

本作では、もともと人間だった人と結婚するも旦那がもののけの術を使いすぎて完全にゴリラになり言葉も失ってしまう。

動物と発覚してなお別れの主題はなく、したがって本作のあり方はアフリカに近い。

いわば意識と無意識、人と自然の区別がないのである。

これは先ほど示した、天カス学園における境界消失に通じている

つまり本作の異類婚のあり方は、もともと人間だったのがどんどん動物になって人と動物の境界が溶けいてゆくスタイル。

これは現代社会の境界のなさの象徴として解釈可能。しっかりと境界が分けられた近代から、境界が溶けてしまう現代への変遷に対応していると見れる。

つまり前作、天カスでは最初、子どもが旅立つ異界である天カス学園と日常の家庭の世界が分けられていた。それが結末ではその境界が溶けてなくなった。

それに対して本作では、既に物語冒頭から、ちよめの夫であり珍蔵の父は完全にゴリラ化済みで言葉と境界を失っており、そこから境界が設定されるという構成をしているとも見れる。

本作の境界の再設定については後の項で説明することになる。

現代における境界喪失について

忍びの長老と父の死

本作では忍びの長老は傲慢な悪役であり、忍び衆には厳しい戒律と禁欲を化し世俗の娯楽を禁止し、自分だけは、金の力で贅沢三昧をする。

忍びに禁止するネット動画などの世俗的快楽にどっぷりつかり、まったく禁止という概念がないのである。

このような、他人を禁欲し自分だけはなんでもありな存在を、精神分析では原父という。

こうした原父的な長老は意識と無意識、人と動物の未分化を象徴している。

なぜ未分化かといえば、子分どもは命令で縛り付け、一切の自我を認めないから。事実、長老は作中において完全に自分の言いなりになることを忍び達に強制している。

したがって長老にとって忍びは自分の手足のようなもので自分から自律していない。このことは自他の境界のなさを示すのだ。

また他人の言いなりになるだけの人間には意識も無意識もない、ロボットに意識がないように完全な言いなりの人間には意識と無意識の境界がないのである。

重要なのは珍蔵に禁止と掟をかす父の存在である。珍蔵の父はゴリラであり言葉を失っているのは、長老の言いなりに限りなく近いためだとも解釈できる。

そのためにゴリラの父は栓を押さえつけるものとなっている。さきほど説明した通り、へその栓は、珍蔵の欲望に蓋をして抑圧する栓でもあるから、父は珍蔵の主体性を押さえつけお役目を強要するゴリラともとれるのだ。

よって父は珍蔵の主体性を殺す存在としての側面も持つのである。

また長老や長老の意向を体現するゴリラの夫に逆らい珍蔵を野原家に預けようとした、ちよめがどこまでも人間であるのは彼らに逆らう近代的な人物だからである。

そのため、ちよめも鶏に変身するがそれは着ぐるみであり、鶏でいるときも着ぐるみの中身は常に人間であって本当に動物になってしまう夫と違い、動物との境界が明確な人物なのである。

また着ぐるみというのは、内面と外面のズレ、内面(本心)を隠すことを示し、意識と無意識の境界の成立を象徴するものでもある。本作でしつように何回も着ぐるみであることをこれ見よがしにするカットが出てくるのは、このことを強調していると考えられる。

したがって本作のもう一人の主人公はちよめに代表される女性ということになろう。これならフェミニストも満足の映画といえる。フェミが歓喜しないのは読解力が乏しいせいだろうか?

ところで長老(原父)のあり方は中世日本のあり方を示している明治維新以前の中世日本では、お上に従え!が基本原則であり、民主主義という近代的な概念は存在しない。

お上が絶対でありそれに服従するのが中世だといえる。
(※実際には複雑で中世日本にもご恩と奉公、死即生などの実存形式がありますが、ここでは膾炙した解説をしています)

このような個を認めない中世的な世界の象徴として忍びの里が描かれているとも考えられる。

そして本作では長老は近代化した野原家の価値観の流入にもあいまって忍びによって、島流しにされる。くノ一が率先して長老を排除するシーンは印象的であり、やはり日本人の圧倒的女性の強さを思わせる。

