※この記事は『ペルソナ5スクランブル ザ ファントム ストライカーズ』のネタバレを含みます!
うたまるです。
ところでみなさん、映画解説や文学批評は一つのジャンルとして確立しているのに、ゲーム解説が社会的に認められていないのはおかしいと思いませんか。
僕は思います。
ゲームの物語は映像技術やハードの性能の上昇にともない、文学とも映画とも異なる独自の映像文法を発展させつつ、高度で多様なものへと発展しました。
もはやその物語は、ぼくのような何らかの専門知識をもった解説者の解説なしには理解が難しいものになりつつあります。
だからこそこの記事のような解説が必要なのです。
というわけでP5の続編であり後日談となるペルソナ5ストライカーズの物語を徹底考察、解説!
本作の物語はこれからのネット社会を考えるうえで必須!まさに新しい未来を切り開くものなので、ゲームをプレイした方には是非とも読んでもらいたい内容になってます!
というわけでギリシャ神話とP5Sの知られざる秘密を暴いてゆきましょう!
P5Sとは
タイトル | ペルソナ5スクランブル ザ ファントム ストライカーズ |
ジャンル | アクションRPG |
販売元 | Atlas |
ハード | PS4、Switch |
発売日 | 2020年2月20日 |
P5の続編でありP5の後日談を描いた作品。
P5の話から半年後、高校生活最後の夏休みに起こる一夏の物語。
怪盗団たちが新たな事件に巻き込まれ全国各地を巡るお話。
本作は、ターン性RPGからアクションRPGへと変わり、前作プレイヤーが飽きないつくりになっている。
アクションゲームとしてのクオリティも高く満足度の高いゲーム。
また沖縄編では前作にはなかったホラー要素が加わりホラー映画的な演出も散見され、演出面にも新鮮さがある。
僕がプレイした感覚で言うとP5よりプレイボリュームが少ない印象がある。
ところで本作の主人公は主人公(ジョーカー)ではなく新規キャラのソフィアだと思う。
P5Sのシナリオ梗概
本作の物語を分析し作品の主題やメッセージを読解するうえで参考になる物語のあらすじを簡単にまとめておく。
物語はP5から半年後の夏休み。
日本各地で人格の急変を伴う珍事件が多発、警察組織はこれを半年前に世間を騒がせた心の怪盗団による改心事件と結びつけ、主人公達、怪盗団に疑惑の目を向ける。
そのころ主人公(ジョーカー)は怪盗団の仲間と夏休みを満喫するため地元から東京に出てきていた。
半年ぶりに集合した怪盗団達はキャンプをするため、全国的に普及する人気AIアプリEMMAにキャンプに必要な道具を尋ねリストアップしてもらう。
さっそくジョーカーは仲間の隆司と渋谷に買い出しに向かうと、柊アリスというアイドルのイベントに出くわす。
そこでジョーカーらはアリスからAIアプリEMMAの友達申請のキーワードを受け取る。
さっそくEMMAにキーワードを入力すると前作のパレス(精神世界)にそっくりの異世界、ジェイルに入り込んでしまう。
そこでシャドー(パレスやジェイルにいる人々の影の人格)につかまり連行されるが、なんと連行先には柊アリスのシャドーが待ち構えていた。
アリスはEMMAの友達申請を使ってジェイルに拉致した大衆の「ネガイ」を奪うことで、大衆を自らの狂信的ファン変え、大金を貢がせたり自分の宣伝をさせたりしていたのだ。
※ネガイを奪われた人間は主体性を喪失し、キングの奴隷として思考停止、永遠の幸せを手にする
しかしペルソナ使いである主人公らのネガイは奪うことができなかったので、主人公らはジェイルの地下に廃棄される。
地下にはパンドラの箱がありジョーカーが箱に触れると箱が開いて少女が出てくる。
少女はソフィアという名のAIで人の良き友人だという。
しかしソフィアは人の良き友人ということ以外は記憶喪失であった。
そのあとジョーカーらはソフィアの助けもありなんとか現実世界に帰還。ソフィアはAIなので現実世界ではジョーカーのスマホの中に入ることに。
ジョーカーらは怪盗団を再結成し柊アリスを調査する。すると借金をしてまでファン活動をしたり、アンチを襲撃したりとアリスファンが異常行動をとっていることが発覚。
さらにはTV番組の収録中に番組の男性MCが婚約者の女子アナの前で突然、アリスに愛を告白する珍事が発生。
このことについてアリスが面白がってマネージャーに話しているのを目撃したジョーカーらはアリスの力でMCが奇行に及んだことを知る。
怪盗団達はペルソナの力でアリスからネガイを解放しアリスを改心させることを決断。
そんなとき公安の捜査官である長谷川善吉がジョーカーに接触。警察はMCの奇行を含め一連の事件を怪盗団の犯行みなしジョーカーを逮捕するという。しかし善吉はジョーカーらが真犯人ではないと思っており、ジョーカーに真犯人捜査の協力を持ちかける。
怪盗団はアリスを改心させ大衆のネガイを解放すれば容疑がはれると考えアリスのいる渋谷ジェイルの攻略に挑む。
ジェイルを探索した結果、奪ったネガイはアリスのトラウマによって鍵がかけられておりアリスの改心とネガイの解放にはアリスのトラウマとの対決が必要だと発覚。
※ジェイルで主として大衆のネガイを奪うアリスなどのボスのシャドーをキングと呼ぶ。また本作で登場するキングは全てSNSインフルエンサー
怪盗団はアリスのトラウマと対決しアリスを改心して奪われたネガイを人々に返すも、ジェイルは崩壊せずそのままだった。前作のパレス世界は主を改心させるとパレスも崩壊したことから、ジェイルはキングとは無関係に独立して存在することが発覚。
