※この記事は安部公房『なわ』のネタバレを含みます
うたまるです。
『DEATH STRANDING』について分析したくて最近、安部公房の小説『なわ』を読みました。
※『なわ』は『無関係な死・時の崖』という本に収録された安部の短編小説
さきほどデスストの分析のため取り急ぎ『なわ』だけを読み、この文学はラカンの精神分析理論によってこそその滋味を掬すことが叶うという確信を得ました。なので精神分析で解説します。
ところで、この作品、ヤバすぎです。というのも、この短編の寓話の中に現代資本主義のエッセンスが凝縮されているからです。
どのくらいヤバいかというと、高畑勲についての記事を書いていたのに、なわが凄すぎて、収まりのつかなくなったその興奮を静めるため、高畑記事を中断して一気にこの記事を書き上げてしまうことになるくらい。
というわけで安部公房の魅力と『なわ』に隠された驚くべき作者の緻密なメッセージ、文学的細工を徹底的に解説!
じつは僕は人生で小説とやらをほぼ読んだことがないので、デスストランディングきっかけで安部公房の『なわ』を読みました。
さて、まともに文学に触れたことのないやつが、読んでためになる文学評論・解説など可能なのか?と思われる方もおられるでしょう。
ゲームやアニメ、映画ばかりで本は深層心理学の論文しか読まない人間が文学解説でどこまでやれるのか興味ありませんか?
言論人の中野剛志なんかは、アニメやゲームを一段したに見ている節があります。というわけで、ゲーマーがゲームの片手間に文学評論したらどいうことになるか、ついに発覚!
※注意事項:この記事では一部資本主義に対して辛辣な考察が展開されますが、資本主義を全否定する意図はありません。あくまで精神分析理論として作品を分析した結果です。そもそも僕は資本主義者です。また資本主義をよくするためにはその問題点を明らかにする必要があると思うのです。よりよき資本主義に向けての書評として捉えてもらえたら幸いです
『なわ』の基礎分析
本格的な精神分析的文学読解に入る前にここでは本作の初歩的読解を試みたい。
本作は進入禁止の屑鉄場の番人を務める足の悪い(リウマチの)老人が、侵入者の悪ガキどもに翻弄され、屑鉄(棒の象徴)を投げつけられ、耳の下に消えない傷をおい、そのことで部屋にひきこもり、部屋の壁に穴を開けて悪ガキどものドラマをこっそりと覗く作品である。
タイトルは『なわ』とあるが、もしタイトルを伏せて本作を読ませて、なんというタイトルだと思いますか?と尋ねればほとんどの人が『あな』と答えるくらいに穴と覗きの主題が執拗に反復される。
後の項でも触れるが当然、穴を覗くという行為は登場人物の欲望を示す。じじつ老人は長期間にわたり毎日、取り憑かれたように夢中で穴を覗いており、穴があるから覗くのだという感じに描写されている。
このような描写が穴とまなざしに関する欲望の描写であることはいうまでもない。
ところで不能の老人が、禁足地でおりなされるガキのドラマを壁の向こう側の穴から覗きみるという欲望。これはもちろん読者の欲望を表象している。
小説の読者は小説の物語で人が何人殺されようといかに残虐な展開に進もうと、一切その物語に干渉できず、ただ文章を読むことで物語の行く末を壁の向こう側から覗くしかないというわけだ。
このような読者という存在の物語に対する根源的な不能性のメタファーとして老人の足はリウマチという設定をとっている。また老人の番人という役割の不能もこれに重なる。もちろんこれらの不能描写は性的不能の隠喩でもある。
さて物語冒頭、悪ガキどもは子犬を連れてきて虐待し、性的いたずらをする描写がある。ところが子犬はまだ幼く射精にはいたらなかった。
さらに逃げ出そうとする子犬は後ろ足を負傷しオットセイのようになってうまく逃げれない。
この残虐なショーをアンビバレントな感情で夢中で覗くのが、番人としての役をこなせなくなったリウマチの老人というわけだ。
するとここで分かるのは子犬がこの老人の分身であるということ。
足の悪い老人=足を怪我した子犬、子ども達に弄ばれた老人=子ども達にいたずらされる子犬、老人の消えない傷=子犬の性的外傷。
さらに物語の後半、子犬はなわで絞殺されるのだが、このとき「眼から血をふいて」死んでいる。そのシーンを興奮して夢中で覗く老人も「充血した眼のふちが、涙で黒くしみになっていた」とある。
したがって本作では明確に読者=老人(番人)=子犬という対応がなされている。
このことから、番人が過去に子どもを追い出そうとして逆に子どもに遊ばれ消えない傷をおったこと。このトラウマは、そのまま老人の幼児期の性的外傷のことでもある。
またその原光景的な外傷体験として子犬(老人自身)の性的虐待シーンがあるわけだ。
ここで重要なのは、子犬の性的虐待シーンを覗く老人の欲望とは自らのトラウマ(根源)を覗く欲望であるということ。
しかもこのような欲望の構造が小説を読むという営み、つまり『なわ』の読者が作品を読む(覗く)ことのうちに隠しもつ欲望だということ。
このような安部公房の人間存在に対する洞察の深度は驚嘆に値するだろう。