長老を始末したくノ一が金塊を戻すように命令し禁止を促すシーンもまた印象的である。

というわけで次の項目では金塊とへその栓について物語的な意味を明らかにしよう。

長老とへその栓と純金

地球のへその栓、無意識と意識の境界を分かつ栓は巨大な金塊であり、長老はその栓から金を削り、私服を肥やしていた。

そして長老が欲望のまま栓を削ったことで、穴を塞ぐ栓が小さくなり、栓が抜けやすくなっていたのである。

したがって長老は境界を破る者でもある。境界というのは禁止によって設定されるので、まったく禁止がなく欲望のまま好き放題する長老には何の境界もないことが分かる。

赤子のようになんの禁止もなく欲望におもむくまま、だだをこねる長老にも意識と無意識の境界はないのだ。

長老が放棄されると一同は力を合わせ、金塊を運び穴に栓をする。

このことで金塊は深くめり込み、世界は境界を取り戻し、意識と無意識は分離される。
また金塊が深くめり込んだおかげで、もうもののけの術で栓を抑える必要もなくなった。

こうしてもののけの術は禁止にされ、人が動物化することはなくなり、忍びの里も解体し近代化することになり物語は幕を閉じる。

この描写にのみ焦点すれば、本作は天カスで融合してしまった世界を見事にふたたび分割して幕を閉じたともいえよう

人と動物の世界は境界で隔てられ、金塊(栓)を削ることが禁止にされ世界に秩序がもたらされたのである。

どこにも異界のない世界で全てが日常に呑み込まれた境界のない世界でそれでも境界は設定されたのかもしれない。

忍者の里と世俗の関係

忍者の里が古き日本の自然と一体だった世界を表象しているのは言うまでも無いだろう。
これは、しんのすけの起源にも相当し、既に失われた懐かしい過去の象徴である。

一般にこの作品の構成をクラシックスタイルのユングで解釈すれば、忍者の里は無意識に抑圧された太古的な生、野原家は意識を代表する文明的日常性として理解される。

忍者の里と世俗を隔てる関所は抑圧の強さを示し、現代人が無意識から切れて意識一辺倒になってしまっていることをしめす。

ラストで忍者の里が世俗と交流し観光地化するのは、無意識に抑圧した太古的な生が意識にも幾分統合され、意識と無意識の心的エネルギーの交流が生じ安定したことを示す。

と解釈したくなるが、これには無理がある。

まず忍びの長ははじめから世俗にまみれている。したがって忍びの里は失われた懐かしき過去というより、現代から見た過去の幻想に過ぎない。

この辺は大人帝国を意識しての設定だろう。

古き良き中世日本なんてものは現代においては幻想でありそのあり方に素朴に戻ることはできないというのが橋本監督のイデオロギーの一つだともいえる。

もののけの術とは何なのか

もののけの術について、もともとは屁祖隠家に限らず、子どもなら誰もが使えるというニュアンスのことが述べられる。

子どもは、無意識との繋がりが強くまだはっきりと自我をもっていないため、太古的な世界と親和性が高い。子どもが使えるとは、古い時代の心性を子どもが持っているためだろう。

サンタクロースを信じるように子どもは素朴に、霊的世界を信じることができるのだ。

そして、もののけの術は、民族学的にはトーテム動物に他ならない。

トーテム動物とは太古の部族において信仰された動物の祖霊のことである。我が部族はかつてオオカミの神と人との間に生まれ、オオカミの神を祖先とする、という風に民族的ルーツを神話的コスモロジーに基礎づけるのがトーテム動物である。