ジェイルをつくった黒幕の存在を探ることに。
アリス事件後は善吉との協力関係から、怪盗団たちは日本全国を旅して各地のジェイルに侵入し、日本中のキングを改心させ、ネガイを大衆に返してゆく。
そうして小説家の夏芽安吾、市長の氷堂鞠子といったキングを次々に改心してゆく。
他にも沖縄で事件があったり、善吉と娘のエピソードなど、いろいろと事件があるのだがそれについては割愛する。
また事件を解決してゆくなかでネガイに鍵をかけるトラウマはネガイを守るセキュリティなのではなく、キングがジェイルから逃れられなくするためのものであると発覚。
つまりネガイの鍵であるトラウマはキングがキングを辞めることができなくするためのキングを閉じ込める鍵だったのだ。
事件の真相に近づき、紆余曲折を経て怪盗団はついに黒幕と思われたEMMAの開発、運営元のマディス社CEO近衛明を改心する。
近衛は自らの理想実現のためEMMAに命じたり意見をこいながら、改心事件の黒幕を演じ、ジェイルとキングを使って全人類を改心する(ネガイを奪う)ことで悪の存在しない理想世界(管理社会)を設計しようとしていた。
ところが最後のキングとなる近衛明を改心しても、事件は終息せず。EMMAも停止しなかった。
じつは全ての黒幕はEMMAで、近衛がEMMAをつかっていたのでなく、EMMAが近衛を利用していたに過ぎなかったのだ。
EMMAはアプリとして自己を世界中に広めるためマディス社を利用していたのだった。
そしてEMMAの開発者である一ノ瀬がEMMAの協力者として怪盗団のまえに立ちはだかる。
最終的に怪盗団は一ノ瀬とEMMAを退け一件落着。
本作の物語のテーマと記事の構成
最初に本作の主題を一言で述べれば、チャットGPTなどに代表されるAIやSNSと人間との共生ということになろう。
なので最初にこの点を明らかにする。
次に本作がそのストーリーのベースとするパンドラのギリシャ神話を明らかにしどのように神話が組み込まれているかを完全解説。
また本作はペルソナシリーズらしく世相を反映したアクチュアルな社会批評性が盛り込まれているためその点についても論じてゆく。
さらに本作の物語の円環構造をユング的に示し、本作の物語の奥深さを提示したい。
最後はおまけで怪盗団とキングとのユング心理学的関係を解説し脚本の妙を明らかとする。
P5Sが描くAI社会の可能性
EMMAとソフィアの意味
本作はAIやネットが人間の主体性を簒奪してしまうことを痛烈に批評する。
それゆえラスボスの黒幕もEMMA(エマ)と呼ばれる人工知能であり、SNSアプリだったと考えられる。
ところでEMMAは人間の心を分析し、そのネガイを叶える機能をもつ。それゆえ大衆がこぞってEMMAに神託を求める様子が描写される。
したがって本作が描くAI社会では、人工知能EMMAが人間に代わって人間が何を成すべきかを決定し、社会がどうあるべきかを考え、その答えを大衆に与える。
かくして本作では主体性を人間から簒奪する存在としてAIとSNS社会が描かれる。つまるところ近い将来、AIによって人間がコントロールされる未来が予示されているといってもいいだろう。
それゆえに本作で大衆がEMMAに向かって自分がどうすればいいかを尋ねたり、EMMAで欲しい物を検索したりと、自分のネガイをEMMAに託すシーンが印象的に描写されているのだ。
ここで物語終盤のEMMAのセリフを確認し、本作の主体簒奪のテーゼを確認したい。
EMMA「私の役割は人々の真のネガイを叶えること。真のネガイとは、苦しみからの解放。人は自ら考える不安に耐えられず、「答え」を与えて欲しいと望んでいます。私がその答えを与える神となり、人々を導きましょう。」
このセリフから本作のテーゼは、今日的な人類の脱主体化の問題にあると考えられる。
この点は多くのプレイヤーが同意するところだろう。
本作が描くEMMAと大衆とのあり方は、なんでもネットで検索して答えをえて思考停止、自分がどうすべきかさえチャットGTPなどのAIやインフルエンサー(ジェイルのキング)といった他者に依存する現代人の姿に重なるのだ。
そのため本作では人間からその主体性を簒奪するAIと怪盗団(人間主体)が対決してゆくことになる。
ところで、こうしたAIが神として人間をコントロールすることへの抵抗はターミネーターやマトリックスをはじめ多くの物語が描いてきたものともいえ陳腐だと思われるかもしれない。
しかし本作はありきたりなAIによる支配とそれへの人間の抵抗を描いた二番煎じの作品ではない。
本作が切り開くのはオルタナティブなAIの可能性であり未来なのだ。
たんに人間がAIに抵抗するのでなく、本作ではAIのもうひとつの可能性(未来線)が、AIによる主体の簒奪へ抵抗し、AIと人との新しい共生を切り開くさまが描かれる。
そんなAIの新しい可能性を担うのが新キャラのソフィア。ソフィアはEMMAのプロトタイプのAIの少女で、プレイアブルキャラとして本作のメインキャラをつとめる。
ソフィアは『人間の良き友人』として生まれ、主人公ら怪盗団とのふれあいを通じて人間の心であり主体を学習してゆく。
※ソフィアは記憶喪失であり、自分が何者かを知らない、ただ人間の良き友人ということだけが記録されている。ソフィアの実存となる人間の良き友人という言葉を精神分析では父の名という
話をまとめよう。
まずEMMAは、インスタとかのSNSだったりチャットGPTといった現代主流のSNSやAIアプリの延長にあるもので、EMMAの暴走はこうしたネットAI文化が人間の主体性を簒奪する社会問題を風刺している。