なんということだろうか。短編小説のほんの序盤のシーンを基礎的に読解しただけで、既にこれだけの仕掛けと技巧とが凝らされていることが分かるのだ。人はなぜ物語を読むのか、その深淵な問いへの解答こそが、ここにあるに違いない。
ようするに安部公房はここで、小説を読む(幻想を見る)という欲望の中心となるのは読者の根源的なトラウマだといい、そのことを老人を介して読者につきつけている。
さらにもう少しだけ基礎的読解をしておこう。本作では物語中盤、もう一人の覗き男が登場する。
塀の節穴から悪ガキどもを覗き込むその男はギャンブル依存症なのだが、その男の覗く様を見て老人は、「なにかひどい恥をかかされた気分」になったという。
ここで恥という体験について内省してみよう。たとえば男性であれば自分が女性の胸を見ていたことを相手に知られたら少し恥ずかしいのではなかろうか。
つまるところ恥というのは一つには、自分の秘めたる欲望が他者に知られることなのだ。したがって自己羞恥という感情も自分の隠された欲望が自分(内なる他者)に知られることで生じる。
すると覗く男を見て感じた老人の恥というのは、自身の覗きという欲望が老人自身に知られたことによる自己羞恥だと分かるだろう。
したがって、ここでは読者の物語を覗くという欲望が読者自身に知られることが表象されている。
本作のメタ構造が抱える読者の本を読むという行為が穴を覗く老人という仕方で物語の中に入りこむ。このことで知られる、読者の背徳的欲望、この自身の背徳的な欲望が知られるという読書体験を読者の分身である老人もまた別の覗く男の存在によって追体験しているというわけだ。
ここでは二重のメタフィクション構造が展開しているのが分かるだろう。なるほど、小島監督のメタフィクション的なストーリーテリングもこうした文学作品達からの影響があるに違いない。
監督の話はさておき、物語の中盤あたりまでを、基礎的に読解すれば概ねこのような解釈に行き当たるだろう。
ここで、その程度のメタフィクションや欲望への洞察など他にもある、昭和35年ならいざ知らず、いまどき珍しくもないと思われるかたもいるかもしれない。
安心して欲しい、本作の文学的細工と人間の欲望への洞察の深さは、この程度の初歩的トリックの解説で語り尽くせるものではない。
それではさっそく次項からは精神分析理論を駆使した、本格的な分析によって本作の魅力と文学的技巧とをつまびらかにしよう。
『なわ』と資本主義
『なわ』と欲望
本作は番人(老人)が番をする立ち入り禁止の場で壁の穴から禁足地で荒ぶる悪ガキどもをのぞき込む物語。
壊れて残骸と化した道具、作中「屑鉄の死体置場」と表現されるスクラップの山、そんな禁止の場所で荒ぶる悪ガキを穴から覗く老人。
これは、まんまラカンの対象aや〈物〉でしかないのだが、それについては後述するとして、ここでは本作のもっとも中心的な主題から論じよう。
ラカン派精神分析的に読解した場合、本作の最大のメッセージは資本主義における大衆の欲望の風刺にあるだろう。
※安部公房にとっての最大のテーゼが何かは分からない、あくまで一つの精神分析的な読解においてである
したがって本作では、登場人物たちの欲望のまなざし、欲望の対象、欲望の変遷を読解することが重要になってくる。
いずれにせよ、本作は基本的に登場人物の欲望の交錯をこそ中心的なものとして描いているのは確かである。
まだ、あまりピンとこないかもしれないが、とりあえず本作は登場人物の欲望が貨幣と眼差しにおいて表象され、その欲望が棒となわとの関連において描かれていることを記憶にとどめてもらいたい。
資本主義の欲望と『なわ』
さて、さっそく注目したいのが物語の中盤~ラスト、スクラップ置き場に登場する姉妹と、その父親の話。
姉妹の父はダラズのギャンブルジャンキーで一家心中しようと逃げる娘達を追ってスクラップ場までやってくるのだが、姉妹は死ぬのを嫌がりスクラップ場を逃げ父を翻弄する。
※ここで姉妹は主体と生を欲望し、そのために父との分離を目指していると分かる
最終的に父は自分の底の抜けた靴を売るかたちで娘から100円をせしめ裸足で競艇場へ向かう。
残された娘はスクラップ場で悪ガキどもと戯れ、なわで犬を捕まえ、首をしめて始末する。
その後、姉妹は家に帰ると眠る父の首になわを絡めて絞め殺し、父の枕下にあった数千円の金から100円だけをもらい、靴を父に返して物語は幕を閉じる。
この作品の一つの肝はこの一連の話に凝縮されている。
ここで親父の欲望がどうなっているかを確認しよう。
まず親父は娘をおって禁足地のスクラップ場へとやってくる。そして娘と心中しようとする。
言うまでもないと思うがこれは父親の近親相姦願望のメタファーになっている。
物語序盤で子犬(番人)の性的外傷が演じられ、屑鉄の死体置き場と称される場所においては、父による娘殺し欲は近親相姦願望とみなせるだろう。
ようするに近親相姦は法で禁止されているのでスクラップ場は立ち入り禁止になっている。そして性的結合は多くの物語で死として象徴されるように、娘の死を欲望する父の欲望はここでは近親相姦願望として描写されていると見てよい。
※死は生の彼岸であり生からはつねに禁足地として捉えられる、その意味で死は近親相姦に似る