またトーテム動物は民族の祖霊とは別に個々人が独自の内なる動物の霊を所有する場合もある

するとかすかべ防衛隊メンバーがそれぞれに内なる動物を召喚するもののけの術は、完全にトーテム動物のことだと分かる。

つまり忍者の里ももののけの術も太古的な心性を象徴しているのだ。その意味で屁祖隠家とは典型的なシャーマンの家系だと言える。

監督はシャーマニズムやトーテム動物から本作のヒントを得ている可能性が極めて高い。

しかし現代では動物霊は失われ文明化しているというのが本作の基本テーゼといえよう。

酷評

これまでは本作の魅力と評価できるポイントを取り上げたが、本作は多くの物語的な欠陥を持っている。

だからつまらないという声も多いのである。あれだけ反則的にしんのすけの起源を持ち出して感動を煽ってもなお、ネットの評価が低いのにはそれなりの理由があるのだ。

それをここでは明らかにしたい。

度の過ぎたフェミニズム

まずおかしいのは、やり過ぎたフェミ思想。本作は素朴に見ていると男性嫌悪の塊にしか見えない。

基本的に敵は全て男性で、その男を退治するのはしんのすけでも子どもでもなく女性である。

ひどいのがもののけの術で、これは大人だと男しか使えない。珍蔵の父はゴリラであり言葉すら話せない、長老の言いなりであり父としては何も機能していない置物である。

ひろしもみさえに助けられ牽引されるシーンが目立ち、そもそも必要が無いいらない存在になっている。

極めつけは、ひまわりのもののけの召喚。なんとイケメンが召喚される。そしてひまわりのもののけはイケメンだとの言及まである。

イケメン(男)=もののけ(動物)、ということを台詞で言わせているのである。

女性のちよめは動物に変身するときも着ぐるみで絶対的に人間であり、男性だけが動物である仕込みが徹底していて異常である。

女性の社会進出大いに結構だが、女性をあげるのに男性を動物にして、下げる意味が無い。

監督の自己満を見せつけられているようで不快である。やり過ぎればフェミナチになるだけで誰からも賛同は得られないだろう。

問題はこのイデオロギーが作品をつまらなくしていることである。

物語のラスト、忍者の里が観光地化し近代化した場面、ここでも父のゴリラはゴリラのままであり言葉も話せないままなのである。

いまどきの服を着て人間ぶってるだけのゴリラとして男性は固定されているのだ。
もちろんこのラストの近代人の服を着たゴリラ男は動物の着ぐるみを着る女性と対をなす。

女性は動物のふりはしても人間、男性は世界が近代化しても人間のふりをするだけで中身はゴリラということ。

最後に人間に戻すということさえできない、だから、まったく何が言いたいのか分からない作品になっている。

異類婚の話をしたが、近代化してもアフリカモデルのままというのは理解に苦しむ、これではまったく整合的な解釈が成り立たないのだ。

またしんのすけの女好きの設定は消されている。ひまわりは男を中身のパーなイケメンとして召喚するがしんのすけはインポキャラに変更されている。

しんのすけの女好きをなくすならひまわりのイケメン好きもなくさないと、男性嫌悪にしかならないのはいうまでもないだろう。

もともとクレしんは、PTAの反発にあったりしながらも、独自路線をつきすすみ大衆からの支持を得た作品であってポリコレに安易に迎合する作品ではない。

さらにクレしんは最初から女性が強く描かれているため、そこにフェミ要素をてんこ盛りして男性蔑視をこれ見よがしにする理由がない。

フェミネタや説教をしたいならどうぞ、橋本監督のオリジナル作品でやってくださいというのが本音である。

しんちゃんの起源の扱いが雑

本作は劇場版クレしんの30周年作品でありメモリアル的な位置づけとなる。したがってしんのすけの起源が描かれてもいる

とすれば、しんのすけの起源と映画クレヨンしんちゃんの起源のオーバーラップは避けられない。

なのに過去作への反省、クレしん映画とは何かという問いの煮詰めがあまりに浅いまったく表層的にこれまでの作品のエッセンスをつくろっているだけ

本作が家族愛とかすかべ防衛隊の友情を入れてるのは劇場版の多くがこの二つにフォーカスしているからだろう。

大型ロボットを出したり中世日本的な忍者を登場させたり、表面だけ過去作をつくろっていて中身がまったくない。

取り違いで、しんのすけのアイデンティティが問われながら、しんのすけも両親もそれを一顧だにしない問題はそのまま、本作でクレしん映画とは何かという問いがおざなりになっている問題に通底する。