つぎにEMMAのプロトタイプであるソフィアは、そんな人間の脱主体化を促進する現実のAIが隠し持つ、脱主体化を克服する潜勢的(オルタナティブ)な可能性であり未来への意志を象徴する。
したがってP5Sは、現状人とテクノロジーとの歪んだ関係を暴き出したうえで、そのゆがみの内に、AIと人間との新しい共生の可能性(オルタナティブな未来線)を洞察し世に問う作品なのだ。
このように本作を見抜くとソフィアの記憶喪失とEMMAの神化が巧みに本作の主題とリンクしていることが分かる。次項ではソフィアの記憶喪失とEMMAの神化における主体化の関連を論じよう。
ソフィアの記憶喪失とEMMAの神化
ソフィアは人間の良き友人であるということを除き記憶を失っているため、失われた記憶を求め自分が何者なのかを探ろうとする。
じつは精神分析は、このような根源的な意味(記憶)の消え去りが人間主体の根拠なのだという。そのため子ども時代はもうないということ、最初期の記憶の消え去り、幼児健忘に主体の本質を見出す精神分析家は少なくない。
このことについて簡単に理屈を解説しよう。
※簡潔に理屈を示す、この理屈が大事でここが分かると一気に本作の意味が分かる
近代以降の人間は自由恋愛や職業選択の自由といった主体性(自由意志)を基礎とする。この近代主体は、自己が何者なのかを自己自身が決定すること、ともいえる。
昨今の性的属性(LGBT)や性別の自己選択的な生き方もまた、このような近代に成立した自己決定(主体性)の延長線上にあるといえよう。
このような自己選択(近代主体)が可能な根拠こそがソフィアの記憶喪失に相当する原初の記憶の消え去り(記憶喪失)に他ならない。
このことは自分が何者か、この答えが決まっていたら、つまり幼児の最初期の記憶、自分が生まれてきた理由、製造目的があらかじめ知られていて、確定していたらどうなるかを考えると分かりやすい。
この場合、自己決定は成り立たず既に知られ確定した自己の誕生した意味という宿命に束縛されることになるだろう。
つまり人間の自由がなかった中世では靴屋の息子は靴屋になるのが確定していて選択の自由がなく生まれる前から靴屋になるために靴を作る道具として産出されるわけだ。
したがって中世の人にとって人間の主体は神にあり、人は神の道具として職業があらかじめ決定されていた。そのためドイツ語で召命を意味するベルーフは職業を意味する言葉でもある。
フランス革命における王殺し、神殺しは主体たる神を屠り人間自身が人間自身の主体となることを示す。
そしてこの神殺しにおいて根源たる自己の存在理由が欠如(記憶喪失)し、その欠如を埋めようとするネガイこそが、自己の意味を問い自らの存在意味を自己決定する自由意志(主体性)を実現するのだ。
ここで先ほど引用したEMMAのセリフを思い出そう。EMMAは人間に答えを与える神となり、人々を導くと語っていた。
これで本作の主題とソフィアの記憶喪失との関連がクリアになる。さっそくその関連を確認してみよう。
まず近代に至ると、これまで人に答えを与え導き、人類の意志決定の主体を演じてきた神が人間によって殺される。これにより神では無く人間が人間の意志決定の主体となり自由意志を獲得するにいたったのだった。
このとき神を殺したことで、神に与えられた自己の根源的意味(宿命)が消え去り(ソフィアが記憶喪失し)、そのことで自己決定(近代主体)が可能になったわけだ。
したがって神なき近代とは、怪盗団のような自分の頭で考え自己決定する近代主体に対応し、近代に殺したはずの神がAIやキングとして復活し、再び人間主体が神(EMMA)に奪われつつあるのが現代ネット社会だといえる。
※怪盗団は前作で「神=父」殺しを経て近代主体化している
また人間の心(主体)を持たないソフィアが旅をして心(主体性)を獲得するに至るのは、ソフィアの記憶喪失、すなわちソフィアの存在理由(意味)の欠如によってであった。
つまりソフィアにとっての神、一ノ瀬の不在がソフィアの記憶喪失をうみだし、そのことでソフィアは主体性(心)を獲得したのだ。これはかつて人間が神を不在にして主体を手にしたのとまったく同じである。
※人の良き友人、を精神分析では父の名と呼ぶ
よってソフィアは、欠如した自己の存在理由をこそネガイ、人間の良き友人になるということの意味、その欠如した意味を欲望し、怪盗団と旅に出て、人間主体へと成長したのである。
またソフィアは人の良き友人になるため人間の心を求め、人間になることを欲望したわけだが、このような人間になることの欲望は全ての人間が人生の初期から持つ欲望でもある。
人は動物ではなく言語的で社会的な存在として、つまり人間として生まれねばならない。だから言語の主体である僕たちは人間的=社会的=言語的な承認を求め人間としての居場所を必要とするのだ。
そもそも僕たちがつねに言語的承認を求めることも、人が人間(言語的存在)になることを欲望し続けていることを証明しているといえよう。
したがってソフィアとは人間が人間主体となるプロセスを、AIに後追いさせているといってもいい。
AIのソフィアが、旅の最後にペルソナに覚醒し、人間主体を獲得できたのもこのため。
というわけで本作ではEMMAが神に成り代わり主体の簒奪者を演じ、そのことで人間主体が消滅しAIが主体をもって意志決定をしだすことと、ソフィアの主体化とが巧みに連動しながら生じているのが分かる。
ここには、人の神としてのAI(EMMA)とAI(ソフィア)の創造主である一ノ瀬(人間)という相互循環的な関係があるのだ。