重要なのは、この親父は靴を売るかたちで娘から100円をくすねるとギャンブルのため裸足で競艇場へ歩き出すこと。
つまり父の欲望はここで娘から当たり舟券へと置き換わる。
この移行は父の欲望の対象が娘から金になったのを示す。
ここで重要なのは金を手にした父は、それに満足せず金によって金(当たり舟券)を欲望したということ。裸足で競艇場へと歩み出す父の描写はその欲望の狂気を生々しく読者に提示している。
じつはこの奇妙な欲望構造、金で金を欲望するという自己回帰的な欲望の構造、ここに本作の資本主義批評の全てがある。
解説しよう。
まず本来の人間というのは欲しい商品があって、その商品を買うために金を払う。したがって金はここではリビドーに対応し、欲望する商品はリビドーが備給される対象ということになろう。
金とはそれ自体は欲望の対象ではなく消費行為における対象と自己との媒介である。
したがって金は流通(運動)を基礎とし経済を可能ならしめる運動エネルギーのようなものといえるだろう、その意味で金はリビドーである。
※リビドーとは欲するという欲の動きという意味での心的エネルギーのこと、原始的な主体性ともいえる、フロイトの精神分析用語
すると金が対象(商品)ではなく金自身へと備給される構造は、対象愛(異性愛)を否定し自体性愛的な自己愛へと退行することに対応する。
※幼児はリビドーが自己身体に回帰するとフロイトはいう、これを自体性愛と呼ぶ、成長すると外部の対象へとリビドーが向かい対象愛に至る
いずれにせよ、本来の欲望は具体的な商品(外部の対象)へ向かうといえるだろう。
しかし、本作のギャンブル依存症の父はそうではない。金すなわちリビドーがリビドー自身に備給され、回帰しているのである。
その結果、父は金を握りしめて奔走し、その金を金自身(当たり舟券)に備給するという奇妙なことに狂奔する。
もちろんこれは資本主義社会における欲望構造そのものを揶揄している。つまり資本主義における人の欲望とはまるでジャンキー(依存症=自体性愛)だといっているのだ。
つまるところ自身の欲するという主体性それ自身を欲するというリビドーの自己回帰は、自己主体をこそ愛するという自己愛に他ならないわけだ。
※自己愛と自体性愛は厳密には違う、自己愛では対象化した自己が求められる、しかしここでは一般読者向けに分かりやすくするためこの二つはあえて区別しない
つまり資本主義は金によって金を拡大することが欲望され、貨幣の自己循環をなすハムスターホイールを形成、このホイールの中で人間は自体性愛的な欲望を原動力に死ぬまで走り続け経済循環のホイールを回転させ続ける。
※ラカンの有名な資本主義のディスクールの式も資本主義を終わらない循環構造として描く
具体的にいえば、これはSNSのアルゴリズムのデザインに顕著と言える。たとえばYouTubeでは、視聴維持率と再生回数の数値に比例して、より多くのユーザーに動画がリコメンドされるようになっている。
※YouTubeは再生数におうじて金が得られるため再生数=金
つまり資本主義はお店に並ぶ行列(金)が行列自身(金)を再生産するようにデザインされている。それゆえ、あらゆる価値根拠(欲望、動機)もまた数字(再生数=金)へと自己回帰することとなるのだ。
ここでは良い動画が見られるというより、みんなが見ている動画が見られる。つまり良い物が売れるのでなく売れるものが売れるという構造が生じる。
これによりあらゆる価値根拠は自己言及によって底抜け、大衆の欲望は数字それ自体へと還元される。
つまり信念があるから売れるのであれば、そこでは大衆のリビドー(数字)は、信念にむけられる。
しかし売れるものが売れるという場合、そこでの大衆のリビドーはリビドーそのものである数字自身に回帰せざるえないわけだ。
かくしてネオリベ経済において人間の欲望は自体性愛的な依存症を避けられず、必然主体は解体し幼児退行を余儀なくされる。
一般読者むけに超ダイジェストで分かりやすくまとめると現代資本主義における人間の欲望が対象愛から自体性愛へと退行する仕組みはザッとこんな感じ。
※ラカニアン松本卓也の現性神経症としての鬱病論も、ベースはこのようなリビドーの自己回帰として資本主義社会を見なす点に集約される
すると本作で安部が描く、姉妹の父の欲望のあり方がいかによく現代の資本主義を揶揄しているか分かるだろう。
ところで、すっかり書き忘れていたが、ラカン派精神分析ではギャンブル依存症を含む依存症一般を自体性愛と解釈し、資本主義を依存症的なものとして理論化する。
したがって本作で、ギャンブルジャンキーの父が自体性愛的なリビドーの自己回帰としてその欲望を晒す描写は精神分析的には資本主義批評というより他ない。
さて、安部がラカン派の現代の理論を参照せずにそこまで考えていたのかと思われる人もいるかもしれないが、僕自身、この程度のことはラカンを知る前からある程度気づいていたので、安部ほどの人間なら僕の500倍は余裕で気づいたことだろう。