退屈な理由の根幹

本作では新生児の取り違いが最初のクリフハンガーとして導入され、しんのすけのアイデンティティの問題へと発展することが期待されるが、その期待は肩透かしに終わる。

しんのすけの不安が描かれないのである。これでは、しんのすけの起源描写が親の自己満に終わり子どもを退屈させるのは当たり前だろう。

正直、何考えてんだ?となる。

そもそも珍蔵としんのすけが取り違えられ、しんのすけは忍びの里へ、珍蔵は野原家を滞在することになる。

この場合、しんのすけは忍びの里で中世日本の学ぶべきところを学び珍蔵は現代日本から学ぶ後に両者がもとの場所へと帰還し互いに学びを得るのが筋である。

ところがしんのすけは徹頭徹尾黒船であり、蒙昧な忍び衆を啓蒙し開国を迫るペリーでしかないのだ。

しんのすけは、忍者幼稚園の同級生の風子が母と家に帰るのを見て、自分が家族や友人のいない見ず知らずの土地に来てしまったということを悲しむだけ。

取り違いや自己決定せねばならない近代におけるアイデンティティの問題はまったくスルーされている。

このあたりも監督の歪んだイデオロギーが出すぎているために生じた問題だろう。
あまりに傲慢であり他価値観への理解を欠いているとしか思えない。

当たり前だが、これでは、しんのすけが忍者の里に行った意味が無い。したがって物語として成り立っていない。

珍蔵は自己の起源であり存在理由である、地球を守るという役目を失い多きく実存の変更を迫られるがしんのすけは取り違いを聞かされても、まったくアイデンティティが問題とならない。

はじめから、現代人の自由に生きる!が絶対的な正義としてドグマ化され、そのイデオロギーに都合よく物語を構成するために、まったくお話が骨抜きとなり退屈なのである。

誰だって監督の説教のための作品を見せられたら退屈する。しんのすけ誕生の回想というチート要素をぶちこんでなおこれだけ評価が低いのも当然であろう。

中世のようにはじめから天命によって自分の存在意味が決定している世界を否定することは必ずしも悪くない。
だからといって、自分の存在意味を自分で決めねばならない現代の自己決定社会におけるアイデンティティクライシスの問題を隠蔽するのは違う。

結局、しんのすけとはなんなのか、珍蔵はお役目を失って何を頼りにするのか描かれないしんのすけに至っては、取り違いや誕生の描写まであるのに、まったくそれがしんのすけの中で問題にならない。

この辺はラストオブアス2を見習って欲しい。ラスアス2では人類救済のお役目を奪われたジュブナイル(エリー)の絶望が克明に描写されている。

正直、あつかっているテーマに対する監督の実力不足は否めないとぼくは思う。まず素朴にぼくはこの作品、すごく退屈でした。

深いテーマの主張とか社会批評をしたいなら、勉強不足で論外、普通に子どもが見て楽しいと思える作品をつくった方がいいと思う。

文明開化モデルのリベラル性

これまでの説明から分かるように基本的に本作は以下の表のような対応をしている。

中世開国圧力改革派封建主義結末
忍者
の里
野原家ちよめ
くノ一
長老
ゴリラ
男忍者
観光地化
鎖国
日本
黒船坂本龍馬幕府
新撰組
文明開化
明治維新

忍者の里は世俗の物を禁止し関所をもうけて部外者の侵入を阻止する。そのあり方は鎖国していた過去の日本である。

ちよめは倒幕派の急先鋒であり英雄的に描かれ、さながら坂本龍馬。
開国によって文明開化を迎え近代国家へと移行した歴史を作品に落とし込んでいるのかもしれない。

ラストの観光地化と忍者の和装の現代化、洋服化などを見ると文明開化のようである。

監督としては、男性優位の社会に一発もの申して、女性活躍社会の展望を文明開化になぞらえ、気がきいているつもりなのかもしれない。

だとすれば、あまりに現代社会についての洞察が浅い。

ちよめが、へその栓が抜けて、これで子どもがお役目から解放されると喜ぶシーンなど反道徳的で子どもに見せたくない映画としか言えない。
文明開化と自己中心主義をはき違えているのではなかろうか?