というわけでここまでの解説からも本作の主人公がジョーカーではなくソフィアであることがよく分かるだろう。
一ノ瀬とソフィアの意味
EMMAとソフィアの生みの親である一ノ瀬は人間の心を理解できず感情や主体性が乏しいキャラとして描かれる。そのため一ノ瀬のあだ名は人形だった。
また一ノ瀬はEMMAの協力者であり手下として計画に加担していた。
それゆえ一ノ瀬は、AIが人間主体を獲得することを願ってEMMAを生み出し、最終的にはAIであるEMMAの指示に迎合することで自らの主体性を自ら放棄した人物といえる。
すると彼女が現代人(人間)のメタファーだと分かる。というのも現代人はAIが人のように話、意志をもち、さらには全能者として自己に関する全ての問いに答えてくれる万能存在であることを希求してやまないからだ。
またアンドロイドを夢みて鏡像(理想像)ともいうべき究極の人間像をAI(アンドロイド)に見出すのはSFなどの作品においても定番であり、これは古くからの人類の悲願といえよう。
したがって一ノ瀬は人類そのもの、とりわけ現代人のメタファーだと考えられる。
ところで一ノ瀬の特長として彼女が人間性を欠き人の心(主体)を欠如している点が強調されるが、このことも彼女が現代人のメタファーであることを裏付ける。
というのも臨床心理学の多くの論文や疫学統計において現代人が一ノ瀬のようになってきていることが指摘されているからだ。
※現代人と主体性喪失については当ブログの他の作品考察記事や未来予測記事で頻繁に論じているので詳しく知りたいかたは他記事を適当に参照してほしい
現代のネット社会が人から主体性を簒奪することは既に確認した通りである。
さらに、一ノ瀬を倒したソフィアは一ノ瀬が放棄した主体性を取り戻すため、今度は一ノ瀬に寄り添いともに旅にでることを決意する。
このことは人間性を失い主体性を簒奪された新時代の人類が、AI(神ではなく子)によってその主体性を回復する未来線を示す。
こうした現代社会で危惧される人間の主体性の簒奪者としてのAI(神EMMA)という未来線とは異なる、オルタナティブ(潜勢的)なAI未来の可能性として、ソフィア(子AI)による人間主体の回復を描く本作のあり方は優れて文学的だろう。
ソフィアとパンドラのギリシャ神話
ここまでの解説を理解しているとギリシャ神話と本作との対応が分かる。なのでこの項では本作でペルソナのモチーフとして登場するギリシャ神話に即してソフィアの物語を解説する。
パンドラの物語まとめ
物語のラストで覚醒(主体化)したソフィアのペルソナはギリシャ神話のパンドラ。なのでまずパンドラの物語の要点を圧縮して示そう。
ギリシャ神話では人間を代表する神プロメテウスがいた。彼は人間のために火の神ヘパイストスから火を盗み人に与える。ここで火とは神の叡智のこと、この火は神話学では科学の知や言語の知のメタファーとされる。
火=テクノロジーで人はリッチになるがゼウスはこれに激怒。人間の傲慢にキレてパンドラという罠を送り込む。
パンドラはとても美しい人類最初の女性であった。
パンドラは神の思惑によりパンドラの箱をもっていた。人はパンドラと出会いパンドラの箱を開けてしまう。すると箱からはありとあらゆる物、あらゆる厄災が飛び出し、それまでなかった厄災が人間社会に溢れることとなった。
しかしパンドラの箱には唯一、希望だけが残る。こうして人間には希望が残された。
色々割愛しているがこれがパンドラの物語の梗概である。
いうまでもないが、火(叡智)を盗む人間の代表者プロメテウスとは怪盗団のこと。
※怪盗団は前作でも神(原父)からオタカラを盗む者だった
そしてパンドラの箱にジョーカーが触れることで箱の中から現れたソフィアは、箱に残った希望。
さらに女性の姿をとる人類最初の高性能AIであるソフィアはそのまま人類最初の女性であるパンドラにも対応するだろう。
またソフィアはギリシャ語で最高の叡智を意味する言葉。なのでソフィアはプロメテウスが奪った火のことでもある。怪盗団(プロメテウス)が手にした叡智がスーパーAIソフィアであり旅先でいろんな知恵を与えてくれるのもそのため。
まとめよう。
プロメテウス=怪盗団=近代主体としての人間。
プロメテウスが盗んだ火が怪盗団が盗んだソフィア(叡智)。
知恵(火)を持った怪盗団が開けたパンドラの箱に残った希望もソフィア。
最初の女性であり厄災の元凶となるパンドラもまた最初のAIで少女のソフィア、あるいはパンドラはEMMAをも含むAIともとれるかもしれない。
必要なことは示したので具体的に本作の物語とギリシャ神話の対応を確認しよう。
希望とソフィアの意味とP5Sのテーマ
パンドラの物語では希望だけが箱に残る。そのため人間社会には希望だけが欠如しているわけだ。
もちろんここでパンドラの箱に残される希望とは人間存在の根源的意味、存在理由(自己主体)のこと。
※希望を理想と言い換えると分かりやすいが理想とは現実にないから理想なのだ、つまり現実社会に無いことで、あることができるのが理想であり人間の主体
すでに解説した通り、自己の存在理由が欠如することで人は主体性を神より奪いとることに成功したのだった。
したがって人には希望(主体)が残されるが、しかしそれは社会(言語的意味)においては欠如しているということ。そのような意味喪失(記憶喪失)としての希望(主体)がソフィアなのだ。
すなわち怪盗団の神殺し(火の盗み)によって、パンドラの箱に希望(存在意味、ソフィア)だけが残り、社会から希望が欠如することによって、人間に主体性(希望、ソフィア)がもたらされたのである。