このような資本主義の本質を依存症(ジャンキー、自体性愛)に見る理論は現代ラカン派の王道であり、昭和35年段階でこのことを見抜いた安部の洞察は現代ラカン派を先取りしていたに違いない。
『なわ』の文学的技工
また安部が本作において、この父親の狂った欲望を物語の一つの中心にしているとするのには根拠がある。ここのところが分かると安部文学の技工的な妙もよく理解されよう。
その根拠は本作において、このジャンキーがギャンブルに狂奔するシーン、勝ち舟券を握りしめるシーン、換金するシーンもろもろが一切描写されていないことにある。
というのも読者は物語の最後、ピリオドのように打たれる枕下の増えたお金の存在を知ることで、この親父がギャンブルで勝ったことを知るにいたり、思わずそこで、親父が舟券を握りしめ狂気する様を想像することになるからだ。
※心中と言いながら100円を手にすると娘そっちのけで即座に裸足でギャンブルに向かうため、父はスカンピンだったと分かる。したがって金が増えていたということはギャンブルで買ったことを意味する
つまり安部は物語の最後に姉妹が金を発見する描写を打つことで、描かれなかったシーンをこそ生々しくありありと読者に想起させているのである。かくして物語の最後に親父の狂喜乱舞する姿、一切書かれていない空白のシーンが躍動する。
この凝らされた仕掛けによってこそ読者は、本作の主人公の一人である、壁に穿たれた穴(欠如)に自己の欲望の世界を覗き込む老人を追体験するがごとく、文章に穿たれた空白に読者自身の欲望として生々しく浅ましいジャンキーの享楽イメージを浮かび上がらせるのである。
書かれなかったシーン(文章の穴)を読者に覗かせ、しかもそのとき読者に覗かせる(想像させる)シーンこそが本作の一つの眼目となっている。
したがって本作の主人公の一人である覗く老人は、ここでもやはり読者の分身として描かれていると分かる。
ぼくたちは作品の最後にその文章の穴を発見し、思わずその穴を覗きこんでしまう。そんな僕たち読者の視線(想像力)の先にはギャンブルで絶頂し、死(絶頂)に至る男のイメージがあるというわけだ。
もちろんギャンブルに勝って絶頂する男のイメージというのは、僕たちの原光景、心的外傷(子犬の性的トラウマ、老人の消えない傷)としての死(屑鉄の死体置き場)のメタファーに他ならない。
つまり物語の最後に読者は物語冒頭で穴から屑鉄の死体置き場を覗く男を追体験するのであり、これは読者を追体験していたはずの老人を読者が追体験するということ。
この文学的技巧、計算、驚愕に値するといわねばなるまい。あの天才ゲーム監督、小島秀夫をしてうならせたわけもこういったところにあるのだろう。
以上が本作の一番の肝でありメッセージに違いない。あくまでも僕の勝手な解釈なのだが、このあたりを読解できるとグッと本作が面白くなってくる。
しかし、本作のメッセージはこれだけにとどまらない。本作では資本主義における性愛を売春として揶揄している側面もある。
次項ではまだ触れていない本作のテーゼや意味を明らかにしたい。
『なわ』の裏テーマ完全解説
覗き穴とスクラップの不確かな考察
さらなる重厚な本格解説に入る前に、ここに不確かな軽めの考察を挟もう。
本作では番人が壁の穴を覗くことで物語が動き出す。
そして、物語の中盤ではスクラップの穴だらけのボイラー管の穴を覗くシーンがありここでも欲望の対象として海のイメージが浮かび上がる。
ところで本作の覗くというモチーフ、これはどこからきたのだろうか。
本作が昭和35年の作品であることを考えると、TVを見る欲望のメタファーかもしれない。といったらあまりに安直だろうか。
対象を見るという欲望はしばしば水着の誕生と関連付けられ、水着以前には女性は混浴場で裸でも恥ずかしくなかったという話もある。
欲望の対象としての見ること、プライバシーを覗くこと、こうした欲望を生成し、かき立てものがあるとすれば、やはりTVの存在が大きかったのではなかろうか。
もちろん小説の存在が覗く欲望の源泉だというのが本作の前提にあるとは思うのだが、それでもやはりこれだけみんなで穴を覗くという表現が誇張されているのは当時の時代を反映してのことのようにも思われる。
※物語中盤では悪ガキどもも塀の外にまわり、みんなで節穴から同じ屑鉄置き場を覗くシーンもある
昭和35年というと、ちょうどカラーテレビなどが登場しようか、という時期だろう。
姉妹がクズとかしたボイラー管の穴に海が見えるという欲望を語ると老人にもその穴を介して姉妹の欲望の海が見えるシーン。
これは日本中の誰もがTVの同じ番組を見ていたことと関連するのかもしれない。
いずれにせよ、見る欲望と文明機械(ボイラー)とがここでは結ばれているのかもしれない。文学史について疎いので、完全な無根拠な想像になるが、TVが登場したことで文学作品も、他者のプライバシーとしての物語をあたかも画面ごしにのぞき込むスタイルが増えたとか、そうしたことがあってそういうことを風刺したとかいうこともあるのかもしれない。
※さっき読了したばかりなのでまだまだ考察に甘さがあります
対象a、覗き穴、屑鉄
ともあれ、覗かれる穴と屑鉄のモチーフは精神分析的には明白と言わねばならない。
これについては疑問の余地はない。