つまらない理由まとめ

フェミ過ぎ

悪は全て男性であり父、味方の男もゴリラであり言葉すら話せない。

すべて女性が解決し女性が男性を倒す物語。

イケメンはもののけと台詞で言わせる。

近代化しても男はしゃべれないゴリラのまま。

大人の女性は絶対に動物化しない。

リベラル過ぎ

中世的な自分の役目があらかじめ決められている世界は絶対悪。

現代の自己決定する自由だけが絶対的正義。

中世から学ぶべきことは何もない。

蒙昧野蛮な中世の連中を一方的に啓蒙することが正義。

イデオロギーで歪む構成

しんのすけが日常を離れ中世世界に行くのにまったく成長しない。

新生児取り違いから、しんのすけのルーツがテーマになるのに、しんのすけは、自己のルーツに不安一つ抱かないため、ルーツの描写が親の自己満でしかなく意味が無い。

珍蔵は人類救済のお役目から解放された喜びだけで、自分の実存を失ったことに対するアイデンティティの問題が描かれない。

ひたすら現代的自由は完全無欠という歪んだメッセージが強調され現代社会について思考停止せよというメッセージしか発していない。

どうすれば名作になるのか

ボロかすに酷評もしたが、珍蔵がだだをこね、父から受け継がれるお役目によって抑圧されていた我が儘があふれることと、父が押さえつけていた地球のへその栓が抜けてチントルがあふれることの対応などは見事であり、評価すべき点も多い。

そのためここではどうすれば名作になるかを考えてみたい。

まず取り違いの主題はちゃんと扱うべきだろう。外し演出なのかなんなのか分からないが、ちゃんと自分の子ではないかも知れない、本当の親ではないかもしれないという葛藤を描くべきである。

そして、珍蔵の決して疑われることのないお役目を引き受け、それを実存とする中世的な生き方の苦悩と、自己のルーツを疑問にふされ、自らの実存を自己決定せねばならないしんのすけの苦悩、両者の葛藤をバランスよく描写しうまく絡めるべきであろう。

また、しんのすけのルーツを問う姿勢に作り手のクレしん映画とは何かと問う姿勢を重ね合わせるのが無難

伝統への回帰、その内省と否定において、つまり古き伝統(ノスタルジー)を否定することで肯定するのが本作のテーゼを扱ううえでの最低合格ラインと思う。

具体的にはラストの近代化(観光地化)そのものは悪くないアイディアなので、失われた中世的な世界への喪の作業、かつての中世的世界への望郷と悲しみを表現するのが無難

そんなことしたら、大人帝国と同じになるじゃないか!と思われるかもしれない。しかし本作のとっちらかっためちゃくちゃな話よりは、はるかにマシになるのも事実。

またちよめの利己主義的個人主義と地球を守るための自己犠牲という共同体主義の対立が本作では描かれるが、両者の分断は乗り越えられずに投げっぱなし、何が言いたいのか分からないまま終わっている。

したがって共同体と個人との弁証法的な統合も描く必要がある過去作でいえば、『電撃!ブタのヒヅメ大作戦』でのぶりぶりざいもんの話ではそれができていた。

正直、原恵一と比べるとあまりにレベルが低いと言わねばならない。子ども向け映画として最低限の道徳は示すべきだろう。

本作における忍者の里を悪とし、現代の野原家を絶対正義とする極端な態度は、原恵一時代の古きクレしん映画を悪とし、いまのポストモダンかぶれのクレしん映画を正義とする傲慢な態度を思わせる。

本作は、原恵一の金字塔を意識しすぎて、めちゃくちゃになっているようにしか見えない。

うわべだけはしんのすけの女好きなどを漂白し毒気を抜いて、さもポリコレ的に刷新したつもりかしれないが、あまりに教育的に歪んでいるのではなかろうか?

つまり子どもに見せれない映画になっているということだ。

おまけ:ラカン好きのために

最後におまけとしてラカンで読み解くとどうなるかをラカンを知ってる人向けに簡単に記しておく。

金塊は対象aであり、しんのすけの誕生の記憶もまた対象aである。
対象aの金塊は享楽をおびるが外傷でもあり、そのため欠如の穴からエネルギーがもれると世界は滅亡する。

欲望の対象が直接対象として求めれることで、外傷に呑み込まれるのである、倒錯者の幻想のように。
長老は現実界に属する超自我に他ならない。そのために忍びの掟という自我理想(象徴的秩序)と表裏一体なのである。超自我の命令とは死であり享楽せよということである。

本作の地球のへそはフロイトでいう夢のへそ、ラカンのいう対象や自己の欠如を意味する象徴界の裂け目に他ならない。またニントルはリビドーである。

忍び衆に働かせて取り出した純金は剰余享楽といえる。

長老を始末した女性は象徴的な〈大文字の他者〉である。

本作は絵に描いたようにラカン的な解釈がしやすい作品といえる。

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