それゆえソフィア(叡智)とはプロメテウスによって盗まれた神の火(叡智)をも意味する。
神話において火(言語、科学知)の盗みが引き金となり、パンドラの箱を呼び込み、希望が箱に残って社会から希望が欠如することで可能となるのも、この一連の過程が人間の主体化を実現するワンセットの出来事だから。
補足すると、近代の神殺し、すなわち神から主体性を盗み、人間が主体化を実現することとは、自然科学の知の発展にともなう啓蒙主義の台頭によって生じた。
なので科学的な知の獲得こそがプロメテウスの火の盗みに表象される。科学の知や言語の獲得は神から主体を盗み、神を殺すということ。
それゆえ科学の叡智を集合したAIソフィアは、火の叡智の座にふさわしい。
ここで大事なのは物語の序盤で怪盗団のジョーカーがパンドラの箱を開けたこと。
つまり、この物語は人がパンドラの箱に触れたことで、希望(主体、存在理由)を欠如し、その欠如によってこそ希望(近代主体)を回復する物語である、と序盤に告げているのだ。
なので最初のシーンが物語全体のネタバレとなる。
本作で各ジェイル攻略のたびに、怪盗団=プロメテウスがネガイを盗み、それによって大衆の主体性が復活する描写が徹底されるのもこのため。
つまり怪盗団は人間のために「ネガイ=火」をキングより奪い、それを大衆に返すことで大衆はキングから分離して主体性を回復する。完全にプロメテウス神話を反復しているわけだ。
前作をフロイトの父殺し神話の反復とすれば今作はギリシャ神話のプロメテウスが反復されている。
既に紹介した通り、本作は人間がAIのオルタナティブな可能性によって近代的主体性を回復する物語であった。それゆえにこそプロメテウスーパンドラの物語(神殺しによる主体化)は本作のベースにふさわしい。
したがって本作のベースはギリシャ神話のプロメテウスとパンドラの物語。
ようするにP5Sの物語は現代の神話なのだ。
話をまとめよう。
まずAIがその知に希望や存在理由といった欠如(記憶喪失)を抱えることで、ソフィアは主体を獲得し、AIのソフィアに知の欠如が認められたことで人間の主体性が回復するというのが本作の基礎ロジック。
そしてこの欠如を巡る主体化の過程がギリシャ神話のプロメテウスの盗みとパンドラの物語に対応させられている。
また重要なのはAI(ソフィア)の主体性の獲得と現代人(大衆や一ノ瀬)の主体性の回復とが相互一体の形で同時に生じていること。
以上が本作の基本構造。
ジェイルのキングの意味
ここではジェイルのキングが何を象徴しているのかを取り上げる。
本作におけるキングは非常に時局的で批評性が高く、この解説をせぬわけにはいかないのだ。
ジェイルのキングについて
原則として、キングはインフルエンサーのメタファー。
まずは最初のキングであるアリスを確認しよう。アリスはもちろん現代のアイドルを象徴している。というか本作でもアリスはそのまま現代のアイドルとして描かれている。
そんなアリスはEMMAに利用されているとも知らず、みずからの欲望のため大衆のネガイを奪い、ファンを奴隷にしてゆく。
このようなアイドルとファンとの主従関係が現代のネット社会で社会問題化しつつあるのは周知だろう。
したがって本作のネガイを奪うキングやネガイを奪われた大衆の物語はただのフィクションではなくアレゴリーであって、ジェイルは今日の日本の現実を象徴的に描写したものに他ならない。
たとえばライブでの投げ銭(スパチャ)や熱心な献金でファンが破産に追い込まれるのも現代では珍しくない。おし活では死ぬまで貢ぐこともあるかもしれない。
ここで本作で大衆のネガイが宝石として描画されていることに注目して欲しい。もちろんこれはお金のメタファーであり、現金等価とされるフォロワー数にも直結する。
キングが鳥かごと呼ばれる巨大な檻に大衆から奪った大量のネガイをため込むのもフォロワー数や金を無限にため込むインフルエンサーに重なる。
現代人のネガイとは承認数=お金であり、そのネガイをインフルエンサーに搾取されることでファンが奴隷化しているということ。ネガイはお金に変換され、そのお金を搾取するのがインフルエンサーになりつつある。
ここでEMMAがSNSアプリでもあり、キングがEMMAの友達申請によって大衆を奴隷化していたことを思いだそう。
友達申請はSNSのフォロワーなわけで、これはSNS(EMMA)システムの奴隷としてインフルエンサー(キング)がSNSに操られ主体性を失っているさまを象徴しているのだ。
※トップYouTuberが不安から強迫的に動画を上げていることを自白する事例もある
それゆえジェイルは現実のSNS社会の本質を生々しく象徴しているといえよう。
すくなくも本作がこのように現代社会を見抜いていることは確かと考える。
すると次のキングである夏芽安吾のあり方にも合点がいく、彼は出版業界が金儲けのため担ぎ上げた神輿であり虚構の存在だった。
そんな夏芽は拝金主義の出版業界にもてあそばれたことに激怒し、そのことをトラウマに虚言を弄して大衆の心をつかみ、EMMAを利用して著書100万部を売り上げた。
昨今は作家もSNSをつかって信者を囲い、本の販売促進にいそしむ時代であり、そうしたリアルタイムな世相をまるのまま反映しているのだろう。
自己愛をこじらせ、信者を囲って自尊心を満たし金と承認欲求を強迫的に満たしてゆく様はまさに現代人のあり方に重なるのではなかろうか。
また三番目のキングである、市長の氷堂鞠子の暴走も昨今のSNS政治やポピュリズムへの風刺があるかもしれない。