というのもラカンは穴もスクラップ(屑鉄)も対象aの典型として指定しているから。
さらにその穴は〈父の名〉によって禁止されるとラカンはいう。したがって番人よって禁止されていたはずの覗き穴も、その穴の中にある禁止された屑鉄置き場も対象aであり〈現実界の物〉ということになる。
※番人の老人は、塀から覗くジャンキーを見つけると立ち入り禁止だといって追放しようとする。本来は覗き穴もまた禁止になっているのだが、番人が不能のためにあらゆる進入禁止が成立しなくなっているというのが本作の基本設定
じつはこのことと資本主義の欲望が自体性愛的ということとは密接に関連する。
さっそくその基礎理論を確認しよう。
まず対象aは、人間が幼児的な自体性愛から対象愛(近親相姦ではない異性愛、子犬と悪ガキの同性愛ではなく異性愛、金自身でなく商品)に移行するにあたって抽出される。
ここで対象aの抽出というのは番人の老人による穴の禁止、屑鉄置き場への侵入の禁止のこと、つまり対象aへの侵入の禁止を抽出と呼ぶ。
※厳密には父の名の複数形とかの議論があって、異性愛だけが対象aの抽出(禁止化)ではない
さっぱり分からんと思うので順をおって解説する。
※注意事項:本当は以下に示す言語化とは母の言葉の法によって言語化され、父の言葉(父の名)による母の去勢によって、母の不安定な欲望の法が秩序化し人間関係が安定するという二段構成なのだがここでは一般読者に配慮し、モデルを単純化する
最初、人は母子一体にあるわけだが、母子一体の関係は父の禁止によって断ち切られる。
この父の禁止の法による母子分離によって原初的な母子一体の満足体験(授乳の記憶)は禁止となる。
以後、子どもは自己自身を示す原初の満足体験(表象)を言語に置き換え自己の意味を言語的に言表する必要に迫られる。
少々分かりにくいと思うので僕のスタイルで一気に話を簡単にする。
※ちゃんと知りたい人はこちらのP5Rの記事とか参照して欲しい
つまり人間は自己を対象化し自己とは何者かを言語によって自己言及する。ところが自己存在の意味を言語によって確定することは不可能。
認識の直接性、体験の直接性を考えれば分かるが人は言葉をいかに弄しても自己の体験の直接性を言表することはできない。言葉には限界があるわけだ。
にも関わらず僕たちは自己を言語によって意味付けなければならない。お前は何者か?との問いには言語的に答えねばならない。そうでなければ自己存在は社会的に承認されない。それ以前にまず何よりも自己を自己が承認できない。
つまりとっても神秘的で大切な体験をしたのにその体験が自分にとってどんな意味をもったのか言葉で示せなかったなら、その体験は無意味な体験にならざるえないわけだ。
自己を三人称的な他者の領域たる言語の地平において了解すること、ここに言語の主体としての人間の自己承認の欲望がある。
つまり人は自己を言語的な意味において確定し捉える欲望をもつわけだ。社会的(言語的)な存在として自己のアイデンティティを問い、狂ったように社会不適合者を強迫的に迫害する僕たちのあり方も、このような欲望の構成から説明できる。
さて、このような言語化の欲望はどこからやってくるのだろうか。
それは父による母の禁止によってである。
つまり赤ちゃんは空腹の身体刺激に反応して、その欲求を泣き喚きで知らせる。これにより母は母乳を与えるわけだが、この欲求の直接性は、しつけによって社会化されテーブルマナーにより言語化された食事という形式に去勢されることとなる。
身体の衝動というべき欲求は直接的な喚き表現でなく、声の高さや大きさ震えなどの直接性を去勢された言葉(シニフィアン)に置き換えられねばならない。
したがって母子一体の身体的で直接的な欲求(空腹刺激)は、父の禁止の言語によって、食事を言語的な要請という社会的象徴に置き換えられる。
かくして自己存在は言語化され身体は言語によって秩序化=社会化されるにいたるわけだ。
かなり雑で危うくなったが、むりくりラカンの欲望論を人口に膾炙して短く説明するとこうなる。
ここで重要なのは、言語においては欲求の直接性は表現しえないこと。つまり言語にはつねに自己の直接性を伝える上での不足があるのだ。僕たちが直接の経験を言語によって余すことなく伝えることができない事実もこれを証明している。
したがって言葉で自己存在(欲望の対象)を語るとき、そこには常に意味の根源的な欠如が生じることとなる。言葉が自己を示すときに生じる欲求不満がこの言語的意味の欠如に対応する。
この言語的意味における欲求の直接性の欠落をラカンは象徴界(言語領域)に空いた穴だという。そしてこの穴こそが言語体系の根拠だという。またこの穴が対象aでもある。
ようするに人間の欲望とは、直接的な欲求(自己)を言語を迂回して語るということ。このとき言語によっては自らを完全に語ることができず(意味欠如、穴があり)、ゆえに欲求不満に陥る。
そしてこの欲求不満を埋めようとさらに言葉を語り続けるというわけだ。欲求不満のために語り続けるということ、この意味欠如(欲求不満)のために語り続ける営みをラカンは欲望であり主体の誕生だという。