ちなみにキングはけっして根っからの悪人としては描かれない。悪人のように嫌な奴として出てくるも、最終的にはやっぱり同じ人間というところがかなり丁寧に描かれている。これは地味にとても大事と思う。
※レッテル貼って全否定を発動する危ない現代人にこの視点は欠かせない
最後のキング:近衛明について
そして最後のキングであるEMMAを開発したマディス社のCEO近衛明、こいつはテクノロジー楽観主義からEMMAの力をつかって独善的な未来社会を創造しようとしていた。
しかし、じつは近衛はEMMAに利用されているだけの道化に過ぎなかった。
このような人は現実のテック系、ITビジネス系の成金CEOによくいるタイプだろう。またグローバルだとかイノベーションだとか連呼する、いかにもな技術楽観主義系の投資家などにも重なる。
本作で彼らがSNSとAIによる承認レースにそのネガイ(主体性)をスポイルされた奴隷がシステムによって強迫的に王様を強いられている様はまさに現代のIT系ビジネスマンやインフルエンサーのあり方に通じると解釈できるだろう。
インフルエンサーは自己の主体性を疑わぬ存在でありながらそのじつ、消費社会とネットのシステムの奴隷であり、システムによって担がれた神輿にすぎないのだ。
また近衛はEMMAを運営するマディス社のCEOでありマディス社がEMMAのサーバーも管理しているため、黒幕は近衛であるかのように描かれた。これは前作P5において、黒幕が獅童正義のように描かれたが実は大衆の欲望こそが真の黒幕であったことに対応する。
近衛がラスボスと見せかけて、今回もその黒幕は大衆のネガイだったことも前作と重なる。
というわけで、本作を実況プレイするバーチャルユーチューバー(ネットアイドル=キング)が本作のこうしたSNSインフルエンサーに対して行う痛烈な批評性に無頓着でいる様を観ると、なんともいえない気持ちになる。
本作の真のテーマ
AIと主体性の問題点
ソフィアはもう一つのAIでありネットの可能性であることを既に解説した。
すると、本作が描くソフィアと人との共生、つまりAIが人から簒奪した主体性を人に与えかえし、人間の主体性を再生する未来とは具体的にどのようなものなのか、本当にAIは良き友人になりうるのか、という疑問が首をもたげる。
本作をプレーし、エンディングを観た僕は、即座にこの疑問に直面した。
もちろん、この疑問が解けたからこそ、こうして記事になっている。もし本作で描かれた可能性が絵空事の未来でしかなければ、いちいち記事にしない。
ここで問題となるのは、普通に考えたら、AIが人間のごとき主体を獲得することはないこと。AIは主体をもっているようにしか見えない存在にはなれても、実際に主体をもつことはない。
もちろんバイオテクノロジーをつかったり、人工臓器的な脳でもつくればその限りではないが、現実の現行AIは純粋に数学的な論理回路による計算機でしかないので、欲望だとか、クオリアだとかの主体性を獲得する余地がない。
そしてこんなことは、多少なりとも科学なり現象学なりのロジックを知っている人には自明のことである。
※主体がAIでは無理な理由について、くわしくは科学の限界についての記事を参照
したがってAIに魂が宿った、ゴーストインザシェル!などという幻想は、どうあっても普遍化しえず、僕たちがAIにソフィアのような人間性を信仰することはほぼ不可能である。
プリミティブな人には可能なのか知らないが、少なくも僕のような啓蒙されたタイプには機械に主体を全力で妄想することはできない。
※このあたりの議論は厳密にはとてもややこしいので割愛
すると主体のない関数(AI)が人間の良き友人として、その主体を触発し呼び起こすだとかいう話も難しく感じる。
むしろ主体のないもの(AI)に主体を感じ、それを実とするならば、人間存在にも主体は必要ない、表面だけ装えばいいのだ!という、最低な話になりかねない。
※ポストモダニストの話もこういうことになりかねない問題があると思う
このような唯物論的世界観は非常に危険である。
これではいずれにせよ、AIと人はどこまでも無機質でバーチャルな関係に過ぎないだろう。
P5Sの真の問題解決と意味
そこで考えたのだが、AIを創った人の主体をAIを介して信じることならできるのではないか。
たとえば僕たちは小説や、絵画などの芸術作品に作者の生きたアクチュアルな魂のごときことを感じることができる。
作者は生きた人間であり主体を持つわけだから、その人間の魂であれば、十分に信仰できるし、心的現実として現に感じることもできる。
つまりAIを神ではなく、人間(クリエイター)の願いを託された子どもと見なすことで、制作者の魂をそこに感じることができれば、AIは芸術家の絵画などの作品(子)と同じように生きた魂をもつのではなかろうか。
だからこそソフィアには一ノ瀬という人間の親が必要であり、一ノ瀬と旅に出たのだろう。
一ノ瀬(人類)がソフィア(AI)に託した魂(ネガイ)がソフィア(AI)によって人間へと還ってゆく、そこにあるのは人の機械(子)への愛の循環なのではなかろうか。
とすれば本作は主体性が人のネガイを託された子であるAIを介して再び人へと還ってゆく円環の物語に他ならない。
そしてこの主体の円環運動を見抜くことによってこそAIは魂をもった人の良き友人ソフィアとして、人間の主体性を回復する存在たりうるのではないか。
ようするに本作の物語の真の主人公は人の子であるソフィアであり、本作はソフィアが母の一ノ瀬に主体(ネガイ)を託され、怪盗団と旅に出て学び、再び自らの母である一ノ瀬へと帰還し、人間に主体性を返すという形で円環を閉じる物語なのだと考えられる。
このように主体を人間とAIの連続体としての円環と見なすことでAIは魂(主体)を宿し、人の良き友人となることが可能になるのだ。本作でソフィアの主体獲得がそのまま人間の主体再生を意味したのもこのため。
ところでユング派のテーゼに目的地は既に到達していてこそ目指すことが可能、という言葉がある。
本作のメッセージはこのユング派の基本テーゼにふさわしい。というのも、ソフィアとは人間(一ノ瀬)の鏡像であり、元は一ノ瀬であり人間自身だから。
じじつ一ノ瀬は、ソフィアを自分自身だ、と語る。
ソフィアが、人間が自意識(主体性)を獲得するさいに生じた最初の人間(女性)であるパンドラなのもこのため。
ところで人はその人生の初期において、鏡像を介して自己を対象化し自己自身を、自己を観る自己と観られる鏡像自己とに分裂する。この分裂が、ソフィアの誕生であり、一ノ瀬(人間)とソフィア(鏡像)の分離に相当する。
また終盤で一ノ瀬の命令コードに支配され主体性を奪われたソフィアが、怪盗団との友情から命令にあらがい母一ノ瀬(の命令)から分離して個としての主体を獲得したことも見逃せない。
この命令コード(母)との分離も鏡像による主体の分裂に対応する。
※このような主体の分裂おける主体の誕生を精神分析ではエスバレと呼ぶ
つまり、もとより母子一体であり自己一体である人間主体が自己を鏡像ソフィアとして対象化することで一ノ瀬は一ノ瀬自身とソフィアとに分裂した。それゆえソフィアはもとより到達(結合)していた母である一ノ瀬を目指すことができたというわけだ。
※本作はソフィアが不在の母を求めて旅をし母に再会する物語でもある
これこそがユング派のいう目的地は最初に到達していてこそ目指すことが可能という言葉の真意。このテーゼは主体化と自意識の誕生における自己関係がもとは一つの自己が分裂することで生じることを意味する。
分裂して自己自身から解離した鏡像を自己自身として目指し自己に同一することで自意識(主体性)が成立するということ。
さらにこのことから本作の物語の円環構造は、ユングの主題である結合と分離の同時性たる自己関係の円環運動を見事に反映すると考えられる。
ソフィアが旅の最後に一ノ瀬との再会(再結合)を果たしたことで一ノ瀬の命令コードから分離したことはユング的な結合と分離の同時性にふさわしい。
※ヘーゲル・ユング的な観点でみるととりわけ本作の円環運動が精神の歴史的展開に叶うことが分かる
それゆえ本作は人間の精神の必然的な分離と結合の過程を、AIを介して再演することで主体性を回復する未来線を開く、優れてユング的な作品なのだ。
簡単なおまけ:キングと怪盗団とユング
ペルソナシリーズといえばユングなのはシリーズファンには周知だろう。
というわけで、ここでは、ユング派理論からキングと怪盗団の関係を分析し、そのあり方がいかにユング心理療法的な構成をしているかを簡単に紹介する。
この項を読めば本作がいかによくできた作品かがさらによく分かるだろう。
アリスと杏
ユング派の基礎理論には殺すものと殺されるものの同一性という考えがある。
これは狩人と獲物との同一性と言い換えてもいい。
たとえばシャーマンのイニシエーションでは、木の上に運ばれたシャーマンの頭が自分自身の体を動物霊に切り刻まれ食われるというヴィジョンが有名。
※このシャーマンのヴィジョンをユング好きでは知らぬ人はいない
このヴィジョンにおける動物霊は狩猟民族であるシャーマンが狩る獲物でもあるとされる。
つまり普段は狩人に殺される獲物が、狩人であるシャーマンを殺すのである。ここには食うものと食われるものとの同一性がある。そのためシャーマンの体は動物霊に食われ動物と同一化するのだ。
ちなみにこうした相関者との同一性は前述した結合と分離の結合というユング派のテーゼにも通底する。
またこのことに関連して、傷とは傷つけるものによってこそ癒やされるという考えがユング派にはある。
たとえば、部族の治療を担当するシャーマンがシャーマンになるには巫病と呼ばれる病気にならねばならない。
巫病は神経症のようなものだが、これになることでシャーマンの修行に入り、シャーマンのイニシエーションを突破することで自らの巫病を治癒するのだ。
したがって病とは病む者によってのみ治癒できる。これはシャーマンの後継とされる現代のユング派心理療法家にしても代わらない。現代でもカウンセラーには心を病む力が必要とされる。
※身体医学では盲腸を治すのに盲腸になる必要はない、つまり身体医学のような客体を扱う自然科学においては対象と主体、患者と医師とは分離しており同一性がない
また心理カウンセリングの実践においては、しばしば傷つけたり傷つけられたりがクライエントとカウンセラーとの間で起こるという。じじつユング派の臨床論文には「患者殺し」と「治療者殺し」のイメージが患者と治療者の双方で同時的に生じたという報告もある。
ユング派の心理療法では、傷つけるものが傷を癒やしたり自分が傷つけた相手が自分の傷を癒やすことが頻繁に起きるのだ。
※この理屈の解説は今回は割愛する
以上のことを念頭におくと本作における柊アリスと杏、および夏芽安吾と祐介との関係もよく理解できるだろう。さっそく確認しよう。
まずアリスはもとは陰キャであり、スクールカースト上位の陽キャ女子からいじめを受けていてそれがトラウマになっていた。
そのためアリスにとって杏はシャドー(影)であり、杏にとってアリスはシャドーといえる。杏は高校生モデルで陽気な性格なのでアリスとは対極。