ここで人間の欲望と主体性が欠如(穴、対象a)によりもたらされることはゲーマーであれば誰もが即座に了解可能である。
RPGなんかで最強の武器を手に入れると途端にあきるという不思議経験はゲーマーなら避けられまい。
あれだけ欲しかったのに手にすると飽きてしまう不思議。これは欲望が最強の武器という対象ではなく、それを持っていないこと(欠如)によって生じていることを裏付ける。
※本作で番人が穴があるから覗きたくなる的なことを思うのもそのため、穴(対象a、欠如)こそが欲望の真の対象なのだ
つまり言語空間に空いた自己存在の根源的な意味の欠如、ここにこそ人間の欲望がある。そしてこの言語の次元において欠如するものこそが欲求の直接性(心的外傷、死、きえない傷)というわけだ。
したがってこの穴(言語外)に落ちること、またそれを覗いたり、その先にある禁止された原初の性的満足体験の世界(屑鉄の死体置き場)に侵入してしまうこと。これは自己の言語化の放棄であり欲望の死、すなわち主体の死へと直結する。
よって父の禁止の言葉(父の名)とは、この象徴界に空いた穴である対象aを言語によって迂回させる法なのだ。
つまり対象aという言葉の意味の欠如を、言葉の世界のみに求め、言葉を語り続けることを可能にするのが父の禁止の言葉(父の名)ということ。この言葉は対象aという穴を覗けない(侵入できない)ようにシールドする効果をもつ。
※本作では屑鉄置き場が有刺鉄線でガードされているが、この有刺鉄線もまた父の名に相当する
よって直接に穴を覗くというのは言語を語る欲望の放棄を示し、自己を言語的に探求することを辞めて動物になることを示す。これは主体の死といってもよい。
ざっくり解説するとこんな感じになる。少し難しくなったかもしれない。限られた尺で簡単に解説するのは難しいのでなんとかついてきて欲しいところ。
ここまでの議論が感覚的にでもいいので分かると一気に本作のさまざまな描写の意味が分かる。
まず禁止されているのは原初の母子一体であった、そのため穴の先にあるスクラップの世界は近親相姦の世界。それは死の世界といってもいい。
この場合の近親相姦の意味は、もしも母親がつねに張り付いて空腹になる前に、つまり欲求不満になるまえに欲求が直接満足させられると赤ちゃんは何も言葉を発せないということをさす。
欲求不満(欠如あり)だから言葉を発し、話す主体性を獲得するわけで、欲求不満がないと主体は死ぬことになる。欠如がなければ、つまり全ての財宝を手にしたら、なにも望むことができなくなり退屈で自殺すると言い換えてもよい。
※満足は欲望を殺す
だから不満のない原初の完全な満足の世界(ユートピア)は近親相姦の世界であると同時に死の世界なのだ。この意味でトラウマとは根源的な欲望の核(対象a)であるといってもいいだろう。
すると屑鉄の意味もわかりやすい。
屑鉄とは道具のなれのはて、壊れて社会的な意味を喪失したもの。つまり時計なら時計という言語社会的な秩序での役割と機能があって、言語の意味的連関体系に組み込まれた言語象徴なのだが、
しかし、壊れてクズになるとそうはいかない。もちろんクズという言語的な意味機能のポジションが与えられているといえなくもないが、僕たちが壊れた道具を見るとき、それはそういう生々しいそれ自体として認識されがちだということが大事である。
つまり名状しがたい、もはやそれとしかいいようのない仕方で壊れた物体が認識される。こうなるとスクラップはまさに言語外の存在として意味の欠如を表象することとなろう。
このスクラップの持つ言語外性、意味の欠如性(穴)、直接性、という三つの特徴から、スクラップは対象aも呼ばれる。
また屑鉄のような言語外の物を現実界の物ともいい、これは対象aのカテゴリーに属する。
よってリウマチによって番人という道具的機能を喪失しつつある老人もまた屑鉄になりつつある。それゆえにこそ彼は穴へと、つまり自己の死であり実存可能性の終焉(根源的不安)へと惹かれるのだ。
死とスクラップと穴と近親相姦
さて、これで本作の近親相姦と穴とスクラップと欲望のモチーフが対象aを通じてつながったと思う。
老人の覗く穴は欲望の対象(欠如)としての対象a。その禁止された穴を直に覗く行為は言葉を放棄して対象a(自己の欲求)を直接に求めることに対応する。
そして穴の中にあるのは、父(番人)の言語の法が禁止していた原初の近親相姦(母子一体満足)の世界であり、それは主体にとっては死を意味する。
また穴の奥にあるスクラップも言語外の無意味であり、原初の世界に属するものとしてふさわしい。
かくして娘に死を求める父は、言語の法を無視して直接に対象aを求め近親相姦を迫る父といえる。
ここで長々と対象aの説明をしたわりに本作との対応はそんだけ、と思われる読者もいるかもしれない。もちろんこれだけではない。この程度のことならいちいち面倒な説明などしない。
要するにこのような禁止の番人が不能となり近親相姦的な対象aに直接触れる欲望のあり方(欲望の死)こそが資本主義における自体性愛的な欲望のあり方であることを本作は伝えているのだ。
次項ではそのことを確認したい。
穴を覗く欲望と自己愛