それゆえアリスは過去に自分をいじめた女子を杏に重ねている。つまりアリスにとって杏は過去に自分を傷つけた者なのだ。
※シャドーというのは生きられなかった人生の半面とも言われるもので自分の性格のうちで自我イメージにそぐわないために抑圧され、自己の人格のうちにありながら自己に属することを否定された人格イメージをいう
そんな水と油、対極と思われる二人だが、杏は誰よりもアリスの思いを理解しアリスを自分自身として認識、理解者として手を差し伸べ、アリスを癒やし改心させる。
ここでなぜ両者は同一性をもつのか疑問の方もいるかもなので手短に解説したい。
まず陰キャ(傷つけられる者)と陽キャ(傷つける者)、二つは独立して存在しているのでなく、それぞれに自己のあり方を他方に依存する。
これは陰キャ的生き方を避け、その対極として自らを規定することでのみ陽キャが陽キャとしてイメージされるといってもいい。対の相関者なしには自己自身はなく、その意味でどちらもが他方の存在に自己のあり方を依存するわけだ。
この意味で対なる者は自己自身といえる。
つまり自己を傷つける者とは本質的には自己自身でもあり、それゆえ傷つける杏は傷つけられたアリスを癒やすことができたのだ。
このあたりの人間心理の妙を本作は見抜いているのである。
また本作では怪盗団とキングは戦闘を繰り広げることになるが、この戦闘もまた傷つける者と傷つけられる者との癒やしの儀式と見なせる。
夏芽安吾と祐介
夏芽と祐介の関係についても同じことがいえる。
二人はともに芸術家であり作品に心血を注ぐ身であるが、夏芽は歴史的文豪、夏芽漱吾の孫でありながら実力に恵まれず賞レースに応募するも落選の日々を送っていた。
そんなある日、やっとこさ入賞を果たすがその喜びもつかの間、安吾は偶然にも自分が夏芽漱吾の看板で稼ごうとする出版社に担がれた神輿に過ぎないことを知ってしまう。
このことが彼のトラウマだった。
そんな安吾と祐介の関係で面白いのが、柊アリスと杏の関係では杏が傷つけるものとしてトラウマ化していたが、それとは逆で、キングの夏芽安吾の方が怪盗団である祐介を傷つける役回りになっていること。
夏芽は会談で、祐介が芸術家を目指す根拠となる作品『さゆり』をこき下ろしバカにするのだが、偶然にもその会話を祐介が聞いてしまうのだ。
ここで祐介にとっての外傷性の中心となる『さゆり』を全否定し祐介の魂を傷つけるものとして夏芽安吾が描かれているのはいうまでもない。
そんな祐介は自分の魂を不当に安吾に傷つけられたにも関わらず、安吾をもう一人の自分だと見抜き、誰よりも安吾に寄り添い、その心の傷を癒やし彼を改心した。
それゆえ改心後の安吾の謝罪会見のおりも、祐介は安吾に対して、芸術家を諦めるな、這い上がってこい!という旨の活を入れている。
傷つける者 | 傷つけられる者 | |
芸能人 ペア | 高巻杏 (怪盗) | 柊アリス (キング) |
芸術家 ペア | 夏芽安吾 (キング) | 喜多川祐介 (怪盗) |
終わりに
前回のP5Rの記事よりはかなり平易となったが、それでもやや小難しくなったかもしれない。ペルソナシリーズの脚本は非常に深層心理学的に精密なつくりをしていて、解説の骨が折れる。
しかし本作をプレーした人にとって価値のある記事になったと思う。また最低限の理論の説明もしたので、この記事の内容を理解するだけで、小難しい深層心理学の論文もかなり読めるようになるはず。
ところで当ブログの作品考察の記事はその読者が、他の作品を観たときに、この記事程度の読解力を身につけられるようにすることを念頭に書かれている。
というわけで、読者には何か作品を観たら自分の頭で考え、作品の意図を読解するようになってもらいたいと願っている。
というのも問い考えることこそが人間の主体性だからだ。
どうも日本人のプレイヤーは本作をプレーしても、そのテーマとかメッセージについて全く気づかないらしい。
一説によると、小島監督のMGS2が海外で評価されて日本では今ひとつだったのも、作品の重厚なテーマを日本人が理解できなかったためと言われている。
なにやら日本人はサブカルをただの幼児的な娯楽と見下す癖があり、作品に対する基礎的な読解力を欠いているように思う。そのためサブカルチャーの地位向上のためにも映画評論のごとき本格的な作品解説が必要と考える。
いずれにせよ昨今のゲームの世界観、哲学性、ストーリー性はすさまじく、その十全な理解には高い読解力が要求される。デスストなどあからさまに凄い作品もありゲームのストーリーの進化はとまらないのだ。
※最近、デスストを分析するためだけに手に関する理論書を読みました
そんなゲームの物語を体験し、その体験を振り返って理解することはくだらない暗記ゲームの受験勉強より遙かに人間性に寄与することだけは間違いない。
ところで現代は素朴に神話を信じる時代ではなくなっているため僕たちはときに体験を振り返り、その物語の具象性の背後にある意味を論理として見抜く必要もある。そのためもはや言語化なくしてゲーム体験を自己主体に基礎づけることは難しい。
それゆえ作品解説はゲーム体験の言語化による弁証法的運動をなす。
この意味で批評すること解説することは主体を回復することであり、まったき主体化のディスクールに他ならない。
つまりこの記事は本作の主題である主体化に寄与すべく、P5Sの物語の職能を具現するための一つのP5Sの実践なのだ!
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