これまでの解説で読者の分身である老人とジャンキーの父は、ともに言語の禁止を放棄して原初的近親相姦世界へと逃避する存在だと分かった。
すると金を金(当たり舟券)に備給する消費者であるジャンキーの父と、穴を覗く老人との欲望の構造の類同性も明らかとなる。
まず金(リビドー)を金に自己回帰することは、商品という媒介物(対象、言語)を介して欲望を満足させるのでなく、直接に欲求を欲求に回帰させることだった。
※ここでは欲求=リビドーと考えて良い
するとここで商品という媒介物は、対象aを迂回することで得られる言語的意味(シニフィアン)とまったく同じだと分かる。
※当ブログでのシニフィアンの表記は全てソシュールでなくラカン的な意味でのシニフィアン
つまり商品を迂回せずに直接に自己主体を求めること、この他者(父の禁止の法)の審級(言語意味、商品、対象)を介さずに直接にリビドーがリビドー自身に向かう自己愛が資本主義の問題となる。
言語的意味に相当する商品を欲望の対象とせず、直接に金が金に向かうという構造、これはそのまま、言語の迂回路を経ずに直接に穴をのぞき込む窃視症の老人、さらには、穴の中のスクラップ場へと入り込み姉妹との近親相姦を迫る父のあり方そのものといってよい。
つまり安部は、金で金を買う資本主義の欲望のあり方は理性を失い穴に落ちて近親相姦を迫るジャンキーに過ぎないと見抜いているのだ。
少なくとも、このように解釈すると本作の描写のほとんどを理路明瞭かつ体系的に説明しつくすことができる。
長すぎる記事は読まれなそうなので、けっこう強引に駆け足の解説になった。
では最後に本作における近親相姦と売春と資本主義を解説、それを頼りに姉妹の欲望を分析し記事の幕を閉じたい。
近親相姦と資本主義
本作では物語のラストで鮮烈な近親相姦が描写されていると解釈できる。
それは姉妹が自宅で眠る父を絞殺するシーン。
一家心中を目論む父を布団で眠っているときに殺す。明らかに性的なメタファーではなかろうか。
それを裏付けるように姉妹は父との事を終えると果てた父の枕下から、100円を受け取っている。
僕にはどう考えても象徴的な意味での近親相姦をモチーフとしているように見えるがどうだろう?フロイトに影響されすぎだろうか。
もっと決定的な根拠を示そう。
まず姉妹が父を殺す描写なのだが、ここでは父は「ふくれた舌が飛び出し、、、二、三度、はね上がるように体をふるわせ」とある。さらに姉妹は、「はげしい息づかいの中にのめりこみ」とある。
これは近親相姦のシーンとして読めるように書いてあるといわねばなるまい。
※冒頭に比喩ではなく直接に子どもが雄の子犬を性的にイタズラするシーンもある
すると、物語の途中で犬を絞殺する姉妹のシーンも、子犬=老人との近親相姦願望のシーンとして読める。
とすればやはり番人の老人の欲望もまた、姉妹との近親相姦にあったといえよう。この老人は子犬(自分)が姉妹に殺されるのをアンビバレントに渇望する者として描かれている。
また物語の後半、姉妹の犬の殺害に興奮した番人が覗くことにしびれを切らし、屑鉄の死体置き場へと侵入、姉妹に近づき200円を渡して姉妹を手に入れようとするシーンが重要になる。
ここでは番人は金で姉妹を買おうというわけだ。これは売春のモチーフと考えられるだろう。
ところが姉妹はこれを拒絶、ここに姉妹の欲望を読み解く鍵がある。しかし姉妹の欲望を見抜くにはお金と人間関係のあり方を精神分析的に紐解かねばならない。
そのためここではプレゼントという営みから、それを明らかにしよう。
僕たちは友人や恋人にプレゼントを渡すとき、お金を渡すことは少ないようである。プレゼントは多くの場合、商品ないしは何らかの機能や意味をもった象徴物であることが多い。
プレゼントを相手を満足させるためにするものと考えよう。この場合、金はどんな人にも絶対的に役に立つと分かる。そのため金は相手の欲望を満たす上で最強の贈り物といえる。
ところが僕たちは、あまりお金はプレゼントしない傾向があるらしい。
またお金をあげる対人関係といえば人類史的には売春が想起されるだろう。
さて消費社会では商品という言語的象徴を介さない金銭による直接的な人間関係が加速することが分かる。
たとえば昨今社会問題となっている「いただき女子事件」やアイドルに貢いで破産してしまう人の存在はその傍証。ホストに貢いで人生が終わる女性もいて、ここ最近法律を改正しようという意見まで生じているのは周知だろう。
この意味を理解するには本来のプレゼントを考えると分かりやすい。
ようするに、ある友人に難解な本をプレゼントする場合、それは、その友人を本を読む知的な人として贈り手が欲望することに等しい。
ここでは友人は知的読書家という言語象徴的な媒介を介して欲望されることになる。そして友人は本のプレゼントからその欲望を受け取り、友人にとっての友人となるため、プレゼントに欠如した意味を考え、そのプレゼントにふさわしい人物になろうと欲望する。
※知的読書家とは具体的にどのような人物かという意味は曖昧だということ、この曖昧さが言語象徴の意味の欠如であり、曖昧ゆえにそれを具体的に自己実現するにつけ、自分の頭でその欠如した意味を考えるという主体性が生まれる
かくしてプレゼントを介し象徴的な欲望(主体性)の交換が起きる。
ところが直接に金を渡すと言語象徴化が放棄される。つまり近親相姦的な直接的肉体関係へと直結することがある、ということ。ようするに金をプレゼントすると、あなたの欲望はお金(リビドー)ですよね、ということになり、渡された人の欲望は強制的に自体性愛的なリビドーの自己回帰に陥るわけだ。
もっとも文脈によってプレゼントの意味は変わるので一概にはいえないが。
したがって、人間を孤独に突き落とす資本主義社会は欲望を変質させ対人関係すらも近親相姦化してしまうと考えられる。スパチャ文化が非常に危険なのはこの点にあると思う。
以上が分かると姉妹の欲望の構造がよく分かる。
次項ではいよいよ本作最大の謎である姉妹の欲望を解き明かそう。
姉妹の欲望と資本主義
最初に姉妹以外の欲望のあり方をおさらいしよう。
まずジャンキーは100円で舟券を買って数千円に増やしている。これは自体性愛的で近親相姦的。
つぎに番人の老人、こいつも200円で姉妹を買おうとする。またそもそもが窃視症であり読者自身でもある老人はやはり自体性愛的。
※ラカニアンのジジェクは資本主義の欲望を窃視症的(倒錯)と見なしている
さて本作最大のミステリーは、姉妹の欲望だ。多くの読解力のある読者は高校二年時の小島監督同様、姉妹の欲望、つまり父を殺した動機がなんなのか?について考えさせられることになろう。
まず姉妹は心中を迫る父から逃走し、屑鉄置き場にやってくる。
そして死にたくないという。明らかにここでは生が欲望されている、それは言語の主体として生きることとしての生でもある。
また姉妹は父から100円で底の抜けた靴を買う。ここでは金は対象としての靴へと備給される。しかし靴は壊れた靴でありスクラップとしての対象aのようでもある。
そこの抜けた靴は靴という言語象徴における意味の欠如を示すのかもしれない。
ともあれ、そのあとやってくる老人からの200円を拒絶していることが重要だろう。やはり近親相姦的な、つまり資本主義的な自己愛的欲望を拒絶し、生へと向かう欲望があるようだ。
そして大事なのが最後に父を殺して父が残した数千円のうちから100円だけをとって靴を父へと返すシーン。
これは100円で買った靴を100円で売る行為を示す。姉妹は100円しかとらない。ここに父と娘の欲望の差がある。父は100円で数千円を欲し姉妹は100円の靴で100円を欲した。
そしてここにこそ姉妹の動機の本質があると考えられる。
ここで資本主義について再び振り返ろう、すると資本主義における欲望が転売ヤーやセドリ師を生じたことが思い出される。
転売は社会問題になっているがこれは100円で買った靴を150円で売るというように買値と売値の差異によって生じていると分かる。
このような価格差において、転売ヤーという欲望は生成される。このとき転売ヤーは靴が欲しいのではなく、ジャンキーの父親同様に、金が欲しいのである。だから転売ヤーの靴(商材)は欲望論的には舟券となんら変わらないのだ。
したがって高校二年時点の小島監督の疑問にはこう答えよう。姉妹は間違いなく生を欲望して父を殺した。けっして直接に100円を欲望したのではないと。
また一度父に渡した100円を取り返すというのはユング的にもフロイト的にも、父へと向かっていたリビドーを自己に戻し、近親相姦を解消した、と考えられる。
すると父へと返した壊れた靴は対象aと解釈できる。ここでは死んで不在となった父を象徴するように、その欲望の対象aとしての靴が抽出されたと見なせる。姉妹は対象aから距離をおき言語的欲望の主体として誕生したということ。
つまり本作は10歳頃の少女の成長の話としても読めるのだ。
一般に10歳というのは心理的発達の節目とされるもので、この段階で主体化がグッと進展することが知られている。ちょうど姉妹は10から11歳であった。
人間の欲望の正常化としての子どもの主体化(大人の誕生)が資本主義批評という文脈において、欲望論的観点から鋭く描写された作品、それが『なわ』なのだと思う。
本作では資本主義の欲望において大人は形成されず、大人は一人たりともいないという洞察が込められているのだろう。大人とは資本主義の欲望を超えた靴と貨幣との等価性としての欲望形式にあると安部は示しているに違いない。
しかも本作は、そのような人間の欲望を対象の捕縛と分離、棒となわ、の欲望として描写している。
本来の書評であれば、ここからさらに本作の明示的主題である「なわ」と「棒」という観点からの総括が必要と思うが、今回はここで評論解説を終えたいと思う。
終わりに
中野剛志氏はこの記事を読むことがあるのだろうか。
サブカルを下に見る中野氏にはぜひとも、この記事を超える文芸評論を僕に示してもらいたいところ。
文学のなんたるかを知らない小説をまともに読んだことのないゲームアニメ三昧のぼくに、その文学的知の到達点を教えて欲しいものである。
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